演出家と舞台 斎藤偕子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)的《あて》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二|玉《たま》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから3字下げ] ------------------------------------------------------- 蜷川幸雄の『盲導犬』[#「蜷川幸雄の『盲導犬』」は大見出し](桜社上演) [#3字下げ]世界は論理ではさらえない[#「世界は論理ではさらえない」は中見出し]  先号の千田是也について、世代をを異にするこの新劇大先輩にぶち当たり、いささか手を拱いて不様な紹介しか出来なかったように思う。その苦しさを乗り越えるためにも、いずれ『守銭奴』第二班による舞台が出来あがった時点で、機会があれば再びとりあげてみたいとは思う。  ところで演出家の仕事を辿るということは、やはりその演出家の世界に一度は没入しようとする姿勢である。とすると、ときにはまた別の苦しさを抱かずにはいられないことがある。それは、一気に、あまりにも異質な二種の創造活動に向きあっているうちに起こる、心中の違和感によるようだ。千田是也のことを考えながら蜷川幸雄の仕事の中に身を置く自分を、何か嫌らしく感じ、ある意味でこういう苦しい作業を続けることが可能かと、心許なく思ったりもしたのである。  というのも、科学的な態度と方法でこの世界にアプローチしようとした千田是也の志向とは、到達点はさておいても、過程において――ということは生きざまにおいて全く異なった姿勢が蜷川幸雄にはある。彼はかつて倉橋健などを中心とした青俳で、若い俳優としての新劇的教育を受け、徹底的な分析能力を叩きこまれることから出発したという。その彼が現在、こういう教育を疑い、全くたち切るように演出に専念しだした。だが演出家としても、蜷川幸雄の[#「蜷川幸雄の」に傍点]『盲導犬』という種の言われ方に、ある警戒心を抱くに違いない。演出家が評価されるのは間違っていると言うのだ。もちろん演出に独自性を認めないとか、ある種の自己主張が全くないという意味ではあるまい。むしろ、舞台の結果も含めたすべての創造作業の過程において、彼は論理というものが介入することを疑い、論理による作用をことごとく退けるという本意だろう。言い換えると、演劇経験としての芝居に論理が残るべきでなく、残るのは情念[#「情念」に傍点](現実状況に対する意志を含んだあるインサイトとみなしている)のみとする。彼にとって、世界は論理ではさらえないというのである。  それ故だろう、彼は自分が言葉プロパーの人間でないとして語りたがらず、意志的に解釈を拒み説明を与えないように見える。そこには論理的な分析の習癖を身につけてしまったという、彼の慎重すぎるほどの姿勢がある。それも、今日論理的に語るということで陥りがちな重層的意味の欠落に、身をもって裏切られたことがあるからに違いないのだ。  例えば民衆という言葉がある。千田是也がそういうとき、彼はまず働く人々の姿を考え、殊にこの科学時代をくみ込んで日常の中でシンプルに働く喜びを抱く人々の生活を見出そうとしていた。この明快なイメージの結び方に対して、世代的なずれも多少はあろうが、蜷川幸夫のイメージは論理を凌駕したところで結んだある種の陰影を宿して浮かびあがる。それはある群衆の体質的な猥雑[#「猥雑」に傍点]さ、ときには日常をくぐり抜けて異端の生き方に投じようと吹き出すエネルギーの総和としてわれわれに放たれるものだ。  少なくとも作家との出逢いにすべてを賭けているような彼が、これまで演出した唯二人の現代作家、清水邦夫と今回の唐十郎の作品に見ている共通点は、その一点にのみあると言ってよいのではなかろうか。彼自身の言葉によると、この二人の作品の共通性は、そこに描かれた精神的な運動の軌跡、すなわち瀬戸際でとんぼ返りするような屈折の仕方をする点にあるとし、両者共に時間の中をかいくぐって猥雑さを言葉化した作家である、その結果、ここに描かれた価値外に投じる群衆の加速度に引き込まれて、その一人になりたいという気持ちにかきたてられるというのである。  このような民衆像はさらに、彼がこれまで演出した唯一の古典劇、南北の『四谷怪談』にも共通して言えることだ。彼はこの作品がただ面白く無性に意欲にかられてとりあげたのが出発だが、稽古を重ねてゆくうちにやはり、ここで描かれている時代の制度の中から落ちてゆく人間たちの速度、その青春群像に興味があったことに気がついたと述懐している。彼にとって古典劇も現代劇もその意味で全く変わらぬ世界だろう。そして彼が作家と出逢うというまさにその点も、こういう群衆像のイメージを、なによりも彼自身が作品の言葉を通して結ぶということである。彼の演出はその視点から言葉の一句も揺るがしにしないまま、いわゆる情念[#「情念」に傍点]で世界をさらい肉体化しようとしてゆくのだ。 [#3字下げ]作家との出逢い[#「作家との出逢い」は中見出し]  こういう彼の仕事には、一種の状況に身をさらした臨床的な危機感が常につきまとっている。毎回の演出に彼は精神的にも体力的にも全力投球し、すべてを燃やしきってしまう、だから再演など考えられないと言っている。とくに今回の『盲導犬』では、そのような神経のはりつめ方が、あの唐十郎の芝居を妙に追いこんでしまったようにも思う。彼がどこまで意識していようが、これまで手がけてきた清水邦夫とはある意味で全く異質な唐十郎の世界と言葉が、やはり厳然として存在するのだ。その土俵に引き込まれて、あるいは従来の方法論に多少の修正を加えつつ格闘しているための緊張かもしれない。  