家なき娘(アン ファミーユ) En famille エクトル・マロ Hector Malot 津田穣訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#3字下げ] (例)※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]ユニコードによる漢字の指定。3-1はその文字の初めて出現する頁番号と行番号。ただし下巻の頁番号は区別のため2000を加えて4桁で表示。 《》:ルビ (例)翰林院《アカデミー》 ------------------------------------------------------- [#3字下げ]解※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1][#「解※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]」は大見出し]  ここに語られてゐる『家なき娘』(アン・ファミーユ)En famille,1890. といふ物語は、フランスの小※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]家エクトル・マロの書いたものである。讀※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]※[#「言+睹のつくり」、第3水準1-92-14]君はすでにお氣づきであらうと思ふ、この物語は同じ作※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の『家なき兒』(サン・ファミーユ)のいはば姉妹篇である。  作※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]エクトル・マロ Hector Malot といふ人は、別段數奇な運命を持つた人ではない。今から一百十年ほど前[#底本では「前」は「剪−刀」]、一千八百三十年五月にセーヌ川下流の大都會ルアンに近いラ・ブウイユといふ町で生れ、一千九百七年にフォントゥネ‐ス‐ボアで亡くなつた。父は公證人であつた。マロはルアンや巴里で法律の勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]をしたが、もともと文學に對して激しい愛情[#底本では「情」は「りっしんべん+睛のつくり」]を持つてゐたから間もなく小※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]家となつたのである。かなりたくさんの作品を※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]してゐる。しかし彼の名前が不朽のものとなつたのは子供たちの小※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]を作つたことによつてであつた。中でも『家なき兒』やこの『家なき娘』などは際立つてすぐれ、少年少女の讀物或はひろく家庭小※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]中の白眉と稱せられてゐる。ルュシーといふ自分の愛娘を喜ばせるために書き始められたのだといふ。右に擧げた物語は二つながらフランス翰林院《アカデミー》の賞をうけた。今は立派な古典となつたこれらの流麗典雅な文章を綴つたころ、マロは老境に近かつた。『家なき兒』を出してのち十年餘り經つてこの『家なき娘』を書いたのだが、そのとき彼は六十※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]であつた。  『家なき兒』は少年を主人公としてゐて、この不幸な少年が、滑稽なお猿や賢い犬たちを引きつれた旅※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りの老人に賣り渡され、荒野で怪物に追はれたり森で狼に犬を浚はれたり(上卷)、炭[#底本では「炭」は「山/(恢−りっしんべん)」]坑で生埋めにされたり(中卷)、色んな悲しい目や怖い目にあひながら決して※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望せず智慧と忍[#底本では「忍」は「仞のつくり/心」]耐と愛情をもつて戰ひぬき、たうとう痛快な冒險の後、美しくやさしい生みの母親にめぐりあふ物語(下卷)であるが、『家なき娘』のはうは、一人の少女を主人公としてゐて、この可憐なペリーヌといふ少女が、辛うじて辿り※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた巴里の場末で胸も張り裂けるばかりの目に逢ひ、貧乏だが情には厚い人々と別れ、畑の中の番小屋に恐怖の夜を明かしたり飢[#底本では「飢」は「飮のへん+几」]ゑて街道に行きたふれたり、これまた樣々の苦難を經た後、つひに或る驚くべき企てを心に祕めて目的の村に乘込み、一先づすてきな小島に住居を定める(上卷)といふ物語であり、『家なき兒』の特長としてゐるあの思ひがけぬ興味が次々につないでゆく場面の極りない變化はここにも多分に感じられはするが、むしろこの變化はここでは何か女性固有の纖細なもの、靜かな味ひ深いものに潤つてゐて、下卷にはひるとやがてこの潤ひが勝[#底本では「勝」は「縢」の「糸」に代えて「力」]を占めるのである。單なる面白さがいよいよ※[#「米+睛のつくり」、U+FA1D、4-14]~的な喜びに移つてゆき、宮殿のやうな村のお邸に※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]然現はれて祕策を※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]々と實行する不思議な少女の描寫は、初夏から晩秋に入つた自然のやうに※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]にたまらなくしみじみしたものとなつて、私たちを深い感興に誘ふのである。作※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の願ひも實はそこにあつたのにほかならない。  一たい作※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は『家なき兒』の大成功を見ても別に急[#底本では「急」は「(危−厄)/(帚−冖−巾)/心」]いでその姉妹篇を書かうといふ氣は起さなかつた、但しよい題材があればと考へて長い年月を過ごしたのだが、ふと『家なき兒』の最後の箇所つまり少年がつひに幸bネ家庭を拵へ得たその章を主題としてこれを展開してみようといふ慾望をおぼえた。――『家なき娘』の原名アン・ファミーユが『家なき兒』の最終[#底本では「終」は「糸+冬」の「冬−夂」に代えて「冫」]の章「|家にて《アン・ファミーユ》」からそのまま採[#底本では「採」は「てへん+綵のつくり」]られたのもそのためである。――マロは、樂しい家庭の再建のためにはどんな困苦も缺乏もいとはず自分の意志を貫徹し、つひには人々をして自分を愛せしめるにいたる、雄々しい少女を描かうとしたのである。例へばこの小※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]の後記に作※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]みづからはかうのべてゐる、「『家なき娘』を支配すべきものは意志の※[#「石+幵」、第3水準1-89-3]究であつた。作中に私は、一つの性格における意志の形成、それの働き、それの果たしうる奇蹟の數々、さういふものを描かうと努めたのである」。實地にソムの泥炭坑を訪れたり麻[#底本では「麻」は「嘛のつくり」]の工場を調べたり長い※[#「石+幵」、第3水準1-89-3]究と準備とがこの小※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]に先立つたことはいふまでもない。  原名のアン・ファミーユといふ言葉そのものには、右にのべたところでもお分りになるやうに、『家なき娘』といふ意味は少しもない。「家を持つて」「樂しい家庭で」「一家打ちそろつて」といふやうな意味あひの日本語でこの小※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]の題名にふさはしいものを、長い間私は搜したが見つけることができなかつた。從來『家なき娘』として知られてゐるのでこの標題を蹈襲した。  カルドン・ドゥ・モンチニー氏は、いつもながらの變らぬ友情をもつて、微力な譯※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の疑問を懇切に解いて下さつた。特に記して感謝の微意を表したい。 [#地から1字上げ]昭和十六年夏         京都にて 譯  ※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36] [#改丁] [#ページの左右中央] [#2字下げ]家なき娘 上[#「家なき娘 上」は大見出し] [#改丁] [#2字下げ]一[#「一」は小見出し]  土曜[#底本では「曜」は「日+櫂のつくり」]日の三時頃はよくさうだが、ベルシの税[#底本では「税」は「禾+兌」]關の入口は混雜してゐた、さうして河岸には車が四列になつて後から後から詰めかけ、樽を積んだ二輪車、炭や材料をのせた車、秣や藁を運ぶ荷馬車などがみな、六月の明るい※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]い太陽の下で、日曜の前の日に巴里へはひらうとして急ぎながら、許可の來るのを待つてゐた。  