ある市井の徒――越しかたは悲しくもの記録 長谷川伸 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)的《あて》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二|玉《たま》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから3字下げ] ------------------------------------------------------- [#1字下げ]まえがき代りに[#「まえがき代りに」は中見出し]  明治十七年の春、生れた新コが、母と生き別れをしたのは四ツのときだった。小さい時そういうことがあったとは知っていたが、四ツだったと知ったのは、四十七年の後だった。  新コが生れた年は干支でいうと甲申《きのえさる》で、上野高崎間の銕道施設が竣《な》って、民間の銕道営業が成り立った最初の年である。加波山事件といわれる暴動があったのもこの年である。そうして後の愚庵和尚、その頃は清水の次郎長の養子銕眉・山本五郎が、『東海游侠伝』という次郎長伝をつくり、その本の広告欄に、明治戊辰磐城の戦乱に行方知れずとなった父母と妹とを探し求めて既に十余年、知る人あらば教えてよと、泣血の広告文を掲げたのもこの年のことである。新コも母を探し求めた子であったから、甘田久五郎改めて天田五郎の愚庵和尚には、些かでない関心を後々もつようになった。  愚庵ならぬ天田五郎のとき、日本全土ばかりか、遠く台湾までも遍歴して、父母と妹とを探し求め、十九年にわたる東西南北の旅、遂に空しかったことを録した『血写経』に、こういう一節がある。五郎が写真技術を習って旅渡りの写真師となり、伊豆地方を流転しているとき、川奈の福西四郎右衛門などという国学者権田直助の門人達が、師の命もあって五郎を招いて慰め、酒をすすめたその席で福西は自作の長歌を朗詠した、それは「夏の日の暑さも知らに 冬の夜の寒さも知らに 岩が根をいゆき踏みぬき 浪の上をいこぎ渡らい 父のみの父やとさけび 母そばの母やとよばい」に始まり、「禍辜《まがつみ》なく真幸《まさき》かれ君 勉めよや君」と結びに入るものだった。福西はやおら声容を新たにして、「真幸《まさき》くてめぐり逢え君 父母は待ち恋うらん 廻りあえ君」と、反歌《かえりうた》を折返し朗詠して贈ったのである。五郎はそれを聴聞して落つる涙を押さえつつ、「小車の めぐり逢わずに十年《ととせ》余り歳《とし》の三年《みとせ》となるぞ悲しき」と答えて泣いた。十五歳から三十四歳まで続いた五郎の旅は、「愛子我めぐり逢えりと父母のその手を執れば夢はさめにき」(天田五郎)だったのである。その五郎の泣血の広告文が、『東海游侠伝』に掲げられて出たのが、前いった如く、新コの生れた年のことなのだった。申すまでもなくこれらのそのどれも、“後の智恵”で、赤ン坊の新コが知っていたのでない。新コは二十歳となり三十歳となっても愚庵という名すら知らなかった、それどころか原稿生活にはいった始めのころ、第一次の雑誌『大衆文芸』の同人にして貰った当時でも、知らなかった。学習の機会をもたなかった故のみではない、かたわな知識に拠る新コだったからである。幸いにそのころの一読者に教えられて、『愚庵遺稿』を探して読み、『愚庵全集』を探して読むことが出来て、一応は知るようになれた。  母と新コが生き別れした四ツのときというと、明治二十年で、西暦では一八八七年、古い昔のことであることは、後代いろいろの人が、軽慢して語る鹿鳴館に舞踏会が催された年であるといったら、判りいいかも知れない。保安条令が布かれて東京から、多くの政治家と政治屋とが玉も瓦もうち混ぜて、退去せしめられた年でもある。そうして天田五郎が滴水禅師の弟子となり、洛北の林丘寺に剃髪して法師|銕眼《てつげん》となった年でもあった。世を思い棄てて仏門にはいったが愚庵は、或るとき石山寺に通夜して、「まさきくて在せ父母御仏のめぐみの末にあわざらめやも」と詠んでいる。いつまでもいつまでもめぐり逢えりと手を執れば、「夢はさめにき」の親のない子の愚庵だった。  五十一歳で世を去った愚庵は、知ることなくして終わったのだったが、愚庵の父も母も妹も、戦乱に乗じた盗賊に殺されてしまっていた。十五歳から三十四歳までの千里の旅は、世に亡き人を空しくも探し求めていた。それに引きかえて新コは何たる幸いぞ、恵まるること深く母に再会した。愚庵は五十一歳にして再会の日をもたずに終り、新コは五十歳にして再び母を得た。指折りかがなべると母は二十七歳で新コ達から去り、七十三歳で新コだけに再会したのだった。新コ達と複数でいったその“達”は亡き人になり、一人ただ新コだけが生きていた、その故に新コは母と再会の日、ふところ深く亡兄秀太郎の写真を秘めていた。  新コは小さいとき泣き虫だったと聞いている、いつだれに聞かされたのか憶えはないが、自分でもそうだと思い当るものがある気がしていた。亡き兄の幼な友達だった人に、新コは鼻の下の髭に白毛が濃くなってから、図らずも会って聞いた話のうちに、あなたは泣いてばかりいた子でしたのにというのがあった。これで泣き虫の児《こ》だったといよいよなった。さもあろう、母に去られた児が、泣かずに遊んでいる筈はない。  が、母は生き別れになった二人の男の子のことを、兄の秀はおとなしい子だったから素直に成長していてくれるだろうが、弟はきかぬ気のやんちゃ坊主だったから、成人するに随って自分勝手に振舞い、人に憎まれ怨みを買うような者になっているのではないかと、年たつにつれ、この憂いが深くなったということを後々に聞き知った。そうすると新コは、きかぬ気のやんちゃ坊主だったが、母に去られて泣き虫になったのだった、と思うことは、原稿書きが筋にハコビをつける、その癖が出たものだろうか。  新コには二十一歳以前の写真がない、写さなかったのか写したが無いのか、どっちにしても自分の幼な顔を知る近世科学の思恵に浴していない。子供のときの写真をみることが出来た大人は幸福である、その大人が幸福だと思っても思わなくても、幸福であるのに変りはない。たった一枚、新コにも少年のときの写真があるにはある、横浜船渠が最初にできるとき、浚渫祝いか鍬入れ祝いか、そんな時のものだろう記念写真に、貧しく哀れな現場小僧の新コがはいっている、年は十一か二か三か、年号でいえば明治二十七・八・九の三年のうちのことだろう。その写真を四十年も経って見付け出しはしたものの、姿は写っているが、顔に目鼻も口も消えてない。新コは遂に子供のときの自分の顔を知らない、多くあるだろう薄倖な子供達と同様に。  二十一歳以前の新コを語る物とては、今いった目鼻も口も消えてない写真と、三通の書付《かきつけ》だけである、書付のうち二通は、横浜市公立・吉田学校の尋常小学科第一年と第二年とを、「課業ヲ履修ス」とあるもの、残る一通は七歳の尋常小学科一年の試験成績報告(明治二十三年十一月二十日付)である、そのころの学期末は十一月だったとみえ、一年生の時の課業履修証は十一月二十日付、二年生のときのは十一月二十二日付になっている。新コの学校歴はこれだけであるから成績といえば、七歳のときのこれ一ツだけしかない。いずれその一片の紙も反古に化けかねないから、大体を記録して置きたい。習字が一番悪く六十五点、唱歌もよろしからず七十五点、作文と修身が九十五点ずつ、算術と読書《よみかき》が百点ずつ、課目は六ツでそれぞれ百点が定点(満点)だから六百点、それに対して七十点不足の五百三十点しかなく、平均点は八十八・三点で七十二人の中で二十五番と書いてある。秀才とは縁のない、そしてビリの方へも行かれない児《こ》だったのだ、新コは――。 [#ここから1字下げ] [#ここから1段階小さな文字] この話は前に一度『新コ半代記』として、『週刊朝日』に五回だけ載せて貰ったものの、前と後とを一緒に綯ったものにする|心算《つもり》の物です。前の『新コ半代記』は大患に罹り、死生の間をうろついた為め中断したが、あれとは一応のところ別なものとして、書いていってみたい。 [#ここで小さな文字終わり] [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#1字下げ]二番倅[#「二番倅」は中見出し] [#7字下げ]一  土建屋と近ごろはいうそうですが、新コはそういう言葉を嫌って使いたがらない。新コが曽ていたことのあるその世界では、請負師と一ト口にいいはするものの、土木請負業と建築請負業とはちがいがあった。土木の方には親分子分があったが、建築の方では元締《もとじめ》・肝煎《きもいり》・職方《しょくかた》で、元締は親分というものに相当し、肝煎は子分の中の役付きと違い番頭手代といった風なもの、職方は大工を諸職の司《つかさ》とする建築関係の工職《くしょく》を、一ツ括《から》げにした云い現わしでした。どっちかといえば土木業は、黒鍬《くろくわ》(土工)が主体だった昔の筋を引いている故か、ブ職と一衣帯水の観があった、建築業の方はそれよりは堅気にちかい、と云ったところで、紺と黒の相違でしかないところもあったものです。これらは明治以前の流れをうけた業者のことで、それよりは横浜居留地のサラダ氏のような白人建築師や、清水満之助の清水組のような土木建築業や、大小いろいろな、知識的で新時代的なものが、一方には興っていて、それぞれに相当した信用と実力と、勢力も見せていたが、銕道布設だトンネルだといった土木仕事では勿論、建築の仕事でも鳶《とび》職のやる地行《じぎょう》ですまない根切《ねき》りの工事となると、親分子分の土工の手にかからないと出来ッこなかったから、新時代的なものが旧時代的なものを容れていたのが、後代よりもぐッとその時分は深かったようです。親分子分といっても土工のそれは、博徒のそれとは違っていた、十三香具師のそれとも違っていて、個人同士では兎に角、渡世上では博徒とつきあい[#「つきあい」に傍点]がなかった、後に渡世をもたない者が処罰される刑法が布かれたとき、土木も建築もやらない、名ばかりの請負師が、博徒の方から出てきたので、謂ってみればそれをキッカケに、土木も建築も請負師とその配下の気風が、よくいえば新しくなり悪くいえば崩れた。但しその後どう変化し推移したのか、新コは身の置きどころが変ったので、知っていません。  若輩のときの新コを、そこらの現場で見掛けたことがあったのだろう、田島の喜三郎だの森の文太郎だのという、昔は土木の親分で、今は土木建築何々組の主人達が、同業の利け者だった白須賀《しらすか》の菊の法要であつまったとき、話が新コの上に及んだそうで、といっても今から十年余り前のことで、新コの姿がその御連中の眼の前から消えてからは、三十何年か経っていたので、名前を一人も憶えていなかったそうです。  その何々組の大将達五六人の間で、駿河屋の虎が死んで何年になるかなあという話から、虎には倅が二人あった筈だ、上の倅はこの渡世に向かねえ生れつきだが、下の倅は向いていたのだが、あれから何十年にもなるのに、虎の倅だというのを、日本中のこの業界の中で聞いたことがねえ、家の再興はやらねえ、おのれ一己《いっこ》の名も聞こえて来ねえようでは、運不運がねえとはいわねえが、所詮のところ、虎の二番倅というのは親不孝なガキだったのだなあ、という事になったそうです。その席には白須賀の菊の倅で、請負師の世界を嫌って、別な道を歩いている立《たつ》ンべというのが施主でいて、小父さん達の今のお話の虎の二番倅は新コというのでしょう、それならこういう名前で芝居の本を書いて、人に名を知られるものに今なって居ますと話した。ところがその小父さん達はてンで受付けず、虎の二番倅は芝居者になってしまったのか、駄目な奴だったのだなあ、それでは虎が墓の下で泣いているだろう、親不孝な奴だあのガキは、と決めてしまったと、他日、立ンべから新コは聞かされた。森の文太や田島の喜三という新コの先輩が、そういうのもその人達にとっては、筋の通ったことです、新コは土木屋にも建築屋にも成り損くねた敗者に違いない、その外の事でも新コは、新コ以外の人が何といってくれても、成功したと思えるものがない、おのれを静かにして稽《かんが》えるまでもなく、この感がついて絡んでいて去りません新コは。自分をこう評価しています。  新コが次男に生れた駿河屋には、二人の主人がいて、兄の秀造は請負師、義弟の新造は材木屋と、分担して渡世の采配をふっていたのだそうです。兄の秀造は文化八年に越後で生れ、十三歳の文政六年に大工の小僧になった。越後大工と一ト口にいわれる程、技術に長《た》けていた中でも、余程いい棟梁についたのだが、この小僧には食い足りなくなったのか、十四歳か十五歳のとき江戸へ出て修行したいと出奔し、江戸まで八十二里余りを歩く途中、三国街道のどこあたりかで、腹がへって歩けなくなったところを、通りがかりの飛脚に助けられ、江戸まで連れて行って貰い、その人の世話で神田辺の大工の棟梁の弟子にはいったそうです。十六歳のとき越後へ戻り、旧師に詫びを入れたとき、修行が終ったから帰って来ましたといい切ったのが、兄弟子達の反感を買ったのでしょうか、その晩に大工問答を仕掛けられ、大抵のことは言下に答えたそうだが、開立開平というその頃の高等数学でもあっただろうか、堂宮《どうみや》建築の壺がね[#「がね」に傍点]のつかい方ででもあったのだろうか、言句に詰って恥をかき、その晩のうちに、昼のうちぬいだ草鞋を又も穿き、江戸の師匠のところへ引返して、再修行に就いたそうです。  秀造が十七歳の文政十年、どういう縁故からか、野州間々田の宿《しゅく》へゆき、間々田八幡宮の造営をやった。足掛け五年の修行に過ぎない十七歳の若い大工で、しかも他郷の者が棟梁だったというのは、飛び放れ過ぎた話に聞えますが、この造営で京都の白川|殿《でん》から免状をもらい、長谷川|大和知重《やまとともしげ》となった、その書付けは黒い漆塗りの筥にはいり、免状の上包に綸旨とあるのを、新コは見て知っているから、嘘ばなしや伝説だけのものとは思っていない。造営に五年かかったとしても、二十一か二十二の一本立ちの若い棟梁だ。新コにはそんな人物が、族《やから》の上《かみ》にあったのが、後々どのくらい奮起のネタになったか知れません。  その綸旨なる物は、秀造が自刻になる、衣冠をつけて壺がね[#「がね」に傍点]をもった一尺三寸余の自分の木像と共に、甥の家が戦火に罹ったとき灰になった。それともう一ツ、四十を越して文字を学んだ秀造が、六十一のとき自伝を石州半紙に書き、自分で綴じたものが、矢張り戦火で灰になった。この自伝は新コにとってただ一ツの先祖書きなので、手許に引取ろうとしたが、甥の家では見当らないという、そのうち何処からか出てくるだろうと、その儘になった末が、戦火の堆《うずたか》い灰の中のどこかに、一握の灰となり無に化しました。  秀造は十七歳から四十九歳まで、年号でいうと文政十年から安政六年まで、足掛三十三年、野州間々田で大工の棟梁でいたが、安政六年六月五日が横浜開港の日だと知ったのだろう、横浜移住を願い出て実地を観て廻り、目算がつくとその年のうちに、女房ふで[#「ふで」に傍点]と養女のれむ[#「れむ」に傍点]と、妹(のち[#「のち」に傍点])の夫新造一家と、清吉・音吉という二人の弟の一家もひき連れ、移住したのだそうです。開港前の横浜村とその附近の戸数はわずかに百一戸、山河のあり方も後の横浜とは大きに違っていたので、山を削り海を埋める土木工事から始まって、建築工事にはいる、横浜町創造ということが、秀造には魅力だったのだろう。その頃の移住願いは百五十余通しかなかった、その中の一通が秀造だったのだから、開港そもそもからの横浜|人《びと》だったといえましょう。秀造はどういう事からか、本町四丁目の茶商人駿河屋新兵衛の手引で、弁天通りに材木屋新造と、義弟の名で店を開かせて、自分は野州でやって来た建築に土木を加わえて、おなじ頃に移住をして来た鈴村の要蔵などと、張りあって請負業をやり始めました。 [#7字下げ]二  幕末の頃でしょうか、居留地の道路工事を請負った秀造が、居留地の白人技師に、約束通りの砂利石を地下にうずめなかっただろうと疑われたことがあった。秀造はその白人技師に現場へきて貰い、仕上った道路の何処でもいいから指してくれと求め、指示した場所を掘返してみせると、仕様書きにある約束より一寸厚く砂利石が填《うず》めてあった。その白人技師が喜んで、あなた正直ですねと褒めたところ、秀造は手を振って、あなた正直では合点しねえ、日本人正直といい直すならあッしは大喜びするンだといった事が、自伝の中にあったのを新コは憶えています。  秀造は五十八歳の慶応四年の夏、娘のれむ[#「れむ」に傍点]が十五歳で死んでからは、妹夫婦の一人ッ子八歳の虎之助を、今ッからこれは俺の倅だから、新造夫婦はじめ一家一門みんなそう思えといい渡し、その通りに扱ったそうです。  六十歳の明治三年に、そのころは太田と総称した一部にある、日の出町に地をえらび、永代居住と決めて屋敷を建て土蔵をつくり、材木店を設けて駿河屋という看板をかけたそうです、移住の手引の駿河屋を忘れぬという意味で、野州では沢屋といったのを、惜し気もなく棄てたのだという。そこは今、湘南電車が往来していて、新コ誕生の地など跡形なしです。  豪快なところがあったらしい秀造は、広くもない川一ト筋に妨げられて、こちらからもあちらからも、五六丁も大廻りして交通する不便がみていられず、独力で橋を架けたのが、今もその名だけ継承されている黄金橋です。これを喜んで礼をいう人があると、秀造はくすりとも笑わず、あッしが不便だから架けた、皆さんは事の序《ついで》に渡っている、礼に及ばねえといったそうです。  こうした秀造なので、この辺に銭湯がねえンで不便だ、建てろと、初音町の横丁に取りかかったが、ここらには寄席一ツねえので楽しみが不足している、湯屋の二階は寄席にしろと、寄席を追加した。さて出来てみると銭湯はまあまあ繁昌したが、寄席の方はまるで客がこなかった。一家一門が寄席廃止を迫ったが、秀造はケロリとして、人ッ子ひとり来なくッてもいい、俺が楽しむ為めの寄席だと刎ねつけ、不入りで困難する芸人連中には、損がゆかない程に貸し下されの金をやったが、終いには芸人の方で御免蒙むって来なくなったので、漸く寄席廃止になったそうです。鍋島の猫を得意にした講談の桃川如燕その他、名ある芸人の貸し下され借金証文が束になって二ツ三ツあったのを、寄席廃止をやった後で灰にしたそうだが、焼き残りが二三枚あったのを、新コも後に見た筈だそうですが、記憶しては居りません。  年々の大晦日には、門口に高張提灯を何本も建てさせ、入口には紫の幕を張り、店の正面に屏風を一双立て、緋毛氈を敷かせて秀造が座り、三ツ並べた三宝に現金をのせ、掛け取りに勝手にとらせたが、一銭一厘の間違いもなかったそうです。一々俺がわたすのと違って、向うがとって行くのだから間違《まちげ》えがねえ、その代りワザと間違えて余分にもって行きやがれば、元日の朝ッばら俺がいって、出入りをするなといい渡してやると、笑っていたそうです。  居留地へ行ってボンボン時計の大きいのを買って、担いで帰り、時計ッてものを買ったから、時刻が知りたかったらやって来な、店の真正面に飾って置くから遠慮なく見るがいいと、町内残らず触れ廻ったが、そういう秀造には文字盤が読めず、義弟の新造を呼んでは、この時計は今何時だといって居るのだと、始めのうちは聞いていたそうです、間もなくだれかにこッそり教わったのでしょうが、アラビヤ数字を読むようになったといいます。  洋服の便利を覚《さと》った秀造が、どこからか靴も同時に買ってきて、すぐに外出用につかったが、洋服はいいが靴が足を痛めて歩けないので、麻裏草履を突ッかけて歩くことにしたものの、洋服ばかりで靴がねえのは面白くねえと、道行く人のだれにも見えるように、靴一足を、左右の腰にブラ下げて出歩いたともいいます。  雨風でない限り秀造は、毎朝早く町内の表通りを箒で掃ききよめた。町内の人が礼をいうと、返辞をしないだけでなく、掃き溜めた土が今に築山になるのも知らねえでいると、義弟にいって笑ったが、果して何年だか後に築山を一ツつくり、町内の人に見物させてから、壊して地均し用の土につかわせた。  この秀造が七十歳か七十一歳で、一家一門の王者でまだあった頃、材木の山見に行って帰ってくると、一家を集めていい渡した。倅の女房を見付けて来た、俺あその子に惚れ込んだ、倅がもし厭だというなら俺が娘に貰って婿をとり、俺の跡をとらせるからそう思えというのです。 [#改ページ] [#1字下げ]母去る[#「母去る」は中見出し] [#7字下げ]一  駿河屋一門の中では、秀造ぐらい卓出した人物が外にないので、律気真向で酒好きな義弟新造は、兄キがこの娘ならと見込んだのなら間違いはない、その娘を倅の嫁に貰いましょうと、大乗り気なので、驚き忙《あわ》てたのは秀造の妹のち[#「のち」に傍点]で、夫の新造にそれでは余り軽はずみだと諌めたそうですが、新造は承知しない、今まで兄キの鑑定が狂ったことが一度でもあるかと、二言といわさなかったそうです。秀造は新造の信仰の的だったのでしょう。  秀造のそのときの女房は前いったふで[#「ふで」に傍点]か別人かわかりかねるが、駿河屋の鬼婆ァと家の中よりも世間でいったそうで、どういう風に鬼婆ァだったのか一ツの挿話すら知らない、推定に基く想像なのだが、秀造が矍鑠たるうちは、悍の強い牝馬をうまく御していたが、晩年に秀造が脳溢血をやり、半身不随となって智恵も才覚も絶え、愚かな少年のようになって、駿河屋が没落の坂へころげ出したのと同時に、鬼婆ァ振りがムキ出しになったのではないかと思う。この人が秀造のいう俺の倅の嫁の話に、どういう態度をとったかは判りません。秀造が面倒をみてやった一人だった風呂徳が、後年になって新コの兄に、駿河屋の鬼婆さんは若旦那を路傍《みちはた》の小砂利ぐらいにしか思っていないのが、われわれ共にもわかりました、それというのが大元締(秀造)が若旦那を可愛がるのが、あの方には気にいらない、根にそれがあったからでしょうねと、いったそうです。おぼろ気ながらこれで、以前は大名屋敷で奥女中だった、酒好きでケン高《だか》で、衣裳も髪の飾りも人並と違い、個性がひどくのび切ったこの人がふで[#「ふで」に傍点]という人だったのなら、養女のれむ[#「れむ」に傍点]が亡くなった悲しみがいつまでも残っていて、虎に愛情がもてなかったのでしょう、事によると憎くすらあったかも知れない。  相州戸塚在和泉村の豪家の娘を、それから間もなく秀造は、娘に貰いますと貰って来てしまったそうです。秀造にしてみれば、俺の倅だといくら押切ったところで、一ッ棟の下にくらす妹夫婦の一人ッ子の虎だから、威勢をふるって押しまくっては居るものの、生みの親の強味までは押切れないので、娘を貰って虎と結婚させれば、虎は俺の娘婿ということになる、そうなったら俺は正しく親なのだと考えたのでしょう。秀造のその時の心を、こんな風に忖度して、たいして誤りでないらしいことを、新コは後に秀造の子分で南畑の定ともう一人、シャリ金(車力の金)から聞いた。  秀造が貰った娘と、新造夫婦の子の虎とが、いつどんな盛んな祝言の式を挙げたか新コは聞いていない。秀造が頑張っていた時だったから、吝ッたれたやり方ではなかったろうと思います。  若夫婦の間に新コの兄の秀太郎が生れた。ここで付加わえて置くが、それから三年違いで新コが生れた。秀太郎が生れたころは駿河屋がまだ繁昌していたが、新コが生れたときは、秀造の片足が落目に突ッ込まれていたそうです。  秀造は七十を越してもたいした元気で、請負師として華かにやっていたそうで、明治何年かよく判らないが、多分、七十一歳の明治十四年ごろだろう、土木工事を請負って、戸部監獄の懲役人を土工代りに使ったそうです、その現場の端に懲役人の便所と、看守の便所とを西と東というように、ワザと方角を異にして建てさせ、看守の便所には別にこうという仕掛けはしなかったが、懲役人の便所には、用を足す処の上の方に釘をうち、細い青竹に紐をつけて、何本とかブラ下げて置かせた、その細い青筒の中には酒がはいっていたのだそうです。看守には秀造の方からワタリを付けてあるので、便所から出て来た囚人の唇に酒の匂いがしても、笑ってすませて居たそうです。何かの心祝いが秀造にあったときは、囚人が用を足している間だけ喫っていられるように、そのころはまだ珍らしかった巻煙草に火をつけて、羽目板に作りつけた竹筒棚にのせて置いてやったが、喫い慣れていない故か、始めはムダに灰になった、そのうちに煙草嫌いでない者はみんな喫うようになったそうです。こうした便所の掛りをさせて置いたという男が、若い時からの博徒で、旅から旅を歩いたが、年をとってからは身寄りもなく、腹をへらして街をうろついては居るが、乞食になるには気象が激しいのでなれず、自分で自分を持て余していたのを、秀造がどこからか連れて来た者だったそうです。  こういう話を新コは、だれに聞いたのか聞き憶えていたが、ただ憶えていたというだけのこと、『東海游侠伝』を後々になって読んだとき、富士の裾野の開墾工事に、次郎長が懲役人を使ったというのを見て、秀造じいさんが囚人を使ったというのは、この時代だなと思ったに過ぎないのでした、だが、新コが五十を越えてから聞いた話に、次の如き秀造の竹筒酒と囚人に因縁のあるのがありましたので、付け加えます。  新コの母がまだ娘で、和泉の立山家にいるころの、明治十一年十月二十六日の夜更けから翌二十七日の未明までの間に、相州大住郡|真土《しんど》村(神奈川県平塚市真土)の富豪松木長右衛門の屋敷へ、村の冠《かんむり》弥左衛門など二十五人が討入り、長右衛門一家七人を殺し、三人に傷を負わせ、十二棟の建物を焼いたという事件がありました、これは暴悪な長右衛門が合法の手段に慝れて、多くの村人を被害者に追い込んで苦しめ、返報をうけた事件なので、地許の大住郡はもとより、おなじ神奈川県の地理的に繋がる淘綾《ゆるぎ》郡・愛甲郡のものは、二十五人の兇行者に同情を強くもった。立山家永代居住の和泉村は相州戸塚から西へはいった処、真土村は平塚から北へはいった処で、距離が相当あるのだが、討入りの翌日には和泉村にも知れて来ていて、討入り組への同情が、その辺一帯と共々に起っていたそうです。犯人検挙の第一回はおなじ月の三十日で、平塚の阿弥陀寺へ冠弥左衛門など十七人を呼び、捕縛してすぐ横浜へ護送したのだそうですが、和泉村にもその事が知れたので、心ある人は戸塚へ出て、東海道を護送されて行く十七人を見送った。立山家の娘も見送りに出た一人で、十七人はいずれも紋付袴で縄にかかって、探偵一人ずつと二人乗りの人力車に乗せられ、その前後に横浜から出張していた川合一等警部以下が、一人乗りの人力車に乗って両手にわかれていたそうで、海道筋の人力車を引上げてつかったその数が、五十何台だったかだといいます。沿道の瞥察分署はそれぞれに、巡査を順々に繰り出して所轄地通行の警固にあたり、平塚から横浜までの間、道路の両側に見送りの人々が、垣をつくったように並んでいたそうです。その人々の過半以上が見送りで見物ではないのです、到る処でだれが音頭をとるともなく、南無阿弥陀仏と称名の声が起ったそうです。立山家の娘も矢張り十七人に合掌を向け称名を唱えた。七人を殺し三人を傷つけている人達なので、生きて世の中へ戻るものはないか知れない、それで手向けの称名が起ったものでしょう。こういう見送り方をする人の心が、今は日本に失われた、見物に出るものならあるが。  さてそれから後、立山の娘は秀造の娘に貰われて横浜の駿河屋へゆき、やがてして結婚となったのは、真土村騒動の主犯冠弥左衛門・伊藤佐次兵衛・伊藤元良・伊藤音五郎の四人は斬罪、最初の検挙と次の検挙とでアゲられた外の二十一人の内、七人は懲役八年と三百十七日、十四人は懲役三年と、判決が下された前か後だったのでしょう。斬罪の四人は世間の同情が命を繋ぎとどめたのだろうか、執行がないこと三年に及んで後、斬罪中止、終身懲役となった頃、立山の娘は前いったようにもう母でした。初産の新コの兄の秀太郎は、父と母のいいところをもって生れた、美しい子であったのです。  寒い風が吹く日だったそうです、紋付袴の男が数人、駿河屋の材木|店《みせ》へきて、居合わせた新コの母に向い、わたくし共は戸部監獄から先程放免になったものです。懲役中こちら様のご芳志をいただき、有難さを忘れかね、故郷へ帰る前にお礼に参上いたしましたと、一人ずつ姓名をいって帰ったそうです。それが苦役中に酒煙草を口にした真土村騒動二十五人の中の幾人かだったのです。  ですから新コの母は娘のころ、護送されて行く真土村騒動の人々に称名を手向け、母になってから、真土村騒動の人々に礼をいわれた訳です。 [#7字下げ]二  駿河屋へ賊がはいった、何人だか聞き漏らしたが、家中でただひとり七十を越えた秀造が、手槍をもって立ち現れると賊は逃げ、その中の一人だけが土蔵の内へ隠れたそうです。秀造は倉という物は泥棒除けではねえ、火事の用心だから錠を卸すなというので、いつも昼のうちは開けッ放し、材木店の帳場がアガると引き戸だけ閉めた、それだから盗ッ人の一人が逃げ込んだのでしょう。秀造は土蔵の中で賊を追い詰め、槍の穂先を胸板へ突きつけ、怖いということをこの後永く忘れるなと念を押し、金をやって逃がしたそうです。  七十何歳のときか秀造は、箱根の山の道路切通しを請負い、工事にかかってみると、入札で落して取ったときの仕様書きでは、土丹《どたん》岩とあったのが巌石だった、現場監督の役人はもとより、その上司のものも色を変え、官の誤りを公けにしては官の威信を失うから、資力の都合で仕事を続けかねるとでもして、御免願いを出したらどうだ、そうすれば更《あらた》めて入札に附し、官の面目が保てるのみか、駿河屋がみすみす大損をするのが助かるからと説かれたが、秀造は承知しなかった。駿河屋秀造の眼には巌石はどこにも見当りません、見当るのはちッと固い土丹岩だけだ、我が器量をブッ潰して官の体裁をつくるか、我が身代をブッ潰して我が器量を助けるか、二ツに一ツどっちを取ると尋ねられれば、二言といわず駿河屋は我が男を立てて身代をブッ潰しますといい切ったそうです。新コにはこれに似たところがあるので、秀造のこの出方に合点がゆくが、進歩したる社会では、こいつはバカの部かも知れません。  秀造は強引に道路開鑿工事を続け、完成して官に引渡したが、財産は根こそぎ注ぎ込み、無一文になってしまい、残ったのは義弟新造の材木店だけでした。間もなくでしょう、秀造は朝湯にはいっていて脳溢血で倒れ、命は助かったが半身不随で、元の秀造とは大違いの、判断力が皆無になった上に、常に何かしら思い違いをしているらしくなりました、その頃の人の言葉でいう、愚に返ったので、発狂ではない、しかし発狂と似たようなものです。虎に筥をソノとこれだけをいうのに、長い時間がかかったそうです、毎日何度となく虎に筥をソノと繰返したのは、小判か何かを筥に入れ、これは虎が大人になったらやるといった、その小判も時価で売って箱根の工事に注ぎ込んだのだが、その方は忘れて、小判と筥の方だけ思い出していたらしいといいます。  秀造の女房をこの頃から、世間のものが鬼婆ァというようになったらしい。七十余年にわたる秀造の功労に対して感謝が足りない、無一文になった半身不随の秀造を粗略にする、駿河屋の為めに男一代をスリ減らした果のこの態だのに、陰口とはいえ廻らぬ舌の口真似をする不心得者がいると、腹を立てて、何かにつけて荒れたのが、鬼婆ァといわれる因《もと》だったと、新コは後々になって解釈をつけました。こいつは幾分か鬼婆ァさんの身になっての考え方だが、大酒の度は越える、材木店の仕切りの金をもって行って遣ってしまう、家中の者の箸のあげおろしにも難癖をつけるとなって来ては、一緒に暮すものにとって耐《たま》ったものではないが、何といっても駿河屋の大黒柱だった秀造の女房ですから、逆うことをだれもしませんので、一番ひどく虐められたのは秀造の妹ののち[#「のち」に傍点]だった、その次に虐められたのは新コの母だったそうです。  秀造が廃人同然になると、思いがけない者達から、貸金があったと取立ての交渉が幾十口も出てきた、その中には秀造に命まで助けられた者までがはいって居たそうです。秀造はとうとう破産申請とまでなり、十七歳で一本立ちの大工の棟梁となった程のものが、末路はこんな風で、七十八歳まで生きているというだけの生き方で、最後の幕に消えて行ったときは、義弟が持たせて置いた巾着の中に、天保通宝といって八厘に通用した大型の銭が二十何枚かあっただけ、生れて来たときとほぼおなじに、所有の財物といっては他にはなかったのだそうです。  秀造にあった二人の実弟のうち、一人は秀造より一ト足先に亡くなり、女二人男二人の子があったが、駿河屋が没落の前か後かに離散し、男の子の上の方は何とか小僧という強盗になり、人殺しもしたそうで、東京で捕縛され死刑を免がれないとなったとき、鈴ケ森とかで自殺しかけた夫婦ものを助け、金を貢いでやった事があるそうで、その夫婦が法廷へ名乗って出て命乞いをした為めか、終身懲役の判決をうけ、北海道の網走とかに、永らくいて、減刑恩赦が重なって出獄し、集治監の近くに土着したそうです。もう一人の男の子は小盗ッ人で、前科をだいぶ重ねた果に獄死したとかいうことです。二人の娘の方は薄命つづきだったそうで、姉の方は八王子辺で亡くなったと、嘘か本当か噂に聞いた、妹の方は伊豆で亡くなった。この兄弟姉妹ともに子がなかったから、この方の血筋はこれで絶えました。もう一人の秀造の弟は妻子に先立たれ、独りぽッちの身を駿河屋に寄せていたそうです。  秀造の葬いがすむと、鬼婆ァといわれた程の人でも、駿河屋に余生を送るのが薄ら寒い気がしたのか、国へ帰るといい出し、新造から縁切りの金をとって、多勢に見送られて出て行ったそうですが、故郷へ帰り着いたとも何とも便りがなく、問合せの手紙にも返辞がなかったそうです。 [#7字下げ]三  新コが次男に生れたころは、秀造以来の家も店も、新造の働きで保っていたが、傾く運の駿河屋は次第に瘠せてゆくような事が続いたそうです、どんな事が続いたか新コは知らない、兄の秀も知らなかった、後に他人《ひと》に教えられて知ったことは、母が去ったことだけです。どんな事からそうなったか、新コにはわかっていません、わずかに聞き知っているのは、若い父の放蕩がモトだということです、しかし、新コの父の虎は、五十八年の生涯に女を知っているのはただ二人だけ、一人はいうまでもなく秀と新コの母、もう一人は後妻になった京都生れの花柳界の女です。父はその女に入りびたったのだそうです。他人の話ではお二人とも美人だったが、新コさんのおッかさんの方が美人だった、その証拠には兄さんの秀さんをご覧なさい、おッかさん生写しですと、言葉は違うが意味はおなじことを、聞かせてくれた者が他にも幾人かがあった。  多少の拠りどころが新コにあって、後になって想像やら推定やらしたことに、こういう事がある。秀造がその頃の言葉でいう腑抜けになって、新造が一切をやるようになると、請負業は肌違いなので止め材木商一本になったので、秀造じいさんが手足のように使っていた肝煎やら店の番頭やら、子分同然の連中のうちに、不平と不満をもつものが出た、こういった連中の一部のそれも小人数が、若い虎に、請負業を継がないでは秀旦那の手向《たむけ》にならないと煽りをかけた、そういった人達は、そう信じたからそう勧めたのだろうが、不幸なことに新コの父は、秀造程に時勢の変化が見抜けず、勇気はあるが思慮は青く貫禄は薄い、経験だとて浅かったので新造が許さなかった、これが家の内と外とで悶着のタネになり、若旦那の虎を擁立しようとする者達が、集会の場所を花柳界へもってゆき、虎に美しい女をあてがった。新コの父は晩年は永い間の苦闘と冒険とで、男ッぷりが下落したが、若いころは美男だったという事です。虎は女に惚れられた。この事が望む仕事の請負業を、以っての外だと親から刎ねつけられた鬱憤ばらしと搦みあって、途方もなく深入りになったのだと思われます。  新コのことをずうッと後々になって、最初の『日本演劇史』を著わした伊原敏郎文学博士が、あの人は平常は常識家だが、何か事があると、一挙に非常識になると批評したことがある、この言葉を針を刺されたように新コは受取らなくてならないのを、だれよりも自分が知っていた。新コの父にもそれがあったらしい、或はそれは秀造にあったものが、譲り渡されていたのかも知れません。  虎はいつの間にか若旦那擁立派が、遊興の取巻《とりまき》に変化したのを知らず、女との間は深くなるばかりの上へ、取巻の入れ智恵もあったのでしょう、女の借金を払って家へ入れるといい出し、挺でも動かぬとなったそうです、新コ達の母を出して、その代りに女を入れるというのでなく、妻妾を一緒にというのだった。虎には母の新造の女房が、倅の不心得は嫁に何といって詫びても償えぬと、悩みぬいて手を尽してダメとなると、可哀そうだが嫁には若後家になって貰う、秀と新と二人の子の成人を楽しみに末永くくらしてくれ、後見役は新造がしてくれるから心置くことはないと、倅を刺し殺して自殺する気で、二度まで虎を追っかけたそうです。この話は祖母が夜中に新コを揺り起して暗闇の中でした、新コが十六歳の冬のことでした。そのとき祖母がいったのは、今いった事の外にまだあった。それは――いつも云うことだが別れた母が恋しくなったら秀の顔をみろ、秀はお前の母にそッくりだ、秀はああいう子だから大人になっても心配がないが、お前はそうでない、今のようでは行く末、畳の上では死ねなかろうと、涙声でいったことです。それから幾日もたたず祖母は亡くなったのだから、命あるうちの遺言だったのです。新コは祖母の言葉を忘れはしなかったが、自分のどこが、畳の上では死ねないような者なのか一向にわかりません。新コは二ツずつある目も耳も、一ツにしかつかっていなかった故でしょう。  新コの母が去ったのは、舅と姑との苦しみを見るに忍びず、離縁をとることになった、古い言葉でいう身を引くだったと聞いている。そのころ駿河屋はどちら向いても良いことがなかった。新造という人は滅多に涙をみせなかったが、母が去るという日は涙をみせたそうです、そうして駿河屋は四方八方悪いことだらけ、その中でたッた一ツの喜びは、孫の秀が今、学校(千葉学校)で出来がいいとて褒美を貰って来た、秀よお前がこの最中にわしに笑い顔をさせてくれるだけだと、秀に頭をさげて泣いたそうです。  母と秀の別れがどんなだったか、新コは知らない。新コは母と別れたときの憶えがない。兄は八歳でした、新コは四歳だった。  それから、永い永い年月が過ぎ去って、新コは出し抜けに知名の一女性から、その良人の紹介状を同封した手紙を貰った、手紙には思いがけなくも、別れた母のことがあった。その一節に、ひそかに母が漏らしたという述懐が記されてあった。別れるとき新コは母を慰めて、今に大きくなったらお馬に乗ってお迎えに行ってあげるから、そんなに泣くのじゃないよと云ったというのです。新コはそれを知ったとき五十歳になってしまっていた――四十歳を迎えたる男が知り初めた老を歎くのを幾人となく見てきた、その四十を自分も越えて又十年、落莫を感じまいとしても感じることから逃げきれぬ五十歳、そういう年齢になっていた新コは、小さなときどんな顔だったか知らない自分に、有難やよくぞそう云ってくれたと、胸のあたりで何度もいっていた。  永い永い年月の間、別れのその言葉が、母へせめてもの、新コの贈り物であったことでしょう。 [#改ページ] [#1字下げ]倒産[#「倒産」は中見出し] [#7字下げ]一  秀と新コの兄弟二人の下に、富士子という一ツか二ツの妹がありました、母が去ったのは妹が亡くなってからか、亡くなる前か知りません。母は故郷へは帰らず、横浜の街に住む知辺《しるべ》のところにいて、覆水盆にかえる時がいつかは来ると信じたのでしょうか、仕立物などして日を送っていたのを、駿河屋のものは知らなかったのだそうです。  風が吹いて空が赤くなった日の午後でした、新コが往来に佇んでいると、黄金橋の方から人力車が一台、女の客を乗せて飛んできた、新コの脇をその人力車が通り過ぎるとき、紙袋にはいった菓子を女の客が投げました。新コはそれを拾って落ちたよ/\とでも叫んだのでしょう、追いかけるとき見て知って、いまだに眼のうちでチラつくのは、女客の羽織が黒かったのと、お高祖《こそ》頭巾の紫の色です。駿河屋の地尻に宿俥《やどぐるま》の帳場をもっていた甚が、店から飛び出して来て、新ちゃんにそのお菓子はくれたんですと抱きとめました。人力車はみるみるうちに初音町を曲って見えなくなりました。そのときだったか、その後だったか、甚が新コの兄に話したのでしょう、車の上からお菓子をくれたのはおッかさんだよと、新コは兄から教わりました。後になって新コは取《と》り的《てき》を主人公にした『取り的五兵衛』という芝居の本の中で、父を知らない女の子に、「あたいすこしおとッさん憶えてる、だって、あたいが小さいとき、お菓子をくれて行った人、あれが屹度お父さんだよ」と、いわせています。それから以後はこの事に限っての新コの感傷が消えました、新コに代ってそれをいう者が別にできたという事は、心ゆかせ[#「ゆかせ」に傍点]になる。  それから当分のうち新コは、往来へ出て佇み、女の客の乗った人力車を待ちました、女客の人力車は通るが、紫の頭巾と黒い羽織のあの女客の人力車はもう通りませんでした、多分それは去った母が、縁は切れたが血の続く子供達に、最後の別れに来たのでしょう、だから一度ッきりの筈です。駿河屋ではそのどのくらい前でしたか、二度目の母がきて、多くの客が集り、酒をのんで賑かな晩がありました、新コは兄の秀と二人で、洋燈と燭台との灯で明るい座敷へゆかず、台所へ行っていたこともあるし、木挽小屋へいって※[#「金+免」]屑《おがくず》の上に座っていたようにも憶えています。虎に二度の妻ができたと知ったので母は故郷へ去る気になり、外所《よそ》ながらの別れを惜しみに来た、そう新コは後にこの菓子の別れを思い込んだ。  駿河屋は以前の家も土地も売払い、半分ばかりに縮めた家を、すぐ前の黄金町に建て、材木渡世だけを続けましたが、日毎に傾く運の末でした。商売の下り坂の外に揉め事は起る、店の者に大穴はあけられる、新造の顔に険しさ苦しさが次第に深くなったそうです。その上に二度目の母が、二階の窓から往来へ、外した障子と共に落ちて大怪我をする、新コは土方車に輓かれて重傷を負い、その名残りが今も右手の指に残っていて、一本の指は畸形となり、二本の指は指紋がくずれて居ます。兄の秀も高いところから落ちて大怪我をし、命は助かったが、右手のくるぶし[#「くるぶし」に傍点]が処を変えてしまいましたので、新造が熱海へつれて行って養生させ、だいぶ快くなって帰ってくると、今度は新造が病いつき、今俺が死んでは一家のものが路頭に迷う、死にたくない/\といいつつ亡くなった、年は六十九だったそうです。過去帳をみると、明治二十四年一月十日となっています、そうすると新コは八歳で、兄は十二歳になっていた。  新造が死んだと聞いて、七十歳で孤独の身を駿河屋に寄せていた故秀造の弟清吉が、中一日置いた十二日に亡くなりました。義弟に死なれては生きてゆくスべがない老人は、後を追って死んだのでしょう。自殺ではないように聞いては居ます。  これで駿河屋は逆落しになって倒産し、住み慣れた家も土地も他人手《ひとで》に渡りました。秀造・新造兄弟が世話したものは多かったが、こういうとき必死になってくれるのは銭のない人に多く、産をなして材木屋の主人になっているようなのは、逃げを打って寄りつきません、そうした中での一軒で、駿河屋が潰れるのに振向きもしない亭主を怨み、自殺した女房があったそうです。  駿河屋一家の生残りは、わずかに祖母のち[#「のち」に傍点]と、虎とふゆ[#「ふゆ」に傍点]の夫婦、秀と新コの兄弟と、たッた五人だけになりました、大家内が急に小人数になったのは、子供には左程のことでもないが、大人には耐《たま》らない寂しさだったでしょう。虎には従姉妹が二人あるが離散して行方が知れない、二人の従兄弟は、前にいった通り、一人は獄中、一人は勘当されて生死すら知れなかったそうです。虎親子には伯父も叔母もない。新コ達の義理の母は遠国の人で、これも孤独でした。  伊勢佐木町という繁華な街から、横にはいった処の淋しい町に、虎は煙草小間物荒物の店をひらき、そこへ一家五人で引移り屋号を沢屋と改めた、駿河屋は身代をスルガやで縁起がわるいというのでした。沢屋というのは昔、野州で新造がつくり[#「つくり」に傍点]酒屋をしていた時の屋号だそうです。  ここに移ってから虎は、勇気も冒険心もあったので、サアフサゲとかいう南島の植物の葉を、煙草の代用にしようと企てたり、さまざまな事に手を出したが、何も彼も失敗だらけになり、再び一家離散のときがやって来て、最初に新コの兄が小僧奉公に出た、十三歳だったらしい。その次に祖母が居なくなりました、自分で働いて食う為めに品川とやらへ行ったのだそうです。新コは品川がどこにあるのやら知らなかった。その次に義母の姿がみえなくなり、家の中には虎と新コと父子二人だけになりました。  家の中がわるくなると、それが外に現われるのでしょう、一家五人がくらして居たときと違って、父子二人だけになると物を買いにくる人が減ってしまい、朝早くから夜の十一時過ぎまで、あらかた新コひとりが店にいたのだが、一銭の売上げもない日がありました。そういう中で或る日、子供が刻み煙草を買いにきて、帰って間もなく又やって来て、この煙草返す、卵を買えといわれたと、怒ったようにいった。折角、売ったものを残念ながら銭を返すと、その子供は先の方にある煙草屋へはいって、手に刻み煙草のタマをもって帰って行った。それを見ていた新コは、独りで泣いて口惜しがったのを今でも忘れかねている。こんなことは新コのような立場を知らないものには、到底わからないだけでしかない悲しさかも知れない。新コは大人になって或る時代を過ぎてからは、いつ如何なる時でも、一たん買った物は決して返しにゆくことをしない、間違って渡された物でも、破損していた物でもである。昔の悲しさをだれにも新コはさせたくない、と思っての事なのだが、実は昔の悲しさへ心やりをしているだけに過ぎないのでしょう。 [#7字下げ]二  沢屋が開店して一家五人が一緒にいた当座、新コは近所の子供と遊ぶ日が続きました。川島という色の黒い年上の子が餓鬼大将で、この子に率いられていた故か、腕白小僧的な遊びは二の次にして、手製の人形芝居がいつもの事でした。新コはそのころまで芝居を知らず、人形を遣うことも不器用だったので、人形つくりの手伝いをやらない時は、いつも見物人の役でした。人形の首は白大豆で、それに立役や敵役や年増・娘などの顔を川島がかきます、髪の毛は菅糸《すがいと》を墨で染めて糊で貼りつけ、衣裳は色紙と千代紙の貼り交ぜ、手は豌豆、首と胴と手のツナガリは竹の串でした。川島は吃りだったから、おなじ年ごろの群童の中にはいらず、年下の子を四五人集めて、人形つくりを手伝わせ、人形芝居をやって見せるのでした。川島は人形芝居の筋もセリフも自分でつくるらしく、仮声《こわいろ》をつかうとすこしも吃らなかったように憶えています。新コよりも本を書く才能は川島にあったのでしょうに、袋物商になって終ったそうです。人形芝居の遊びもしたが、新コは時には川島達から独りはなれて、何処へ行ってもいつもいるような悪童の仲間にもなった、それは人形つくりや人形芝居の遊びが終り、川島が帰ってしまった後らしく、おぼろ気に残っている記憶では、腕白遊びは夕方ばかりだったようです。  或る日、腕白遊びの仲間の一人で、丸い顔の子が姿を消しました。その子の家へ聞きに行くと、田舎へ行ったとか何とか、そんな風なことだったのでしょう、だれも気にとめずにいたところ、その子は人浚いに連れてゆかれ、玉乗りの一座に売られたと遊び仲間の子がいい出し、又暫くたつと、その子が賑町の見世物小屋の玉乗りの中にいるとわかり、四五人の仲間の子供と新コも一緒に、見届けにゆくことになりましたが、人浚いが現れてきて、見届けに行った子供達を浚ってゆくのではないかと、だれかがいい出したので、新コは怖ろしさに身ぶるいが出ました。名前も顔も忘れてしまったが、餓鬼大将の子のいい付けで、めいめい家から手拭をもち出し、小石を拾って端結びにして振りコを拵えました、人浚いが出てきたらそれでやッつけろと云うのです。新コもいわれた通り手拭をもち出し、石の振りコを拵えました。子供達は原ッぱで勢揃いして、遠くもない賑町へ見届けに出掛けました。  その時分の伊勢佐木町は、関内から銕《かね》の橋を関外へわたると、左側に川を抱かぬばかりに銕の橋の大屯《おおたむろ》がありました。大屯というのは、そのころもう伊勢佐木町警察署といっていたものを、邏卒が巡査と改められた当時、大屯所があったので、その儘に呼名にして市井の間ではつかって居たのです。銕の橋はイギリス人のへンリー・ブラントン技師が設計したもので、大人達が日本で最初の銕橋だというのを、新コ達は聞いて知っていた。