刺青奇偶 二幕七場 長谷川伸 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)的《あて》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二|玉《たま》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから3字下げ] ------------------------------------------------------- 〔序幕〕第一場 下総行徳の船場  第二場 同じく常夜燈脇     第三場 元の船場  第四場 破ら家 〔大詰〕第一場 柳のある堤  第二場 品川の家     第三場 六地蔵の桜 [#ここから3字下げ] 手取の半太郎   半太郎母お作  赤ッぱ猪太郎 お仲       おたけ     船頭浅吉 鮫の政五郎    荒木田の熊介  女衒金八 半太郎父喜兵衛  角兵衛又    御家人風の男 [#ここから4字下げ] [#ここから34字詰め] 太郎吉・船頭の女房子・雲水の僧・若き夫婦・町の娘・医者・明神辰・悪太郎・青物六・壁吉・そのほか。 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#2字下げ]〔序幕〕[#「〔序幕〕」は大見出し] [#2字下げ]第一場 下総行徳の船場[#「第一場 下総行徳の船場」は中見出し] [#ここから3字下げ] 下総行徳の船場。満月にちかき春の夜。 (船着きは正面奥。ここは四丁目の丁字路から船場にむかって入りたる衝き当りである。終業したる休み茶屋、空っぽの馬繋所などがあり、水に臨んで石垣づくりの上に、常夜燈籠が建っている。河岸に一ヵ所、搬び残りの荷が積んである) 繋《もや》い船の船頭が風流で吹く横笛の音が、見えぬ船から聞えている。酌婦と見えるお仲(二十三、四歳)が、船場の榜示材に倚りかかり、思い耽っている。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] お 仲 (ぽつりぽつりと、的《あて》もなさそうな歩み方をして、行ってしまう) [#ここから3字下げ] 笛の音がつづいている。 ひと癖ありそうな女衒《ぜげん》風の金八が船場へきて、あちらこちら水の上を見廻す。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 金 八 (ずっと下に寄って)船頭さん――おう船頭さん。(横笛の音がハタとやむ)変なことをお尋ね申すがね。(船頭があがってくるらしいので、間を置いて)この辺に女が一人まごついているのを見掛けなかったかしらねえ。 [#ここから3字下げ] 船頭浅吉。横笛を手にして、下の方で船から陸へあがってくる。始めは半身ぐらいしか見えない。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 浅 吉 女けえ、見掛けねえだよう。 金 八 来なかったかね。何処《どこ》へ突走《つっぱし》りゃがったか、飛んだことになったもんだ。 浅 吉 (荷に腰かけ、笛を拭いつつ)お前のかみさんかねえ。 金 八 なあにそうじゃねえ。三里余りを船で搬んできた大事なタマさ。 浅 吉 そうけえ、お前《めえ》は女の売り買いする人か。(侮蔑して笛を吹きかける) 金 八 (むッとして歩きながら)何をいってやがるボケ茄子め。 浅 吉 (聞えざる振りして笛を吹く) 金 八 仕様のねえ阿魔だ。(ブツブツと口のなかでいいながら、四丁目の方へ引返して行く) [#ここから3字下げ] お仲、さまよう如く再び来って、常夜燈のもとに倚りかかり、考え沈む。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] お 仲 (笛の音にひき込まれ、ほろりと涙をこぼす) [#ここから3字下げ] 下の遠くで「浅さんよウ。来うようウ。ええ物があるにようウ」と呼ぶ声がする。水上生活者の呼び声で大きく尾を曳いている。声は聞えるが言葉はよく判らない。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 浅 吉 (笛をやめて起ちあがり、下に向い)おうウ。(笛を吹きつつ下の船友達のいる方へ去る) お 仲 (頬を流れる涙を袂で拭い、笛の音に聞き入り、常夜燈の蔭にはいる) [#ここから3字下げ] 手取りの半太郎。(三十一、二歳)ブラリと来《きた》る。 (半太郎は江戸深川佐賀町手取橋際の生れ、数年前まで佐賀町界隈で、小若頭で立てられていた男。渡世は水揚げ人足だが、役付きになっていた。今は処定めぬ旅鴉、所謂旅にん[#「にん」に傍点]、この頃はこの行徳に落ちつき、博徒ぐらしをしている) [#改行天付き、折り返して1字下げ] 半太郎 (船場に立ち、江戸の空の下を遙かに見ている。飛んで久しい江戸の親が恋しいのである) [#ここから3字下げ] 荒木田の熊介(三十四、五歳)そそくさと、半太郎を追いかけ来る。土地の博徒。 笛の音は遠く、まだ聞えている。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 熊 介 いたな。 半太郎 (ちらと振り返っただけで、格別の注意を熊介に払わぬ) 熊 介 やい半太。 半太郎 邪魔だ、黙っててくれ。 熊 介 何を。水の上に何かあるのか。 半太郎 蒼蠅《うるせ》えな。おらあ水をみてやしねえ、向う※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55]《はる》かな空の末を眺めているんだ。 熊 介 火事でもあるのか。 半太郎 なあによ、見えねえ江戸が、こうしていると眼の中に浮いてくるのよ。用がなかったらあっちへ行ってくれ、もうちッと俺はここにいてえんだ。 熊 介 日が暮れては用のねえ磯ッ臭えこの新河岸《しんがし》へ、用がなくてくるもんか。 半太郎 俺に用なら、あす[#「あす」に傍点]にでもしてくれろ、今は口をききたくねえんだ。(荷に頬杖をついて、見えぬ江戸を眺めている) 熊 介 厭でも応でも口をきかせるぞ。手前《てめえ》、平井屋のおさだに俺のことをいったそうだ。 半太郎 (知らぬ振りしている) 熊 介 おさだを俺がどう思ってるか、お前、知ってる筈だ。あの女なら女房にしてえと思い込んでいることをお前は知ってる筈だ。 半太郎 聒《やかま》しいやい。何でえ、耳のハタでがんがんいやがって、とうとう俺の夢をブチ壊しやがった。平井屋の酌取り女がどうしたと。 熊 介 おさだの阿魔が、きょう今までやった俺の手紙や何か、ひと纒めにして突ッ返してきやがったんでえ。 半太郎 嫌われたのか、そいつあ可哀そうに。 熊 介 やい。嫌わせたのは手前の細工だ。 半太郎 おいらが。何をいってやがる。 熊 介 おい、お前、おさだの阿魔に、俺の讒訴《ざんそ》をいったろうが。 半太郎 本当のことはいったが、讒訴なんかいわなかった。 熊 介 どんなことをいった。熊と夫婦になるんなら、船橋の八兵衛か何かに叩き売られるつもりでなれといったろうが。 半太郎 末はどうなるだろうとあの女が訊くから、そうさなあ、熊の奴では。 熊 介 いったか。(自烈込んで、今まで体付けにしていた長脇差をぐいとあげて詰め寄る) 半太郎 いった。 熊 介 野郎ッ。 半太郎 (抜きかける熊の小手を殴る)馬鹿野郎め。逆上《のぼせ》が過ぎらあ。 