さうした車のむれの中に、柵門から大分離れたところに一臺、どことなく哀れな滑稽味のある妙な形の車があつた。それは一種の家馬車であつたが、家馬車よりはさらに簡單で、輕い枠《わく》に厚ぼつたい布を張り、屋根は厚紙に|瀝※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]《チャン》を塗つたもので、この全體に小さな四つの車輪が附いてゐる。  その布も昔は※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]かつたに違ひないが、ひどく色ざめて汚れて、すり切れてゐるので、たぶん※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]かつたのだらうとしか言へない。同樣に、四方に大きく入れてある文字も消[#底本では「消」は「さんずい+悄のつくり」]えてゐるので、これを判[#底本では「判」の「半」に代えて「絆のつくりの縦棒を左にはらったもの」]じようとしても、まあ大體そんなところだらう位で我慢しなければならなかつた。一つはギリシア文字で、もう初めの[#1段階小さな文字]|φωτογ《フオトグ》[#小さな文字終わり][#φωτογραφιαの前半]しか讀めず、下のもう一つの文字はドイツ語の |graphie[#Fotografie の後半、底本ではフラクトゥール(ひげ文字)]《グラフィー》らしく、もう一つはイタリア語の|FIA《フイア》[#fotografiaの末尾]らしい、最後に最もあざやかにフランス語で |PHOTOGRAPHIE《フォトグラフィー》 とあり、これは明らかに他の三語の飜譯であつた、さうしてみるとこれらの文字は旅程表みたやうに、この哀れなガタ馬車が、フランスへはひつて遂[#底本では「遂」は「燧−火」]に巴里の入口に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]くまでに、樣々の國を通つて來たのだといふことを示してゐた。  そんなに遠くからここまで、あの驢馬が車を曳いてきたのかしら?  一見それは疑はしかつた、それほど驢馬は※[#「やまいだれ+溲のつくり」、第3水準1-94-93]せ※[#「「褒の保に代えて丑」、U+2E569、10-4]へて弱[#底本では「弱」は「嫋のつくり」]つてゐた、がよく見るとその※[#「「褒の保に代えて丑」、U+2E569、10-4]弱は、長いあひだ貧乏をして疲れを忍んできたために他ならなかつた。實際これはヨーロッパの驢馬よりは背の高い、充分胴まはりの太い頑丈な動物で、すらりとしてゐる。毛は灰[#底本では「灰」は「恢−りっしんべん」]色で、腹部の毛は、道中の埃に汚れてゐるけれど薄[#底本では「薄」は「縛のつくり」に代えて「溥のつくり」]い色をしてゐた。Kい幾つかの斜線が、すぢのついた蹄を持つしなやかな脚を描いてゐた、さうしてどんなに疲れてゐてもやはり、我意を張るやうに決然と、いたづらツ兒らしく、首を高く上げてゐた。馬具もこの車にふさはしく見附かり次第のさまざまの色の太紐や細紐でいい加減に繕つてあつたが、日光と蠅とを防ぐため、道々花のさいた枝や葦を切り採つて一ぱい驢馬にかけてあるので、その蔭になつてよく見えなかつた。  そばに十二、三※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]の少女が、※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]道のふちに腰をおろして驢馬を見張つてゐた。  この子の特徴は一風變つてゐた。明らかに混血兒で、どこかにそぐはないところがあつたが少しも荒々しいところはなかつた。つやのない髪の毛、琥珀色をした肉色は意外だつたけれどしかし顏は悧巧さうな優しみを見せ、その優しみを切長《きれなが》の狡《ずる》さうなおつとりしたKい眼が、際立たせてゐた。口も重々しかつた。([#1段階小さな文字]入力※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]註:このあたりは二宮フサの訳では「顔は繊細《せんさい》でやさしく、切《き》れ長《なが》でりこうそうでまじめな黒い目が印象的《いんしょうてき》である。口もともきりっとしている。」となつています。また、Florence Crewe-Jones による英訳では "the sweet expression of her face was accentuated by the dark, serious eyes. Her mouth also was very serious." となっています。[#小さな文字終わり])體は、休憩の疲勞に沈み切つてゐたが、顏と同樣、纖細で同時に~經質な美しさを見せてゐた。兩肩は、昔はたぶんKかつたのであらうが、何ともいへない色になつた角張つた見すぼらしい上衣の中で、消えてゆく細い線のやうに柔らかであつた。兩脚はぼろぼろの長いスカートの下で、しつかりとしてゐて、自由に動いた。しかし貧しい生活は、その生活を送[#底本では「送」は「鎹のつくり」]るこの少女のりりしい物腰を少しも弱めてゐなかつた。  驢馬は高い大きな秣車のうしろにゐたので、面白がつて、時々その草を一口くはへ、惡いことはよく承知してゐる賢い動物だから、注意してそれをそつと引拔くのであつた、これをしなかつたら見張りも樂だつたのだが。  ――パリカール、およし!  すぐ驢馬は、後※[#「りっしんべん+誨のつくり」、第3水準1-84-48]した罪人のやうに首を下げたが、目ばたきをし耳を動かしながらその秣を食[#底本では「食」は「餮−殄」]べをはると直ぐ、また急いでそれを始める、お腹がへつてゐるのである。  少女が四度目か五度目かに驢馬を叱ると、程なく車から呼び聲が洩れた、  ――ペリーヌ!  少女はすぐ立つて垂幕をあけ、車の中にはひつた。一人の婦[#底本では「婦」は「女+帚」]人が、床《ゆか》に貼り付けてあるのかと思はれるほど薄いふとんの上に寝てゐた。  ――なあに、お母さん?  ――パリカールが何をするの?  ――前の車の秣を食べるのです。  ――よさせなさい。  ――ひもじいのですわ。  ――ひもじいからといつて、人さまのものを取ることはできません、その荷車挽きが怒りでもしたらどういひます?  ――もつと嚴しく見張りますわ。  ――もう間もなく巴里へはひるんだらうね?  ――許可を待つてゐなければなりませんのよ。  ――まだ長いこと待つのかしら?  ――お母さん、苦しくなつたの?  ――なあに、いいんだよ、むツとして息苦しいものだから。何でもないよ。  婦人は、言葉を發音するといふよりむしろ息切れのした咽喉を鳴らして、喘ぎながらさういつた。  これは娘を安心させようとする母の言葉であつた、實をいふと彼女は呼吸もなく、力もなく生氣もない、痛ましい※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]態にあつた、さうして二十七、八※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]を越えてはゐないのに壞血病の最終[#底本では「終」は「糸+冬」の「冬−夂」に代えて「冫」]期にあつたのである、それでも驚くほどの美しさをとどめてゐた。顏は全くの瓜實顏で、眼は優しく奧深い、その娘の眼だ、が病氣のために荒《すさ》んでゐる。  ――お母さん、何か差上げませうか?  ――なあに?  ――お店があるんです、シトロンを買つてきませう、すぐに歸つてまゐりますわ。  ――いいえ、お金はしまつておきませう、少ししかないのだから! パリカールのそばへ歸つて、秣草を食べさせないやうになさい。  ――手におへないのよ。  ――ともかく見張つておいで。  少女は驢馬の首のところへ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つた、さうして、動きが起つたとき、驢馬を引き留めて十分に秣車との距離を拵へたから、もう驢馬はとどかなくなつてしまつた。  はじめ驢馬は逆らつて、構はず前へのり出さうとした、が少女が優しく話しかけて撫でてやり、鼻に接吻をしてやると明らかに喜んで、長い耳を垂れておとなしくなつた。  少女は、もう驢馬に手が要[#底本では「要」は「襾/女」]らなくなつたから、あたりの樣子を眺めて樂しむことができた。川の上では、汽船や曳き船が往來してゐた。團平[#底本では「平」は「怦のつくり」]船は※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]轉起重機で荷あげをしてゐた。起重機はその長い鐵の腕を船の上にのばし、ちやうど手でつかむやうにその積み荷を採り、それが石や砂や炭なら貨車へあけ、それが大樽なら岸に沿うて列べてゐた。また循環鐵道の橋の上では汽車が走つてゐたが、その橋弧《アルシュ》で巴里の眺めは堰《せ》きとめられ、巴里は見えるといふよりはむしろ暗い靄の中で想像されるのであつた。最後に彼女の近く、眼の前では、檢査[#底本では「査」は「木/旦」]の役人たちが、藁車に長い槍のやうなものを※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]き差したり、車に積んだ樽によぢ登つて、錐で※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]く刺しては迸り出る葡萄酒を銀の盃で受けて、ちよつと味はふとすぐに吐き出してゐた。  みな珍しく新しかつた、少女は大へん面白かつたので時間は識らぬ間にたつた。  