後に長崎浜の町大橋が、横浜の吉田橋とおなじ明治二年に架けられたのを知った。長崎のはテツの橋と呼んでカネの橋でなく、浜の町テツの橋通りの名が、そこの街にあることを知りもしたし、長崎の藤木が出した大正末の『長崎案内』(原郊月)で、その写真もみた。横浜のはイギリス人から生れてカネの橋、長崎のは日本人本木昌造がつくってテツの橋、そうするとどちらも日本で最初というのに名実ともに適っているのです。本木昌造は幕末の長崎|人《びと》で洋学者で、活字鋳造と印刷・製銕と造船航海に献身し、先駆して東京に活版所をつくったのが築地活版所の前身だし、石川島造船所を創業した平野富二は本木の門人で、師の志を継いだものだと、活版史か造船史か何かで後に新コは知った。ブラントン技師のことは、燈台建造の為めに明治元年に招かれて、“お雇い外国人”として渡日した工学の実際家で、燈台史にはこの人に就ての相当な記述があるだろうと思うが、新コはまだ見て居ません。横浜市史の類や銕道史には、プラントンの日本銕道勧告のことがある。滞日は余り永くなかった人だったらしいが日本にとって銕道が必要であること、差当って東京横浜間の開通があらゆる面からみて、社会と人間の為めに利益で幸福なることを、周到と深切と善意とで勧告したのです。銕道博物館へはいって見ていないが、ブラントン技師に関するものが勿論あるだろう。敗戦からこっちだれもが、勧告という言葉に厚みと重さを感ずるようになって来たが、幕末から明治にかけても、ちゃんとした外国人の善意と適正な勧告が多くあった、その一ツにブラントンの勧告がある訳です。  新コ達の冒険でもないのに冒険とした、賑町の見世物小屋探検の場所は、さっきいったカネの橋から西南の一筋の道路に、伊勢佐木町・松ケ枝町・賑町と三ツの街が繋がっている、最後のところにありました。伊勢佐木町には蔦座という芝居小屋があり、松ヶ枝町には勇座、賑町には賑座、その外に伊勢佐木町の裏通りに羽衣座があり、関内に港座というのもあったが、町の位はいいのだったが盛り場と遠いので、寂《さ》びれていたように思います。賑町の賑座から殆どすぐ続いて、定設の見世物小屋が幾ツもありました。奇術魔術という以前の手品水芸や、猿芝居や、梅坊主の活惚れや、一朝・元朝の道化芝居や軽業や玉乗りなど、その外にもいろいろあったようです、獅子芝居や女力持や、盲角力盲剣術、葉山藤吉などの力持も、そこの小屋でやりました。竹沢藤次の芝居がかりの軽業は芝居小屋へ出て、そこの小屋へは出なかったようです。馬芝居もそこへは出ず、別に空地へ小屋を組み、馬場と櫓《やぐら》と客席を拵えて興行しました。馬芝居というのは『阿波の鳴門』のお弓とお鶴と別れ別れの母子が、名乗り合わずに会って別離を悲しむ芝居を、大人の役者も子役の役者も馬に乗って演《や》るのです、『一の谷』の熊谷と敦盛とでは、熊谷が櫓の素天《すて》ッ辺《ぺん》から、おういおういと敦盛を呼び戻し、一気に馬を飛ばし櫓から駆け降りるのですが、新コはそれらを木戸銭を払ってみたことがない、櫓を駆け降りるのを小屋の前に立って見ただけです、だから『阿波の鳴門』のお弓もお鶴も、馬場へ(舞台は馬場ですから)出るまでの間、客寄せに小屋の前にきて馬に乗っている、それを見たのと、アホリ(揚げ卸しの幕)を揚げてときどき外にいる者に馬場の芝居を見せる、それを見ただけです、前にいったいろいろの諸芸のどれも、見る銭を家から貰えなかったのだから、悉く外からだけの望見で、その外は見た子の話を聞いて想像を結びつけたらしい、その故か、どれもこれも見たもののように思える。川島程ではないが、すこしは新コにも空想力の天賦があったのかも知れません。  新コ達は手に/\石の振りコをもち、餓鬼大将に率いられて、賑座の前側で先の方にある玉乗り一座の小屋の前にゆきました。すぐ見付けたのか一ト区切りの芸が終って、アホリが揚ってから見付けたのか、姿を消した遊び仲間の一人が、新コ達の目の前にいた、その子は白粉を顔に塗り、頬に丸く紅をつけ、頭に二ツ丸く毛を残し、アトは坊主に剃ったのが、桃色のシャツとズボンに何色だったかのマタを穿いて、悄気返って隅に立っていました。餓鬼大将が人を掻き分けて前へゆき、何かいうとその子は、アホリの陰へ逃げ込んでしまいました。それから新コ達はそこでどうしたか思い出せないが、人浚いが出てこなかったことは確かです。その日かその後日か、原ッぱで相談をやったことを憶えているが、その後に何かやったかやらなかったか憶えていません。 [#7字下げ]三  新コのいた街は社会研究家からいえば、悪の溜り場の一部で、三間道路の前の角の家は、引越して来たかと思うとじき又行ってしまい、新しい半紙一枚のかし家札がたびたび貼代えられました。いつ頃だったか、男が三四人に女が二人引越して来ましたが、父の処へきた人がその男達の出入りするのを見て、あいつ等は詐欺師だといいました。二三日するとそこの家の戸が閉まりきりになり、又かし家札が貼られた。こんな妙な家はない、曰くつきばかりが借りると、父も義母もいっていた。その外には引越してゆく家は一軒もなく、筋向うの家は荒い格子戸の内に御神燈が吊ってあり、夕方になると灯がはいった、そこの家の亭主は細長い顔の男で、躰に刺青《ほりもの》がありました、遊び人だということです。遊び人の一軒置いて隣りは女衒《ぜげん》でした、『忠臣蔵』の五段目に出てくる役に女衒がありますが、ああいうのではなく、もッと悪いモグリの女衒だったらしく憶えています、多分その男は疵玉《きずだま》といって、苦情のついている女を売買いしていたのでしょう。そこの家にはたびたび喧嘩がありましたが、いつだって喧嘩は口先喧嘩で、激しいにも鈍《のろ》いにも立廻りは、新コがいるうちに一度もありませんでした、文句をいっている意味は新コにわかりませんが、調子は荒く、すぐにも立廻りになりそうですが、いつも必らず成らず終いです。  新コの家の横の道一ツ隔てたところに、何軒か並んでいる家は銘酒屋でした、後世だれかが文字だけで判断し、銘酒屋とは良き酒を売った店にして、酒場の先駆をなせるものなりというかも知れない。名と実と食い違った銘酒屋は私娼のいる処で、居留地のチャブ屋が渡来者向きだったのと、対照をつくっていたものでした。そこの何とかいう家の亭主の酒むくれ[#「むくれ」に傍点]した肥った顔と、新コぐらいの倅でむき[#「むき」に傍点]卵のような顔をしていたのと、この二人の顔だけ憶えているが、そこの家にいたおわか[#「わか」に傍点]さんとかいった私娼は、新コにも兄の秀にも優しく深切でした、何をどう優しかったのか深切だったのか、それは忘れたが、そうした漠とした思い出が残っている癖に、その顔を憶えていません。銘酒屋の先の横丁に平田という縫箔師がいて、そこの倅の確か三之助といったのが、吉田学校の一年と二年とが一緒だった。後に新派芝居の役者となり、浅草の小さい芝居で定打ちをやっているとき、往来で出会ったことがあります、平田は黒の紋付の着流しで艶のいい顔をしていた、新コの失意の時です。新コにも平田にも幼な顔が残っていたのでしょう、双方共すぐわかって立話をしたが、新コ程に懐旧の情は平田にもてないらしい様子なので、すぐ別れてしまいました。その後一二度どこかで出会ったような気がするが、晩年、ひょッこり訪ねて来て、京都へ今度ゆくことになった、死処《しにどころ》はあちらと決めたという話のどこやらに、ヒヤリとするものが感じられ、この人は自分の終幕を考えているのではないかと思えたので、京都の友達に、何ぞのときは一ト肌ぬいで欲しいと頼み状を書いて渡した。平田はそのとき実はそれが欲しくて来たと、云って喜んだ。新コは見たことがないが映画役者としての平田は、うまい助演者で、だれからも好意をもたれたそうです、年齢が丸味をつけたのかも知れない。死んだときはファンの痛惜はたいしてなかったが、映画制作の内側では、哀惜が深かったと聞いています。新コが二学期だけの尋常小学校の友で、後年にロをきいたことのあるのはこの平田一人だけです。新派芝居の美しい女形で評判になったことのある若水美登里も、そのとき同級の子供でしたが、始めは女の生徒の組にはいっていて、赤い襟をのぞかせた少女姿で、髪はお煙草盆とかいうようなものに結っていて、紛れもなく少女でしたが、だれからかあいつは珍宝のある女の子だと噂が立ち、新コも混った五六人の挺身組が、用足しをしている処へのぞきに行き、見届けるとすぐ教師へ注進に行ったものです。その翌日からその子は学校へこず、幾日かの後に、男の子の姿で更《あらた》めて登校したと憶えているが、そうではなくて、何処かへ転校したのだったかも知れません。若水とは後に一度、芝居の楽屋で会いましたが、新コを憶えていませんでした、新コの方でも、皮膚までが女になっている若水のような美しさは虫が好かず、一ツ学校に子供のときいたといわず、初対面らしくちょッと話しただけで別れ、それッきりのうちに年月がいつしか過ぎ、晩年は寄席芝居へ出ていて、死んだのだとかいいます。  新コの家から兄も祖母も義母もいなくなり、父子二人だけになってからは、遊びにも出られず学校へもゆけず、朝から晩まで店番をしていると、煙草を買いにくる客の中に稼ぎ人がいて、顔馴染みになりました。稼ぎ人というのは巾着切のことで、新コが耳にする稼ぎ人以外の大人の言葉ではチャキでした。一日中の店番で客がはいって来るのが稀になってからは、往来する人ばかり見ていたように思う、読む本もなし、読みたいと思うように導いてくれる者はなし、遊びに来てくれる友達もなかったようです。魅力のない子だったからでしょう。  或る日、顔馴染みの稼ぎ人が煙草を買いにきて、新コの手の指をいじり廻してみて、いい指をしていると褒めました。昼のうちの大抵は留守の父に話したのはその夜だったでしょう。父は前と違って若旦那風のところがなくなっていたのでしょうか、それを聞くと、眉間に立皺をつくって黙っていました。父はチャキの一人が、何でそういったか気がついたのでしょう。その次の日あたりだったでしょう、新コの指を褒めた稼ぎ人が、伊勢佐木町通りの方から青ざめた顔で、店の前をすれすれに駆け抜けてゆきました、それッきりでそのチャキは姿を見せなくなりました。被害者に追われたのか、探偵に追われたのか。仲間喧嘩の直後だったかも知れません。後になって新コの指は、巾着切にもって来いなのだという事を、役者で巾着切を兼ねている男から教わりました、だからといって、天が新コを巾着切させるとて生ませたのでない事は明かです、というのは、指の形だけがそんな途方もない事に適していると見えるだけで、指がもっている本来は極めて不器用です、もしも誤まって、そんな横路へはいっていたところで、高級巾着切には到底なれず、初歩同然のチャキでお終いだったでしょう。  だが、あの稼ぎ人が姿を消さず、ずッと来ていたらどうなって居たことだろうか。新コはその男を嫌ってはいなかったのでしたから。  新コは庇護をうけた、どこに在るのか見えない力に。しかし、その頃そう心付いていたのでは勿論ありません。 [#改ページ] [#1字下げ]母を尋ぬ[#「母を尋ぬ」は中見出し] [#7字下げ]一  月に一度か二三度か、それより多かったかも知れず少かったかも知れません、背負籠を背にした田舎風俗の若くない女が、店の向うの道端にきて憩《やす》み、小僧に行く前の秀や新コを、それとなく暫くのうち見ていて居なくなる、いつ頃からだかだれも知らない。新コの父が店から姿を消すまでこれは続いていた、のではないかと思う。背負籠の女は母の故郷のもので、横浜に行商に出るたび、二人の子供の様子を外所ながら見てゆき、去った母に知らせるのか、母の親兄弟に知らせるのかであったでしょう。新コはそんな人がときどき来るとは知りもせず、知らせられもしなかったが、兄は知っていて、父や義母に隠れて、背負籠の小母さんと立話ぐらいはしていたのでしょう。  兄が小僧にゆく前のことだから十二の時でもありましょう、そうだとすると新コは八ツだった或る日の朝のうち、兄が新コに手招ぎして外へ出てゆきました、新コが兄さん/\と出てゆくと、兄は街の四つ辻に立って手招ぎしてみせ、行ってしまいました。追い駆けてゆくと、兄はうしろを向いて手招ぎして、先へ先へ行く、漸く追いつくと兄は、おッかさんに会いにゆくかと新に尋ねました。何とそのとき新コは返辞したか憶えがない、喜び勇んだことだったろう。  小さい兄弟は横浜停車場までゆきました。まだら[#「まだら」に傍点]の渦がある石積の二階建が、両袖のようになっている真中に、玄関がついているこのステンショは、後にみた新橋のステンショ(後に汐留駅)とおなじ建築で違うのは正面にある玄関の中に、新橋のは石段があったが横浜のはそれがないだけです。停車場の中へ兄に連れていって貰った新コは、異人さんと南京さんが、あっちにもこっちにも居るのに気を奪われ、他に眼を向けなかったそうです。売店が玄関の背後のところにあって、売っている雑貨や食べ物の中に、異人さんの飲む酒や読む新聞や本がありました。兄は新コを連れ出して、前の広場にある生垣の中に、三段に水を噴く塔がある、そこへ行って見せてくれ、歩いてゆくのだよ新といったように憶えています。今になって思えば、兄は母がいると聞く神奈川まで、汽車でゆく子供二人分の銭がなかったのでしょう。新コは五厘銭も貰ったことがないし、兄だってそうだったろうから、多分、あの田舎の小母さんに貰った銭が何銭かあったのだろうが、それでは足りなかったのに違いない。それから歩き出しました。この銕道の線路はおッかさんの居るところへ続いているのだから、線路からはなれないように歩いてゆくとおッかさんに会えるんだ。そんな風なことを兄は新コに何度もいいました。  ステンショの玄関の下で、黒い洋服の人が、鈴を上から下ヘカンランカンランと振ったのを聞きつけて、新コはどうしたのとびッくりして兄に尋ねた。兄は汽車が出るから早く切符を買って乗れという知らせさ、ステンショへ駆けてゆく人が沢山いるだろう、あれみんな並等切符買う人だよ、中等切符や上等切符買う人は、人力車や馬車でくるもの歩いては来ないさと教えてくれた。或はこのとき教わったのではなかったかも知れない。申すまでもなく並等は後の三等で、中等・上等は二等・一等です。新コはそのとき汽車に乗ろうとはいわなかった、今までに乗ったことが一度もないし、落ぶれたのだと知っていたからでもあったのでしょう。落ぶれたという言葉は、祖母が父にいうのを聞いて、意義はわからないが用途だけは覚《さと》っていた。  ステンショの左側に人力車が夥しく並んでいて、日本人には日本語で、異人さんには外国語で呼びかけていました、これもそのときの所見でなく、後に気がついたのだったかも知れません。兄は新コに、赤煉瓦の建物が煤で黒くなっている駅構内の外れの一劃をのぞけといいました。そこは終点のこの駅で、横浜へ向いてきた機関車を東京へ向かせる為め、芝居の廻り舞台のような仕掛けが、銕《てつ》づくめ[#「づくめ」に傍点]で出来ている処でした。新コはそのころはまだ廻り舞台を見たことがなかったので、黒い大きな機関車が旋廻するのを、人の力がそうするのだと知らないで、そこの地面がやるのだと思い、兄に獅噛《しが》みついて怖がったそうです。現在はその場所が道路になっている。  それから兄弟は機関庫の外を大廻りして、現在は高架になっている処に、そのころはからたち[#「からたち」に傍点]の垣をめぐらせ、中に銕路が続いていた、それに添って歩きました。可成り歩いたと思ったころに、銕道踏切り場があった、それを渡ると広い道路へすぐ出た。兄は角店《かどみせ》の饅頭屋へいって、田舎饅頭を二ツ買い、一ツを新コにくれ、一ツを自分で食べました。二人は左側にのびている銕道線路を見失わないように、永い永い道を歩き続けた。後に何かでみたら一里五丁余りしかないのだそうです、それを街の子の小さな足のはこびで、永い時間をかけて歩いたらしい。神奈川のステンショが往来の左側にあるのを、兄がすぐ見付けました。兄が駅の前にあった小砂利のヤマに腰かけたので、新コもおなじように腰かけました、尻が冷めたかったのを憶えています。新コは足が痛くなっていたが黙っていた、兄の綺麗な顔が、いつもと違って怖くなっていたからです。恐らくは兄は幼い弟を庇って歩いたので、自分ひとり歩くより余程疲れたのでしょう。  そのころの神奈川町は橘樹《たちばな》郡のうちで、横浜市にまだ編入されていません、横浜市だとて市制を布いて三四年目のころで、それまでは神奈川県横浜区でした。兄が歩き出したので、新コも付いて歩きました。どのくらい歩き廻ったか判らないが、永いことかかって兄は、門のある家の石段の下へ来たとき、ここだよといって石段をあがりました。兄はだれにも尋ねることをせず、ぐるぐる廻り歩いた末、ここへ来たのでした。新コは兄の兵児帯だか袂だったか、何かしら兄の躰についている物を握って、付いて行った。そのとき兄の頬が桃色になっていたのを憶えています。  門は開いていて格子戸が閉まっていた。兄がそれを開けようとしたが開かなかったのか、開けて土間へはいったのか、どっちだったか忘れた。女中さんが出て来ました。  女中さんに何かいっているうちに兄の顔の色が青くなったのと、女中さんが眼を丸くしたのを新コは憶えています。一ぺん引込んだ女中さんが、だいぶ経って出て来て、小さい兄弟を門の外へ連れ出し、そこで待たされました。女中さんが何処かへいなくなってからは、人はだれも出て来ません、何もいわないでいる兄の顔の色が、前より青くなったと憶えています。  やがて人力車が一台、石段の下へ来てとまると、車の陰からさっきの女中さんが出てきて、二人に車へ乗るようにいいました。兄は石段を降りて女中さんに何かいっていた、何といったのか新コは憶えていません。兄が車に乗ったので、新コも女中さんだか車屋さんだかに抱いて乗せて貰った。女中さんが、菓子だか煎餅だかの紙袋を兄の膝にのせました。人力車が輓き出されてすこしすると、兄がわあわあ泣き出したので、新コも悲しくなって泣きました。母は再縁していたので、夫の許しを得ずに、置いて来た二人の子にそッと会うという事をしなかったのでしょう、しかし兄にだって大人の世界のそれは判りません。新コは兄の泣き声に付いて泣いているだけです。  人力車が高島町の何丁目でしたか、人家があったりなかったりの処まで来ると、前をゆく空《から》の人力車に追いついて、車屋同士で並んで歩きながら話合っていましたが、急に双方とも梶棒をおろして、小さい二人の客を積みかえ、前の車屋は後の車屋へ銭を渡して神奈川の方へ戻ってゆき、後の車屋は輓き出しました。兄はそのときには泣きやんでいた、新コも泣かずに、兄に食いつくようにしていた。怖かったのです。  途中で車屋さんは兄弟を下車させ、腰掛の下から提灯を出し灯を入れました。夜の街をいつまでも通って、伊勢佐木町の脇の通りの家へ車がつけられました。秋が長《た》けていた頃だったかしら、兄の手の甲が冷めたかった。  家では騒いでいたようです、兄は何を聞かれても黙っていた。新コは兄から黙っていろといい付かったので、頑強に黙っていました。車屋さんは疳高い声の義母から、執拗《しつこ》く尋ねられていたが、高島町から車屋に頼まれて来ましたとだけしか云わなかったそうです。祖母も父も義母も、兄弟二人で生みの母を尋ねて行ったが会ってくれなかったと、それだけは覚っていたと、後に祖母から聞きました。  兄の秀が関内の生糸屋へ、住込みの小僧にやられたのはそれから間もなくです。生みの母を尋ねたから兄は小僧に出されたのか、小僧に間もなく出るのだから、弟をつれて母を尋ねて行った兄なのか、新コには判りません。兄は四十三歳で亡くなるまで、この時から三十年ばかりの間に、母のことで新コと話合ったことは一度もない、亡くなるとき、死期を知っていたのだったが、遂に一言の母に及ぶことなくして去りました。 [#7字下げ]二  兄は小僧に出たッきりで、新コに会いに来ません、新コは独りで兄を尋ねてゆくには小さ過ぎた、そのうち祖母がいなくなり、義母もいなくなり、二階に一卜間、階下《した》に一ト間、あとは店と台所だけの家に新コは前いったように父と二人ぎりになり、学校へゆかず日ねもす店番をするようになると、自分では気がつかないがみるみるうちという程に変ったそうです、片親のない子がマセるという、それだったのでしょう。父は昼のうち外へ出て何とか再起の途を見付けたいと狂奔しているそんな時だったからそうなったのでしょう。新コは店を小さな手でどうにかやっていた、と云っても、小間物も荒物も卸し店から見放され、仕入れの途が止まっているので、店にある物は殆どローズ物ばかりになりました、新しいのが仕入れられるのは煙草だけ、その煙草の売行がわるい。煙草の検査に洋服の男がときどき来て、新コに判らないことをいって、来るたびに叱りました、叱られると口惜しいということを、いつか新コはおぼえ込んでしまった、何を叱られているのか、そんなことは知ろうともしません、口惜しい、ただただ口惜しい。  新コは銭勘定がうまくなったが、ピンヘット(輸入巻煙草)一ツと大鹿の五匁ダマ(刻み煙草)とでいくらといったような寄せ算が出来て、ツリ銭を出す為めの引き算ができるだけで、掛け算と割算とを知りません、そんなモノがある事すら忘れてしまったのか、知らなかったのか、どっちかでしょう。  或る晩、見慣れない夫婦が荷物を少しもってやって来た、このごろ夜になるとよく来て父と話合っていた男がつれて来たのです。父はその三人と二階へ行っていつまでも降りて来ません。そのうちに前の遊び人の家で、御神燈を消して戸を締めました、そうすると表通りが急に暗くなる、夜が更けたのです。横の方の銘酒屋で毎晩聞える男と女の巫山戯《ふざけ》る声もやんだ、裏の方に住んでいる引ッぱりという、哀れだがイケ図々しいので嫌いな女連が、店の前を通って帰ってゆき、往来を通る人もなくなったが、二階の客は降りて来ません。新コは帳場格子の中の机にむかって、客が帰るのを待っていましたが、いつか居睡《いねむ》りが本物になり、勘定机に頬をつけて睡ってしまったのを、朝になって気がつきました。  眼がさめた新コは店の戸が開いているので、いつもの通り父が開けたと思い、顔を洗いに起とうとすると、見たこともない物を着せられていたのに気がつきました、だれかの温袍《どてら》でした。父がいつも居る店のうしろの座敷で、知らない男と女の話声がしていて、父の声がない。新コは足がしびれているのに気がついたが、二階へ急いで行ってみました、父はいません。階下《した》へ降りて座敷をのぞいたが父はいません。知らない男と女が何かいったが、新コは何といわれたのか知りません、通り抜けて台所へいったが父はいません。便所の戸をあけてのぞいたが父はいません。棄児にされたと気がついた、そこまでは憶えています、それから先どうしたのだったか憶えがない。その日から新コは、帳場絡子の中の机の脇へ寝ることになった、小僧に変ってしまったのです。  父は店を居抜きも居抜き、何も彼もみんな付けて売渡し、新コが勘定机に睡ったのを見て出て行ったのです。その晩、父が受取った金はわずかな額で、それまでに売り値の殆どを、借金の返済に廻したからだそうです。着のみ着の儘で深夜に出ていった父は、場末の安宿へいって泊ったそうです。着のみ着の儘なのは父だけでなく、新コも似たものです、着物は父のも新コのも、質屋であらましは流れてしまって居た。  新コは棄てられたのではない、店を買った夫婦が、殊におかみさんの方が新コを貸して置いてくれと頼んだからでした。その夫婦はそれまでに二三度、煙草を買いにきてみたそうです、そのとき小さな新コが、小器用に店番を勤めていたのが気に入って、小僧に雇いたいと話が出たが、父は断わった。それでは当分の間だけとなったが、それも父は断わりはしたが、考え抜いた末に、五日か十日のことならと承知したのだそうです。  しかし、五日や十日で父の落着くところは出来ませんでした、転々と流浪して歩いたと思えるのだが、この時のことに就て父は後年になっても何もいいません。余程ひどかった日々だったのでしょう。  新コはその後ずッと煙草屋の小僧でした。  背負籠の小母さんは来なくなった、あの店は代が変ったと聞いたのでしょう、新コだけは小僧でいたのにです――もし、この田舎の小母さんが、秀と新コの様子を外所ながら見て、母か母の親兄弟に知らせる役を引受けていたのでしたら、母達にはこの時から新コ達の行方が判らなくなったでしょう。その後、背負龍の小母さんは秀の奉公先を探し当てて、異人さんの往来繁き弁天通りの生糸店の裏口へ、たびたび行商にこと寄せて、秀を見に来たそうです。それがいつ頃からいつ頃までだったか知りません。  だれも白地の単衣なぞ着なくなった薄ら寒い、或る日の宵の口に、白がすりの単衣に白い兵児帯の、瘠せた長身の若い男が煙草を買いにはいって来ました、青白い細長い初めてみる顔です。煙草を受取ると、君はここの子かと訛りのある言葉で聞いた。落ぶれて小僧になっていると新コがいうと、落ぶれてといったのが注意をひいたらしく、年など聞いて、上り框に腰をかけて話し込みました。僕は東京から先程ここへ来た船田敬中といって落ぶれ書生だ、何かで金がはいったら天麩羅蕎麦をおごってやろうかといった。新コは、おいらがエラクなったら鶯の饅頭を買ってやるよとすぐ答えた。鶯の饅頭とは金側の時計という巾着切のそのころの用語です、このくらいのことは大抵のものが知っている街です、新コだけが特に知っているのではない。船田は鶯の饅頭というのを知らなかった、金時計のことだと判ると大きな声で笑って、愉快だと何度もいって、暫く又話して出て行きました。それから半時間か一時間もしてからでしょう、店の向うの四ツ角の隅の暗いところで、組打ちをやっているものがあった、一人は白い着物です。新コはそれがさっきの落ぶれ書生だとすぐ知って、店の前へ飛び出してゆき、書生負けるな/\と、勝負がついてしまうまで声を贈りました。喧嘩は船田が勝って相手は逃げました。船田は新コのところへ来て顔をのぞき込み、落ちぶれ小僧お前だったかといって行ってしまいました。  それからどのくらい経ってからだか、銭湯の中で落ぶれ小僧と呼ぶので、見ると船田でした。湯から出ると船田も出てきて、寄席の木版色刷りのビラの脇に貼ってある書きビラを指ざし、僕が演説をやる、これが僕の姓名だと、船田敬中と書いてある処を指で教えてくれたが、新コには田と中だけが読める、船はカンで判ったが敬が読めなかった。今夜の船田は黒い着物に黒い縮緬の帯でした。新コは煙草店から暇をとるまで、船田とはちょいちょい顔を合わせていました、見るたびにいい服装《なり》に変っていた。船田はどこに住み何をしているのか、新コは知らなかったが、博徒の親分と往来で立話をしているのを見たことがある。後年、怖がられもしたが役にも立ち、人に知られた壮士の頭になった船田が、二十四五になってからの新コと往来で行きあい、顔をしげしげ見ていたが、君は落ぶれ小僧ではないかと聞いた、そうだよと答えると、僕を忘れたかというから、憶えているよ落ぶれ書生だろうというと、名刺をくれて、もし困ったら来てくれ、僕がここへ流れてきたとき、最初に口をきいてくれて、エラクなったら金時計を買ってやるといってくれたのは君だ、ときどき思い出していたと懐かしげにいいました。だが、喧嘩の声援をしたのを憶えているのは新コの方だけで、船田は忘れていました、天麩羅蕎麦をおごるといったのも忘れてしまっていました。新コも彼に鶯の饅頭を遂に贈りませんでしたが。 [#7字下げ]三  煙草屋の小僧をどのくらいして居たか、知っている人という人がみんな世を去ってしまい、今では判りません、判らさねばならない重要さは、新コにだとてありませんから、他人《ひと》には尚更どうでもいいことでしょう。  品川の二日《ふつか》五日《いつか》市村《いちむら》の妓夫の家に引取られ、南品川の城南小学校へはいったのは十歳で、三年生に編入だったのでしょう、小学科二年の履修証が出てきたから、それが証拠でそういう勘定になります。  新コは煙草屋の小僧のときとまるで違った子に、わずかの間に変ってしまいました。知らない土地で知らない子ばかりの中へはいったことは何でもないが、学科のどれもこれも勝手が違う上に、学校の慣例も、子供同士の遊戯の方法も唱歌の歌詞も、知らないだらけなので追いつけない、そのヒケ目が強く出るのです、人真似をしてその日その日を押ッつけ、そのうちに覚えるという器用さがない、学習の課目のうち、一ツや二ツは出来るものがあっただろうが、課目の全体にわたっては霧の中をうろついて居るようなもので、卑屈にはならなかったと思うが、陰欝にはなっていました。  この小学校もやがて、自分で働いて食わねばならなくなって退校したので、新コは同窓会も知らず、校友会も知りませんから、あれは中学も大学も一緒でねというような言葉は、梯子もかかっていない別な世界のことにしか聞えない。その後、横浜船渠の工事請負人のところの住込み小僧から、通いの現場小僧になった初めは、何ごとにもヒケ目が先に立つ子でしたが、現場というものに慣れッこになってくると、陰欝なところがなくなって、煙草屋小僧のときに輪をかけたものになったようです。  或るとき、新コを大工の弟子にさせたらどうか、あんな者はそうでもしてやらぬと将来が可哀そうだと、現場掛りがムダ話をやっているとき云っているのを聞きました。あんな者といったのが、新コの疳にさわった、だれがクソ大工になんかなるかと決心しました。それでは何になると訊く人はなかったが、訊かれても新コは答えられない。志望をもつことを自分で発見するには、余りに何も知らなかった、教えてくれる人もなかった。大人の中のこの独り小僧は、そういう意味では孤独でした。  新コは第二号船渠の築造が竣《な》るまでに、小僧から撒水夫まで、永い間、働かせて貰ったが、その間に敬服した人といっては二三人しかありません、もッと居たのだろうが、遠くの方にいるので判らない。川田竜吉だの来栖壮兵衛だのと、名だけは知っていましたが、入船町とまだ名がなかった埋立地から野毛山伊勢山の雀を眺めるように、それは遠くの人達です。近くにいる敬服した人の中に、後に大きな請負師になった水野甚次郎という人がある、呉の市長や貴族院議員をやった同姓同名の人の先代です、傑物とはこういう人間なのだと、傑物という言葉はまだ知らなかったが、言葉のもつ実体を感じた。この現場小僧は可成り生イキになっていたのです。  現場関係の人の中には、悪くない人と善人とがいた、悪くない人もおなじことだが、善人はただ善人というだけです、こういう人達は何か事があると、前へ出る代りに後へ引込みます、新コはたびたびそれをみた。才のある人もいくらもいたが、その中には狡かったり嘘つきが少くありません、そういう人は小僧をものの屑《かず》ともしていないので、新コの目と耳とに、裏と表の違いをご当人達が説明しているように、見せたり聞かせたりの手抜かりをよくやりました。  新コはそんな事からも、人を軽蔑することと、信頼しないこととを、いつとなく憶えました、現場掛りの中から憎むものがその為めにふえて来たようです。頬に平手打ちをたびたび食らいました、そんなとき新コは泣きもせず緊張もせず、もッとぶつのを黙って待っていたそうです。新コ自身はそんなことを憶えていませんが、それだったら、小面憎いガキだったことでしょう。  田口という石屋の親方がありました、その頃には珍らしい洋服姿の親方で、金縁眼鏡をかけていた。この人達四五人が現場の外で立話している処を、新コが通りかかるのをみて、田口がこいつを石屋にしたら屹度いいと思うがと、新コのことをいうと、現場掛りの監督の一人が、こげン奴な石工《いしく》にもなれンたいといいました。こいつだの、こげン奴だのと、面と向かっていやがって、だれがクソ石工になってやるものかと即座に新コは決心した。そのとき、田口と一緒にいた石屋の中の顔利きの海老原の虎というのが、幾日かたってから新コに、石屋にならないかと勧めてくれたが、新コは石屋の親造《おやぞう》にはなりたくないといって断わった。親造とは徒弟ということで、親方のことをその反対に弟子という、そのころの石工の用語です。新コはバルとかシライタとかいう用語を知るようになっていた、バルは頑張る踏張るのバル、シライタはしらける[#「しらける」に傍点]興ざめるで、軽く困ったという時につかいました。海老原の虎さんは、新コのそうした断り方が気に入って、あれを俺の倅にしてみせると、それから可成り長い間ずッと、新コに眼を放さずにいました。  新コはそのころのあれやこれやを振返って、これを読むのだと一冊の本もくれるもののなかった昔を歎いたことがたびたびあります。新コはそういう少年時代の感傷を口にするのでもあるが、多数の髭と洋服の人達がいるのに拘わらず、成長が予期されている未熟のものに、良心に種子を与えてくれる良識の人がいなかったと歎くのでもあります。何処かにそのころの新コと同様なものはいつだって居る。新コの本の乱読はこうして反抗から始まりました。生きている辞典や事典のような教師や先輩をもたない新コは、かたわな読書法に陥った、わずかにそれを修正してくれるものがあったとするなら、それは新聞だった、新聞の振り仮名は読み方を教えてくれたのでした。しかしそれは、漢字を重ねたものの発音を教えてくれるだけで、意味は判断するより外はないのでした。 [#改ページ] [#1字下げ]夜学[#「夜学」は中見出し] [#7字下げ]一  現場小僧から撒水夫になって、新コの収入がいくらか多くなりました、月に五十銭か一円だったでしょう。住込小僧のときは、食わせて貰うのが給金の代りでしたが、現場小僧になってからは給金が貰えた、初めは月一円五十銭だったでしょう、後には二円五十銭になったと思う。そうすると、撒水夫になって月三円か三円五十銭になった訳になるが、そんなに貰えたかどうだか疑わしくも思えます。  働いた金は家へ入れ、家からは毎月一日と十五日に十銭ずつ貰った。小学生向きの雑誌ならそれで買えたが、新コは大人の読む本ばかり買った、『慷慨悲憤志士列伝』という漢文調の物などは、知っている文字が少くて困った、それでも林子平・高山彦九郎・蒲生君平の名を知るようになりました。『日本外史衍義』だの『前太平記』だの『平泉実記』だのと、軍戦物に行ったり、曲亭馬琴や柳亭種彦やの物に行ったり、『茨木阿滝|紛《みだれの》白糸』や三遊亭円朝の速記本にも行った。しかし、「熊径鳥路の外はなく」といった文句にぶつかると、熊《くま》ミチ鳥《とり》ミチの外はなくと読むより知りません。「故《ふり》し世の涙のまたも盂蘭盆会」とか、「河竹や臥す猪の床のうき苦労」とか、「色白くして眼《まなこ》清く是なん一個の美少年」とか、そういった文句にも慣れてしまい、浮雲とはアブナイと読み、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第 4水準 2-94-57]はドンナで、辞柄はイイグサといったような事も、いつしか憶え込みました。  収入が多くなったので、夜学の月謝三十銭ずつを、家で出してくれるとなったので、新コは有頂天になって喜び勇み、その晩すぐ、裏通りの細路をはいった奥の、古ぼけた二階建の時習学校という、侘しい校舎へ飛んでゆくと、引付けた雨戸の内にあかりがさして居ました、この光景は鮮かに憶えている。開けてはいると土間があってすぐ教室、そこに吊りランプの下に一列に学童机を並べ、十二三人の少年が片側だけに並んで、先生は赤らんだ秀麗な顔をした三十幾ツといった壮漢で、一人ずつ素読を授けていました。暫くうしろに立って見ていると、一ト区切りになったのでしょう先生が、新コの方を向いたので、あすから教えて貰えますかと尋ねた。入らッしゃいと先生がいう口が臭いので、顔の赤いのは酒の故だと知りました。新コは血の流れる喧嘩をすぐ近くで見て平気でいられるのと同様に、こういう臭さには慣れきッていた。どういう本を習ったらいいでしょうと尋ねると、どういう本をもっていますかと聞かれた、返辞に困っていると、このごろ読んだ本は何ですかというから、『粟田口|霑《しめす》笛竹』の矢切村の丈助が殺されるところですと答えた。先生は微笑しただけでしたが、少年達はわッといって笑いました。中に男と違う声がしたので、その方をみると一人だけ娘がいた、結城屋という酒など売る大きな店が近くにある、今でもおなじ名の店があるそうです、そこの家の子で、名を後々まで知らずに終ったが、通称をヤッちゃんというらしく、美しいが、新コより二ツ三ツ年上の娘でした。新コは終いまで一度もこの娘と口をきいたことがない、落ぶれ小僧のひがみ[#「ひがみ」に傍点]でしょう。金持の子は好きでない、その癖、その美しさをそッと見ることが少くないのでした。  先生はそのとき、静かにみんなを制して置いて、新コに三遊亭円朝の物をここでは教えません、外の本を何かもっていませんか、読みたいと思うが読めない本が何かありませんかというから、それなら有ります、その本をもってあすの晩から参りますと、いくら包んであったのか束脩と、一ヶ月分の月謝とを出して帰りました。新コは次の晩から、前に買いは買ったが読めない、漢文の『近古史談』の上巻をもって、宿望の夜学通いを始めました。  新コが先生に教わる最初のとき、『近古史談』ですかといって先生は微笑した。この晩も先生の口が酒臭かった。それから何ヶ月かの間、日曜日の夜の休学の外の毎晩、先生の口は酒臭く、頬が赤かった。  夜学の少年達は新コが『近古史談』をもち出したのを、何とも思っていないようでした、やがて判りましたが、『日本外史』や『十八史略』を教わっているものがいたのです、平易な漢文で一章ずつが短かい逸話の『近古史談』などは、そういう少年達には何でもないし、そうでない少年達は気にとめていないのでした。『近古史談』は矢張り新コには荷が勝った、教わっても/\骨が折れるので、仕事着の懐中《ふところ》へ入れて現場へゆき、仕事の間に出して読み慣れようと努めました。仕事というのは第二号船渠の内側に、仕上げが出来た花崗石を一ツずつ据付てゆく、据付が終ると蓆を吊って日光の直射を遮ぎり、蓆に水をやって常に湿《しめ》らして置く、その蓆を吊るのと水を撒くのが新コの仕事でした。新コの記憶が狂っていなければ、第二号船渠の周囲の石の壁は、その一ツずつが誕生の日から二日か三日ずつ、残らず新コの撒いた水を受けたものばかりです。  撒水夫が仕事に怠りないことを、蓆の湿りが明かに語っていても、本を読んだり暗誦を試みたり、木のかけらで地に字を書いたりしていたのでは、怠け者であると悪罵されても仕方がないのだという事を知りました、そういう事をいったのは、会社側の監督者で工学士とかで、秀才だという評判を現場小僧のときに聞いていた眼鏡をかけた青年です。この人には目の敵にされていつも叱られた、叱るのではない、悪口を思いッきり浴びせて虐めるのです。新コ辛抱しろ、あいつは八ツ当りなんだ、荒れる訳があいつある。そんな風なことをいって新コを慰めるのは、石工の手許《てもと》へ、セメントと石灰と砂を練った物を配るトロ屋でした。新コが口惜しがって秀才さんの姿をみると、顔に血の気がいつものぼってくるのを知って、この若僧は今に何かやりそうだ、危ないと思ったからだそうです。今になると、あの秀才さんは失恋していたらしいと判ります。言葉その儘の記憶はなくなったが、トロ屋の松五郎と石搬びの人達との煙草休みのときの話が、そんな風でした。秀才さんの姓を忘れてはいないが、いつも忘れたいと新コは思っている。ひどい失恋は、ひどく落込ませるか登りあがらせるかの岐れ路だ、あの秀才さんは落込む方へ走っていたのでしょう、正直ッぽければ正直ッぽい程、極端ともう一ツの極端との外には、気がつかない性癖があるこの国の彼も一人なのです、可哀そうなくらい独善な“人間知らず”であったのでしょうから。  秀才さんは突然みたいに来なくなりました。新コは出来もしない仕返しを、あれこれと思案しないでもよくなりました。秀才さんの次に来た人がどんなだったか、憶えていません、当り前な人物だったのでしょう。 [#7字下げ]二  夜学に通う中に裁判所の給仕をしている、色の青い瘠せた長身の古井というのと、何のことからか口論して、勝負を決する気になって、先に帰ってゆく後をつけ、家へはいったのを見届け、暫くその辺をぶらついてから、呼び出しをかけたところ出てきたので、野毛の川の方へ連れ出すと、古井は真青な顔をして、やるならやれ僕は病身だから勝てないけれど、オオダソウショウで告発してやるといいました。新コはそう云われた途端に困った、オオダソウショウとは何のことか知らないのです。そのオオダ何とかとは何の事だと訊くと、勉強し給え、そうしたら判るといった。おいらは知らないが君はどうして知っていると訊くと、僕は弁護士になるのだもの、そのくらいの事は知っているといいました。新コはおない年ぐらいの古井が、むずかしい事を知っているのに感心して、君と喧嘩したくないと家へ帰った。だいぶ経ってから、新聞記事にある殴打創傷の告訴をなせりという文字に気がつき、古井がいったのはこれだ、字をみれば判るのだが、口でいわれたのでは判らなかったと思い出したのは、撒水夫をとッくにやめ、手に職をつける気であれこれと転々して、どれもモノにならずにいた頃でした。古井の家は以前の儘の宮川町というのにあったので、通りがかりに寄って、殴打創傷がわかったというつもりだったところ、おッかさんらしい人が出て、あの子なら死にましたといって泣きました。新コは悔みをいって帰りました。こんな事はだれにもある有りふれた事だろうが、ひょッとしてそうでもないようでしたら、新コは秀造じいさんの遺伝を、いくらか享けて継いでいるのか知れません。  時習学校というのは私立で、創始者は幕臣の人見という元|旗下《はたもと》だった、新コが暫くの間だが教わった先生は、二代目か三代目かに当る、勿論そんなことを当時の新コは知りませんでした。徳川幕府が倒れて人見なにがしは、反抗の戦いに働き、敗れて降って獄に入り、赦されて官途に就き、退身してから後、育英に晩年を捧げる為め、北方《きたかた》という町に学校を開いたのが、時習学校のそもそもだという。『横浜市史稿』の教育篇をこのごろ見たが、明治十八年の私立学校の表の中に、時習学舎人見徹と一行あるだけです。学校と新コ達はいっていたが、正しくは時習学舎だったとみえます。人見徹とは新コが教わった先生の先代だろうが、新コにはその前にもう一ツ先代があるような気がするのです。  新コはたいして幕末物を読んでいないが、記憶を去らない幾つかの逸話の中に、人見勝太郎という旗下のことがある。明治になってから人見寧(勝太郎)が品川弥二郎を訪ねたところ、弥二郎は閑談のうちに、拙者は足下にとりて必要となるべき物品を所持なせり、併し価は貴《たか》けれど買請けらるるや如何にといい出した、人見は不審ながら、必要とあるからは何程高価にてもお譲りを請けんと答えると、弥二郎は血に染みた一旒の大隊旗を持ち出した、その旗には人見の自筆で、「百籌運尽キテ今日到ル・好《ヨ》シ五陵廓下ノ苔ト作《ナ》レ」(百籌運尽到今日・好作五陵廓下苔)と書いてある。弥二郎は売るといいしは全く戯れなり、明治二年五月十三日箱館一本木の関攻撃のとき、門の脇に血に漂う大隊旗あり、下馬して取りあげみればこの旗なり、駿河甲斐の戦いに雄名を轟かせし人見勝太郎、今日の戦いに敗れて竟《つい》に死せしか、敵ながら惜むべき事なりと、涙ながらに持ち帰り、家に蔵して今に到れり、好日なるかな足下にこの旗を贈り還らしむる今日を得たるは、と喜んだというのです。新コはこの話が好きだ、それで時習学校の創設者に、人見寧を結びつけたがる夢をもつのかも知れません。  新コは夜学通いのころ、先生不在の時に話を聞かせ面白がらせたそうです、新コの記憶にないことだが、たびたび聴いたという夜学仲間ただ一人だけに、三十余年もの後に邂逅《めぐりあ》って聞かされ、ああそうかと思いました。その旧友は王子の米屋さん田中蔵之助といって、昔は輸出陶器店の小僧さんでした。田中旧友も新コが何を話したか忘れたといっていた。当時の新コは芝居を何度か、蔦座の楽屋番熊の手引で見せて貰っていたが、落語講談は知らなかった、そうだとすると『茨木阿滝|紛《みだれの》白糸』などから取って、霜夜の月の影冴ゆる利根川|縁《べり》、二十歳《はたち》そこそこの一人の女、そのうしろから駆けてきた若者が、そこへ行くのはお滝じゃないか、そういうお前は豊さんか、と、こんな風なことをやったのではないかと思います、違っていても大同小異、円朝の速記本の『業平文治』のウロ憶えか、『西遊記』の孫悟空の話かだったでしょう、それとも現場で聞き噛《かじ》った、大建築や大土木に絡まる怪談だったかも知れません、もしそうだったら忘れ失なって、それら怪談の一ツも憶えていません、そうでなかったら原稿のタネにするものを。  この夜学でも新コに優る少年が幾人もいた、劣る少年もいた、優るものは新コを嫌った、同様か又は劣るものは新コを好いた。鎌畑という年上の優れたものは殊に新コを嫌っていたようだが、新コはそれを気にしなかった。何のことからか、だれに頼まれたのか忘れたが、鎌畑はどこかの書生なので夜学から帰ってからも使いに出る、それを叩きのめすのだからと頼まれて承知し、新コは夜更けの野毛の通りに、三人ばかりと待伏せしたことがあります、鎌畑が通らなかったのでしょう、何ごともなく済み、その後も何の事もなかった。だが、夜更に人通りのない処で、喧嘩の手配を付けて待っているのが、新コをいい気持にしてしまい、その晩の街の光景と、手配に付いて動く仲間の黒い姿とを、今でも忘れていません。こんなことを現場小僧は、周囲の有象無象のさまざまから、いつかしら感化されてしまっていたのです。  新コは博文館本の漢文読本の三の巻か何かに、『近古史談』からイキナリ飛んで教わろうとすると、先生は暫く黙っていましたが、教え始めてくれました。『近古史談』よりもこの方がずッと難かしかった。その本で頼山陽の『耶馬渓図巻記』や、諸葛亮の『出師表』や李密の『陳情表』を読んだ、これを読んで泣かざるはその人忠ならずと『出師表』のところで先生にいわれ、『陳情表』のところでは、これを読んで泣かざるはその人・人ならずといわれた、これだけは、身の置きどころがどう変化しても忘れなかった、本文の方はやがて変りゆく身の置きどころにつれて、一時は可成り暗誦していたものを、千切れ千切れの記憶となり、遂に忘れてしまいました。人はいいます、年少のとき暗誦したものは年を経ても忘れないと、そうかも知れないが新コにそれがないのは、脈絡の順を追って進まなかったのと、突飛にモノを教わった為めでしょう、そうして学など要らねえ世界へじき行ったからでありましょう。  夜学通いのものの中に、年上で少年|放《ばな》れがしていて、ちょッと吃るビラの画工がいました、新コはその若い画工がかいた絵ビラを、街の到るところで永い間みました、その線や色を今でも眼の中に浮べられる程だが、うまいなぞと思ったことはない、であるのに、今、東京の街で見掛ける絵ビラばかりでなく、地方の都会の絵ビラをみても、ちょッと吃ったあのビラ画師ぐらい旨いのを見ません。ビラ絵はビラ絵の頂点をもっている筈だから行くのがいい、あのビラ画師は頂点へゆこうとした、だから旨かったのだと気がつきました。確かその画工のサインはビラ藤とあったように思う。  そのころの新コは雨が降ると休みました、朝から休めるのは石工さんだけで、トロ屋や石工手伝いや新コは、現場小屋に行って、石工頭から引揚げていいといわれるまで詰めていました。大抵それは正午の前か後です。新コは月縛りの給金だが、外の人達は日給です、正午前に引揚げろとなれば半手間《はんでま》、午後にはいってからだと一|人《にん》手間になったのでした、その為め手間賃に関係のない新コも小屋に詰めて手を揃えた、待機です。これを“職のつきあい”というと教わった。雨の午後はだから新コは蔦座その外の芝居小屋の前へゆき、絵看板を永い時間かけて見て歩きました。陸亭というサインのある画工のものが、ズバ抜けていると気がつき出してからは、興行が替わるたび、初日か初日前に働きの帰りに廻って見るようになりました、雨の日はその画工の家を探して知っていたので、行って窓の外から仕事を見物しました、冬の寒いときは窓が閉まっていて見物出来ない。画工になりたくなかったので、頼んで内へ入れて見せて貰うようなことはしませんでした。今の東京の劇場の絵看板のような縁に入れたのもありましたが、そのころの縁はもッと真鍮の飾り金具が綺羅びやかに付いていました。芝居小屋の正面の二階一杯に横続きにした絵看板もありました。陸亭という看板画工は鳥居派の画もかいたが、そうでない方がうまかった、明智左馬介の湖水渡りの画は鳥居派でなく、画面から人馬だけが浮き出していて、新コをあッといわせた。この人の看板絵が、幾つかの芝居小屋に掲げられるのが新コにとって絵の展覧会でした。陸亭の絵看板がハタとなくなってからは、新コを愉ませる看板絵が永久になくなりました。山の井陸亭とかいったその画工は、何かしらいつも看板絵に新奇なモノを持込んでいた、画風は今になってみると、月岡芳年の門人かと思うような処がありました。新コは絵を、銭を払わずにもう一ツ愉しむことが出来た、絵双紙屋の店頭です。