唐十郎がなぜ蜷川幸雄のために作品を書いたのだろうか。蜷川幸雄のためと言ってはいけないのかもしれないが、少なくともこれまで早稲田小劇場に(それも一回きりで終わったが)書いたのみで、あとは作者演出する状況劇場以外で発表されたことはない。たまたま蜷川幸雄が青俳以後結成した〈現代人劇場〉が解散していた一昨年、彼が状況劇場の『二都物語』を観、感動して楽屋に話しに行ったそのとき、たいして面識もない彼に、唐は書くと約束してくれたという。特になぜ[#「なぜ」に傍点]かはわからないそうだが、彼が芝居の場を失って沈んでいたから同情してくれたのではないかという冗談じみた言葉に、あるいは唐十郎の思いの側の、一片の真実があるのかもしれない。  だが、唐十郎から原稿を受け取り、昼夜四日間で書きあげたというノートにびっしりつまった細かい文字をみたとき、彼は手が震えて出逢いとはこんな感じではないかと思ったというのである。わたしもそのコピーを見せてもらったが、細かく線の入った横書きのノートの上から下まで、小さなころころと丸い字がまるで生きもののように肩を寄せ合って並んでいる。それは夜中の薄暗い電燈の下でこつこつと、一種の職人的な緊張と丹念さをもって不器用に一字一字書き刻んでいるような姿をほうふつとさせる。この文字をみて作家の文字にこめるなにかに、のっけから引っぱたかれる思いがしたというのだ。  それ故蜷川幸雄は戯曲を非常に大切にする。書かれた一字一字が言葉で生きる人間の一発の決意で出てくると思うから弄《いじ》らない、アドリブは大嫌いだと言う。さらに作家との出逢いは、少なくとも生きた作家からはこれまでの二人以上にもう増えないだろうと考えているのだ。演出家としては産婆だと他人に言われたと言い、どちらかというと、色彩・明暗・構図・音楽・人物配置と動きのリズム感等、感覚に訴える面を重視する感覚派なのだと言うが、しかしそういう要素をすべて動員して作家の言葉による世界を舞台化することに賭けた演出家である。ある意味で勇敢な、ひとつのクラシシズムの態度であると言ってもよかろう。 [#3字下げ]言葉を乗り越えて肉体化する[#「言葉を乗り越えて肉体化する」は中見出し]  しかし、唐十郎の言葉のイメージを呼び起こす難しさは、蜷川幸雄が多層的だという清水邦夫の言葉をも比較的単層的にみせると思えるほどだ。作者自身に言わせると、元来テントを意識して書いているうちに醒めた言葉の世界になった。周囲の現実の風景があるとまた違うのだが、劇場で上演するには特に苦労するだろうと同情していたものだ。  この世界に挑んだ演出家は“感覚”的な部分の準備のためにも稽古以前の段階から長期にわたるスタッフの側の共同作業を開始している。例えば今回の飢えたファキイルを歌った主題歌や戯曲に指定された「カナダの夕陽」など、聞く者の情緒に訴えて芝居のイメージにぴったり合った音楽が多く使われている。「カナダの夕陽」のレコードなど何十種類の演奏を聞いた末に選んだものだ。また、装置、道具などに対する禁欲主義はないが、劇場の条件や経済的理由で省略を余儀なくされてきたという彼が、これまではそれを演劇の根源的な制約と受けとめてバネにしていたのだが、今回だけはテントとは違った省略の仕方があるのだと、やはり苦しそうであった。  だが結局、彼の努力の大部分は俳優との関係でこの言葉を乗り越えようとすることに投じられたようだ。彼の稽古は熾烈を極める。始めからいきなり立ち稽古に入り(これも分析を嫌う一例だろう)、一日に四、五時間以上では生理的限界を超えるというほどの緊張ぶりである。わたしが稽古を見せてもらった段階ではすでにほとんど出来あがっていたのだが、時々彼のすさまじい罵声がとんでいたものだ。それでも今回は、初めて表面的にも猥雑さの出ている芝居を手がけたので、これまでのように求心的に追いつめてゆけない、稽古場が凍りついて俳優が冒険出来なくなるから伸び伸びとさせようと心がけた、と演出家は言うのだ。  しかし唐十郎の言葉に表わされる一種の遊びの精神について、それが十分生かされたかという問題になると、ゆとりがないのだと彼は言っていたが、ゆとりというよりは資質的な禍いが表われてくるのではなかろうか。作者の手すさびにみえる言葉の脱線が、実は彼のあの抒情的なロマンの世界に非常に状況的な現実とのとっかかりを与えつつ、作品を幾重にもふくらましてゆき、しかもこれが醒めた効果をもって毒を放つ本質となっているのだ。ほんの一例だが、あの中で何度もくり返される良い人[#「良い人」に傍点]という言葉のイメージ、良い人など掃いて捨てるほどいると吐き捨てるように投げかけても、こめられた毒意はふくらまないだろう。  自認良い人が女を犯す夢、満員電車で投げつけたいという、星が燃えるバーナーと重なる情念、飢えつづけるファキイル(このイメージの下敷となった渋沢龍彦の『犬狼都市』では断食僧[#「断食僧」に傍点]という意が記されている)が盲の案内人と重なる優しさ、こういう言葉も直線的な烈しさで叩きつけてくるのだ。このことは彼があまり意識しなかったという『犬狼都市』のイメージや、盲の破里夫がジョン・シルバーのイメージをもっていることなどを、芝居の底流としてほとんど止揚していないということとも関係があるかもしれない。  とまれ彼は熾烈な情熱を秘めた誠実な演出家だ。素顔の彼はまた、非常に優しい静かな人でもある。それが彼の舞台を、状況劇場の場合とは全く違ってひたむきに直情的なものとし、かつその抒情性を優しさで満たすものとしたのであろう。その力が若い人々に訴えるところも大きいわけだ。  半月以上にわたる上演期間中、毎夜九時を過ぎると新宿文化劇場の周囲に長蛇の列が出来たという。今回は誌面も制限されており、また批評なども出揃ったあとなので、舞台については触れないことにする。