熊 介 うウ痛え。畜生、殴ったな。何の遺恨より怨みの深えのは女の遺恨だ、知ってるか。 半太郎 やい、落着けよ。女を取った訳じゃなし、嘘をいった訳じゃなし。 熊 介 本当のことをいったつもりか、やい、俺がいつおさだを船橋の八兵衛に売り飛ばした。 半太郎 末はそうなるだろうという話よ。慌てるない。 熊 介 とても口じゃ手前見てえに、旅鴉ダコのはいった奴にや敵《かな》わねえ。さあ勝負しろ、こいつ(長脇差)に口をウンときかせてやるから、野郎前へ出ろ。 半太郎 付ける薬のねえ馬鹿だ。他人の女のことから、斬ッはッが出来るものけえ。何をいってやがる。 熊 介 出来るように、こうしてやる。(斬ってかかる) 半太郎 (熊介の腕を捕え)この野郎ッ、何て無法なことをしやがる。(刀を奪いとり衝き放す) 熊 介 (懐中から匕首を抜き出す) 半太郎 おや、まだあんな物を仕込んでやがらあ。 熊 介 勝負は得物の長え短えで極りゃしねえぞ、さあ来い。 半太郎 何て馬鹿な奴だろう手前は。そんな真似をするより、根性を入れ換えろ。手前、胸へ手を置いてお月様に面《つら》を晒してよく考えてみろ、世間話に今以て、噂の種になっているぞ。先の女房はどこへやった。 熊 介 何。 半太郎 はッきり云え。云えなかろう。先の女房は、賭場の不義理の帳消しに、木更津へ叩き売ったというじゃねえか。 熊 介 ありゃ女房の方から願って出たからそうしたんだ。 半太郎 それじゃ何で借金を払って呼び戻さねえ。茶屋酒をガブついて、白粉臭くブン流す冗《むだ》な銭はもってても、亭主孝行に体を殺し、辛え奉公している女房を、にッこりさせる銭はねえのか。 熊 介 (ギュウッと詰りながら)へん、成り行きで仕方がねえ。そこが浮世だ、知らねえかい。 半太郎 手前の浮世は得手勝手だあ。おさだのような質実《じみ》な女を、手前と組ましちゃ女が不便《ふびん》だ。 熊 介 どうも口じゃ勝負がつかねえ。野郎、前へ出ろ。 半太郎 手前出ろ。女とみりゃあ食い物にしたがる。膏切ったその鼻のあたまに、風穴《かざあな》を少しあけてやろうか。 熊 介 何をいやがる。(匕首で突いてかかる) 半太郎 (躱しながら)この馬鹿あ、よさねえか。馬鹿――馬鹿――ええッ面倒臭えッ。 熊 介 (半太郎が攻勢に出たので、船場の桟橋へ追い詰められ、足辷らせてザンブと落つ) 半太郎 (その時、熊介の体に近く刀を振る)あ。(手耐えはなかったが、斬り落したかと、刀を月にかざしてみる) [#ここから3字下げ] 常夜燈の蔭の方で、再びザンブリ水音がする。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] お 仲 (投身したのである)。 半太郎 おや。(振り返って常夜燈の方をみる)あ、獺《かわうそ》が飛び込んだのか。(抜刀を持ち扱う、鞘が落ちていたので拾って納める。水音が耳に入る)熊の奴、ガバガバやってやがるな。どれ。(引揚げてやる気で、水の面をみる)あれ、熊にしちゃあ、水心《みずごころ》がまるでねえ様子、こいつ変だ。(常夜燈の石垣を伝わり、向うへ姿が消え、水音がする) [#ここから3字下げ] 下の繋い船の船頭女房が、陸の銭湯戻りと見え、買い物をさげ、子供の手を曳いて来《きた》る。 桟橋の下から熊介が這いあがる、匕首は水の中で落して手になくなっている。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 熊 介 (息をつき、水を切り、立ちあがる) 女房子 (びッくりする。子が火のつくように泣くのを、母が前で抱きしめる) 熊 介 (逸散に駈け去る) [#ここで字下げ終わり] [#2字下げ]第二場 同じく常夜燈脇[#「第二場 同じく常夜燈脇」は中見出し] [#ここから3字下げ] 常夜燈籠より上の水際。 (水際が一つ屈折している、それだけで船場とは縁遠くなっている他家の塀外。水際に葦の茂みと洲がある、塀の中央に、老樹の幹が外に突き出ている) 半太郎が、今、濡れた体を拭いて着物を着たところ。その足許ちかく、助けられたお仲が濡れしょびれて、洲に横坐りしている。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 半太郎 お前《めえ》、水の中から、(帯を締める)助けられたのが、気に入らねえのか。 お 仲 (めまい[#「めまい」に傍点]がするらしく、辛うじてする答えが短く)済みません。 半太郎 あやまらなくたっていいさ。どうせ水ッぺえりをするんだ。いいことがあってじゃねえだろう――が、お前のその様子は、ちッと妙だ――お前、怒ってるようだが、そうかい。 お 仲 怒ってなんかいやしません。 半太郎 じゃあ、喜んでるか。 お 仲 (冷笑するように、投げ出すように)喜んでなんかいやしません。 半太郎 じゃあ、どう思ってるんだ。 お 仲 どうも思ってやしません。 半太郎 (じッとお仲を見ている) お 仲 (横を向いて泣いている) 半太郎 何でお前、身投げしたんだ。 お 仲 何で。死ぬため。それでなくて水へはいるものがありましょうかしら。 半太郎 訳を聞いてるんだ。 お 仲 男の人に何度となしに、今度みたいな話をしたけれど、(棄てるように)どうせ落ちて行く先はいつでも同じことですから、申しますまい。 半太郎 ひどく男を片付けちゃったものだ。はあ、そうか。お前、いい人に捨てられたんだ。 お 仲 そんなものがありゃあ、まさか、死ぬ気にはなりゃしますまい。 半太郎 大抵、女はそんなことをいうものさ。 お 仲 お前さんは、可愛いのがあるんですか。 半太郎 子供か。 お 仲 いいえ、おかみさんか、いろか。女の人のことですよ。 半太郎 俺が第一好きなものはレコだ。(手真似をする)四三四六《しそうしろく》や狐三《きつねさん》どよ。いろも女房もあるもんけえ。 お 仲 そう。あたしも独り者なんです。しかも、借金を背負《しょわ》されて、いつまでも怨霊が取りついて放れないで、売られ売られて諸国をブン廻しのように、ぐるぐる巡った果《はて》の碌な女じゃないんですよ。 半太郎 助けた奴が、当時、ここに少々尻を落ちつけた旅にんで、助けられたのがバラ掻きの渡り渡りの茶屋女か。いい取組だ、ヘヘン。 お 仲 お前さん、賭博《ばくち》打ちなんですね。 半太郎 宿場女郎や飯盛とは、ウマのあう、股旅がけの賭博打ち、えらくねえ奴だ。 お 仲 そう――あたしをどうする気なんです。 半太郎 え、どうするとは俺の方でいうことじゃねえか。お前これからどうすりゃいいんだ。 お 仲 別に、どうするってことも、あたしにゃありゃしません。 半太郎 お前、世の中が厭になったんだな。 お 仲 (シクシク泣く) 半太郎 お前、親はねえのか。 お 仲 (首肯く) 半太郎 兄弟はねえのか。 お 仲 (首肯く) 半太郎 一人ぽッちか。 お 仲 (首肯く) 半太郎 それでか――うむそうか。生きてるのが寂しくって仕様がねえから、一層ひと思いにと、やったのか、よくある奴だ。お前、いくつなんだ。 お 仲 二十四になります。 半太郎 二十四か。二十四といやあ女盛り、今までにお前が苦労した男がなかった訳でもなかろう。たとえ、訳あってその男とは切れても、広い世間には、性のあう男が探しゃあいるだろう。気を広くもって、よさそうな男を探し出せよ、そうすりゃ世の中が面白くなるだろうじゃあねえか。 お 仲 そんな男がいましょうかしら。 半太郎 ねえってのか。冗談だろう。男も女も腐るほどある世の中に、いいのがねえなんて法はなかろう。 