伊勢佐木町通りに二軒、吉田町にも野毛にも弁天通りにも一軒ずつありました、本屋と兼ねている処には錦画が多く、おもちゃ屋と兼ねている処では石版画と一緒でした。新コは木版色刷りを好み、石版色刷りを好まなかったが、習古という人のだけは石版画でも好きだった。野毛の佐野屋というのが、間口も広いし、張り渡した紐に竹挟みでとめた錦画の三枚続き・縦二枚続き・一枚物と、三段ぐらいに数多く、月耕・芳年・周延の物や、国周の役者絵などがあり、組立画や何々尽しの一枚画などと、華やかでした。新コは買えなかったが見にゆくことは熱心で、野毛を振出しに弁天通りから伊勢佐木町へ廻り、引返して吉田町へ出て、野毛に戻って佐野屋の前に又立って見物です。これも新コには街にある常備の絵の展覧会で、そこには技術ばかりでなく、芸術があったのだったのです。  新コは撒水夫をやめてから、入船町の埋立地測量の手伝い人夫を暫くやりました。相棒は何の商売か旦那でくらして来た人が倒産し、古くはなっているが物がいいとかいう着物で、尻|括《から》げをして出勤してくる、若くない人でした。旦那は旦那の場所にいないと、半人足にも劣るということを、話をすれば何でも知っているこの落ぶれ旦那で、新コは気がつきました。 [#7字下げ]三  測量の手伝いが終ると、形ちだけ手伝い人夫らしくなっていた落ぶれ旦那と別れ、久しい間いた船渠界隈を新コは去ることになった、こういうとき新コには感傷が出てくる、涙などは出てこないが、哀れとも愁いともつかないものが、靄《もや》のように躰一杯に籠るのです。  そのころ墓場の吉五郎という、後に新コが短篇小説に書いた老土工は死んでいた。吉五郎|嬶《かか》と呼ばれていた小母さんも、何処へ行ったか判らなくなっていた。船渠築造請負の九州土木組の人達も、故郷へ去ったのか、次の現場を他国に捉えて移って行ったのか、古い馴染ながら好きでない髭の洋服連中も立派だった人達も、現場ズレのした関東のものも、そうでない人達も、丸屋・梅原・六間堀・三谷《みや》・今村と流派がはッきりしている土木の親分や、一本立ちの親分手合いまで残らず、新コの眼の前からなくなりました、その中の多くは、或は一部のものは、隣りの第一号船渠の工事に行ったのでしょう。一号船渠は入札で関東の請負師が落してとりました。  呉の水野甚次郎という、新コのような者にさえ傑物にみえた人とは、このとき別れたのかその前か憶えがない。『道光』というその人の伝記でみると、明治二十八年一月二号船渠の潮留工事下請負で、呉から関東へ進出し、翌年十一月川崎造船所の潮留工事を請負い、水野組と初めて名乗りをあげたとなっています、そうすると新コは十二歳から十三歳までの間、激しい現場の中を、着物に角帯で押通す水野甚次郎なる人物をみたことになる。伝記に拠ると三十七歳から三十八歳にあたるから、新コとの年齢のひらきは大きかった。そうした大人と子供が何のときだったか、多分、新コが図面を写しに九州組から船渠会社に向けられ、何日間かに写しはしたが落第したことがある、その時かも知れません、新コさん人になれ立派な人にというような事をいってくれました。小生意気な新コは、エラクなったらお目にかかる、エラクならなかったら行きあっても逃げる、こんな風なことをいった。これは新コがそのころ、真剣になると必ず出てくる言葉だったのです。  話が後日談になりますが、昭和九年の秋、名古屋で新コの芝居の本が歌舞伎座と御園座に上演されていたので、飛騨へゆく途中二ツの芝居を見に立寄り、歌舞伎座の方をみているとき、幕合いに知らぬ人が仮《かり》花道へ立って両手を広げ、諸君に諮る、今あの正面桟敷に只今の劇の作者がみえている、諸君と共にお話を伺いたいと思うが如何、とやったものです。喝采がすばらしく起ったので、テレること夥しいが、新コは起《た》って挨拶を述べて、有難う/\と八方から礼をいわれ喝采された。それから足掛け三年の春、京都と名古屋の友達が費用と労力とをつかって、或る人の為めに盛んな会を催してくれたので、新コと友達とが、その会の主人公と一緒に、東京から出掛けて行き、賑かな控室で笑いさざめいているとき、辻寛一市議(今は自由党の代議士)が一人物をつれて来ました、歌舞伎座で観客に動議を出した人です。その人が又一人物をつれて来て紹介した、今度の人は水野組の名古屋支店長で、水野甚次郎があなたにお目にかかる機会を得たいと申して居りますのでという話でした。新コは新聞で曽てみて知っていたので、先代はお亡くなりでしょう、当代の水野さんは存じあげて居りませんがというと、当代の水野はあなたにお目にかかったことはございませんが、たびたび支店の私達までにも、あなたの事を聞かせて居りますというのです。新コは明治二十九年ごろ別れて以来、エラクなったら会いにゆこうと心には期していたが、新聞記者になり、作家生活にはいり、どうやら日の眼をみるようにはなったが、まだまだ会いにゆく程にはならない、もうちッと何とかなったらと思ううち、あの人は昭和三年末に亡くなってしまった、その後、一度は墓参がしたい、新コはこうなりましたと見て貰いたい、だが、それには顧みて忸怩たるものがあった。新コはそのころ売出し時代で、芝居の上演数も映画化の原作の数も、半期計算のたびにだれより多いのが続いたが、活字の批評は至って辛辣で、その中でも、教える学識を貰い受けているだろう上に、知名席の椅子に就いていながら、昔の新コが口にした悪態その儘を、ドロ臭くつかって盛んに攻めるものが多かった。世間の支持はその逆で、街を歩いても身ぢかにそれが判る程だったが、新コはそれだからとて、それは潮がくれば消す干潟に記した名声でしかないと知っていたので、傑物だった故人の墓前にはまだまだ起てる処まで行っていないと心得てはいたが、呉の水野ともいわれる人が、それ程に礼を尽してくれるのだからと、喜んで、いつでもお目にかかりに出ますと返辞した。  それから水野甚次郎呉市長がわざわざ訪ねて来てくれたこと再三。新コは広東・台湾などへ渡りなどして、遅れて昭和十四年の春、呉にいって水野先考の墓参をし、やッとこさで新コはここまで来ましたと告げました。新コより年上で、新コより遥かに大きく世の中に貢献している当主の水野さんは、おやじは昔、勉学中の私に、横浜のドックにいる新コという小僧はすぐれていると、あなたのことを引用してたびたび戒めたと語りもしたし、呉市の日刊紙が水野市長から取材したのでしょう、新コのことを先代が、張りのある才能の豊かな恐しく変った少年がいたといったという記事もみました。だが、新コとは昔そんな奴だったのかと、まことに意外なる人のみる眼が新コには不審でなりません。 [#改ページ] [#1字下げ]遊女[#「遊女」は中見出し] [#7字下げ]一  新コの父は、下請負人のその下請負人で、所帯をもつ処までどうやら漕ぎつけましたが、小さな蹉跌があっても所帯がぐらつく、それが二ツぐらいあったので夜学の月謝が出せなくなりました。月謝は最初だけ前払いをして、その次からは後払いでしたが、何ヶ月目かに滞納を一ヶ月やり、幾日かそれでも通いましたが、家の中の様子がそれどころでないので、時習学校の路地をそれからは二度とはいりませんでした。新コは働き人《にん》なのですから、先生という渡世をする働き人に、勘定を引ッかけるなら、少ないうちがいいと思ったからです。  夜学通いをしているとき、仲好くした友達が幾人かできた筈ですが、前にいった王子の米屋さんで、手堅く世の中を渡っていた人に再会しただけでした。夜学でなく昼学へ通っている女生徒のうちに、斎藤調三郎という花咲町近くにいる、芝居の衣裳屋で興行師の娘があって、女中に送り迎えされ、綺麗な着物をとり換え引きかえ着てくる、という噂を、夜学の少年達がよくしていましたが、新コはその娘をみたことがないし、見たいとも思いませんでした。新コのように幼いときに横浜の銘酒屋の女達と口をきき、それから品川の妓夫や二階廻し(鴇母・やりて)や仲どんやの中に寝起きし、神奈川の神風楼の女達を知ってきたものには、娘の美しさは路傍の草の花か塀越しの枝の花か、そんなものの程度にしか思えませんでした、その為めでしょう新コは一代を通じて、堅気の家の娘と恋愛をやったことが一度もない、これを新コの潔癖だとみる人もあろうし、人生のかたわとみる人もあろう、弱ッ気の致すところとする人もあろうし、偏執の一種だとする人もあろう、だが、新コは撒水夫のころに始まって、働き人であった頃まで、それらと同様な言葉を、又はそれよりも無雑作な言葉で、おなじ意味のことを繰り返しのようにして、それぞれ違った年上の連中からいわれたが、そういうとき新コは黙っていた、微笑することぐらいはあったでしょうが。今になって永い過去のどこを叩いてみても、処女を奪って逃げたことがないので、新コはひそかにそれを喜んでいます、その代り処女を許したものとの間に破綻をみた悲恋というものがない。  斎藤の娘は色が白くて眼がでかいと聞いていた、それを憶えているのは、夜学通いの仲間が先生のいないとき、校舎の隅に置いてあったその娘の、花の模様の厚綿《あつわた》の座蒲団をもち出したのをみた、その為めかも知れません。座蒲団は友仙縮緬か友仙メレンスか、そのころの新コには鑑別ができませんでしたが、足袋屋の倅の平さんというのが、メレンスだといったのと、前いったビラ絵の画工がそのとき、細い顔をプイと横に向けた否定の科《しぐさ》だけが、記憶に残っています。  それからどのくらいしてだか、それともその頃だったか、伊勢佐木町に大火事があり、蔦座という芝居小屋も焼失し、秀造じいさんの元は子分だった楽屋番の熊夫婦が焼け死んだ、『横浜開港五十年史』などでみると、明治三十二年八月十二日の十時間燃えたという火災がそれらしい、すると新コは働き人に出る前の十六歳です。熊は落ぶれ小僧の新コに、芝居をタダで見る手引きをしてくれた男です。蔦座では熊夫婦の外にも焼け死んだものがあった。眼がでかいと噂に聞く娘の父斎藤は蔦座の持主でした、この人も焼け死んだ。蔦座は再建されず、斎藤と朱でかいた衣裳の梱《こり》をはこぶ荷車にも、それ以来行きあいませんでした。眼のでかい娘は後に山口定子と名乗って女優になった人で、実父は壮士芝居といった頃からの新派の役者で、山口定雄といいました。大正のいつ頃だったか、山口定雄の門下から出た河合武雄が、亡くなった師の娘が失意にあるらしいが、居どころが判らないのですがと、劇評家の伊原青々園が相談をうけ、伊原さんが新コに又頼みをした。引受けた新コは、河合が託した封筒入りの金をもって探し歩き、下谷竜泉寺の裏街で探し当て、頼まれた金のはいった袋を渡し受取り書をもらい、あたしはガキの時分、あんたも通っていたハマの時習学校へいっていました、あんたは昼、あたしは夜だったといったところ、山口定子は新コの顔を見詰めて、思い出せませんといった。それはそうだ、昼と夜との違いがある上に、わずかな間のことなのだから、思い出したといったら嘘をついてバツを合わせたことになります。その日の夜汽車で旅興行に発つとかで、ごたごたと男と女とがいる中で、山口定子は一人の男とこそこそ何かいっていたが、その男がこしらえた五円|紙幣《さつ》らしいのを一枚入れた祝儀袋を、新コに出した。そいつを貰うと、会ったことはなくても、わずかとは云え時を一ツにした学校朋輩の誼《よし》みがフイ(空)になるので、受取らなかった。これを体裁でする辞儀《じぎ》だと思ったのか、何度もうるさくいうので、新コは昔つかった口調の切り口上で、山口さん、あたしはガキのとき一ツ棟の下で、昼と夜と違っても、人見先生に字を教わった誼み一ツで来たンですぜ、といった風なことをいうと、往年の斎藤の娘はでかい眼に涙をうかベ、暫く黙っていたその顔つきを、可成り薄れてしまったが憶えている。それッきりで山口定子一座という芝居をすらみたことがない。死んだと聞いたときは新コに銭がなく、香奠どころか会葬もしませんでした。 [#7字下げ]二  夜学通いが出来なくなってから、夜な夜な街を遊び廻るうち、夜学朋輩と併せて幾人かの友達ができました。足袋屋の平さん、花売りの健ちゃん、米屋の清兵衛、何屋の倅だったか剽軽なクウチン、魚屋の倅で気が弱くて向うイキの強い五郎、八百屋の福と、これだけが思い出せる、その中で八百屋の福だけが、アメリカに渡って何年の後にか、アメリカの軍艦に乗り、下士官になって退艦し、コックを職に永らくアメリカに住み、一度日本に帰って再びアメリカに行き、再び日本に帰ってきたときは年とっていた。この人に大正ごろに一度、多分、最初の日本帰りのときだろう、どこだったかの調理場の隅で会ったことがあります、その後、大戦中に訪ねて来てくれたので会いました。それだけでその外の人の多くは世にないようです。昔帰りしとき相識|少《まれ》なりと唐の詩人杜甫が、安禄山の乱の後、故園|今如何《いまいかん》という承句につづけていっている、それは戦いが乱離させるときの事。新コは或る年、くらし[#「くらし」に傍点]の安定を些か得てきたので、野毛を訪れたことがありますが、相見て識るものが絶えていた、それは惨鼻な大戦の起る前、世は豊かな余りに禍因をつくりつつあるころのことです。  それらを約《つづ》めていえば、新コは幼少年からの親友を遂にもたなかったという事です、有《も》たないのでなく有てないのでしたろう、根強くどこかしらに孤独癖が潜んでいたからだろうか、好かれ難いものが何かあったからだろうか。自分を識るものは自分以上のものがないと同様に、自分を識らないことにかけても自分以上のものはない、だから親友をもたなかったことは何故か新コには判らない。新コは青春のころにも、仲間はいくらももっていたのに、親友をもっていなかった。  いつ頃だったか新コは、夜学の月謝が払えるようになって来たので、花咲町にある自牧学校に通いはじめたが、幾何《いくら》もたたないうちに月謝が払えなくなるのが判ってやめた、今度は月謝の未払いをやりませんでした。ここでの知合いは須田という金融業者の倅だけを憶えていた、後年、往来で声をかけられて思い出したからです。その人は、あなたと夜学で一緒だったものに新派の女形がいますといった。橘小百合といい、後に河合武雄の門下になり橘緑波といい、役者を罷めてから清元の師匠をしていたとか聞く。この女形は胯にふぐり[#「ふぐり」に傍点]をもって生れたのを悔んでいたとやら、人の噂で知っていたし、一時は仲間だったデコ弁と、男と女との或る状態だったとやらも聞き知っていました。その外の夜学朋輩にでも、親友どころか、永つづきした知合いも出来ませんでした。  船渠の現場で新コを知っていて、その当時、あれは俺の子にするといっていた石工で顔の利く海老虎さんは、新コを養子にすることを断念していなかったそうで、父に交渉をそれとなくやって居たが、父は新コに望みをかけ、土木の世界で一本立ちの者にしたいので承知しなかった。そんな事で一年たち二年たったのでしょう、新コは或る日、父から遊廓の何楼だか名を忘れた、五十鈴楼かも知れません、そこに海老虎さんがいるからこれを持って行けと云われ、その何楼とかいった遊女屋へゆきました。本番の妓夫がまだ残っていましたから朝のうちだったのでしょう。新コが呼び金をもって来たというと、妓夫は心得ていて、仲どんを呼んで二階へ知らせ、おあがンなさいと云った。幼いとき知った品川へ先頃行き、台屋の出前持を暫くやってきた後だけに、新コはこういう処で遊んだことはないが、知らない世界ではないので、“お座敷通り”という面会者扱いだとすぐ合点がゆき、仲どんについて二階へゆくと、こちらでと仲どんは新コにいって、障子越しに、何々|花魁《おいらん》お座敷通りですと断わって障子をあけました。そこは突ッつきの小間《こま》で、箪笥・用箪笥やら長火鉢やらがあり、押入に萌葱《もえぎ》唐草のゆたん[#「ゆたん」に傍点]が見えていました、これも新コの知っている、どこも大抵おなじ物の本部屋です。間の襖を向う側から遊女があけると、新コの眼には珍らしくもない派手な夜具の上に、海老虎が起きあがっていて、新コさん何でもおごるから遊んでゆきなという。海老虎の相手の女が、小間へさがって身づくろい[#「づくろい」に傍点]をしているうちに、二人ばかり遊女がはいって来て近くへ座り、何の彼のと機嫌をとってくれたが、新コは忘れるともなく忘れていたが、女達の躰にかかっている年期だの、証文面に加算されているだけでしかない不見金《みずきん》だの、新玉《しんたま》だの初見世だの、台の物一枚に酒一本のことをいう一枚一本だのと、そんな事が思い出されて、こういう処に居るのが厭でなりませんが、海老虎はじめ女達が、何がいいかと食い物飲み物の好みを口数多く尋ねてくれるので、それじゃあ花魁衆すみませんがアマ台を一枚通してくださいといったのが、一座を惘《あき》れさせたようです。  そうかも知れません、海老虎や始めての女達に、子供あがりの奴がアマ台一枚などというのは、そうザラにある事でもないでしょう、それに花魁衆といったのが、海老虎よりも女達にはあッという程の意外さだったのでしょう。  新コは二度目の品川で、陣屋横丁にあった魚角という台屋で、暫く出前持をしていましたから、釜飯といって二人前の小釜で焚く、油揚入りの信田飯、蛤あさりの深川飯、鶏肉入りの一番飯などは焚けました。出前は多く遊女屋で、素人屋へも行きました。魚角の亭主はいなせ[#「いなせ」に傍点]な料理人で、かみさんは母親のように年上で、叱言は一切その口から矢次早に八方へ飛んだ、どうやらこの人が一家の権利を押えているようでした。年古りた後新コは、陣屋横丁を訪ねましたが、おなじ名の仕出し屋はあったが、何度か代が変り、魚角の角が覚に変っていました。錯覚ではないと思うが。  出前持をしているときに、今もあるかどうか知らないが、沢岡楼という遊女屋に越後生れの遊女がいて、本名は確かおたか[#「たか」に傍点]さん、源氏名は忘れた。この人が新コに身の上を聞き、その若さでこんな処にいて末はどうなると意見され、銭と菓子とを貰いました。これが新コが後に作った『取り的五兵衛』という芝居の本の序幕になっています。酌取り女と取り的とが、二階越しのセリフのやり取りの中に、取り的さん、おッかさんの夢をみるかい、と女がいうのも、あたしの母親はいるけれど、どうせいい日を送っているのではないというのも、そのときおたか[#「たか」に傍点]さんがいったのを思い出してつかったのでした。実は出前持なのを取り的に振り換えたのも、ほンのわずかながら拠りどころがあります。新コが窮迫したときのこと、食う道が欲しいばかりで、丸々と肥った稲川政右衛門という力士に、かすかな縁をたよりに弟子入りにゆき、その躰ではモノにならない帰れといわれ、躰も見ずにモノにならないと判るのですかと、食ってかかったのが疳にさわったのでしょう、何の為めの青竹だか六七尺の長さのを手にとり、地を叩いて新コを追い廻したことがある、そのとき脇で、紺|飛白《がすり》の単衣を引ッかけて見ていた長身の力士が、後に思い合わすと駒ケ嶽国力で、その外にも力士がいたが、新コの方だけで顔を知っている北山と水雷という小《こ》力士もいました、この二人は大砲《おおづつ》万右衛門の弟子で、大砲のおやじ格の人を新コはわずかに知っていた、それを力に稲川に直談判にいったのでした。力士にならねばならない新コでなく、そうでもしたら飯にありつけると思ったのですから、追い飛ばされる筈でした。おたか[#「たか」に傍点]さんを酌取り女にし、越後生れを越中生れとし、おけさ甚句を小原節に変えたのと同様に、それを由縁《ゆかり》に新コのことも、出前持を取り的に変えたのでした。後年になっておたか[#「たか」に傍点]さんの行方を探したが遂に知れず、礼の一ト言もいわず終いなので、せめて芝居の方ではと、少しはタネのあることを脚色して大詰を作ったのです。他人には何でもないことだが、芝居では新コを、一所不住のしがない[#「しがない」に傍点]者にしたのは、大請負師にならず終いの新コの、自分だけに判る寓意です。事のついでにいってしまいますが、力士はダメとなると、落語家の弟子になろうとして、富松亭という寄席の楽屋に三遊亭円左といって、渋いうまい芸人といわれ、綽名を狸といわれていた人を尋ね、頼みこんだが、くしゃくしゃの眼でじッと見詰め、ねちねちと意見されて引下がった、ここでも芸人になりたいのではない食い稼ぎ探しだと観破られたのです。その次は伯鯉とかいっていた講釈師のところで船指《ふなさし》という渡世の清さんを後見役に、弟子入り依頼にいったのが雨の降る冬に近い冷たい秋だった。清さんは木綿立縞の袷、これは忘れていない、新コはそれッきりない筒袖の木綿縞だったろうと思う。ところが伯鯉とかいう長い顔の講釈師は、鼠色かと思うばかりの白地の単衣を着て寒がっている姿を、楽屋の脇でみた新コは、やめると清さんに云って引下がりました、清さんもそれがいいとすぐ同意した。後にその長い顔の面白い読み口の講釈師は、小金井芦洲(先ごろ亡くなった芦洲の前の)といい、秋元格之助と本名でも高座に出た、釈界の大立物と同一人だと新コは思っています。  話は逸《そ》れた。新コはアマ台一枚が座敷へ出ないうちに帰りました。女達は新コに何彼と聞けば聞くほど、里心がついて味気《あじき》なくなるのでしょう、沈んだ話になるばかり、といって、そのときの話の一々は忘れてしまいましたが。海老虎は何とそのとき新コをみたのか、その後は、養子にくれといわなくなりました。  このことが前いった食い稼ぎ探しのときだったら、喜んで養子に行ったでしょう、そうだったら新コは今ごろ石屋の親方になっている、それともヒラで叩いたり昆沙門叩きをやって、一人前に、石細工に日を送っているのかも知れません。 [#7字下げ]三  父が下請負人らしくなるまでの間に、新コは働く口をいろいろ変えました、脚が太く、ふくらはぎに昔の人力車夫とおなじような筋が、何疋もの蚯蚓《みみず》のように出ているのは、その当時から尾をひいたモノだろうと思います、その代り腰は据わっています。今はひどい非力ですが、年少のころから人並みに力があったし、勾配も早かった、コヤ(躰の進退)も軽かったから、小棒一本もっこ[#「もっこ」に傍点]一枚の称えて一枚一本といった土工のワザも、コンクリート練りの角シャベルを使う切返しでも、人並み以下ということはなかった。現場小僧のとき、いたずら半分にやったこともあるので、ズブの素人より速く一人前になったのでしょう。土工より鳶人足の方がいいので、それにもなった、足代《あしば》の上で脚を鉋丁掛《ちょうなが》けにして、杉丸太をウラ(先)からモト(末)へ手繰り、腕溜《うでだ》めにして水平にすることも、腰にさげた夥しい切り縄で、丸太と丸太とを結ぶことも、先ずどうやら出来た、それも現場小僧だったからでしょう、だが、年期が本式にはいっていないので、実際は未熟なもので大工でいえば「手切り摩羅出し釘こぼし」の程度だったに違いない。修行がないのと筋合いが違うので、新コは本物の鳶の者には縁のない、土手組の配下でした。  そんな事をしている間は、勉学の心がときどき起りはするが永続きしません。仲間の誘いはあったが煙草も酒もやらず、それでもボツボツ本を読んではいたが、勉強ではなく娯楽に偏寄《かたよ》った、『里見八犬伝』や高井蘭山訳の『水滸伝』などは、この頃に読んだのでした。  酒花松夫という芸名の三十前らしい役者と、何がキッカケでそうなったのか、親しくなりました。これが舞台では中年増や娘をやるちょッとした役者だったのに、巾着切でした。ということは知らず、新コは誘われる儘に、一緒に二十町三十町もの先の縁日や祭によく行ったものです。何度一緒にいった頃あたりか、新コの袂の中に蟇口がはいっているのに、振って歩く自分の手先が触って、初めは何だろうと手を入れてみて、それと知りました。中味はいくらあるか判らないが、空ッぽでないのは手触りで知れるので、忙《あわ》てた奴が自分の袂のつもりで、俺の袂へ入れやがったと思いました、それなら俺の物になったのだと、勝手に決めてはみたが、自分の物でないのは確かなので、心のうちの横と縦とが噛みあいしている間、入れッ放しにして置いたところ、いつの間にかなくなりました。そのことを酒花に話すと、新コさんそれはスリが危くなったので、新コさんの袂を借りて助かったんだよという事でした。成程そうかと思い酒花をスリとは気がつきません。だが、酒花と縁日や盛り場へゆくと、いつの間にか又はいって居る、それがいつの間にかなくなります。新コもさすがにあいつは巾着切だと気がついたが、酒花はいい処のある奴だったので、当人もいわず新コもいわず、暗黙のうちに知っていて知らないという事に、自ずからのようになりました。意気だけは培われて育っていても、良識が育っていない新コだったらしい。  或るとき羽衣座だったか勇座だったか、夜でしたが新コは、一幕見へはいりました。そのころ幕見は一幕の半ば以上がすむと、立見番が番台に座っていて、後幕まかった/\といったものです、そう云わなくても、細長い木戸札に一本ずつ、和紙を切って印を捺し、上の方を紅や藍に染めてしごい[#「しごい」に傍点]た後札《あとふだ》が添えてあるので、通りがかりに見ただけで判ります。そのときは後札がついていたからおまけ[#「おまけ」に傍点]の幕をみて次の幕をみていると、いつの間にか酒花が来ていて、新コの傍へきたが前の人の背が高くて見えないといって、別のところへ行った。そのうちに立見客の間でコソコソ騒ぎが起り、スリだ/\という声が聞こえました、新コはそれを聞くと袂へそッと手をやってみた、蟇口がはいっています、新コが気がつかないうちに酒花が来て、入れて行ったに違いない。こういう事に慣れているのでしょう、幕見の掛りが出口に網を張って立番をやり、巡査を呼びに人が出てゆきました。新コの袂には蟇口が消えてなくならずにまだある。どきッと胸がしたがグ(賍物)を棄てて逃がれることに気がつかず、警察署へつれて行かれたところでスリをしたのでないから俺はスリではないぞと、冷汗をひそかに掻きながら自分では怖れていないと、度胸を据えた気でいました。酒花はどこへ行ったか姿がみえません、あいつが居ない限り袂の蟇口はなくならないから、署へ引ッぱられるに極わまったと思うと、膝が一度か二度、がくンといったような気がした。  被害者は一人で、外の見物はそうでないので、めいめいが懐中物や時計に、自分の手をかけて用心したのでしょう、静かになって芝居を見ています。新コも芝居を見ているのだが、何が何だか判らなかったに違いない、ここの処の記憶は欠けている、怖かったからでしょう。やがて巡査が来ました。いよいよの時がきたと新コが思ったとき、だれかが脇腹へ軽く肘だか手の指だか触れた、見ると三十ぐらいの酒花よりもッと好い男で、商館番頭みたいな、絹物ぞっき[#「ぞっき」に傍点]で角帯という服装をしているのが、芝居を一心にみて居ました。新コの袂の中の蟇口は消えうせていました。ほッとした、助かりましたもの。  それからどのくらい日が経ってからだったか、酒花が何処かへ立去る日に、あのとき新コさんの隣りにいた男は、神戸から来たばかりのスリだったと聞かされました、新コさんは知らないであたしのダチ(吸いとりのことで、友達のダチを隠語に使った)に使われていたのだから、災難を着せては寝覚めが悪い、折よく来ていたくノ一[#「くノ一」に傍点]さんが、あたしが手の指で二ツばかりした合図を受けてくれて、新コさんの袂の中から吸ってくれた、という意味のことも聞かせました。  それからくノ一[#「くノ一」に傍点]とも知合いになったが、女に生れた方がよかったような顔立ちなので、女という字をバラすと、く[#「く」に傍点]とノ[#「ノ」に傍点]と一[#「一」に傍点]になるので巾着切の隠語で女となる。それが綽名のこの男は、始めからスリだと、明かに新コに正体を割って聞かせたくらいですから、素人の新コを、ダチに使うようなことはしませんでした。新コが作った『巾着切の家』という芝居の主人公はこの男で、それに登場する隣りの声色屋は新コのこと、あれは殆ど有ったことと大同小異なのです。新コが初期に書いた巾着切物は、くノ一[#「くノ一」に傍点]から取材したものばかりです。  くノ一[#「くノ一」に傍点]の後のことは知りませんが、酒花を大正の大震災の半年ぐらい前、浅草の花屋敷の中の興行物の舞台で、見掛けましたが、その後、見掛けもせず、役者としても噂にも聞きません。どこかでどうにかなって終ったのでしょう。  話し残したが、立見場のスリ被害の蟇口は、とられた人に戻ったかどうかを知りません。酒花の話では、あのときくノ一[#「くノ一」に傍点]は自雷也(蟇口)を前の方へ、足で辷らして置いたというのですが。  そのときの被害者は、立見客が、あれは来栖さんの息子で第百(銀行)にいっている人だといったので、船渠会社の現場小僧のとき、速くから何度も見掛けた来栖壮兵衛の倅だと新コは知った。そういえば似たところがあったようにも思うが、ドギマギしていた時なので、実は顔の方へ顔を向けたというだけかも知れません。来栖の息子といっても、外交官だった来栖三郎さんではありません、その弟かも知れません。 [#改ページ] [#1字下げ]居留地[#「居留地」は中見出し] [#7字下げ]一  父は二人の子に、渡すものを渡せるようになってから死にたいと思っていたようです、渡すものとは金とか家とか、形ちのある財物のことだったらしい。二人の子に学問なり技能なり、形ちのない財産を与えるのには貧窶の門の内深く追いこまれ過ぎていたので、今となってはどうにもならぬ手遅れと知っていたのでしょう。上の子は生糸店の小僧から一歩を進めていたが、多寡が知れた身の上です、下の子は泥ンこになって自分の飯代を稼いでいる、どちらもこの儘では、単なる使われ人《びと》で、将来は背の高い子供に成るかも知れない、それをそうさせない為めには、金とか家とかを用意したい、それと一ツには、子にとっては鏡である母を、子等に失わせた償いの心もあったのでしょう。父は会津その他で、たびたび山深くへはいり、西と北越の時化《しけ》の海とも闘かったが、それらは一向に酬いられるところなく、土木建築の下請負の下請人より外に、往くべき途がないと観念してからは、浮き沈みはあったが、官庁工事の小さいのなら、どうやら請負入札ができるところまで、肌に血を惨ませるように這い廻った末に辿り着きました。  父は秀造じいさん譲りなのでしょうか、小ッぽけな仕事を請負うと、職人で叩いていたものの中から、見込んだものを引ッ張ってきて仕事を渡しました、諸職悉くそうしたのではなく、既に親方である人達の中へ、一夜づくりのような親方を割込ませたのです。こうした人の中から、一二といわれる処までノシ上げたものが、二人やそこら出ました。  新コが作った芝居の本の中に『小諸《こもろ》徳次郎』というのがある、その主人公の男と女とは、父が親方の卵を孵えらせている頃、どこで見掛けてだか家へつれて来た徳ときぬ[#「きぬ」に傍点]という二人、それを素材の素材にしたものでした。芝居では渡り者の博徒ですが、モデルの一部の徳は土方でした、といっても半端土方で、きりッとした面構えの三十余りの男でした、聞けば以前はどこかで博徒だったのだそうです。孕み女をつれているので、聞かずとも女房とだれしも思っていたが、余程してから他人だと知れました。父はこの男を土工の親分に仕立てるつもりでいたが、或る日、出し抜けに父に暇乞いして、女をつれて出て行った、きぬ[#「きぬ」に傍点]のお産が二タ月ぐらい後だという頃です。徳はきぬ[#「きぬ」に傍点]をつれて、新コが行っている本町の普請|場《ば》で根切りをやっている、そこへ来て、暇乞いの挨拶をしてゆきました。男は腹掛け股引・紺半纏、女は着物の上へ縞の半纏を着て、端を前で結んでいた、二人とも脚絆に草鞋で、菅笠を手にしていました。きぬ[#「きぬ」に傍点]という女は十人並の顔かたちでしたが、別れる頃は、顔の色がだんだん悪くなって来ていた。父から聞いたところでは、徳はあの女を故郷へつれて行ってやったのだ、俺の推量では、あの女はお産で死ぬか自分で死ぬかどっちかしらだ、徳の世話になって流浪しているのを済まない済まないと思っているらしい、という事でした。どうして徳が他人の女をつれて歩いているのか、父は二人並べて置いて尋ねたそうだが、徳は元締さん、そいつはお聞きなさらねえでくださいといっただけ、口をとうとう割らず終いだったそうです。きぬ[#「きぬ」に傍点]はよく徳に尽していたと、これも父の話です。  新コは父の手代で、入札があればその官庁なり会社なりに行き、仕様書・仕訳書・契約書や図面を写しました。船渠で図面写しをやって落第したことがあっただけで、今度も、三角定規の大小三ツと雲形定規一ツ、烏口が一本、安物の取合せ絵の具筥の外は墨壺と筆二三本、紙はドウサ引きの雁皮と罫紙、それを渡されただけで、この時にも教えてくれた者はないが、曽て見たのをモトにして写しました。烏口だとて定規だとて、使ってみれば使い方がわかるし、写す気でなく自分で書く気でかかれば、矢ッ張り出来ます、だが、仕様書などには困惑した、新コの知らない文字が出てくるのは、こっちが知らないのだから当然で、胡麻化し字で写しこそすれ、驚きなどしませんが、何のことか訳を知らない文句に悩まされた。仕様書からみると、仕訳書は材料の列記だけだから悩まされることはないが、契約書となると文句のあらましが新コには判らない、こいつに一番悩まされました。  新コは二ヶ年とほンの少々の小学科で習字をやっただけ、二ツの夜学通いは読む一方で、外のことは何もやらなかった、その故ばかりでなく、天性の字下手《じべた》なので、父でないと判読ができません、その父の文字というのが、楷書だと確かな書きッぷりだが、当用の事はすべて、行と草との間の胡麻化し字ばかり書きました。新コも胡麻化し字を書くことが、仕様書などを写すうちに癖になって、父以上です。  ヒラ人《びと》で働いていた新コが、手代にはなったが、写してきた図面や書類で、見積りをすることが出来ません。釘に正五寸とか大五寸とか三寸とか、いろいろあるのは知っているが、樽では三寸釘が何本はいっていてカンカン(重量)がいくらで値がいくら、それを知りません。板割りの種類や四分板だの松六だの、大貫だ中貫《なかぬき》だ小割りだと、それは知っていても、物を知っているだけですから、浅野のセメントがいくらで、三重のとはヒラキがどのくらいあるのか勿論知らない、憶え込もうとしても、早急に憶えられるような手軽いものではない、そんなだから現場で指揮が本当にはできません、案山子《かかし》でしかない、それが身に耐《こた》えてくるので、現場がどうにも好きになれない。配下になってシテ方という働き人《びと》でいる方が余程楽でした。  それでいて新コは、土木建築の本を読まなかった、無い訳ではないのに気がつかなかった、忠告してくれるものがないだけでなく、だれに尋ねようともしませんので、現場の新コは工事から置去りをいつも食い勝です、そういう中でも読書はやめなかったが、その読書に目標が立ててない、目標を指示してくれる先輩も良友もない、そういう意味での孤独者の新コは、一隅から始めずに諸方から取りかかり、順次を飛越す反逆を承知していてやりましたが、系統を立ててやることを遂に心付かず終いだ。だが、それでも本を読んでいた利益はあった、煙草も酒もやらず、女にはもとより眼もくれずに居られた事です、もしその時分に酒と女とに行っていたら、新コの生涯はそこから、短かい方へひたひたと奔って行った事でしょう。  父にしてみれば、請負人の世界に新コを置けば、いつか馴らされて一人前になる、そう思っていたらしいのですが、新コの方では請負人の世界に打込めない、出端を叩かれて四ン這いになり、起ちあがったが追いつけない、そんな気がいつも霞のように躰の中にあるのです、殊に建築に関しては手も足も出ない、土木の方なら現場小僧以来のことですから、何とかやれそうですが。 [#7字下げ]二  日本小屋と西洋小屋と、小屋の組方の相違がわかったようで判らない新コは、上海本の『繍像水滸伝』の端本を元町の古道具屋で買ったのを、蘭山の和訳した『水滸伝』と照し合わせて読む、それには馬車道の古道具屋の夜店で買った桑野鋭の小型本『小説字林』を参照する、そんなひたむきな処があるのに、建築渡世の方にはそれが出てこない。窓枠の額縁のメンの取り方がどうのこうの、背板をここへ使ってはいけねえのと、いった処で付焼刃です。  治外法権の居留地に、建物の修繕などの仕事がちょいちょいあるので、新コは居留地通いを少しやって居るうちに、居留地の魅力にひきつけられ始めました。英一番のジャーデンマゼソン商会の赤門のある、大波止場を控えた海岸通りが、十八・十九・二十番ブッ通しのグランドホテルのある谷戸橋際で尽きる、それよりも仲通りの、五十番のコルンス商会と七十一番のストロン会社が向きあったあたりから、六十一番の楽器|店《みせ》と八十二番の食料品の店と、向きあった処あたりへかけてが好きでした、殊に遥々と渡ってきた諸外国の新聞雑誌書籍の店や、市中のそれとは面目も内容も違う薬店のあるあたりは、画でみる外国の街にも優っていると、新コは独断して好んだものです。それから谷戸川へ突き当る六十九番と八十八番あたりへかけては、日本建築ではみられない、洋風なるが故らしい或る侘しさがあって、そこも好きでした。その近くに南京街があるので、新コはときどき遠芳楼という、前田橋通りの料理店へゆきました。扉も何もない入口に勘定場が往来に向かってある、左にある階段へ足をかけるのに、出るとはいるの二人では入れ代れない狭さだが、木づくりの階段は足のはこびを楽にさせるように出来ています。入口の狭さとは出口の狭さだから食い逃げは絶対に押えられる、その代り階段へかかると足に楽をさせる、緩急を心得たつくり[#「つくり」に傍点]方です。二階の客席は上下の区別なく、紫檀の机と腰掛けが諸所に置かれ、李鴻章の書幅が壁にかけてありました。絵は一ツもなく有るのは書幅ばかりでした。細くなった弁髪を短くうしろに垂れた肥ったおやじが、悠然と大薬罐をさげて近づき、何食うかと尋ねながら、片手に持って来た蓋のついた茶碗を置き、蓋をとって熱湯をついでくれます、茶碗の中にはあちらの茶がはいっている、ラウメンと新コがいうと首肯いて向うへ去り、イイコラウメンと些か節をつけて発注してくれます、間もなくおやじは饅頭の皿と焼売とハーカーの皿とを置いてゆく、(新コは東京に広東や京蘇《きょうそ》の料理店が出来、又、雲呑《わんたん》・焼売とも馴染み深いものになったが、色の白い海月《くらげ》形の、中に小海老がはいっていたと憶えているハーカーにはお目にかからない)出した物は代価をとる日本流と違い、食べただけしか代価をとりません、日本流では残せば食い残した物で、出したときより下位の物となるが、ここでは必要だけ食うのだから、残り物ではなくて手付かずの物なのです。新コはいつも饅頭を一ツハーカーを一ツ食べる、これで二銭、茶が一銭だから三銭。豚蕎麦のラウメンは五銭。茶はよく出たころに蓋を少し傾かせ、飲むのでなく吸います。ラウメンは細く刻んだ豚肉を煮たのと簿く小さく長く切った筍が蕎麦の上にちょッぴり乗っている、これがたいした旨さの上に蕎麦も汁《つゆ》もこの上なしです。熱湯はタダでついでくれます、お湯とだけ単語でいえば事足り、余計な言葉は一ツも使わずにすむ。新コもこの遠芳楼では、ラウメンとお湯と、二タ言しかつかいませんでした。おやじは顔馴染になってからは頬笑んで、来たかと、お愛想を一ト言いうようになりました。帰るときはおやじが階段の上から、パアセンといいます。十銭銀貨を出してツリを二銭貰って新コは出てゆく。居留地に仕事がある間はこれが昼飯でした。日本飯屋とは比べ物にならない、旨さと廉《やす》さと量の多さです。  遠芳楼の外に会芳楼というのもありました、ここも旨くて廉かったといいますが、知らない。新コが故郷を出て東海筋へゆき、永らく経ってから行ってみたら、遠芳楼はなくなっていました、会芳楼もなくなっていたように思う、その代り新しい派手な構えの料理店が、幾ツか出来ていました。  新コにはペンキ屋の倅で阿丁《アチョン》という友達ができた、阿丁は夜の市中散歩が好きな癖に怖がるので、用心棒に新コが一緒に歩くことたびたびでしたが、広東へ帰ってしまいました。阿丁のおやじは何とか隆と招牌の出ているペンキ屋でした。阿丁帰る何故ねとおやじに聞くと、破顔一笑とはこれかと思う顔をして、帰るお婿さん旦那あるよといいました。二十年もいて新しい日本女房に九ツを頭に三人も子が出来ているのに、今いったような日本語をつかうのでした。解釈するまでもないだろうが、広東へ帰したのは婿にゆく為め――金をもってだろう――そうして彼は旦那という地位にのぼる、そういう意味に新コには帰るお婿さん旦那あるよが判る。  そのころでも流暢な日本語をつかう中国人が、勿論いたには居たが、多くは、これ幾何《いくら》あろな、わたし判ろないよといった風だった。それがその後の年月《としつき》の間に、そんな言葉はだれも彼もが棄ててしまい、ずッと正則になった、と行かないまでも、正則に近いものになり、誤用するにしても、あなたあした居るあろか、ないあろか式でなくなりました。多分、以前の言葉は開港当時の当用言葉が伝わったのだったでしょう、それが改訂されるようになったのは、一時多く来ていた留学生諸君が自らなる影響をつくったのでもありましょう。  阿丁がまだ居るころ、石づくりの倉庫の中で興行したあちらの芝居を見せて貰いました、一ツは立廻りのある『長板坡』で、これは聾見物だが『三国志演義』で読んでいたので、どうにか判った。越雲が襄陽破れて敗走の間に、劉玄徳の独り児阿斗を懐ろに、「槍ヲ綽《ト》リ馬ニ上《ノボ》リ」「青虹剣ヲ抜キテ乱※[#「石+欠」、第 4水準 2-82-33]ス、手ノ起ル処、衣甲透過シ、血湧イテ泉ノ如ク」、敵の名将五十余人を屠るという件りと、燕|人《ヒト》張飛が長板橋に敵勢を睨み返す件りなどでした、しかし、見てすぐ判るのでなく、後から――遅れ走せに判断するだけです。もう一ツは阿丁が何と説明してくれても判らなかった、後になって梅蘭芳の『御碑亭』をみて、これだったと気がつきました。阿丁が胡弓をひいて聞かせてくれたことがありましたが、新コは華やかなものを哀しいものと聞き、新コさん悧巧すこしないよと笑われました。阿丁は確か同慶会といったあちらの人達の音楽団の会員でした。  そのころの人は南京街に親しみをもっていて、白人諸君のいる街を歩くときと違い、居留地以外を歩いているのとおなじように、安心感みたいなものがあったものです。 [#7字下げ]三  乙九十番のフランス商館の建築をしているとき、新コはランヅという八ツになる、チャブ屋の男の子と友達になりました。両親とも白人だのに、髪の毛が鳶色で眼の碧いこの子は、いつも紐のついた日本服を着ていました、母親の趣味だったらしい、そう思えば合点がゆくことは、ランヅの着物がひどく派手であることでした。下駄も草履もはけないらしく、編上げの黒靴ばかり穿いていたランヅは、新コに歌を何度かうたって聞かせた、新コには判らないが、乙九十番の門番さんの話では、その唄のどれもこれも、マドロスが女遊びにきてよくやっている、ひどい文句のものだという事でした。或るとき二時半の小休みのとき、ランヅがやって来て、何が気に入ったのか独りで浮かれ、「ちょンきな/\、ちょンきな/\、ちょちょンが何のその、ちょちョンがよいやさ」と、ちょンきな拳《けん》をひとりでやり一枚ずつ着ている物をぬぎ、裸になって踊っているのを、チャブ屋の日本女が見付けて引ッばって帰って行った。その次の日からランヅは新コの遊び友達でなくなりました。恐らくはあの子の両親は、悪い日本人がランヅにそうさせたと思ったことだろう。ちょンきな拳とは女が裸踊りをみせる伏線なのですから、小倅が知っているところでみると、チャブ屋ではやって居たのでしょう。どこのチャブ屋にも日本女がいた、その風俗は日本的な異国調ですが、新コには美しく見えず新奇でもない。曽て知っている神奈川神風楼のムスメと呼ばれた外国人向きの遊女で、メリーとかチェリーとかいう源氏名の女達は、前髪を切ってかむろ[#「かむろ」に傍点]にし、髪は束髪で西洋花を簪にさし、顔の化粧は輸入の白粉紅でやり、友仙縮緬の振袖とも長襦袢ともつかない着付けに、水色・桃色などの縮緬の帯を前結びにしていました、こうした神風楼のムスメさんとか、ナンバー・ナインの令嬢方とかいわれたものの写真を、後日になって新コは何度もみて、実物の記憶を思い返してみて、矢張り美しさなどは感じてこない。チャブ屋はそれとは趣を異にし、日本街からやって来た女が、舶来の装身具を応用しているという様子が強かったので、時には多少の奇抜さを感じることもありました。  そういう女達と違う立場の、そのころの言葉でいうラシャメン(洋妾)には、群を抜いた美しさが往々にしてありました、容色のことよりも服飾の見事な創作ともいうべきもののことです、色彩や配合や、渡来物の利用のうまさや、あちらの物からの換骨奪胎やらで、渾然として特殊の美をつくりあげ、おなじ高価なものを身につけているにしても、『金色夜叉』の赤樫満枝を立体的にしてみたようなものとは桁外れに違う、そればかりか、昭和の戦前にも戦後にも、新コのいう“洋妾の美”に及ぶ程の、日本的異国調の女人の粧いを、東京の街ですら見たことがありません、異国調取入れの流行や試みは何度となくあったのではあるけれどもです。といっても、みんながみんな洋妾が美をつくりあげていたのではない、優れた女か、優れた旦那サンの助言があったからか、大胆不敵な試みをする女かが成功したのだと、これは後に聞きました。そうしてその成功は、異国調に即《つ》くのでなく、異国調を日本風の中へ離さずに即けることにあるということでした。その“洋妾の美”も今は亡びてない、明治三十七年の内地雑居の施行あたりから次第に崩れて、遂に跡を絶ったのでしょう。  その頃のチャブ屋は、後に文筆で知名な人などが通い、書きもし語りもしたチャブ屋とは大違いで、もし日本の男で、禁断の小さな花の校を手折ろうとするものがあって、遊ばせてくれと扉を押してはいろうものなら、白人客がいないときなら、太い腕に碇の刺青《ほりもの》があろうといった風な、裏街の舶来紳士が出てきて、お前の名はぺケサランパンというのだぐらいの悪態と共に、外へ掴み出してしまう、白人客がいるときだったら瞬くうちに間違いなくノサレます。日本人にとってその頃のチャブ屋は、命賭けで越境したところで、六十秒とは滞在させて置かない、租界の中の特別租界でした。  新コの仕事場の前に、道路を挟んで三角型の和蘭屋敷と俗にいった処があります、居留地番号では百五十五だったと思う、そこは居留地の牢屋敷で、新コは知らないが先頃までは、伊太利の伯爵と称する詐欺師がはいっていたそうです、送還か何かで居なくなった後、一人の入牢者もなく暫くたったが、このごろ若くないのが苦役に一人就いていると、居留地のことには早耳の門番が話したので、足代《あしば》の高いところへあがってみると、牢屋敷の塀の内が丸見えです。暫く見廻していると、一人の見すぼらしい姿の若くない西洋人が、パイ助と新コ達の間でいっている、扁平に近い籠に土を一杯入れたのを、右の隅から左の隅へ、のッそり歩いて搬んでいます、尚も見ていると、パイ助は六杯ある、それを搬び終ると、今度は今までと逆に、左の隅から右の隅へ搬んでいます。その晩、新コは昼のうち見た苦役する一人の異邦人の黒ずんだ姿が眼にうかんで消えなかった。翌日の朝、乙九十番の普請場へゆくとすぐ、足代にのぼって牢屋敷を見卸すと、彼の囚人の姿はなく、何という草花か赤いのが塀際に二三十群がり咲いているだけ。その朝はひッそりとしていて人の往来が殆どなく、筋向うの百七十五番館ファーブルブランド商会の飾り窓に戸が引いてあり、丸型の吊り時計の大きいのが見られなくなって居る、ドンタク(日曜日)でした。そこでは山手の教会堂の鐘の音は聞こえて来ないが、前田橋際の教会堂の鐘の音は聞こえて来ました、すると何処からか讃美歌が聞こえた、一人の男の声です、後に知りましたが、それはベイスという声だったのでした。新コは晴れた日曜日の午前の陽を斜めにうけて、惘然《ぼうぜん》と足代の上に起っていました。春が夏に移った時季のように憶えています。  新コはその次の日も、足代の上から牢屋敷の囚人の土搬びを見ました。次の日も次の日も、何日も続いて昼飯前と後と、日に二度は少くとも見にゆきました。雨の日は囚人の姿が庭に見えません、風の強い日には土煙りが立って姿がときどき消えました。新コにはそんな風に熱した時は、どんな事があっても続け抜くが、棄てて失くしたように忘れて、そこにあっても眼にはいらないという事もあります。  或る日の午後だったと思う、老囚人が足代の上の新コに手を振りました、新コも手を振った。何故だったと尋ねられても返答がつきません、解釈をつけてやるのではない、途端に手を振ったのですから。しかし、憫察の心はあった、何故に囚人となったか知ろうともしないでいてです。それから後の老囚人は新コに気がつくと手を振りました、新コも手を振った。そういう事が三十日余りも続いてからでした。囚人の姿がみえなくなりました。  