ただ初日には開演も遅れ、終演は真夜中の0時になった。そこからは、わたしが徹夜の押し迫った舞台稽古に続いて観たせいもあろうが、演出家始め俳優たちのこの芝居に対する受け方の、どうしようもない重苦しさを感じたことも事実であった(ただこの中で、一部のト書きを客席の中の男が読むという件りを、作者自身が即興的にやったのだが、それが気分をほぐす力もあった。この個所はもう一度作者が観にきた折、自分で演出まで考えてきて演じ、遊びの精神を見せてくれたようだ)。  その後楽日の二、三日前、再び蜷川幸雄と逢い、口の重い彼に話してもらった。 [#3字下げ]近代俳優術を乗り越えた人間像[#「近代俳優術を乗り越えた人間像」は中見出し] [#ここから2字下げ] 先日蜷川さんの俳優への対し方について、稽古過程であるイメージを伝えるために自ら演じてみせることはないかと聞くと、連中の方がずっとうまく表現出来るからやってみせることはないと言っていましたね。俳優の表現術に対する信頼感を受け取ったのですが、一方ではこうも言ってる。例えばタダハルを演っている役者など、俳優術のテニオハから言うと何も基礎が出来ていないかもしれない、しかし心情が伝わればそれが第一だ、その意味で気に入っているから俳優術については何も言わないようにしているということです。しかし例えばこの俳優に限っても、首ふり人形というか、セリフに合わせて肩をふるわせる姿がまず目につく。観客はそれがおかしいために笑ってしまうのです。とすると、俳優の技術上の問題が芝居全体の伝えようとするある流れを逆に阻害してくるんじゃないかとは考えませんか。 [#ここで字下げ終わり]  あそこで泣く人もいるんです…… [#ここから2字下げ] 蜷川さん自身はスタニスラフスキー・システムなどいわゆる近代俳優術による俳優訓練をさんざん受けてきたということですが、そいういうことと現在一緒に芝居づくりをしている俳優の表現力に対する要求の仕方と、どう関係してくるのでしょうか。 [#ここで字下げ終わり]  青俳で俳優として出発した頃は(五〇〜六〇年代始め)、俳優に過度の論理を押しつける面が多かった。つまり分析魔というか、戯曲の超課題は何か、貫通行動は何かとか、場面によるピース分けはどうだという具合に分析することを叩き込まれてるんです。その結果細かいサブテキストを出すことは下手でないし、むしろ無意識にまずそれを考える癖がついている。分析能力と感性の能力はちがうんで、こんなことは俳優の価値に関係ない。しかし、これに対する生理的反撥が積っていたということもありましょうが、一番大きな問題として戯曲の状況が変わってきたことがある。近代劇を分析するような方法では分析しきれない戯曲が一挙に出てきたということがあるのですね。清水邦夫、唐十郎、佐藤信などの登場に象徴されることだけど、言葉プロパーでない人間が分析しようとしても、それに見合った言葉がないような戯曲の誕生があるのです。時間も空間もかいくぐって飛んでゆく世界ですね。この中で従来の新劇にない人間像を創りたいと思った。そして、では文学としての戯曲をどう肉体としての俳優が乗り越えてゆくべきかと考え始めたときに、方法論というか、近づき方が全く異なってきた。そして現在のようなスタイルが出てきたんです。 [#ここから2字下げ] その方法とか現在のスタイルといいますと? [#ここで字下げ終わり]  始めて演出しようとしたとき、清水邦夫が「行列の中で狂っていく人間を書きたいけど大丈夫かな」って言うんですよ。それまでアートシアター演劇はベケットなど登場人物の少ない芝居しかしていなかった。しかし舞台が狭いからこそ逆に人間をうんと出そう、そのなかで猥雑な言葉がとび交うのをやりたいと思いました。しかし俳優が清水の言語を乗り越えられるにはいまある力では弱いと思ったので、人数をさらに多くすることで観客のもつ猥雑感に耐えられるだろうと考えたのですね。そこで戯曲よりも多い四〇人の登場人物を出そうと集めたのが全くの素人、フーテンとか予備校生、デザイン学校の先生などです。当然演技の規範もなにもないわけですよ。しかしぼくのような分析癖のついた俳優では唐さんや清水の言葉には耐えられないだろう、こういう多層化したイメージを持っている言葉の、ある暴力性というか猥雑性には、ぼくのような俳優は必要ないと判断してたんです。それでとにかく初期の頃は、俳優座や民芸のような芝居をするなということでやった。その結果俳優はすぐ声をつぶしてしまうんですね。フーテンをやった蟹江敬三などいい例だったけど、それがいまは全く発声の仕方も変わって、いい声ではないけどはっきり聞きとれるように自分でコントロール出来るようになってきたわけですよ。そういうふうに新しい戯曲を俳優の側に乗っ取る、その意味で文学性を異質の肉体の広場にしてしまうということは、しかし新劇調の技術ではないのです。 [#3字下げ]現実に身をさらす俳優[#「現実に身をさらす俳優」は中見出し]  そんなことより、もっと現実の中で生き生きと生きられることのほうが大切で、現実の風が体の中を吹きあふれてるような俳優でなくては、戯曲の言葉に負けちゃうということですよ。だからぼくのところには、生活者としてノーマルな社会の場所にいようなどと思わない連中が集まってきたこともあるかもしれないけど。 [#ここから2字下げ] つまり、そういう人のほうが現実の状況に対してより肌をさらして生きているということ、それから入れということなのですね。 [#ここで字下げ終わり]  つまり、自分の内部に背負ったものに対して本当に下降しているならば、日々生きるということでさまざまの矛盾と価値が集約して現れる場所に出るのではないか。そういうことが俳優を輝かすことがあるんじゃないかと思うのです。 [#ここから2字下げ] その輝きがないといい役者[#「いい役者」に傍点]と言えないということですね。しかし、やはり喉をつぶすといったことも乗り越えないと現実に舞台の上では困るわけでしょう。 [#ここで字下げ終わり]  たしかにがっくりくることだけど……でも『四谷怪談』を上演したとき最も象徴的に現れたことがあるのです。稽古の時間に今日はどうしてもデモに出なきゃならないと言う人間が出てきた。ある工場にビラまきに行ったとき、そこから投げ出されてきた労働者から「きみたちはいつも外から来て闘争を煽るだけだろう」と言われた、だから今日のデモはどうしても行きたい、パクられるかもしれないけど、と言うのです。それで考えてしまった。結局、かまわない、でもパクられないようにしろよ、それでぼくらの芸術面にマイナスがあろうとも、これも含めてぼくらの置かれた状況であると引き受けてしまおう、と言ったわけです。案の定、この主役を演る男がパクられてしまって、いろいろありましたよ。今回の場合も政治的なことではないけど、基本的にぼくらがやろうとしている困難さを背負おうとしている人間ならば、芸術的にある完成度があるよりはそちらをとる。だからといって、表現力のないのはやはりだめですよ。この両方で迷うのは確かだけど、基本的には現実へのこういう志向性があり表現力もある人間に出逢おうと必死でいる。俳優のほうも声が出ないことほど恥ずかしいことはない、その屈辱を生理的に自分で乗り越えようとするようですね。 [#ここから2字下げ] それは各個人の自覚と訓練にまかせているわけですか。 [#ここで字下げ終わり]  始めのころはそういうことも含めていろいろ言いましたけど、いまは始めから一緒の石橋蓮司や蟹江敬三なんか文句を言わせないくらい自分でやる。それが若い人にいい気でいられないと思わせることもあるでしょう。 [#ここから2字下げ] そういう俳優術にも真剣にとり組みながらも、やはり現実に生きる[#「生きる」に傍点]ことを優先させている人間ということですね。 [#ここで字下げ終わり]  そうでなきゃ、本来的に俳優の価値などないんじゃないですか。 [#ここから2字下げ] しかし俳優の自覚として、究極的には芸術を通して生きる訴えは最も力を持ちうるということでしょう。 [#ここで字下げ終わり]  だから悩むわけですね。やはり芝居をと切実に思いながら、どうしても政治闘争をしなきゃあとパクられるまで突っ込むところまで素人がいってしまった。それなりに、複雑な気持なんです。でもぼくらは政治団体でもなんでもないわけですよ。 [#3字下げ]民衆の二重構造[#「民衆の二重構造」は中見出し] [#ここから2字下げ] これも先日おっしゃっていたことですが、世界は論理ではさらえない、民衆は論理に裏切られつづけている、世界をさらうのは、そして芝居で伝えるのは情念でしかないと―― [#ここで字下げ終わり]  情念という言葉は流行ってるでしょう。なんというか、意志みたいなものが含まれていて、説明すると必ずはみ出すようで嫌いです。 [#ここから2字下げ] そういうものが、あの芝居でどのように流れていくんでしょう。この作品で最もひかれることは、コイン・ロッカーの前にたむろする主人公たちの死へつんのめってゆく、その加速度だということでしたが。芝居としてそれがどのように表現されたか、果たして加速度が伝わってくるかということですが。 [#ここで字下げ終わり]  芝居ののっけから出てきた主人公、新宿の猥雑の街から生まれ出てきた主人公たちの姿、それが一時間三二分後には全く違うところに行ってしまう。途中ではお互いに傷つけあってるのに、ラストではこの人たちを犬にするのは許さないと言い、ロッカーで爪をはいで死んでゆく、その速度というのは、民衆的な――この言葉も誤解されやすいけど、そういう存在を切り裂くスピードである程度表現出来てる気はする。観客が多いということとは無関係かもしれないけど、現実に大勢の客が集まってきて心ひかれてゆく部分は、どうもそこにあるように思いますね。 [#ここから2字下げ] 稽古での演出をみていますと、音楽や照明の微妙な点でダメを出したり、俳優に対しても物理的なこととして、声を大きくとか、セリフを強く、速くとか、動きの速度、運動量などといったことで次々と迫ってゆきますね。それが具体的にわれわれのなかに視聴覚的なものも含んだイメージを結ばせていくのです。その点では非常によく計算――感覚的な計算でしょうけど――出来てると感じられる。しかしそれに役者がついてゆききれたかということになると、特に初日は生理的に背負いきれなかったんじゃないかという気はします。稽古場での仕上げと劇場に入ってからのずれもあったようですが…… [#ここで字下げ終わり]  劇場もしょっちゅうのぞいたり、稽古場は仮りのものだと計算してるつもりでも、ずれるのですね。やはり劇場に入り観客が加わって、祭りみたいなものの猥雑さの中でしか成り立たない芝居が、芝居の成果ですね。 [#ここから2字下げ] 最後の場面で主人公たち、盲の破里夫とフーテンと銀杏が、町内会自警団の人々に袋叩きになったり、犬に噛み殺されたりしますね。具体的に観客にはそこがわかるでしょうか。 [#ここで字下げ終わり]  ……わからないかもしれない……しかし明確にわからなくてもいいと思う。 [#ここから2字下げ] あの場面で現実から異物視された一つの世界の終わりがあるわけですね。それをこの世から叩き出す町内会の人たちというのは、「カナダの夕陽」をリクエストして人生相談に共感の涙を流す同じ民衆と同様に、どうしようもなくわれわれ自身ですね。タダハルや盲導犬の先生のように同情的な人間でも叩く側に立ってしまう良い[#「良い」に傍点]人間の実体ですね。この現実《リアリティ》が、死につんのめってゆく場合でどう収斂され得たかです。 [#ここで字下げ終わり]  破里夫や女も含めて町内会にしろ、ぼくらが出てきた土壌だと思うわけです。唐さんの民衆像というのは意外に吉本隆明の民衆像、大衆像を組み込んでるみたいなものと似てると思う。単純な否定ではないし、必ずなにかあると行きすぎ、やりすぎる。そしてやるときは必ず何か実質を荷負わされてしまう存在であるという二重性、これを唐さんの描く民衆像はいつも持たされてると思うのです。そこが旧い左翼などの民主主義演劇と違うところで、それを踏まえた上でやはり徹底して対立させるべきですね。そして何度でも爪を突っ込んで「とりつづける爪が真の爪よ」という姿。それを唐さんの描いてくれたフィジカルな部分のリアリティとして受けとるのです。 [#ここから2字下げ] 主人公たちの生きざまに一方でひかれながら、やはり目前に向き合うと憎しみを抱いて敵対するんですね。そういう民衆に作者は冷たくもあり優しくもある。 [#ここで字下げ終わり]  ええ。それでデモなんかでも経験することは、あの渦中からちょっと裏道に入るとなんでもない。ラーメン屋は開き、ホームドラマはテレビに映り、せいぜい庭の花壇を踏まないでくれと叱られるわけですね。そのために闘っていると思ってる人間たちに叩かれるという構図です。吉本隆明も深く問いつめないといけないと言っている民衆の二重構造の問題なんですよ。その意味で恐ろしい作品ですね。そしてエピローグで天上の破里夫が焼き切らねばダッタンも何も超えられないというあの犬の胴輪にこめられた意味は、まだえんえんと続いている。しかし焼き切ってやろうという意志が、確かに困難なことだけど、何重にもからまる胴輪の意味をからめて重いものとしてのしかかってくる。 [#ここから2字下げ] それが先ほど世界をさらう情念は、意志を含んだものだということに通じるのですね。 [#ここで字下げ終わり] [#3字下げ]暗い海[#「暗い海」は中見出し]  同じ夜蜷川幸夫とインタビューしたあとで、再び舞台を見せてもらった、細かい点で手を加えたりダメ出しをしているという舞台は、基本的には変わりようもなかろうが、初日の印象を拭ってゆとりと落ち着きを持ち、透明なまでの世界として突き進んできた。最後に「ロッカーが開いて明るい海が見える」とト書きにある場面が、何故か暗い照明しか当たっていない。海の上に描かれた巨大な太陽が、初日には真赤に照らされていたのに、蒼白い輪郭を残して黒々と見え、まるで日蝕の海である。その直前にある「ここは暗い海だよ」というセリフを思い出した。  暗い海。これは照明の偶然のトチリだろうか。蜷川幸雄にとって現実は暗いに違いない。彼の視線は、この世界に対しても、彼自身の芝居に対しても、すぐ目前に行き止まりをみているような暗い危機感を伝えてくる。この舞台で彼は諸条件を考えてやめたのだが、最後の町内会の人たちで群衆が雲霞の如く押し寄せるようにしたかったという。やめた第一の理由としてかつては状況的にそのようなものを生む市民とか野次馬といった存在の問題が明確にあった、しかし現在は何ひとつないというのだ。この状況が暗い海なのだろうか。  ともあれこの秋には、彼は再び清水邦夫と芝居をする話を進めているそうだ。そしてもう一度大勢の群衆が登場する芝居をして、人々の状況を呼び戻したいと話し合っているという。彼らが状況を呼び戻し得るか、また唐十郎を一度くぐり抜けた蜷川幸雄が、再び清水邦夫の世界に戻るとき何を見出すだろうか。その時こそ自らの情念に裏切られないようにしなければなるまい。 [#地付き](演出家と舞台・2、「新劇」一九七三年八月号) [#改ページ] 唐十郎の『海の牙』[#「唐十郎の『海の牙』」は大見出し](状況劇場上演) [#3字下げ]舟の上の悪場所[#「舟の上の悪場所」は中見出し]  九月も下旬に入った東京湾の朝潮運河。朝潮橋の辺りは、どんより澱む岸辺に何艘かの石炭船が繋がれて、所在なげにゆらりゆらりとたゆとうている。船[#「船」に傍点]というよりは舟[#「舟」に傍点]と書くべきであろうか、小さな木舟は非道と悲惨の歴史を負う崩壊寸前の石炭産業を思わせ、古めかしく汚れてどす黒い。屋根や甲板などもちろんなく、自らを動かすモーターも舟具らしい舟具も見えない。舟べりに沿って狭い舟棚があるのみで、ただ深々とした舟底をむき出している。やがて沈む日を待つたたずまいは、なんともわびし気で、その過去の暗い労働の辛苦も、そこを横切った人々の喜怒哀楽の思いや出来事も、すべてを刻みつけたまま優しい風化の触手に委ねているようだ。  海に近い埠頭の街の空気は、いつ見ても殺風景な俗っぽさ故に、世界の隅々から寄せる人間的な営みの澱みのように思われる。そこではわれわれは少年のように夢を見、詩をつくり、怪しく騒ぐ胸のうちをかみしめつつ王者の如く悲劇の主人公の如く歩むのだ。  その思いが吹き出たような肉感的な徒花。状況劇場の赤テントが河面の低いぼろ舟に這いつくばるように姿を現わしたとき、息をのんでわたしはそう考えたのだった。色は曼珠沙華、橋の上から眺めると歪なヒトデか萎れたカトレアのように曲線を描きつつあちこちが突起している。その姿はとうてい“八角形のテント”などという定規に当てはまるまい。字義通り河原など存在しない東京都心の、河原者の根拠地たる所以を感じさせたのである。  絢爛豪華の影もなく、洒落たスマートさなどもちろん関係ない。破れ目を重ね合わせた暗い襞のよったような紅テントは、首をもがれて表通りから投げ捨てられた大輪の花のように、いかにもみすぼらしく誇り高い。だが、そのみすぼらしさがふと怪しく色めき、花[#「花」に傍点]の生命《いのち》、悪場所[#「悪場所」に傍点]のきわみを水上に映してくる瞬間があるのだ。  恐らく唐十郎がこのような場所を見いだした経緯に、単純に格好のいいイヴェントや目先の変わった試みをしようといった意識などなかったに違いない。