お 仲 あたしの歩いてきた途《みち》に、そんな男はいませんでしたっけ。 半太郎 厭なことをいう女だなあ。 お 仲 男の人が聞いたら怒るか知れませんが、どっちを向いても、男という奴は、女とみれば、狙うところはたった一つですからねえ。悧巧は悧巧ほど、馬鹿は馬鹿ほど、みんなそうなんだから厭になっちまう。 半太郎 野郎型なしにやられてやがらあ。うウ少し寒くなった、おウ、とに角、あっちへ行こう。 お 仲 大方そういうだろうと思っていた。(張合いなげに起つ) 半太郎 お前、先へ行きねえ。 お 仲 ええ。(歩いて後)お前さん、家があるんでしょうねえ。 半太郎 家って程のものじゃねえが、あるにはある。行ってみたら驚く家よ。茶屋女に現《うつつ》を抜かし、家屋敷を立ち腐れにして、うぬはどこかへ駆落《かけおち》した、ひでえ破《あば》ら家《や》に当時お住居さ。どうせ又風が変れば、どことなく飛んで行く体だ、定式の所帯なんか持つもんけえ。 お 仲 じゃ、そこへ行って、お酌でもしてあげよう。どうで死損ねたんだから、構やしない。 半太郎 (振り返ってみて)お前、随分、不貞腐れてるんだなあ。 お 仲 女は性根を、そのまんま外《そと》へ抛り出して、男のようにうわべ[#「うわべ」に傍点]を繕ってやしませんからねえ、そう見えるんでしょう。 半太郎 ズケズケ男をやッつける女だなあ。 お 仲 癪に支《さわ》ったの。 半太郎 いやあ、面白えと思ってる。 お 仲 (横を向いて)いつでも男は、こんな時にはそういうのがお定りですねえ。こっちなんでしょう。行きましょう。(先へ行く) 半太郎 (お仲を見送って)何て阿魔だ。 [#ここで字下げ終わり] [#地から1字上げ](半廻し) [#2字下げ]第三場 元の船場[#「第三場 元の船場」は中見出し] [#ここから3字下げ] 前と同じ船場。 お仲が佇んでいる。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] お 仲 (半太郎の方を顧みもするが、それよりは、死の誘惑の方が強く、やがて桟橋の方へ行き、水を凝視している) 半太郎 (遅れて来《きた》る。お仲が桟橋に立っているのを眺め、やがて)おい。 お 仲 え。(半太郎を振り返りみる) 半太郎 そんな処へ行って何してるんだ。 お 仲 もう駄目になっちゃったんですから、止めないでも大丈夫です。 半太郎 又飛び込むつもりか。繋《もや》い船《ぶね》が下の方に四、五ハイいるから、やっても直き助けられるぜ。 お 仲 なあに、助かる助からないは運賦天賦《うんぷてんぷ》で、人のみてる処だって死ねる時は死ねますのさ。(半太郎の方へ戻ってくる) 半太郎 じゃあ死んでみるさ。 お 仲 今夜はもう駄目、機《はず》みがなくなってしまいましたし、お前さんには借りが一つ出来ちゃったから、どうなるものか、もう少し生きていて見ましょう。 半太郎 じゃあ、そうするがいい。(財布ぐるみ金を抛り出す)ほら。それをやるぜ。(行こうとする) お 仲 (財布を拾って)これ、何さ。 半太郎 ふところは空ッぽと察してるんだ。やるから貰え。銭のねえのは首のねえのとおんなじだとよ。あばよ。 お 仲 (半太郎に追いつき)お前さん、あたしを家へ引ッ張って行かないのかい。 半太郎 悪者に衝《つ》き落《おと》されたとでもいって三丁目の安泊りへでも行くがいい。 お 仲 そうじゃないよ。お前さんは、女を水の中から助け出して、そのまんまにして行くのかと尋ねてるんさ。 半太郎 いけねえてのか。 お 仲 そうじゃありません、あたしから貸したものを取る気じゃないのかって訊いてるんです。 半太郎 何のことでえそりゃあ。 お 仲 ホホホ、白ばっくれてるよこの人は。それじゃあ、あたし、一緒に行ってあげよう。ね。いいでしょう、それなら。 半太郎 (お仲を衝き倒す) お 仲 (倒れて)何をするんだ。 半太郎 見損《みそくな》うな。何でえ。うぬが通ってきやがった街道筋の、野郎の屑《くず》の目白押《めじろお》しをタテに取り、天下見通しな口をきくねえ。これ、たった一ッ粒の骰子《さいころ》の丁目半目が野郎と阿魔なら、性根は六つ、二十一目。シラ骰子《ざい》だってこれだけ数のあるもんだ。うぬが知ってる狭《せめ》え道中じゃ、イカサマご用のピカ骰子《ざい》、粉《こ》引、二|玉《たま》、一|玉《たま》、飛《と》び、鉛《なまり》にガリ、綱と、丁半だけでもこんなにある、悪骰子《わるざい》、不浄骰子《ふじょうざい》の野郎ばかりがいたんだろう。七お多福め、男修行の眼をあいて、娑婆の男の見直しをしてみやあがれ。 お 仲 (半太郎の罵倒が進むにつれて、段々激しく熱してくる。縋りつく手をいくら払われても、いよいよ強く縋りつくことに力を尽し)お前さんは、本気か、そんなことをいうのは本心なんですか。 半太郎 だに[#「だに」に傍点]め、放しゃあがれ。 お 仲 恩を着せときながら、あたしの体を借りる気が微塵もないなんて、こ、こんな男に、初めて、あ、あたしゃ会ったんだ。 半太郎 放さねえと、こうするぞ。 お 仲 あ痛いッ。(縋る手を外される) 半太郎 あばよ。(行きかけて、濡れた体の寒さを感じる。遂に去る) お 仲 (這い起きて走る。躓いて倒れる、起きあがって追う、又躓き倒れる。熱狂して、この男を見失っては生き甲斐なしと思っているかの如く昂奮し、ひたすらに半太郎を追って行く。手に財布を犇と掴んでいる) [#ここで字下げ終わり] [#2字下げ]第四場 破ら家[#「第四場 破ら家」は中見出し] [#ここから3字下げ] 立ち腐れの家の一部。 (元は相当の旧家だったが、主人が駆落して後、不吉なりとてだれも手をつけぬ破《あば》ら家の窓のある一室だけが、小薩張りと繕われ、戸締りが工夫されてついている、ここが、半太郎の寝起きしている処、その一室の外は破れ果て、庭なども荒廃甚だしい) 荒木田の熊介が、弟分の角兵衛又を引きつれ、忍び込む。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 熊 介 いい按排《あんばい》に野郎の先《せん》を越して着到した。又、文句をいわせると負けるから、黙って突然《だしぬけ》にズバリとやっちまえ。 角 又 いいってことさ。俺はこの間の押借りが祟って、どうせ高飛びするんだから、哥兄《あにい》に手を出させず、こっち一人で野郎を片付けちまうから、見ていねえ。 熊 介 (出入口から外を見張りながら)俺もこれから運がひらけるか知れねえ。撰《よ》りに撰って暇乞《いとまご》いにくるお前にバッタリ会うなんて、こんな都合のいいことって滅多にねえぜ。 角 又 ええと、そうだ、野郎が帰ってきて、何より先に行燈《あんどん》へ灯を入れらあ、そこをうしろからズブリと刺して睡らしちまい、そこらを少し荒しとけば、盗人の所業《しわざ》だと他人《ひと》が思うだろう。 熊 介 そいつあいい智恵だ。 角 又 その代り哥兄、餞別が欲しい。 熊 介 催促されて出すのは気が利かなかった。それ、みんな持って行ってくれ。これでお手ッ払いだ。(財布の底をはたく) 角 又 有難え、遠慮なしに貰っとくぜ。 熊 介 もっとしてえんだが、済まねえ、それで不承しといてくれ。 角 又 ああいいとも。まだ来ねえか。 熊 介 まだ――おッ来た。 角 又 来たか。哥兄は、そっちへ行って見ていな。 熊 介 じゃ、いいな又。 角 又 自慢じゃねえが、これで確かな腕さ。 [#ここから3字下げ] 熊介は次へ隠れ、角兵衛又は部屋の隅に潜む。 外から半太郎がはいってくる。