普請が八分通り出来たので、足代を払って程なく、左官屋の手伝いの亀という、同じ木賃宿に五六年も泊っている、片腕がすこし不自由な小兵な男が、煙草休みのとき新コに、二三目前に年寄りの異人がズカズカはいって来て、俺にベラベラいったけれど、此方はチンプンカンで判らないから、わたくしサランパン/\(駄目)といったら、小首を傾《かし》げていたが行っちゃったと話しました。新コがスレート葺の屋根にのぼり、息抜き窓のペンキ塗りの色を見にいっている時のことらしかった。  その老異邦人が土搬びの囚人だったとした方が、話は面白いが、そうもゆかない。左官の手伝いは新コに聞き返されても、洋服着ていたよ異人さんだもの、というだけで、見すぼらしかったか、そうでなかったか、眼が届いていませんから判りません。 [#改ページ] [#1字下げ]人殺しに行く男[#「人殺しに行く男」は中見出し] [#7字下げ]一  父は遊廓地と川一ツ隔てたところに、手頃な空地をみつけて家を建てた。駿河屋の再興が出来かかり、死んだ後に二人の倅に譲る物を積みかさねてゆかれそうないとぐち[#「いとぐち」に傍点]が、漸く開かれかかったのでした、といっても、階上が二タ間の階下が二タ間、あとは女中部屋だけという――そのころの好みなのか、父だけの好みなのか、台所が二十坪近くあって、職方が寄贈の黒塗りの二ツ竈がデンと据っている、そのうしろに別棟で、見ッともなくない湯殿があるとはいうものの――申さば多寡の知れたものだが、ここへ来るまでに骨身を削った父は、これからの拠点が出来たのでほッとしたのでしょう、夏の月の晩、欅《けやき》の一枚板を外へもち出し、空を仰いで寝転がり、細い声で、追分節をうたっていたのを何度もみた。年の割りに皺が額や鼻のわきに太く出ていて、色の白い若旦那だったという他人《ひと》の話は、どこかの別人のことのように色の赤黒い父で、その掌は板のように固く、指は生粋の稼ぎ人のようにがッちりしたものになっていた。父のそうした労苦の後に酬われたそれも、わずかのうちの憩《いこい》でしかなく、やがて崩れる時間を前にしての、崖に咲いた一茎の草の花みたいなものだったのでした。  外へ出るときの父が、いつの頃からか、懐中か隠しか抱き鞄の中に、拳銃を入れているのに新コは気がつきました。現場廻りを仕様ことなしにやっている新コは、現場以外にどんな事が父に起っているのか知りません、父は新コに何もいわなかったし、聞こうとしない新コでした、父からばかりではない、だれかに聞けば知れることだろうのに聞こうとしない、何故だか判らない、性癖なのかも知れない。そのころは請負師ならだれでも、拳銃ぐらいはもっているという程のこともない世の中でした、新コの知っているところでは、拳銃や刃物を肌身放さずもっていることは、気の弱い者のすることで、まこと男なら兇器じみた物はもたない、とこう聞きもしていたし思ってもいたので、父がそんな物をもっているのは争い事でもあって、敵が出来たか、怨みをだれかに買ったか、何かが起っていて、襲われる惧れがある、それでなくて律気で腰が低く、喧嘩口論を嫌う父が拳銃を肌身放さずとなる筈がない、聞くに及ばないことだ、それならそれで、その気になればそれでいいと新コは料簡を決めた、だが、料簡を決めたという程、更《あらたま》った決め方ではなく、いつ決めたでもなく決めないでもなく、有耶無耶の裡に有耶無耶に決まったのでした。  新コが十四歳ぐらいのとき、父のところへよく来る人で、検事を退職した高山という、口を中にして三方に髭のある、瘠せてのッぽで、眼が据っている老漢があった、色の悪いその顔が笑ったときでも、どこかに紐が結んであるようで、人好きのしないこの人は、いつも黒紋付の羽織に袴を着けていて、話の一ト区切になると、求刑をしている法廷の検事のような顔つきをした。新コにだれが聞かせた話だったか、高山は若いとき、駿河屋の秀造にうしろ楯になって貰った事があるという、そうかも知れません、それでなくて貧乏している父のところへ、ウマが合うというでもないらしいのに、たびたびやって来る筈はない。高山は父に漢籍にある文句を引いて何やらいつも云った、訓え導いているつもりだったでしょう。その高山が冬の雨が降ったりやんだりしている日、人力車に乗ってやって来て、格子を開けてはいって来たが、狭い土間に突ッ起っただけで、父を呼んで何か二言か三言低声でいって出てゆき、待たせてあった車に乗るとき、車の蹴込みと腰掛けに立てかけてあったものだろう、風呂敷にくるんだ細長い物が、辷って梶棒の中へ落ちた。高山はそれを拾って車に乗り、幌の前掛けを掛けさせずに行ってしまった。父は蟇口を片手に、細引縄を片手に、台所へ飛んでいって乾いている手拭を手当り次第に引掴んで、懐中と袂とに突込み、義母にも新コにも一ト言もいわず、洋傘をもって飛ぶが如く出てゆきました。新コは現場小僧のころさんざ見て来た血まぶれ騒ぎの中に、このときの高山とおなじ形相を何度も見ていたから、喧嘩にゆくのだとすぐ判った、しかし違っていた、喧嘩ではない、人殺しにゆく形相だったのです。だいぶしてから人力車が二台やって来て停まり、車から降りたのは父と高山で、細長い風呂敷包は父がもっていた。父は高山を追っかけて行くときも戻って来たときも、形相はいつもとほンのすこし違っているだけだった。二人とも泥だらけです。新コは父からどこかへ行っていろといわれ、外へ出たので、その後どういう納まりが着いたか知りません。  高山が殺そうとしたのは逆橋《さかはし》の松という、人づきあいが上手な道楽者で、締め括りがないのと狡いのとが半々だと評判のある請負師で、父には仲間の一人でした。逆橋の松が高山から金を借りて返さない、高山に殺意を起させたのは、その金の借り方と弁解にイカサマとハッタリがあったからだそうです。後年になって逆橋の松は土地を売り、音信不通になって久しく年月が去り、新コが作者ぐらしにはいって、どうやらこうやらの処まで来たとき、その娘から父が病死したと手紙で知らせて来たので、弔電と香奠を贈ったが、ふと気がついて年を繰ってみると、前にいった高山元検事の一件のとき、逆橋の松の年齢を四十歳として七十三四歳、五十歳だったら八十三四歳になる、長命だったのだなと思った。ところがその後、それは詐欺だったと新聞記事でみた。逆橋の松の娘は新コにやったのと同じテで、昔の知辺《しるべ》を探して何人となく引ッかけたのがパレて告訴され、茨城県のどこだったかで検挙となったというのです。逆橋の松は十六年ばかり前に死んでいた。  この話の後聞を、父が親方に仕立てた中の一人で吉良崎の常という人に聞いたところに拠ると、逆橋の松の娘は、おやじが死んだとき、以前の仲間や知合いに知らせなかったから、今度|更《あらた》めて知らせるについて、十六年前といっては不体裁なので、近ごろ死んだことにしたところ、香奠を贈ってきたから貰って置いただけのことで、知らせの手紙にだって、貧乏して困っているとは書いたが、香奠をくれとは書かなかったから詐欺ではないといったそうです。吉良崎も香奠をとられた一人です。逆橋の松の娘が処刑されたか、起訴猶予になったか、吉良崎も知ってはいなかった。  新コは十六のとき一度、十七になってから二度、日当稼ぎの喧嘩の助《すけ》ッ人《と》にいったことがある。その二度とも土木仕事の縺れからで、炊出しの結飯《むすび》に煮しめ[#「しめ」に傍点]と沢庵とを手掴みで食い、無住の寺と空《あき》長屋にゴロ寝をしただけで、たいした事に成らず納まりがついたので、怖い場面など見ないで済みました。この二度とも、新コを連れ出したのは四ツ五ツ年上の作という、松屋一家の杯をもらった土工で、新コさん行ってみて置いた方がいい、後々に何かのタシになると勧めたからでした、松屋の作は新コが、土木の世界で一生を終わるものと思ったのです。作はこんな事には慣れているらしく、新コさんは俺と離れずにいてくれとも云ったし、ふんどしのミツの処にでも五十銭か一円しまっときな、味方が崩れて逃げるときの用意でもあるが、警察が嗅ぎつけて手配をするようだったら、一気に二里でも三里でも飛ばないと巻添えを食うから、そのときの足賃と食い物代だよ、俺達は助ッ人といったところで喧嘩場の案山子《かかし》だから、遠くの方でわあッといったり、駆け歩いて見せるだけだよ、それから先の深入りはしないでいいのだ、とこんな風のこともいった。十七のときの三度目の助ッ人のときは、東海道藤沢在で、世間でいうチャンバラがあったが、それは知らない他人がやったので、新コは腕に白木綿の切れッ端をつけ、松屋の作やその他四五人と、相手のいない地域をうろついただけのものです。  こういうことが父の耳にはいったらしいが、父は前の二度は何もいわなかった、土木の世界で頭を擡げるには、そんな経験もして置いたがいいという気だったらしいが、三度目のが知れると、ピシャリと以後を差止められてしまいました。  新コは助ッ人稼ぎのたびに日当と祝儀を貰った。三度目のときは日当一両に祝儀袋へ入れた一両と、併せて金二円貰ったと憶えている。喧嘩場人足に過ぎないのだが、それでも、ひょッとすると飛んだことになる場所へはいり込むのだから、差止めを食らって仕合せでした。あんな事に馴れッこになったら、新コの行く方角は凶の方だったでしょう。父は若旦那の出だけに助ッ人なぞに行ったことはないらしいが、揉め事の中は相当にくぐって来たらしく、それだから高山元検事が人殺しに行くと知って、追ッかけて出てゆくときも、高山と一緒に戻って来たときも、平常とたいした変りがなかったのだろう、そういう時の出掛けに、高山が不承知で暴れたら縛るとて細引を、怪我したら血止め用にとて手拭を、持って出るだけのユトリがあるぐらいにはなっていたのでしょう。それから後の何年間にも揉め事があっただろうが、ロに出したこともなく、妙な素振りをみせたこともなかったから、新コは父を剛胆だとも臆病だとも思っていない、そうするものだと思っている、その故かして新コは父が拳銃を肌身放さずになったと知ると、ずるずるベッたりという形容のように、別にどうという事なしで料簡が決まったのでした。そのころの新コが覚悟を据えるとはこんな簡略なものだったのです。 [#7字下げ]二  たッた一度だけ父は夜中に、厠の小窓から作事場の背板の塀を乗り越えかけた三人連れの一人を狙って、弾丸が中らないように射ったその音に、二階で独り寝ていた新コは眼をさまして階下へ降りてゆき、廊下の雨戸を繰っている父の姿をみたら胸がどきッとした。銃声を聞いて飛び起きたときも、階段を降りるときも、何のこともなく、無事な父の姿をみて始めてどきッとしたのは、どきッとする順序が違うようですが、新コの躰に起った順序はそうだったのです。  庭下駄は一足だけで、父が穿いて狭い庭へ出ていったので、新コは素足で庭へ降りた、足の裏が霜柱を踏んでサクリと音がした。父は庭木戸を開けて作事場へ出てゆき、一ト巡りして作事場の門をあけ往来へ出た。新コはそのうしろ十五六歩のところへ離れて付いて歩いた。風はないが疎らにみえる星の光りが、凍っているようなのに漸く気がついた。父は引返して門を閉め、庭へはいり家の中へはいった。新コは義母がもってきてくれた雑巾で、足の裏を拭くときぞくりとして、冷めたいのと寒いのに気がついた。来た奴はどこの者だいと聞くと、父は泥棒だといった。泥棒に一発お見舞い申上げるのかいと聞くと、弾丸はへえッていない空包だといった。みんな空包がはいっているのかいと聞くと、二発空包でそのあと四発は実包だといいました。  翌日の朝、いつもの通り薄ッくらいうちに飯を食ってしまうと、義母が台所へゆくのを待って父が、新コはこの頃そわそわしているが、何があってそうなのか、ゆうベ二階から降りてきたとき素手だったが、作事場へ入ってからは何かもっていた、あれは何をもって居たのだと賺《すか》すような聞き方をした。砂利だよ、砂利をぼろッ布《きれ》に包んでこの間から家のところどころに置いてあるから、どっちから家の外へ出るときでも持ってゆけるよ、懐中へそいつを入れて、左の手を懐中へ入れるのだよ、右の手で砂利を一度投げつけると、左の手が次の砂利を右手の近所までもってゆくから、当座のうち闘えるよ、と新コがいうと、父は何もいわないで刻煙草を喫いはじめました。  聞いてみると父の拳銃は襲う敵が出来たから持ったのでなく、あった方がいいらしいので、正規の手続きを践《ふ》んで買ったのだそうです。万々が一のことがあっても、銃口を向けただけで一応は禦《ふせ》ぎが付いたも同然になる筈だ、それでも禦げなかったら空包を放つ、それでもいけなかったら最後の空包を放つ、それまでの間には何とか逃げられる、とこう云うのです。  これを聞いて、新コはああそうかと思っただけで、拍子抜けもしないし、ほッと息を吐《つ》きもしませんでした。それならそれでいいと思うでもなく思わぬでもなく、料簡を据えたときも、その料簡を解いたときも、別にどう変ったという事もないのです。  衛生試験所の修繕工事を父が請負ったので、新コは居留地にある修繕工事と、双方を廻って歩いたが、相変らず建築工事のことには明盲で、いくら経っても仕様書に書いてあることが自分のモノにならない、断面図をみたところで、それを造形にして想像することが出来ません、その癖、試験所の何とか課長で工事監督の責任者を、煙に巻くことは出来ました、何といってもズブの素人の何とか課長よりは、凡クラでも新コの方が工事については知っています。  この修繕工事中に二三十人の働き女の監督でもあろうか、ヒダの崩れた袴を着けた、髭の濃い、三十歳くらいの役所の人がいて、新コに話を仕掛けることたびたびでした。この人が新コに話すことは、新コの知らないことばかりでした。新コはだれにだとてそれは知らないと返辞をしたことがない代り、それは知っていると返辞をしたこともなく、相手がいうだけのことは残らず聞いてやる癖があった、それをその髭の青年役人は感違いして、新コは彼の話を、少くとも半分は諒解するとでも思ったのでしょう、いろいろの話をした、その中で新コが憶えているのはわずかしかない。髭青年は向島の先生の門人だという。新コは向島とは東京にある地名で、在原の業平が東下りして歌を詠んだことがあるなぞと、覚束ない知り方の外には知らなかったが、そのうちに向島の先生とは幸田露伴だとわかった、それなら露伴という人の『一口剣』という金港堂本をいつだったか読んだ。髭青年はたびたびカクハンがとかショウギョとかいったが、神谷鶴伴と田村松魚のことだとは知らなかった。女の名もいった、何といったか忘れたが後になって、佐藤露英という女性のことだったらしく思える。髭青年は後には露伴門下のたれかれや、露伴の友人について語ったが、縁なき文学の世界のことだから、聞いているうちに忘れてしまった、もしそれを新コが、もう少し秀抜な若者で、記憶していたのだったら、明治文壇の裏話が、物書きになってから稼ぎのタネに書けただったろう。髭青年の話は、可成りアケスケなものだったように印象だけのこっています。この青年の姓は確か藤本といったように思う、もしその記憶にして誤りなくば、藤本タ飆とかいう作家で、幾篇かの小説をそのころだかその後だか発表していたと思います。  新コはその髭青年の話のうちに、この横浜にイラコスズシロという詩人が、港湾の防疫医官でいると聞いた、その詩人が作品を『文庫』という雑誌に発表していることもいい、一度か二度か憶えはないがその詩の一節をちょッと気どって朗誦して聞かせてもくれた。新コは本屋の店で『文庫』を探し、あけてみてイラコスズシロを探しました、外国人の姓名だとはさすが思っていないので、目次の漢字を探したが、どういう文字を排列してそう訓むのか判りません、東北に伊良子という地名があって、『義光記』なぞには伊良子宗牛がたびたび出ている、そんなことはまだ知らない新コでした、そのうちに『文庫』を取り落して表紙に破れをつくった。曽て新コは小さいとき、煙草売りの悲しさが身に沁みていたので、表紙に破れをつくった雑誌をそッと置いて出てゆく、うしろ[#「うしろ」に傍点]めたさが厭なので、『文庫』を買いました。これが他日に新コが無学無知でありながら新聞記者になる遠い因となった。新コは家へ帰って二階の独り居の臥床の中で、『文庫』をひろげて見ているうちに、イラコスズシロとは伊良子清白だと知った、だが、清白の白はシロと知っていたが清をスズとは知らない、前後がわかって一字だけ訓めないのだから、清はスズだと判断して憶えた、しかし、スズ[#「スズ」に白三角傍点]だかスヅ[#「スヅ」に白三角傍点]だかを知らない、ましてや七草の一種で大根の古名だなぞとは全く知らなかった。字引は一冊もっていたが、辞典をもちません、新コは辞典が編纂されてあるということにすら気がついていなかったのでした。 『文庫』を読み出したのはそれからだった、しかし、新コの判断読みでは、大抵のところが判ったようで解らないのでした。 [#7字下げ]三  居留地の修繕工事をしているとき、一人の若くない長身の大工が昼休みや煙草休みのとき、取りとめもなく話すのが、今までの諸職や土工や人夫より、ズバ抜けているのに新コは気がついた。角張った顔のその大工の名は忘れた、一ト癖ある顔つきで仕事は並でした。いろいろ聞いたのだろうが多くは忘れて、憶えているのは二ツしかない。この大工は明治元年の上野の戦争(五月十五日)まで、上野の寛永寺末の何とか院といって、戦争で焼亡したといったのか、取払いになったといったのか、位置は上野駅の脇で、忍が岡を背にして幾ヶ寺もあった一ツに十三歳まで小坊主をしていて、戦争のときは山内で、彰義隊士に飲み水を配ったり、負傷者の血止めの布巻をしたりして、人影がちらほらと遠くで二三度するだけになったときになって逃げた、そのときは所化《しょけ》や寺男と、見知らぬ町家のもの三人と一緒だったが、浅草の橋場近くまで逃げのびたときは小坊主ただひとりになって、その晩は荒物屋の夫婦に泊めてもらい、翌日の朝、夫婦が弁当を二食とか三食とかに銭を六百文くれたので、それをもって六郷川の脇の矢口村の親のところへ帰った、その後もう一度、上野の何とかいう寺へ戻って矢張り小坊主でいたが、十五歳のときに伯父が引取りに来て、羽田の玉川弁天で神主の使い走りをして、半年ばかりしてから大工の徒弟になった、こんなような身の上話の一節をしたことがある。新コが憶えている話二ツといったのは、その事ではない。一ツは孝明天皇を旧幕府の有力者が毒殺したという事でした、そのころそういう説が一部に行われていたのを、その大工が受売りしたのかも知れないと、後になってから新コは思ったが、上野の小坊主だったから、俺は聞いて知っていると、その大工がいい放ったときの顔を、新コは六七分ぐらいという程に記憶がある。もう一ツは彰義隊士の中に、大村某――大村藩の脱走といったのかも知れない――という脱藩者がいて、一人の少年をつれていた、戦争の当日、二人は一ツ処で闘っていたが、彰義隊敗北となったとき、大村某は少年に落ちのびることを勧め、その前に汝の親の敵を討て敵は即ち自分だと名乗り、無理やりに一刀斬らせ、汝の敵討ちは遂げられたサア落ちて行けと、自分で咽喉を掻き切って死んだ、そこまでは旗下《はたもと》出身の戦友で細谷ケン左衛門が見ていて知っていた、その先はわからない、ということでした。もッと詳しかったのだが、日記をつけることを知らず、身辺の雑事を書留めて置くことも知らなかったので、今いったようなウロおぼえしか記憶にない、尤も日記や留め書をして置いたところで、その後の変転で、新コの手許に残っているとは思えない、余程の偶然に幸いされない限りは。だが、この話についてはずッと後になって武州熊谷の本間貞六郎純孝が、明治初めのころ書いた『原正名氏之復讐記』をみたところ、歌人原正名を殺害した兇漢を追跡捕捉した原の女婿に助力し、本間と共に働いた蕉露庵如是子という、彰義隊の竹下丹後守組の元隊土が実名を細谷謙左衛門といって、旗下出身だというのを見付けた、大工の話の細谷ケン左衛門はこの人かも知れない、だとすると、この細谷は上野山下の顕性院という寺の住僧の倅同様になっていたとあるから、あの大工は顕性院の徒弟だったのかも知れない。大村某らしい名は『彰義隊戦史』のような本にもない、だからといって大村某の実在を否定することを新コはしない、原正名を殺した兇賊も彰義隊のものだったが、その名は幾つかの同隊に関する連名帳に見当らない、細谷も同様である、それは変名の方で載っていたのだと仮定すれば、そうかも知れないが、しかし、三州吉田藩(豊橋)が強請されて若い藩士を彰義隊に参加させたことが、そのとき参加した春田道之助の無題自筆の『手記』にあるが、二十四人参加したその中の一人の姓名も、活字になっている幾ツもの連名帳のどれにも、記述のどれにもない、という事があるからなのです。  新コは物書きになる気など毛頭ない時だったのに、物書きのタネになることが、たびたび思いも寄らず、人々から話されるものだったことに、後年になって気がつきました、ではあるが、物書きになったときは、その殆どが記憶から去ってしまい、川に落した銭みたいに失なったということだけが残るだけでした。  居留地仕事の一ツに何番館だったか忘れたが、赤煉瓦積み二階建のイギリス風な建築があった、そこで働いていたのは、泥や石灰やペンキだらけになっている時だったか、父の仕事の下働きをやるようになってからだったか、憶えがありませんが、その建物の色だけは眼に残っている、煉瓦の色、窓の石材の色、蛇腹の石の色、軒樋と竪樋と窓の上げ下げのガラス戸の色、鎧《よろい》戸の色など。  この建築の設計はイギリス人で、日本の建築学界に大きな功績をのこしたコンデルさんでした。コンデルさんの建築は、サラダさんの瀟洒なのや、もう一人欧洲の人で何とかいった建築家のとも違って――どちらかがフランス系統で.とちらかがイタリー系統だったのではないかしら――建築に堅実の美しさが出ていた。居留地を新コは歩いて、あれはサラダの建築、あれはあの人の建築、これはコンデルの建築と、見た途端にわかるようになった。クローズといったかクローデルといったか、難破船の船員から居着いて建築屋になり、妻君にホテルと料理店をやらせていた人の建築は、幾ツ見ても、建築家がもつ一貫した信念の主張が見付からなかった。新コはそうした大雑把な観察はできたがそれ以上の大切なことがみんな出来ない、地を穿って下から上へ重ねあげて行くあらゆる部分と部分とを綜合する、どこの事にも、いつまで経っても盲目で無知でした。新コは自ずからのように与えられた機会を、取り逃がす毎日だったのだから、大請負師の夢の方で、新コを後に抛り出して去ってしまったのでしょう。  コンデルさんの下に上遠《かどう》野という請負師か建築家がいた、前いった建築の施行は、色の黒い怖い顔をいつもしていたこの人だったようです。吉田正蔵という人がいた、上遠野との関係はどうあったか新コは知らないが、この吉田という人は新コに言葉をいつもかけてくれた、新コが文筆のくらし[#「くらし」に傍点]にはいってから一二度会ったことがあります。西銀座にある国民新聞社の社屋だった建築は、この人が施工したものです。  眼にみえない落魄の波が、そうこうしているうちに新コの父に、じわじわと寄せて来ていました。 [#改ページ] [#1字下げ]初旅[#「初旅」は中見出し] [#7字下げ]一  新コには日記も留め書きもないので、年月日を確実にすることが出来ません、これからの事は二十歳のときかその前年か、それとも十八歳のときか、判断の下しようがない。二十一歳のときは土木の世界から去っていた、これは傍証があるから確かです。  父はそのころ、諸方を夜を日に次いで飛び廻り、天下の糸平の番頭だったという、島中《しまなか》という老人との往来が特に多くなった。天下の糸平は幕末に頭角をあらわし、明治になってからは商界の傑物といわれた田中平八のこと、その番頭だったというだけで、相当の人物であると合点される時代だったのでした。前谷という東海道筋の或る都会で有名だとかいう、はッきりした顔だちの、少壮実業家風の人物などとも往来が繁くなった。新コはそんな情勢を鼻の先に見ながら、父に何も聞かない、父も話さない。新コは父だけでなく、だれにも、此方から進んでモノを問うたことがなく、だれの云うことにも、それは何故にと反問をせず、それからどうなったと話を引き出しもしなかった、云うが儘に聞くが儘にでした。  そのうちに父は請負仕事の区切りをつけ始め新コに、近いうちに三州へゆくようになるからその気でいろといいました。新コはいつものようにただ、そうかいと答えただけでした。父は行くとき持ってゆくものがある六発だよといった。六発とは六連発のこと、随って拳銃ということだ。すると、三州行きは尋常でないことで行くらしいと、聞くまでもなく合点した。父は慌てて、何もあるのではないが、旅先のことだから念の為めに一挺ずつみんな持ってゆく、といって、三州乗込みは俺とお前と、野原の犀次に赤目の勇助と四人の外に、庄司久造といって三州生れの者が帳付で、俺達より一ト足先にいって、もろもろの手配を付けて置くことになっていると云いました。  その後も、父は東海道の方角へ行ったり、東京へ行って幾日も帰らなかったり、帰って来たかと思うと、何処を駆け廻るのか夜遅く戻って来て、朝早く出てゆくのが連日でした、その間には退役海軍中将のA閣下が来たとか、愛知県のだれとか、三重県の有力者とかが来たとかで、割烹店で金のかかった宴会がひらかれた、その費用は、天下の糸平子飼いの番頭だから天下の番頭だと、冗談めかして傲語することもある島中老人と、父と二人で出したらしく、それで居て、宴会の催し主は前谷という少壮実業家風の男でした。新コは天下の番頭老人が好きだった、老人の奥さんは美人の年寄りで、でッくり肥った色の白い、深切に裏表がない人だったが、何をいわれても口はもとより、顔にも表情が出ない新コなので、いつも受身である為めか、特に親しくなるとまで行かず、父の引ッかかりで親しいだけのことです。前谷という男は初めて顔をみた時から好かないので、最後まで一ト言も口をきいたことなく、面を突き合わせても挨拶一ツしなかった、先方は新コの如き小僧ッ子は眼中になかったらしく、新コの方でも、あんな野郎は好かねえと思った。好かねえこの男は、新コの一家が再び離散しなくてはならない、悪い月日のタネを持込んだと、後になって判りましたが、そんな予測は新コにはできなかった。新コはカンが働く若僧だったが、カンを基礎に推定を深めてゆく、それから以上には欠けていました。  蜜柑が出盛るころでした。新コは父と野原の犀次と赤目の勇助と四人で、横浜ステンショから東海道下りの赤箱(三等客車)列車に乗った。新コも拳銃一挺と空包五発・実包十五発をもった、聞いては見ないが、犀次も勇助も父もおなじように持っているに違いなかった。新コは着換えも手廻りの物も要らないから持っていない、駅へくるまでに買った蜜柑を一箱もっていた、そんな物をもち込むことはない、小田原あたりへゆけばもッといいのを売っていると、父も犀次も笑ったが、新コは例によって返辞を省略した。蜜柑を食べた、咽喉が乾くのだ、咽喉よりも口が乾く、拳銃をもっての乗り込みだからなのでしょう。その癖、怖くはない、何故、怖くないのだか新コは知らない、乗り込んだ先で何が起るだろうか、聞いたこともなく聞きたいとも思いません、だのに口がすぐ乾くので、絶えず蜜柑を口へはこんだ。  父と犀次と勇助とは向う前に席をとり、新コは独り別なところで、窓下に席をとり、蜜柑箱に片足のッけていました。  犀次は伊勢の者で土工の親分です、若いときから菅笠|一蓋《いっかい》をいただき、仕事着の手筒半纏に、引ッ張りの印半纏と腹掛け手甲脚絆に草鞋穿、小風呂敷包一ツもたず、日本の半分ぐらいは渡り歩いた末に親分になったのだそうです。そうした諸国遍歴の土工旅を西行《さいぎょう》とも飛びッちょともいい、稀《たま》には黒鍬《くろくわ》渡世の修行旅なぞという者もあった。西行とは西行法師からとったもので、諸国巡りをするから云うのでしょう、飛びッちよというのは渡り鳥が仮りの塒《ねぐら》につき、又も飛び去ってゆくのを取って云ったものでしょう。新コは西行に出たことがないので、本当の飛びッちょの味は知らないが、出たとしたら曲りなりにもやれたに違いありません。  西行は帳場といい慣わした土木工事の現場が、どこにあるかをすぐ知ることが出来た、同業の土工に聞けば三里五里先のことは勿論、十里二十里先のことでも、問われれば知っているだけは教えるのが当然の義務だったのです、遠近の現場のあり方を、西行が飛びッちょをして、通信報告をやるから、どこの埋立工事は竣工引渡しがアト幾日ぐらいとか、どこの切通し道路は幾日ぐらいの後に鍬入れがあるとか、馬鹿でない限り見てきたように土工は知っています、だから、西行は帳場を見付けるのに骨を折ることはない。何里四方どこにも帳場がなく、安宿に泊まる銭もないときは、土工に縁故のある稼業を尋ねて、草鞋銭を貰って凌ぎを付けることもあるが、西行の名誉にはならないから余りやりたがりません。帳場が見付かると、仕事中は遠慮して控えて待ち、昼飯か小食《こじょく》のとき、適当にだれかを見つけ仁義をつけます――仁義といつの頃からかいって通用しているが、訛らない限り、ジンギでなくジギで、字を当てると辞儀で、自己紹介のはいった挨拶なのだから、仁義ではどうしたッて意味がなく、明かに辞儀だが、『曽我物語』のような古い昔の本にも、辞儀と当然あるべきところに仁義と宛ているから、誤り用いたのは古く、幕末や明治ではない、そうしてこれは博徒専用の言葉などではなかった――と、先方は辞儀を受ける、受けたものが紹介者になって親分に執り成しする、人手が過剰だったり、親分が厭な奴だと思い、そして時刻が、夕方までに二里なり三里なり歩いてゆけるときだったら、草鞋銭をやって発《た》たせ、時刻が泊まり時刻だったら、好き不好き人手の多い少いを棚にあげて、一宿一飯のつきあい[#「つきあい」に傍点]をやる。一宿一飯とは形容で、全くの一宿で飛びッちょをするにしても、飯は晩と朝の二度振舞って貰うから二食です、夜明けと共に発つ飛びッちょは、字義の如く一宿一飯で、晩飯の振舞いにはあずかるが、朝飯を振舞われないうちに出て行きます。  西行の方でも菅笠を伏せて置けば一宿の所望なのだし、菅笠を返して置けば草鞋銭の所望ということに極まっていた。辞儀は平明素朴で形容を用いない、大工・左官・木挽・石工・畳工はもとより土工の方でも、冗漫で空疎な辞儀の文句を嫌った、渡り職人である限り、蒲鉾工でも菓子工でも辞儀を付けた。辞儀の要点はどこの何という同業の目上についてこの業を学び、何々という名の者で生国はどこと、これだけの事をいうに過ぎないから短かい、そしてその中には謙遜が強く出ていなくてはいけないのでした、随って武州と申しても広うござんすとかいう式のものや、南面山不落の城は大阪のとかいう式のものは、その頃あったやら無いやら、新コは渡世違いなので博徒のことは知りませんでした。  話が岐れ路へ行ったが、野原の犀次は西行の飛びッちょで鍛錬ができている男で、そのころ四十ちょッと越したぐらいでした。 [#7字下げ]二  赤目の勇助は顔に小皺が寄っていたが、真黒い濃髪《のうはつ》に白毛が一筋もない土工の親分で、生国は関八州だといっていた。西行旅で飛び廻った経歴は野原の犀次より永く、範囲も広いらしく、九州の炭坑のことも知っていれば、四国の石山のことも知っている、初期の銕道線路の布《し》き方とその後の布き方の相違も話す、そのどれも優劣のひらきを挙げて、批評や感想も挟み込んで語った。犀次にくらべると、土工という職に就いて体得したものがぐッと多いらしいのです、それだけに勇助の思い出ばなしは殺伐なことにも及んだ、無茶苦茶なことでも矢張り犀次を遥かに上越《うえこ》すものがあった、その話を忘れずにいたら、明治土工|気質《かたぎ》の一半の一半ぐらいを伝えられたろうものを、新コはウワの空で聞き流した。新コが文筆ぐらしにはいったのは、それから二十余年してからのことで、そのころは他人の語ったことを材料に採るものになろうなぞとは希《ねが》ってもいなかった、又、そんな生活は知らぬ別の世界のことでしかなかったのでした。勇助の話のうちで憶えているという程でもないが、躰のうちに三発の弾丸《たま》がまだはいっているというのがあった、その箇所をみせたが、どこだったか忘れた、或は弾丸をウケたといったのであって、躰のうちには、はいって残っているといったのではない、そんな気もする。古い弾丸疵の痕というものは、小さなおでき[#「おでき」に傍点]の痕みたいなものだと思ってみた、これが弾丸疵の痕を見憶えた最初でした。  新コは東海道の箱根から先を、汽車で下るのは初めてなので、犀次や勇助は新コさん初旅だねといって笑った。富士山が近々とみえる三島あたりで、勇助が新コの脇へきて座り、お山はいつ見ても勿体ないぐらい綺麗だねというから、そうだよと新コは答えた。新コさんは富士のお山を一と目みただけだねというから、そうだよと答えると、お山をどうしてよく見ないのだと又いった。新コには返辞ができなかった、一ト目じッと見たらそれでもういい、何度も繰り返してみる気が起らないというだけのものでした。新コはこの旅に出るとき一冊の本も携えてこなかった、腹へ巻いた晒木綿の間へ拳銃を突ッこむまでは、本をもって行くとも持ってゆくまいとも思わなかったが、銃口が腹巻越しに臍のちかくへ触れたとき、何ということなし本のことを忘れた。だから新コは鼻クソをほぜるか、蜜柑を食うかしかしなかった。新コは風景も人物も大抵は一ト目みたらそれッきりで済まして、二度と見ることは先ずありませんでした。自然にも人にも不感性だったのだろうか知れなかった、無知の故のみではないでしょう。  言葉は忘れたが勇助が、どういう訳で鼻の先にいる別嬪を見ようともしないのだと尋ねた。新コは返事を略して勇助の顔だけみた。新コさん又そんな眼をすると勇助がいったのを記憶しています。眼のことは勇助だけがいったのでなく、ドテ鳶の仲間の金公という、胸に朱入りで蛇を一匹|刺青《いれずみ》していたのもいった。又、戦争というものはどッちかが、でなければ双方が、道徳を破るからオッ始まるもので、不道徳をやッ付ける戦争と、どっちもが不道徳でやッ付けッこをする戦争とがある、不道徳をやッ付ける戦争は道徳が一方にある、双方が不道徳でやッ付けッこの戦争では道徳なんかどっちにもない、新コお前は道徳で万事が片づくなんて伺処で聞いてきたんだと、グウの音も出させない程やッつけた人足も、新コお前又そんな眼をするとたびたびいった。この人足だった人の顔を新コは忘れません、四十余りの黄いろい顔の眼の澄んだ、しかし、人足としては並以下の男でした。そのころ新コはこうした人が、人足稼業にどうしてなったのだろうと思うことを、一向に思いつかなかった。新コの眼つきを兎や角の場合、口に出していうものはその外にいくらもあった、余りいわれるので馴れッこになってしまったので、勇助にいわれた時も返辞は略しただけで済ました。後年になって新コは、大きな姿見を家に有《も》つようになってから、さまざまの顔つきをやって見て、眼つきを検めたが、往年の眼つきはなくなっているようでした、したが、スナップされたのを気がつかなかった場合、その印画をみせられると、十に一ツぐらいでもあろうか、厭な眼をしているのがあります。  勇助からみれば新コは小僧ッ子の筈で、今度の旅先仕事の元締の倅というだけのものです、遠慮なぞしていなかった。新コさんは女を知るまい、それで別嬪なら振返って見たいが怖し恥かしなんだとズバズバいった。新コは女という女を可哀そうだとしている、その拠りどころは、遊興の場所でさんざん見てきた遊客が、遣う金銭を武器にして横暴をやる、その上に、新コの知っている男という男は、女について話が出ると腹のへッた獣みたいにすぐ化けやがる、という、ただそれだけのものです、もッと他を観ることを知らない新コは、それらの事から女に手を出す気が起らないのでした。春宮冊子をそれまでに見ないのではなし、その現物だとていくらも見てきたし、見せられて来たしだから、話や想像だけでニキビを出しているのでない、だが、さんざん経験した後のものでもない。経験する機会ならいくらでもあったが、それに乗ずる気にならなかった。野毛という処にいたとき、新コは十四五歳だったろうかしら、大きな洋服屋の妾がいて、たびたび水を向けられた、と判っていて気がつかない振りをし、そのたびたびを避けた。先代か先々代かの新内の津賀太夫がまだ若くて、スラリとした躰に刺青の色が鮮かなころ、近所に住んでいたので、井戸端で新コに行きあったとき、勿体ねえじゃないかよ、俺ならすぐ拾って食べるのにと冷《ひや》かしたことがある。新コは早熟だったから拾って食べなかったのだ、ここの処は世間でいう早熟と表裏の違いになっているのでしょう。後年になって、一派の家元を樹てた津賀太夫が、新コを訪ねてきたときは、頭こそ兀《はげ》たれ、年こそ寄ったれ、昔の俤がそッくり偲ばれる小粋なとッさんになっていて、新コのことを何処かで聞いて、あいつかと知って来たものらしく、用談がすんだ後で、今いった洋服屋の妾のことをいい出し、あのタレ(女)は他人事《ひとごと》ながら惜かったといった。こう云われなかったらこの話は、新コの記憶の底で睡った儘になったに違いない。津賀太夫はその昔、ランプ軒燈の硝子に石川だの鈴木だのと字を書いていた。こんなことならまだまだあります、新コは働き人になっている頃にもあの女は俺に惚れているとはッきり判っていても、手を出さなかった。三州乗込みの前にも、煙草屋の看板娘に真向からお断り申上げたこともあり、易者の娘でちょッとした顔だちで蓮ッ葉なのが、浮気なんだからいいじゃないのと攻め寄せて来た、こいつもお断り申上げたが、そのあとで暗打ちを食わされた、易者の娘が裏へ廻ってした意趣返しだったでしょう。兄の秀太郎の美男とは似ても似つかない生れつきでも、そんなような事はさすがにあったが、此方から仕掛けたことは一度もない、そんな風な料簡が後に作品の中に出てきた故でしょう、『旅人《たびにん》草鞋』の主人公を、病的な潔癖な人物とか、有り得べからざる人物とか、批評を受けた。  それは兎に角、勇助は新コを相手に女の話をしても下らないと思ったのか、新コも知っている人物について聞かせた。だれの事をどういったか忘れたが、梅原の雷おやじとか、お女郎仙太とか、杉角とか、丸屋の勘介とか、そういった人のことだったろう。梅原の雷おやじとは、そのころ関東の土工の間で知らぬものなしの名物男で、道理をよく知っているのにおとなしい口はきかない、小棒をもって逃げる奴を追い廻しそうで居てそんな事は決してやらない、ガミガミ怒鳴り廻すが、その叱言の浴びせ方がうまく、時によると、叱言を怒鳴っているのが、どこかしらで褒めることに一変する、だれでも叱言と褒め言葉とは、呼吸を別にしないと出せないものなのに、雷おやじはおなじ調子の中でやった。お女郎仙太は土工の親分でなく鳶の頭だった、人間は確かで立派なところがあったが、お酒落が病いで、薄化粧をして外へ出るといわれたものです、新コは仙太と仕事の上の交渉があったので知っているが、薄化粧なんて嘘ッぱちで、手の爪の間にゴミを入れていない、耳朶の裏までいつも清潔にしている、そんな事ぐらいのものだのに、口紅をさしているの薄化粧をしているのと、知らぬ他人がいう、世間の噂なんてものは面白い趣向に当嵌《あては》めて迷惑させるものを作るのがうまい。仙太はちょッとみると、薄化粧をしているかと見える皮膚の色ツヤをしていた、ただそれだけでした。丸屋の勘介というのは新コの知っている限りの土工の親分のうち、これ程の人物はなかったと思われます、円熟の中にどこかしら稜角のある顔で、でッぷり肥っている為めか動きがおッとりしていた、この人のことを、余り人間が立派なので関東一のおやじにはなれないのだと、だれかが云ったのを新コは聞いたことがあります。この批評の言葉を新コは、忘れまいとしてでなく、忘れずにいた。  杉屋の角は三浦三崎のヤンツ(矢津)の軍用隧道の工事のとき、新コは知っていた、西行旅のタコがはいった男で、顔の売れた土工でした、物語りにある侠客のようなことをやって、他人を感心させたかと思うと、横車を押し捲くって他人に怖れられた、喧嘩も博打もうまく、金を巻きあげるのもうまかった。或る暗い晩、新コが村の郵便箱のある処を通ると、キラリと光る抜刀《ぬきみ》を洋杖のようにして来る黒い動きが目近かにみえた。抜刀の光りは怖いが、洋杖に扱っているのが光り物だけにすぐ判ったので、怖さがいくらか減ったが、目と鼻という程に近くなって来ると、背中が冷めたくなった、と、黒く見えるだけのその男が、新コに眼をスリ付けるようにした、こうなると相手に害意のないのが、抜刀をそのときも洋杖扱いにしているので知れたから安心すると、その男が詰らなそうに、なあンだ虎のところの新コ小僧かと呟いて行ってしまった、これが杉角だったのです。だれかと間違えて、いつも持っている樺皮の仕込み杖を抜き、ステッキ代りに突いて近づき、強談で金をいくらか借用する気だったらしいが、チンピラの新コでは、相手にとって弱きに過ぎるので止めたのでしょう。父が現場監督に雇われている頃のことです。  その後、新コは父に、矢津から追い返され、わずかの日がたつと、隧道工事にヤマが来て、新コの知っている煉瓦工の近藤吉はじめ二十何人が生埋めになった。父は用材の検査に、隧道から出て入口に来たとき、ヤマが来たのだという事です。こういう事があると、同業の誼《よし》みで関東各所の現場から見舞が届く、見舞は主として助ッ人の土工で、米味噌醤油や石油は二の次で、助ッ人が何人・十何人・何十人と相踵いで水陸両路から集まり、大土瓶にボロや藁を芯に詰め、石油を入れて火を点《とぼ》す、これが夜業の照明で、現場とその界隈へ吊り連ねる、その灯の明るさが、金沢街道の十三峠や、杉田・磯子・間門《まかど》などからみると、火事かと思うばかり、夜空を染めたということです。  助ッ人に来た土工の日当は銭でも食でもなく、崩壊のうちに包まれている人を助けたい、それ以外にないのだから、その働きは鬼神さながらです。杉角のような遊び土工はというと、こういう時にぶツかると命知らずに働くのが十のうち九です、杉角もそのとき獅子奮迅の働きでした。新コの少年時代のたッた一ツの写真に写っている近藤吉は、この隧道ヤマで圧し潰され、板のように薄くなって死んだ、その外にも死んだものが十何人かあり、助かったのも十何人かあった。これらの話はそれから間もなく父から聞いた、父はこんな騒ぎを抑揚もなければ昂奮も誇張もなく、咏歎一ツ入れずさらさらと語りました。父の話振りはいつだってヤマがない、それが生活を暗示していたのでもあるまいが、一代にヤマを築くことなく、しかも、朝鮮・満洲までうろついて、失敗のうちに、大詰の幕を閉じてしまった。その父が晩年に、呉の水野甚次郎は大物になったが、杉角も水野とは違った意味でノシあげたといった。杉角は沢井又三郎というのが姓名で本所に住み、土木仕事の大きな入札に、そのころは付きものの談合の立役者になり、博徒の親分とも相当の交渉をもっていたそうで、父は俺も一度会いに行ってみようかといって居たが、志を遂に得なかったのをヒケ目に感じた為めか、訪ねたことはないようです。矢津の時から四十年足らずたってから、警視庁が東都映画の社長にノシあがっていた沢井又三郎を検挙する気で、材料をあつめているとき、作家になっていた新コを呼び、あなたの作品が沢井に一番多く盗用されて居りますがといった。新コはそんな噂をよく聞くが、沢井の会社は、私のものを模倣はしているが盗用はしていないと、沢井に有利なことばかり強引にいい切って引取った。昔の杉角へ新コがするこれは誼みといったようなもので、実際はひどいこと作品を盗用されていた。この為めでもなかろうが、沢井又三郎が検挙されたという新聞記事を見ませんでした。沢井はその後になって新コのところへ、人を介してたびたび会いたいともいい、あなたが好きだともいって来たが、新コの顔をみたこともなく、又、その正体が新コだとは死ぬまで知らず終いだったろうから、警視庁の調べに、新コが何と答えたかも知らず終いになったに違いありません。  さて赤目の勇助は、汽車が駿河か遠江かをはしっているとき、新コさん今度ゆくところには海道筋で名の売れた奴がいる、そいつは「火事より怖いは半畑《はんはた》加蔵」と唄にうたわれた奴だと、耳許へ口をつけて云った。それで判った、拳銃を父が持たせた訳がです。 [#改ページ] [#1字下げ]詐欺師[#「詐欺師」は中見出し] [#7字下げ]一  豊橋で汽車を降りるとき新コは蜜柑箱を置いてきた、空ッぽです、蜜柑は一ツ残らず腹の中へはいってしまっていたのです。駅に坊さんみたいな男が迎えにきていて、父の引合わせで野原の犀次と赤目の勇助とに挨拶を交していたが、その人が土木業のものでないのは挨拶振りでわかった。新コもその人に引合わされたが、父の引合わせ方は至って手軽い、新コは勇助と犀次に比べたら、ふくらませた空ッぽの紙袋みたいなものです。  坊さんみたいな人はこの街の伏田《ふしだ》という薬屋の主人で、父や天下の糸平の元番頭島中老人やと同様に、少壮実業家風の前谷の金方《きんかた》の一人でした。金方とは出資者という古い言葉で、その頃つかっていたのです。  その晩は壺屋という旅館泊まり。宵の口にはいると勇助と犀次は、飲みのこりの酒に目もくれず出て行った、女遊びにきまっています。  飯をだれより先に勝手に食ってしまった新コが、座敷の隅で土地の小型な新聞を読んでいると、伏田と父とが、だれかを褒めたり感心したりしていた、聞いているうちにそれが、新コが好かねえ野郎だと思っている前谷のことだと判りました。父は話下手だが伏田は話上手で、今までに薄々ながら今度の仕事は海面の埋立だとは知っていたが、そうでないのをこのときの話で覚りました。  前谷町太郎という男は、静岡県のH市にある旅館の婿で、発明に凝りに凝って、幾ツだか特許をとっている、それが天下の番頭老人や、父や、この土地の伏田までが敬服している要点の一ツでした。三河の渥美湾に牟呂《むろ》という処があって、そこの富豪が遠浅の海に堤を築き、広大な新田をつくりあげた、それは今度行く処の対岸ともいうべき方角でのこと、前谷が発企し権利をとった新田つくり[#「つくり」に傍点]は豊橋から渥美半島を田原へはいって行く途中にある、天津八丁|畷《なわて》の、遠浅の海に築堤して牟呂のそれと同様の新田をつくろうというのでした。ところが天津八丁畷の予定地より少し田原に寄ったところに、前谷の発企よりもッと早く、遠浅の海に築堤したものがあったのだが、工事の失敗か、自然の力が新田の出現に反対するのか、潮がはいって来て、稲作を何度試みても不成功で、畑にやり直したが矢張り潮がはいって収穫に至らない、潮は築堤から漏れてくるのでなく、地の下を伝わってジワジワと、目にとまらぬ微かなそして一面に広く侵入をやるのだそうで、それだけに防ぎもならず守りも成らず、関係者は倒産し、人は悲劇に追い込まれ、土地は荒廃した。俗にそこを八兵衛新田といい、今そこには半畑《はんはた》加蔵が小屋をつくって俺の心血をそそいだこの土地にはどいつもこいつも近寄らせないと頑張っているのだそうです。赤目の勇助が「火事より怖いは半畑加蔵」といった男の居どころが、これで判った、だが、尋常ではすまないらしいことも判りました。  父と伏田が話合っているその中に、シンジゲートだとかフランス人とか、渡辺崋山とかいう言葉が出た、新コは渡辺崋山なんて知りません、それは何処の人ですかと聞きそうなものを、例の如く黙っていた。  だが、大人二人が水混えもせず、というような調子でする話を聞いているうちに、いくらか判って来た。渡辺崋山はあしたの午後、新コも乗り込む田原という一万二千石の旧城下の人で、徳川時代に切腹して死んだ家老で、学問もあったが画がうまかった、その渡辺崋山が、三宅という小大名の主家の貧乏を救うとて、八丁畷一帯の遠浅の海に、築堤して新田をつくろうとしたが、その機が熟さないうちに世を終った、だから、前谷町太郎は昔の渡辺崋山とおなじエライ奴なのだと、伏田がこの話に結びをつけた。伏田の話はすぐ、崋山の画が高価だということに移り、偽筆の多いことや、偽筆屋の中にも上等中等下等があることや、崋山の絵の偽筆はできても文字がなかなか偽せられないとか、絵の偽せがまずい者が書の偽せのうまい者と組み金儲けをしたとか、そんな話をやるうちに、話はフランス人の事業団のことに変り、この仕事にそのフランス人達が金を貸してくれるようになったのは、前谷が非凡だからだと、この話にも結びをつけたのは伏田でした。父よりも伏田は謂うところの教養があるらしく、満目荒涼の秋だの、諸行無常を告げわたる鐘の声なぞと、その話に要りそうもない文句を入れて、話を語りひろげて行った。新コは雑誌で読んだ文句が、通例の話のうちに織り込まれているのを聴いたのは、この時が最初でした。衛生試験所の髭青年だって、話に伏田ほど文章を千切って挿入《はさみい》れはしませんでした。  伏田はフランス人の事業団の代表に会ったかと父に聞いた。話は聞いているが会ってはいないと父は云った。伏田は一度どうかして会ってみたい、前谷から聞くと代表は、学識があって多芸多能で、絵なども玄人の域に達しているそうだ、というような事を躰を乗り出していっていました。  