しんがりに家馬車を列べた一隊[#底本では「隊」は「隧−二点しんにょう」]の旅商人の仲間に違ひないお道化役※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]そつくりの十三※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]ばかりの男の子が、もう十分も前から少女の周[#底本では「周」は「蜩のつくり」]りをうろうろしてゐた、が彼女は氣づかずにゐた、そこで男の子は決心して彼女に話しかけた、  ――やあ、いい驢馬だなあ!  少女は何もいはない。  ――これ、おいらの國の驢馬かい? ずゐぶんびつくりさせやがらあ。  少女は男の子を見た、そして結局良い子供らしく見えたので答へてやつた、  ――ギリシアのですよ。  ――ギリシアの!  ――だからパリカールと言ふんだわ。  ――ははん! さういふわけかい!  少年は、うなづいて※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]笑んだけれど、何故ギリシアの驢馬がパリカールと呼ばれるのか、それが餘りよく分らなかつたことは確かである。少年は聞いた、  ――ギリシアつて遠いのかい?  ――とても遠い。  ――あの・・・支那より遠いかい?  ――えゝ、もつともつと遠い。  ――ぢやあ、君はギリシアから來たのかい?  ――もつと遠いわ。  ――支那?  ――いいえ、パリカールはギリシアからだけれど。  ――廢兵院町のお祭りに來たのかい?  ――いいえ。  ――どこへ行くんだい?  ――巴里へ。  ――家馬車はどこに置く?  ――オーゼールで人に聞いたら、お城《しろ》の大通りに空き地があるんですつてね?  少年はうつむいて、腿《もも》の上を※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]く二度叩いた。  ――お城《しろ》の大通り、なあんだ、あんなところかい!  ――廣場はないの?  ――あるとも。  ――ぢやあ、いいぢやないの?  ――君たちの行く處ぢやあない。お城のは柄が惡いんだ。君の馬車には屈※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]な男がゐるのかい、匕首《あひくち》なんぞ怖くないやうな、つまり匕首《あひくち》でやつたりやられたりするやうな?  ――私たちは、お母さんと私だけ、それにお母さんは病氣なの。  ――驢馬は大事にしてゐるんだらう?  ――それやもう。  ――ところが翌[#底本では「翌」は「栩のつくり/立」]日はもう盜まれちまふ、これが手始めなんだから、あとは見當がつくだらう、いい事はありやしないよ。「牛の胃袋」樣がヘへてやるんだ。  ――ほんたう?  ――へつ! 本當かだつて、君、巴里へ來たこと無いのかい?  ――ないわ。  ――だからだ。あんなところに馬車を置けるなんていつたオーゼールの奴らは、間拔け※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]さ? どうして君、鹽爺さんのところへ行かないんだい?  ――鹽爺さんつて、私識らないわ。  ――ギヨ園の持主さ、菜[#底本では「菜」は「くさかんむり/綵のつくり」]園なんだ、夜は柵を締めちまふ、何も怖いことはない、夜忍びこまうとする奴なんぞ、鹽爺さんは、忽ちずどんと鐵砲[#底本では「砲」は「石+鉋のつくり」]で※[#「(車/凵+殳)/手」、第3水準1-85-2]つちまふ。  ――高いでせうね?  ――冬は高い、みんなが巴里へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて來る時なんで。しかし今は確かに一週[#底本では「週」は「二点しんにょう+蜩のつくり」]四十スウ以上はしないと思ふ、それに驢馬は畠で食べ物があるし、殊に薊《あざみ》が好きだつたら。  ――薊《あざみ》は好きだと思ふわ!  ――それやあ驢馬の知つたことさ、それに鹽爺さんは惡い人ぢやあないし。  ――鹽爺さんといふ名前の人なの?  ――いつも飮みたがつてゐるので、さういふんだ。以前屑拾ひをやつてゐて、屑でしこたま[#「しこたま」に傍点]儲けたんだ、片腕を折つたので始めて[#「始めて」が「初めて」の意味で使われている。以下も同様。]それをやめた、だつて片腕ぢやあ屑箱をあさつて※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くのに都合が惡からうからね。そこで土地貸しを始めたんだ、冬は家馬車をあづかるし、夏は誰にでも見つかり次第の人に貸す、その上ほかの商賣もやつてゐる、つまり狗《いぬ》の赤ン坊を賣るんだ。  ――ギヨ園つて、ここから遠いの?  ――ううん、シァロンヌだ、しかしシァロンヌといつたつて、きつと分らないだらうな。  ――巴里へ來たことないんですもの。  ――あのね、あそこだ。  少年は、北へ向つて手をあげた。  ――税關を出たらすぐ右へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、城壁に沿つて半[#底本では「半」は「絆のつくり」]時間ほど通りを行くんだ、ヴァンセンヌの散※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]道、これは廣い並木路だが、これを通つたら左へ折れて、そこで人に尋[#底本では「尋」は「潯のつくり」]ねたらいい、ギヨ園といへば誰でも知つてゐる。  ――有難う、お母さんに話すわ、ちよつとパリカールのそばにゐて下されば、すぐ話してくるわ。  ――いいよ、僕は驢馬に、ギリシア語をヘへてくれるやうにョんでみらあ。  ――秣を食べさせないやうにね。  ペリーヌは車にはひり、少年のお道化役※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の言つたことを母に傳へた。  ――さういふことなら、躊躇しないでシァロンヌへ行きませう、しかし道は分るかしら? 巴里へはひるんだからね。  ――大へん分り易いところらしいわ。  少女は出がけにまた母の側へ行き身をかがめて、  ――幌附きの車がたくさんあつてよ、幌の上に「マロクール工場」と書いてあつて、その下に「ヴュルフラン・パンダヴォアヌ」といふ名前があるわ、河岸に列んだ葡萄酒樽にかぶせてある布にも、同じ字が。  ――別に不思議なことはないよ。  ――あの名前がこんなにたびたび目につく、それが不思議だわ。 [#2字下げ]二[#「二」は小見出し]  ペリーヌが驢馬のそばの元の場所へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて來ると、驢馬は口を秣車に※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]つこんで、まるで秣棚[#底本では「棚」は「木+(萠−くさかんむり)」]の前にでもゐるやうに悠々と食べてゐた。  ――食べさせてるの? と彼女は叫んだ。  ――さうさ。  ――荷車挽きが怒つたら?  ――僕ぢやあ相手が惡いや。  少年は拳を腰にあて、仰向いて、敵をあざ笑ふやうな恰好をして、  ――やい、何だと! へなちよこ野※[#「螂−虫」、第3水準1-92-71]!  しかし少年は、パリカールをかばつて張合はなくてもすんだ。檢査の役人たちに槍で探られる番がその秣車に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐたのである、さうして秣車は税關を通つて行つてしまつた。  ――さあ今度は君だ、ぢやあ失敬すらあ、さやうなら、もしおいらの消息が知りたかつたら「牛の胃袋」といつて聞くがいい、誰だつて返事をしてくれる。  巴里の税關を守る役人たちは多くの風變りなものを見慣れてゐる、がこの寫眞屋の馬車に踏みこんだ役人は、そこに若い婦人の寢てゐるのを見て、殊に、すばやくあちらこちらに眼を投げて、どこにも慘めさだけがあるのを見て驚いた。  ――申述[#底本では「述」は「二点しんにょう+朮」]べる物はないか? 役人は檢べを續けて尋ねた。  ――ありません。  ――葡萄酒は? 食料品は?  ――ありません。  二度いはれたこの一語は、きはめて正確なものであつた、ふとん、二つの藁の椅子、小さな食卓、土のこんろ[#「こんろ」に傍点]、機械と幾つかの寫眞用具、これ以外に車の中には何もなかつた、旅行鞄も、かご[#「かご」に傍点]も、着物も。  ――よろしい、はひつてよし。  税關を越えるとペリーヌは、「牛の胃袋」の勸めたとほり、パリカールの手綱を曳いてすぐ右に折れた。彼女の辿つた大通りは城砦の斜面に沿うてゐた、さうして處々禿げた茶色の埃だらけの草の上には、日光に慣れた程度に應じて、仰向けになり、うつ向けになつて、人々が寢てゐた。眠りが途切れ、再び眠らうとして兩腕を伸ばす人々もゐた。少女はこの人々の樣子、傷《きず》のついた、すすけた荒くれ顏、そのぼろ[#「ぼろ」に傍点]服、その※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]方を見て、このお城附近の住民はなるほど夜はあまり油斷ができまい、ここでなら氣輕に匕首《あひくち》のやりとりがあるはずだと、うなづいた。  少女はこの連中に仲間入りするのではないから、今は自分に關係のないこの觀察をするため立ち止まりはしなかつた、さうして別の方を――巴里の方を眺めた。  何といふことだ! あの醜い家、納屋、きたない庭、あの塵《ごみ》の山の幾つも立つてゐる廣々とした地面、あれが巴里なのだ。あれが、近づくにつれ道程の數字の減つてゆくにつれていよいよお伽噺ふうになつてゆく子供らしい想像で長いあひだ夢みてきた巴里なのだ、お父さんの口からあんなにたびたび聞いた巴里なのだ、さうして同樣に、大通りの反對側の斜面で、獸のやうに草の中に寢ころんでゐる|縛[#底本では「縛」は「糸+溥のつくり」]《しば》り首にでも逢ひさうな面《つら》がまへの男女、あれが巴里人なのだ。  彼女はその廣さを見てこれがヴァンセンヌ散※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]場だなと思つた、さうしてこれを越えた後、左へ折れながらギヨ園を尋ねた。