たまたまこの夏彼が出演した映画でこの朽ちるのを待っているような舟をロケに使ったそうだが、彼の芝居の悪場所[#「悪場所」に傍点]にぴったりだと感じたのではなかろうか。早速買い求めたのが始まりで、すでに台本も出来、上野音楽堂公演のスケジュールも決まっていた『海の牙』の初日を繰り上げ、この舟上テント劇場の初公開となった次第らしい。 [#3字下げ]『海の牙』の呼ぶイメージ[#「『海の牙』の呼ぶイメージ」は中見出し]  その『海の牙』であるが、一体この題名は何に由来するのであろうか。数ヵ月前に『盲導犬』が上演されていた頃、唐十郎に「またジョン・シルバーが戻ってきましたね」と尋ねたとき、「ええ、海洋物をまた書きたくなりました」と言っていたのを思い出す。  始めて『海の牙――黒髪海峡篇』という新作が書かれたことをチラシで知り、東京湾〈石炭船〉上の公演という広告を見たとき、これはてっきり海を使って朝鮮海峡を渡る舞台にしようとするに違いない、そのために石炭船でも借りたのだろうと考えたのだ。海峡が朝鮮海峡と結びつくのは当然だろう。黒髪というイメージは、日本はもちろん世界で使われている芝居などの高価な鬘のほとんどが朝鮮か中国の婦人の髪で作られているということを聞いたことがある。また最近の一連の事件から朝鮮に対するわれわれ日本人の意識の問題に敏感になっているということもある。近年の唐十郎の芝居が、顕著に即状況的な社会現象をイメージとしてとり入れ、直接われわれの意識の底をえぐろうとしてくる傾向を考慮すると、まず朝鮮のことが浮かんできたのであった。  だが、その後『海』に掲載された作品を読んだあとも『海の牙』というイメージが直接的にどう結びつくか、特に必然性があってつけられた題名かどうかわたしには分からなかった。舞台は東京とおぼしき都会だが、この街の鬘屋の前の昼下がりの道が、突如ぎらぎらした昼下がり坂[#「昼下がり坂」に傍点]として妄念の下り坂と化し、朝鮮海峡に浮かぶチュチュ(済州)島の女たちの黒髪を刈られた影の存在が登場する。この坂で、髪を切りとられて泣く日本のパンマがその海の向こうの島の亡者たちから黒髪をもらい、朝鮮パンマに転身する場面がある。たしかに海のイメージが皆無というわけではないが、東京湾公演など予定せずに書かれたというこの作品は、直接海そのものを舞台に呼び込むことはない。  あるいはこの作品に描かれた人間関係を暗示するのだろうか。権力の牙に追いつめられたような底辺の生活をする大衆の一団が、按摩に象徴される。だが自らを護るためにつかむ手が、さらに底辺のパンマに向かうとたちまち牙と化し、姿は詰襟服の学生に変身して朝鮮パンマを追いつめる存在となる。人間のこの暴力性、それはわれわれ自身の無関心という手そのものの毒意の牙でもあり、愛する者すらがむき出す牙でもある。そのからくりは、吼えたける野性の牙を向けて抵抗する最も弱い者が、追いつめられた果てに鏡の中をくぐり抜けたとき、見返す目で見てとる人間の姿だ。強者は弱者に、愛は憎しみにと、牙を向けながら次々に転身を重ねてゆくその人間関係を、この作品は基本的構造としてもっているとの解釈も成り立つ。『海の牙』という何となく少年時代に読んだことのありそうなポピュラー・ロマンス的題名は、この作者のこれまでの作品の題名の由来と、どこか共通していると言えないこともあるまい。  作品の内容を示唆することも当然あろうが、さらにこの題名が水上に浮かぶ石炭船のイメージに寄せて、あとからつけられたのでないかという気もしてくるのだ。そう言えばルネ・クレマンの古い映画に『海の牙』という作品があった。狭い潜水艦の内部で起こる人間の葛藤を描写し、反ナチ反戦の怒りを表現した作品らしい。そのスチール写真でみた海面とそこにすれすれに突き出た低い舳先とのたたずまいが、何となくあの東京湾の石炭船を思わせるのだ。それ故かこの貧しい木の舟こそ海の牙[#「海の牙」に傍点]でないかという連想を呼んだのかもしれない。いずれにせよこの題名は、ある物語=ロマンスの世界と、現実の舟の劇場の世界との合体を予想させる。その合体こそ、作家兼演出家として状況劇場を率いる唐十郎の世界を呼び起こす特性のように思えるのである。 [#3字下げ]肉体訓練はテント劇場をつくりだす[#「肉体訓練はテント劇場をつくりだす」は中見出し]  題名はともかくとして、これからの状況劇場の芝居の拠点になるであろうこの石炭船に、唐十郎は非常な執着をもったのだろう。使えなくなったあとの廃棄処理費として事前に大金を支払ってまで入手したというやくざな舟が、彼と劇団員の芝居づくりに対する情熱を一層刺激するらしい。うじうじしたこの地上に這いつくばってばかりいたり、テント地探しに徒な佗しさを味わってばかりいないだけでもいい、と唐十郎は控えめに言う。が、初日を前に黙々と劇場づくりの重労働に従っている劇団全員の胸のうちでは、人目にはどうしても世界一おんぼろの水上劇場を、自分たちの世界一すばらしい芝居小屋として見ていたに違いない。疲れた肉体をかしげて見回す目が、その実感をかみしめるように光る。やがてこの舟で隣の港を訪れよう、その先の港もと、夢は次々に拡がる……。  だが、唐十郎が海から日本列島を急襲したいなどと俗な言い方をしても、キザな奴だと笑えない気もする。それは彼の現実の芝居づくりに結ぶ心意気の表現なのかもしれないが、単に絵空事の夢で終わらせないようなことを、いつしか何かのかたちでいともたやすげに現前させてみせるからだ。それを芸術であるかとか、演劇運動であるかなどと問いかけて云々しても始まらない。彼の芝居の世界が芸術である必要性などなくても、彼にとっても彼の多分に野次馬的観客ファンにとっても、いっこうかまわないことなのだ。  