翌日の朝、新コが眼をさますと、朝帰りの犀次も勇助も、風呂からあがって来たところでした。伏田がそのうちにやって来て、父と新コと勇助と犀次と五人で、前祝いの盃を挙げた。そういうときの新コは末席に座った、父がそうさせる。そこへ田原の旧家だという蓮矢宋左衛門という、角力の年寄みたいなおやじがやって来ました。父は面識があるらしく、犀次と勇助は初対面の挨拶を交した、新コは手軽く父によって紹介されました。  伏田と蓮矢に見送られて一行四人、汽車に乗って豊川へゆき、稲荷へ詣で、大護摩を焚いて工事の成就を祷り、護摩札のバカでかい[#「でかい」に傍点]のを勇助がうしろ[#「うしろ」に傍点]首に掛け、それより小さいのを、父も犀次も新コもうしろ首に掛けた。父は背広服だが、勇助と犀次と新コは、印半纏・腹がけ・股引・脚絆に手縫いの地下足袋、三人とも二子《ふたこ》の羽織を引ッかけていて、羽織の紐は三尺何寸かある。だれも彼もいい気持ちになって豊橋へ引返し、田原行の古ボケた乗合馬車に乗った。ところがその日の豊橋の小型新聞に、県下渥美郡の一部海面を埋立て、田畑を得んとするものと称し入り込みたる自称請負師一行は、その出身地にては名もなきものにて、莫大の費用を要する工事を、果して能く遂行するや疑問多大なりと或る人いえるが、この一行が詐欺師に非ざれば、自他ともの喜びという可きなり、という記事が出ていたのを知りませんでした。知っていたら豊橋を素通りする勇助と犀次とではない。 [#7字下げ]二  後に電車が通じたが、そのころはガタ馬車だけが豊橋・田原の間の乗り物でした、人力車もあったが、四里三十丁ぐらいある長帳場では、銭がかかってその上に遅いのだから、人力車稼業には向かないものとされていました。  田原へ着いたので、ガタ馬車から下りた新コは一ト目だけ街をみた、別に何ということも此処にはなく、人通りが至って少ない田舎の町だと思っただけです。眼についたたッた一ツは、町の裏のずッと向うに太い煙突があって、黒い煙を吐いているのと、何軒もの家の戸袋に漆喰細工がしてあるのが、始めて見た珍らしさだっただけでした。  木戸屋という宿屋へ、父が先に立ってはいってゆくのを、店先にけさ会った蓮矢宋左衛門が待っていて迎えた。八丁畷からは先乗りで来ている庄司の久も来て待っていた。みんなは木戸屋へはいったが、新コは外に立って木戸屋の二階にある左右二ツの戸袋をみていました、色のはいったうまい漆喰細工で、恵比寿と大黒天が年数をちッと食っているからだろう、色褪せているのが却って良かった。それから三十年もしてから、この家の表がかりをモトに考え出したのが、新コの作になる、『取り的五兵衛』の序幕の舞台面だったのでした。  父と新コの常《じょう》部屋は、母屋の中を抜けてすぐの離れの上段の間《ま》、ということになった、十畳ぐらいだったろうか、床の間を挟んで正面と手前とにれんじ[#「れんじ」に傍点]窓があり、正面の窓の外は径があってずうッと稲田、その果にセメント工場の煙突がぬッと起っています。  犀次と勇助とはどこに常部屋をとったのか、新コは知らなかった。着いたその晩は、母屋の二階でだろう、酒宴をやったらしい。新コは早くから蒲団の中にはいった、ときどき眼がさめると母屋の方で唄三味線が聞こえ、騒々しい声もした、又暫くして眼がさめると、近々と女の話声がした、色街の女の話声とは判るが、何をいっているのか聞きとれない、言葉が違うのです。タタキの上を歯のある下駄で歩く音は女の足のはこびだ、それから水の落ちる音がしたのだが、どういう水が落ちるのか、耳に馴染みのない音を一度ならず聞いた。別に気にもならないので眠った。翌日の朝になって、聞き慣れない水の音の正体が知れました、あれは木戸屋の内芸者や女中が、ムキ出しになっているセメント塗りの男便所で、うしろ向きになって着物のどこかをちょッと抓《つま》む、ただそれだけで放水している、その音だったのでした。  一行四人、ガタ馬車に乗って天津へゆき、庄司の久に迎えられて称名庵へはいり、一ト憩みすると、新コを残して父達三人は、庄司の久を道案内人に、手土産をもって、老津《おいつ》だの杉山だのという村へ挨拶に行った。新コは田原へ歩いて帰っていろというのだから、称名庵を出て灰色の空の下をぶらりぶらり、何里あるのか知らないで歩きはじめた。きょうは凪も同然だが、この土地は風当りが強く、十日のうち二日は人間が吹き飛ばされる風が吹くと聞かされたが、見れば松並木の松がどれもこれも曲りくねっていて、新コが今まで見てきた松の木とはたいした違いだったから、聞かされた話は嘘ではないと思った、それに凪も同然だというこの日も風当りが強く、海の方へ顔を向けると眼と鼻の穴が痛くなった、歩くのに顔をすこし斜めにすると、だいぶ楽です。凪同然でこれなら風が強いとなったらどういう事になるのだと、厭な気がしたが、それは僅かのうち、ここが火事より怖いといわれる半畑の加蔵が、意地を張って居着いている八兵衛新田かと、荒れ果てた田圃を次々に右に見てゆくうちに、風のことなど忘れてしまいました。その後、田原と老津を往来する五六日のうちに風に慣れ、それから先は、風がいくら喚き叫んで吹いても苦にならなくなりました。  起工祝いのときに、村々から出る土はこびの人々にやる手拭も蜜柑も餅も、木戸屋に届いていたが、起工祝いが出来なかった、此方はやるつもりで称名庵に酒の場所を設け、酒も煮しめ[#「しめ」に傍点]も強飯も要意したが、招待してあるのに村々から一人も出て来ない。仕事始めとは、村の衆がそれぞれ手持ちの小舟に、こっちで買って渡したパイ助に土を入れて積み、築堤する処へ立ててある紅白の旗の線で海にあける、それを一回だけやって貰うのでした、起工祝いだからこの日に限り、一パイの土を二ハイに勘定して銭を払い、その外に手拭と祝儀を出す、というのだったが、前にいったように一パイの舟も出てこなかったのです。  庄司の久が青くなって村方へ行ったが、村の有力者は寺へ行って留守だの、浦へ行って留守だのといい、老津へ行くと杉山へ行った、杉山へゆくと加治へ行ったという、若者頭を尋ねるとこれも留守、村役場へゆくと、担当が違うからどういう事になっているか聞いて置きましょうというだけで、掴みどころがないと、眼を血走らせて帰って来ました。これで起工祝いは一先ず中止。  父はもとより田原の蓮矢や豊橋の伏田、その他に二三人の有志者というのが村方を歩いた果に、どうしたものかと称名庵で相談となった、その時になって始めて、前いった新聞記事が村方に信じられ、称名庵の奴等は詐欺師だとなったと、庄司が聞き出して来ました。蓮矢は新聞記事をみたのだろうに今まで黙っていた、伏田だって見ない筈はないのに黙っていたのは、合点がゆかないことだ。そのことで又だいぶ揉めました。  これを相談の末座で聞いていた新コの躰の中で、ぐウと鳴って這うものがあった、頬がいい具合いにホテって来て、ずきンずきンと緩く脈があっちこっちで打ち、快《い》い気もちになって来て動かずには居られなくなって外へ出た、潮風が顔にあたるのが笑いたくなる程いい気もちです。新コは街道へ出てガタ馬車のくるのを待った。豊橋の新聞社へ行く気です。  庄司の久と勇助が駆けて来て、新コさんどこへ行くと、勇助が体を押しつけて聞いた。三寸足らず背が違うので新コは見卸されている。豊橋へ行ってみるよというと、豊橋のどこだと聞いた。どこだか行ってみないと判らないよと答えました。  そこへ田原の方からガタ馬車が来た。新コさんをあの馬車には乗らせねえと勇助がいったが、新コは乗るよと答えた。ガタ馬車はまだ遠くて、馭者の目鼻がはッきり見えない。どういう気だったか新コはそのとき、腹がけの丼へ右手を突ッ込んだ、拳銃はそこにはない、丼の下の晒の腹巻へ突ッ込んである、匕首も一口《ひとふり》もって来てあったが、要る筈がないのでこの日は田原の常部屋へ置いて来てある、拳銃にしろ匕首にしろ、勇助と庄司が相手では用がないのだから、その為めに丼へ右手を入れたのではない、後に思うに新コはそのとき、右手の置き場所がないので丼へ突ッ込んだのでしょう、その外には考えようがない。新コのそうした動きを何とカン違いしたか、庄司の久が新コを抱きすくめ[#「すくめ」に傍点]にかかった。新コは抱きすくめ[#「すくめ」に傍点]る気の庄司とは思わないから、これもカン違いをして立ち向かい組打ちにすぐなってしまった。ガタ馬車がそのころ近くなって、馭者が手綱を控えそうにしたので、勇助が二十銭銀貨を馭者台へ、載せるように抛って手を振って行かせたそうです。新コはそんなことをちッとも知らない、尻餅を搗いて庄司に抱きすくめ[#「すくめ」に傍点]られ、身動きが出来なくなり、息を切らせていました。  それからの新コはさんざん叱られた後に、当分のうち現場へ来ちゃならねえ、宿屋から一足も外へ出るなと、父からいい渡され、その通り実行させられた。閉門謹慎というヤツでしょう。  父も犀次も勇助も顔を見せない日が続き、宿屋の若い女中が三度の飯をはこんでくる、それだけで、だれも来ません、新コは黙って時間を送った。口をきかずに居ることは新コには楽なのです。  話をどう切返して納まりをつけたものか、三日目だかの夜、母屋の二階に勇助や犀次の浮き浮きした声がした、やがて父がやって来て、新あすは仕事始めだ、今度は滞りなくゆく、朝が早いぞ、といって母屋の二階の方へ引返して行きました。  その頃はもう芸者や女中が立った儘で放水するのに新コは慣れていた。新コが用足しをしている隣りへきて、用足しをしてゆく女の方でも新コに気を置くようなことはなくなったらしい、だが、新コは飯をはこんで来た若い女中に、一ト言か二タ言はいうが、その外は口をきかない、内芸者が三人いたが、その女達にも口一ツききません、向うでも口をききかねるらしい。新コはいつもむッとした顔をしていたのかも知れません。内芸者が三人といったが、感違いだったかも知れない、名古屋のものだという小万という中年増は、小肥りした色の白い女で、この人は確かに芸者だったが、外の二人は鑑札が酌婦だったかも知れません。新コは廓の女のことは知っていたが、芸者のことはその時はまだ知らなかった、殊に芸者と酌婦と一緒にいる処では、見境がつくような眼にまだなっては居ませんでした。  今度は起工祝いが事なく出来て、何発かの風船花火もあがった。三河は花火が自慢の土地です。蜜柑と餅と手拭も投げ、銅貨と銀貨とは紙でおひねりにして投げました。人寄せの演芸とてはなかったのだが、それでも撒き物を拾いに二百人余りの人出がありました、その頭の上を目ざして撒き物をするのは面白い、拾う者になるより余ッぽど面白い。  その翌日は風がさしてないのに、一パイの舟も出て来ません。犀次がむずかしい顔をしているのを、勇助が宥めているその近くへ新コがゆくと、二人とも急に豊橋の廓の女のことをいうのが、取って付けたようなので、この二人は聞かせたくない話をしていたのだと新コは気がつきました。ちらりと聞き噛《かじ》っただけだが、話は半畑の加蔵のことだった、とは判ったが、どういう筋の話だか判らないので、何の話だよと尋ねたが、新コさんには用がねえ女の話だと勇助がいうと、犀次も何かいった、札木《ふだき》へ一緒にゆくかねといって笑ったのはこの時かも知れません。新コは知らないが札木というのは豊橋の廓の地名で、二人とも到着の晩に、初会で遊んだだけで、裏を返していない女があるのでした。初会だの裏を返すだのとは関東の遊廓の術語で、第一回と第二回のこと、第三回からを馴染という、今もそんな廓言葉がつかわれているかどうかは知らない。二人の隠した話を新コは追わない、黙っています。  父はそのころ豊橋から駆付けた伏田と、村方へ打つテの相談に、田原の蓮矢の屋敷へ行っています。村の人々は新聞記事を信じて、詐欺師だと思い込んでいるらしい、それならそれで誤解を打解するより外に途はない、それが駄目だというなら、村方と前谷が結んだという契約を解くのに同意して貰うより外はない、だが、前谷は村の人々以外は一人たりとも工事に使わないと契約して、海面埋立に村方の同意をとったのだから、契約を解くと村方は埋立に反対するだろう、そうなると新田つくり[#「つくり」に傍点]の工事が出来ない。こういう事があるので父達が、蓮矢の家で相談を続けているのだと、新コは知っていました、勿論、犀次も勇助も庄司も知っている。この三人はここへ土工部屋を建て、土工を集め、村方の不承知に対しては、蓮矢なり伏田なりを差し向け、駆け引きをやらせて置くうちに、工事を捗らせ、三分でも四分でも施工が目に見えてくれば、村方との話は付くに決まっている、とこういう意見だったのです。新コさんはどう思うといわれたが、新コには何の考えも出てこないのです。村方が現場に無言で尻を向けているのは、詐欺師|呼《よば》わりした新聞記事の為めだから、先ず記事を取消さすことだと、勇助も犀次も庄司も気がつかない、父も蓮矢も伏田も矢張り気がつかずにいるらしかった。新コは前にただ一人で押しかけて行きかけた、だのに、今度はそれに気がついていません。しかし、新コでは気がついたところで、記事の取消しをさせ有利な記事を書かせるような談じ方は到底できません。  七八日目に工事が漸く始まった、豊橋の安宿の主人連に伏田や蓮矢や父などが頼み込み、ランプ・小間物・薬などの行商人に、八丁畷の新田工事に村方が働かないそうだがバカではないか、相手が詐欺師であろうがなかろうが、働いただけの銭を払う仕事に、自分の方から銭を取らないようにするとは、天保生れの大揃いで、明治生れの者は村方にいないみたいだ、と云わせたのが効を奏したのだと後で聞きました。そのころは天保年間生れの人は時勢遅れだといったものです、古い物は悪く新しい物はいいという、旧弊頑固と文明開化と二ツに、大雑把に分けた明治初年の粗笨を、そのまま持越していたのです。古い新しいではない、良いわるいだと新コは後で知ったが、そのときはそんな事に気がつくどころではありません。  工事はどうやら進みかけたが、こんな悶着があっても、工事の権利を有つ前谷は一度も現場へ来たことがない、豊橋までは来たと聞いたが、田原にすら来ません。  そのうちに、八兵衛新田の半畑の加蔵の様子が、おかしくなったという噂がちらちら飛び始めた。その外にもう一ッ、前谷町太郎から送ってくる金がいくら催促しても届きません。父は家はもとより何も彼も抵当に、借りられるだけ借りた金を、それまでに注ぎ込んでしまったので、日毎払い出しの銭の底がみえて来て、苦しい立場に日毎日毎深くはいって行っています。  或る日、勇助が新コさん騙されたと思って六発に実弾をこめて肌身放すな、匕首も肌身放すなといった。その日のうちに犀次もおなじことを新コにいいました。 [#改ページ] [#1字下げ]フランス紳士[#「フランス紳士」は中見出し] [#7字下げ]一  今度の工事は右と左と場所は違っても、遠浅の海面が続き合いで、こっちは沖へ土を入れて築堤を新たにやる、八兵衛新田の方は既に築堤され、潮が浸んで耕作ができないでも、形ちの上では新田が出来ているのだから、区域を接しているだけで事は別です。ではあるが八兵衛新田に半畑《はんはた》の加蔵が小屋住居して居るのだから、同業の辞儀をするのは礼儀です、引越し借家だとて向う三軒両隣りには挨拶にゆき、引越し蕎麦も配るのだから、父と勇助と犀次と三人が乗込みの翌日、現場を見にいった時に、手土産をもって辞儀に行っている、俗にいう仁義です、だから念が届いていない事にはならない、もう一ツの言葉でいえばワタリは付けてある、だのに、半畑の加蔵の様子がへンだと勇助も犀次も観た、庄司の久までがおなじように観て、眼つきをときどき険わしくすることがあるのです。  新コよりずッと年上で、場数を踏んできた三人が観たところでは、半畑の加蔵は八兵衛新田の不出来の残念さから、新規に工事にかかった他人の新田つくり[#「つくり」に傍点]にやッかみ[#「やッかみ」に傍点]が出て、村方のうしろへ廻って糸を引き、こっちの工事をぶッ壊《こ》わす気だという事でしたが、全くそうかどうか知れたものではないのだが、聞いたことに判断を下して是非を分ち当否を決める、それが新コには出来ないから話はその儘に鵜呑みで、随って三人が抱く、いずれは何かのキッカケから達引《たてひき》(喧嘩)になるだろうという見込みが、その儘に新コの見込みになったのです。こんなだから、新コは若いといっても二十歳に近い、大物になれない素質がこの時もうはッきり出ていた、ガキの時から現場に生きて来ていて、飯をくらッて背がのびて小力が出て黙ンまりになった、その外に成長したところがなかった、貧乏だけして苦労をしてこなかったのと同様で、器に欠けたところがあったのです。  火事より怖いと唄にさえなった半畑の加蔵が相手では、容易なことではないという三人の心配が、新コにはたいして響かない、話を隠し聞かせない方が多いから知らない、知らないということは一種の英雄でいられる条件です。後で聞いたことだが三人は、同業の間で知られた加蔵だから、三河・尾張にだけでも渡世上の兄弟分と伯父甥とが多いだろう、それに廻状でも掛けようものなら半日か一日かのうちに、相当の人数が寄ってくるだろう、そうなってからでは此方は無勢で、忽ちのうちに関ケ原の石田三成になる、もしそんな気配がみられたら、棄身になって先手を打ち、出来れば和談にもって行く、狂いが出たらそれまでの事、と思い切った料簡をもったのだそうです。こういう考え方は文化というものからは遠いものだが、形ちが違い言葉がむずかしくなっただけで、四十余年後の進歩の照明が投げかけられている下《もと》でも、これと似たことが学校経歴のある人ない人が一ツになって、相変らず繰返しているようです。  それから幾日かして新コは、現場でやるその日勘定の払い出しが済んでから、独り老津《おいつ》から田原へ、いつものように歩いて帰るとて、八丁畷の松の下をゆくと、うしろに足音がして、松を吹く潮風にその足音が消えたり聞こえたりする。その晩は暗かったが、新コはいつもの如く提灯などはもって居ない。振返ってみると、どのぐらいの距離のところか判らないが、黒く人型のものが起っていた。加蔵の様子がへンだと教えられていた故でしょう、来たなッと新コは思ったが、その時はまだ怖いと思う気が出ない。聞き耳をうしろの足音に働かせて、ゆっくり歩いてみた、うしろの奴もゆッくり歩いているらしい。今度は小急ぎに歩いて、出し抜けに踏みとどまりながら振返ってみた、うしろの奴も小急ぎになっていたとみえ、新コが振返ったとき立ちどまった。もう間違いなしだ、狙われているのだと気がつくと、鼻の穴の奥から頭の中へかけてキナ臭い気がして、躰が寒くなった。寒いのが先だったか、キナ臭いのが先だったか判らない、一緒だったでしょう。  うしろの奴は新コが速く歩くと速く、ゆッくり歩くとゆッくり来るらしい。今夜は称名庵へ泊まればよかった、勇助も犀次も泊まったのだから、と思った途端に踵から脳天へかけて、ズウンと響いたものがあり、それと一緒に怖さが出てきて、呼吸を胸でばかりしていて、引くより吐く方が多いのが自分にもわかります。奥歯がカチリと音を立てたので、二度と歯を鳴らすまいとしたのに、不意に歯がカチリと鳴ります。やられるぞとは知っているが、突かれるとも斬られるとも殺されるとも思っていない。この時のこと以外でも土壇場になったとき、或る種の小説などにあるように考えたり思ったりが新コにはなかった。じりじり死を不慮に待つ時は、相手がみえないか遠いかで時間があるので、考えも思いも出るだろうが、相手が近くにいたのではそんな時間がない、そのとき持合わせの精神のありッたけが相手に注がれているだけで、考えたり思ったりしたらそれは“虚”になって、形ちに出て、終末へ一足飛びに行かされてしまいましょう。  新コはいつの間にか腹掛けの丼へ右手を入れていた、当人が知らないうちに手が動き、指が拳銃を握っていた、と気がつくと、今までは負け身だったが今度は勝ち身の気がして来て、躰の寒いのを忘れた、口の中で舌を動かして乾いていた口腔へ唾を塗り廻した。うしろの奴は立ちどまったらしいが、又も跟《つ》いて来ています。  加蔵の小屋のある八兵衛新田は、さッき通り越した、加蔵の小屋に灯が点っていたかどうか気がつかなかったことに、後で気がついた。腹掛けの中で拳銃は口を前へ突ッ張っている、すわとなったら左右どっちかの足を引けば、躯の向きが変わるのだから、銃口をうしろへ向けるには及ばないと、それは知っていた。二三日前から空包を外し、六発とも実包になっています。新コは的をきめて拳銃を射つと一ぺんも当ったことがないが、逃げる兎や飛び立つ鴉を射つと三度に二度は中る、その故かして、俺は気もちを空ッぽにしてやると当るのだ、という気があったので、負け身はどこかへ行ってしまい、相手の攻勢を待ってバンとやる気でいます、だが、新コの拳銃はそのとき安全弁が外されていない、それで居て相手が攻勢になるのを待ったのだから、怖い物知らずという、一種の痴症に罹っている時だったのでしょう。  うしろの男の姿が消えてなくなりました。 [#7字下げ]二  うしろに居た奴が、急に前の方二三十間と思う処へ現われ、すたすた歩いています。道路の左は一段低くなっていて、小さい水の流れがあって、それに沿って径がある、そのあとは一面の水田で人家は遥か遠い高地の根にある。後にそこいらには電車の軌道が布かれたので、様子が変ったが、それでも大体は今もその頃とおなじでしょう。妙な男はたぶん道路から低い方へくだり、新コに知れないように先へ抜けて出て、往来へ姿を現わしたのでしょう。そんなことはどうでもいい、行く手を塞いだからには、どうでも何とかする気だと相手の心を読む外ないので、新コは丼の中の拳銃を指で検《あらた》め、安全弁がその儘だったのに漸く気がついて慌てて外した。それに気がつかないうちに攻勢に出られたら、少くとも一トコマ遅れて、取返しのつかない後手《ごて》になったことでしょう。  新コの躰がいつかしらぽかぽか温かくなっていて、頬を撫ぜる夜気が快い、舌を動かしてみると口の中が濡れています。新コは丼の中で拳銃を起こし、相手の黒い背中を目ざして足をはやめると、そいつが道の左側の灌木を踏み折って姿を消した、新コの躰の線が変ったのを知ったのでしょう、それでなくて姿を消す筈がない。新コは幾足ぐらいだか歩いてから、立ちどまって、相手が出てくるかと待ちました。夏ではないのに躰中に汗が噴いていて、頸のところが殊に濡れています。  新コが歩き出すと、うしろの方で足音が一ツ二ツ聞こえた、振返ってみるとあいつめ、又も道路へ出てきて新コを跟《つ》けています。しかし、もうちッと行くと人家が三四軒ある、どの家も戸を閉めているが隙もる灯があるからまだ起きているらしい。田原の町に近いところまで来ていました。  田原の入り口の橋へ来たので、新コは向きを更め、うしろの男を待った。そいつは立停まって新コを見ている。新コもそいつを見詰めた。出し抜けのように舌打ちが一ツ聞こえたかと思うと、うしろの男が逸散に駆けて行く、姿が黒くみえたのはちょッとのうちで、足音ばかりが聞こえた、その足音がいつまでも聞こえた気がしたが、それは空耳で、聞こえなくなっているのに聞こえる気でいたらしいのです。  新コは橋の欄干に手をかけ躰を支えました、片手は腹掛けの丼の中にまだはいっている。急には歩け出せそうにもなかった。漸く欄干から左手をはなすと、掌がびッしより濡れていた、夜露が欄干に降りていたのか、掌の汗がそんなにもひどかったのか、どちらかでしょう。  このことを勇助と犀次と庄司に話すと、始めは三人とも顔の色を変えたが、聞き終ると笑って、それは新コさん追剥ぎだよといった。新コはガッカリした、追剥ぎなら一回の失敗で二度とは出まいが、加蔵のいいつけで跟けた奴だったらこの先まだ続きがある筈です、であるのに、一回で終りになったのを喜ばないとは、ページが違った本みたいな処が新コにあったのです。  父と蓮矢宋左衛門とはその間にも、相談を何度となくやっていたが、結局は蓮矢が豊橋の伏田と二人で、加蔵を八兵衛新田から豊橋の何とか楼という料理屋へ招いで話合い、九分通り解け合いが出来、日を更《あらた》めて父と加蔵とが豊橋で会い、それで解け合いの本極りとなり、その次に田原で加蔵を客に迎え、勇助や犀次が亭主役を勤める、ということに話だけ極りました。聞いてみれば加蔵にも云い分はあった、加蔵は村方のうしろへ廻って糸を引いたことはないが、新コの如きを加蔵は数に入れていないが乗込んで来た衆のうち、八兵衛新田のような下手な設計施工はやらないといった者があったそうで、その言葉には聞き棄てにならない讒謗がはいって居る、それが実ならば一ト文句つける気でいた、それともう一ツは、豊橋のチビ新聞が詐歎師だと記事を書いたが、まこと詐欺師ならば、この村あの村の人の為め打棄てては置かれないから、暫く様子をみた上で、確かにそれと極めがついたら、追ッ払いをやる気だったと、大体こんな事だったのです。  加蔵との話がそこまで付けば、余すところはもう一ト押しで落着、というときに、父のところへ横浜の島中老人から、スグコイハナシアルといったような電報がきた。父は加蔵と会って、話の結び目を固くしてから出立の気でいた、そこへ再び島中老人から電報で、ウクカシズムカノセトギワイソギコイといって来た、その浮くか沈むかの瀬戸際急ぎ来いという電文は、新コものぞいて見て知っています。父はこの電報をみると顔の色を変えた、不吉の電文だという予感的な事柄を、父は知っていたのだと後年になって聞きました。  加蔵には蓮矢を使者に、身勝手ですまないが引返して来てからお目にかかることにしたい、と申入れ、父にしては珍らしい慌てぶりで、田原を出立したッきりで、七日たっても十日たっても音沙汰なしになりました。  工事の方は村方の人の出が相変らず悪く、土舟が出るには出るが数が少い。風が強い季節の故もあって、二日土を入れて一日休むといった調子なので、入れた土を底波にもって行かれ、最初の施行のそもそもが一向に捗取《はかど》りません、その上に、村方のものはどうして知ったのか、手許の資金が乏しくなったのを知っていて、凪の日でも土舟が一ぱいも出てこない日があった。浜松まで新コが行って紙幣《さつ》を両替して、一銭銅貨五千枚、二銭銅貨二千五百枚にし、要意の箱に入れて田原まで、人夫を雇って担ぎ込んでみせたが、村方のものはもともと此方を詐欺師だと思い込んでいるので、このテでは信用してくれない。蓮矢は味噌だか醤油だかの醸造家で、大きな構えの家だったが、金の都合はわずかしか付かない、伏田も金の都合がつかない、この二人とも新田つくり[#「つくり」に傍点]の権利を得るまでに、前谷町太郎へ金を夥しく注ぎ込み、今は八方塞りになって居るのだそうです。  そのうちに日勘定の払い出しが、アト二三日で出来ないとなったので、勇助達三人が智恵を絞り、沖へ紅白の小旗をたてた小舟を出し、一日中かかって測量とも検分ともつかない出鱈目を、真面目臭ってやった上、施工に新設計を入れるのだと称し、向う五日間の土入れ中止をすると村方へ触れました。村方はこの嘘を信用した。これで銭のないのを一先ず胡麻化し、父がもって来るか送ってくるかの資金を待ちに待ったが、わずかに島中老人から、月の出はもう直ぐだの、フランスの大黒様にあす会うだの、そんな文句の電報がくるだけでした。犀次が腹を立てて、月の出も大黒もあるか、金のことは金と書けと、庄司を相手に茶碗で地酒を呷《あお》る日が多くなり、勇助はひとりで居なくなることがたびたびでした、行く先は豊橋だろうが、二十四時開通して八丁畷の称名庵をカラにしたことはない、早くて十時間か十二時間、遅くとも十五六時間ぐらいで必ず帰って来た。行く先は遊女のところだったり賭場だったりらしいのです。 [#7字下げ]三  父は田原を出立してから、島中老人に会い、行方が判らない前谷町太郎探しに東京へ出て駆けめぐったのだそうです。前谷が知遇を得ているという、跡山辰夫や足羽知堂や新川一平はじめ、そのころの時の人を尋ね歩いたが、前谷町太郎とは何者かねと尋ねて行った父が怪しまれたり、その男なら知人に連れられて一二度来たよと軽く扱うかでした。退役海軍中将のAを訪ねたが、佐世保とやらへ行って留守、前谷のことを聞くと、近来は訪ねてこない、何処にいるか知らぬという。父は島中老人と相談してH市の前谷の家へゆき、そこで手がかりを得て東京へ引返し、木挽町の旅館にいる前谷を漸く見付け、フランス人から出る筈の資金が一銭もまだ渡っていない不都合を詰問すると、前谷はびッくりした様子で、すぐこれからハマへ行きフランス人から金を受取ろう、と父をあべこべに急き立て、人力車で新橋ステンショへゆき、父に青切符を買わせて横浜行の汽車へ乗り、舶来煙草をふかしていたそうです。横浜へ着くと人力車で花咲町の島中老人の宅へゆき、やがて人力車を雇って、フランス人に会いにゆくと出て行って三時間もしたころ、若い紅毛碧眼の男が島中老人のところへ来て、父にも老人にも苦手の外国語で何かいい、ときどきマチ・マエタニ、マチ・マエタニといった。この男は終いに腹を立てて帰って行ったそうです。夜に入ってから前谷の手紙をもって車夫が来た、その手紙はあす午後三時に海岸通りのグランドホテルで、あちらの事業団の代表と会うことになったから、その時間にホテルの正面からはいって右の廊下で待っていてくれ、服装は略式だからそのつもりでというのだったそうです。  翌日の約束時間に老人と父とがグランドホテルへ行くと、前谷がいて、あちらの事業団の代表というフランスの紳士に引合わせたそうです、その紳士は日本語が解らないそうで、のッぺりした面の日本人で、絹物の着流し、白足袋で雪駄という二十四五歳の男が通訳をした。この男を中に前谷とフランスの紳士が話合っているのを聞いていると、事業出資の話に違いなかった。その間に紅茶と洋菓子が出たそうです。ここで話が決まり、明後日午後一時五分にチャーターバンクという処で、現金を渡すということになり、老人も父も喜んで紳士に礼をいい、通訳の男にも礼をいって、前谷と三人でホテルを出て、俗に二十番の車といって、車体が飴色のグランドホテル専属の人力車に乗って、関内の料理店千芳というのへ行ったそうです。千芳の勘定は老人が払ったのでしょう、父にはそんな金はもうない、前谷が払わなかったことは確かです。その日、ホテルでだか千芳でだか、老人がきのう若い外国人が来て何かいって帰ったが、どうやら前谷さんを訪ねて来たらしかったというと、前谷が大笑いして、その男は代表の使用人で、私のところへ代表の使いにきたもので、いろいろの国の言葉をつかい分けて話したが用が足りなかったといって居た、貴方達は一ツの国の言葉と聞いただろうが、あれは八ヶ国の言葉だったと云ったそうです。  こんな話はみんな後で聞いたことで、新コ達は三州田原でヤキモキして、資金が届くのを待ちに待っていた、だが、資金は遂に来ず終いです。それはその筈で、フランスの紳士というのが波止場へ日参して、あなたの船では私を必要としないか、私は経験のある船乗りだと、働き口を探していた乗り遅れの帆前船の船員だった、それをだれが紳士に扮装させたのか判らないが、老人も父も見ごと一杯喰わされたのです。前谷にいわせると、一杯喰わされて大損失をしたのは私だとなるのですが――。  新コは三州田原の一件から五六年して、異人屋と俗称した遊女屋の女達と仲間同然になっているとき、八ツの国の言葉をつかい分けた男を見付けました。見付けたのでなくて、先方が話したので判ったのです、その男は異人屋のメーという遊女の半情人で、ちょッと見ると“地の異人”と女達が呼ぶ、居着き白人のように見えるが、実は日本人の自転車工で、通称ジョージという者でした。ジョージのいうところでは、あのときの帆前船の乗り遅れは、捕鯨船に拾われて海へ出て行ったそうです。のッぺりした通訳の日本人はジョージも知りませんでした。新コはこの連中には怨みをすこしも抱いて居りません。  そんなだから帆前船乗り遅れの紳士が、チャーターバンクで明後日午後一時五分にといったかどうか判らないが、そう聞いた島中老人が前谷と、その日その時刻に行きは行ったが、その外国銀行では老人や前谷と関係のない金ばかり扱っていたそうです。父は老人の宅で待っていたが、屈託した顔をみせたことのない老人が、この日ばかりは悄然として一人で帰って来て、虎さんお互いさまにサランパンだといった、もうダメだという意味の横浜言葉です。さすが天下の糸平に仕込まれた人だけあってすぐにからからと笑って、虎さん早くうまく田原を引揚げたがいいよといったそうです。前谷はチャーターバンクの前であのフランスの紳士を訪ねるから一緒にゆこうと勧めたが、老人はこの上まだバカ踊りをやる気はないと断わったので、前谷は一人で行くといって別れたのだそうです。  こうした事があったのでは、豊橋の小型新聞が、詐欺師にあらざれば自他の仕合せだといったのが、図星を射ていたことになります。  新コは一ぱいの土舟も出ない現場へ毎日欠かさず通った、田原に一人の口をきく相手も出来ず、黙り込んでいる毎朝毎晩が何ともない新コは、称名庵へ来ても口をきかずに居て何ともない。  或る日、とだけで、何月何日だったか判らなくなってしまっているが、朝はセメント会社の煙突の煙が這うようになっていたのを憶えているから、風が強かった日だったでしょう、新コが例の如く八丁畷の事務所へゆくと、勇助も犀次も庄司も居なかった。日雇いの婆さんが、あの人達はきのう豊橋へ行ったと教えてくれました。三人ともこのごろは気が荒くなっていて、新コにちょいちょい父の悪口をいって怒らせていたから、居ない方が新コには却ってよかったのです。  日雇いの婆さんが、新コさん元締さんが今の馬車に乗って通ったと知らせてくれました。だが、それはだれかが他人を見違えたので、父は田原へ戻って来てはいませんでした。  その晩の田原の宿は珍らしく次の間に一夜泊りの客がないので、女の声も聞こえず、静かです。  九時ごろかに新コはいつもの通り、寝床の右下へ拳銃を入れ、左下へ匕首を入れて睡《ね》むった。  夜風が顔を撫ぜているのに気がつき、眼をあくと、正面の窓のところに星が一ツ二ツみえました、雨戸は宵に女中が閉めたのだから窓の外の星がみえる筈はない、と思った途端に、細く長いものがキラリとして窓のところで音を立てました。 [#改ページ] [#1字下げ]外れ弾[#「外れ弾」は中見出し] [#7字下げ]一  寝床の上から正面の窓に夜空が見えたのは、雨戸の板が一枚か半分か引ッぺがされたからです、音がしたのは竹のれんじ[#「れんじ」に傍点]格子を切っているからで、キラリキラリと光るのは刀だと、一|度期《どき》にわかった新コは、黒い人影が窓の内へ、よいしょといって上ってくるのを見て、半畑の加蔵だと気がついた、それまでに新コは加蔵を遠くから見掛けたことはあるが、口をきいたことも行き合ったこともない、それだのに顔をのぞいて見たように加蔵だと思ったのです。八丁畷で後を跟《つ》けた男のことなどは、まるで思い出していないのにです。  夜空をうしろに光るものを突き出して、窓からはいって来た黒い人影は、座敷をゆッくり見廻していて、急には新コのところへ来ない、それはわずかな時間だっただろうが、新コにとっては相当にマがあるので、獲物をとる気で寝床の右下へ寝ながら右手を突ッ込んだが拳銃がない、そんな筈はないので、手を把羅掻《ばらが》きに動かしたがない、左手を寝床の左下へ突ッ込み匕首を手探ぐりしたがない、手を把羅掻きに動かしたがない。これだけで、新コにとって相当あったマが終りになり、加蔵がゆッくり新コの寝床の裾近くへ来て起った。田原の木戸屋というこの宿屋は今でもあるだろう、この時から二十何年か過ぎて、新コは田原の木戸屋へ泊まりに行ってみた、聞いてみるとその頃から三代とか代変りがして、新コが知っている人はひとりも居ず、新コや父やを憶えている人もありません。大きな構えの家だった蓮矢宋左衛門が没落して、どこかへ立退いたとだけで、消息を知っている人にも会わなかった。木戸屋の母屋の形ちは、その昔の新コの憶えているのと、似てはいるが一ツでない気がした、表がかりの戸袋の漆喰細工は、見る影もないものに変っていて、新コが襲われた別棟の座敷は、半壊れの物置同然で、昔に変らないのはセメント会社の煙突の煙だけでした。そんな風だもの、ましてや旅先の者のことなぞは、その日のうちにだって忘れられ勝ちだ、二十何年たっていたのでは憶えているものなどない筈だ、それから又久しい年月《としつき》がたったのだから、往年の黙り込んでいた小僧ッ子など、吹き渡って行ってしまった風みたいなもの、三州田原に永代続く住人でも、新コを思い出そうとしても出てこないに違いありません。  新コの寝床の裾から少し右斜めに起ちとどまった黒い人影は、小僧ひとりだけかと、気のない声で低くいったが、新コの耳へはぴいンと響いた。起きあがろうとすると、刀が前へ動いて、起きるなと一喝した。後での考えだが、この一喝の気合いはうまいもので、起きあがってはいけないものと、新コに有無なく合点させた。加蔵の次の言葉は、ヤジ公はどうしたというのでした。ヤジ公とはおやじ[#「おやじ」に傍点]のおをとって公をつけたので、新コなども使っていたものです。新コの返辞は寝ながらだから、気力の弱いものだったろう、居ないよといったのか、居ませんといったのか憶えがない、事によったら見た通りだとやったかも知れません。新コは見た通りだと返答したのだと思っているが、確かではない。  加蔵は次の間の襖のところへゆき、躰を壁の方へやり、左手を襖の引手より下へ掛けて開けた。これも後の考えだが、そうやれば襖の内側から、開けたのを機会に何が出てきても危害をうけない筈です。襖の内にはだれも居ないのが判ったのかして、加蔵は見ているだけで敷居を跨がない。新コは寝た儘で、右手も左手も寝床の下へ入れ、焦慮《あせ》りぬいて把羅掻いたが、拳銃も匕首も手先に触わらない。加蔵が振向いたので新コは手を動かさずじッとして、頭を枕につけた儘で加蔵をみた。加蔵がその晩どんな服装だったか新コに憶えがない、確かに冠り物はしていなかったと思う。枕許にいつも一分芯だか丸芯だかの有明《ありあけ》ランプが点っていたから、その晩もそうだったろう、だとすると加蔵の顔を見ただろうに憶えがない。多分怖いと思う以前の怖さが、加蔵の顔をみることを避けさせたのかも知れない。だが、こんな風なときは、相手の面《つら》から眼を放すな、手は面の次に動くものだとは、教わっているのでした。その後にこんな事とは違うが、面を見ろ、手は二の次とおしえ[#「おしえ」に傍点]の通り、眼を放さずにいたお庇でうまく行った事があります。この晩のときも新コの眼は加蔵の顔へ注がれていた筈と思う。もしそうだったら怖いこと知らずの時のこと、人生に畏れを知ってからは臆病になった、と同時に、それだけ正しさか良さかにはいったのでしょう。  加蔵は次の間の押入を検めに行った、それは押入の襖のあく音で判った、そのマにと新コは左右の手を寝床の下で把羅掻きさせたが、拳銃も匕首も手先に触れないうちに、加蔵が次の間から出てきて、新コを見卸しながら頭の方から右斜めでゆッくり足をはこび、ヤジ公を出せといった。居ねえというと加蔵が、きょう帰って来た筈だ、寝どころを変えたのだろうと、刀をひらりひらり軽く揺って、何度も訊いたのが面倒臭くなって来た。そのとき躰がぽかぽかしてきたように思う。新コは刎ね起きたと思わないが、躰が半分起きたらしく、キラリと目と鼻の間へ刀尖《きっさき》が突ッ込んできた気がした。首をそのときうしろへ下げたか、左右のどちらかに振ったか、憶えがない。すると加蔵が起るなというのに起きるからだと叱りつけ、急にソワソワして、更《あらた》めて来る左様ならと元の窓から出ていった。左様ならをサイならといった声が、今でも新コの耳に残っています。  右の手首の内側に突き疵ができていて、左手で押えたが指の間から血が垂れています。 [#7字下げ]二  疵を押えて起きあがり、水で疵口を洗って手拭で結ぶつもりで、廊下へ出ると、夜半だから家中が寝しずまっている。井戸端がどこにあるか知らないし、台所のある方角は知っているが勝手を知らないので、タタキの中庭を、といっても一ト跨ぎだが、向うの廊下へ渡った。そこには階段の上り口があって、階上にここの家で一番いい座敷がある、県知事がくるとその座敷へ泊まるのだそうだ。廊下から横に突き出したように上客用の厠があり、廊下の隅に葉蘭と雪の下をあしらった水落しがあって、瀬戸の手洗鉢の大きなのがあります、それを知っているので、疵口を洗いにそこへ行った。芸者や女中がうしろ[#「うしろ」に傍点]立ちして用を足す、共同式のそれは左の隅にあり、そこにも手洗桶はあったが、さすがそれには振り向きもしませんでした。  手洗鉢の水が真ッ黒になったと見えたのは、細めた三分芯ぐらいの柱掛け洋燈の明りが、たいして届かない故で、水へ突ッ込んだ左手の指に付いていた血が散ったのでした。そこへ足音が一ツ二ツしたと思ったら、新コより背がすこし高い女が来て、怪我したンですねといった、疵口へ最初の掬《すく》い水をブッかけた時でした。今まで一度も口をきいたことはないが、顔も声も知っている中年増の、色の白い小肥りの小万という内芸者です。  小万はどうして怪我したかとはいわない、その水はダメ、疵口を押えていなさいといって、疵口をのぞいて、廊下の奥へゆき、水を入れた金盥《かなだらい》と酒徳利をもって引返して来て、疵ロを手荒く洗い、新コさんこれ焼酎です、このぐらいの疵なら若いのだものすぐ治ってしまうと、新コの手拭を器用に引ッ裂いて結んでくれた。小万は陰ながらいつも聞いている声よりも平明でひそやかないい方で、気の弱いものだと熱を出す新コさんならすぐ睡ってしまうに違いない、といったような事をいって、ここの始末はあたしがするから早く寝たがいい、あしたの朝は疵口がもう付いているといった。新コはそうだろうこんな疵ではと思い、礼を手短くいって座敷へ戻り、ランプの芯をねじって出し、明るくして見ると、血がついたのは敷布だけで、それも一ヶ所だけが紅椿の花ぐらいで、あとは赤インキの雫ぐらいのものでした。左手で敷布を剥いで寝る仕度をすると拳銃も匕首もあった、手先がない方ばかりを把羅掻いたのでした。気がついて正面の窓を見ると紙障子が引きつけてある、桟が二ツ三ツ飛んでいるのは、加蔵がれんじ[#「れんじ」に傍点]格子を切るとき尖先《きっさき》が当ったのだろう。雨戸がどうなって居るか確める気がつかず、寝ようとすると小万がはいって来て、濡れ雑巾で畳を何ヶ所か拭き、敷布をもって出て行った、ただ拭いたのでなく何か撒いて拭いたようでした、灰だったかも知れない。小万ははいって来るとき、曇り硝子入りの引違いの障子を開けッ放しにし、出て行くとき閉めた。夜|半《なか》に女が男ひとりの処へ、こんな時にはいるのでも、障子を開けッ放しにして置いて、それとなく事柄の証明をだれにともなく立てる、という風な女だったのでしょう。  新コはわずかあればかりの事に疲れたのだろう、前後不覚に睡って、朝だいぶ遅くなって眼をさました。顔洗いにいって右手をつかってみたところ、痛いだけで別にどうという事もない。  朝飯の膳がくるのを座敷で待っていると、小万が呼ぶので廊下に出ると、水のはいった金盥と焼酎や鋏や布をもって待っていた。疵口を小万が洗いながら、新コさんの躰は疵に強いといった。そうかも知れなかった、大患に罹るまでのその後の久しき永らくの間、新コは痛いとはこれが痛いというものかと思うことはあったが、我慢ができない痛さというものは知らなかった、例えば向う脛に骨が出るほどの母指大の穴があいたときでも、左腕の皮があらかた剥けたときでもそうでした。こんな躰の上廻ったものを不死身というのでしょう。  小万は朝のこの時になって、始めてゆうべだれが来たのかと聞いた。新コは隠すことをしない、半畑の加蔵だといった、何の為めに光り物をもって夜半にご入来《にゅうらい》だか判らないともいった。新コさんはこれからどうする気だと聞くので判らないと答えた、実際にわからないのだったのです。こんな時にだれかが煽動したら、右手が利かないのではなし、怖気づいて寒くなっているのではなし、十のうち八九は飛び出したでしょう。小万は煽動者ではないし、外にケシ掛ける者もなかったのが幸いで、新コは噛み殺される喧嘩犬にならずに済んだ。小万は小母さんみたいに、元締が帰ってくるまで、この事はそッとして置くのですよ、駐在さん(警官)にも知らせないがいい、新聞の探訪に知られないようにしたがいい、こんな事もいった。後で知ったことだが、加蔵が早く引揚げて行ったのは、小万が向うの廊下で足音を立てた、その為めだったそうです。加蔵はその足音を女と思わなかったのと、二人か三人と聞いたのだといいます、だから小万は、新コが手洗鉢のところへゆくのを、廊下にいて見ていたらしい。  前に、二十何年かたって、新コは田原へ再びいったといったが、それは半畑の加蔵が生きていたら、昔語りを肴に一杯の酒でも買いたいと思った為め、もう一ツは小万という人の居どころが知れたら、更《あらた》めて礼がいいたかった、満足に礼もいわず、田原を逃げ出してから二十何年もしてからで、遅くはなったが、どうやら人並なものになったと思えたからでした、だが、一日一ト晩聞いて歩いたが、判らないとなると判らないもので、半畑の加蔵といっても小万といっても、知っているという人に会わなかった、たまたま曽て小万といった人を探し当てたが、それから何代目かの小万だそうで、遂にこの二人のことは知れず終いになりました。 [#7字下げ]三  赤目の勇助と野原の犀次とが、この事があってからは、新コの姿をみると毛抜き合わせのように居なくなる、三四日そういう事が続いた。庄司の久は新コのことについて一切口を切らなかった、新コの方でもいいません、この事に限っていいたくないのではなく、何ごとにも口がききたくないだけの事です。資金が来ないので現場は遊びで、海面に入れた土は跡方なしに散っただろう、それでも新コは田原から老津の称名庵まで、朝行って夕方前に帰るのが毎日です、何の為めでもない、現場だからでした。その往復に八兵衛新田の前を通るから、加蔵の小屋を日に二度はみる、別にその為めどうという気も起らない、ただ、拳銃の安全弁は外して置いた、行き合ったらそれまで、成るように成ろうというのであったのです、新コは思い返してみても、その時の気もちはこうだと、知識人が納得するような説明ができそうもない、もし納得する説明ができたら、それは或る公式に嵌めたこしらえ[#「こしらえ」に傍点]ものになりそうです。  あの事があってから幾日目だったか、父が船に乗り遅れた海員を、フランスの紳士だと思っていた頃でしょう、老津から新コが田原へ帰ったのだから夕方だったろう、勇助と犀次が来て待っていて、この間中は新コさんを飛んだ目にあわせ、俺達が至らなかったといい、加蔵と俺達とは話合いがついたので、豊橋から酒も肴も取り寄せて、ゆうベ称名庵で酒盛りをやり、加蔵の小屋へも酒肴を持ちこみ、遅くまで飲んだ、という話をしました。  新コはそのころ豚と鶏の肉の違いを知らなかった、鯛も鰤も区別がつかない、食い分ける気などない、一番うまい物は菜ッ葉の味噌汁、それも最後の一ト吸いがうまいのだが、そういう味噌汁に出会ったことがなかった。子供のときに祖母がつくった味噌汁がそうだったらしく思えるが、実はそれだって新コの夢かも知れません、だから勇助達が豊橋から肴を取り寄せてといっても、スレ違った人が巻煙草を出しながら行った、その程度でしかありません。  勇助達の話を後になって解釈すると、加蔵が踏ン込んできたのは、新コの父が行ったッきりで手紙一本よこさないのは、和談の相手を軽くみているからだ、とただそれだけの事から感情が又もコジれて、何も彼も悪くとれる上に、詐欺師だろうという先入感があるのと、そんな奴をこの辺に居させるものかという伊達ッ気があるので、談じ込むのに効果が強く出るように、引返して来たと聞いたその夜半に、光り物をお飾り道具にして押入って来たということになる。だが、これは勇助達の解釈で加蔵のいい分ではない、加蔵にはもッといい分があったかも知れません。  新コさんにもあす一日加蔵が躰を貸してくれとこういう、神戸《ごうど》といって遠州灘のみえる処までゆき、蕎麦をぶたせて食わせる、加蔵はそれであの晩のことを帳消しにしてくれというのだと、勇助達がいうので、行くよと答えた。すると勇助が、新コさんは毎日加蔵の小屋をじッと見てゆくそうだが本当にそうかね、庄司がいったが新コさんは、六発の安全弁をこのごろ外しッぱなしだそうだ、本当にそうかね、それは新コさんが根を加蔵にもっているからかね、それであろうが無かろうが、一切を水に流すのを承知だねと、何度も念を押しました。ああいいよと新コの答えはそれだけです。  翌日の朝、新コが八兵衛新田の手前までゆくと、勇助と犀次と、加蔵がいた。加蔵は腰に弾帯を巻き、肩に猟銃をさげていた。ひょッと眼についたのは加蔵の腰に一尺余りの山刀があることでした、と云って、それだから怪しいなぞとは、新コは思わない。猟に山刀は当り前です。  後になって地図をひらいて、その日の路を検めたがよく判らない、勾配のゆるい赤土の路を曲りくねって行ったのと、左右の赤土に実生《みしょう》の松がところどころ稚《わか》い木にのびていたのと、この二ツしか記憶がない、記憶する程のゆとり[#「ゆとり」に傍点]がない目に会ったからかも知れません。  