歌舞伎座 筋書(昭和28年12月)より 長谷川伸・他 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)的《あて》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二|玉《たま》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから6字下げ] ------------------------------------------------------- [#2字下げ]「刺青奇偶」の夢[#「「刺青奇偶」の夢」は中見出し] [#地から3字上げ]長谷川 伸  「忘れてゐるのにふと夢にみる、書いた戯曲《しばい》のあの女」、といふ二十六文字の歌が私にある。  どなたにもある珍しいことでもないだらうが、私にも、自分の書いた戯曲の中の、「あの男」を夢にみることはないが、「あの女」を時に、それこそ実に思ひもかけず夢にみることがある。例外なくそれはいつも、黙つて立ち姿をみせる、ただそれだけの夢に見るである。その後の二三日は気にかかるが、いつか又忘れて、日がたち月がたつのが例である。  といふのが、私の過去のそこかしこで、といつても今のやうに、“先生”なぞと呼ばれるには遠い世渡りの昔、さうした女を友達に多くもつてゐたことがあり、しかも歳月多くを経て、心のどこかに忘れかねるものがあるからなのだろう。  さうした女といったのは幾人もゐたが、「書いた戯曲《しばい》のあの女」で、「ふと夢にみる」は二人だけ、『沓掛時次郎』のお絹と、『刺青奇偶』(いれずみちやうはん)のお仲だけである。      ☆ 『刺青奇偶』は昭和四年の作だと思ふ、二幕で六十三四枚、その二三年前に『股旅草鞋』二幕が世に出て、作の力といふよりは時の拍子で、股旅物といふ言葉が既に出来てゐたので、『刺青奇偶』も又、股旅物といふことになつたものであつた。股旅物《またたびもの》といふのは、私のつくつた言葉でなく、他人《ひと》様が拵《こしら》えてつかつたものだが、起因は私の『股旅|草鞋《わらじ》』にあつた。造語者はたぶん故渡邊均か、それでなければ故石割松太郎で、活字でつかつた最初は私の知る限りでは『サンデー毎日』である。渡邊均は上方落語の文献を遺《のこ》した人、石割松太郎は劇文学者で、どちらも『サンデー毎日』初期時代の人である。但し『股旅草鞋』は『サンデー毎日』に載つたから、さうした造語が出来たのでなく、『刺青奇偶』もさうだが、『改造』に載《の》つたものである、当時さういふことにしてくれたのは、上林暁君であつた。『刺青奇偶』の奇偶は申すまでもなく、奇数偶数から採つたもので、正しくは偶奇と書いてチヤウハン(丁半)と訓《よ》ますべきだが、一つには字面《じづら》の上からでもあるが、市井読みをワザと採つたのである。      ☆ 『刺青奇偶』の男主人公の半太郎は、これも私の二十六字の歌にある、「いい奴《やつ》だつたがあの時以来、グレて深酒《ふかざけ》喧嘩好き」といつたやうな男である。この男の肩書きに手取りとつけてあるのは、江戸佐賀町に手取橋があつて、その角店《かどみせ》が彼の実家だつたのに據る。この男のいふセリフの中に「丁目半目が野郎と阿魔《あま》なら、性根は六つ、二十一目」といふのがあるが、天地と東西南北に割りつけた、一から六までのサイの目も語呂よくいつただけではなく、男といひ女といふ人間の天賦の目は六ツでも、異性と組めば二十一目に変化《へんげ》があることをいつたので、しかも二十一目とは世俗の勘定でしかないのである。世にいふ股旅小説の類では、九半十二丁目といふ二ツ賽の目をいひ慣はしに随つて、疑ひもせず使つてゐるやうだが、二ツ賽で実験してみると、九と十二の二十一目でなく、十二半十二丁の二十四目といふ結果が出てくる。      ☆  序幕の破ら家に角兵衛又という旅人(たびにん)を出してゐるが、これは旅人といふものの一つの見本である、どこにも玉は少くて瓦が多いといふことだ。これも序幕に出る熊介の如きも、厄介な瓦の一種で、無頼の世界でも無事ではゐられない人間の見本の一つである。  大詰は南品川で半太郎の渡世《とせい》は瀬取り(せどり)である。瀬は沖ということ、取は荷役のことで、後世の沖人足、上方でいふ沖仲仕である。私の知つてゐるころの品川の瀬取は無頼でもあつたが任侠の風があつた。  今度の『刺青奇偶』の興行中に、私は又お仲を夢の中で見掛けることだらう。 [#2字下げ]わたしの楽屋ばなし(一部)[#「わたしの楽屋ばなし(一部)」は中見出し] [#地から3字上げ]村上 元三  わたしたちのような物書きが芝居の仕事をやる場合、俳優と個人的に仲よく付き合っていることが、邪魔になるのか、それとも役に立つか、どうかは、わたしにもわからない。  しかし、わたしは勘三郎、歌右衛門、幸四郎という人たちの舞台も好きだし、めいめいの人もわかっているつもりなので、稽古をする時も大変役に立つ。  三人の持っているもののうち、今まで出ていない良いものが引き出せるか何うかが、わたしの今度の仕事の場合、わたし自身の及第か落第かにもなる。  「藤雄さん」とわたしも呼ばせてもらっている歌右衛門の、今まで出なかった良さが一つ、このあいだの「浮舟」にも、はっきり出た。  あれとも違って、今まで中村歌右衛門が演ったことのない、お仲という役で、また一つ別な良さが出たら、とわたしは願っている。  ゆうべも話していて、びっくりしたのだが、歌右衛門という人は、まだ長谷川伸先生の作品を、一度も演っていないという。それだけに、わたしの楽しみも大きいし、藤雄さんも、念を入れて稽古に入ってくれている。  こんどの「刺青奇偶」のお仲という役は、水から濡れ鼠で引き上げられてくるので、わたしは中村歌右衛門に風邪を引かせてはいけないから、衣装に工夫をしてもらおうと思っているが、ご当人はこの十二月の寒さに、濡れたままで舞台に出るとまで云った。それくらいの気の入れ方だから、こんどのお仲は、きっと良いに違いない。 [#2字下げ]刺青奇偶の初演[#「刺青奇偶の初演」は中見出し] [#地から3字上げ]三宅 周太郎  長谷川伸氏作「刺青奇偶」の初演は、確か昭和七年六月の歌舞伎座と覚えています。主役半太郎を菊五郎、お仲を今の歌右衛門兄五代目福助でした。  ところが、この二人の役はすばらしい出来で、この原作は長谷川氏の作では佳作ではありますが、さらにその原作を役者が引上げ、演技力で高度の新世話物に増進させたのでありました。お仲が半太郎の腕にいれずみをするところがありますが、その前後の妙味は菊五郎の非凡は当然として、今の歌右衛門同様のあのおだやかで古典的芸風のいわば「姫」の役者の福助が、こうした市井人の世話女房をして、巧な実存性といったものを出したから意外でした。  これより先、東劇で この福助は菊五郎の「一本刀土俵入」のお蔦をしています。このお蔦の如きも、当時の先入観でいうと、福助の温厚で気品のある芸風には、少々不向きと思われた役でした。何しろお蔦は「だるま」なるいやしい酌婦だからです。だが、やって見るとあの人柄でいながら、そうした女になりきり、生来の美貌をいくらかやつれた下級な顔のつくりと、扮装とにしたのがまた異様な退廃美を出して菊の名技とともに、複雑な美感と陰影とを現したのでした。あれが大当りをとったのも半分は福助の意外な演技力であって、お蔦の張り、若いのに、先代の梅幸や喜多村以上といっても、以下ではない至芸を見せたと思います。  かく福助は一見その役どころではないお蔦や、このお仲で新しい役所を開拓したのでした。特にこのお仲はお蔦より地味で受けぬ役なのを、あれだけ生々と演じたのは、福助の女形を誰より好きだった私は驚異とともに不思議でなりませんでした。  