現実的には乞食の住家のような舟を引きずり、役者も作者も区別なくテントを張ったり降ろしたり、破れを繕い、雨漏りの心配をし、大道具小道具の整備、客席の掃除、切符のもぎりに到るまで、芝居づくりの一切を彼らだけで背負っている。劇団における役者の肉体訓練はテントづくりがすべてですと唐十郎が言うのを聞いたときは、何となく物足りなく感じていたのだったが、実感としてそれだけの重みは充分あるということなのかとも思える。こういう肉体労働こそ、彼らの芝居の素人性のあらわれだと片付けることもできるだろう。だが、このような貧しさと労働の重みが、彼らのキザっぽいばかりの心意気と、それを何ということなく現前させる力を、少しも殺《そ》いでいない点を考えたほうがよいのかもしれない。  テント劇場の世界で絢爛としたロマンスを呼び込む瞬間のイメージとか、その活動半径の格好よさで人々にもてはやされるイメージで、唐十郎に、今、あの言い古されたような河原乞食ということを、どう受けとめているのかと改めて問うのはやめよう。総勢をあげて(十数名にすぎないが)初日準備にかかっている彼らの上に夕やみが次第に迫って来て、いわゆる舞台稽古などもろくにできないのに、焦るとか神経をとがらせている様子もなく働いているのを見ていると、そのような問いがいかにも空しく思われてきたのだ。  もともと乞食芝居だ。小さな一室のアパートが日頃の稽古場である彼らに、劇場の構造とか寸法を正確に考慮した演技づくりをするも何もあるまい。蜷川幸雄が演出した『盲導犬』の舞台稽古の際、稽古場でのイメージづくりと劇場に入ってからのイメージのずれにふりまわされて、演出家も役者も神経質に追いつめられていたのとは対照的である。条件の違いというよりは、芝居に対する姿勢の根本で入り方が違うためだろうか、状況劇場の役者たちは、花道がどうついていようが、舞台の大きさや高さがどう違っていようが、気にしないのではないか。テントの下でさえあればたちまちその場をわがものに組みしいて、観客を大いに喜ばせつつ悠然と芝居の世界を手繰り寄せてくるに違いない。 [#3字下げ]マンネリズムを支えるもの[#「マンネリズムを支えるもの」は中見出し]  初日の舞台は、かなり激しい雨のため天井のつぎ目から時々水が漏り、舟べりまで被っているテントが風にはためく中を行なわれた。だが、舟底に幽閉されたわれわれ(そうだ、最後の客が舟底に降りて邪魔な階段が取り去られたとき、われわれはふと唐十郎の毒意を感じ、いよいよ閉じ込められて舟出するという気分になった)観客の前に、彼らのおなじみの芝居が繰り広げられたのである。  たしかに状況劇場のテント芝居は、いつ見ても馴染みの役者が並び、同じような音楽にのって同じ作家による何となくおなじみの世界に誘ってくる。過日北鮮の国立平壌マンスデ芸術団の人から、同じ作家の芝居ばかりしていて役者はマンネリズムに落ち入りませんかと言われて、そうかなあと考えてしまったと唐十郎は述べていた。そうだとすると、唐の作品もマンネリズムに落ち入るということだし、毎回熱心に通って心をはずませて見る大部分の観客もマンネリだということになろう。  考えてみると、唐十郎の作品がほかの劇団で上演されたことはほとんどないし、状況劇場でこそ本当に生かされてきたのである。役者たちにしても、状況劇場で、作家兼演出家としての唐の芝居のなかでしか本当に生かされない俳優として、つくりあげられてしまったのかもしれない。たまに李礼仙が外部出演などしても、彼女の美しさ毒々しさが本当に輝くことはめったにない。数人の役者が一緒に他の劇団に出演すると、自分たちのほうに芝居を引っぱって壊してしまうという。その意味で役者たちは唐十郎の分身であり、唐十郎自身も彼らの分身であるという逆説が成り立つ。  それ故彼らの芝居づくりにおける関係は、肉体労働の共有ということもそうだが、ほかのグループにはないような文学的世界を共有し合っているようにも思えるのだ。唐の芝居に関して言える状況劇場の俳優の表現の適確さ、激しい変わり身の見事さといったことは、各役者がすでにもっている感覚から何となく生まれてきたのでないという。「やはり忍耐強く理解してもらおうとつとめるんです。しかし、二、三年一緒にやってるとわりあいすっと入れますよね」と演出家は言う。稽古のあい間に、輪になってうどんをすすりながら、最近みた映画や読んだ本についてお互いに意見を交換し、彼らの芝居と関連づけていく様子をみていると、話題そのものの文学的雰囲気ということもさることながら、これも感受性の面での稽古の一環のように思えるのだ。  ある意味で閉鎖的なこのような世界の行く末を思うと、いったい彼らはどうなるのだろうという疑問を抱かせられることになる。だが、あるいは自分たちはマンネリかもしれないと言う唐十郎の目からは、それはそうでいいじゃないかという表情がうかがえるのだ。  少なくとも芝居に関する限り、どこまでもこれまでの生き方に徹底しようとしているような姿勢とエネルギーを保っている。これを支えている毒意を秘めたような自信は何なのだろうか。最も通俗的に「怨念」などという言葉が返ってくるかもしれない。真面目な顔をして演出家としての彼に質問しても、月光仮面かぶれの少年のような格好いい[#「格好いい」に傍点]単語が連発され、常識的大人の感覚では何ともキザで俗悪な答えが、これも大真面目に返されるのではなかろうか。特権的肉体の怨恨が結ぶ悪意の黙示録、死相を帯びた七〇年代の闇を苛《きび》しく移動する血染めの紅テント、化粧の毒に犯された悪夢の遍歴の果て……という種類の表現だ。いずれにせよこんな言葉は、人をまどわす魔物である。ポーズであるかと思うと、真実を秘めているかもしれないからだ。 [#3字下げ]ロマンスへの志向[#「ロマンスへの志向」は中見出し]  かつて、芝居書きは役者もやり演出もやりたいと思うのが当然の生理的要求なんです、と言っていた唐十郎である。