加蔵がふいッと姿を消したのに気がついて、犀次と勇助に聞くと、蕎麦へ入れる鳥を射ちにいったという、ああそうかと思った。路が細いので、犀次と勇助その次が新コと、一人ずつ縦に歩いていると、どこかで銃声がした。犀次と勇助が立ちどまって銃声のした方をみて、飛び立つ鳥を眺め、捕れたかなといっていた。新コも立ちどまって眺めている、その肩の方だか、頭の方だかにびゅンと弾丸が来たと思ったとき銃声が聞こえた。勇助達が顔見合せて、危ねえことしゃがるぜと、何の疑いもなく笑ったので、新コも笑った、単なる外《そ》れ弾丸だと思ったからです。  先の方の林の蔭で銃声がしたので、加蔵が先へ行ったと勇助達が先を急いで歩き出した、新コも歩き出した。又、新コの耳に風が当る近さで弾丸が飛び去って銃声が聞こえた。勇助達は今の外れダマは俺に近かったぜと、微塵も疑う気がなく笑っていたが、新コはこの二発目ではッとなった、途端に耳朶が熱くなった。暫く歩くと胸がむかむかして来たが口から出る酢ッぱいものはなかった。躰が温かくなって来て、駆けてみたいような、何か喋べりたいような気になったが、矢張り黙って歩いた。どこかで銃声が二三度した、一発は反響を数えて二発にしたのかも知れません。  赤土路の曲り角で新コの身近かに、三発目の弾丸が銃声と一緒に飛んで来た。このときになって始めて気がついたのだろう、勇助と犀次の形相が、人が違ったように一変しました。  加蔵の姿が向うの林の中から出た。眼鼻がわからない遠さです。振ってみせた手に鳥が何羽かあるのが見えます。  やがて加蔵が路へあがって来て先頭に立ち、勇助に高ッ調子で何かいった。いつの間にか勇助と犀次と入れ代っていた。勇助は加蔵と世間話ばかりした、後で聞くと、加蔵が白ばッくれているから此方も白ばッくれ、やッさもッさ(喧嘩)にもって行かないようにしたのだと勇助がいった。新コの耳の中がそのころになってガンガンいい、ときどき耳がぶるッと動いた。頬に風が当るといい気もちだ。疵のある右手をそッと使ってみた、痛いけれど使えます。  それから先は何ごともなく、登り道をあがり切ると、漁師が三人で網を繕っているのが、出し抜けのように眼の前へ急にみえた。そこは高い土地らしく、海はぐッと下にある、それに気がつくより先に、漁師達のいる大きな瘤みたいな土の塊りの向うに、藍色の遠州灘が左右へかけて広々とみえて、汽船が一ぱい遠くで煙を吐いていました。  加蔵が案内して狭い家の軒の下の床几にかけて、蕎麦を食った。新コはこれが好きだという食い物がない、その代りまずくて食い残すということもない、だが、ここの蕎麦は食い残したかった。狙撃外れだろう三発をくらッている、その故だと気がついたので、無理に食った。三人は蕎麦はそっち退けで酒を飲んだ。新コは駄菓子を買って食った、この方はいくらでも食べられます。  新コは退屈しきって、欠伸と背のびを何度もやったが、犀次は加蔵といい機嫌で飲んでいる。勇助も酔ってはいるが口数がすくなく陰気でした。そのうちに時間がたった。勇助がたびたび犀次を促がしたが、眼を潤ませている犀次は酒に粘りついていて膝をあげない。勇助の顔に皺が太く出てきて、眼がときどき新コに注がれます。心配が募って来ていると新コにもわかります。  加蔵が勘定を払って、蕎麦屋を出たのが午後の三時か三時半ぐらいでもあったろうか。さっきの処に網だけあって、漁師がいなくなっていました。藍色がすこし黒味がかった遠州灘に汽船は一ぱいもいない。  下り道を通ってゆく先頭は加蔵、そのあとは犀次、それから勇助、最後が新コでした。さっき加蔵が林から出て路へ出て来たところまで来ると、勇助が犀次の前へ風に吹き飛ばされたように出て行った。加蔵と勇助とは大きな声で話を始めた。加蔵は話の間に振返ることがあったが、新コに眼をもっては来ません。話はめいめいがもっている昔話の女のことらしかった。犀次は鼻唄をうたっていて足がのろい、新コが入れ代って先になった。新コはすこしでも加蔵に近い方が気が楽だった、遠いと加蔵の躰に出る様子がわからないので気がかりだったのです。  西日がさして暫くすると、日の入り際の滲んだ明るさになった。まだまだ八丁畷までは遠いのです。  新コは加蔵の躰がだンだンボケて見えてきたので勇助の前へ出た、その肘を勇助が掴んで放さない、引戻された。加蔵は二十間ぐらいだろうか先を歩いていて、気がついていませんでした。  雀色の夕方がみるみる暗くなって来た。新コは勇助の前へ出て、追いつくように続いてくる勇助より先へ先へと足を速くして、加蔵のうしろ四五尺に近くなった。新コは左手で拳銃を肋《あばら》に押付けて持った。右手は腹掛けの丼の下で匕首を抜いて体づけにした、いざとなったら両方ともつかう気でした。勇助はその時どう構えていたか新コは知りません。犀次はだいぶ遅れていたらしかった。疵のある右の手首は痛くも痒くもない。新コが後年になって作品するとき、打込んで我を忘れたのに気がついたとき、あの時も今のこれと一ツものだったように思うことがあります。  何ごともなく八丁畷へ出て、勇助と犀次は土産に小鳥を何羽だか貰って称名庵へ、加蔵は八兵衛新田へ、新コは田原へ、三方に分れました。だが、新コは独りになって田原の橋近くまで来てから、十間ぐらいでもあったろうか、足許が定らなくなり、真ッすぐに歩かれなくなった。その日、加蔵は八丁畷で往きに会ったときと別れるときの挨拶の外、新コとは殆ど口をきかなかった。今でも新コの眼の中に加蔵の顔はいとも鮮かに残っています。  新コ達が田原を逃げたのは、それから二日目でした、父が倒産したのです。  新コ達のやりかけた八丁畷の海面は、現在は田圃になっている、だれがどうして仕上げたのか新コは知りません。ということを、父も勇助も犀次も庄司も知らずに彼の世へ行っています。 [#改ページ] [#1字下げ]残飯上等兵[#「残飯上等兵」は中見出し] [#7字下げ]一  新コは二十四歳の秋晩くなって、三年の現役を下総の国府台にあった野砲兵第一聯隊で勤めあげ、満期除隊の日を迎えたとき、二部の本をもっていました、梁啓超の『李鴻章』と中国の猥書『覚悟禅』です、どちらも白文《はくぶん》で、どちらも中隊長H大尉の舎内所持許可の捺印がある。『李鴻章』の方は、日本に亡命して来ていた清国の康有為と、時をおなじくして亡命中の梁啓超が書いた人物評論で、梁が同国人に呼びかけた横浜の南京|街《まち》本ですから、中隊長が舎内所持を許可したのに何の不思議もないが、『覚悟禅』の方は隣国の大陸のものとはいえ、日本にも古くから有名になっている猥書だから、中隊長が許可したのはどういう訳か、今でも判りかねています。新コは危険を冒してまで兵舎の中へ、猥書をもち込む程の興感を款狎についてもっていなかった、売色の街のことに限られてはいたが、男が女に求めるとどの詰りに行われるものを、数多く見聞きしているので、その逆作用が出たのかしら童貞をそのころまだ、保っていることに矜りをもっていたから、『覚悟禅』を持ち込んだのは猟奇の心や、実験をもたない世界への間接探究の為めではなかったのです。  新コは新兵と初年兵と二年兵の前半とを、明治三十七八年の戦争と、常備の平静に戻る過渡期とに過し、兵舎にも平和がやって来た二年兵の後半にはいってから、暫く放擲してあった読書を、時間を偸むことが巧みになって来たのでやり始めたが、兵隊小説の類には眼もくれませんでした。兵隊小説とは『敷島男児』(楓仙子)『金鵄勲章』(無名氏)『凱旋兵』(無名氏)などの類で、兵営所在地では文房具店などでも、一冊十五銭定価で売っていました。新コの性癖でもあろうか、我武者羅にもッと難解なものに飛びつきたがり、森田思軒訳の『探偵ユーベル』とか、矢野龍渓訳の『浮城《うきしろ》物語』とか、普仏戦争だったかの『明日の戦争』とか、そんなような難易両様の物もだれかに借りて読んだと憶えている、それは記憶の誤りで兵隊以前に読んだのだったかも知れません。新コは『李鴻章』の如き、自分の力より遥かに高いものに飛びつくことによって、資格みたいなものを作りあげて、他日どういう職に就きたいとか、どういう者になりたいとか、計画も抱負も夢もなかった、ただ難解に挑みかかっただけです。新コは現役兵三年の間に、親しくする兵隊友達はあったが、これからの生涯について語りあう友達は見付からなかった、それは他の兵隊仲間にとってもおなじことで、新コは生涯の友として撰まれるには、矢張り欠けているものがあったのでしょう、その為めか実際にはいつも孤独で、随ってここでも読書に体系を立てることを知らない儘でした、知らないの無いとは忠告してくれるものがないの無いでもありますが、知ろうとする用意も能力もなかったその無いでもあります。曽て夜学校で『近古史談』をいきなり習ったり、『近古史談』のような簡易な漢文から一足飛びに、諸葛亮や李密や斎藤拙堂や頼山陽の、むずかしい文章を収録した『漢文読本』に行ったりした、それを又も白文の人物評論『李鴻章』でやったのに過ぎません。しかし新コにとってこの遣り方は、それまでにも続いて来ていたのだし、その後も永く続いたものだったのです。  梁啓超の『李鴻章』を新コは神田の極く小さい本屋で五十銭で買い、時間を偸んでぼつぼつ読み出したが、歯が立たない、その筈です、それまでに隣りの大陸の歴史地理をまるで知らない、制度のあらましも弁まえず、人物伝記は一冊も読んでいない、わずかに知っているのは『三国志演義』と『水滸伝』とだけ、それも半解の程度ですから、いくら反覆してみても解ろう筈はない、それを新コは文字の読み方が不足の為めと解釈し、その方の力をつけることを考えたが、さしたる方法が見付からない。そのころ新コ達の日曜外出は、勤務割当があるので月二回ぐらいだったが、東京へ出た日は神田にゆき、外出時間の半分だけ、甲乙丙丁と本屋の店先を移動して立読みする、古本の店へもはいって披いて覘きみをやる、そうやっているうちの或る日、小川町の寂れているらしい古本店で、堆積されている和本の中に、二冊物の『覚悟禅』を見付けた。『覚悟禅』が猥書であることは知っています、曽てペンキ屋の倅の阿丁《アチョン》が何十部かの蔵書の中から抽き出して、新コさんこの本読むないよ、面白い/\いけないこと書いてあるよと、手にもたせたのが『杏花天』と確か『痴婆子』と、それから『覚悟禅』でした、今にして思えばそれらは石版の上海本で、帙《ちつ》にこそ入れてあるが粗末な物でした。新コは忘れていた『覚悟禅』と『杏花天』という題名をそのとき思い出しました。見付けた『覚悟禅』は木版の半紙判の物で、後で知ったが徳川期に日本で復刻した後刷《のちずり》本でした。二三ヶ所拾い読みして猥書であることを確かめ、これからはいって行ったら『李鴻章』が読みこなせる、そういう気が湧き起ったので、一円だか一円七十銭だかで買いとりました。この為め当分のうち東京へ出る金がなくて、外出日にも営舎にいた、その代り手に入れた本を読むことが出来るので満足です、それともう一ツ厩《うまや》当番という勤務のときは、演習に馬が殆ど出払ったあとで、例の本を読む時間が可成り出来ました、週番の士官や下士がやって来ると、干草《かんそう》や寝藁《ねわら》の中へ手早く隠し、見付かったことは一度もありません、ところが或る日、演習から兵舎へ帰ると、私物箱の不在検査があって、新コの『李鴻章』と『覚悟禅』が中隊事務室に持ち去られていた。新コは営倉入りをすぐさま覚悟した。隣国の物とはいえ猥書ですから、日露戦争後の武士的気概が横溢していた時でもあり、戦後の風紀がきびしく取締られている時でもあったので、処罰を免がれないと感じとったのです、その結果が意外にも、『李鴻章』も『覚悟禅』も舎内所持許可となった。そんな筈はない、『李鴻章』は別として、『覚悟禅』の題簽には別名の『肉蒲団』と傍題がついている、白文だから通読が厄介だったので内容の査閲をせず、題名に惑わされて許可が与えられたのだとは思えません、隣国の物とはいえ漢字だから彼我共通の辞句もある、内容の全般が仮令《よし》わからずとも、判定を下すに足りる奇怪な煽情的な字面が散在しているから、誤認する筈がある訳がない、であるのに舎内所持を許可し、だれからもその後それに関して遂に一度の質問をうけたことなく、だれからも戯言《ざれごと》を投げかけられたこともなく、そればかりかやがて新コは思いがけず上等兵を命ぜられた。多分、新コは篤学の者と買被られて、それとなく将校達から庇蔭されたのではないかと、心のうちひそかに思ったものです。当時の将校と主なる下士官は歴戦者で、その多くは大なり小なりサムライの道を践むものでしたからです。  同年兵で既に上等兵であったものが、悉く伍長勤務上等兵、略して伍勤というものになり、一年若いものの中から上等兵が出来てから後、遅れ走せに新コが上等兵となった、これは異様なるもので、残飯という呼び名が上につく上等兵なのです、勿論それは私称で、軽蔑と侮辱が必要のとき使うものなので、新コに面と向かっていった者はない。残飯上等兵とは一たん撰抜されて候補者にはなったが、学科も実科も共に劣等なので除外された、それを炊事場で疎末に扱われる残飯に擬したものです。もう一ツの私称はやッとこ上等兵というのでした。六ツの中隊から成るここの聯隊に残飯上等兵にしてやッとこ上等兵は、新コの外に二人あるのみでした。  やッとこ上等兵になった新コは、その時までに陸軍大学行き(衛戌監獄)の機会を何度かつくりました。深夜に火薬庫の歩哨に立っていて睡り込み、週番士官に見付けられたが、何のこともなくして過ぎ、二三日の後、偶然の如く又も火薬庫の歩哨にあたり、その夜半に怪しい者がひそかに近づいて来るので、誰何を二度掛け、三度目にも応答がないので、刺殺しに飛びかかったとき、今夜はよろしいぞと云ったのは、前の夜のときの週番士官でした。これで立哨中の過怠に棒が引かれたのでしょう、以来何のこともなしでした。その外、幾つかの事故を起したが、後の結果によって棒引きとなり、営倉入りをすら幸いに免がれ、事なく除隊の日を迎えたのでした。新コはその日、送って貰った兄秀太郎の和服を着て、下駄だけは新しいのを穿き、帽子なしで、既にいった『李鴻章』と『覚悟禅』と硬軟二部の隣国の本を懐中に、二枚の紙を丸めて手にしていた、下士適任証と善行証です、そのどちらの番号も若いので、判定された新コの成績は悪い方ではなかったようです。始めは鈍だが後には大抵のものに劣らぬものになれる、新コは自分をそういう人間だと後になって観るようになっています、事実それからの永い歳月の間に、例えば、新聞記者時代がそうでした、初めは食う為めだから専ら自分へ尽し、中頃はその新聞社に尽し、終いに読者に尽すとなり、間もなく読者に尽すとは人に尽すことと改修するようになったものです。新コの自覚はいつも後からでないとやって来ません。  新コは二十一歳の明治三十七年の冬、畑俊六中尉が中隊長代理の野砲兵第一聯隊補充大隊へ新兵ではいるとき、横浜海岸十番館の臨時雇いながら外交員という職があったが、二十四歳の明治四十年の晩秋、世間への第一歩を再び踏み出すときは待っている職がないのでした、又、腕にも頭にも職に就ける程のものは何もない、職は以前さまざま変えてきたが、どれも中途半端で、請負の入札場へ行って談合金の割りを貰うことも――これを隠語でカギといった、カギは入札した者が大きくとり、残りを纏頭《はな》か祝儀のように貫禄や顔により等差をつけて、入札の場に来ていたものに与えたものです――そういう処から足を抜いて四五年になるのだから、新コのような下ッ端の若僧は、振り出しから又やり直さねばならず、それには何かしらタネを見付けて匕首ぐらいは抜いて騒がなくては、一二円のワリに有りつくのが精々で、とても五円のワリが貰える顔にはなれません、それも厭だ、といって土工かドテ鳶へ戻るか、それも厭です、では何になるかとなると何もない。しかし幸いなことに新コは、ぼやッとした処がどこかにある、これを言葉に直すと、「心配はするが心労はしない」というのと一ツ事です、それに七日食わずにいた経験もあり、三四日の絶食ぐらいでは躰も心もぐらつかない、少くとも新コではそうだという確信があります、その為めでしょうか明日以後のことがまるで気にかからない、何とかなるとすら考えない、何とかなるものと決めているのでもない。そんなですから入営のときは尾羽うち枯してはいたが父と、少年期に同居させて貰ったことのある先の品川で、妓夫をしている片眼の徳さんと、二人が付添って来てくれたのが除隊のこの日には、だれも迎えに来ていない。父は満洲にいる兄弟分をたよって家運の挽回をやろうとして、だいぶ前に日本を去り、義母もその後を追って海を渡ってゆき、片眼の徳さんは故あって縁が切れ、現在の処を知らせても来ずだから、姿を見せない筈でもあり、人の世の有為転変が目のあたりに見えているのだが、何の感慨も起りません。新コは竣工した船渠を眺め、あすからはここに来ないのだと、別れの涙をひとり流す感傷癖があるのに、三州の仕事に失敗して二度目の一家離散のときなどには、何の感傷も起りません、あすからどうして食うかの方途が見付からないでも、何の危倶も抱かずにいたものです、その故か、父や片眼の徳さんに大きな変化が生じていても、悲哀の翳りが心にちらりとも映《さ》さず、『平家物語』で憶えた会者定離の哀傷感も諦観もない、その癖、新コ以外の人には何でもないと思う外ないことに、痛いぐらい強く哀傷が起ります。新コは営門の外に並んで見送ってくれる若い兵隊達の顔をみて、無言の別れを告げるとき見っともない程に泣いた、寝起きを一緒にして来た二十人余りの若い兵隊達が、見っともないぐらい泣いていた故もありましたが。 [#7字下げ]二  兄秀太郎は生糸|店《みせ》の小僧から番頭に進み、妻帯して一女を挙げ、小さい借家ながら一戸を張っています。新コ達の言葉では一戸をもったことを、世帯を張ったという。兄の世帯に新コは当分食客となり、食う途を見付けにかかったが、これも新コの性癖のいたすところか、だれにも就職口を頼みません、この時もそうだったし、それからの、永い間もそうです、必要がなかったからでもあるが、就職の為めの履歴書を一通も書いたことがない、もし書いたら詮考以前に刎ねられること確かです、尋常小学科に二年余りとのみ、その外に書くことがないのですからです、その上に新コは比倫なき悪筆です、永い間にわたって扶持をうけた都新聞で記者のとき、新入の文選工からこんな字の原稿は拾えないと拒絶され、詫び言をいいに行ったこともあり、或る雑誌の人は、彼の原稿の文字をみると眼がまわるといって、原稿依頼を握り潰したことなどがあるくらいです。  兄は新コが兵隊である間中、新コの為めに『ホトトギス』と『歌舞伎』と、二ツの雑誌を毎月買って置いてくれた、新コの愛読する雑誌はこの二ツだったと兄はみたのでしょう。『ホトトギス』は俳句と写生文の雑誌で、今の『ホトトギス』に引続くものです。新コはその後、窮迫したとき、手製のメリケン杉の箱に入れていた数十冊の『ホトトギス』を売って愛読をやめた、その為めばかりではないが、多少はその故もあったのでしょう、新コは俳句をつくることが今以って出来ない、俳句のみかは夏目激石の『倫敦塔』を読み『吾輩は猫である』を読み、内藤鳴雪や坂本四方太や寒川鼠骨やの写生文に親しんだのに、その方の文脈にも行かずでした。『歌舞伎』は窮迫のどん底にいたときも、睡る屋根の下のないときも、何とか彼とかして手に入れ愛読しました、或はその為めに他日、だれの教えもうけず芝居の幕内の飯も食わず、曲りなりにも歌舞伎の直流と傍流とに脚本を書くようになった素因が、つくられたのだったかも知れません。新コが雑誌を手にしたのは今いった二ツが始まりでなく、青年の文学雑誌『文庫』が始まりであったことは、前にいった通りです。『文庫』では小島烏水だの奥村梅皐だの滝沢秋暁だの、詩人横瀬夜雨だの千葉江東(亀雄)だのという名を憶えた。安岡夢郷という横須賀の郵便局員だかが坂本龍馬のことを、曽ての龍馬夫人で、そのころは農家の女房になっていた老後の龍女から聞いて書いた物が、何度かに出たことがあります。龍馬の愛人の龍が新撰組の龍馬を襲いに来たのを入浴中に知り、衣を纏うに遑なく裸身の儘、龍馬に急を知らせに走った前後の事や、京の街で龍馬が龍と鍋焼うどんを食べていると、新撰組の者が襲うらしい気配に、龍馬だか龍だかが拳銃を放って脅かして置いて逃げた、そんな事もあったと憶えているが、明治維新史に関する通説や公定説の陰には、相違や異説や秘事があるものだということを、漠然としてだったが、これによって覚らされたのです、だが、後に安岡夢郷が地方の新聞記者になっているのを直接に見てからは、彼の坂本龍馬関係の聞書を信じていいかどうか、疑いをもつようになりました。 『文庫』を読み続けていると、『新声』という青年の文学雑誌があるのを知り、これも読み、佐藤橘香(義亮)だの白柳秀湖だの片上天絃(伸)だのと名を知りました。『文庫』は多くの人を世に送ったが後に廃絶し、『新声』は改題して『新潮』となり、第四十八巻第何号というのが今も刊行されています。新コはこの二ツの雑誌を読みは読んだが、投書を送る力はない、意欲も起ってこない、そればかりか雑誌を買う力もときになくなり、中絶し又中絶してゆくうちに、読むことなきものとなりましたので、文学的な影響をうけるという程でもなかった、だが、鳳晶子の歌集『みだれ髪』に新聞紙のカバーを掛け、腹掛けの丼に入れていたこともあったのは、雑誌『明星』という与謝野鉄幹(寛)の雑誌を何冊か買った影響でしょうが、『文庫』や『新声』で短歌を読むだけは読んでいたその影響でもあったでしょう。しかし新コは三十一文字を今に及んでも作ることが出来ません。  新コは職を土地の二三流の日刊紙に得た、紹介者などはない、直談合です、月給は十二円。新コは十五円欲しいといって肯《き》かなかったのだが、折淵秀楼という、酒に惑溺して寂落している秀才が居合わせ、口を極めて慰撫するのが、古くからの友達みたいだったので、ツイ三円値切られて十二円の月給で入社となったのです。折淵秀楼は酒に毒されて後に亡くなったが、ときどき東京から坂元雪鳥という著名な人が会いに来ていたことと、何を書くにも参考書もなく引用書もなく、それでいて達意の文章を相当な速度で書いていたことが、新コとは段階が違うものに見えました。  新コは社会面をつくることを主にして、一面と四面とを作ることになりました、一面の社説と社会雑観は秀楼が担任し、新コは古くからいる一人と共同でその他を埋めた、切抜きをタネに焼直しが埋め草です。小説は一回二十銭の借り物だったが、不払いの為め休裁がたびたびで、終いには相棒の古くからの人が、どこからか挿画の古い版木を集めてきて、その絵柄に附随する小説を書き続けるということまでありました、そんなとき社は一銭の支出もしないが、その不平をいうよりも新聞を作る方がいつも先決です、折淵秀楼がこう主唱するのに、たれ彼が同感してそうなった。新聞を作るのが先決だから、不平や不満が外にあった場合でも社長に掛合う時間がない、社長がそんな時間には必ず逃げて居なくなるからです。そのうちに社に金がいくらか出来ると、別に挿画付き小説を賃借りする、そうなると間に合わせ小説は終りを早速に告げます。間に合わせ小説の作者は、時に臨んで矢庭に終りを付けるここの処のコツがむずかしいのさと、顔を小説よりむずかしくして自慢したものです。この人は間に合わせの最中に、小説の筋の行きがかりと、有り合う挿画の版木の絵柄との間に挟まれて、進退これ谷《きわ》まるときがあると、新コさん済まないが天丼一杯で今日の分をやってくれと云います。その天丼は一杯八銭です。一二回引受けたことがある。或るとき、間に合わせ作者が施すに術《すべ》なくなって間に合わず、一回だけ休みとなり、新聞の一面の末行に、作者病気に付き本日休載と組ませたのが、配達された新聞には、作者下の病に付き本日休載となっていました、工場の人がやった悪戯です。社長はそんな事に気がつかない人なので、その方は無事です。折淵秀楼その他、間に合わせ作者までが、こんな実状報告をやる新聞は天下にただ吾が一紙あるのみ、と手を拍って大笑いするという状態にある集団でした。しかし、この間に合わせ作者は自分の署名のある小説は、生涯に一篇も書かずに亡くなりました。  新コは一円昇給して十三円となり、秀楼は高給で十五円、間に合わせ氏は十三円、材料は拾ってくるが記事はテンデいけません二人が十一円と十円です、勿論これは月給額のことで日給ではない。その十一円の君と十円の君とが、一人は船員、一人はどこかの小使に行ってしまったので、その補充をやりたくも人が見付からないので、新コは街を歩いてカンで見極めをつけて引入れたり、わずかの知合いを元に誘ったりで、二人の若い男を外交記者に連れて来た。この二人とも月給九円で、昇給して十円、それで行止まりですから、そういう人達が多少の熟練をして来たころに、東京の新聞の支局が買いにくると、月給が多い方へ行け行けと行かせました、その代り新コは後から後から記者の卵をつくり、次から次と出してやり、このテで一時は東京の新聞支局のどこにも、新コの仕立てた記者が一人二人は必ずいました。新コが東京へ去ったときは、十何人かが各支局に散在していたのでした。 [#7字下げ]三  新コの新聞つくりはだれに教わったのでもない、全くの我流で、活字の号数や行と段の数と量と、術語を少しおぼえれば足りる、そんなことは一日とはかからず憶え込みます、術語で知らない事があると、勝手に術語を速座につくって使い、相手を押切ります、それらの事も、大組に行って排列を決めるのも、現場小僧以来、あっちこっちで事に当ってやって来たことと、コツに変りはない。さすがに見出しの付け方だけは胡麻化しが効かず、そのときの各新聞紙の現在と少し過去に溯ったものとを教材に、社に泊り込んで骨法を覚《さと》ろうと、幾晩も幾晩も重ねました。寝床は机の上で、蒲団がないから着た儘でゴロリと寝ます。折淵の寝床は彼が死ぬ前までずッと机の上でした。新コはそれを学んだのです。仕合わせにも新コは工場の諸君に好かれ、技術的なことで尻尾を押えられ、恥を掻かされたり、いじめ[#「いじめ」に傍点]られたりは一度もなかった、新コのどこかに経歴の匂いがしていた故かも知れません。  二三流とはいえ、新コは新聞記者だが、午前の半分以上は自分の躰、夜は六時でも七時でも、自分の都合次第で自分の躰にしてしまう、いざとなれば夕方の四時五時に新聞を仕上げて街へ飛び出します、その代り前日に、あすの午前中には手に余るぐらい、原稿を出して置くことを必ずやって居ました。社長は自分の説と記事とが出さえすればいい、後は一切任かせ切りの人ですし、新コの前任だった記者は数年後にわかったことだが、前科何犯だかの強窃盗傷人の神狐小僧という弓原義哉で、大正時代に北海道の網走で脱獄して射たれて死んだそうです、そんな男が記者になっていたのは、免囚保護事業の拡大と確立がしたかったからだという、だが、弓原は又も強盗殺人をやって無期徒刑となった、その後へ新コがはいったというのだから、変に面白いところがある新聞社です。  新聞社にいるときは記者だが、街へ出れば、記者ではない、そういう意識が強かったので、新コが新聞で十三円の禄を食んでいると、知らない者もあった故か、当時の国民新聞の支局長で、徳富蘇峰の秘書で代作をやっていたと称する塀川麦葉という記者は、紅蓮《ぐれん》隊の一人武者シン公なる者に筆誅を加えました、新コはその記事を勿論読んだが、それは友達のデコ介の軍次の友達で、山元召川という新コより年上の男のことらしいので、あいつ素ッ破抜かれやがったぐらいにしか思っていなかったところ、塀川麦葉はその後も何度か、悪口だけの記事を書くので、漸く召川のことでなく新コの事だと気がついた頃、塀川は自分の新聞に、身に危険を感じ拳銃を肌身放さず持っていると、書くようになっていました。何故そんなに新コが記事に扱われ、怖がられるのか判りません。憎むということは、憎まれる原因があって憎まれもするが、原因は憎む方だけが持っていて憎むということもあるのを、見て来ている新コは、話はじかに会って付けようその方が判りがいいと、麦葉の下宿を確め、在否を突きとめようとしているのが塀川に知れて、物騒なことになると思ったのかも知れない。そこへデコ介の軍次が教えたのでしょう、事あれかしの山元召川が俺に任かせないかと申込んで来た、それを断ったり宥めたりしているうちに、塀川麦葉が居なくなりました、その後になって塀川は東北の支局長に転じたのだと知りました。これも後で知ったことだが、事実、塀川は新コを怖れて、肌身放さず拳銃をもって歩いていたそうです、そんなに怖がったのは何故なのか、新コには全くわからない。塀川だけが知っていることでしょう。  新コは街をウロつく者ではありましたが、ギャングでも博徒でもない、その頃はまだ壮士という言葉が残っていたが、その壮士でもない。しかし、観点の置き方では不良の輩の一人に数えられたことでしょう。新コは船田敬中という前にいった人物に再会し、落ぶれ小僧か落ぶれ書生かと、往来端で名乗り合ってからは、どちらからも訪ねたことはないが、途中で会えば年齢にヒラキはあるが、旧友の親しさをどちらも持っていたので、味方に付いたことはないが、敵になったこともないから、無論、怖れを抱く人が少くなかった船田の仲間ではない、しかしこういう事ぐらいはあります。或るとき何のことでか幾人も男が集まり、だれが勘定を払うのか新コには判らない席へ、デコ介の軍次と一緒に行っ.ていると、船田も来ていて、飯になる前に新コを廊下へ呼び出し、僕に都合があるから帰ってくれないかと頼まれ、よろしいと帰った後で、船田が何とかいう男とちょッと派手な喧嘩をやったそうです。こういう時の船田の心理は、世間の常規に添ってくらすものには解らないことでしょうが、新コにはわからないでもない、船田は新コに喧嘩を見せたくない、喧嘩は勝ったものも負けたものも、双方互角であったにしても、動きにも結果にも美《い》いところなぞは、探してもないものなのだからです、船田がそこまで考えたのではなくても、新コを去らしたことは、実質的にはそう考えたのと一ツになります。それともう一ツは新コがいたのでは、弾み次第では俺の味方になり手を出すかも知れない、あいつにそれをさせてはいけない、そう考えたという事もあったでしょう。又、或る晩、桃中軒雲右衛門が船田や新コやデコ介の軍次や、その外三四人と、牛鍋屋の裏二階で杯のやり取りをしているとき、巻煙草の袋の端へ鉛筆書きで、デコシンコカエレとしたのを女中が取次で来た、暫くするとおなじ文句の紙切れを女中が又取次いだ、持って来たのは前後二回とも人力車夫だそうです。デコ軍はそわそわして、だれか友達が待っているのだろうから新コさん帰ろうという、船田も疳が起ったような顔をして新コさん帰れという、それではと軍次と二人で外へ出たが、友達なんて外に一人もいません。新コ達が帰ると、軍次の友達で井桁次郎という若い男が仕込み杖を抜放って、雲右衛門目ざして暴れ込んで来たそうです。デコシンコカエレの筆者はこの井桁だったのです。船田はさすがに何か事故が起ると察して、新コに帰れと勧めたのでしょう。軍次も感づいていたのでしょう。気がつかないのは新コだけです。この騒ぎは新聞には一行も出ず終い、新コが軍次からその後のことを聞いたのも雲右衛門が興行を打ち上げて発った後です。井桁はあの晩船田に組止められ、その場から雲右衛門の書生となり、一緒に発ったそうです。井桁は後に浪曲の真打となり永い問、各地を興行していました。何で井桁が暴れ込みをやったか、船田は知っていたろう、軍次だとて早耳だから知っていただろうが、新コは知らない。聞けば判かることだったでしょうが、それは何故だと訊くことを新コは、忘れてしまったようにやりません。  その頃を回顧して新コは、強盗傷人の神狐小僧すらいたことのある小さな地方新聞の社内に、折淵秀楼がいたことを、助けられたもおなじだったと思っています。折淵は春来れば衣の綿を抜いて着た、春去れば衣の一裂を截《き》って着た、或る人、これを見るに忍びずとして、木綿ながら絣の着物を新調して与えたところ、予の弊衣を纏うは好むところに随えるのみ、何者の無礼ぞ、予を遇するに乞食となすと、その着物を河に投げ棄てた。こういう人物だったから、極めて廉潔です、多少の狷介さはあったが、深山の中にひとり咲く花の香でした。新コもその外の人達も、変梃な小新聞の乏しい給料しか受けないでいて、請託に寄る記事を書かず、筆を曲げて利をはかったことがない、それはこの人物のむさい[#「むさい」に傍点]姿の中にある輝くものの光被によります。 [#改ページ] [#1字下げ]異人屋女[#「異人屋女」は中見出し] [#7字下げ]一  松ケ枝町という処に蓆張りの小屋が組まれて、角力が興行中、新コが土俵溜にちかい席で、太刀山峰右衛門が五人がかりの幕内力士達をみるみるうち総舐めにし、昂奮が見物席に渦巻いているとき、デコ介の軍次が緊張で白くなった顔をして客席をうろうろ歩き廻っている、骨の細い軍次のそういうときの顔つきは、いつもより狐の面に余程ちかくなっています。新コはすぐ気がついたが手を挙げて合図もせず、声を掛けて呼びもしません。軍次はいつも新コのために来たことはなく、自分の用か、自分に都合のいい他人の用をもったときだけに来る、二ツ三ツ新コより年上の二十七八の男です。  先ごろまで新コは自分の生れ育った国土の歴史を、飛び飛びにしか知らなかったので、今では太古から明治へかけ、一応だけでも知って置きたいとして、荻野由之の『日本歴史』を読み出したが、日本開闢のところがどうにも食いつきかねたので、かねてから心惹かれている、南北朝時代なら食いつきいいので、そこから始めて溯りながら読み、南北朝へ引返して年次を追って、後の半分に進むというやり方をしました、それが済むと今度は、有賀長雄の『大日本歴史』で開闢から順に、前の本と対照しながら読みはじめました。『古事記』や『日本書紀』はそのずッと後に読み、『水鏡』などのぞいたのも後のことです。こんな変格で疎放で、軌道があっても気がつかずにいた独学の禍胎が後になってからいろいろの点で出た、例えば緒論とか本論とかを立てることが出来ず、いきなり結論にゆく外はない弱さなどがその一ツです。しかし、“いきなり結論”ということは、十二三歳の現場小僧以来、歩いてきた諸所で抜きさしならず身についてしまったもの、といえば云えないものでもないのです。  土俵溜にちかい席で、懐中を『大日本歴史』でふくらませている新コを、軍次はやがて見付けて傍らへ来て、急な用で是非ともの相談があるから、小屋の外へ出てくれという言葉つきに、尋常でないものがあるので、ああそうと答えただけで外へ出ると、軍次が一言もなく先に立って歩くだけです、平生はお喋べりで、世故に通じていて、新コより本の数を多く知っている為め、片時も沈黙していない男が、唇が片ッ方とれてしまったようにしているのは、何か知ら緊迫性をちらつかせるものだったが、新コは黙っているのが平生だから、軍次が口を切らない限りいつまでも何もいいません。雑沓している街を通り越すと、場末らしい形相の街へはいる、横に曲ると何軒目かに青物屋がある、その前で軍次が新コを待合わせ、始めて並んで歩きながらいい出したのが、ニッコウ・ハウスにお家騒動がオッ始まっているので、僕は弱い女達の方の味方についたが、形勢が甚だ悪い、新コさんスケ(助勢)てくれないかという頼みです。  ニッコウ・ハウスというのは遊廓地にある特殊の見世《みせ》で、日本人を元来は客にしない異人屋という、幾軒もある遊女屋の一ツです。異人屋はこの土地が開港地になったとき、田圃と沼沢地を埋め立てて娼楼がはじめて出来た幕末に、その実態がもうあったもので、長崎丸山の遊女が出島の和蘭屋敷へ一夜妾《ひとよめかけ》に通ったとおなじく、洲干町《しゅうかんまち》の廓から居留地(租界)へ遊女が免許状をもって通った、それもあり又、長崎同様に江戸錦画的な異人|揚屋《あげや》が出来たのだそうです。明治になってからは高嶋町という埋立地で、草深くなっている処へ移転を命令され、洲干町はやがてして横浜公園地になり、現在もその儘だから、昔ここに入場料をとって旅客に見せる程の豪華建築があり、一軒で百人以上の遊女を抱え、特定の人の見物に限られはしたものの、芝居興行が楼内の女達だけでやれたという、有りそうもない実際があったとは、謡曲の『邯鄲』のいう栄花の夢は粟飯の一炊の事なり、不思議なりや測りがたしやです。京浜間の銕道が布設されると高嶋町の遊廓の方は、客車の中から丸見えなので取払いが命ぜられ、長者町の仮宅時代を経て、真金《まがね》町を主とした一廓に移転したとき、海遠く越えてきた外国人の為めのみの、形式も実際も異人屋という特殊性のものが出来ました。それには前にちょッと触れて置いたが、その中でナンバー・ナインという神風楼が、名実ともに第一位で、チェリー・ハウスの桜花楼やハナ・ハウスその他、何軒かあるその一ツずつに年と共に移り変りはあったが、異人屋が跡を絶つということは、その頃まだありませんでした。神風楼は高嶋町の廓取り潰しのとき神奈川に、和人向きと洋人向きに分けて、建築様式から客間・寝室、それから女の化粧衣裳まで、趣向を別にした大仕掛けな遊女屋を建てました、このことも前にちょッと触れていますが、電灯は明治の末近くだったのに、自家発電所をもっていて点燈していたのだから、規模の大きいこと、華麗を極めたこと、空前だといわれたものです、多分は絶後でもあると思われます。新コが異人屋のお家騒動とかで軍次に呼び出された頃は、神奈川の神風楼は廃業してそのあと、いろいろあって脳病院になっていたが、火災に罹って跡方もなくなったのはいつ頃だったか、新コに記憶がない、明治末年でしょう。  異人屋で客にする外国人は、地もの・旅のもの・マドの三種で、地ものとは居留外国人のこと、旅のものは観光又は商用で渡来中の外国人、マドはマドロスの略語で海員ということです。おなじ異人屋でも白人以外は客にせず、海員でも高級海員に限るというのもあります、ナンバー・ナインがそれです。軍次のいうニッコウ・ハウスは外国人のみでなく、日本人も客にするくらいだから、外国人の種族別や職業の階級など問いません。チェリー・ハウスは日本人を客にしない習慣がまだ保たれ、フジヤマ・ハウスもペンキ塗りのドアがぴたりと閉っていて、日本人は寄りつけませんのです。  異人屋は公娼だが、元居留地とその近接した街にあるチャブ屋と、本牧辺のチャブ屋は外国人向きの私娼です、ぐッと高級のものは俗称山手の百番といって、外国人墓地に近いところにあったものです。チャブ屋のチャブ屋らしいのは元居留地のもの、本牧のもそうです、どちらも経営者は下級海員あがりの外国人が多く、日本の女名義になっているものは、その殆どが外国人の街の紳士がうしろ盾に控えていた。井上という人がこうしたチャブ屋のことを、一冊に纏めて出版したが、今では稀有のものになっているようです、随って新コなどがチャブ屋と聞いて描くともなく描くチャブ屋は、本牧のチャブ屋の名によって、日本人相手のずッと後期のものしか知らない人とは、牛乳と粥ぐらいに違います。チャブ屋のチャブは Chop house から出たチョップの訛りだというが、横浜開港前後の土木工事が盛んなころから口にされたらしく、関東の土工の間にチャブとは食事のこと、金魚チャブとは水ばかり飲むこと、ノウチャブ又はサランパンチャブは飯にありつけないことと、可成り広まっていて新コもつかったものだが、だいぶ古い前からだれの口にもされなくなっています。 [#7字下げ]二  新コはニッコウ・ハウスを知っているどころか、そこの家の遊女の大半は軍次の手引によって友達同然で、ときどき泊り込むことさえあったのです。そのころ新コは兄の家を出てしまい、寝るところがないので、様子を知っている洋風な事務所へ夜更に忍び込み、椅子を並べて寝るか、机の上に寝て、夜明けに立ち去ります、折淵秀楼に学んだものを、知り合い同然のところに限りやった訳です。六ヶ所ぐらいそうした屋根の下の野宿をやる場所をもっていたが、常にそうばかりではなく、遊廓の入口にある巡査派出所へもときどき泊りにいった、そこには仲間の波島吉五郎というのが巡査で詰めているので、裏の休憩所へ泊り込むのです、新コはそんな時にも必ず何かしら本をもっていた。金があるとニッコウ・ハウスへ泊りにゆく、相手の女はメレーという洋風の呼び名がついているお隈《くま》という、少女のころから元居留地のチャブ屋女だった薄倖な、美しいとは云えない人で、マドロス仕込みの英語を用が足りるだけには囀《さえず》りました。  ニッコウ・ハウスには姐御といったような地位を占めている、お杉という小肥りした美貌の遊女がいました、この人の洋風の源氏名が思い出せない。お杉は交際英語が出来てマドロス英語が出来るというから、おかしくない英語が喋ベれて、英語で啖呵が切れるということらしいのです。この女は新コが堺枯川の『周布政之助』を借りてもっているのをみて、手にとって見ていたが、新コさん堀紫山という名を知っているかと尋ねたので、この間読んだこの本と同じ型の『大塩平八郎』は、掘紫山の著作だったというと、それでは加治時次郎という名を知っているか、幸徳秋水という名を知っているかと尋ねられたが、新コは知らなかったので知らないと答えた。この女は堀紫山と親族か縁戚のようなことを、或る日、詳しく聞かせたので、一応は記憶していたが何年かのうちに悉く忘れてしまい、今いったような事だけ憶えているに過ぎません。  異邦人の客の変った話をニッコウ・ハウスの女達から、聞かせて貰ったり、時には見せて貰ったりして、幾ツとなく知っていた、その一ツをタネに新コは、『輸入巾着切』という芝居を後に書いています、洋名メレーのお隈の実歴で、上海で拐帯犯をやり、逃亡の途中でメレーに溺れ、最後の一銭までつかい果し、自殺した理髪師の事です。このバーバー職人は北米の人か南米の人かメレーは知らない、姓名も知らない、バブとのみ呼んでいたそうです。  さすがに一ツ二ツは話の色は褪せたが忘れず、新コはウロ憶えながらまだ思い出せます。  横浜沖にアメリカの東洋艦隊の何艘かが投錨中で、廓の異人屋が賑わっているとき、シェリフが二三人の水兵をつれてニッコウ・ハウスにはいって来て家捜しをやろうとした。店のテーブル係の女がテーブル部屋の前の廊下で、それを食いとめ、訳を聞いてみると、連れて来た水兵の中の一人の金を持ち出した一水兵が、確かにここへ来ている筈、何となればその水兵はここの女のところへ来る以外に金を必要としないというのです。その水兵なら先刻やって来ている、テーブル係の女はそれを知っていて、シェリフ役の水兵の言葉がわからない振りをし、何度も科《しぐさ》入りで聞き返して手間取らせた、客の外国人の中で、質の悪いのはこのテをつかって、自分の利益を理不尽にはかることがある、そんなことに何度となく出会っているテーブル係の女は、外国人の外国語を聞きとりかねる外国人の真似をした訳です。異人屋のテーブル係の女というのは、古い制度の娼楼のやり手に相当するものだが、やり手婆ァの呼び名に相応する内国屋《ないこくや》のそれと遣い、若い女がやっています、ニッコウ・ハウスのそれも二十五六歳のコマという、色の浅黒い口八丁手八丁の女でした。コマとシェリフの問答で、あの水兵がお尋ねものだと気がついた遊女達は、その水兵を隠慝《かくま》うことに智恵を絞り、シェリフに家捜しさせた頃には、風呂場の中に隠れさせたそうです。シェリフが風呂場もみるといい出すと、コマが矢表に立ち、風呂場にはムスメが今はいっている、それでも見たいかと念を押し、シェリフがそれなら尚更のこと見たいというとコマが、それなら表へ一ぺん出て、ここの家がどういう家か見直してから再びはいれ、然らばテーブル部屋へ慇懃に案内するから、歓興料と特別歓興料とをそこで支払え、その後にあんたの満足する条件があんたを満足させる為め待っているだろう、一|仙《セント》も払わないで入浴中のムスメを見ては侮辱であるとやって、シェリフに風呂場をとうとう見せず終いだった。その後で姐御的なお杉が主唱して、泊りに来ていた別な外人客に、有合わせの千代紙や雑誌の木版色刷の口絵を切って高値で売りつけ、その金をあつめて水兵に持たせて、帰艦させたそうです。こうした行為をここの女達は、心意気だといって尚ぶのでした。  アメリカ汽船の水夫で若いのが、ニッコウ・ハウスのリリーのお京に馴染み、あすの朝は出港という宵に、頭に服と靴とを結びつけて、泳いで陸にあがり、人力車でお京のところへ名残りを惜みに来た、冬のきびしい寒さの時だったので、その水夫は生色のない顔をしていて、廊下からあがる階段が自力であがれなかった。それと知ってリリーのお京は、階段の中途で水夫を抱きしめて泣き、朋輩の女達も貰い泣きをしたそうです。二時間の後に帰ってゆく水夫に、心ばかりながらみんなが贈物をもち寄って贈り、みんなでキスして見送ったという。  こうした事ばかりあるのではなく、持っている金を残らずハタかせるとか、日本製の歯みがきを十五倍の値で半ダース買わせるとか、不倖なわが母を慰めてやってくれと、飯焚のお婆さんを臨時に母に仕立てて金を貰うとか、そんな事は珍らしいといえないここの女達です。新コなども女達がそんな風な手口で召しあげたシャツを、二度ぐらい貰って着たものです、困ったのはそのシャツのどれも腋臭が沁みついていることで、二三日してから屑屋に売りました。  こうしたニッコウ・ハウスに、御家騒動が起っていると軍次がいうのは、老人の当主が死んで、残されたのは小学校から中学校へ進む年ごろの男の子だが、母は先年この世を去り、別宅に婆ァやと共に住んでいたのが、ニッコウ・ハウスの女主人格で亡くなった楼主の妾が近ごろ引取り、別宅は売払ってしまい、婆ァやには暇を出してしまい、男の子は中学校へやらず小僧にゆかせ、ニッコウ・ハウスの営業主は妾の名義になりかかっている、これを女達が知って騒ぎ出し、遊女達の先鋒には姐御的なお杉が起ち、妾の側にはコマが先鋒に立ち、といっても双方とも陰性なる悶着で、その序幕が既にもう開きかかっている、それを軍次が知って女達の味方につき、扇動してストライキをやらせたのだそうです、ところが女達の中に美貌で理性の勝ったキチーのお澄というのが、ストライキに最初から反対で加わらず、それに同調の女が三四人出たので、十三人の女のうち八人とか九人とかは病気休みをやったが、見世はキチーのお澄など四五人がいるので開けた、それと、どこかの筋からの説諭があったので、三晩目にはストライキ総崩れで、十三人とも就業ということになった、とこういう事です。これは軍次がした話だけなのだが、他人の話を一ツだけ聞いてその全部だと信じる軽率が、新コにもあります。あそうそうと聞いているうちに、新コは軍次の尻押しをやる気にもうなっていた、思案の後に決することを新コはしない。この時も時間的には何十秒の後にといえない速さです、ずるずるといつとなしに決断がついたともいえる、妙な速さでもあります。 [#7字下げ]三  廓の外の交番の前を通ると、波島吉五郎が勤務中で、おい軍さん詰らない真似をやるなよ、多忙になって僕が困るではないかとニヤニヤしていったが、軍次は空呆けて、ニッコウ・ハウスのことか、あれは僕の知らないことだ、変な噂があると聞いて困っているというと、波島は本当かいそんな事といって笑っています。警察では軍次が煽動したと知らなくても、波島は知っていたでしょう。  新コは友達のことだから、軍次の肩をもつと決めたものの、何も案がない、軍次は既に要意があってやって来たので、新コさん自由廃業をやるからスケてくれるねと切り出した。新コは今までに読んだり聞いたりで知っているので、それは女奴隷救い出しの実践だと思いつき、よろしいスケると云い切ると軍次は、自由廃業を女達にやらせるのは社会廓清だからねと、歩きながら喋ベり捲り、遊廓地の前の外れから元町という処までそのお喋べりが続きました、それでも終りを告げず、山下町の海岸から本町通り、それから南仲通りの隅にある、汚ない弁当屋の前まで続いたものです。今にして思うと、そのときの軍次の饒舌のタネは、救世軍のパンフレットから出ていたのが判ります。  弁当屋は三州豊橋のもので、四十搦みと三十二三の夫婦とも咽喉に刃物の疵が残っていて、かみさんの方はいつも紫紺羽二重の襟巻をしていたように憶えています。軍次の説では、あの二人は情死をやって仕損じ、故郷を後にしたと、当人達から聞いたとありましたが、嘘でも本当でも新コは、他人《ひと》の咽喉の刃物疵を詮穿する興味などない。ここの弁当屋は現金払いでなくても、弁当飯を新コに食わせてくれます、その代り新コは金が手にはいると、一番先にこの弁当屋に払います、前にいった若い男を新聞記者の卵につれて来たその中には、何より先にここへ引ッ張って来て、弁当飯を食わせねばならない人が幾人かいた、その支払いは新コの手に金がはいったときに限りしたものです。  それから幾日間だか新コは軍次からこの弁当屋で自由廃業の実行について相談をうけました。新コはどういう手続きでやるものか、自廃の実際について何も知らないが、軍次はどこで仕入れて来たのか、いろいろの事を知っています。