戸締りが開くと外の月光がさし込んでくる。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 半太郎 うウ寒い。(灯を入れるため、行燈を持ってくる、火鉢の埋火を小付木につける) 角 又 (行燈の位置が変ったので、予期が狂い、どう不意を襲ったものか切《しき》りに考えながら、半太郎に発見されるのを怖れている) 熊 介 (次からそッと覗いている) 半太郎 (行燈に灯を入れる)おや。 角 又 (見付かり)ちえッ。(悔むが如く口走り、潔く進み出る) 半太郎 だれだ手前。盗人《ぬすっと》か。 角 又 (黙って抜刀を振りかぶる) 半太郎 (斬ってかかる角兵衛を躱し、蹴倒し、引捉えんとする背後から熊介が突いてかかる) 角 又 (半太郎の手をのがれ、戸を開けて外へ逃げ去る) 半太郎 (熊介を捕える)おやッ、濡れてやがる。手前、熊だな。面をみせろ。矢ッ張りそうか。 熊 介 こうなりゃあ俺も男だ。さあ殺せ。殺せ。 半太郎 馬鹿なことをいうねえ。こんな些細なことで人を殺しちゃ俺の方で合うもんか。止せ。さ、放してやる。 熊 介 (放たれて直ぐ)野郎ッ。 半太郎 (再び押えつけ)執拗《しつこ》すぎるぞ熊。手前の無法はだれでも知ってるが、こいつあ又《また》桁外《けたはず》れだ。 熊 介 さあ、どうともしろ。 半太郎 手前直ぐこんな風に逆上しやがる。そんなだと、だれかに詰らねえことで睡らせられるぞ。気をつけろ。 熊 介 俺をやらねえのか。手前はそうして人中《ひとなか》で俺に威張ってみせてえんだろう。その手を食うかい。 半太郎 気を廻すねえ、そうじゃねえ。俺はのう、この体が可愛いからよ。もう止せ、な。(熊介を放す) 熊 介 止すも止さねえも俺の勝手だ。 半太郎 判らねえ奴だなあこいつあ、じゃ割って話すから聞け、何の故《せい》でここにおいらが尻を据えたかっていうとな。愚痴だといやあそれまでだが、生れて育った江戸深川が、おいらあこの頃、恋しくてならねえんだ。 熊 介 (何をぬかすと聞いている間に、虚をみて一太刀でも斬ろうと心組む) 半太郎 ここは江戸の風があたる処、小網町《こあみちょう》へは水の上たった三里余り。俺が、さっき新河岸《しんがし》で見えねえ江戸をみているといったのあ、この心持ちよ。聞けば手前も土地ッ子じゃねえそうだから、さだめし故郷恋しの心はあろう。 熊 介 俺にやねえ。 半太郎 何、ねえ。そうか。ねえ奴にやねえだろうが、ある奴の胸にゃ灼きつく火の熱さで、空と水とをじッとみてりゃあ佐賀町《さがちょう》も手取橋《てとりばし》もこの眼の中へ湧いてくるんだ。熊、あやまれなら我《が》を折ろう。荒っぽい喧嘩は止してくれ。ここにいれば三里先が江戸と思い、帰るに帰られねえおいらの町内が、ツイ近《ちけ》え気もちでいられるんだ。俺は当座ここが放れられねえ。あすの朝おさだに会って話をしよう。それで手前、負けとけよ。 熊 介 どうも変だと思っていたが、手前兇状持ちだな。 半太郎 二丁目の親分の処へ、旅にん[#「にん」に傍点]できたとき俺が、どんな仁義をつけたか知らねえのか、ラク旅仁義じゃなかった、それは武州狭山で、拠《よんどころ》ねえ義理と恩とで、悪い奴を三人斬った一件よ、手前それは知ってる筈だ。 熊 介 その他に江戸で人をバラしてるだろう。叩きあ判らあ。 半太郎 江戸に何が残ってるもんか。ばくち好きからグレ廻り、喧嘩で人を斬りは斬ったが、そいつあ敲《たた》かれて、江戸を構われ、もう帳消しになっているんだ――とはいうものの、時節のくるまで身持ちを堅く、お上のお慈悲と神仏の、お手引きうけて江戸へ帰れと、おやじ、お袋の怒りつ泣きつの顔つきが、今だに時々夢にあ出てくる。それを無《む》にして明け暮れを、丁目半目で齷齪《あくせく》する俺、考えりゃ親には済まねえ。 熊 介 (黙って起つ) 半太郎 熊、まさか、狭山一件に柄《え》をすげて、俺の体を縛《しば》り屋《や》へお遣い物にするのじゃなかろうな。 熊 介 (図星を射られて、ビクリとなる) 半太郎 得手勝手か知らねえが、縁は切られても親がある、手前の意趣返しに御繩頂戴は厭なこッた。 熊 介 何の、俺はお前、だれにも黙っているよ。 半太郎 手前の面つきは、そういっちゃあいねえようだ。 熊 介 う、疑《うたぐ》るな、俺は屹と黙ってる。 半太郎 旅から旅で積みかさねた、人見修行《ひとみしゅぎょう》のこの眼の球が、手前の心を読みとったぞ。 熊 介 えッ。 半太郎 折角のこの土地も、ちえッ、もうおさらばか。うぬの五体は可愛いから、熊介、斬るぞ。 熊 介 覚《さと》りゃがったか。 半太郎 (熊介の斬り込む刃を躱して、浅く一刀斬る) [#ここから3字下げ] 外に、探し探してお仲がきている。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 熊 介 (再び斬ってかかり二の太刀をうけ、窓を破って逃げ去る) お 仲 (入口から覗いてみている) 半太郎 (月光を遮《さえぎ》られ、はッと心づく)だれだ。 お 仲 あたし――あたしなんです。(はいってくる) 半太郎 お前か――な、何で、やってきたか知らねえが、さっき助けてやったを枷《かせ》につかうようで吝《しみ》ッたれだが、逃げたあいつが祟りをするのは仕方がねえが、お前の口はふさいでてくれ。十里十五里と飛んだあとなら、喋舌《しゃべ》ったって文句はねえ。 お 仲 あたしあ、その十里十五里を、一緒に飛んで行っちゃあいけますまいか。 半太郎 えッお前が。そいつあどうも物好き過ぎらあ。(手早く旅支度にかかる) お 仲 (甲斐甲斐しく手伝う) 半太郎 済まねえ、あすこの戸を締めてくれ。 お 仲 あい。(戸を閉め心張り棒をかける、再び半太郎の旅支度を手伝う) 半太郎 お前、ズブ濡れだなあ、それじゃ体を壊すだろう。といったところで、女の物なんか、紐一本ありゃしねえし。 お 仲 いいよ。あたしなら、ようございます。 半太郎 せめて肌にはこの袷でも着るがいい。 お 仲 え。(ほろりとする) 半太郎 どうしたんだ。 お 仲 (涙を押え、にッこりして)何でもないんです。ね。一緒に行っていいんでしょう。 半太郎 この始末だ。(熊介の残した血痕を指す)罷《まか》り間違うと憂き目をみるぜ。 お 仲 いいんですそんなこと。 [#ここから3字下げ] 戸を外から敲くものがある。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 男 声 ちょいと伺います、今晩は。 半太郎 (緊張、声を低め)とも角、外へ逃げな、逃げな。(血を避けて、お仲を窓から逃がし、行燈の灯を消し、自分も出て行く) 男の声 (戸を敲く)今晩は、今晩は。(心張り棒が外れる。戸を開ける) [#ここから3字下げ] 江戸から尋ねてきた半太郎の母おさくと、半太郎の従弟太郎吉がはいってくる。太郎吉は佐賀町の小若の一人。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 太郎吉 叔母さん、中はまッくらだ。 お 作 どなたもおいでではございませんか。 太郎吉 半太郎さん、江戸から夕方の船で着いたんだよ、随分探してやっと判ったんだ。おッかさんがきたんだぜ。 お 作 留守かえ。半太郎や――、半太郎。そこらにいるのなら早く逃げのびておくれ。家へけさお上のお方が見えてね。 太郎吉 半さん――半さん。 [#ここから3字下げ] 遠くで、お仲と半太郎に吼えているらしい犬の声がする。 [#ここで字下げ終わり] [#2字下げ]〔大詰〕[#「〔大詰〕」は大見出し] [#2字下げ]第一場 柳のある堤[#「第一場 柳のある堤」は中見出し] [#ここから3字下げ] 青柳の並ぶ春の堤。神社か仏閣かが向うに見える。 (若草の萌ゆるころ、草摘みに適した処、江戸) 急に雨が降り出したので、草摘み人が右往左往し引きあげて行ったあと。 目立ってみえる柳の幹が二本、その一本の下に、美しき町の娘が二人、雨宿りをしている。もう一本の柳の幹に隠れて、性質の悪そうな御家人風の酔った男が、下卑た顔をして娘を覗いている。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 娘 一 お松ちゃん、裾がハネで汚れちゃうから、もッと端折《はしょ》っちまわないと台なしになるよ。 娘 二 だって、そんなに端折っちゃあ、きまりが悪いもの。 娘 一 あら厭だ。だれも見てやしないじゃない。構やしないよう雨に降られたんだもの。 娘 二 だって。 [#ここから3字下げ] 雲水の僧が一人、雨をめずるが如く、飄々として通っていく。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 雲水僧 (娘の雨宿りなどには眼もくれずして去る) 娘 二 じゃ、端折りましょうか。 娘 一 それがいいよ、あたしみたいに、もっと。もっとさ。 御家人 (今までは幹の蔭から覗いていたが。ぐるりと廻って姿を見せ)そうそう、そうやるんだ。 娘 二 あれッ。(雨の中に逃げ出す) 娘 一 いけすかない。(悪口はいったが相手が悪い奴らしいので、少し怯んで、二人とも前掛けを縦に頭からかむって走り去る) 御家人 なあんでえ、悪いことでもいやしめえし、ただ、そうそうといった許りだ。馬鹿にしてやがらあ。 [#ここから3字下げ] 破れ傘を貰った若い夫婦者が、相合傘で通る。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 女 房 (亭主の袖が濡れるので、引き寄せる) 御家人 ちえッ。 亭 主 (振り返ってみる、相手が悪いらしいので、女房を促し、急いで去る) [#ここから3字下げ] 一枚の蓆《むしろ》にくるまって手取りの半太郎と、女房になったお仲とがくるま[#「くるま」に傍点]り、雨をよけて娘のいた方の木の下にくる。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 半太郎 意地の悪い雨だなあ。お前、あンまり濡れもしなかったなあ。 お 仲 あたしゃ庇《かば》って貰ったんで、碌に濡れやしないけど、お前さんひどく濡れちゃったねえ。 半太郎 なあに大したことはねえ。おう、あっちの方が明るくなった。いい按排にこいつは地雨《じあめ》にならずにあがるだろう。 お 仲 ねえお前さん、雨のおかげで人がいなくなって、清々《せいせい》した景色になったねえ。 半太郎 違えねえ、まるでこいつあお前と俺とたった二人きりの世の中みてえだ。 お 仲 ちょいと、あすこをご覧よ、船の帆が見えるよ。こんな景色がお前さん好きなんだろう。 半太郎 好きだよ、邪魔はなし、汚れは雨が洗い浄《きよ》め、どこを見てもいい眺めだ。 お 仲 お前さんの好きなものは、こんな景色よりまだ他にあるじゃないか。 半太郎 又あんなことをいってやがらあ。あれも好きにゃ違えねえが。こう見た景色は。 お 仲 (思い込んで)お前さん。 半太郎 何でえ。 お 仲 本当に、お前さんがこの世の中で一番好きなものは何さ、それを今はッきり聞いておかないと、心配で心配で耐らないからねえ。 半太郎 又、始めやがった、よせやい。 お 仲 よせやいじゃないよ。本当のことを聞かせておくれ、ね。 半太郎 (ただ笑っている) お 仲 じゃあ矢ッ張り。 半太郎 お仲、わかったか。 お 仲 ええ、判ることは判ったけど。 半太郎 なあんでえ、ベソを掻いているのか。 お 仲 これが苦労にならずにいられようかしら。(溜息をして)意見をしても聞いてはくれず。 半太郎 おや、何をいってるんだお前、勘違いしてやしねえか。俺が一番好きなものというのは、それ、ヘヘ。こいつあ、なんぼ何でも正面からはいい難いなあ。 お 仲 わかっています。聞かないでも。 半太郎 レコのことを云ってるんだろう、違わあなあ。なるほど俺はあいつあ好きさ、一天地六の二ッ粒で、九半十二丁の争いは、ビリも生めばゾロも生む、あいつあお前、刃物入らずの果し合い、軍勢なしの戦さだから、止せたって廃《や》められねえが。この世で一番好きなものは、その他にあるんだよ。 お 仲 勝負事のその他に。 半太郎 うむ。あるさ。 お 仲 そりゃあ、何。 半太郎 え、そんなことを俺にいわせるのか。 お 仲 だって、いわなけりゃ判りゃしないじゃないの。 半太郎 じゃいおう。耳を貸せ。 お 仲 耳こすりなんかしなくたって。 半太郎 貸せよ。(お仲の肩を抱いて耳に口を寄せ「この世で一番好きなのは、手前だといつかもいったじゃねえか」という) お 仲 (衝きあげてくる嬉しさに、にっこりして)まあ、あたし。 半太郎 念を押す奴があるけえ。 [#ここから3字下げ] 雨、小降りとなる。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 御家人 (冷笑から反感に移り、遂に口を出す)おい、安くねえ図を見せつけるなあ。 お 仲 あれ。(きまり悪げに、半太郎と入れ代る) 半太郎 (御家人に心づき、むっとする) お 仲 (袂を曳く) 半太郎 (首肯いて)幸い小降りだ、そろそろ出掛けようか。 お 仲 あい。 御家人 おい待て。お前《めえ》じゃねえ、お仲に待てといったのだ。 お 仲 え。見たことのある人のようだけれど、あたしに何かご用ですか。 御家人 俺の面を忘れたか。下総佐倉へお出張《でばり》のうちに、七日八日も通わせて、土壇場で背負投げの、憂き目をみせた憶えがあろう。 お 仲 佐倉で。ああ、そうでしたか、それはどうもお気の毒さま。 御家人 そんないい草があるものか。そこにいるのはどうせ客だろう、そっちが客ならこっちも客になりたい、どんなものだ。 お 仲 ヘン、客じゃありませんのさ。大事な大事な亭主でございます、お見知り置きを願います。 御家人 嘘をつけ。酔っていてもこの両眼は確かなものだ。亭主か亭主でないか、ただ一目でわかっている。 半太郎 (初めはお仲の客らしいので、厭な気がしたが、後には、何の訳もなかったのを知って、女房がポンポンいうのを笑ってみていたが、御家人の口が自分に向けられたので、むっとして、ツカツカと進み)やい駄三ピン、手前みてえな奴があるから、男って奴あ狙いどころが、下《さが》っていると女がいうんだ。 御家人 何だ、そりゃ何のことだ。 お 仲 れっきとした亭主持ちに、客になりたいがもないもんだ。 半太郎 女をみりゃ売り物と心得、直ぐに土足を突っ込みたがる、忌々しいひょっとこ[#「ひょっとこ」に傍点]だ。 御家人 おのれ、武士にむかって雑言《ぞうごん》するか。 半太郎 手前、武士《ぶし》なら、蝶々|蜻蛉《とんぼ》も鳥のうち。 御家人 うぬ。 半太郎 (蒐《かか》ってくる御家人を押え、咽喉を締めあげ)三千世界の不運な女に成り代り、懲戒《こらしめ》にうぬを締めてくれる。 御家人 うむ、うむ。(咽喉を締められて呻く) 半太郎 さあ、これでもか。これでもか。 お 仲 もっとさ、もっときつくだよ。(半太郎にすすめる) 御家人 (七顛八倒して)うむ――うむ。 [#ここで字下げ終わり] [#地から1字上げ](居処変り) [#2字下げ]第二場 品川の家[#「第二場 品川の家」は中見出し] [#ここから3字下げ] 半太郎の家。 (南品川にある瀬取り〈沖仲仕〉部屋から遠からず、所帯を張っている半太郎は、好きな賭博のためにくらし[#「くらし」に傍点]を曲げていた。家の中に屏風があり、その内側に重患のお仲が床についている) 医者永井香伯が今、廻診にやってきたところ、隣の泥水あがりと見える中年増の女房おたけが案内している。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] おたけ ご苦労さまでございます。 香 伯 はいはい。どうもきょうはいい凪《なぎ》でござる。して、ご病人はどんな風かな。 おたけ すやすや、今睡っておりますから、起します。おや、魘《うな》されてるんじゃないかしら。 香 伯 睡ってござる、左様か。熱はひかぬかな。 おたけ 何ですか、一向どうも捗々《はかばか》しくございません。 香 伯 それはどうも困った。 おたけ (医者の顔色をみて)先生さま、もしや――いけないのではございませんか。 香 伯 実はな。ちょっとこちらへ来なさい。実はな、どうも、思わしくない。 おたけ まあ。 香 伯 こんなこと、当人にいってはいけぬ、よいかな。半太郎さんにだけは、耳打ちをして置くがいいな。当人に、もしも、こんなことを申そうなら、二日三日はまだ保つ寿命が即座に消えるかも知れぬ。よいか、くれぐれも当人には知らせぬようにな。 おたけ (前掛けで涙を拭いている) 香 伯 お前さんは、そこにいなさるがいい。愚老がまいって診《み》てあげる。どれ。(屏風の内側にはいって行く) おたけ (涙を押えながら、そっと屏風のうちをみている) 香 伯 (憂鬱な態度で出てくる)おかみさん、大分よろしい様子だ。(手招ぎして連れ行き、声をひそめ)どうもよろしくない、受合えぬ。半太郎さんが帰ってきたら、今のうちに、知らせるところへは知らせ、遺言をそれとなく聞いておくがよいと、そういってあげるがよい。 おたけ (おろおろして泣きかける) 香 伯 病人に覚《さと》られぬようになさい。いいかな。では、又明日。 おたけ (香伯を送り出す) [#ここから3字下げ] 窶れたお仲が屏風を開ける。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] お 仲 (枕許の土瓶の水を、やっとこさで呑む) おたけ (引返してくる)おや、そういえばいいに、水を飲ませてあげるものをさ。 お 仲 毎日、世話をやかせて済みませんねえ。 おたけ 何だねえ、更《あらたま》ってそんなことをいってさ。いいんだよお仲さん、あたしはねお前さんが好きなんだから、出来ることなら何でもしてやるよ。 お 仲 済みません。 おたけ 今も香伯さんがそういってたよ。大変よくなったって。 お 仲 そんなこと、仰有ってましたか。あたしには何ともいわないで、横を向いてむずかしい顔をなすってましたけど。 おたけ そんなことはなかった筈だ、あたしも覗いてみて知ってるよ。寝たらどう。 お 仲 今まで病《わずら》ったことがないものだから、寝ていると体が痛くって。少し、こうしていたいんです、いいでしょうかしら。 おたけ ああいいともさ。(薬を煎じる) お 仲 あたし、まだ死にたくないんですから、悪かったら辛抱して寝ますけど。 おたけ (暗涙をのみ)いいんだともさ。香伯さんが少しぐらいの無理はしてもいいようなこといっていたからね。 お 仲 そうでしたか。ああ、早く癒りたい。 おたけ 察しるよ。 お 仲 あたし、今、夢をみていたんですの。 おたけ じゃ、矢ッ張り魘《うな》されてたんだね。どんな夢、いい夢だったかい。 お 仲 家の人と一緒に江戸へ帰っているところの夢。 おたけ 何をいってるのさ。ここから海の向うに江戸を年百年中みてるじゃないか。帰るも、帰らないもありゃしないじゃないか。 お 仲 ええ。でも深川のおとッさんおッかさんの家へ、一緒に住んでいる夢でしたから、あたしが随分嬉しがってねえ。 おたけ 深川のというと、お仲さんの。 お 仲 ええ。(暖昧に答えて)おッかさんが、そりゃあよくしてくれるんで、これだからあの時死なないでよかったと、つくづく夢の中でも考えちゃって。 おたけ うむ、うむ。 お 仲 それから家の人と一緒に、どこかお詣りに行ってねえ。 おたけ よかったねえ。 お 仲 家の人、オツな服装《なり》でね。おたけさん、夢って嬉しいねえ、こんな貧乏暮しの癖に、いい衣裳着てお出掛けだなんて。 おたけ その代り、さめりゃ元の通り世話場《せわば》さ。だけどね、半さんは瀬取《せど》りだってヒラびと[#「びと」に傍点]ではない、収入《みいり》だってある筈なのに、そういっちゃ悪いけど、家へ入れる物を入れない悪い癖があるから、お仲さんが可哀そうだよ。 お 仲 いいえおたけさん、家の人はキチンキチンと入れてくれるけど、あたしがだらし[#「だらし」に傍点]がないから、貧乏するんです。 おたけ そら、その心もちがあたしは嬉しいんだよ、だれだって亭主のアラはいいたがるものさ、それをお仲さんだけは、亭主ばかり庇《かば》うんだもの。本当にあたしが男だったら打棄とかないよ。 お 仲 だって、あたしにゃ半さんて人がありますもの。 おたけ おやおや、ハジかれちゃったねえ。 お 仲 そうじゃ無いんですけど。 おたけ いいんだよ、あたしはハジかれても、詰りは喜んでるんじゃないか。夫婦相惚れ、これでなくちゃいけないんだよね、けど、半さんのばくち[#「ばくち」に傍点]好きは全く疵だねえ。 お 仲 ええ。 おたけ おや、雨が降ってきたのかしら。 お 仲 (半太郎の勝負癖を苦にしている) おたけ (窓から外をみる、窓の際に桜の枝がのびてきている)なあんだ、雨じゃなかったよお仲さん。おやまあ。よかったねえ、半さんが帰ってきたよ。 お 仲 家の人が帰ってきてくれましたか。 [#ここから3字下げ] 半太郎、手に生蠣《なまがき》の藁づと入りを下げ、浮かぬ顔ではいってくる。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 半太郎 や、作さんのおかみさん、済みません。 おたけ 半さん、どこを歩いていたのさ。 半太郎 そういわれると面目ねえ。お仲今帰ってきた。猟師町へ行ったり浜川へ行ったりして、やっと蠣をこれだけ貰ってきた、今|煮出《にだ》してやるから汁を飲んでみな。こいつあ覿面《てきめん》に精がつくそうだからなあ。 お 仲 済まないねえ。 半太郎 済まねえのは俺の方だ。やくざの足を洗っても、廃《や》められねえばくちが祟り、病《わずら》ってるのにこの貧乏だ、もう一日二日うちには、屹とどうかするから待っててくれ、そうなりゃ、少しよくなるのを待って、楽な旅をさせて湯治につれて行くぜ。 おたけ お仲さんやお喜びよ、半さんがあんな優しいことをいってるよ。 お 仲 (泣いている) 半太郎 泣く奴があるもんか。ねえおかみさん。 おたけ 涙がこぼれるのはもっともだよ。半さん、その蠣の煮出しは、あたしが家へ行ってやってきてあげるよ。 半太郎 そうして貰うと有難えが。 おたけ 遠慮することがあるもんか、貧乏人は相見互いさ。(蠣を持って去る) 半太郎 どうも済みません――お仲、ちったあいいか。 お 仲 ああ、今は大分楽なんだよ。 半太郎 そいつあ有難えな。薬はまだいいのか。 お 仲 今し方、飲んだよ。