作品の世界で、役者ぶりのなかで、終極的には状況劇場の舞台のなかで、彼の演劇にかける姿勢を掴まえればいいのではなかろうか。  その世界のもつ特徴として、あの物語性、英語で言うロマンスへの志向ということがある。その重要性については、『海の牙』の演出の重点のおき方からもうかがえる。つまり「千と一つ」というイメージと「鏡」のイメージ、その二つから互いに関連し合うイメージ、例えば「千夜二夜の夜とぎを語る手[#「手」に傍点]」とか円い鏡が割れるように「滅多切りにされて戻らない大車輪の輪[#「輪」に傍点]」といったイメージを、特に明確に表現しようと演出的配慮をしていたのではないか。  このロマンスについて、イギリスのビアは、ロマンスの歴史はある意味で頽廃の記録であるという書き出しのもとに、その本質と歴史的推移とを明らかにしている。今日俗にロマンスというと、だいたい低俗文学で貧しい感性の持ち主に向けた読物と考えられがちだ。だが長い歴史を通して共通した視点からみると異なる世界があり、異なった楽しみ方があったというのだ。その独自の世界――現実とは等価でないが、現実の世界を忘れては理解できない世界――は、われわれの意識を抑圧や偏見から解放し、日常的生の枠を超えたある行動や情念に焦点を合わせる。するとそれらが火を吹いて生命の炎のように燃えあがるのだ。ロマンスはそういう作用を通して人間を再創造する世界なのである。  元来ロマンスの生命は、ロマンスのパターンをなす話し[#「話し」に傍点]そのものに内在しているのだろう。シェイクスピアが当時の民間に流布したロマンスの数々を盛んにとり入れ自らの世界を構築した意味をN・フライは指摘している。つまり、ロマンスの生命力を枠として使うことで人々と共通の広場を獲得し、さらに枠がある故に逆に独自の世界を深め得たとして、そのロマンスの作用を神話作用と結びつけているのだ。別に唐十郎の世界をシェイクスピアと比較するつもりはないが、たしかに彼の作品の、例えば『鉄仮面』とか『ジョン・シルバー』等々といったタイトルは、それだけで(そこに火を吹くかはさておいて)ある広場を呼び起こしてくるのだ。  さらにビア教授のあげる特質を唐の世界に関連させると、ロマンスは理想を描くことに専念するゆえに、つねに予言的要素を持ち、かつ願望のイメージによって世界をつくり直す。だがその理想の世界は、むしろ悪夢であることのほうが多く、また直接感覚に頼るゆえにグロテスクなものを強調しだす、というのである。  理想の世界が悪夢に化すということは、その理想と現実の世界とのずれる部分が拡がるほど激しく、またその亀裂部分に現実の抑圧的な力が抵触する衝突が大きいほど苛酷で、グロテスクなものに屈曲していくのだろう。このような衝突の激しさは、特に唐十郎の世界の呼び起こす悪夢のすさまじさと暴力性を特徴づけることなのかもしれない。だが、彼の暴力性というのは、力が先に立つ暴力ではなくてロマンスへの志向が結果的に呼び起こすものなのである。彼の作品を上演する学生演劇などを観にいくと、何でも暴力的にさえやっていればよいような真似のされ方をする、デリカシイがあって、その先に出てくるものなのだが、と唐十郎が嘆いていた。  おそらくロマンスの歴史は『ドン・キホーテ』の出現によって最も大きな転換をしたのかもしれない。かつて王侯や騎士であったヒーローが、逆説的ヒーローとしての狂気のおんぼろ騎士にとって代わった。そのとき同時に微妙な屈折を遂げたロマンスの世界の伝統は、さらに複雑化されながらも現在なお続いている。おそらく十九世紀の「鏡の中のアリス」のようなものは、鏡の中を通り抜けることで、あちらからこちらを見てしまったヒロインの世界、つまりドン・キホーテ的逆説のなかでさらに半回転した世界を描いたロマンスと言えないこともない。  唐十郎たち河原者も、その自在な変身によって逆説的王侯貴族のヒーローとなり、現代の複雑怪奇なロマンスの世界を往来するのだ。それにはもちろん、彼が作品において通俗的なポピュラー・ロマンスをも下敷にし、さまざまのかたちで逆手、裏返しにと使っているドラマトゥルギーをもって可能になったことだ。と同時にその方法論、つまりロマンス語りの語り口は彼の芝居全体の姿勢と心意気でもあるとも言えるだろう。 『海の牙』は全体の基本的枠組として、アラビアン・ナイトの「千夜一夜物語」が下敷になっている。ヒロインのパンマ瀬良皿子=シェラザートは、あの物語のなかで千夜一夜の夜とぎに生命をかけて物語りするヒロインの逆説的存在である。しかも唐十郎はこの千夜一夜が終わって幸せになるヒロインの運命の結末を拒否する。最後に割れた鏡をくぐり抜けて半回転し、さらに戻って半回転と円を描いてこちらとあちらの世界を見てしまったヒロインの世界は、アリスの世界に入ってそれを超えていく。彼女と彼女の世界を共有した大車輪のヒーローが、千夜一夜の夜とぎ物語りに幸せを待つことの「腐臭、無用さ、死の見方において」千夜二夜の夜を先取りして完璧な円を描こうと絶句するのだ。頭上には吊革が輪を描き、そこに下る無関心という現実世界の千と一つの手を切りながら、それが絶望の叫びか希望の叫びかは解らない。だが、少なくとも彼らの心意気で現想を呼び乞う[#「乞う」に傍点]ているのだ。  唐十郎の芝居づくりは、次第に達者になってきた。と同時に彼の現実に切り込む直接性も顕著になってきたと思える。それがこれからどう突っぱしるか、予想がつかないところに河原者の意義があるのかもしれない。だが、時折わたしは『腰巻きお仙』をやっていた頃の、もっと透明な優しいリリシズムにあふれた世界を懐かしく思い出すことも事実である。 [#地付き](演出家と舞台・3、「新劇」一九七三年十一月号) 入力:山崎正之 明かなミスは訂正しました。