この昭和五、六、七年頃の福助の女形は実に技芸が進歩し、これは今の歌右衛門と対談した時に、私と二人で異口同音に、この頃菊五郎の助六に福助が「水入り」までの揚巻すら、堂々と演じおわせた技倆を褒めたたえたのでした。当時今の歌右衛門は児太郎でしたが、彼は子供心にやっと三十になるやならずの兄の福助が菊五郎相手に成駒屋の家の芸ともいうべき揚巻の大役をして、毛頭見劣りがせずに芸が大きいのに目を見張ったといっていましたが、全くその通りの成績でした。  再びいいますが、昭和五、六、七年頃の福助のうまさ、美しさはありませんでした。だが、翌八年八月、この私の好きだった福助は遂に亡くなったのです。享年三十四、私はその死を悼む記事を、今の毎日新聞の前身、東京日日に書いて、「日本演劇の損失」として、これ程の大きな損害は珍しいと書いた位でした。  つまり、よくいわれる所の、老優以外は役者は死ぬ前になると上手くなるという見方が、古風、迷信とはいえ、偶然に当たったのでしょうか、その福助が死んで今年は満二十年です。この初秋にその供養があった際だけに、このお仲を弟の歌右衛門によって見られるのを懐かしく思います。そこでこうした故人の晩年の名技を書いてみた次第です。 ブログ記事の注: 六世歌右衛門の兄、つまり七世芝翫の父である夭折した五世福助の思い出話。 [#改ページ] [#2字下げ]付録・『生きている小説』より「一本刀土俵入」[#「付録・『生きている小説』より「一本刀土俵入」」は中見出し] [#地から3字上げ][#2段階大きな文字]長谷川 伸[#大きな文字終わり] [#6字下げ]一[#「一」は小見出し] 『一本刀土俵入』が尾上松緑君・尾上梅幸君で、歌舞伎座で上演され、加東大介君・越路吹雪君で、東宝が映画にして、この方も同じ月に封切となる。そこへもって来て、今年の春からは三橋美智也君の吹きこんだキングレコードの『一本刀土俵入』が当りをとっている。それにまた、地方都市の民放が十局だかそれ以上だかで、新国劇の島田正吾君・香川桂子君のラジオの芝居『一本刀土俵入』を放送する等々で、劇中の駒形茂兵衛やお蔦その他について、いろいろ問うひともあるので、その答えに代えかたがた、思い出ずるにまかせて話すことにする。  私は昔、力士になろうと思った、といっても、そのころの私を知らないから、すぐに本当にする人はだれもない、がしかし『一本刀土俵入』序幕の安孫子屋は、三州田原の木戸屋という宿屋の表がかりがモトだと話すと、この方は素直に受けとってきいてくれる。  渡辺崋山のいた三州田原へ、土木仕事で行っていた若僧時代の私が、仕事が立ち行かなくなったので、夜逃げ同様に消えてなくなって、生れた土地の横浜へ帰りはしたものの、おやじは田原の仕事で兄弟分はじめ子分|子方《こかた》にまで不義理を生じ、逃げ歩いていて、私の食う道を考えるユトリなどなくなっていた。といっても私の方は平気である。九つか十の時から、自力で食って若僧になったのだから、食う道は自分でめっける気に初めからなっているので、いろいろの処へ押しかけていった。その中に今いった角力の弟子入りがあった。  田中平八といって明治のころ、天下の糸平《いとへい》といわれ知らぬものなき豪快な大商人があった。糸平の碑は向島に大きいのがあった。今あるかどうかを知らない。神奈川にある墓には、天下の糸平を読み込んだ戒名がついている。俊徳院釈天平義哲大居士である。つまり天下の糸平を要約して、天平として、戒名の中にはめ込んだのである。その天平の有力な番頭さんであった中島市助というとッさんがいた。私が知っているのは、糸平が世を去ってからかなりの歳月が過ぎたときで、どういう商売か知らないが、楽々とした生活であった。このとッさんが取り的のときから世話をした大砲[#1段階小さな文字](タイホウとは読まない。オオヅツ)[#小さな文字終わり]万右衛門は、第十八代の横綱になってもとッさんには取り的のときとおなじ態度をとり、たとえばとッさんが入浴すると、背中を流す、こういうことが毎度であった。とッさんは横綱に垢をすらせてはオレが困るというのだが、大砲は笑っていう「世間へ出れば横綱でも、ここの家ではオレ横綱でない」と。私はこれを目で見て耳で聞いたのである。ただし大砲には仙台なまりがあった。戸部で薪炭商をやっていた実直な弟にはなまりがなかった。  私は力士の弟子入りをたくらんだが、大砲の目に付かないところでやらないとダメだという気がして、折柄、興行中の東京角力が地取《じどり》のときをねらって、二日だか三日だか通い、とうとう大砲のいない時を見付け、行き当りバッタリに弟子入りを頼んだ。その力士は、丸々と太った幕内の稲川政右衛門であった。 [#6字下げ]二[#「二」は小見出し]  稲川政右衛門は追払う手真似をしたが、私は食い下って放れなかったとおぼえている。それに私には、土工の辞儀[#1段階小さな文字](私は、世にいう仁義は辞儀の誤りだと思っている)[#小さな文字終わり]の癖がついていたかも知れない。それであったら嫌がられるわけである。  そのころでも、土工の辞儀と博徒の辞儀とを区別できるのは、その渡世のもの以外にはまあない。ついでにつけ加えるが、明治の末今から四十五、六年前までは、たたみ職でも左官さん・木挽さんから蒲鉾《かまぼこ》職だろうが、石工さんはもちろん、工職《くしょく》という工職は、すべて修行旅の先では辞儀を切ってツキアイを乞うた。したがって一宿一飯がついて回ったものである。  稲川は赤くなって怒り、何のためにそこにあった竹の棒か知らないが手にとって、たけり立った顔つきと声とで私に向って来た。私は逃げた。逃げながら眼に、紺ガスリの着物の力士が一人だけ映った。その力士は面白そうに私が二度ぐらいなぐられそうになったのを見て笑っていた。後年になってその力士は、駒ケ嶽国力といって、太刀山峰右衛門と並び称せられた人であると知った。稲川も駒ケ嶽も相撲史をみれば記載がある。  私はそのころ、力士がダメなら外に何だって飯食うタネはある。その全部がダメとなったら、仕方がない、土工をやればいい。そのうちには何か切り開きがつく口が見付かると思っていたので、稲川政右衛門に追い飛ばされたところで、逃げのびてしまえば、ああ驚いたという程度でしかなかった。 『一本刀土俵入』の主人公を取り的さんにしたのは、ただこれだけの浅い因縁だけである。そのためだろうか、茂兵衛のセリフに出てくる角力用語が、今と少しちがっているそうである。ちがっていても誤りではなく、そのころ用いた言葉ばかりである。  そのころ押しかけて行った弟子入り希望の先さまは、落語と講談だけである。落語の方は断られ、講談の方はこちらが歎息して、何もいわないで引下がった。さすがに、草芝居の役者になる気だけは起らなかったから、私は若いときの自分を誤らせないで済んだと、今でも思っている。  こういってくると、そして今の私を見たとすると、力士に弟子入りなぞとはバカなと、だれでも思うだろうが、骨は太かったし、力はあったし、土木や建築の働き人の間でいう、勾配の早いというヤツで、足のはこびも、手のチョッカイも、人並より少しは上の部であったので、かならずしもいい加減な考えであったのではなかった。後に梅沢昇[#1段階小さな文字](初代)[#小さな文字終わり]などはどこから聞き込んだのか「先生は一枚|肋《あばら》だそうで」といったことがある。何だかのとき、新国劇の島田正吾夫婦のすすめで、慶応病院で診てもらったその直後であったとおぼえている。もちろんのこと私は一枚肋などではない。  そこで安孫子屋の場の装置のことだが、あの漆喰細工をつかったのは、前にちょっといった三州田原の木戸屋という茶屋旅籠に、私が永滞留していたからである。 [#6字下げ]三[#「三」は小見出し]  私が永滞留をしていた旅籠木戸屋の表二階の戸袋に、漆喰細工で、恵比寿・大黒が、ものの見ごとにつけられていた。この細工がそのときは、どういう鏝師《こてし》の手になったものか、知ろうとする気が私になかった。そのときの同行は、梅原の才市と目黒の勇天といって、土工の親分であったが、この人達も、鏝が描き出す漆喰画に興味を感じていなかった。  明治の鏝師で最も有名なのは伊豆の長八で、『伊豆の長八』[#1段階小さな文字](結城素明著)[#小さな文字終わり]という、素明さんが研究の末に成った伝記本がある。また、駿府の多十という名人の鏝師があって、その作品の多くが静岡市で、アメリカ空軍の攻撃のために灰となりはしたが、昭和三十年十二月『森田鶴堂翁伝』[#1段階小さな文字](静岡市・白鳥金次郎著)[#小さな文字終わり]が刊行されたので、左官屋さんの間では有名である。著者の白鳥君は多十の門人で、今は左官屋さんの全国会の役員であるらしい。鶴堂は駿府の多十の号で、森田はその姓である。  名人というべき鏝師のうち漆喰画を描くものは今いったように、伊豆の長八と駿府の多十だけしか私は名を暗記していなかったが、つい四、五日前『明治世相百話』[#1段階小さな文字](山本笑月著)[#小さな文字終わり]を読み返してみて、小手垣味文のことが出ていたのにぶつかり、ああそうそうと思い出した。  小手垣味文は村越滄洲という漆喰画の名人であった。東京のこの鏝師は、朝野の名士の似顔の額面数十枚をつくり、展覧会をしたことがあり、また、東両国にあった有名な中村楼の大広間の大天井は、この滄洲の作で、『明治世相百話』によると、滄洲はその大天井を、「杉板まがいに塗りあげて評判の細工人」とある。私はその大天井を見ている。杉の杢目《もくめ》をあざやかに出しただけでなく、到底あるべくもない幅と長さの杉板を、そっくりそのままのごとくに写し出したものであった。この鏝師が小手垣味文と名乗って、そのころの軟文学の仲間入りをしていたのは、明治初期から中期にかけての一流の戯作者で、また、新聞記者であった仮名垣魯文の門人であったからである。ちなみに小手垣味文とは“鏝書きウマイ(味)もん”という洒落である。  こう鏝師のことを並べてみると、多分、それぞれうまいと拙いの差はあったろうが、漆喰細工の妙技が、日本のどこへ行っても見られたものであったにちがいない。その一例が前にもいった三州田原の木戸屋の二階戸袋の恵比寿・大黒である。がしかし、安孫子屋の二階戸袋の漆喰細工を何にしようかと『一本刀土俵入』を書くとき、私があれこれと思い浮かべた中に、松に鶴・麻の葉の影日向・紅梅白梅・竹に虎なぞがあった。これらは旅の所見だが、それらよりはと思いつき、日の出と立つ浪とを指定した。ところがその通りの家が、しかも取手の茶屋旅籠屋にあったのだから、偶合の奇は妙である。 [#6字下げ]四[#「四」は小見出し] 『一本刀土俵入』という題名は、六代目尾上菊五郎・五代目中村福助によって初めて上演されたころは、良くはいわれなかった。「芝居の外題《げだい》を付けることを知らないのが、脚本を書くのだから世も末だね」とやられたことすらあった。私にはその前に『股旅草鞋』だの『瞼の母』だの『雪の渡り鳥』だのという題名があり、その後には『旅の風来坊』だの『刺青奇偶』だのというのがある。今では風来坊などは珍しくもないが、そのころでは題名として奇珍であったろうし、奇数偶数を反対に置いて、丁半と読ませたのなどはひどい破格であったろう。幸いにしてどれもこれも今日まで、どうやら通用しているようである。  この戯曲が映画になった最初は無声映画のころで、片岡知恵蔵君の主演・稲垣浩君演出で、今これは見ても、科学的に未発達の点を除けば、アトは素晴しい作品だと信じている。さてそれから長谷川一夫[#1段階小さな文字](林長二郎のころ)[#小さな文字終わり]・藤井貢・再び知恵蔵の諸君が主演し、今度の加東大介君のを加えて五本となる。ところで、あなたの物ではこれが一番多く映画化されたろうと聞く人があったが、一番多いのは『沓掛時次郎』でたしか七本、その次が『瞼の母』の五本、『関の弥太ッぺ』も五本、『雪の渡り鳥』[#1段階小さな文字](鯉名の銀平)[#小さな文字終わり]これも五本である。多いからよろしいとはもちろんならないが、少いよりもいいことだけは確かである。  今度の『一本刀土俵入』の映画は、初めの話ではダイヤモンド何とかという、短い物にするということであったが、出来あがったのは一時間半だかのシンを取らせれば取れる物になっていた、ということは、加東大介君などにとって、さだめしいいことであったのだろう。  それはとにかく、この映画劇の主人公が加東君に決まったとき、加東君が喜んだのはいうまでもないが、それよりもっと喜んだのは加東君のおっかさんであったそうな。  私がこの二月末から三月へかけて、聖路加病院にはいっているとき、加東君が来てくれた。その翌日だかに、看護婦さんの一人がそっと教えてくれた。「あなたがここに入院していることが病院中に知れわたりました。昨日、牛ちゃんがお見舞いにみえたでしょう、それだからです」と。牛ちゃんは『大番』の主人公で、加東君の大きく当った当り役であることはいうまでもない。  ところが加東君におっかさんは詫びたという。「あたしはお前を、そんな[#「そんな」に傍点]男前に生んで、すまなかった。堪忍おし」と。加東君の兄の沢村国太郎君は、舞台に出ているころは娘役がちゃんと出来た役者である。姉の沢村貞子君はご存じの通りの年増っ振りだし、おとっさんは商家の若旦那から芝居道の人となった美男であった。  このおっかさんが加東君から、『一本刀』の茂兵衞が本極まりになったと聞かされた途端、喜び極まってほろほろほろ涙をこぼした。おっかさんは「堪忍おし」を、最早いうには及ばなくなったことだろう。 [#6字下げ]五[#「五」は小見出し]  帝劇が芝居専門で、国立劇場の代用をしている観があって、きわめて華やかであったころの山本久三郎専務は、芝居にも尽したが、西欧芸術の音楽舞踊の招致とか、中国劇[#1段階小さな文字](若いときの梅蘭芳その他)[#小さな文字終わり]の紹介とか、大いに尽したものだが、今は湘南の方で閑寂生活を楽しんでいるらしい。この人から、劇場の廊下で上州勢多郡駒形町に、駒形茂兵衛の墓が思いもかけず発見されたと聞いたのは、昭和十六年六月上旬であったから、六世菊五郎・五世福助によって『一本刀土俵入』が東京で初演されてから、もう二十日ばかりで満十年というときであった。  このことは今まで話もし書きもしたが、今いったような年と月とのことなど忘れていた。ところがこのほど、とっくに棄てたと思っていた古い雑用紙が出てきたので、あれやこれやを合せて、あらためてここに書いてみることにした。 『一本刀土俵入』の序幕安孫子屋で、お蔦が「国はどこさ」と尋ねると、取り的の茂兵衛が答えるセリフは「上州だ。勢多郡の駒形というところだ。前橋から二里ばかりのところさ」である。その駒形の旧家で、山本久三郎翁の祖父にあたる人が、買いとった地所があった。その地所の中に、笹藪の茂るところを、どういうわけか、山本家の物になる以前から、鋤も鍬も入れないままになっていた。おそらく天明の昔[#1段階小さな文字](徳川将軍でいうと十代家治か十一代家斉のころ)[#小さな文字終わり]から、そうなっていたのではないかと空想される。というのが、これは“隠し墓”であったからである。磔《はりつけ》とか獄門とかの死刑に処されたものの死体などを、ひそかに盗んで来て、人目につかない処に葬って、墓を建ててこっそり回向をする、これを隠し墓というのである。  山本久三郎翁の伯父が、昭和大戦のとき、寸尺の地も遊ばしておくべきでないとして、今いった竹藪も切りひらいたところ、そこに苔むした墓があった。