クウさんを呼んでくれないか新コさん、あさっての晩の八時から九時ごろまで、クウさんに寿町の警察の中にはいって居て貰いたい、貸座敷業者の手が警察に廻っているか知れないから、クウさんが警察の中をぶらぶらしているだけで、依怙偏頗が出来なくなる道理だろうというので、新コはすぐに承知しました。クウ公というのは山下町にあるイギリス系の外字新聞のレポーターで、新コの友達でもあり、ニッコウ・ハウスの客でもあります。軍次はその次に、新コさんは元町に新開業の若い医者を知っていたね、あの人にあさっての晩、この女は肺が悪いという診断書をつくってくれるように、話をつけて置いてくれないかという、それも承知しました。新開業の若い医者は軍医を依願免官になった人で、頼まれたのでその人のことをタネにつくり、新コのところから巣立って行った幾人かの支局記者に書いて貰った、その礼をもって来たのを、新コの分だけは返し、他のものの分はそれぞれに受取らせた、そんな事があるので、嘘の診断書ぐらい書いてくれると思ったのです、そればかりか薄命な女を救い出すのだから、一枚の診断書が一人の女を再び銕の鎖につなぐか解放させるか、明暗浮沈の境目だとわからせたら、喜んで人道の為めに診断書をつくる、とこう独断したのです。  ここまで来ると軍次の目算が、新コにわかってきました。十三人の遊女の中のだれか一人を警察へ送り込むと、署内に外字新聞のレポーターがいる、その見ているところで女が、自由廃業の申立てをするのだから、夜勤の警部が貸座敷組合に好意をもつ者であったところで、受付けない訳にゆかないが、廃業申立ての理由は何かとは訊くだろうから、病気で勤めかねるといわせる、それでは医者の診断書をもって来いとなるに違いない、そうしたら診断書を持ち込むという段取りになるのです。したが、自廃させた女をどこへその晩から泊める気の軍次か、新コは知らない、すると軍次が、新コさん福富町のこういう処の二階家で、二階の八畳と三畳と二ツ貸間があるのを探して来た、八畳は七円で三畳は三円だから、三畳の方を借りにくると口約束だけして置いたから、あす行って借りないかという。それも承知して、弁当屋に預けてある本を売って、三畳の貸し主に五円渡し、残りの金は懐中に入れて置くと、勘考がすぐつきました。そこで新コさんはね、あさっての夕方ニッコウ・ハウスの前まで行ってくれないか、僕は今夜あすこへ行って内部の手順をつけて置くからと、軍次がいい出したので、俺がやるのかと驚いていると軍次が、山元召川は図太いからやらせたいが、奴は旅へ稼ぎに出ていないから、他にこんな危ないことをやれる者は居ないといいます。そういえば召川は、一日につき二円五十銭の損料という衣裳かつら[#「かつら」に傍点]の、世にもひどいガセ(劣等)芝居を持って小旅へ出ています。よろしい俺がそれではやろうと新コが返辞をすると軍次が、敵に覚られないようにやる心算《つもり》だが、万一にも気がついて、ごろつきや妓夫や台屋の出前持や車屋が、現われてくるかも知れないから、新コさんの方でも人数を集めて置く方がいいといいます。ああそうかとだけ新コは返辞した、新コはやると決まったら軍次より先に、そんなことには気がつくばかりか、だれを使ってだれだれを呼び集めて連れてゆくか、もう決めてあります、決まらないのは幾人かの者を集めるとなると、金が必要だが、それがないので、どうして捻り出そうかということだけだが、それも着ている羽織を売ることにして一先ず落着です。呼び集めるのは謂ば新コの身内で、各新聞の支局記者になっている面々です。それから中一日たって、新コのところへ集まったものは、蟹・晃楓・電公・お人形・チビ・箱根・兵学校くずれと、これだけしか思い出せない、このいずれも綽名で、蟹とお人形は後に朝日新聞の地方部に永い間勤続し、一人は現存し一人は亡くなった、晃楓は柳橋の有名だった芸者の子ですが夭折し、チビは東海地方で国粋会に関係して今は亡く、兵学校くずれは失踪し、電公は宗教的生活にはいっているとか、箱根はどこかで安らけき余生を送っていると聞いています。この外に二三人まだ居たようです。  新コはその晩になるとこの後輩達を、廓の大門前の蕎麦屋へ入れた、軍次もその中に加わっています。羽織を売った金を蟹だか電公だかに渡し、酒一本と天麩羅蕎麦を注文させて置いて、ひとりだけで廓内へはいった、夕方です。内国屋の女達は外へ出ないが異人屋の女は、そのころ散歩に出る慣いがあります、客が外国人なのだから、外国の習慣を受け入れたという事のようです。  大門外の交番には波島が当番で詰めていたが、新コの姿に気がつかず、何をした男なのか、叱った後のお説教を聞かせています。廓内にはいると夕方の寂しさで、目の前の一本道路に人の往来殆どなく、十字路の先の方にちらりほらり歩いているのは、チェリー・ハウスやフジヤマ・ハウスなどの女達が、横の道路から縦の道路へ散歩に出てきた姿だけで、ニッコウ・ハウスの女は出歩いていない。新コは日本人を客にしない異人屋の女と、内外人どちらでも客にする異人屋の女とは、遠くから見ただけでわかる、日本人を相手にしない女は、外国人の眼にも日本人の眼にも、異国調をたッぷりもつものとして映るからです。  新コがニッコウ・ハウスに近づくと、姐御的なお杉とメレーのお隈とが軒下に佇んでいます。お杉に小突かれてお隈が新コの傍へ来たので、今夜出るのはお前かと尋ねると、そうだとお隈が答えた。軍次は自廃の第一回に新コの相手の女を出したのです。立話をすこしやって、ぶらりぶらり歩き出した足の先は大門に向かっています。十字路の手前まで来ると、うしろに男の声が消魂《けたたま》しく起った、かと思うと駆け廻る足音が聞こえます。新コのうしろの方で男の短く呼ばわる声が幾ツも起ったのは、人を集める声です。足音は新コのうしろに集中して来た、二人三人ではないらしい。新コは振返って見なかったのでわかりませんが、多勢が束になって追い駆けているとだけは判ります。新コはぶらぶら歩いている、お隈は新コとおなじように歩いている、間もなくうしろの足音はいよいよ近くなり、叫ぶ者も喚く者もなく息づかいだけが、波の音のように背中の近くで聞えます。十字路までに追いつかれれば、新コは一人、先方は多勢だから、袋叩きにされて女は引戻されるというのがお定まりなのだが、根の浅い行き合い喧嘩と違ってこうした時のことは、対手の数が多ければ多いだけ危ない率が高いのです、多数に紛れて袋叩きの限度を越える者が出ることと、廓にこの機会に乗じて忠義立を特別にみせ、何年か監獄行をして出てくれば食いっぱぐれがないと、打算でかかる者が出ることと、勢いに巻き込まれて兇暴をやってしまったというような者が出ることと、これが怖いことを新コは知っているので、十字路を越えるまでを生死の別れ路だと思い、追い駆けている連中に、キッカケとか弾みとかを与えまいとして、歩くのもぶらりぶらりと見せかけ、振返りもしなかったのです、急いで歩けばそれ逃げるぞと勢いが強まる、振返ればやい待てぐらいのことをいう、それだけでも火に油をそそぐものとなる、とこう新コは解釈をつけた後にやったのでなく、躰の方がそういう風に先になっただけのことです。幸いに十字路を越えたので大門までは二三十間もありましょうか、わずかな距離になったので、新コは歩みを今までより緩くした。大門口の交番に仲間の波島が番立ちをしていない時間かも知れないが、交番があることはこの場合では、生命保険の満期を目前にしたみたいなものです。そのとき追い駆けて来た連中の足音がハタとやんだ、彼等は十字路の中程で立ちどまってしまったのです。新コはそのお庇で女を連れてぶらぶら歩きをして、大門から外へ事なく出た。後で聞くと追い駆けの人数は、始めは三四人だったが、あっちこっちの横丁や露路や娼楼から飛び出したもので、みるみる数が多くなり、十字路のところでは二十五六人か三十人ぐらいになって居たということです、勿論その中には棒ぐらいは手にしたものがあったという、棒だけではない刃物を手にした奴もいたともいうが、刃物は何かを誤り見たのでしょう。そうした連中が一斉に立ちどまったのには訳があった、大門前の蕎麦屋へはいっていた新コの仲間の内、兵学校くずれが状況監視の役を買って出て、蕎麦屋の前に立って一本通りの道路をみていて、機会は今と蕎麦屋の中の仲間に合図したので、どやどやとその連中が出て、大門口の外側に人垣の一線をつくった、これを見て追い駆け組はド肝を奪われ、だれかが号令をかけたかの如くぴたッと立ちどまったのだそうです。そのときの一人が、いけねえやね壮士をつれて来て伏勢を置いてやがるのだもの、こっちが手荒いことの一ツでもしたら、あいつらは人死《ひとじに》が出る騒ぎに必ずしてしまうからね、といったそうです。どう致しまして新コ達は強いものか、乱闘になる前に大抵は逃げ出すに極まっています。  軍次はそういうとき姿をみせず、人垣の一線を引いた中にも勿論はいっていません。新コが女を連れて大門外へ出てくると、どこからか現われて、この次は署へゆくのだと、流しの人力車を呼びにゆき、間もなく連れてきてメレーのお隈を乗せ、寿町警察署へやりました。  新コは蟹や電公やチビその他に、言葉の挨拶だけで散って貰い、軍次と二人で警察署のある方へ歩き出した。ここへ廓のものがもしもやって来たら、二人はテもなく屈伏させられただろうが、相手が買被っている有難さで、何のこともなしです。 [#7字下げ]四  クウ公は外字新聞のレポーターの資格をひけらかせて、寿町警察署の中に取材に来た振りをして、はいり込んでいました。そこへメレーのお隈がはいって行き、当直の完同《かんどう》竹二警部に自由廃業の申告をやると、待設けていたクウ公が近づいてゆき、自廃ですか、キリスト教国民は公娼制度がくずれて行く記事を読むことを喜びますと、独り言のようにいって、成行き注目の態度を執ってみせたそうです。クウ公は、山手署といって外国人の居住地の方の巡査の子で、小柄で非力な独身者です、後に速記を身につけて報知新聞に入社し、本山荻舟の部下でいたことがあり、その後、古本屋をやっていると聞いたことがあります。完同警部は自廃賛成者でない様子だったが、お隈の申告を拒否しなかった、事によると拒否したかったかも知れないが、それにはクウ公が居るのが邪魔だったか知れません。完同は厳しい顔をして、病気だというなら診断書をもって来い、自廃はしても借金が棒引にはならない、将来いろいろ面倒が起るか知れぬから用心することだなと、云ったそうです。  新開業の医者のところへ行き、診断書をつくって貰い、それを持って軍次と新コがついて、再び警察署へゆき、お隈だけが中へはいると、クウ公がまだ居たそうです。自廃の手続きをすますのに、たいして長い時間がかからなかったのは、クウ公が必要な書類を作るのを買って出たことが、相当に効き目があったのだと、クウ公が自分で後でいっていました。お隈が警察から暗い外へ出てくると、続いてクウ公も出て来ました。お隈は比翼のお召の着物に昼夜帯、黒縮緬の古くなった羽織を引ッかけていた、クウ公は一着しかない背広服に半外套、茶の中折帽子をヤンケ(アメリカ)冠りにしていたから、秋が晩くなっていた頃だったでしょう。クウ公は外の暗い露路のはいり口に待っている軍次と新コのところへ、お隈と一緒に来ました。新コさん僕が警部にこれからあの女をインタービューするといったら、解せない顔をしてはアと一ト言いったね。クウ公はそういって笑った。そのころインタービューという言葉は一般化されていなかったので、クウ公が彼は解せぬ顔ではアといったと云ったのは、言葉を諒解することが彼には出来ないのであったという事です。診断書をつくってくれた医者は、最初は新コの希望を容れ診断せずに作ることを承諾したが、本人に医院の敷居を跨がせてくれというので、連れて行ったところが、形式的にまあ診断の真似ごとだけしましょうと称し、まンまと本式に診断したその結果、本人にはいわないで軍次に、あの人は胸を可成り冒されていますといったのだから、この医者は不実の診断書をつくったのではなかった、という結果になったのでした。  月三円の福富町の借り二階へ帰る途中、新コと軍次とお隈とクウ公とで、遅い晩飯代りに蕎麦を食い、クウ公は帰ってゆき、新コと軍次とお隈とは貸蒲団屋へ寄って、三人分六枚の蒲団を保証金を入れて借り、三畳の二階へ帰りました。火鉢も茶碗もないので湯も水も飲まなかった。翌朝は三人で時間外れに一膳飯屋へゆき、朝飯をすませたが、お隈の風俗が堅気には見えないので、人の目につくので当人は気にしていたが、新コは一向に気になりません、軍次はそういう女と連れ立って歩くのが好きなので、三畳の二階にいても外へ出てもひどく陽気で、喋ベり続けに喋べっています。それから米を一升買い、土鍋を買い、茶碗と椀と箸と鍋とは、新コと軍次とで貰って歩き集めました。  三四日すると一晩だけ来なかった軍次が、睡眠不足の顔をして来て、あしたの朝七時と八時の間に一人出るから頼む、僕はゆかれないから新コさんだけでやってくれと云います。よろしい引受けた、だが俺は廓内へはいれない眼をつけられているだろうからというと、軍次はそのことは心得ている、女はだれが出るのかまだ判らないが、大鳥神社の脇の柵を乗り越えて出るから、新コさんは寿町のどこかで待っているということに打合わせがしてある、というのです。  朝になって新コが、寿町警察署の近くへ行って、駄菓子屋でそこらの知らない子供二三人に、駄菓子を買ってやり、遊びながら待っていると八時廻ったころに、川越在の女で名前を今では忘れてしまったが、ニッコウ・ハウスの女が、木賃宿が何軒もある方角から、怯えきった顔をして来た、聞いてみると大鳥神社の脇の柵を乗り越えるのはうまく行ったが、その後が怖い怖いで廻り道をワザとして来たという。新コはその女と一緒に署の中へはいっただけで、自廃の申告は女にやらせ、素知らぬ顔で壁に凭れていると、交代前の内勤の巡査達が気にして見るだけで、だれも何ともいいません。後で知ったが大門詰の波島巡査が、跡方もない嘘のガセネタをだれかに掴まされて、内外両新聞の少壮記者有志が、社会清掃に乗り出し、先ず公娼制度反対の先駆に、自由廃業を試みるという風聞がある、ニッコウ・ハウスの一件は、それと内面の関聯あるものの如くであると、内偵報告書を出したのが、強く効いていたのだったそうです。波島は仲間の一人に違いないが、新コは今度の一件については何一ツ聞かせていない、聞かせては巡査である彼が迷惑するだろうからです。先夜、新コに狩り出された人達は、新コの私的関係で集まってくれただけで、自廃をやるということも、蕎麦屋へはいる間際に知ったくらいで、その後に続く自廃には、その中のだれ一人にも手伝って貰っていないのだから、架空のネタを捏ねる筈がないばかりか、連中はもッと簡単で素朴で少年染みたものばかりです、そうすると波島がだれからか、そんなネタを掴ませられたのに違いないが、軍次の外にそんな事をするものはないとなります。しかしそのガセネタのご利益を新コはうけたのでした。  その日自廃した川越在出身の女は例の二階へつれてゆきました、当分のうち泊まらせて置き、その間に身の振り方をつけることにして、翌日の晩、その女と新コとお隈とで相談した。その女は日本人客の中で、夫婦約束をしたものがあるので、それと一緒になろうというのだから、相談ではなくてその男を連れてくる打合わせだけでいいのです。新コは一日二晩かかってその男を見付け出し、連れてきて女に会わせたところ、男の喜び方がすこし仰山に過ぎるのを善意にとり、気を許したのが新コの青いところです。人当りのいいその男は外国商館へ勤めているのだそうで、その晩、貸し蒲団にくるまって空いている八畳に女と寝て、朝になると新コ達に繰返して礼をいい、日が暮れるまでに迎えにくると約束し、朝飯をすすめたが辞退して帰って行った、それぎりこの男は姿を晦《くら》ましました。女はあいつに騙まされたと、口惜がって泣きはしたが悲しんだのではなく、勧められる儘に第二候補者を決めました。今度は軍次がその男を迎えにいったが、軍次はその男の代りに三十円受取って帰って来た。第二が駄目ならその次をとその晩、軍次も入れて四人で相談し、第三から第六までの客を撰み出し、新コと軍次と二手に分れて順々に探して歩いたところ、名も住所も嘘でどこのだれとも知れない者と、探し当てはしたものの妻子がある者とで、第三から第五までは候補取消しの外なしです、残ったのは第六番目の客だが、女からいえばたいして同棲したい男ではないらしく、可成り渋っていたが、早く埒を明けないと次の女に自廃がやらせられないので、軍次とクウ公とが行って、六番目の男をつれて来たところ、この人はびッくりするぐらい真剣で、女と二人きり一時間余り話合ってから、新コ達に四日間だけこの女の世話を願いますといい、持っていた銭を残らず女に渡し、泊って行くようにいったが、断って帰ってゆきました。新コが女にそのあとで、あの男のところへ行く気になったのかと聞くと、前とは打って変って頬を染めて下を向き、小さい声で行きたいといい、娘のように羞らいながら笑いました。新コはこれと大同小異のことが、自廃を次々に続ける間に幾つも出てきたので、歓楽の場所で発見した男は発見の価値を大抵はもっていないもので、問題にされない男の中に却って発見されずにいる価値があるということを、だいぶ経ってから知るようになったモトになりました。四日目に約束の如くその男に引取られてゆく女に、新コはやる餞別が何もないので、買って二三日つかっただけの男用の湯呑をやったので、当分のうち茶碗を湯呑に代用しました。  軍次が持って帰った三十円の内、五円は軍次が遣い込み、正味は二十五円ですが、それは共同食費に消え、引取られて行った女の手には一銭も渡らずじまいです。  自廃は二日続けてやったり、十日たってやったりです、虚を衝かないと成功しないので、夜はやらず、昼のうち専らやった、それも昼寝の時間とか、夜明け前とか、そのたびに時間を違え、危ないことも二三度はあったものの、とうとう九人目までやった、勿論、新コは廓内へ足を入れません、行けば先ず捕虜にされるでしょう、袋叩きにして廓外へ追い出すようなへマを彼等はやらないで、捕虜を脅迫と利益とで手を引かすか、単に私刑だけをやるかでしょう。  九人目の自廃の間に、水際立っていたのはキチーのお澄です。この女は六人目に全くの単独で自廃をやりました。世の中へ出たその日の夜、軍次と女達とがいる新コのところへやって来て、座に軍次がいるのをみると、意外だという表情をみせたが、その感情は口に出さず新コに、自由の身になる機会を与えてくれたことを感謝するという意味のことをいい、その次に、わたくしは約束のある人と同棲して、妻たる資格が及ばずながらも出来たとき結婚する、それに就て大変に無礼なお願いかも知れないが、わたくし共が二人で市中を歩くところを見る場合があると思う、そのときあなたに目礼一ツわたしはしません、これを許して貰えまいかと、こういうのです。安心してお歩きなさい承知ですと答えると、お澄が喜んで礼をいった中に、水で濡れたところは時間が乾かしてくれますけれど、乾いた後にシミが残らないのは時間以外の力によらなくてはならないと聞きましたので、その力にわたくしは縋って行きます、というのがあった。そのときは新コに時間以外の力とは何のことか、わからなかったが後に、マグダラのマリヤの名画の写真版をみるたびに、在りし昔の或る夜のお澄を思い出します。お澄は洗礼を受けてから新コを訪ねたのでしょう、ちらりと銀色の十字架が襟の内側にみえていました。  お澄が帰って行ってから、女達がする、その後噂《あとうわさ》はよくなかったが、新コはそんな話を耳に入れながら、何か引ッかかるものを心に置いてゆかれた気がして、極めて稀れではあったが半年ばかりの間、乾いた後にシミが残らない時間以外の力という言葉が思い出されたものです。この人はポルトガル人と正式に結婚し、日本国籍を離脱したと聞いています。新コは三四たび街でこの夫婦を見掛けたが、約束を履行していつも素知らぬ顔をしたものです。 [#7字下げ]五  堀紫山だの堺枯川だのと口にしたことのある、姐御的なお杉は十二人目に、楼主側と合意の廃業をして廓を去ったそうです。この人がいっていたことを後に聞いたが、それだとこういう事になります。あたしは軍次はもとより新コにだとて挨拶などする義務はない、軍次は新コが躰を張って自廃をやっているのに、毎晩のようにニッコウ・ハウスに泊まり、新コとは不和になっているように見せかけて、楼主側に気を許させていた。テーブル女のコマでさえ軍次は味方だと思っていたのだから新コとは腕が違う。軍次はそうやって自分の女のハナア(お花)を、最後の十三番目の廃業に持ってゆくのが、最初からの目論見だった、十三番目なら自由廃業でなく、合意廃業になる見透しが付いているからだった。あたしはこんな処へ来てしまった女だから、無理に素人になりたくもないから、ここの家が営業を続けるなら居るし、廃業するなら仕方がないから堅気になるつもりでいたが、もしも別なところへ売渡されそうだったら、そのときは自廃をやってやる気でいたところ、楼主側と親類の間と、それに債権者が加わって悶着がひどくなり、建物その他と権利ぐるみ欲しい奴が、陰で細工をやって潰す方へ持って行くから、とうとうその通りになってしまったので、残っていたあたしと軍次の女とが楼主側の人達に呼ばれ、十一人が自廃して出ていったのに、二人だけはよく残っていてくれ有難いが、こうなっては営業が続けられないのだから、お前達も引取ってくれと証文に棒を引いてくれ、ここの家はもともと潰れる外はなかったのだから、今になると十三人の女達まで他人に取られ儲けのタネにされるよりは、商売の玉一ツもなしで渡してやるのは小気味がいい、新コの奴はまるでこっちの腹癒《はらいせ》を手伝ってくれたようなものだと、亡くなった主人の弟がいうのを聞いて、あたしもその通りだと思った。あたしは自由廃業の反対論者ではないが、自分の気もちから出ない自由廃業は嫌いだ。新コなんて背中の筋がもう少し徹《とお》っているかと思ったら、そこらにいくらでもいるただの甘ちゃんと違いはないのだから、軍次に操られる木偶人形にされ、自分の馴染みの女を最初にあてがわれただけで乗り気になったが、軍次は自分の女を最後まで残したので、借金は棒引の上に餞別だといって、箪笥・鏡台・夜具・蒲団から火鉢・座蒲団はもとより、箒から炭入れまで、遠慮なく貰って出て行ったのだから、すぐ所帯がもてるが新コの女は、着のみ着の儘で出てゆき、浴衣一枚紐一本だって前借金の抵当《かた》に押えられてしまったのではないか、甘ちゃんと狡《こす》ッ辛いのとでは得をするのはどっちだか、見掛け倒しの青二才の新コではわからない。軍次がいい付けてあったとみえてハナアは、あたしが出てゆかないうちは腰をあげない、最終に出たものはハナアだったとなりたいのだろうと判ったから、あたしの方で先へ出てやったら、案の如く、最後まで見世の立ち直りを待った女として、一時間ばかり遅れて名残りを惜んで出て行ったそうだ。あたしも餓別に貰った物があるにはあるが、軍次の女のように布巾からつかい残しの木炭まで貰ってゆく、あたじけなさはしなかった、とお杉がいったことは大体こうだそうですが、これが本当かどうか、新コは軍次にも軍次の女房になった女にも確めたことがない、新コはお杉の話だというのを聞かされたときも、あそうといっただけのものです。抗議や反駁をして気ばらしをするより先に、こいつと思ったら新コは打棄ッてしまいます、この時から二三年して自廃一件とは関係のないことから、新コは軍次を棄ててしまい、心のうちにそれまであった友人という彼の肩書を取外しました。軍次は新コより物識りで才も長けていたが、離れて遠くなって久しゅうして新コは心づきました、彼は肝腎なものを一ツ持ち合わさなかった、誠意です、その為めでしょう遂に何ごとも成就せずでした。軍次が悲惨な晩年をもつようになってから、新コはたびたび金を贈りはしたものの、心のうちで取外した友人という肩書を、元の通りにすることはしませんでした。  自廃第一号から第十一号までのうちで、単独でやったお澄一人を除き、十人の女を次々に抜いて引取り、次々に行く先を決めるのに奔走しているその半ばに、前にいった人に怖れられた船田敬中が、新コの敵側に頼まれて登場すると噂を聞きました。軍次はそれを聞くと姿を消し、軍次の友達で名は忘れたが、いつも軍次についてくる男が、新コに往来で会っても知らぬ人という態度をとった、軍次もその男も船田が怖いのです。  船田敬中にとうとう新コが出会ったのは、伊勢佐木町という盛り場の裏通り、羽衣町弁財天の前の往来です。船田は人力車に乗っていたが、新コを見付けると下りて車を行かせてしまい、傍へやって来て一人と一人で向きあいました。どちらも怖い形相などしません、にやにやしています。いたずら止めろよといったのが船田の第一声です。新コはニコニコするだけで何もいわない、いつもの黙り癖で、特に黙っているのではない。三百円でどうだと船田が又いいます、新コは矢張り笑っています。金では厭か、それなら僕のこの時計でどうだと、船田は帯の間から時計を引き出して見せ、暫く新コの眼をみていたが、新コは矢張り笑っているだけです。慾のないものには敵はないや、仕方がない僕が手を引くよ、と船田が笑ったので新コも笑った、それで終りです。船田は楼主側に頼まれたのでなく、ニッコウ・ハウスを手に入れようとしている債権者側に頼まれたが、まだウンといっていないのだそうです。  船田がそのとき帯の間から引き出してみせた時計は、高価な舶来物らしい。生涯のうち新コはそんな物をもつことはないでしょう、だが、時計店の飾り窓と船田の帯の間と、置き場所が違っただけの舶来時計で、新コには拾わなくていい路端の小石と変りがない。新コが今もっている懐中時計は、十余年前に買った五十五円のニッケル側で、これには愛惜感をもっていて、腕巻時計をだれかが買えと何度すすめても買う気になれない程、この飽きるぐらい竜頭を巻かねばならない老いたる時計を、手放したくないのです。 [#7字下げ]六  船田の買収に応じなかったのは、その前の日、恐喝して巻きあげた金があったので、新コは欲しくなかったことが一因です。恐喝取財というと怖いが、寄越せといいもしないのに、先方が持って来たから貰って、米や味噌醤油を買って、新コも食い女達も食っただけのことです。  新コの手で地方的ではあるが新聞記者になった一人に、通称をチビというのが酒豪で、通称の通り短躯で非力だが、何にでも悲憤慷慨する癖がある、このチビが、割りに有名な大きな寺の住職に醜い行状があるのを知って、例の如く悲憤慷慨して、古顔の新聞通信員で鎮台兵と綽名のあるものに喋べったのです、鎮台兵はチビにそのことは当分だれにもいうな、事の実相を俺が調べてみるからと口留めして置いて、それから先はどうしたか判らないが、更《あらた》めてチビを呼び一杯酒をのませ、小遣いにと五円出したそうです、チビはその五円が口留料だと気がついて、受取ることを拒んだが、チビにとって鎮台兵は歯が立たない相手なので困って、僕はこの話を新コさんにしてしまったと嘘をいってしまったそうです。鎮台兵は困った顔をして、それでは新コという人に吾輩から話をするといったが、新コと鎮台兵とは顔も知らない仲なので、チビが紹介の役をいい付かったそうです。  或る日、というのは自廃をやり出してからのことだが、チビが新コのところへやって来て、都川といったか松兼といったか、多分そのどっちかだったろう、今からすぐ一緒に行ってくれという。俺は忙しいのだが行って欲しければ行くが、一体何があるのだと新コが聞くと、前いった寺の住僧の醜行のことで鎮台兵とこういうことになったと、掻い摘んだことだけ聞かせました。それなら鎮台兵が坊さんから金を引出し、君に五円やって残りは二十円かそこらだろうが、手前のぽッぽへ入れたのだろうから、金をとる気なら君と鎮台兵とが角兵衛(折半)にして取れ、金を取らない気なら君が寺へ行って、こういう話があるが僕は金を鎮台兵に突き戻したと、有りの儘をいうのだ、その代りその坊主のネタは君は勿論、だれのネタにもさせない気になるのだねと、歩きながらいったが、新コの話はいつも言葉が足りないので、判る程にいったかどうですか。するとチビがそう行かなくなって居るというようなことをいった。料理屋には鎮台兵だけでなく、住職と役僧とが来て待っているのだそうです。  料理屋の一室へいってみると、飯台がコの字型に配列してあって、初対面の鎮台兵が床の間を背に上座で、向う側が肥った住職と瘠せた役僧とで、席にもう就いていた、こちら側に新コとチビの席が空けてあります。席順なぞ新コはどうでもいいのです。やがて鎮台兵が新コに坊さん二人を紹介したが、自分の紹介をやらない。暫くすると酒間の世事談の中で鎮台兵が、チョイチョイと新コとは古い友達らしくいい、吾輩のいうことなら何でも承知するという聞かせを、上手に坊さん達にやっています、チビには判らなくても新コにはそれがわかるので、面白くない気でいると鎮台兵の合図で役僧が、西洋封筒の薄い包をチビと新コの前に置いた、中味は金だとわかります。おい鎮台兵、俺はお前と初対面だ、俺はお前に手綱をつけられた馬ではないから、お前のいうように動くものか、配らしたこの紙袋の中は金らしいが、金をくれるから来いと呼んだのか、生憎だったなあ、金も料理も酒も今日只今のところでは欲しくないと、捲し立てているうちに躰がぽかぽか、湯上りみたいに温かくなり、言葉の終り際には愉しさ極まってしまい、飯台を起ちあがりざまに膝で引ッくり返し、その音を伴奏にした気で、席を蹴ってでなく、どなたさんも左様なら、といって外へ出た。チビはついて出て来ませんです。  その翌日、新コのいないとき、きのうの役僧が一人で月三円の二階へ来て、菓子折を一ツ置いて行った、その掛け紙の下に五十円、角封筒へ入れてはいっていたのを軍次が来て開け、お隈にわたして米を買わせ、溜まっていた貸蒲団の損料と前払いをやったそうで、新コが帰ったときはすし[#「すし」に傍点]を取り、それを食べながら軍次が、菓子折と五十円の話を聞かせました。新コはあそうといっただけです。すし[#「すし」に傍点]まで買って食ったのではどうにも最早ならないのだから、俺があの坊主から捲きあげたのだと思えばそれでいい、万一のときの覚悟は覚悟するときが来たとき覚悟すると、それだけで一先ずのところ事済みです。鎮台兵やチビがあれからどうしたか、聞きもせず知ろうともせず、それでその方も終りになりました。チビという男はその前か後かに、高池京三のところへ出入りしていた、今の高池京三は知らぬ人なき体育界の長老で、或る大都市の市長ですが、そのころは野球が今程にならないときで、チビは野球好きで、どういうことからか出入りするようになっていたのです。高池は多分チビという綽名を聞いただけでも、この男を思い出せると思う、相当に厄介をかけたらしいからです。  さて、新コはそれから後の、氷い間に、二度と自廃をやりません、自廃をやるよりも、自廃をやる必要のない事こそが必要だと考え、又、自廃をやるなら、やった後の受入れが完く用意されない限り悲劇だとするようになった為めです、その用意とは機構や設備や議論や理由の外に、或る意味では本当の教育者であるかの如きものを心にもつ、然るべき男が女一人につき一人ずつ必要だということです。  新コが経過はどうあろうとも、恐喝取財に該当しそうなことまで、出来あがらせたこの一件の十三人の女のうち、軍次とクウ公と新コが一人ずつ引取ったうち、一人は自殺し、一人は病死、一人は立ち去り、満足な結果は遂にない、三人の男のそれぞれが、一人に一人ずつの然るべき男ではなかった故です。その他の十人のうち単独自廃のキチーのお澄と、合意廃業のお杉を除いて、故郷へ帰らせたのが二人、男に引取らせたのが六人、併せて八人のその中からも、二人の自殺者と、異人屋よりもッとひどい処へいったものが三人あります、どうなったか判らないのが三人です、その三人のうち第六候補者に引取られた人だけは、充足の家庭をつくったと新コは思っています。だとして良ければ、一割弱しかモノにならない計算になります。  完同竹二警部は新コをその当時、伺とかして検挙しようとしたが、何もタネがないので、数ヶ月後に断念したそうです。どうして執念深く目をつけたのか、山元召川と軍次の説では、廓の者の仕返しだとあるが、そんなことを新コは信じません。それから二十数年して、湘南の或る土地で完同が署長であったころ、彼の倅が刑科に触れかかったのを、新コが或る女に頼まれて事なくすませたことがある、そのころ警視になっていた彼は、新コのことが記憶に残っていないといったそうです、そして会うことが厭だったのか、遂に顔を会わせず終いになりました。  恵まれて新コは、前いった五十円の不義なる入手がバレず、熱心だった完同警部のホシ稼ぎの材料ともならず、事なく過ぎて今に到ってはいるものの、自廃の結果、三人の自殺者を出しなどした事と併せて、わが負債《おいめ》の重さを忘れかねています。 [#改ページ] [#1字下げ]命[#「命」は中見出し] [#7字下げ]一  新コが二十七歳の春ごろから、君のような人は東京へ出て本当の新聞記者になるといいと、会うたびにいってくれる年上の人があります、尾滝《おだき》鵜山という東京に定住していた中央新聞記者です。そういわれても新コは、無学であるのを知っているので、本場所へ出て働くのに自信がなく、何ともつかず笑っているのが、返辞にならない返辞の筈だったが、鵜山は東京からやって来て新コの顔をみると、君のような人はと毎度やります。これはその時限りの嬉しがらせらしいが、それにしては永続きがして、翌年の夏過ぎた頃まで、君のような人は東京へ出てが続いた。余り続いたからかしら鵜山は話をすこし進めて、君は都新聞がいいな僕が尽力して入社させてやってもいいといったその時、新コの決心が瞬くうちに付いて、いや決心より口が先にそれでは頼むといったのが、生涯を決定させるものとなりました。小柄で貧相な鵜山は響が音に応ずるが如く、引受けたと胸を叩かぬばかりにしてその時いってくれたものです。頼んでから後になって新コは、東京へ出ると決心したのは何故か、その答えを自分の為めに考えるともなく考えた、地方の小新聞ながら記者になったのだから本場へ出て記者になるべきだ、食えないから記者になったお前ではあるが、記者になったからは記者としての梯子の有りたけのぼれるだけ昇れ、という、出て来た答えはただそれだけです。ところがその秋になるまで鵜山は東京からやって来ず、来ても新コには会わずです、その代り手紙で、都新聞入社のことは大いに尽力中であるとか、だれに依頼したとか、吉報を知らせる日がくるのを待設けているとか、そんな風なことを何度もいって来た。冬にはいると鵜山は手紙で、入社というようなことは他人の尽力でなく、自己の力でやるのが君の将来にとって一番いいのであると云って来ました。鵜山は始め社交の辞令として心にもないことを云い、手応えがないので安心したのでしょう、嬉しがらせを会うたびに新コに浴びせかけて、多少の残忍を含んだる優越感を味わったものだったろう、その果《はて》が、思いがけずも新コが頼むといったので、弱味をみせまいとして引き受けたものとみえます。鵜山は新コのことに就て、奔走も尽力もしなかったのでした。  こうなると新コは腹を立てる代りに、それならば是が非でも東京の新聞記者になろう、それも都新聞以外の社へは決してはいるまいという気になり、交渉がそれまでに何もない都新聞の劇評家伊原青々園博士に、私はこういう者で入社志願でお目にかかりたいのですと、手紙で申入れをやったのです。新コは伊原敏郎著『日本演劇史』が刊行されてから、数年後に買って読んでいたので、演劇史家としてのその名を知って居り、劇評家としてもその名を知り、犯罪小説と探偵小説の中間の『五寸釘虎吉』『海賊房次郎』や、実話小説の『川上行義』『新比翼塚』や、それとおなじ脈絡にはいる物の作者であることも知っていました。まだ文学博士になっていなかった当時のことです。返書は幾日もたたぬうちに来た、歌舞伎座の芝居茶屋三州屋に来てくれと、日時を指定してあったので、その日のその時間に新コは、履歴書どころか、自分の人間振りを証明するものを一ツも持たず、いや、そういうことには気がつかず、借り物の古い嘉平次袴を穿いて訪ねた、このときが袴を着けた最初です。芝居の幕間《まくあい》だったでしょう、短い時間の面接で新コは帰りました、そのとき月給はいくら欲しいかと尋ねられ、二十八円欲しいのですと答えました。新コは月給十二円とるようになったとき、月々十七円はいるといいなと思った、四年後には月給十六円になっていたが、メレーのお隈と同棲しているので、月々二十八円はいるといいなと思うようになっていた、それで二十八円といったのです。  それから十数日して電報で、あすより出勤さるべしと『日本演劇史』の著者からいって来てくれたが、無一文の時でもあり、後が困らないだけの陣立を社に遺して置くことが、不平不満はいつもいろいろあったが、食わんが為めに入れて貰った処だけに、そうする義務があると思い、案を立てて実際に試み、その上で社長に退身を申出でると、それは不都合であると拒絶された、しかし居残ったのでは新コの方で不都合なので、押切って出てゆく事に決めました。社長は最後のどん詰りになってから、約束手形で三十円振出し、功労に酬ゆると新コに渡したが、それを新コは右から左へ売渡し、上京の費用にしました。約手は期限通りに払われず、元来は振出すべき性質のものでなかったと、二三度ぐらい拒否したが、結局は払ったそうです。その社長がいったのでもあろうか、新コは請負業に転ずる為めの退社だと噂が立ち、そう信ずるものがあったようです。新コが記者に仕立てた若い人達は――この人達は純粋に記者で、新コは用心深く、この人々を街をうろつく仲間に引入れないようにした――さすがに新コの東京行を知っていた、といっても人の数が多くなると免かれないことで、合う蓋もある代り合わない蓋もあって、寄りつかなくなった者も二三人あった、それには東京行を打明けないから、噂の方を信じていたことでしょう。前にいった折淵秀楼は死んで遺骨は長崎へ還った、その後へ、東京落ちや満洲帰りや何人かの出入りがあり、その中から居座ったものが出たが、新コはその人達とは、昼のうちだけ、詰り新聞記者として一ツところで仕事を分担してやって居るだけの知合いで、それ以外では知らないも同然だったのでした。新コは夜になると街をうろつく一人武者で、種子《たねこ》点外だのメリケンの杉太郎だの茶場《ちゃば》金だのと往来し、昼は面を拭って記者で働いているという、鵺《ぬえ》のような者だけに、月給相当だけに働いているだけのものとはソリが合わない、そんなことの為めだろうか、新コが立てて遺して行った案は行われなかっただけでなく、新コは排斥されて出ていったと風説されたそうです。と聞かされても新コは何とも思いません、毛を以って馬を相するが如き、敵となるものは頼まずとも出来てくる常在のものであるのを、いろいろの処でみて来ているからです。  新コは東京の新聞記者にして貰えたが、社内のだれもがみんな偉くみえます。冗話《むだばなし》をしているのを黙って聞いていると、いよいよ自分よりだれもが優れたものに思えて、しまッた、東京へ出るのではなかった、自分の劣り方がわれながら明かだ、これでは早いところで身を退かないと恥晒しになるらしい、十日たったらこの人達に追いつける見込みがあるかないかが知れるだろう、追いつける見込みが立たなかったら追いつけないということだから引きさがれと、心のうちで決めて幾日かたつと、少数の人の外はどうも格別の差があるのでもないらしく、ヒケ目を感じているのは東京の地理に詳しくないのと、東京の習慣と社の気風が呑みこめない、ただそれだけで、その外はだれとも一長一短を分け合っているに過ぎないと、五六日目にわかって来ました。そこで『東京市案内』という二冊本を、韋駄天走りのように読み、その次には同じその本を臥床《ふしど》の中では勿論、厠の中でも読み返し読み返しした、これで大抵のことは知ってしまい、後は東京地図を内懐中《うちぶところ》へ入れて置き、拡げてみる必要のあるときは街頭で拡げ、社内ではそんな物をもっているような顔をしません。そのうち追い追いに口をきく人の数が多くなったが、最初の二日ばかりはだれも殆ど口をきいてくれなかったので、東京の奴原は排他的なのかと思ったが、それは違っていました、社内のだれかが新コの悪い噂を聞き込んで来た、その為めらしいが、或はそれは当推量だったかも知れません。口をきいてくれた最初の人は高峰荻波と大村台山です。台山は物故してしまったが、著名にして尨大で未完の長篇小説を遺しています。荻波は“通”といわれる知名人です。  新コは今までと違う選み方をして本を読み出しました。今度は新コの目前に、教養を身につけた人もあれば、学校経歴をもつというに過ぎない人もあり、専門をもっている人もあれば、専門をもちたいとする人もあり、偽瞞者ではないかと思えるもの、懶惰なもの、浅いながらも阿諛をやるもの等、曽て新コが渡ってきたところとは、良い面では幅が広くなり底が深くなったが、その対蹠の面では味も素ッ気もない青臭さです。それらの人々が話すのを聞いていて、新コは読むべき本を知って読みました。  新コは十六年程この社にいましたが、終始一貫して俗にいう平《ひら》記者です、社が重要としないのではなく、新コの方で固く辞して部長といった椅子に座らないのです。平記者ならまだしも、部長というような椅子には、羞恥がその背後にくッ付いていて就けないからです、新コは芸者屋の所謂兄さんになっていたのでした。  話を前に引戻してやり直します――メレーのお隈には有る物のすべてをやって別れた、そのとき新コの物とては着ている物だけです。そうでもしないと、去ってゆく女よりも新コの方が、後になって思い出したとき哀れだからです。家鴨の脚絆みたいな人間でありたくないのです。 [#7字下げ]二  新コの父はずッと前に日本を去り、朝鮮から満洲にはいり大連に腰を落着け、難行苦行の末でしょう、小さいながら料理屋を建てて義母にやらせ、自分は土木仕事をやっていたらしいということです。父は昔の駿河屋を再現して二人の倅に引継ごうとする夢は断念したが、遺産を形ばかりでも遺して死にたいとする、その念願だけは棄てなかった効《かい》あって、その緒《いとぐち》を掴んだところで、永い間の過労が出たのかして病《わず》らいつき、死ぬなら日本でと、新コの兄秀太郎のところへ、義母に扶けられて帰り着いたときは無一文同然だったそうです。その後、躰が幸いに恢復はしたものの、以前のように死に物狂いにはなれず、諦めきって、東京の請負師に使われ、その事務所に義母と二人で住み込むという、老い込み方になったころ、新コの方はとッくに兄のところを出ていて、居どころも知らさず、何度か花が咲いて散り、何度か裸木《はだかぎ》が芽をふき、どうやらこうやら東京人らしくなった頃に、父は最後の奮起を又やり出し、小さいながら談合だ腕ッこだ(競争)と入札仕事の請負師になり、芝の琴平裏に家を借りて、市役所仕事の小さいのをやるようになりました。このときも父は、広崎の房次郎などという男の肩持ち腰押しをやり、土工・人夫の親分に仕立てあげたようです、その外にも一二人あったのだろうが、新コは知らない。広崎の房が記憶にのこっているのは、後に関東国粋会の刷り物を偶然みたところ、理事・支部長と肩書がついて出ていたのと、新コが何篇かの芝居の本を作り上演されてからのこと、新橋駅のホームでこちらに記憶のないどッしりした構えの洋服男が、失礼ですが新コさんでございますねと言葉をかけた、それが広崎の房次郎だったのと、この二ツの為めです。新橋駅での広崎の房は、新コの筆名を知らず、小説や劇作をやっているそれも知らず、亡くなったおとッさんのお墓はあたしが建てなくてはならない筋合いなのですといっていたが、父は倅達に遺す物が出来そうもないと思ったのでしょう、自分がはいる墓だけは建てて置きたがっていたが、それも出来ずに終り、兄が建てた後のことでした。広崎の房とはそれッきりです。別れるときの顔つきに憶えはないが、名残り惜しげな躰つき、それだけは今でも憶えています。  話は前に戻る、父は最後の奮起をやったが、これも又うまく行かず、旧知の請負師に使って貰い、義母と二人でその事務所に住み、せめて倅達に厄介をかけずに生きてゆこうとする、悲壮で哀切な大詰へゆく前あたりに、新コは事件にぶツかりました。  新コは鬼頭三駿という艶ダネ書きの記者と、服飾と歌曲などの通の高峰荻波と、この二人に加えられて三羽烏と、社外の人がいうようになったが、社内で地位の高いところにいて「恋は今捨てしと思ふ我なるにわすれ得てやは夢に入りぬる」といったものを詠む一方で、強情我慢な大蟹成夫は、彼等三人の言語の野卑なること匹夫に等し、三羽烏に非ず実に三雲助なりと高唱したものです、そうかも知れませんこの三人の話振りは、職人部屋の会話そっくりで、隠語をつかい通言をつかい、他人《はた》では訳がわからない云い方が、本人達にはよく訳がわかる話し方だったのです。鬼頭三駿の書く艶ダネは円く書くという信条に揺ぎをみせず、誹謗の如きは勿論のこと、馬鹿という文字でさえ攻撃だといって用いません、随って登場人物のうち女は花柳の巷のものに限り、素人女は断じて登場させませんでした、『大菩薩峠』の作者はこれを芸術品だといい、大蟹成夫は天下の珍なりといい、その頃の名士で三駿の才筆を愛するもの多く、野間清治は早くも三駿に目をつけ、その才能を小説にのばそうとしたが、成功の作という程の物を出さぬうちに亡くなりました。高峰荻波は艶ダネでは三駿に及ばざること遠かったが、流行の解説と批判では、三駿の遠く及ばぬものがありました。この二人とも或る程度の蕩児だったので、新コもその仲間相当に、遊びにゆこうといえば、ウンという以外の返辞をつかったことがありません。  三駿は書く物の風流さに似ず、打算が出来るのと物の観方に平板さがあるので、一ツところに煮凍《にこご》ることを避けるので、いつも恋愛までに昇らず遊戯になります、荻波はそれと違って一点に集中しやすいので、忽ち遊戯でいられなくなり、恋愛になってしまいます。荻波が亭主持ちの芸者米八と、例の如く恋愛になる始まりが何だったか、新コは知りません、彼のその恋愛が頂天に近くなった時でもあろうか、新コは狩り出されて一緒にゆき、女をあてがわれて泊まって帰ることがありました。後になるとそうした事は荻波と米八の間に、何か必要が起っていたその故だったろうと思えます。米八の家には抱えの妓《こ》がいず、旦那が沈落して為すこともなく家にいた、それではだれかを狩り出して、ゆうべは雑魚寝をしたということにして、沈落の旦那を賺《すか》すことが必要であったのでしょう。  そのうちに米八の仲好しで梅八という二十四五の芸者が、荻波の座敷へ遊びにくるのは、米八の為めにその恋人に好意をもっているからだと、そんな風に軽く眺めていただけだったが、新コが気がついたときは、米八は梅八にむかって新コのことを焚きつけ、荻波は新コにむかって梅八のことを焚きつけ、両方とも熱を引ッぱり出されかけていた時です。こういうテはデコ介の軍次が好んで用いるテで、だれかがそのテに引ッかかると軍次は陰で、手前達は何の気も起してはいないのに他人に介錯をすこしされると、初手から想い合ったように錯覚するから甘い奴等さとせせら笑いをしたものです、新コも軍次にそのテを二度つかわれた、一ツはだれかの妾らしく、隠し男が幾人もあるのを種子点外から聞いていたので、軍次のテに乗らず、その女に半ダースの男を揃えてやろうという仕組みでその一本に俺を入れたいというのかといったので終りになり、その次に又も軍次は、何をしているかわからない女に焚きつけ、新コを引ッぱり出しに来たが留守だったので、引ッぱり出しを一ト晩のばしたところ、その晩、その女は、山手町のゲーテ座の筋向うの断崖の下で、海に投じて死んだ。自殺する程のことがあったかどうか、軍次はまるで知らない、そんな女にすら情痴の焚火をしてやろうという、小さな悪魔がかった軍次でした。軍次そのテはもうよせ、俺が引ッかかっていてみろ、自殺にゆく間際の女に俺が紹介されるのだぜ、というと軍次は、君だってあの女だってその為め損はない、女は死ぬ前に君を見る、君は死ぬ女をみるのだもの、寧ろ双方で得をしたことになると、ケロリとしていって笑ったものです。軍次はそんなだったので、新コが大百《だいびゃく》という鬘《かつら》をかぶり、四天《よてん》という衣装を着て撮った仮装写真がある、それをどこかの女に、この役者を世話してやるといい、何円かで売付け、その後はあの役者は旅へ出たといって終りをつけた、というまことに達者な男です。荻波のは軍次とは出発からして全く違いますが、テとしてはおなじものです、そのテが効いて来て新コも梅八も、網代の魚になりつつありました。  米八と荻波と梅八と、それに新コが加わって夜更けまで、何とかいう麻布の待合で喋べった、といっても話上手で話題の多い荻波が中心で、新コは多くは聞き役でした。それから短い時間の雑魚寝の明けの朝、米八と荻波の二人が新コと梅八の顔をみて妙に笑っていたのは、その短い時間に拘《かかわ》りあいが出来たと観察したからなのでしょう。実はそのずッと後になって拘りあいが付いたのでした。