誰でもギヨ園を知つてゐたにしても、そこへ行く道筋については、皆が皆一致しはしなかつた。少女はどの名前の道を往けばよいのか一度ならず迷つた。しかし遂に、樅《もみ》や、樹皮のついたままの板や、ペンキ塗りの板や、|瀝※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]《チャン》を塗つた板や、色んなので出來た※[#「塀」の「并」に代えて「餠のつくり」、第3水準1-15-58]の前に出た、さうしてその※[#「塀」の「并」に代えて「餠のつくり」、第3水準1-15-58]に附いた二枚※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]が明いてゐて、そこから廣場に車輪のない古い乘合馬車と、これまた車輪のない鐵道用の貨車とが地面に置いてあるのを見たとき少女は、周圍のぼろ家[#「ぼろ家」に傍点]がどうやら餘りいい※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]態をしてはゐないけれど、ここがギヨ園だなと思つた。もし彼女がその印象の保證を必要としたならば、草の中で轉がつてゐたまるまるした十二匹ほどの小狗が、それを與へてくれたことであらう。  少女はパリカールを往來に殘してはひつた、すると直ぐ狗どもは、少女の脚にとびかかり、小さく吠えながら脚を※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]んだ。  ――何だい? と聲がした。  少女は聲のした方を見た、すると左手に、家ではあらうがまるで別のものであるとも言へる長い建物が見えた。壁は、漆喰《しつくひ》の板瓦や砂利の疊石や木煉瓦やブリキ箱で出來てをり、屋根はボール紙や|瀝※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]《チャン》塗りの布で、窓には、紙や木やトタン板が貼つてあり、ガラスさへ附いてゐた。全體はロビンソン・クルーソーが建築師で「金曜日《フライデー》」らが職人であつたかと思はせる素樸な技術[#底本では「術」は「衙」の「吾」に代えて「朮」]で作られ、整へられてゐた。庇《ひさし》の蔭で、ぼうぼうと鬚《ひげ》の生えた一人の男が、ぼろ屑を選[#底本では「選」は「二点しんにょう+饌のつくり」]り分けては、まはりに列んだ籠に投げこんでゐた。  ――狗ころを踏んづけちやいけねえぜ、とその男は叫んだ。はひつて來な。  彼女は命ぜられた通りにした。  ――何の用だね? と男は少女がそばへ行くと尋ねた。  ――ギヨ園の持主は、あなたですか?  ――さうだよ。  少女は手短かに自分の希望を※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明した、その間、男はそれを聞きながら時を惜しんで、手もとに置いてゐた壜から葡萄酒を一ぱい、なみなみと注いで一氣に飮み干した。  ――構はねえよ、先拂ひしてくれりやあ、と男は少女を觀察しながらいつた。  ――お幾らですか?  ――車が一週に四十二スウ、驢馬が二十と一スウ。  ――高いこと。  ――ここの値段はさうなんだ。  ――夏の値段ですか?  ――夏の値段だ。  ――薊《あざみ》を食べてもかまひませんか?  ――あゝ、草だつて食べていい、齒さへしつかりしてゐりや。  ――一週間はゐませんから週拂ひはできませんわ、私たちは巴里を通つてアミアンへ行くので、休みたいのです。  ――それだつて同じことだ、車が一日に六スウ、驢馬が三スウ。  少女はスカートの中を探つて、一つ一つ、九スウを取り出した。  ――これ初めの一日分。  ――ここへはひつて來るやうに言ひな、おまえの親兄弟に。幾人ゐるんだね? 大勢だつたら一人について二スウ揩オだ。  ――お母さんだけなのです。  ――さうかい。しかし何でお母さんは出て來て物をいはねえんだい?  ――病氣なのです。車の中で。  ――病氣かい。ここは病院ぢやあねえぜ。  少女は心配した、病人は入れたくないといはれはしないだらうか。  ――と申しますのは、あのう疲れてをりますので。私たちは遠方からの※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]でございます。  ――どこの人だなんてえことは、わしは決してお尋ねしねえよ。  彼は畠の一隅に向つて手をあげ、  ――あそこへ車を置いて、それから驢馬は繋いでおきな、もし驢馬が狗ころを一匹踏んづけたら百スウ貰ふぜ。  少女が行かうとすると彼は呼んで、  ――葡萄酒を一ぱいどうだね?  ――結構ですわ、私頂きませんわ。  ――さうかい、ぢやお前さんの代りにわしが飮まう。  彼は、ついだ葡萄酒を咽喉へ送つた、さうしてぼろ屑を分けはじめた、すなはち「選り分け」にかかつた。  少女はパリカールを示された場所に引き据ゑた。搖れないやう注意してやつたがどうしても幾分か搖れた。それがすむと彼女は直ぐ馬車へはひつた。  ――たうとうお母さん、※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いたわ。  ――もう搖れもしないし、轉がりもしないのね! 幾十里も幾百里も! 地球つて廣いのねえ!  ――さあもう休めますから、お母さんのお食事に何か差上げますわ。何になさる?  ――先づ可哀さうなパリカールを車から放しておやり、あれも疲れてゐるでせう。食べものや飮みものをやつておくれ、世話をしておやり。  ――本當にまあ、こんなにたくさんの薊を私は見たことがない。それに井※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]もありますのよ。すぐ歸つて來ますわ。  事實、少女は間もなく歸つてきて車の中をあちらこちら搜しはじめた、さうして土のこんろ[#「こんろ」に傍点]と幾つかの炭と古びた鍋を取り出し、柴に火をつけ、前にかがんで、胸を一ぱいふくらませて吹いた。  火が燃えだすと少女は車に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つた、  ――御飯[#底本では「飯」は「飮のへん+反」]を召上るでせう?  ――ちつともお腹がすいてゐないのですよ。  ――何かほかのものを召上る? お好きなものを搜してまゐりますわ、如何?  ――御飯を頂きませうか。  少女は、鍋に少し水を入れ、一|※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]《つか》みの米をあけ、それが煮えだすと樹皮を※[#「碌のつくり+りっとう」、第3水準1-15-94]いだ白い二本の箸で米を※[#「てへん+蚤」、第3水準1-84-86]きまはした、さうしてこの臺所を離れるのは、大急ぎでパリカールの樣子を見に行つて二こと三こと聲をかけて勵ましてやるときだけだつた、が實をいふとさうやつて勵ます必要はなかつた、なぜなら驢馬は滿足して薊を食べてをり、ぴんと立つたその耳で、ひどく喜んでゐることが分つたから。  御飯が、よく巴里の料理人たちの出すもののやうに潰《つぶ》れかけてはゐるがしかしお粥にはなつてゐない、丁度頃合ひに炊き上ると、少女はそれをお椀に山盛りにして車の中に置いた。  少女は、すでに井※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]から小さな水差しに一ぱい水を汲んで、二つのコップ、二つの皿、二つのフォークと一獅ノ、母の寢床のそばに列べておいた。少女は御飯のお椀をに置き、スカートを伸ばして床《ゆか》の上に坐つた。  ――さあ御飯にいたしませう、お給仕いたしますわ、と彼女は、ままごとをする女の子のやうに言つた。  少女の口調は快活だつたが、母の樣子を眺める眼差しは不安だつた。母はふとんの上に坐り、粗末な毛の肩掛にくるまつてゐた、その肩掛も昔は高價な織物であつたに違ひない、が今はもう、擦り切れ色|褪《さ》めたぼろ[#「ぼろ」に傍点]に過ぎなかつた。  ――お前はお腹がすいたかい? と母は尋ねた。  ――すいてゐるわ、ずつと前から。  ――どうしてパンを食べなかつたの?  ――二つ食べたけれど、まだ飢じいのよ、お母さんも今に分るわ、人の食べるのを見て自分もほしくなれば、一杯ぐらゐぢやとても足りなくなつてよ。  母は、フォークで御飯を口へ入れた、が呑みこめずに長いこともぐもぐしてゐた。  ――よく咽喉へ通らない、と母は娘の眼に答へていつた。  ――無理にやつてみるものよ、二口目、三口目とだんだんよく通るやうになるわ。  しかし母はそこまで行かなかつた、二口食べると、フォークを皿の上に休めた。  ――胸がむかついて。あまり一所懸命にならないはうがいい。  ――おゝ! お母さん!  ――いいんだよ、何でもないよ、食べたくない時は食べずにゐても結構ゆけるものだ、休んだらまた食慾が出るかも知れない。  母は、肩掛を取つて喘ぎながらふとんの上にになつた、が、どんなに弱つてゐても娘のことを忘れず、※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]を一ぱい溜めた目で見ながら、娘の氣を紛らさうと努めた。  ――お前の御飯はおいしいわ、おあがり、働くんだから力をつけなけりやあ、丈夫でゐて私を看護しなければならないからね、おあがり、ねえお前、おあがり。  ――えゝ頂くわ、私、頂くわ。  實をいふと少女は呑み込むのに骨が折れたのである、けれども母の優しい言葉のため少しづつ胸がくつろいで實際に食べはじめた、するとお椀は見る見るうちに空《から》になる、その間、母は娘を愛情のこもつた寂しい微笑で眺めてゐた。  ――ほらねお前、無理にやつてみなけりやあ。  ――ねえお母さん! 私にもやれるといいのだけど。  ――やれるとも。  ――お母さんが私に仰つしやつたことは私がお母さんに申しあげたことだつた、と、さう私は御返事したいのよ。  ――私は病氣ですもの。  ――それならお母さん、よかつたらお醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を搜したいわ、ここは巴里なのよ、巴里にはいいお醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]がゐるわ。  ――いいお醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は、お金を支拂はないと動いてくれません。  ――私たちは拂ひますわ。  ――何を?  ――私たちのお金を。お母さんの洋服の中に七フランあります、フロリン銀貨も一枚あるからそれはここで兩替できます、私は十七スウ持つてゐます。洋服の中を見てごらんなさい。  ペリーヌのスカートに劣らず慘めな、しかし拂はれて埃は少なかつたそのKい洋服といふのは、ふとんの上に敷[#底本では「敷」は「(甫/方)+攵」]かれて毛布の役をしてゐた。かくし[#「かくし」に傍点]を探ると果して七フランと、オーストリアのフロリン銀貨一枚とが出た。  ――みんなで幾らになるの? 私、フランスのお金はよく分らないわ、とペリーヌが聞いた。  ――私もお前と殆んど同じやうに分らない。  少女は計算した、さうして一フロリンを二フランとすると、九フラン八十五サンチームになつた。  ――お醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]に拂つても餘るほどあるんだわ、とペリーヌは續けた。  ――私は言葉ではよくなりませんわ、藥を命ぜられますよ、どうして藥代を拂ひませう?  ――私考へてゐることがあるの。私はパリカールと並んで※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゐても年中パリカールに話しかけて時を過ごしてゐるのではないのよ、驢馬はそれが好きかもしれないけれど。私はお母さんや私たちのことや、殊に病氣になつてからの氣の毒なお母さんのことや、私たちの旅のことや、マロクールに着くことなども色々考へるのよ。お母さんは、こんな家馬車などでマロクールへ繰り込むことができると思つていらつしやる? この家馬車の通るのを見て人がずゐぶんよく笑つたわね。そんなことをして心よく迎へて貰へるかしら?  ――そりやあ、そんな風にして來られたら、自尊[#底本では「尊」は「墫のつくり」]心を持たない親戚だつて、きつと面目を潰すでせうよ。  ――だからそれは止した方がいいわ、さうすればもう車は要らなくなるから賣れます。それに一たい今は何の役に立つの? あなたが病氣になつてからは、誰も私に寫眞を撮らせてくれないぢやないの。深切な人がゐて私を信用してくれたところが、もう收入はなくなつてゐるのよ。殘つてゐるお金で、現象液一包[#底本では「包」は「鉋のつくり」]みに三フラン、仕上げ用の金と醋酸鹽に三フラン、種板一ダースに二フランを使ふなんてことは無理ですもの。賣らなければならないわ。  ――で、これを幾らに賣るんです?  ――これだつて幾らかにはなるわね? 對物レンズは立派にしてゐるし。それにふとんもあるわ・・・  ――ぢやあ何もかもかい?  ――お母さん、辛いの?  ――私たちは一年以上もこの車の中で暮してきました。お前のお父さんもここで亡くなられた、どんなに見すぼらしくつても別れると思ふと苦しいよ。お父さんのもので私たちに殘つてゐるものはこの車だけなのだもの。かうした哀れな品物だつて一つとしてお父さんの思ひ出にならないものはないのだからね。  母の息苦しさうな言葉は全くやんだ、さうして窶《やつ》れた顏の上を抑へきれない※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]が流れた。  ――おゝ! お母さん、あんなことを言つて御※[#「俛のつくり」の「危−厄」に代えて「刀」、第3水準1-14-48]なさい。  ――何もわびることはない、私とお前とが或る事にぶつかる※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]にきまつて代る代る悲しませあつたのは、私たちの境遇の不幸といふものです、また私が、子供のお前より一そう子供じみてしまつて、抵抗し、考へ、望む力を少しも持たないのは、私の暮しの運命なのです、私こそお前の今いつたことをお前にいはなければならなかつたし、こんな家馬車ではマロクールへ行けないとか、お前のそのスカート、私のこの※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物、こんなぼろを身につけて人樣の前に出られないとか、お前の見通した事柄を見通さなければならなかつたのです、さうでせう? でも、さうした見通しも必要だつたけれど、同時に何とかしてお金を工面する必要もあつたので、さうすると私の弱い頭には夢みたやうなことしか浮ばず、大抵は翌日を當てにするだけでした、まるで翌日は奇蹟が叶ふはずにでもなつてゐるやうに。――自分の病氣は直るだらう、收入はうんとあるだらう、などとねえ、夢でしか生きられなくなつてゐる※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望した※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の氣の迷ひだわ。ばかげてゐた、道理がお前の口を借りて言つてくれました、私が明日直るわけはないし、多くの收入も僅かな收入もあるまいし、さうしてみれば車も、中の品物も賣るよりほかはありません。しかしそれだけではまだ足りません、私たちはどうしても決心して、あれをも・・・  躊躇と苦しい沈默の一瞬があつた。  ――パリカールでせう、とペリーヌは言つた。  ――お前、そのことを考へてゐたのかい?  ――考へてゐましたとも! でも口に出してはいへなかつたの、さうして、いつかは賣らなければなるまいと思ふと苦しくてそれ以來、あれを見る勇氣さへ出なかつたわ、あんなに苦勞した後は大へん仕合せな目にあふマロクールへは連れてゆかれないで、私たちと別れ別れになるのかも知れない、とあれが感づいたらどうしようと思つて。  ――第一私たち自身がマロクールで迎へて貰へるかしら! でも結局それ以外に望みはないし、追つ拂はれたら道端の溝の中で死ぬよりほかないのだから、どんなにしてでもマロクールへは行かなければ、さうして前へ出ても、門前拂ひをされないやうにしなければねえ・・・  ――そんなことをされるかしら? お父樣のことを忘れずにゐてくれたら私たちを大事にしてくれるわ。あんなにいいお父樣でしたもの! 亡くなつた人たちに、いつまでも人は腹を立ててゐるものかしら?  ――私のいふことはお父樣のお考へどほりなのだよ、私たちはそれに從はなければなりません。では私たちは、車もパリカールも賣りませう。さうしてはひつたお金で、醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を呼ぶことにしませうね、どうか四五日間で元氣にして貰ひたい、ただこれだけが私の願ひです。もし元氣になれたら、お前と私のために上品な※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物を買ひ、もしマロクールまで行くのに十分お金があつたら汽車で行くし、不十分だつたら行けるところまで行つて、あとは※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きませう。  ――パリカールはいい驢馬ねえ、さつき税關で私に話しかけた子供がさう言つたわ。あの子は曲馬團の子で、詳しいのよ、パリカールを立派だと思つたから私に話しかけたのだわ。  ――驢馬が巴里でどの位の値打のあるものか、私たちは知らないし、近東の驢馬になるとなほ知らない。でも今に分ることだわ、さうして手段は決まつたのだから、もうこの話はよしませうね、あんまり悲し過ぎる事だし、それに私は疲れてしまつた。  本當に彼女は力なげに見えた、さうして、言ひたいことを言ひ終るためには一度ならず長く休まなければならなかつた。  ――お寢みになります?  ――事がさう決まつたのだから靜かに、さうして明日を樂しみに、我を忘れてぐつすり眠りたい。  ――それぢやお母さんを邪魔[#底本では「麾」の「毛」に代えて「鬼」]しないやうにしてゐますわ、暗くなるまでに未だ二時間ありますから、その暇《ひま》に下※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]を洗ひます、明日きれいな肌※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]が※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]られたらいいでせう?  ――疲れないやうになさい。  ――私、疲れたことなんかないわ。  母に接吻したのち少女は、車の中をあちらこちら活※[#「さんずい+發」、第3水準1-87-9]に身輕に動きまはり、小箱にはひつてゐた一纒[#底本では「纒」の「黒」に代えて「K」]めの下※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]類を取り出してそれを鉢の中に置き、板の間でひどく減つた石※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]のかけらを採り、全部をかかへて外に出た。御飯をたいた後、鍋に一ぱい入れておいた水が沸いてゐたから、この湯を下※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]類にそそいだ。