その後になって苔を洗ってよくみると、「大勢の罪をわが身にひき受けて、けふ[#1段階小さな文字](きょう)[#小さな文字終わり]行く、先は弥陀の極楽」と辞世の歌が刻みつけてある。天明年間に死刑になった駒形茂兵衞の墓であった。  今は元のところから、広瀬川の近くに移し、そこに慈現堂という地蔵堂が建立され、毎月十五日を縁日として、まつりを続けて三年ばかりになるとか。地蔵といってもここのは型破りで、茂兵衛が締込み一つの真ッ裸で、一本刀を杖ついている立ち姿である。恐らくこの型のものは他にないのではなかろうか。  この辺では八木節に『駒形茂兵衛』というのがあった。土地ッ子は好んでこれをやっているそうである。茂兵衛の方は八木節にうたわれているが、美声で節回しのいい人が出れば、相当永く、うたい伝えられないものでもない。お蔦の方もまた、越中八尾では、小原節にうたわれているそうである。 [#6字下げ]六[#「六」は小見出し]  お蔦の出生の地を越中の八尾としたのは、私が年少のころ、記憶にきざみつけた“おたか”さんという人に関係があるように、今では思い出される。  八尾には小原節保存の強力な会が今あって、その中心になっているのは、川崎順二医学博士である。そこでは毎年九月一日を“風の盆”といって、町を中心に、そのあたり一帯が小原節の唄と音曲と踊りで一杯になる。私も一度、行ったことがある。このあたりには小原節の歌詞作者がなかなかいて、年に一度の募集のときは、五百内外の歌詞が集るようである。  さて前にいった“おたか”さんは遊女であった。昔、品川が、東海道の親宿《おやじゅく》らしいところを、まだまだ残していたころだから、芝居でやる『め組の喧嘩』の島崎楼がレッキとして存在し、幕末にいろいろの関係を、いうところの攘夷の浪士などと持つ土蔵相撲が、これまたレッキとしていた時分である。ことによると柳家金語楼君が品川にいて子供であったときかも知れない。私はその品川の北の陣屋横丁の魚角《うおかく》という台屋《だいや》の店で働き、出前を、遊女屋などへ持っていったとき、沢岡のおたかさんの口ずさむ唄声を耳にしたことたびたびであった。どうもそれが、越中八尾の小原節であったのではなかろうかしら。というのは、小原節が今のように世に広く知られず、小原万竜のような、そのころの民謡歌手が、興行して回る以前に、私は耳だけでは小原節を知っていたのである。  陣屋横丁から宿《じゅく》の通りへ出ると突き当りのところにあったのが、沢岡という遊女屋であった。遊女屋といえば、私が最初に品川で居候をしたのは妓夫といって、遊女屋の店の男と、おばさんともやりて[#「やりて」に傍点]ともいう女とが、夫婦になっている家であったので、遊女屋のことを私は知っていた。妓夫に本番とスケ番とがあり、妓夫の上には親分があり、妓夫の下には仲ドンというのがあることや、居残りだ、付け馬だ、そんなことも知っていた。  そのころ知っていた裏長屋の少年少女のことを、後に聞いたのはきわめて少く、名は忘れたが女の子の一人が、法華経学者の夫を助けて、その地方で人々の賛仰をうけていたということと、男の子で一人、事業家として東北の方で名声があると聞いたことと、それだけである。ただし、そういった少年少女の中から、あやまった方向へいったものが、どの程度にあったものか、私は聞いていない。  それは別のことにして、私は沢岡のおたかさんに意見された。こんな処にいて大きくなっては生涯をあやまる、といったようなこともあったろうが、それよりも記憶に残っているのは、母に対するこの女の人の思慕の情が私には効いた。そのころ半無頼になっていた私でも、これには眼の中を熱くした。 [#6字下げ]七[#「七」は小見出し]  おたかさんから私が受けた意見は、こういわれた、ああいわれたというような、まとまった言葉ではなかったが、次のような安孫子屋の場のセリフのところはあった。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  茂兵衞 わしは、故郷《くに》のおッかさんのお墓の前で横綱の土俵入りをして見せたいんだ。そうしたら、もう、わしはいいんだ。  お蔦 取り的さん、お前もおッかさんが恋しいのだねえ。夢をよく見るだろうねえ。  茂兵衛 当り前だ。姐さんのおッかさんも死んでしまったのか。  お蔦 あたしのお袋は生きているのさ。  茂兵衛 そんならわしより少し増しだ。  お蔦 なあに――生きていたとて、どうで、満足には暮しちゃいないにきまっていらあ。  茂兵衛 どうしているか知らないのか。  お蔦 遠いのだよ。国が。だからわかりゃしない。  茂兵衛 どこだ。  お蔦 信濃の善光寺さまよりもっと先さ。越中富山から南へ六里、山の中さ。 [#ここで字下げ終わり]  このうち「越中富山から南へ六里、山の中さ」とあるのは『一本刀土俵入』を書くときお蔦の出生の地を越中八尾にきめてあったので、当然のように「南へ六里、山の中さ」と出てきたのだろうと思う。だろうだの、思うだのと、自分が書いたくせにといわれるかも知れないが、書いたのは自分だが、果して自分だけで書けたものか、我ながら合点しかねることがある。つまり自分にないモノが出たのを、後になって気がつくということである。  私が座談や芝居の筋書本などに、安孫子屋のところの、茂兵衛とお蔦のセリフのやり取りは、年少のころの私と沢岡のおたかさんとのやりとりがモトだといったのは、今いったセリフのところが芯であるということなのである。  茂兵衛は大詰で、遠ざかり行くお蔦たちを見送って、「ああ、お蔦さん。棒切れを振り回してする茂兵衛のこれが、十年前に櫛、カンザシ、巾着ぐるみ意見をもらった姐さんに、せめて、見てもらう駒形の、しがねえ姿の横綱の、土俵入りでござんす」というが、私はおたかさんの消息をまるで知らないから、茂兵衛はお蔦に再会して「おひさし振りでござんした、その節はお助けをいただき、有難うござんした」といっているが、私はおたかさんに口先だけの礼すらいっていない。多分、前に抜萃したお蔦のセリフにあるように「遠いのだよ、国が。だからわかりゃしない」のではないだろうか。  私は新聞記者になって、東京へ定住してから、沢岡のある本宿《ほんじゅく》と、陣屋横丁とをなるべくさけて、通らなかった。歳月はかなりたっているが、あいつ、妓夫の家の居候で、台屋の出前持ちだと、いうやつが出て来そうな気がして厭であったのだ。  私だとて三十そこそこのときは、過去の垢をだれにでもいうなぞとはとんでもねえ、であった。それだからでもないが、勤めていた新聞社に、私は履歴書をわたしてなかった。  しかし、四十六歳のころ『一本刀土俵入』が初演されてからである。おたかさんを捜しはじめたのは。 [#6字下げ]八[#「八」は小見出し]  おたかさんはついにわからなかった。意思みたいなものでは、とっくの昔から捜してなどいない。がしかし、感情は、どうかすると今でも、目の大きい、色の白い、細面の中年増の女の顔が、どこかそこらにいるように思い出される。そして自分の年齢に気がついて、苦っぽろくひとり笑うのである。私アもう七十三歳なのだ。四十七年を経て後に母と再会したのが二十四年の昔、その母を見送ってからでも十一年になる。おたかさんは、もう生きていないだろう。いや、私の記憶がちがうのかな。おたかさんという名は、だれかの名を取りちがえていたのかな――。  今年の一月、二十六日会の月例研究会があった日に、埼玉県与野町下落合の藤田国之助君という人の手紙が届いた。肩書きに、わかりいいためだろう、二代目魚角としてあった、魚角は、前にもいった通り、品川陣屋横丁にあった台屋である。  私は魚角のある陣屋横丁へ、女房をつれて行ってみたことがある。多分それは昭和十一年の晩秋の午後であったと思う。