荻波はゆうベ帯を解く音を聞いたからさてはと思ったといい、米八もあたしも聞いたわといったが、人の耳は眼でみながら聴くのでないと正確でないものらしい。新コはそれを肯定も否定もしない、どっちでもそんな事はいいのです。だが、梅八は米八に尋ねられて、はッきり肯定したそうです、決心みたいなものが新コより先に付いていたとみえます。 [#7字下げ]三  梅八から身の上を新コが打明けられたのは、宵のうちは円い月が出ていた夜更けで、二の橋向うの坂の上です。話は貧乏のどん底に落ちているということから始まり、お白粉をつけ褄をとり、陽気に騒いで商売をつづけてはいるが、衣裳は質屋へみんな行っていて、不払いで瓦斯は停められる、電灯代も滞ったが内払いで漸くつけさせて貰っている始末だから、四方八方が借金だらけ、この間も、漸く出来た利息をもたせて質屋へやり、季節の物と入れ替えてお座敷へ行ったところ、質屋札が襟についているのを質屋もこっちも忘れて取らず、客に見付けられて、恥かしいよりも可笑かった、貧乏は自慢にならないが恥かしいとは思っていない悪事ではないのだから、といったような事です。貧乏するモトは何だね、手にはいる金の不足に違いあるまいがというと、その訳は話したくないという、では聞くまいと云うと、実は聞いて貰いたいらしいので、では洗いざらいいうがいいと勧め、その晩から始まって三四たび、座敷帰りを新コの方で道端で待っていて、聞いたところを一ツにすると、二年足らず世話になった旦那が、何かで躓いて産を失ない、この三年ばかりはこっちが仕送りをする、その為めにじりじり細って今のようになったというのです。こういうとき新コが気にすることは、旦那という人の人柄です、運が傾いて世話した芸者から仕送りをして貰う、新コだったら自分から旦那の位置を辷って他人になるのだがなあとは思ったが、惚れていたらそう行かないかも知れないが、仕送りを受けるのは男らしくない、稀《たま》に来て一品二品で杯を傾ける、それだったら話は別だが、と思いはしたがそれでもまだこんなところでは、梅八の味方に損得構わず付くほどに、新コの血は沸いて来ません。しかし梅八は明かにはいわないが、米八はじめその外二三人の口から、旦那は注ぎ込んだ金を取り戻しにかかって居るらしく、梅八の家へ税務吏が不払いの督促に来て座り込み、口汚なく戯れをいった後で、この上は仕方がないから、梅八の腿と腿の間に差押えの紙を貼ってやると、荒らかに罵って去ったのを、旦那がその時来合わせて聞いていながら、そのあとで、金を無理やり梅八に都合させて持っていった、といったような話を三ツ四ツ聞き込んだ、その上に、ちょッと強い地震があったとき、来ていた旦那が自分ひとりだけ外へあたふた逃げ出して、梅八にも梅八の母にも眼もくれなかったというのを聞き、こいつは底の浅い人間だと思いました。聞いてみればこの事があって以来、名古屋で名妓だったという経歴をもっ梅八の母が、あの人は情が欠けてしまっているから別れろといって、故郷へ帰ってしまったそうです。それを聞きこれを聞きしても、まだまだ新コを駆り立てるものがなかったが、梅八の味方には可成りなっていました。と、或る日、旦那が血相変えて梅八の家へはいって来て、男の着る物か持ち物はないかというのでしょう、家中ひッ掻き廻して探し、婆ァやが箱丁から預り物の古い瓦斯大島の袷を見付け、引裂いて縁の下へ投げ込み小便をかけたと聞いて、新コの決心はすぐ付き、その日のうちに綿入の貧乏なればこそ吝《けち》になり、電燈の灯まで暗い家へ乗り込んで、きょうからここの亭主になると腰を据えました。それまでは門口まで来るだけで、内の中の様子を知らなかったが、来てみて貧乏振りに驚きました。新コは手ッ取り早く埒を明ける気ですが、前の小新聞のときと違い、きちンとした処のある勤め先だけに、仕事の時間を放り出せない、その留守を狙ったかの如くに旦那が来て荒れてゆくのを、米八の旦那というのが仲裁役を買って出た、といっても梅八の為めにということで、新コには触れたがりません、それともう一ツ、梅八の旦那が、知合いだか友達だかで陸軍出身の大きな料理屋の主人で浅並信太郎を、自分の方の側の仲裁役に立てた。男が二人も仲に立つと、その面子を立てなくてはならないので、話は煮えたようでなかなか煮えず、徒らに押ッくらで時が立ちそうです、ところが浅並信太郎という人は、曽て新コを知っているだけでなく買っているので、裏返しにしてみると新コの味方にちかく、少くとも敵ではない、米八の旦那はその反対で、表を返して裏を見れば梅八の旦那とどうやら牒し合わせたらしい臭みがある、自分の女が新コの友達と深くなっている、その嫉妬でそうなのでしょう。話はそれだから微妙になり複雑になり、敵が味方で味方が敵という畸形の交渉の為めでしょう手間取るうちに、梅八が、この始末は遂につかないものと見切りをつけて、自殺の決心をしたのに新コは気がつき、死ぬのはまだ早い、旦那という代物が手切れ金をくれろといい出したら、情でうしろ髪ひかれているのでなくて慾でゴテツクのだから、何がどうなっても俺と生き死にを共にしろ、もしもあの代物が金はいらない、新コに引下がって貰えば充分だといったら、慾でなくて未練の深さだから始末が面倒になるから、首縊りなり身投げなりやりたかったらやるがいいというと、梅八は眼がさめたように瞬きして、暫くしてから笑顔をみせました。梅八には旦那が、手切れ金をくれといい出すに違いないと、その時ふいと、今まであった幾ツかのことで思い当ったのだそうです。  果して旦那は手切れ金を出せば引下ると、間もなくいい出しました。浅並信太郎が苦が笑いして、旦那が芸者から手切れ金をとるとは珍らしい話だ、新コさんヤマがもうみえたといいました。手切れ金の額は米八の旦那は五百円説で、浅並はそれを三百円説をとって値切るという、敵味方があべこべになった取りやりがあって、結局は浅並説の三百円に決定し、梅八の旦那がそれで結構だから早く受取りたいとなり、米八の旦那と浅並から新コの承諾を求めるとなりました。新コはムキになって一応これを蹴ったが、浅並がここらが手の打ちどころだと教えたのですぐ承知しました。しかし三百円はその頃では大金です、梅八のところは木炭にさえ事欠くくらし[#「くらし」に傍点]だから勿論ない、新コは着たきり雀でこれ又ない、父はそのとき最後の奮起に挫折して金どころでないとしか見えない、それに新コは今まで、親から金を貰ったことのない子なので、金の相談を父にする気など毫末も起らない、困惑しているそれを心配して高峰荻波が、彼の従兄か何かから三百円借りて来てくれた、利子はいくらであったか忘れたが、たいして高くはなかったと思います。この返済に一年近くかかりました。  手切れ金の受渡しがすんだので、事は終りになった筈なのに、そう行きませんでしたが、米八の旦那も浅並も、それから先のことは、恐らくは米八も荻波も知らないでしょう、知っているのは新コと梅八と元の旦那と婆ァやと、一人の下地ッ子と、事によったら隣りの芸者屋のもの、それだけでしょう。米八という女はそれから後のいつの頃かに旦那と別れたそうで、この二人のそれから先を新コは知りません。浅並信太郎は後になって宗教人になり、雪の深いところの本山で、管長として衆望をあつめ、世を終りました。 [#7字下げ]四  梅八には東京に叔父が一人と叔母が二人あって、叔父は商人で、叔母は二人とも所謂一流といわれる土地で芸者屋をしています。この人達は梅八の新コ一件には口出しをせず、成りゆきに任かせる態度でしたが、初めのうちはどっちかと云えば、元の旦那の側につきかねなかった、それは、新コの悪い噂をだれからか吹き込まれたのと、姪の梅八にしては珍らしい浮気沙汰とみた、その為めだったらしいが、中頃から後は、梅八が命を賭けているのを知って怖くなり、元の旦那もときどきやって来て、荒いことを口走ってゆくので、いつどんな騒ぎになるかと思ったのでもあろうか、寄らず触らずになったのです。やがて手切れ金のことがあってから、どのくらいしてからか、一人の叔母が梅八を呼び、元の旦那にいつ殺されるかも知れないから用心するようにと戒めたそうです。新コはこれを聞いて、厭がらせだよといっていたが、その後、又も叔母から梅八に、用心しろどうもあの人の様子がおかしいと知らせて来ました、あの人とはいうまでもない、元の旦那のことです。  それから暫くして、梅八のところへ元の旦那が凄い形相をして、黙ってはいって来て、あがり込んだそうです。梅八は芸妓組合の役員なので、そのときは検番で、お披露目芸者の芸の試験か何かあって留守です。元の旦那は階下はもとより二階まで、人を懼《おそ》れさす態度で見て廻り、階下の八畳の間に座り込み、荒いことをときどきいい、後は黙っていたそうです。一人いた抱えの芸者と下地ッ子は怖がって外へ逃げてしまい、婆ァやは台所で息を殺していたそうです。梅八は下地ッ子の注進でそれを知り検番に永いこといて元の旦那がきょうは引取るが又近いうちに来ると帰って行った後で帰ったそうです。梅八はさすがに殺しにきたとは思っていない、厭がらせに来ただけだろうが、会えば言葉の縺れから、予期しないことにどう事が変化して行かないものでもない、偏平《ひらたく》いえば会ってはまずい、というので避けたのでしたが、その晩遅くなって帰って、それを聞いた新コはそれと違って、こいつは危なくなったと直感したが、口ではあべこべなことを梅八にいいました。こっちの方角へ用足しに来たので、腹癒《はらいせ》に厭がらせをやって行っただけだと軽くはいったが、覚悟をひそかに決しました、降る雨の中を往くにはどこも濡れずにという訳にはゆかない、傘が要る、傘があっても濡れるならそれまでだという気です。そのときから新コは、持ち古して来た白鞘の匕首を、梅八に隠して内懐中《うちぶところ》へ入れて歩くようにした、雨の中の傘とは新コにとっては匕首のことです、その匕首は葬い人足の部屋をもっている人が、新コが生れた土地を去るとき餞別にくれたもので、三河の田原で蒲団の下に入れた匕首とは違います。三河のときのは食えなくなったとき、拳銃の次に売り払ったのです。新コの内懐中にもう一ツの物があった、社へ宛た退社届の写しです、いつどう間違っても社の者でなくなって居るという心算《つもり》で、二通ずつ書いて、一通は社の机の抽出しの中、写しと書いた方は内懐中です。日付を二三日目か四五日目に新たにするので、書き更め/\だから、墨色はいつも新しいのです。こうした覚悟のお先ッ走りは現場小僧のときが播種《たねまき》時代であったのでしょう、四十歳を越えてもまだ残っていたが可成り稀薄になり、五十歳のときは、世をも人をも畏《おそ》れるようになったので無くなりました。  何ごともなく日がたったので、新コに警戒の気が薄れました、と梅八から新コの出先へ電話がかかり、今あの人が来て家の中に座り込んでいる、あたしは千成家《せんなりや》へ裏からはいって隠れている、どうしようと云うのです。千成家は梅八と姉妹分のようにしている一ツ土地の芸者屋です。すぐ行くと新コは返辞して、机の抽出しの退社届けを封書にした物を、硯箱の下に入れて、家へ人力車を飛ばせました。  電車通りから一ツ裏へはいった路にある家の近くへ来てみると、四辺《あたり》のありさまが平常と変りがないので、梅八も家のものも無事だと知って尚も近づいてみると、格子戸の尻が四五寸開けッ放しです、そういう時にそうなっているのは、胸にどきンとくるものがある、落着け/\と自分にいい聞かせて、唾を三度嚥み込んで内へはいってみると、家の中にはだれも居ません。笨鳥先飛というのを何かで見て知っていた、バカ鳥は先に飛ぶです、新コをバカ鳥にするかも知れない、あの男は立ち去っていたのでした。  それから暫く又たったが、何ごともないので、油断するともなく油断していると、又も元の旦那がやって来たそうで、そのときも昼間で、梅八はお座敷で家にいなかったが、前のときとおなじくあがり込んで、婆ァやにここの家から早く暇をとらないと飛んだ災難に遭うかも知れないなぞといって、暫く居座ってから立ち去ったそうです。形相が来るそのたびに悪くなっているそうです。婆ァやはこの為めに慴《おそ》れきっていたが、さればとて暇をくれなぞとはいいません。  どのくらいしてからか、二人の叔母のどちらからか梅八に、気を付けておくれと使いを立てて伝言して寄越したそうです。叔母の家へ現れた元の旦那が、新コはもとより梅八も殺してやると云ったもおなじいい方をして、別れの言葉らしいことまで口にして帰ったのが、如何にも薄気味が悪いというのです。それを聞いて新コは、いよいよ大詰が近いうちに来ると思ったが、梅八には、厭がらせだから心配ないと笑ってみせはしたが、心の底では危ねえぞと自分にいい聞かせるだけで、回避する気もなく、時間を早めて結末をつける気もなく、その日その日をただ送って迎えるだけです。  来る日も来る日も何ごともなくたって行くので、矢張り本当は厭がらせだったか有難い助かったかなと、安心がいつとなく出てくると、匕首を忘れて家を出る日がちょいちょいあります。  梅八はたッた一度だけ、この事がまずくいったら米八さんを怨むと口にしたことがあります、その故でしょう、梅八は元の旦那に怯やかされていることを米八に打明け、米八は自分の旦那に何とかしてやってくれと云ったそうです。為すこともなく女に食わせて貰っている旦那は、何とかしてやるというだけで、舞台に遠い見物席にいるような態度で遂に何もしませんです。米八の旦那にしてみれば、手荒な事件が起ってくれて、新コと梅八が被害者になれば、米八が慄《おび》えて他人事《ひとごと》ならずと思うようになるだろう、そうなったら荻波とも切れるに違いないと、こう考えていたからのことらしい。引込む花道があるのを見失うと、得てしてそんな気になりやすい。そうこうしているうちに、待っていたくないのに待つより外はない大詰がとうとう来ました。  曇った日のことでした、袷の羽織にセルの袴を穿いて、出勤していた新コのところへ、下地ッ子が辻電話をかけて来て、兄さん来ているンです、姐さんが困っていますと、調子が外れたいい方です。すぐ行くと返辞して、動いている電車を追って飛び乗り、乗換場でも動いている電車を追って飛び乗り、家の近くへきてみると、往来は平常の通りで、向う隣りの芸者屋の前で半玉が二人で立ち話をしているのを見て、まだ無事であるのを知りました。格子戸をあけると足音でそれと知ったのでしょう、八畳とその次の六畳の中程から梅八が、落着いた顔をみせたので、二階へ行けと眼で知らせ、社から停留所までの間に拾った砂利石を、電車の中で手拭に包み振り子に作ったのを左手に持ち、右手をワザと空にして、梅八が無言で二階へあがり終るのを見届けてから、新コも二階へあがりました。砂利石の振り子は事によったら使わなくてはならない防衛と攻撃の用具です。  匕首を出しなと新コがいうと、梅八は黙って箪笥の二ツ目あたりの抽出しから出して渡しました、いつも新コは半紙一帖を縦に折り、その中へ入れてあったのが、そのときは鶯色の持ち古した縮緬の袱紗に巻いてありました。後でわかりましたが梅八は、新コが匕首を忘れて行ったときは箪笥の抽出しに入れて置き、帰ってくる頃には元の半紙の間に入れて、いつもの隠し場所の本の山陰に戻して置いたのだが、このときは元へ戻す時間がなかったのだそうです。  梅八は一ト言もいわない、ただそれだけが変っているだけで、外に変ったところはなく、顔つきにしてもいつもとおなじです、その癖どこか変っています、眼がいつもより大きくみえた、その故かも知れないのです。その後、永い間、連れ添い、歯の治療をやり損《そ》くない、肺|壊疽《えそ》を起して最後の息は新コに抱かれて引きとった、それまで、大小いろいろ心配事があったときの顔つきは、どれもこれも、そのときの顔つきではない、といって梅八はそのとき悚《おそ》れてもいない懼《おどろ》いてもいない、いい度胸だというのはこういうのをいうのか、でなければ覚悟の果《はて》がそうみせるのか、そうでもいう外はない、尋常でいて尋常ならざる顔つきでした。  新コは二階で羽織をぬぎ、歩きながらセルの袴をぬいだ、いざというとき、袴の裾捌きに自信がないからです。砂利石の振り子にはもう用がない、二階へ置き去りです。 [#7字下げ]五  階下の八畳へはいってゆくと、元の旦那は往来の方にある窓の脇の壁を背に、前に煙草盆をひき付け、出した茶呑み茶碗を右脇へ置いています、イザとなったらその二ツを使ってから、本手《ほんで》の立廻りにはいる気だと新コは観てとりました、右手が襟の間から内懐中《うちぶところ》へはいっているからです。  新コは会釈抜きで、いきなり元の旦那の座っているその膝がしらすれすれに、膝をもって行って座りざまに、今では商売違いになった昔の人達に教わった通り、相手の瞳へ眼を付け、挨拶を交す仲ではねえ筈だから抜きにする、金はそっちへ渡し証文はこっちへ取ったからだ、といっているうちに新コの膝がしらが、相手の膝がしらにコツンと音も立てず当りました。お前このごろあっちこっちで俺を殺すといっているそうだ、そうかい殺す気かいと瞳をのぞき込むと、相手は一ト膝あとへさがりました。それならそれで早いところで何とかしたらどうだと、いううちに、新コの膝がしらが相手の膝がしらに食ッ付きました。多分そのとき相手が腰をあげるか膝を立てるか、何かしら動きがあったら新コの膝が、相手の膝にがッと乗ったことでしょうが、そういう用意と構えがあって膝を押しつけたのではない、成り行きで、期せざるにそうなっただけの事です。煙草盆は新コが最初に座ったとき腿が退ぞけてやや遠くなり、相手が手にとるとしたら腰をすこしのばさないと取れない、茶碗も同様です。  相手は顔を黄色くして黙っています、新コの眼を逃げたがって眼をそらすが、すぐに又新コを険しくみて又そらし、又険しく見ます。  俺は厭で厭でならねえが、お前やる気なら今やれ、外へ出ろなら厭々ながら外へ出よう、有馬ッ原が川向うにある、それともここでやるかと、新コは自分では知らずに、膝がしらで相手をぐッと押していたらしいのです。相手はじりじり下がって、壁と壁との隅を三角に背中で受けて黙っています。新コはこんな風なことをいっていながら、可成りはッきり別なことが心の裡《うち》に浮かんで来ていた、可哀そうに新コも三十五にはまだまだというのにお終いか、登った峠だから下らなくてはならないがその下りが、深い谷間へ転げ落ちて終りとなるか、と言葉でいうと、短くしてもこれぐらいの長さになるが、“思う”の方ではちらりと閃いただけで、それよりもッと長い言葉に匹敵するものがさッとわかります。三河のときのはこの時に比べると子供だったのかも知れません。思うは、それだけでなくまだあった、秀太郎は幼いときから良くしてくれた兄です、新コの血縁は兄しかないので、というそれもあるのだろう、思わざるに兄の顔が、眼の中でも頭の中でもなく、宙にでもなく、どこでもない処にちらッと見えます、又、兄の顔が新コの知らない髪の結い方をしている女性になってちらッと見えます、しかしそれに囚われも傾きもしません、膝がしらを新コは相手の膝がしらに押しつけ、瞬きもせず相手の瞳を見詰め、精神が火花をちらして一方に集中しているのに、別なことが思われ見えているのです。新コはこれがあったので、人間が知っている限度よりも、意志とか意識とかでも、更に別なところに限度があるのではないかと思うようになりました、それがどう深いものなのか、広いものなのか、高いものなのか、云い現わし方では現わせられないものなのか、知らないのではあるけれどもです。新コが後に兄を失ない、義母を失ない、女房になった梅八の方子《まさこ》を失なってからの作、『眼の中の母』の主人公に、「幼いとき別れた生みの母親に、こう、瞼の上下ぴッたり合わせ、思い出しゃあ絵にかいたように見えていたものを」といわせた母の俤は、このときあたりから新コの躰のどこかしらに、宿ったものなのだと思っています。  時間にしてどのくらいだか、新コは相手と黙りあって相対していました、梅八はそのときどこにいてどうしていたか、新コは知りません、後聞《あとぎ》きをこちらからはしない性癖の故でしょう。梅八はそのとき多分、呼吸をとめて二十秒ぐらいたった時と、大体は似た、一種の無想念の境地みたいな処にはいっていたのではないかと思う、そう思う拠りどころは二階でみたあの顔つきです、おどおどとか、はらはらとかは、全くなかっただろうと思う。そのとき居合わせた婆ァやになると事が違って来て、色を失ない恟々としていたらしいのです。下地ッ子は元の旦那を憎む気もちが一杯で、怖がりもせず恐れもなく見詰めていたそうです。抱えの若い妓は客と遠出していて居ません。  時がたって相手が沈んだ重い調子で、私は外へ出ますあなたはといったので、出ようと答えた。相手が先に出てしまうまで待って、新コも出た、相手は新コを待たず独り電車通りへ行きます。新コは乗り場で追いついて、不意打をされるのを避けて相手の右側を嫌い、左側に肩を並べて起った。彼が有馬ッ原へ行こうとしているのでないことが明かなので、事によると助かるかなと思いました。来た電車は余り混んでいない、相手が乗って席に就きかけるまで待って、新コも乗り、向う前の席に掛けました。新コは彼を見ているが、相手は眼を新コからそらしている。電車が赤羽橋で停まると、相手が黙って下車したので、新コはその後から下車して、左側に行って肩を並べた。芝山内の切通しか貝殻塚の奥へでも行こうというのだろうと思ったからです。すると相手が、あなたはあすこで乗るのでしょうといった、その顔の色は余りよくないが、さっきに比べれば黄色さが可成りとれている。新コがお前さんはここで乗る気かというと、はあと答えたのを聞くと新コは、じゃ左様ならといった途端、もうこれで助かったのだという気が出て、躰中の毛穴が開いて音を立てている、そんな気がした。事実、助かったのでした。相手も左様なら失礼しましたと返辞を、折り返したようにいいました。  彼が来た電車に乗ったのを、反対側の停留場から見ていた新コは、動き出したその電車を見送っている眼の先の方に、曇っている日であったからか夕暮のような薄鼠色な街をみた、その記憶は今でも濃く残っています。  これッきりでその後は何ごともなく、相手の姿を今までの永い間に見掛けたこともない、ただ二三年か五六年は城南の或る区域の人達が見も知らぬ新コを悪くいうことはありました。怨みを深く買ったに違いない、生きて今もいるならまだ怨んでいるだろう、死んでいるのだったら怨みを地下までもって行ったでしょう。新コはその人の名も累代居住の地も知っているが、時のはずみ[#「はずみ」に傍点]で話がこのことに及ぶことがあっても、今までにそれを口外したことがありません、ここでも地名・姓名ともに申さぬことにした、あの人にも子孫があるでしょう、聞いて喜ぶ話とは違うからです、それにこういう話は、新コの側の一方的であって、相手の側の内へはいっては何も語られていません、それもあるので略したのです。  新コはそのとき、厭でならないが大詰めの幕切れを付けなくてはならないのなら、せめて手出しは先方がしてからのことにしたい、最初のこちらは受け身で、それからはどちらも生き物同士のこと、成るように成ろうというのでした、だが、東京の新聞記者になる前の新コだったら、三河一件の前後の気荒がブリ返し、飛んだことをもっと早目に仕出来《しでか》していたであろうものを、そうではなかったのでした、それは――ずっと後になってからこれは正当防禦へもって行くやり方らしいと心づいたが、そのときはそうした打算は皆目ないのでした――幸いにもそのときは既に、だれが教えてくれたのでもない、と思いの外、いつか東京の新聞記者という一ツの世界が教えつつあったものを、身に享けていたのでしょう。  相当に永く新コに親《ちか》しい人だったら、今までにこれや、これ以前にあったことを、直接にその口ずから聞いている筈です。新コはバカなこれらの事どもが、遂に成就するもの一ツもなく、黄昏からやがては夜に入りそうな彼の欠点の拠って来たるところを、説明するものだと思っています。  新コはこれより後、梅八によって、いつどういう事があってではなく、いつとなし人間が更《あらた》められて行ったようです。彼の女は無学な新コよりも更に無学でしたが、人としては新コより高いものをもっていた。「これ程淋しいものとは今年はじめて骨身に沁みる秋」というのを首《はじ》めに、二十六字一聯の悼歌を梅八の方子《まさこ》に捧げたときは、新コの書いた本が六冊出ていました。その年は新コが、永い間世話になった新聞社から、乞うて許され、ペン一本のくらしにはいってわずかに三月の後でした。  新コをどうにかこうにか支える作品が出来たのは、それから後のことになります。 [#改ページ] [#1字下げ]『瞼の母』再会の記[#「『瞼の母』再会の記」は中見出し] 『ある市井の徒』の作者が母に再会した日を、数え易い西暦でいえば一九三三年(昭和八年)の二月十二日であったのだから、その日に生れた児は十八歳何ヶ月と何日かの若人に今はなっている、それほど古《ふり》にし昔語りに最早なったが、そのころ書いた“四十七年の夢実る”という手記を探し出して読むと、昔が今に還ってきた気がして、この本の末につける“母子邂逅記”に代えて、これを付けた方がいいように思うに至った。そこでここにはそのころ傍題であった方を本題にして、次に載せることにした。  本文のうち今年とあるは昭和八年のことである。又、「瞼の母を語っていらっしゃる」とあるそれは、私とおなじような身の上の亡き先妻のことを主にして、自分のことにも及び、再会の夢をかなぐり棄てる気になったと述べた二回続きのもので、その年の一・二月号の『婦人公論』に載った。然るにこの棄身の一篇が、奇しくも母子再会の契機をつくるものとなったのである。宋の朱寿昌は三歳のとき生別した母劉氏を尋ねて五十年、これを陜州に得て、母と併せて二弟を迎えて都に帰ったという。朱寿昌は長じて母を恋い、官を棄てて四方に索《もと》め、血を刺して金剛経を写した、それを血写経というそうである。私は朱寿昌に心事でも行為でも遥かに及ばないが、五十年よりやや短き歳月で、恵まれて再会を遂げることが出来たのである。そうしてこの事があったのは、外には柳条溝に端を発して満洲事変が起り、内には犬養毅が白昼暗殺された五・一五事件などがあった翌年で、私のことでは「刺青|奇偶《ちょうはん》」が『改造』に、「母親人形」が『中央公論』に、「直八子供旅」が『舞台』に発表され、十一の舞台初演と八ツの映画化があった、売出し時代の華やかさに続く翌年のことで、春は迎えたがいまだ浅いころであった。 [#7字下げ]一 [#ここから1字下げ] “瞼の母”を語っていらっしゃる貴郎に御母様が幾十年間、長谷川家に残してこられた貴郎方御兄弟の事を、夢に見、幻に見つづけていらしたお心を、是非御伝えしなければならないと存じ、突然ながらベンを執りました。 [#ここで字下げ終わり]  今年二月九日の午後、伊豆へ立つ間際に受取った一通の手紙は、流麗な女文字で、こう書き出しをもっていた。  私は『婦人公論』に前後二回、「瞼の母を語る」という文章を寄せた、私にとってこれは年久しいことで、およそ私の友人知己、私に若干の興味をもつ人なら、殆どが知っているだろうと思うほど、事古りたる生みの母にかけたる私の夢物語りであった。 [#ここから1字下げ] 御母上様は今年七十二歳の御高齢で、三谷家の長男隆正氏の許に、御幸福にお過しになっておられますが、『瞼の子』故に、年老いたお心を、どんなに悲しいものにされていらっしゃる事でしょう。「……私があの家を出る時に、頑是ない伸は、僕が今に大きくなって、軍人になって、お馬に乗ってお迎いに行ってあげるからね、お母さん、泣くんじゃないのよといったあの声が、未だに耳に残っています。あの小さな子供は今何処にいるんでしょう、ほんとうに、たった一回でいいから会いたいと思いますよ」 これは貴郎の御母様が洩らされた御述懐でした。或る日、御母上様の為に、お馬に乗った軍人さんになってあげて下さいますように、お願い申上げます。 [#ここで字下げ終わり] [#7字下げ]二  円タクを呼んで貰って駅へ急がせた私の懐ろに、女文字の手紙はあった。環状線道路をスウスウと駛《はし》る車の行くこの道、連なる家並が、私の眼に、何度かぼッと霞んだ。涙がとめ度なく湧いて出てくるのだった。  汽車に乗って後も、熱海に下り立って車に乗ってからも、いつもの如き一人居の客室にあっても、相客を避けて入る湯の中でも、涙は視力を幾度か潤ませた。  夜に入りて雨となった。 (母に会えそうだぜ)  だれかにそう云ってみたい、宿の女中さんでもいいから、そう話してみたい、そんな衝動が口の端《は》にうずうずしてきた。が、怺《こら》えた、心安くしている女将にすら、気振りもみせず寝苦しい二夜を過し、紀元節の宵にわが家へ帰った。  私は三谷家の事情をまるで知らないのだ、だから最善の場合と最悪の場合と、両極を想像して、そのいずれの場合にも動ぜぬだけの覚悟をもつことが出来得たので、東京へ取って返したのだった。  十二日午後、母のまします家を牛込に尋ねた、尋ねあてて遉《さすが》に一時ためらったが、駒止めの柵ある門を開き、表玄関に立ってベルを三度押した。やがて内から開かれた硝子格子戸の内にある老婦人を、これぞ母なるべしと直覚した。 「突然に伺い、お驚かせ致しました、私は長谷川でございます」  老婦人の顔に些の動揺もなかった、慇懃に案内されて、通されたのは書斎と応接間とを兼ねた、潔癖を強くものがたる、瓦斯ストーブに温められた一室だった。  そこで私は又いった。 「突然ですが――私、伸二郎です」 「はあ。どうぞお掛けなさい」  老婦人の顔に動揺の色はいささかもなかったが、私は毫も動じなかった。一人、その室に腰掛けて間もなく、襖をあけて三谷隆正君があらわれてきた。隆正君の顔が輝いた。 「伸君ですか」  ひと目で、私が判ってくれた。 [#7字下げ]三  隆正君の態度は私をすッかり落着けさせてくれた、姉のこと弟のこと、妹夫婦のこと、末の妹のこと、母のこと、私の亡兄のことなど、次から次へ尽くる時がなかった、私も私のことを話した。 「弟を呼びましょう」  その弟の三谷隆信君が来たのが存外はやかった、急いでやってきたのが非常にわかる。  が、さっきこの室を退いた老婦人、私の生みの母は、その時までまだ姿を見せずにいたが、私の心は平静だった。隆正君と隆信君との顔をみていると、話を交していると、邪推も危倶も湧いて出てくる余地がないのだ。  いつ、室を出たか隆正君が、瞼のうちに描いた母に生き写しの顔に、笑みを漂えてはいってきた。 「母に聞いたら、知らずにいるんだ。伸君がきていると今いったら驚いて――」  この日、私と同姓の客がくる予定だったので、母はそれと間違えていた、だから長谷川と名乗っても驚かなかった。  あとで聞けば、片方わるい方の耳に向って、私は二度目の名乗りをしていたのだ、それでは聞きとれなかった筈である。 [#7字下げ]四  亡妻は十八年目で再会した父と、一時の感激に二人とも泣いたという、が、私は涙一滴こぼさなかった、母も私をみて涙をこぼさなかったが、取りとまりもなく話が重なってくると、涙をそッと拭っていた。  母に別れたとき亡兄は七歳、私は四歳だったという事を、この日始めて知った。すると四十七年経っているのだった。  語れども語れども尽きる話ではなかった。伊藤仁太郎氏も、かすかながら記憶があるという私の生れた家、駿河屋材木店の輪廓が、この日母から聞いて、幼いころの記憶にやや甦りを与えられた。 [#7字下げ]五  私の亡兄は十三歳で生糸屋へ小僧に行った、美しい少年なので「姉《あね》さま」と渾名されていたと、歿後に人から聞き知っていた。  その兄が十四五歳のとき、店の使いで、生糸問屋三谷宗兵衛氏方へ使いに行ったとき、外から帰ってきた宗兵衛氏の夫人が、締麗な小僧さんがじッと見ているのに心づいたという。それが亡兄と母との、よそながらの再会だったそうだ。 「紀元節の雪の降る日に、その時分は東京にいたわたしを探し探して、日出太郎が尋ねて来た」  母がそれを語った時、隆信君がそれを記憶しているといった。 「顔は憶えてないけど、その事は憶えている」  すると亡兄は隆信君の顔まで、見て知っていたのだったのか。一抹、羨しいような気が往来した。 「姉はありますが兄のない私は兄が欲しくって、日出さんところへ尋ねて行ったが、生糸商の店先で、ちょっと会っただけで、甚だ物足らぬ心もちで帰ったことがありました」  隆正君はそう云った。その時の隆正君の気もちが判る。 [#7字下げ]六  私は過去のうち悪いことの一二を話した、いい事がもしあったら自ら判ってくれるだろうが、何よりも先に悪い方をと、その時はそう思うでもなし思わぬでもなしで話した。だから二度目に訪ねたとき、最初にみせた私の写真は、四天を着て大百をかむって、戯むれに撮った芝居の「暗挑《だんまり》」の盗賊の張本だった。  写真といえば隆正君がみせてくれた写真帖に、若き頃の母の写真が、黄色く褪せて一枚あった。 「日出さんに似てるでしょう」  隆正君がそういってくれた。亡兄は隆正君に顔を憶えていて貰っていたんだ。 「兄貴、そっくらですね」  見詰めているうちに眼のうちが熱くなってきた。この顔なんだ、私が永らく瞼のうちに描いてきた母の俤というのは――。 [#ここから3字下げ] 母に似たてふ亡き兄《あに》さんに、 似たるわが眼を懐しむ。 [#ここで字下げ終わり]  私は昔、亡き祖母に、夜半に揺り起されて叱られたことがある。 「日出太郎は、ああいう子だからどうにかなると思うが、お前の行末は案じられる」  そういった後で祖母は教えてくれた。 「おッかさんに会いたくなったら兄《あに》さんの顔を見ろ、そッくりだ」  これだけは心に銘記して忘れずにきた。 [#ここから3字下げ] 瞼上下あはせりや闇に、 浮いて出てくる母の顔。 [#ここで字下げ終わり]  心やりさと口にはいえど、断腸のおもいをこめたこの唄の下の五文字を、時には若い母と置き換えてみることもあった。その瞼の母は、手札判の黄色くなった古写真にありあり、四十余年の昔を語り、瞼のうちに亡兄の顔を土台にして、私が創作した顔に相違なかった。 [#ここから3字下げ] 月も落ちたか夜半《よなか》の寝ざめ、 子供らしくも母恋し。 [#ここで字下げ終わり]  四十を越えてのち、こんな唄を作ったこともあったし、この唄を書いた色紙短冊が五六十枚は地方に散在してある筈だ、見当り次第に貰い戻し、焼棄ててしまってもいいように、私は今なっている。 [#7字下げ]七 「私は今、どうやら飯食うに困らぬほどに成っています」  誇張していうことも知ってはいるが、誇張せずにいうことも私は知っている、私は本当のことを母に告げた。 「そうだってねえ」  母の答えに、私は肚のうちで莞爾《にっこり》した。  再訪を期して牛込の家を辞して去るその夜は、いい月が輝いていた。隆信君が電車通りまで送って来てくれた。  家に帰り着くと友人藤島一虎氏が待っていてくれた。新国劇の俵藤丈夫氏夫人は朝から来て夜に入るまで、 「先生はおかあ様に首尾よくお会いになれたでしょうか」  と待ちくらしていてくれたそうだ。 [#7字下げ]八  その翌晩、土師清二氏に会ったので、ちょっと話をした。 「僕はきのうおッかさんに会ったよ」  土師君は不思議にも一切反問をしなかったのみか、その話を避けたいらしかった、そして直ぐに酔ってしまった。そればかりか翌日中、酔いつづけていたということだ。  新聞記事を読んで(註・朝日新聞を主として読売新聞・都新聞の記事を指す)、彼は始めて安心して、私の家へ駆けつけてきてくれた。 「僕は、再会した結果を聞くのが怖かったんだ」  さればこそ、きのう一日中、酔払いつづけていたのだろう。 [#7字下げ]九  新聞に、母と私の四十七年目の再会が報ぜられたその朝、早々と祝電を魁《さきがけ》に、次々に祝いの手紙が送られてきた。先輩、友人、知己、知らぬ人、無名の儘のものなど、多い日は四十通もきた。まだ毎日それが続いている。  手紙の中には、私を羨んで、会えぬ母への思慕の情を、歓楽の巷へこれから紛らせに行くというのもあった。学徳兼備の名僧で畏敬する友人は幼少のころ死別した母と霊山《りょうざん》の再会を期し、一生行脚の途を辿るという、血を吐くような哀傷を、私への喜びと併せて述べて来た。或る一青年は、先生の再会に刺戟され、出世に粉骨砕身すると誓ってきた。或る孤独の女中さんが鉛筆で、喜びを述べてくれたのもあった。尋ねる親にめぐりあわずと、怨めしげに書いてきたのも幾通かあった。  親を尋ね子を尋ねる哀しい話は、過去現在ともに随分多いことが、今度という今度こそ、予想の他に夥しいものなるを知った。  その中でも心打たれたのは、磐城の平藩出身、愚庵《ぐあん》の甘田五郎兄弟の至孝ついに空しかりしことと、友人なにがしの私とは逆様事《さかさまごと》の悲劇なりしことである。愚庵のことは見ぬ世の昔とあきらめられても、現世の友人のことはそう行かない、私も若さを形骸だけには失いかけてはいるが、それでも喜びにうち当ったのだが、友人は、その逆様事にうち当り悲劇に登場を余儀なくされている。私はその友人に悪いことでもしたような気がしてならない [#7字下げ]十 『舶来巾着切』を春陽堂から刊行したとき、私は母を思慕する文章を印刷して、一冊毎に挟みこんで貰った、それはもう随分古い事になった。『瞼の母』を書いて上演も上映も度々あった、蓄音器のレコードに歌をつくって吹込みもした。 「三界十方、闇深く、慕う心に、日は映《さ》さぬ、母よ、母よ、わが母よ」と、歌手の哀切な声は円盤に刻まれた。「雁はわたれど、燕はくれど、母という人、まだ知らぬ」と、うたった声は針の先で再生しているのに、手応えは更になかった。  しかも、或る一ところを押せば直ぐにも判ると信じながら、怖しさに扉に近づくことを私は避けていた。  その癖、その一方で私は『瞼の母』の忠太郎に「顔も知らねえ母親に、縁があって邂逅《めぐりあ》って、豊にくらしていればいいが、もしひょっと、貧乏に、苦しんででもいたのだったら、手土産代りと心にかけて、何があっても手はつけず、この百両は永《なげ》えこと、抱いて温《ぬく》めてきたンでござんす」といわせていた。  瞭《あきらか》に矛盾した二つの心に私は年中、躰のうちを駆けめぐられていた。 [#7字下げ]十一  母の方は私のそれよりも、私を探すことに、不断の努力を長らくしたのだった。  断片と断片の風の便りの綜合で、私が生きているという事の確信はあったが、キリスト教徒で、一族挙げて禁酒禁煙し、姉は有名な女流教育家三谷民子女史、弟は一高の教授三谷隆正氏、次弟は外交官三谷隆信氏、妹は三高教授山谷省吾氏夫人、内務省社会局保険課長川西実三氏夫人、という範疇と、腕で叩いて独りのぼってきた私の作家境界とは、目にみえねど大きく世界は別だった。われ叫べど聞えず、彼叫べども聞きとれずであったのだ。  雪の降る日、私は隆正君が与えてくれた機会によって、女子学院の校長三谷民子女史を訪うた。姉は、有難や確かに姉だった。 「母の話に聞いている伸ちゃんと、長谷川伸と、一緒に考えることが、どうしたって出来なかった」  それは本当だ、誇りかにいうのと意味は違うが、私のような境遇から出て、作家で飯が食えることを、今でも時に疑う人すらあるのだもの、風の便りに私の噂を聞いている母やその周囲が、作家になっているとは夢にも思えなかった筈だ。 「朝日新聞に書いた随筆に、花束を貰ったが、贈り主はまだみぬ妹だろうというのがあったろう、あれが問題になって」  と姉はいった。  その頃からそろそろ、私が私ではないかと思い始め、その後も半信半疑をだんだん強め、昨年末に市《まち》に出た『婦人公論』によって、これぞ母の尋ねている伸ちゃんに違いなしと、三谷家の一族は確信をもった、しかし、或る母子再会の悪い実例が幾つかあったので、寄り寄りの相談はかさねながら、母の耳には入れずに置いたのだった。  隆正君などは同窓の佐々木邦氏にわざわざ私のことを尋ねたりして、何時でも機会をつくる準備をしてくれていた。  しかし、私が望を絶ったような「瞼の母を語る」の辞句が隆正君兄弟を相当なやましたらしかった。  姉民子さんはそれとは別に、機会をつくろうとしていてくれたが、扉の鍵は思いもかけぬ処から与えられた、最初に出ている手紙のぬしがその与えた人で、三谷家の親族の一人、松本泰氏夫人恵子さんであった。  鍵は恵子さんから与えられ、私は母や姉や弟や妹の真ン中へ飛び込んで、歓迎され、優待され、私の経て来た途《みち》にはなかった学問と地位との中に、そしてもう一ツ温かい愛とをうけた。孤独にちかい私は一変して、憶え切れないほどの近親を一挙に得てしまった。  夢かと思わぬでもない。原稿の催促など受けぬ筈の私が、ペンが手につかず、この数日は電報や使者で催促をしきりにうける始末である。  こういう四十七年の歳月を、一時に引き縮めてくれた陰には、恵子さん以外にも幾人かの女性があったのではないかと思う、聞いてはみないが、しばらく空想を逞しくすれば、姉もその一人だろう。 「母に会えて、姉が出来て、弟も妹も沢山できたんだから躰を大切にしなくちゃ駄目よ」  私にこういってくれる姉だ、会わぬ以前に、「まだ見ぬ弟」と呼びかけてくれた姉だ。  隆正君の夫人が健在だったら、屹と私の数える愛しきものの一人に違いなかった、隆信君の夫人も屹と働いてくれたのだったろう、事によると夫人李枝ちゃんの母君あたりまでが、働いてくれたことが多かったろうと思う。妹三人のうち会った二人が喜んでくれる様子で、まだ見ぬもう一人の妹のこともわかった。それ等の女性も働いてくれたことだろう。 [#7字下げ]十二  妹とはいいものだと思った。  姉の還暦祝賀会に私もならんだ、実はこういう会は始めてなので、勝手違いに閉口したのをみてとったか妹は、 「どうして?」ときいた。 「手も足も出ません、こういう会では」  といったほど、煙草がふかせないので弱っていた。と、妹がそッと、煙草をすってもよさそうな場所を教えてくれた。  兄貴になった経験がない私には、これだけの事でも嬉しさがぴりッとくるのだ、だから辛抱して女子基督教青年会館では煙草は愚なこと、パイプだって口に啣《くわ》えなかった。一族を辱めては男が立たぬからである。 [#7字下げ]十三  兄日出太郎は何故私に、母のことを告げずに永眠したか判らない、それを語らなかったのは私ばかりにではなく、永い年月のうちだれにも云わず、大正十一年夏、四十三歳で世を去った。その兄の着物をきて私は、姉の祝賀会に行き、亡兄にも参列の喜びをわかった。もっともこの智恵は私ではなく、家の者だ。 [#7字下げ]十四  頭でッかちの四歳の児童から、鬢髪に霜もすこしは降っている今の私まで、四十七年を一夢として飛び越えた私は、よその目にも、肩の重荷が卸りたように見えたそうだ。 「あなたはおッかさんにお目にかかって、ほッとして気落ちがしてるんではありませんか、それで書くものが駄目になったらいけますまい。三谷さんの皆さんを驚かすような物を書く気になってください」  女房が客が帰った午前五時過ぎに、私を諌めてくれた――私はハッとして、闇を幸いただ黙っていた。  この頃、好きで行く銭湯の鏡でみる自分の顔のうち、眉が開いたのではないかとだけは気がついている。そしてベッドに入れば夢は円《まど》かなこと、十二日以来ずッとつづいている。 [#ここから地付き] (昭和八年二月廿日未明記) [#ここで地付き終わり]  右の文中にある新聞記事とは、母に再会した二月十二日から中一日たった十四日、東京朝日新聞の伊藤昇氏が取材して、十五日の同紙の社会面に、「奇遇小説以上・互に慕う四十七年・長谷川伸氏と生母・皮肉な運命に勝って再会」と題し、大きく扱かったそれを主としていっているのである。時に私は『刺青判官』という小説を朝日新聞に執筆中であったが、このタネはそれだからといって私が知らせたのではなかった。その日のうちに再会のことを知っていたのは、家のものを除けば俵藤丈夫氏夫妻と近所の藤島一虎氏だけだった。翌十三日、俳優の梅沢昇氏(今は龍峰という)と、土師清二氏にだけ漏らした、その外はだれにも知らせなかったのは、教養が違い経歴と環境とが異なり、しかも生れて始めて相見た姉や弟妹達と融化して釈《と》け通《つう》じるまでは、私にも姉や弟妹達にも微妙玄通識るべからずといわれる、その深さを超えるまで、人に吹聴して喜んで貰うものではないとしたからだった。しかし朝日新聞はどこからか知ったのである。後に土師清二氏がスリーキャッスルの五十本鑵を私に贈り、これをあんたは貰っていいのだ、わしは二ツ貰ったから一ツを贈るといった。それでわかった、タネは土師氏が朝日新聞に出したのだった、彼はこうした事は世に告げるべきものと、所信固くやったことだったのである。  朝日新聞の外に読売新聞と都新聞が、おなじ日に矢張り記事を載せたが、遅く知った為めか、取材がうまく行かなかったのか、遜色があった。ここのところを書いているとき、当時の切抜きを出してみると、大阪朝日新聞は「生きた戯曲・追慕四十七年・『瞼の母』との奇遇・大衆作家長谷川伸氏と生母・無限の感激に浸る」と題している、東西二ツの朝日新聞が下した題目が、今みると、火花を噴くばかりに競っているのを静かに見ていられる、しかしその時はそうでなかった、落着いている心算《つもり》でいても、衝動が強かったのだろう、前いった『刺青判官』の如きも甚しい混迷をみせてしまった、そういう意味では劣作ながら私には一ツの記録に抵《あた》るものである。  いい忘れたが母に会ったのは、亡父の十七年忌に相当した時だった。  新聞記事は大きな反響を呼び、辱知と未知の方々から夥しい手紙をもらった、それらは七冊の和綴本に筆写して貰い、帙に入れて保存してあるが、題簽がいまだに下されていないのは、その中に知名だった芸能人が自分の半生を述べた泣血の手紙や、懺悔と思える未知の人の手紙などが可成りあるので、他見に附していいかどうかに迷い、いつかは灰にする気でいるからである、だが、一日延ばしにして今日に及んでいる。  次にそれらの手紙のうち、当り触りが全くないだろう一ツを載せたい、新聞に記事が出たその日執筆のものである。 [#ここから1字下げ] 拝啓 新聞で拝見し、外ながら愉快に思っています。殊に、三谷隆正君(隆正君の写真があまり若く見えますので、一寸どうかと思いますが)は、一高で英法の秀才だったので、名前も顔もよく覚えていますので、更に感慨の深きものがあります。 一寸およろこびまで。       二月十五日       菊 池  寛   長谷川 伸様 [#ここで字下げ終わり]  この手紙にある三谷隆正君は、どうかと思うと菊池さんをして訝からせたが、まことに訝るが道理なくらい若くみえた。この『信仰の論理』『法律哲学原理』『幸福論』の著者は今は亡い。  亡兄日出太郎によく似ていた隆正君が天国に去ってから、姉を失なった、三谷民子女史である、女史なんていうのはぴッたりしない甚しきものだ、私には単に姉さんである、十余年間に聖書の言葉を私に引いたことがただ一回だけだった姉さんである、味噌臭くないという言葉があるが、それは姉さんのことである。時には説明の意味で女子学院の姉といったこともある。これらの不倖は戦争中のことだった。  母は昭和二十一年二月二十三日に天国へ去った。一九三三年に再会し、一九四六年に永遠の別れとなったのである。母は戦争中、死を期してまことに従容たるものだったが、戦火の厄から免がれて、三谷家の次男でフランス大使であった三谷隆信君(今は侍従長)が、フランスからドイツへ、それからスイスへ禍乱を避け、漸くにしてスペインの汽船で日本へ向かったという報を聞いてから、女婿川西実三氏方で瞑目した。寿八十五歳。隆信君は母が世を去ってから一ヶ月後の三月二十六日浦賀沖に着いたのだった。他の弟妹達もみな健かであるのみか、世に尽しているその力は、私に倍加している。 『ある市井の徒』に関するこの記述のペンを擱くにあたって、私どもの母子再会の記事をつくるとき、微妙さを覚って、細心の記述をしてくれた朝日新聞社からこの本が刊行されることは、機縁であろうか因応であろうか、いずれにしろ浅からぬものあるを感じていることを、記して置きたい。又、『ある市井の徒』は作家となるまでの因由と過渉の跡とを欠いている、事がそこまで行く以前で終りにしたからである。さるにても、その道の師をもたず、その道の先輩をもたず、これという砥礪を共にする友もなくして、物書きの道に踏み出し、どうやらこうやらの処まで行けたのは、摸倣から練磨に出つ入りつしている間に、大なり小なり自発性がそこでも芽をふいたからだとしている。私にとって私の自発性は資本であった、もしそれがなかったら、前に書いてある中のどこかしらで、横に逸れるか下に堕ちて行っていたことであろう。 「越しかたは愉しからずやそこはかと思ひうかぶること悲しくも」。往事を懐歴してつくったこの腰折れ歌の「悲しくも」は、或るときは自分をひそかに慰め、或るときは人知れず悔恨する、その「悲しくも」である。これを『ある市井の徒』巻末の辞に代える。 底本:「ある市井の徒」中公文庫、中央公論社    1991(平成3)年2月10日発行 底本の親本:「ある市井の徒」朝日新聞社    1951(昭和26)年9月発行 入力:山崎正之