少女は胴衣を※[#「月+兌」、U+812B、34-9]いで草の上に膝をつき、石※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]をつけて揉みはじめた。洗濯[#底本では「濯」は「さんずい+櫂のつくり」]物といつても實は肌※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]二枚、ハンカチ三枚、靴下二足しかなかつたから、全部を洗つてゆすぎ、馬車と柵とのあひだの紐に擴げるのに二時間はかからなかつた。  働いてゐる間、すぐ近くに繋がれてゐたパリカールは幾度も、少女を見張るやうにしかし別段それ以上の樣子はなく少女を眺めた。仕事のすんだのを見ると、少女の方へ首をのばして命令するやうな聲で五六度嘶いた。  ――私がお前を忘れると思ふの? と少女はいつた。  さうして彼女はそばへ行き、場所を變へてやり、鉢を念入りに洗つて、それで飮み水を運んでやつた、なぜならこの驢馬は、人からもらふ或は自分で見つけるどんな食べ物にも滿足したが、飮み物となると大へん難しく、C潔な容器の中のC水か、何より好物の上等の葡萄酒をしか受けつけなかつたのである。  しかし少女は、それがすんでも立ち去らないで、乳[#底本では「乳」は「郛のへん+礼のつくり」]母が子供にいふやうに優しい言葉をかけながら手で驢馬を撫ではじめた、するとすぐ新しい草のはうにかかつてゐた驢馬は、食べるのをやめ、その頸を小さな主人の肩に置き、もつとよく撫でて貰はうとした。時々その長い兩耳を少女のはうへたふし、自分の幸b示して震はせては、元のやうに起した。  界隈の寂しい往來も、もう締まつてゐる圍ひの中も、靜かであつた。ただ遠くで※[#「さんずい+誨のつくり」、第3水準1-86-73]の音のやうな、はつきり響[#底本では「響」は「即のへん」に代えて「皀」]かない、深い、力※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]い、~祕な、隱然たる唸り、――日暮れにも關らず活動と熱とを持ちつづける巴里の呼吸と生氣が聞えるだけになつた。  するとペリーヌは、物寂しい夕暮の中で、さきほど思つた事柄の印象にいよいよ※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]く胸を締めつけられた。彼女は、驢馬の頸に自分の頭を凭せて、これまで久しいあひだ自分の胸を詰まらせてゐた※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]を流すのであつた、驢馬は彼女の手を舐めてゐた。 [#2字下げ]三[#「三」は小見出し]  病人の夜は安らかでなかつた。※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物をきたまま肩掛を卷いて枕にして病人のそばに寢てゐたペリーヌは、水を飮ませるために幾度も起きなければならなかつた。彼女は、一そう新しいのを與へたいため井※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]へ汲みに行つた。病人は※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]さのため胸がつまつて苦しんだ。ところが夜明け方には、巴里の氣候ではいつも嚴しい朝の冷氣のために彼女はふるへた、そこでペリーヌは二人に殘つた唯一枚の毛布、つまり少しは暖[#底本では「暖」は「日+爰」]い自分の肩掛を、母に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]せかけてやらなければならなかつた。  できるだけ早く醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を呼びたいと思つたけれど、少女は鹽爺さんの起きるまで待つよりほかはなかつた、だつて鹽爺さんに聞かないで一たい誰に、よい醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の名前と處とを聞かうといふのか?  鹽爺さんは、むろんよい醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を識つてゐた。それはへぼ[#「へぼ」に傍点]醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]のやうに※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて來るのでなく馬車で訪れる有名な醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]だ。ヘ會堂のそばのリブレット町のサンドリエ氏である、リブレット町へは鐵道線路づたひに停車場まで行きさへすればよかつた。  馬車で乘りつける名高い醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]のことを聞いて、少女は、お金を十分拂へるかしらと心配し、口にする勇氣の出ないこの事をめぐりながら、漠然と恐る恐る鹽爺さんに質問をしてみるのであつた。爺さんはやつと氣づいて、  ――拂ふお金のことかい? それやあ何だ、高いよ。四十スウ以下ぢやあないね。それに、どうしても來て貰ひたけれや先拂ひしたはうがいいぜ。  少女はヘへられた通りに行つて、らくにリブレット町を見つけた、が、醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は未だ起きてゐなかつたので、馬車部屋の入口で往來の標石の上に腰をおろして待たなければならなかつた、馬車部屋のうしろでは、馬車に馬をつけようとしてゐるところだつた。かうしてここにゐれば、醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を通りすがりに捕へることができるだらう、さうして四十スウを渡せば、決心して來てくれるだらう、ただギヨ園に住んでゐる※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]ですが來て下さいとョんだだけでは、聞いてくれまい、どうも彼女にはさういふ豫感がしてゐた。  時は一向經たなかつた。少女は自分の遲くなるわけを知る由もない母の心配を思つて、いよいよ心を惱ましてゐたのだ。醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は母をたちどころに癒[#底本では「癒」の「愉のつくり」に代えて「兪」]さなくとも、苦しみをとめてはくれるだらう。嘗つて彼女は父が病氣になつたとき醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が自分たちの家馬車にはひるのを見たことがある。しかしそれは未開の國の山中のことであつた、さうして母が町へ行くひまのないままに呼んだその醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は、むしろ魔法使のやうな物腰の床屋《とこや》で、巴里で見るやうな、死と病苦の支配※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]である、博學な、ちやうど、名高いと人々のいふからにはきつと自分の今待つてゐる醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]のやうな、さういふ本當の醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]ではなかつた。  つひに馬車部屋の※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]が明いて、※[#「廣−广」、第3水準1-94-81]色い車體をした舊式な二輪馬車を大きな勞働馬が曳いて出て來て邸前に位置を占めた。まもなく醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が現はれた。背の高い、でつぷり肥つて、赭ら顏で、顏のまはりに白い鬚の生えた人だ、田舍の長老といつた風采[#底本では「采」は「綵のつくり」]に見えた。  醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が馬車に乘らないうちに、少女はそばへ行つて願ひをのべた。  ――ギヨ園か。毆り合ひのあつたところぢやのう。  ――でも先生、お母さんが病氣なのです、大へん惡いんです。  ――おまえのお母さんは何をしてをる?  ――私たちは寫眞屋なのです。  醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は踏段に足をかけた。  急いで少女は四十スウの銀貨を差出した。  ――私たちはおあしを拂ひます。  ――三フランぢやが。  少女はその銀貨に二十スウを足した。醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は全部を受取つてチョッキのかくし[#「かくし」に傍点]に入れた。  ――これから十五分したらお前のお母さんのところへ行く。  少女はいい知らせを持つてゆくのが嬉しくて、駈けて歸つた。  ――あの人がお母さんを癒してくれる。あの人、ほんたうのお醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]さんだ。  急いで少女は母の世話をし、母の顏を洗ひ、手を洗ひ、Kい絹のやうなみごとな髪を整へた、次に家馬車の中をかたづけた、そのため、家馬車は一そうがらん[#「がらん」に傍点]となり從つて一そう慘めになるばかりであつた。  