ねえお前さん、あたし後生一生のお願いがあるんだけど。 半太郎 何のことか知らねえが、お前の頼みなら何でも聞くぜ。 お 仲 屹とだねえ。 半太郎 珍しく念を押すじゃあねえか。 お 仲 針箱はここにあるから、そこに硯箱があるでしょう。 半太郎 要るのか。(硯箱をとってやる)何だよ一体。 お 仲 お前さん。あたし、もう長いことないんだよ。 半太郎 (ピクリとして)馬鹿なことをいうねえ。 お 仲 いいえ、香伯さんの顔色《かおいろ》で、あたしあすッかり知っている。もう直き死ぬ女房が、後生一生のお願いだから、右の腕に、刺青《いれずみ》をさせておくれな。 半太郎 そうか――いいとも、が、何と彫るのだ、お前の名前が彫りてえのか。 お 仲 ええ、怒りゃしないね。 半太郎 怒るもんかよ。(右腕を出し、用意する) お 仲 向うを見てておくれよ。 半太郎 よし来た。(彫りよきようにする) お 仲 (半太郎の腕へ骰子を彫る) [#ここから3字下げ] 窓の外を飴屋が通る。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 半太郎 (痛みを怺える)もういいか。 お 仲 (喘ぎつつ懸命に彫りつづけ、墨を塗る)もう、いい、んだよ。 半太郎 (遂に怺え終り)どれ。(紙で墨を拭く)おや。 お 仲 ご免なさい。怒らないでね。 半太郎 こ、こいつあ俺への――意見だなあ。 お 仲 それを見るたび、思い出しておくれ。ばくち[#「ばくち」に傍点]はいけないと、くれぐれも、死んだ女房がそういったっけと。 半太郎 ――うむ、廃《や》めようよ。 お 仲 あ、それで、あたしゃ、安心して逝《ゆ》かれるよ。 半太郎 廃めるから、癒《なお》ってくれ。な。俺のおやじお袋にも、天下晴れて会わせてやりてえ。な、癒ってくれ。 お 仲 え、え。あたしゃ癒りたいんだよ、お前さんと離れて遠くなんかへ、逝きたくはないんだけれど。 半太郎 なあに、癒るさ――癒るともよ。 [#ここから3字下げ] 窓の外に行乞僧の読経の声がする。 [#ここで字下げ終わり] [#2字下げ]第三場 六地蔵の桜[#「第三場 六地蔵の桜」は中見出し] [#ここから3字下げ] 六地蔵一本桜。 (品川在の寺院の横裏にある、野立ちの六地蔵脇、そこに見事なる桜の大樹が、左右に枝をぐいとのしている) 桜の木の下に、半太郎の父喜兵衛、母お作が廻国巡礼を終り憩んでいる。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 喜兵衛 (煙管をお作に貸して一服させる)江戸の桜をみないこと二度だったなあ。 お 作 どこの桜も花は同じだけれど、あたし共には矢張り江戸のが一番いい。 喜兵衛 (黙って花を見ている) お 作 おじいさん、どうかしたの。 喜兵衛 いや。何でもないさ。幾度いっても同じ愚痴だが、半太郎の奴さえ堅くしてくれたら、こんな風になって、知らぬ他国三界をうろうろしないでもよかったろうと、今もここで花をみているうちに、つい又愚痴が出てしまったのさ。 お 作 (涙を拭いている)ねえおじいさん、あの子はどっかに無事でいてくれるかしら。 喜兵衛 二年もかかって探し歩いたが、皆目《かいもく》わからないくらいだから。無事だろうか、どうだろうか。 お 作 もし死んででもいたら、どうしよう。 喜兵衛 おれは、あいつが何処《どこ》かで殺されているような気がしてならない。そうでなければ有難いが、いやあ、さんざん探し歩いたあとだもの、もう諦めるより他はない。今夜は品川へ泊り、あした、ゆっくり江戸へはいろう。急いで行っても楽しみはない。 お 作 太郎吉のところの赤ン坊が、さぞ大きくなったろうねえ。あれが家の半太郎のだったら、どんな無理してもきょう中に江戸へはいるものをねえ。 喜兵衛 ま、仕方がない。これも因縁ごとだ。行こうか。 お 作 ええ。この道は行きどまりらしいよ。 喜兵衛 そんなことはなかろうと思うが。ま行ってみよう。 [#ここから3字下げ] 夫婦は地蔵に拝礼して去る。 手取りの半太郎が、近所に開かれている賭場から逃げてくる。散々に打ち据えられたあとと見え、髪乱れ、衣類破れ、腕の刺青がよく見える。 博徒、悪太郎、壁吉、明神辰、青物六が、追いつき、組付き、引き据える。 中盆らしき赤ッぱ猪太郎が、卒塔婆の折れを持って追ってくる。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 猪太郎 あれ程ヒッぱたいたのに逃げ出すなんて、こいつあ不死身みてえな奴だ。 悪太郎 猪太郎さん、どうしよう。 猪太郎 どう。そういう手間でみしみし[#「みしみし」に傍点]殴れ。 悪太郎 ただ殴るだけでは私刑《しおき》にならねえ。 青物六 髷をツメるとか。指をツメるとかよくいうが、そうやってみたらどうだねえ。 猪太郎 そりゃ後でのことだ。殴れ殴れ。 明神辰 よし来た。野郎ッ痛えぞッ。 半太郎 (その前から逃げたがっていれど、体が痛んで自由が利かず、棄鉢になって)さあ、殴りゃがれ。 [#ここから3字下げ] 悪太郎等が殴《う》ちにかかる。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 猪太郎 待った。(悪太郎等を制す) [#ここから3字下げ] 鮫の政五郎(四十余歳)、色白の灰汁《あく》の抜けた親分。若い者が一人ついている。 猪太郎等、出迎えの礼を執る。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 半太郎 (倒れて、喘ぎ苦しんでいる) 猪太郎 (政五郎に)こいつあ瀬取《せど》りだそうでございますが、今し方、荒しを掛けやがったので私刑《しおき》をしてるところです。 政五郎 (首肯いて聞いている)そうかい。素人なんだね。 猪太郎 よく方々の賭場へくる奴です。 政五郎 そうかい。(ジロリと半太郎を見る)ちょいと、起《おこ》して顔を見せてくれまいか。 悪太郎 へい。(壁吉と二人で半太郎を起す) 半太郎 (苦痛を怺えている) 政五郎 こりゃ大分シメたらしい、ひどく弱っているようだ。 猪太郎 かなり痛めてみましたが、強情な奴で、音をあげません。 政五郎 そうかい。ま、まあ、手を引け。おい若いの、わしは鮫の政五郎という者だが、知っていないかね。 半太郎 (顔を蹙めて)知ってます。 政五郎 そうかい知っていたかい。聞けばお前《めえ》、場荒《ばあら》しをやりかけたそうだが、そうかね。 半太郎 やりました。 政五郎 わしにケチをつける筋があったのかね。 半太郎 (頭を振って)銭が欲しいのでやりました。 政五郎 それだけのことかい。いくら欲しいか知らねえが、それならそうと云ってくれば、くれねえものでもなかったのに。 半太郎 そ、そんなこたあ、子供にいってくだせえ、俺にゃ通用しねえ。 政五郎 どうして。 半太郎 立派な人らしくもねえ、世の中の潮加減《しおかげん》を知らねえ口あ、きくものじゃねえ。 猪太郎 何だと。 [#ここから3字下げ] 悪太郎等も犇めく。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 政五郎 これさ、ま、まあいい。話はまだ中途だよ。(半太郎に)そうかね、わしのいったことが世間知らずだったかね。 半太郎 そうです、身分が出来て禄が豊かについてくると、世間の風も波もご存じねえ。 政五郎 どうして。聞かせてくれな。 半五郎 いいますとも。