そのころの私は新聞記者から作家生活にかわって十一カ年、小説家としても何とか形がつき、劇作家としてもどうやら居る場所が決まったようであった――この年は私の戯曲と小説の映画化が十三本あり、大劇場の上演は東京が十本[#1段階小さな文字](浅草その他では二十一本)[#小さな文字終わり]大阪十本、名古屋十四本、神戸十本、京都三本と、こんなありさまであったので、形がついたとか、いる場所が決まったとか、家のものだけには、まれにいうようになっていた――幸いにもそのころは、だれが何と私の昔をいったところで、平気でいられるところまで、どうやらなっていたので、陣屋横丁へ行ってみたのであった。が魚覚というのはあったが、私のいう魚角はない。  また、そこには浮洲《うきしま》という商船の船長だかの家があったのだが、それもなく、四方をどう見回しても私の知っている昔は、跡形なしに変わりはてていたので、それ一度限りで、私は陣屋横丁は夢に見た昔のものとしてしまった。それから二十年余りして、今いったように二代目魚角の来書である。手紙をひらいてみると、二代目魚角に代って娘さんが書いたもので、まことにわかりよく記述してあった。大体は私の『自伝随筆』[#1段階小さな文字](元版のものは『ある市井の徒』という)[#小さな文字終わり]を読んで、品川の魚角のことが出ているので、大変驚いたというところからはじまり、魚角は藤田角太郎といい、昭和六年に他界し、父の藤田国之助は九歳で魚角の養子となり、十四歳から二十一歳まで牛込の同業で修行し、明治四十三年に魚角を継ぎ、後に魚角をウオカドと読むものがあったので、魚覚に改めた。品川を去ったのは昭和十四年で、与野の会社の食堂を経営するためであった。今は隠居生活にはいっている。長男の藤田幹は建築設計をやり、二男の藤田慶之助は日産化学工業に勤めているというのである。  その翌月、私の『百太郎騒ぎ』を新国劇が明治座でやったので、それを藤田君親子に見てもらい、昔の話をしたところ、私と二代目魚角とはスレちがいで、会ったことはないのだが、知っていることはほとんど共通であった。 [#6字下げ]九[#「九」は小見出し]  話はちがうが近刊の本のなかで、ズバ抜けた題名はというと、『あばらかべっそん』のごときは又とあるまい。桂文楽さんの自伝本で、いい加減な中間小説では足もとにも及べないようないい話もあり、明治、大正の世相を背景にした庶民史的なものも多くある。アバラカベッソンとは何のことかわかりかねる。この本を編集した正岡容君は、「文楽用語にベケンやとかアバラカベッソンとか、ときどきオランダ語みたいな、ワケの分らないコトバあり、けだし、ご婦人にもてたりして、ありがたくてありがたくて、というような表現なり」と跋に書いている。  この文楽自伝に出ている女物語の一つを取次ぐと――麻布十番の色物の寄席|福槌《ふくづち》で、中入りのとき、隣りの寿司やから手伝いの娘が寿司を売りに来る。その娘と、桂小南の弟子になって小莚といって前座だった文楽さんとが、双方その気はあっても、アバラカベッソンまでに立ちいたらない。その後、この若い両人は会いは会ったが、やっぱりアバラカベッソンまで行かないで別れ別れとなって、時がぐっと経ってからのこと、三遊亭円都の旅巡りに加わって、臨時に小円都といった文楽さんが、越前福井のお濠っぷちで、その娘と図らずもめぐり会った。文楽自伝はここのところで「暫く私は目を疑い、相手の女も夢ではないかというような顔つきをして、ジイーッとこっちをみつめていましたが、昔に変らぬ美しい細おもてで、おしとやかに小柄で」といっている。この二人は初めてこの土地でアバラカベッソンにおよんだが、十日間の興行が過ぎて又も別れ別れとなり、何年かの後に、再び福井にいったときのことを「嫁にでもいってしまったのでしょうか、あえなくなった」といっている。そして若いときの文楽さんは、お濠っぷちを通るたびに「そのころを思い出し寂しがって」といっている。この話のキリ場は右のごとくだが、もう一つのキリ場がある話の方も取次いでみる。  芝琴平町辺にいた九州の鉱山師のおメカ[#1段階小さな文字](二号)[#小さな文字終わり]で、美女で、贅沢の限りを超えたくらし[#「くらし」に傍点]をしていたのに、文楽さんがヒイキにされた。馬之助といった時分のことである。がさて、面白いお話が幾つもあったものの、結局は、アバラカベッソンに及ばずして、この女は背中を向けてすらっと行ってしまって、前半の終りとなった。「さてそれから何十年という月日が流れて、大戦争の、あの空襲の真ッ最中」人形町で今も盛んな末広が、そのときはさすがに入りが思わしくない。中でも入りの悪かった晩に、今いった美人が母親と二人で桟敷へきた。と気がついた文楽さんが喫煙室へ案内して、昔の礼を述べたが、「私も年をとったろうが、何よりもその美人の老けたの何のって」「美しい女のひとほど、却って余計老けるものでしょうか。それにしてもあの母子、めでたく無事に空襲を切抜けたでしょうか、それっきりでその後の様子は全くわかりません」と、感慨深げに結びを付けている。  私はこの話のキリ場のところまで読んで来て、この話とは別なことを思い出していた。お蔦のモデルの女人のことは、知っている人がない、二代目魚角すら知らない、それでいいのだ、夢として私におたかさんが残っている方が、おたかさんにも私にもいいのである。 [#6字下げ]十[#「十」は小見出し]  三州田原の茶屋旅籠木戸屋の二階戸袋に、恵比寿・大黒の漆喰画があったのが『一本刀土俵入』安孫子屋の舞台装置のモトだと前にいったが、その序幕のところで、「取手の宿場街の裏通りにある茶屋旅籠で安孫子屋、その店頭は今は閑散な潮時はずれである。秋の日の午後のこと」と、私は本に書いた。ところが初演のとき、舞台装置を引きうけた小村雪岱がスケッチ帳をもって取手へ参考資料の採集にいって、本に書いてある裏通りへはいってみると、漆喰画を戸袋に付けた茶屋旅館が一軒あった。これが次に引く、作者の私が設定した舞台面にそっくりのものであった。ここでは不用のところはカットして次に収録する。 「安孫子屋は棟の低い二階建で、前と横とが丁字型になっている。角店《かどみせ》のこの家は、とっつきが広い土間、その他は外からあまり見えない。階下と二階の戸袋は化粧塗りの漆喰細工で、階下は家号を浮きあがらせた黒地に白、二階は色漆喰の細工物で波に日の出」。舞台なり映画なりで見たことがあったならば、右の設定を読むとかなり濃くもう一ぺん安孫子屋前の装置を思い出して貰えるのではなかろうか。  雪岱という画家の業績は、『小村雪岱画集』というものに大体のところ収まっているが、素晴しいワザの人で、この安孫子屋を例にとると、二階の漆喰細工を私は「波に日の出」としただけだったが、雪岱は波に鶴をもう一つ配した。このために、ここの舞台面がどのくらい良くなったか知れない。私はまた、「安孫子屋の土間の角柱の処に菊の鉢を一つ置いてある」と書いておいたが、これを雪岱は、階下の戸袋の真ン前に、しかも大菊の数茎が咲きほこった鉢物を置いて、赤とんぼが飛んでいそうな詩趣を出した。私がこれらを喜んで礼をいうと、雪岱はあべこべに、あなたは舞台装置の根拠と示唆をしているから、こっちの方が有難い。けれど中には、といいかけて話題を別にした。追いかけて今の話のアトを聞くと、笑いながら批評を下した。たれそれさんは階下が三坪で二階が十坪といったような装置指定でやる。なにがしさんのは、書いてあることがわからないので、伺いにゆくとご本人にもわからない。結局何分よろしくどうぞといわれておしまいになる……と。そのとき、この類《たぐい》の批評をだいぶ聞いたのが、私の心すべきことに役立った。  