少し辛抱[#底本では「抱」は「てへん+鉋のつくり」]して待つてゐればよかつた、馬車の音で醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の來たことが分つた、ペリーヌは駈けていつて迎へた。  醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は、はひつて家の方へ行かうとしたので、彼女は家馬車を示した。  ――私たちは、車の中に住んでをります。  この家は一向人の住ひらしくはなかつたが、醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は、そのお得意先きのどんな貧乏にも慣れてゐたから何も驚いた樣子を見せはしなかつた。しかし醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を觀てゐたペリーヌは、醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]がこの※[#「碌のつくり+りっとう」、第3水準1-15-94]き出しの車の内でふとんの上に寢てゐる病人を見たとき醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の顏に雲のやうなものの浮[#底本では「浮」は「さんずい+孚」]ぶのを見とめた。  ――舌を出して下さい、手を貸して[#「貸して」は底本では「借して」]下さい。  四十フランとか百フランとか拂つて醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]に來て貰ふ人々は、貧乏人に對する診察がたちどころにすむことを、一向に知るまい。醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の診察は一分もかからなかつた。  ――これは入院しなければならぬ、と醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は言つた。  母と娘とは同じ恐怖と苦痛の聲をあげた。醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は命令の口調でいつた、  ――お孃さん、ちよつとあちらへ行つてゐて下され。  ペリーヌは一瞬ためらつたが、母に目顏で促がされて馬車を出た、けれど遠くへは行かなかつた。  ――私はだめなのでせうか? 母は低い聲でいつた。  ――そんなことは誰もいひはしませぬ。ここでは受けられぬ手當てをお受けになる必要があると申しますんで。  ――病院に娘をつれてゆけませうか?  ――お孃さんは、木曜日と日曜日とに面會できます。  ――別れ別れになるなんて! あの娘は私がゐなくなつたら巴里で一人ぽつちで、どうなることでせう? 娘がゐなかつたら私はどうなるでせう? もし死ななければならないのなら、どうしてもあの子の手を取つて死にます。  ――いづれにせよ、あなたをこんな車の中に置いておくわけにはゆかぬ、夜の寒さは生命にかかはりますからな。間借りをしなければならぬが。それができますかな?  ――長いあひだでないなら、たぶんできるでせう。  ――鹽爺さんは高くない部屋を貸してくれますぢやらう、が部屋だけではいかん、藥に、よい食べ物、それから看護が要る、病院ならそれがあるが。  ――先生、それはだめです、娘と別れることはできません、娘はどうなるでせうか?  ――いづれなりと御自由に。あなた方のことですからな、私は私の申しあげなければならぬことを申しあげましたので。  彼は呼んだ。  ――お孃さん。  次に醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]はかくし[#「かくし」に傍点]から手帳を取り出して白い紙の上に鉛筆で二三行書いて、それをちぎつた、  ――これを藥屋へ持つて行きなさい、ほかの處はいかぬ、ヘ會堂のそばの藥屋ぢや。一番の散藥をお母さんに上げなさい、二番の水藥は一時間※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]に飮ませるのぢや、食事中には規那葡萄酒を。お母さんは食べないといけないからな。何でも食べたい物を、とりわけ卵を上げなさい。私はまた夕方に參りませう。  少女は尋ねるために醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]について行つた。  ――お母さんは大へんお惡いのですか?  ――入院を決心させるやう努めなさい。  ――先生は癒すことがおできにならないのですか?  ――できようとは思ふがのう、しかし病院でやるやうには看てあげられぬ、入院せぬのは狂氣の沙汰ぢや。お母さんはあんたと別れたくないから厭だといはれるが、あんたは大丈夫ぢやらう、利發な、はきはきした娘らしいからの。  彼は急いで※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて馬車のところまで來た、ペリーヌは彼を引留めて、話をさせたかつた、しかし彼は乘りこんで車を出した。  そこで彼女は家馬車に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つた。  ――お醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]さんはどう仰つしやつて? と母は問うた。  ――お母さんを癒せるだらうつて。  ――ぢやあ早く藥屋へ行つて、それから卵を二つ貰つて來ておくれ、お金をみんな持つておいで。  しかしお金は全部でも足らなかつた、藥屋はその処方箋を見て、ペリーヌをさげすむやうにして眺め、  ――お金は十分にありますか?  彼女は手のひらをあけた。  ――七フラン五十ですが、と藥屋は計算していつた。  少女は手中のものを算へた、するとオーストリアの一フロリン銀貨を二フランと見て、六フラン八十五サンチームあつた、すると十三スウ足らない。  ――六フラン八十五サンチームしかありません、オーストリアの一フロリン銀貨をまぜて。フロリン銀貨はいけませんの?  ――や、そいつはいけませんな、どうも。  どうしよう? 少女は手をあけたまま※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望し、ぼんやり店のまん中に立つてゐた。  ――もしフロリン銀貨を取つて下さるなら不足は十三スウだけになります。あとから持つて來ますわ。彼女はつひにさう言つた。  が藥屋はかうした工面のどれにも應ぜず、十三スウの信用貸しもしなければ、フロリン銀貨を受取りもしなかつた。  ――規那葡萄酒は急ぐものではありませんから後程取りに來て下さい。今すぐ散藥と水藥とを拵へてあげませう、それなら三フラン五十ですみますから。  少女は殘つたお金で、卵と、母の食慾をそそるに違ひない小さなヴィエンナ・パンを買ひ、ずうつと駈け通しでギヨ園に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つた。  ――新しい卵よ、私、透《す》かして見たのよ、このパンごらんなさい、よく燒けてること、召上るでせう、お母さん?  ――ええ。  二人とも希望に滿ちてゐた。ペリーヌは※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]對の信念に滿ちてゐた。醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は母を癒すと約束したのであるからには今にその奇蹟を成しとげるのだ、どうして自分を瞞すはずがあらう? 醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]といふものは、本當のことを聞かれたら本當のことを答へるはずである。  希望は大へん食慾をつける。二日前から何も採られなかつた病人は、卵を一つと小さなパンを半分食べた。  ――ほうらねえ、お母さん。  ――よくなるやうだ。  ともかく母の苛《いら》々した氣持ちは薄らいだ、彼女はやや平靜をおぼえた。ペリーヌはそれを機會に鹽爺さんのところへ行つて、車とパリカールを賣るのにはどうしたらよいかを相談した。家馬車のはうは造[#底本では「造」は「二点しんにょう+晧のつくり」]作なかつた、鹽爺さんが、他の品物、――家具や着物や、道具、樂器、反物、材料、新品、古物を買ふのと同樣にして買ひ取つてくれることになつた、しかしパリカールのはうは、さうはゆかない。小狗以外に動物を買つたことはなかつたからである。そこで、水曜日まで待つて馬|市《いち》で賣らうといふのが爺さんの意見であつた。  水曜日、それはまだ大分向ふだつた、なぜならペリーヌは希望に興奮し、その水曜日までに母は力を取※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]してここを立つことができると考へてゐたからである。しかしさうやつて待つ間にも、少くとも、二人が車を賣つたお金で衣裳を買ひととのへて汽車で旅して行けることになれば結構だつたし、もし鹽爺さんが高く買つてくれてパリカールを賣らずにすめばなほさらよかつた。パリカールはギヨ園に殘しておき、自分たちがマロクールに着いたらそれを呼び寄せる。可愛い可愛いこの友達を賣らずにすんだら、どんなに嬉しいことだらう! 驢馬はその後を仕合せに、立派な馬小舍に住み、二人の主人をそばにして、一日中肥沃な草原を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きまはれたらどんなに嬉しいだらう!  しかし少女の頭に數秒間浮んだ幻想は打消されなければならなかつた、なぜなら彼女が確かめもせずに想像してゐた金額に反し、鹽爺さんは、家馬車とその中の一切の品物を長いこと吟味したのち、十五フランしか出さなかつたからである。  ――十五フラン!  ――それもお前さんの爲を思つてなんだぜ、どうしてくれろと言ふのぢやな?  