銭がなくって身投げ首くくりをした後になって、可哀そうに死ぬ程なら俺が何とかしてやるものをと、損のゆかねえ男気《おとこぎ》なら、大抵のものが出しますぜ。 明神辰 堪忍ならねえ、当《あて》っこすりをいやがる。 壁 吉 (政五郎に気をかね辰を宥める) 半太郎 女房が病っていて困るから、銭を貸してくださいと、けさ伺ったとして、貸してくれますか。 政五郎 そうよなあ、嘘偽《うそいつわ》りのないところ初めて見るお前では、ブ職であれば別段だが、素人では先ず貸さねえ。訳がわかればくれもしようが。 半太郎 いくらくれます。 政五郎 正直いえば先ず、一朱か二朱か、そんなところだ。 半太郎 世間並はそんなものです。それんばかりでどうなるものか。だから俺は、無理を承知で度胸を据え、賭場へ因縁つけてみたんだ。 政五郎 どう因縁をつけてみたね。 半太郎 その人(猪太郎)を脇へ呼び、あの壺振りのつかう骰子《さいころ》はイカサマだと吹ッかけました。 猪太郎 (政五郎に)そうなんですよ親分、あんまり舐《な》めたいい草だから、骰子を取寄せて検めさせたところ、癖骰子《くせざい》とスリ換えて、因縁がましくいうものですから、ここへ担いできた訳です。 政五郎 (首肯いて聞いている。半太郎に)おい若いの、お前、女房が病ってるのか。 半太郎 ええ。 政五郎 その薬代が欲しかったのだね。 半太郎 薬代もだが、もう少し金がかかりますのさ。 政五郎 どういうことだね。 半太郎 いったところで始まらねえ。 政五郎 そうでなかろう。聞きたいね。 半太郎 じゃいいますが、聞かせたところで、とても判っちゃくれなかろうが実は――いやよそう。なまじ[#「なまじ」に傍点]話して笑われれば、我慢するのに骨が折れます。 政五郎 笑わねえ。 半太郎 屹と。 政五郎 わしは男だ。 半太郎 家来共にも屹と、笑わせませんねえ。 政五郎 うむ、請合う。 半太郎 じゃあいおう、俺という男一代で日本一好きなものは、お仲という女房なんでさ。 猪太郎 (笑いを歯を咬んで怺える) 悪太郎 (辰、六、笑う) 壁 吉 (笑わずにいる) 半太郎 (政五郎の前に進み、励声一番)何だッこのザマは。 政五郎 野郎共、黙れッ。 悪太郎 (辰、六ともに恐縮する) 政五郎 こいつあ一丁確かに負けた。 半太郎 (政五郎をじッと見ていて)話しますぜ、聞いてやっておくんなさいまし親分。(痛みを怺えて腕を捲り、骰子の刺青を見せ)見てやっておくんなさいまし、こりゃあ女房の意見の刺青、手前身の上は略《りゃく》します。夫婦になって初めて知った、女のいいとこが骨身に沁み、すすめられるままにやくざ[#「やくざ」に傍点]の足を洗ってしまい、品川瀬取りになりましたが、こっちは根が佐賀町育ち、道は似たような水揚げですから、幸い用いられて役付きの裾の方に組込まれましたが、親分、今もいった通り、世の中で一番好きは女房お仲、二番の好きはばくち[#「ばくち」に傍点]でござんす。ばくち[#「ばくち」に傍点]、ばくち[#「ばくち」に傍点]と明け暮れに、打ってばかりいるもんだから家の中はガラン堂、女房が床についてからも、風邪だ風邪だと括《くく》った多寡がほどけてこず、次第に重《おも》ってこのごろじゃ、助かる見込みがねえんでしょう、小鼻《こばな》の肉が落ちました。そうなって眼がさめたが、もう遅い。(涙を拭い)どうで死んで行くんなら、せめて、家の中を諸道具で飾り立ててみせてやり、お前が厭がるばくち[#「ばくち」に傍点]で儲けてこの通り、これを名残りにもうぶッつり、手を出さねえと安心させたく、夢を胸の中に描いたものの、肝腎かなめの銭《もとで》がねえ。困った時に出る智恵は、どうで碌なもんじゃあねえ。因縁をつけてはみたが、この態《ざま》です。親の罰が今あたったんだ。ハハハ。もうよそう、いくら喋舌《しゃべ》っても、他人にゃ得心が行かねえのは知っています。睡らせるともどうなりとも、さあ、やって貰いましょう。 政五郎 若いの。その刺青は女房の意見とかいったようだ。売れ、買おう。(笑顔をみせて)子分になれという話さ。 半太郎 え。 政五郎 いくら要る、五両か、十両か。 半太郎 (刺青を、女房お仲と思い)厭だ。 悪太郎 何だと。 猪太郎 (悪太郎を制す) 政五郎 不貞腐れの強い野郎だ。猪太郎、骰子《さいころ》を出せ。 猪太郎 え。(骰子を渡す)へえ。(怪しんでいる) 政五郎 若えの。行こう。丁半だ。 半太郎 な、なんですって。 猪太郎 (その他、びっくりする) 政五郎 賭けろ、その命を。 半太郎 ううん、破れかぶれだ、賭けよう。勝ちゃどうなる。 政五郎 (腹を叩いて)これをくれよう。 半太郎 貰いますぜ。 政五郎 吉、お地蔵様から茶碗をお借り申せ。 壁 吉 へい。(六地蔵の茶碗の水をあけて政五郎に渡す) 政五郎 (骰子を茶碗に入れて半太郎に差出す) 半太郎 (受取る) 政五郎 振れ。 [#ここから3字下げ] 猪太郎等、半太郎の手先に目を注ぐ。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 半太郎 (茶碗を伏せんとして、右腕が痛む、苦しむ) 政五郎 どうした。 半太郎 (左の手で刺青のある上を軽く叩き瞑目して)判ってる、判ってるよ、これ一番だ、もう――これ切りだ。(茶碗を伏せる) 政五郎 おい、切れ。 半太郎 半だ。 政五郎 丁だよ――勝負。 半太郎 (茶碗に手をかけんとして、右腕が再び痛む。左手で軽く叩き、瞑目して)判ってるよ。いいんだ。いいんだよ。(手を出そうとする、まだ痛む)これっきりだ、これ一番、もうしねえ。(今度は腕が利く、茶碗をとる、中は半)あ。半、半だッ。 [#ここから3字下げ] 猪太郎等、「あッ」と驚き、半太郎に打ち蒐《かか》ろうとする。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 政五郎 (励声一番)何をするッ。 半太郎 勝った、勝――。 政五郎 (懐中からずッしり重い財布を出す)若えの、わしの約束は、これだったよ。それ。 半太郎 えッ。(呆気にとられて、財布を手にする、重い) 政五郎 そこまで行けば駕籠がある。ひとりで帰れるか。 半太郎 (金を得て、希望に充ち、元気づく)ええ、帰れますとも。 政五郎 じゃあ、又会おう。(去る) [#ここから3字下げ] 猪太郎等、度肝を抜かれ、感嘆して政五郎に跟いて去る。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 半太郎 (財布を凝視し、やがて起ちあがる、打たれた痛みでよろめく機《はず》みに財布の口から小判が出る) [#ここから3字下げ] ぱッたり倒れ伏す。 喜兵衛、お作、引返してくる。 [#改行天付き、折り返して1字下げ] 喜兵衛 (伏している半太郎を、お作と共に、遠くから見つける) 半太郎 何ッ。これしき。(苦痛を怺え、よろめく足で急ぎ行く) [#ここから3字下げ] 喜兵衛夫婦が、半太郎だとは心付かずに見送っている。 [#ここで字下げ終わり] [#地から1字上げ]幕 [#ここから地付き] 昭和七年一月作 [#ここで地付き終わり] 底本:「長谷川伸全集 第十六巻」朝日新聞社    1972(昭和47)年6月15日発行 初出:「改造」改造社    1932(昭和7)年3月号 ※本文冒頭に記載の表題はルビ付きです:刺青奇偶《いれずみちょうはん》 入力:山崎正之 校正: 2014年10月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。