それに関して思い出した話だが、六代目菊五郎が歌舞伎座の楽屋で、次の演舞場興行の新作物のけい古にかかったとき、その新作の劇作者が来るとすぐ、「あすこは本にコレコレとあるが、そうは体はハコべないが、どうやりゃいいでしょうね先生」とやると、その劇作者は「そこはよろしく」と行ってしまった。アト見送って傍にいた見学者の私に向って六代目がいった。「あれになっちゃあダメだよ。何を聞いても、よろしくだ、あれをよろしく先生ッてンだ」 [#6字下げ]十一[#「十一」は小見出し]  これもまた話は違うが――。  私は昭和元年の下半期をふり出しに作家生活にはいり、それから何年してからであったか、三州田原へゆき、今までにたびたび名が出ている木戸屋に泊った。二十何年目かだったためか、木戸屋の表がかりは元とたいして変らないが、内へはいってみると、昔に戻すべくもなく変っていた。ことにちょっとした騒動があった裏の二ツ座敷の離れ一棟は、立ち腐れになっていた。そこは私がながらく寝起きしたところだけに、感傷が心の隅ッこにわいて来た。それに私は小万といった内芸者であったひとに、傷の手当を教わったことがあるので、歳月は永くたったが、私もどうやら一人前の者になったのだから、礼の一ト言もいおうとて来た旅であった。  そんなことがあるので、私は加東大介・越路吹雪主演の映画『一本刀土俵入』のなかに旅の博徒に成り果てた駒形茂兵衛が、安孫子屋が立ち腐れになっているのを見て、思わず内へはいって、心を打つ感慨とは別に手がいつとなく柱に鉄砲をカマせてる。あすこの茂兵衛の感情が私にじつによくわかる。  小万という女のひとは、捜したがわからずにしまった。名は小万でもちがっていて、私どものだれをも知らないひとには会った。この小万も前にいったおたかさんも、再会しなければこそ、私には美しい夢となって生きていると、今はいえるだろう。  犬養毅[#1段階小さな文字](木堂)[#小さな文字終わり]が二十九歳のときの明治十六年、秋田の日刊紙秋田日報に主筆となって赴いたとき、角帯着流しで土地の名ある人の邸内に寄宿し、連日の社説は土地ッ子の信太敬助・志賀泰吉に口授し筆記させたが、やがて犬養が下米町二丁目鶴屋の名妓お銕を愛し、寓所にとどめること昼夜、その極彩色的な濃艶さに、若き記者信太・志賀ともに辟易し、ついに逃げ回って寄りつかないので筆受のおハチが安藤和風に回った――和風は秋田|魁《さきがけ》新報の有名人で著書は『秋田五十年史』その他、少《すくな》くない。今は世に亡い――和風も怖れをなして尻込みし、犬養に叱られたという。  犬養は数カ月で、秋田を去って東京に帰りついに大を為したことはいうまでもない。その犬養が進歩党の領袖のとき、あれ以来はじめての秋田入りをして、旧情を思い起して、人にひそかにきいたが、お銕の消息を知るものがない。そこで次のような一篇の詩作をした。 [#6字下げ]阿銕詩 [#ここから2字下げ] 憶昔曼陀羅坊中之選  阿銕才色名最顕 満城少年競豪奢    不愛千金買一眄 吾曾一見如旧知    為吾慇懃慰客思 猶記旭川春雨夜    又記池亭別離時 雲山重畳路幾千    幻華在目十四年 如今相逢問且答    不禁為汝湿青衿 [#ここで字下げ終わり]  これを次にざッと意訳する。昔、曼陀羅小路[#1段階小さな文字](花柳界)[#小さな文字終わり]の名妓お銕のために、人々は千金を惜しまなかった[#1段階小さな文字](不愛)[#小さな文字終わり]、吾は初めて会ったとき、すでに旧知のごとく、旅愁をよく慰められた。だから旭川[#1段階小さな文字](秋田市の川)[#小さな文字終わり]の春雨の夜を忘れかね、また、土崎港の池鯉亭に別離の時を過したことも忘れ難い、あれから後は山河を隔て人生行路を異にし、目にあるは十四年前のことのみ、只今逢ったらば、問い且《まさ》に答えようものを、汝のため襟に涙するをとどめることが出来ない。  漢詩の方では哀愁が殊に美しく出ている。こはこれ、相逢うことなかりしためである。だがしかしその後日があった。 [#6字下げ]十二[#「十二」は小見出し]  前にいった犬養木堂の「阿銕ノ詩」のことは安藤和風の『老記者物語』から骨子をとった。和風のそれにはお銕とおなじ鶴屋の妓でお浪のえらかったこと、鶴屋と肩をならべて吉田屋と時田楼があったこと、等々があるが今ここではその方の話に用はない。  さてその後、大正二、三年のころ国民党の総理であった犬養毅が、東北遊説の途にのぼり、秋田市にはいったとき、同地の木堂崇拝の有志家が、今は大工さんの女房になっている往年の名妓お銕を探し出しておいて、木堂を散策につれ出し、偶然をよそおって行きあわせようと企画し、木堂をある日、南秋田郡寺内村の古四王《こしおう》社がある境内につれ出した。国幣小社の古四王社の四辺は風光明媚である。木堂は境内をゆくうちに、「阿銕ノ詩」に、「才色トモニ名最モ顕ワル」といった昔の名妓お銕がいるのに心づいた。木堂は顔面に血潮をのぼらせ、「おう」とかつての佳人に相対して佇んだ。お銕は「お変わりもなく」と目を伏せて挨拶した。木堂はやがて「からだを大切に」と別れを告げた。とこれは『日本経済公論』に平河洪象の名で書いている中の一つ、「幻華在目十四年」にある。  戦後日本の政界のために尽し先年、世を去った奇傑の人で、木堂の親友であった古島古一念[#1段階小さな文字](一雄)[#小さな文字終わり]の名は、大人である限りまだ忘れてはいまい。その古島古一念が秋田に行ったときのこと、今は昔々の話になった阿銕ノ詩を、秋田の人たちが愛吟しているのを知って、感歎のあまり、次のごとく即興の詩をつくった。「誤ッテ四方遊説ノ家[#1段階小さな文字](客)[#小さな文字終わり]トナリ、春風再ビ雄物川ヲ渡レバ、秋城[#1段階小さな文字](秋田旧城下の市)[#小さな文字終わり]ノ同志皆ナ年少ニシテ、猶オ記ス当年ノ阿銕ノ詩ヲ。[#1段階小さな文字](誤為四方遊説家 春風再渡雄物川 秋城同志皆年少 猶記当年阿銕詩)[#小さな文字終わり]」これも「幻華在目十四年」にある。  この類の哀恋後日物語を拾えば、いくらでも見つかるだろうが、それは止めにして、さて思うことは、秋田市と土崎の間にある、寺内の古四王社境内に、お銕をつれ出し、木堂をつれ出し、行きあわせた面々の、人情の機微を知らないのは呆れるに値する。木堂の秋田情話は明治十六年、それから越えて大正二年又は三年といえば、三十二年の経過がはさまっている、当時のお銕が二十二歳だったら、五十歳を越えてすでに数年ではないか、昔の情人に行き会って、夢破らせる年にもうなっている。しかも亭主に打明けて許しを得て来させたとしても、心に立つ波が亭主に有りやなしやを、考えなどしなかったのだろう。しからばこれはこれ、とンだベラ棒である。夢は美しくあれ。夢を美しくあらしめよ。後口はだれのためにも良きがよろしい。  話を『一本刀土俵入』に戻すことにする。私がこれを書いたのは昭和六年五月の六日と七日の二日間である。といっても、書く前の考定に悩み苦しみ、書いて後の彫琢[#「王+(冢−冖)」、第3水準 1-88-5]に小便に立つことすら惜しんで――放尿すると、考えが去って戻らないことが多い――と、こういうのにウソはない。けれどもしかし、じつは楽しいのである。その二幕で七十三枚が、決定稿となった。それよりも、一カ月余り早く出た雑誌『おもかげ』に、次にある私の二十六字の歌が載っている。 [#ここから2字下げ] むかし銭と菓子をめぐみし女郎衆の顔の おぼえはわずかに紅の唇 [#ここで字下げ終わり]  申すまでもなくおたかさんをうたった歌である。あるいはこの歌が作られていたので私は、『一本刀土俵入』を書いたのであったかも知れない。 [#6字下げ]十三[#「十三」は小見出し]  芝居ばなしにして『一本刀土俵入』をやったのは、古今亭今輔君で、書割りや切出しは伊藤晴雨君が引受け、独演会のキリに出したのが最初で、客の好みで何度も寄席の高座にかけ、ラジオでもやったことがある。目下は桂三木助君が落語『一本刀土俵入』を、自分のモノにして時々やっている。これは落語中の人物が茂兵衛とお蔦の芝居を見物して、帰る途中で、サゲになるというもので、高座ではたびたびやり、ラジオやテレビでもやったことがある。  私は前の方で落語家に弟子入りにいって断られたといったが、断ったのは三遊亭円左といって、タヌキとアダナのある、うまい芸の人であった。一つことをくり返しくり返す意見の長口上に私は悩まされ、たいした時間をご意見の聴聞につかい、外へ出たときほッとするのと一しょに、今後は間違っても、落語家へ弟子入りにはゆくまいと思った。うまい芸の真打がかくも長ったらしく意見をするのでは、まずいのはどういうことになるのだと、人間がヒネクレているから、右のごとく考えたわけである。  浪曲の方では三門博君、広沢菊春君、春日井梅鶯君が、近ごろもやったし、前にはごく古い方で広沢虎造君、それから今にかけて、私の知らない人までがいろいろやっている。歌謡浪曲では堀井清水君がながらく諸方でやり続け、相当な売り物に今もしている。  講談でやったかどうか、私は忘れた。亡くなった神田伯竜がやったような気がするが、確かではない。伯竜では私の『刺青奇偶』が耳に残っている芸であった。瀬取り[#1段階小さな文字](水揚げ人足・沖仲仕のこと)[#小さな文字終わり]の半太郎が、凶状持ちを承知で付いてきたお仲と、南品川の浜川寄りに世帯をもつ、という引きごとに、品川の遊女と鯨とを結びつけ、大人にだけわかるエロ話をはさんだが、そんなところはアハハと笑えば消えてしまい、耳に残るってほどのことはない。が恐れ入ったのは、芝居でいえば大詰の六地蔵前で、半太郎が、賭場を荒して私刑をうけ、傷だらけの体で、鮫洲の政五郎という親分と、せっぱつまった丁半バクチをやるところで、伯竜は私のとちがって、親分に「きれ[#1段階小さな文字](先にいえ)[#小さな文字終わり]」といわせて、半太郎に「半だ」といわせ、そいつを聞いて政五郎にあっさり「丁だ」といわせている。私のここのところは政五郎が先に「丁だ」といい、半太郎が後から「半だ」といっている。これは明らかに伯竜の方が本当で、私の方が嘘である。これより後は『刺青奇偶』上演のときは、この伯竜型を用いている。つまりバクチのバの字も知らない私とちがい、伯竜はその心得が多分にあったものと見える。  古今亭今輔君が芝居ばなしの『一本刀土俵入』をやったことを、前にちらりといったが、あれは今輔君が修行のためにやったことで、表に出ていること、裏に隠れていること等を教わって歩いた中に、お蔦の夫の辰三郎がやるイカサマバクチのことがある。 [#6字下げ]十四[#「十四」は小見出し]  芸の肥料にそのとき、今輔君が聞き歩いて得たものの中に、こういうのがあった。  身分の低いものを相手に、親分が丁半バクチをする場合に、親分たるものは、相手に丁なり半なり好きな目を選んで張らせ、それから残された方の目を張る。なぜかというと、親分は角力でいえば横綱角力が受けて立つとおなじことで、地位のひくい者に先手をワザととらせるのである。それに又、俗に“九半十二丁”といって、二つの賽が組合わされて出てくる目は、丁が十二目で半が九目であるから、九つの目より十二目の方が勝利率がたかいと思われているので、親分たるものは、丁を避けて半と張るのが定式で、とこういうことである。  前にいった神田伯竜の『刺青奇偶』の丁半勝負のところの話と、この話とはぴったり一致している。伯竜といえば、この人の『一本刀土俵入』を聴いたおぼえがあるが、どこがドウという印象が今はない。服部伸君も一トころは『一本刀土俵入』をよく口演していたが、私は聴いていないように思う。この人のは茂兵衛が、江戸でも親方のところへ帰参が許されず、アテもなく歩くうちに、助けてくれたのが博徒でそのために身の上ががらりと変る、といったごとき筋が、たしか加わっているはずである。  講談といえばあるとき、山岡荘八君、村上元三君そのほか、舌におぼえのある者ない者が、上野の本牧亭で、本職が一、二枚加わる講談会へ出たことがあった。その日は大層な入りで、私もその超満員の隅っこに、といったところで、知っているもの知らぬ人、どちらからも親切にして貰い、隅っこは隅っこでもいい場所を占め、楽々と聴いていた。そのとき、どことやらから駈付けた一竜斎貞丈君が、講談をやらないで、挨拶をやったその中に、私のことが出て来た。私はあのことかと思っただけだが、お客さんには初耳で面白かったらしい。  貞丈君がいった要領をいうと、今夜ここへ来ておいでのお客の中に、あの時うまく縁がつながっていたら、今ごろは講談界の老大家として、新物の作をいくらも口演して、われわれを利益するところ大きかったのではないかと思う方がいる。それはあすこにおいでの長谷川伸先生で、先生は昔、講談で身を立てようと思い、ずうっと前の小金井芦洲が横浜の寄席に出ているとき弟子入りにいったが秋深く冬近しというのに、古浴衣と古単衣を重ね着している姿なので、この人ぐらいウマイ講釈師でもこの有様か、それでは修行の半途で干物になって死ぬかも知れないと、志を翻えし、物もいわず引下がった。もしこのとき縁が講談界に結ばれていたら、先生の『一本刀土俵入』そのほかいろいろの作が講談として創作発表されただろう。とまあいったようなことであった。  この話を貞丈君が、古今亭志ん生君にすると、それあ小金井芦洲が横浜の若竹町にあった釈場の若松亭に出ているときのことにちがいないといったという。 [#6字下げ]十五[#「十五」は小見出し]  文楽さんの『あばらかべっそん』にも、ここでいっている秋元格之助の小金井芦洲が、ズバ抜けて芸もいいが、行《おこな》いもまたズバ抜け過ぎていたことを語っているが、私はそういうズバ抜けた行いの方は知らないで、弟子入りに行ったのは、横浜にあった講釈場であるのは憶えているが、何という亭号であったかを忘れた。ところが、私とは面識が今でもない古今亭志ん生君が、若松亭だといったのを、又聞きに聞いて、ちがいないそうだったと思い出した。しかし、志ん生君が知っているわけがないので、妙なことだと思っていたら、成程、あの人には連想と推定とで、若松亭でのことだといい当てるだけの筋合があったのである。  これから先の話は、私のことは陰になる。そして貞丈君そのほかから聞いたことを、一つに束ねたものである。  横浜の関外《かんがい》にあった若松亭の興行をすますと芦洲になる前で何といったかウロ憶えだが、本名は秋元格之助が――これから先は芦洲ということで話すが――東京に帰らないで名古屋へ飛ンでしまった。さだめし東京には借金とりそのほかが、帰って来たら来たらと待機している。そいつに肩すかしをくれたわけなのだろうが、この先生、講談はウマいが銭がこのときもロクにないので、名古屋の駅前の角の宿屋に泊った。そのころの名古屋は落語の寄席があって、耳の肥えた客がなかなか多かった。講談とても同様である。だがこのとき芦洲は、名古屋もどうも面白くないと、大須の観音境内を思案しながらゆくと、うしろから飛んで来て、懐かしそうに声をかけたものがある。見ると東京の落語家で柳家甚語楼である。この甚語楼が、現在の古今亭志ん生君で、そのときは貧乏痩[#「やまいだれ+溲のつくり」、第 3水準 1-94-93]せをして、着ている物も粗略だが、顔はやつれてはいるが、酒好きの看板をかけたように、酒むくれがあったという。  甚語楼の芸の脈にいいものがあるのを、芦洲は知っていたそうで、そのためか、或いはズボラなところが気に入っていたのかも知れないが、はなはだ機嫌よく、立ち話をしているうちに、甚語楼が聞くから隠しもせず、大阪へ行くのだと芦洲がいうと、甚語楼が飛びつかぬばかりに、先生あっしも一しょに持ってくださいようと頼むと、芦洲は快く承知し、あすの朝の一番で立つから、時間に遅れねえようにやってきな、おれが泊っている宿屋はコレコレだと教え、ひとまず左右に袂を分った。さて翌朝、甚語楼は勢い込んで、駅前の宿屋へいったのが、一番の下り列車が出るまでに時間が十分《じゅうぶん》あるので、コレコレこういうお客さまに大阪へお供するものが来たと取次いでくれというと、そこの女中さんが、何の変哲もなくスラスラといった「そのお方でしたら、ゆうべ下りの終列車でお立ちになりました」  後々にいたって芦洲が、今度は前とちがいビクともせず東京へ帰って来てからのこと、こちらは甚語楼が、難行苦行をしてようやくのことで東京へ帰って来ていて、或る日、往来でこの両人が出っくわした。  そのころの甚語楼には、ちょいと荒気《あらき》なところがあったという。 [#6字下げ]十六[#「十六」は小見出し]  甚語楼[#1段階小さな文字](今の志ん生)[#小さな文字終わり]が「先生ひどいよ、あの朝、くらいうちに宿屋へ駈けつけたら、そのお方ならゆうべ行っちゃったてンですもの、ひどいよ」と怨みごとをいうと、芦洲がいった。「あのとき引受けたものの、お前を汽車で大阪へやると、おれが名古屋へ残らなけりゃならねえ、汽車賃が一人前しかねえンだものう、オイ、堪忍しな」そういわれてみると甚語楼だとて、このテを用いないこともないので、至極ごもっともに承った。ただしいまの志ん生君は大家だ、昔の甚語楼とはまるでちがうと聞いている。  話は小戻りになるが――甚語楼をスッポカして、名古屋から終列車で大阪へ着いた芦洲の所持金は、五銭の白銅貨一つである。梅田駅の外へ出るは出たが、仕方がないので出鱈目にぶらぶら歩いた。とスレちがった男が、「ウチの先生じゃありませんか」といった。芦洲がふり返ってみると、行方不明になっていた弟子の西尾麟慶[#1段階小さな文字](松村伝次郎)[#小さな文字終わり]である。この二人の大の男は、思いがけない邂逅《めぐりあい》に、人通りの多い街の中で、人目も糸瓜《へちま》もない、抱きあって喜んだ。  麟慶の父は神田伯治[#1段階小さな文字](松村伝吉)[#小さな文字終わり]で、今の宝井馬琴の師匠の馬琴[#1段階小さな文字](小金井三次郎)[#小さな文字終わり]とは気の合ったズボラ仲間であった。つまり父子二代の講釈師だ。その麟慶が一身上に何かがあって、アガリを持ってドロンした。アガリとはこの場合では、講釈専門の寄席の楽屋入りの金のことである。真打以下の収入はそれから出る。そいつを麟慶がもってどこかへ消えた。そのとき、師匠の芦洲が、「伝公め、やりあがったな」といったのが、怒ったらしいところさらになく、野郎うまくやりあがったという調子であったという。 「あの節はどうも済みません」と麟慶が詫びをいうと、芦洲は「あんなことはお互いさまだ、それよりは一杯飲ませてくれ」というので「先生いくら持っています」と弟子が聞くと、先生の方は五銭の白銅貨を一つ出して見せ「これでみんなだ、伝次郎お前はいくら持っているのだ」と聞くと、弟子が「何分にも出先のことだから蟇口はもっていないし、ここらでは顔の利くところはなし、ミルク珈琲店でも五銭ではねえ、おれが行って来いするまでツナギ切れねえし」といううちに、思いついたのが銭湯である「先生、お湯にへえっていてください、金の都合をして来ます」芦洲を銭湯へ置去りにして飛び出して行った。  ところが三十分たっても一時間たっても、麟慶が引返してこない、芦洲は湯につかったり流し場へ出たり、何度となくやっているうちに一時間半になり、やがて二時間になろうというとき、昔の言葉でいう湯中《ゆあた》りで、ウムといって引っくり返った。ときに麟慶が苦心の固まりの金五円をもって、勢いよく引返して来た、という説と、もう一つの説では、麟慶が二時間余りして引返すと、芦洲が湯からあがって脱衣場で、ぐっすり眠っていたので、傍へ寄ってみると、酒の匂いがぷうんとしたと、なっている。 [#6字下げ]十七[#「十七」は小見出し]  芦洲は湯にはいったり出たりしていたが、麟慶がなかなか引返して来ないので、退屈まぎらしに、修羅場の一節を口のうちでやっていると、興がわいて来たので、声が次第に大きくなると、眼中に銭湯も裸もあったものではない。小桶の横ッ面かなんかをたたきながら、朗々とやる。それを聞いた風呂屋の者はじめ、近所隣りのものが、そっと来て、そっと聴いて、感心している。一席終って芦洲が湯槽のなかへはいっているうちに、風呂屋の亭主が酒を流し場へもち込んだ。その酒を喜んできゅっとやった芦洲が、またも修羅場を読んだ。かくてすきっ腹へ酒を入れ、湯でおカンをしたのだから、三度目の修羅場にかかる気はあったが、そうは行かない。酔いを発してぐっすり眠り込んだ。そこへ麟慶がやっと五円紙幣をもって引返して来た。これが一説の始終である。  昭和二十年の夏、軍隊慰問で満州へいっていた三遊亭円生君が、終戦のあとで、大連市街で、ある家の屋根裏に住みその日を送るのに困難していたとき「忘れちゃうとイケねえから」と聴く人とてない屋根裏で落語をやり、灯のない夜中の二時、三時までやっていること珍しくなかったという。これと芦洲のことでは成り立ちがちがうが、芸の人らしい起点は一つである。  それからの芦洲は、大阪の講談席へ出て、大入を続け、麟慶もしたがっていい日を送り続けた。かくて芦洲は東京へ大手を振って帰れるようになり、前いったように、往来で甚語楼に出くわしたと、こうなるのである。事のついでだし、講談の聴客がジリジリ多くなっている時なのでいうが、初代小金井芦洲は文久年間に歿したが、その遺言によって、若い門人で田辺南洲というのが二代目を嗣いで、小金井芦洲[#1段階小さな文字](小金井亀之助)[#小さな文字終わり]となった。この芦洲のことを私は、私どもがやっている研修会で、必要があると引例する。  というのは、講談の方では、伊賀の上野で荒木又右衛門に三十六番斬りをやらせている。史実はそうではないが、講談では、昔の人が巧みに作りあげたのが、一般的に根を深くおろしたその名残りで、今でも荒木又右衛門の三十六番斬りは人気がある。という説明は、映画劇の荒木は三十六番斬りを今もって踏襲していることだけでもわかる。  その三十六番斬りを上回って、荒木又右衛門伊賀の上野の五十八人斬りはいよいよ明晩といった、大看板を客席の前にオッ立て、銭湯、理髪店などには下げビラをはらせてもらった。もちろんその日は超満員であったそうだが、五十八人斬りをどんなように聴かせたか、そこのところは伝わっていないそうである。  この二代目は、私が東京に定住する前の明治四十二年の夏世を去り、その後になって三代目が出来た。それがここで語った芦洲である。私はこの人が麻布十番の一之亭で『塩原多助』を読んでいるとき、何の気なしに聴きにはいり、だんだん聴いているうちに、ああこの人だと、昔、弟子入りに行って黙って引下がったときのことを思い出した。そのときの私はまだ小説も戯曲も書いていなかった。 底本:歌舞伎座 筋書(昭和28年12月)および以下のブログ記事 ブログ「木挽町日録 (歌舞伎座の筋書より)」より ・「長谷川伸「刺青奇偶」の命名について」 https://ameblo.jp/holly-kabuki/entry-12301148644.html ・「三宅周太郎の語る「刺青奇偶の初演」」 https://ameblo.jp/holly-kabuki/entry-12300063865.html ※長谷川伸の「「刺青奇偶」の夢」は旧字旧仮名遣ですが、ここでは新字旧仮名遣で入力しています。 付録「一本刀土俵入」:「長谷川伸全集 第十二巻」朝日新聞社    1972年(昭和47)年5月15日発行 入力:上記ブログ著者および山崎正之