爺さんは自分の腕の代りをしてゐた鉤《かぎ》で、家馬車の色んな處を、車輪や棍棒などを叩いては輕蔑したやうな憐みを見せて肩をすぼめた。  少女がいろいろ言葉を盡した揚句に得たところはただ、言ひ値に二フラン五十を揩オてくれたこと、家馬車は立つまで解《と》かないと約束してくれたことであつた、さうすれば立つまでは晝間はそこで過ごすことができる、これはお母さんにとつて家に閉ぢこもつてゐるよりいい、と少女は考へた。  少女は鹽爺さんの案内で、貸してやらうといふ部屋を訪れたとき、家馬車といふものがどんなに有難いものであるかを知つた、なぜなら爺さんは自慢さうに部屋のことを語るのだけれど、その自慢は家馬車に對する輕蔑と同類になるだけのものに過ぎず、その家はひどく慘めで※[#「嗅のつくり」、第3水準1-90-56]いので、彼女たちはそれを借り受けるのに閉口しなければならなかつたからである。  なるほど屋根も壁も布ではなかつた、が別に家馬車より揩オな點はなかつた。周圍には、鹽爺さんの商ふ雨風に當つてもいい品物、割[#底本では「割」は「瞎のつくり+りっとう」]れたガラスや骨や鐵屑が積んであり、内部は廊下も部屋も暗くてよく目が見えず、保護の必要な品物、反紙《ほぐ》や、ぼろや、栓《つめ》や、パンの皮や、長靴や、古靴、かうした巴里の塵芥を成すあらゆる種類の無數の屑物が入れてあつた、さうしてこれら種々の堆積《やま》は息づまるやうな※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]い※[#「嗅のつくり」、第3水準1-90-56]氣を放つてゐた。  この※[#「嗅のつくり」、第3水準1-90-56]氣は母に惡くはなからうかと考へて少女が躊躇してゐると、鹽爺さんはせきたてて、  ――急いでくれよ、屑拾ひが追つつけ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて來るんでな、わしはあそこにゐて、持ちこむ品物を受取つて、「選り分け」をせにやならん。  ――お醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]樣はこの部屋を御存じですか? と彼女は尋ねた。  ――知つてるとも、侯爵夫人を看《み》てゐたときなんぞ、隣へは二度も三度もやつて來たわ。  この言葉は少女を決心させた、醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]はこれらの部屋を識つてゐたのであるからには、その部屋の一つを借りよと勸めたのは承知の上で言つたのだ、また侯爵夫人がああした部屋の一つに住んでゐたのであるからには、自分の母もそれらの一つに住んでいけないことはない。  ――一日八スウだ、と鹽爺さんは言つた、驢馬の三スウ、家馬車の六スウのほかにな。  ――家馬車は、お爺さん買つたぢやあないの?  ――そりや買つた、けれどお前さんたちはそれを使ふんだから、拂ふのは當り前だわな。  少女は答へる言葉がなかつた。かうして絞られるのはこれが初めてではなかつた。長い旅の間に少女はたびたび、もつとひどく捲き上げられた。これは、持たない※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の不利を顧りみない持つ※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]にとつての自然の法則である。と少女は揚句の果てに考へた。 [#2字下げ]四[#「四」は小見出し]  ペリーヌはこれから住まうといふ部屋をほとんど一日がかりで掃除し、床《ゆか》を洗ひ、仕切や天井や窓をこすつた。これらのものは、家が建つて以來こんなに款待されたことは一度もなかつたに違ひない。  少女は、家から井※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]へと洗ひ水を汲みに數へ切れぬほど往き來してゐるうちに、圍ひの中に生えてゐるのは草と薊だけではないことを知つた。風や鳥はあたりの庭から穀物の種を持つてきたし柵越しに近所の人は要らなくなつた花を投げこんだから、穀物の種や植物の幾つかは自分に適した土地に落ちて芽を出し、あるひは育ち、今はどうにか花を咲かせてゐた。その成長はむろん、庭園に植ゑられて、肥料や灌水や、始終世話を受けたものの成長とは似てもつかなかつたであらう、しかし野生のものとはいへ、色や香の魅力は劣りはしなかつた。  そこで少女は、この赤や紫のにほひあらせいとう[#「にほひあらせいとう」に傍点]や唐撫子などの花を幾本か摘んで花束を拵へ、部屋に置いて、そこを陽氣にすると同時にそこから厭な※[#「嗅のつくり」、第3水準1-90-56]氣を追ひ出さうと思ひついた。この花は、パリカールが氣に入れば食べてよかつたのだから別に誰の所有物でもなかつた、が彼女は鹽爺さんに尋ねないでは、どんな細枝も折らうとしなかつた。  ――賣るのかい? と爺さんは答へた。  ――少しばかり部屋におきたいんです。  ――それなら好きなだけ採るがいい。もし賣るんなら先づこのわしがお前さんに賣るからな。自分のためなのなら遠慮しねえがいいよ。お前さんは花の香ひが好きかい、わしは葡萄酒の香ひが好きぢや、香ひだけしか無い時でもな。  大きく小さく色々に割れたコップは山と積まれてあつたから、彼女はそこで缺けた壺を難なく幾つか見つけ、それに花束を差した。花は日向《ひなた》で摘まれたから、間もなく部屋はにほひあらせいとう[#「にほひあらせいとう」に傍点]や唐撫子の香ひに滿ち、その鮮やかな色がKい壁を照らすと同時に香ひは家のいやな※[#「嗅のつくり」、第3水準1-90-56]氣を消した。  さうやつて働きながら少女は兩隣に住む人々と知合ひになつた。それは白毛《しらが》頭に、フランス國旗の三色のリボンで飾つた頭巾をかぶつたお婆さんと、大へん長くて廣い一張羅の※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物であるらしい革の前垂に身をくるんだ、腰の曲つた大きな爺さんであつた。この前垂のお爺さんに聞くと、三色リボンのお婆さんは街の唄うたひで、鹽爺さんの言つた侯爵夫人そのひとであつた。このお婆さんは※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]日、赤い傘と太い杖を持つてギヨ園を出かけ、街の辻や橋のたもとで赤い傘をその杖の先きに立て、その蔭で自分の唄の番組をうたひ、その歌集を賣る。前垂のお爺さんのはうは、侯爵夫人のヘへてくれたところによると、古靴のほぐし屋[#「ほぐし屋」に傍点]で、朝から晩まで魚のやうに默りこくつて働くのでそのため默り屋さんと呼ばれ、皆はこの名前でこの人を識つてゐた。が、口は利かなかつたけれど、槌の音を聾になるほど喧しく立てることは一向遠慮しなかつた。  夕方引越し先きの片附けがすんだので、少女はお母さんを連れてきた。お母さんは花を見て、しばし樂しい驚きにうたれた。  ――お前は何てお母さんに深切なのだらうね!  ――私は自分に深切なのよ、お母さんを喜ばせると、私が嬉しいんですもの!  夜のふけないうちに花は外に出さなければならなかつた、すると古い家の※[#「嗅のつくり」、第3水準1-90-56]氣はひどくなつた、が病人はそれに不平をいはなかつた、不平を言つて何になつたらう、ギヨ園を出たとて、ほかに行くところはなかつたのであるから。  病人の眠りは、苦しい、熱のある、不安な、騷がしい、幻覺の襲ふ眠りであつた。さうして翌朝醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が來てみると容態は惡化してゐたので治療法を變へることになり、ペリーヌはまた藥屋へ行かなければならなかつた。今度は五フラン要求された。彼女はためらはず勇敢に支拂つた、しかし歸り途彼女はもう息がつけなかつた。もし費用がこんなふうにして續いたら、可哀さうなパリカールを賣つてお金を手に入れる水曜日までにどうなることだらう? もし醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が明日もまた五フランあるひはそれ以上かかる處方を言ひつけたら、そのお金をどこに見つけよう?  兩親と山間を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐた頃、彼らは一度ならず飢じい目に逢つたし、ギリシアを離れてフランスへ向つた後もまた一度ならずパンに缺乏した。がそれとこれとは同じことでない。山間では飢ゑてもいつも希望があり、果實や野菜を見つけたり、おいしい食事を與へてくれる鳥獸を捕へたりして、希望はたびたび實現した。歐洲でパンに缺乏した時も、彼らは幾スウかで寫眞を撮らせてくれるギリシアのお百姓、ボスニア人、スチリア人、チロル人に逢ふ希望があつた。しかし巴里では懷中無一文の人々は何も當てにするものはない、さうして彼女たちのお金はなくなりかけてゐた。さあ、どうしたらよいか? 恐ろしいことだ、少女は何も知らず何もできないのに、この問ひに答へなければならなかつた、怖いことだ、少女は萬事の責任を負はなければならなかつた、なぜなら母は病氣のために工夫をめぐらすことができず、かうして自分こそ、ほんの子供だと思つてゐたのに、事實上の母となつてゐたからである。  それも病氣の工合がもう少しよければ彼女は勇氣も出るし、力もついたことであらう、が工合はよくなかつたのである。お母さんは決して泣き言をいはず、それどころか、いつも口癖のやうに「よくなるよ」と繰返したけれど、實は「よくなつてはゆかなかつた」とペリーヌは見てゐた。眠りもなく食慾もないのだ。熱、※[#「「褒の保に代えて丑」、U+2E569、10-4]弱、息苦しさ、これらのものは、もしペリーヌの愛情や弱氣や無智や臆病などがその判斷を誤[#底本では「誤」は「言+蜈のつくり」]らせなかつたとするならば、少女にとつては、ずんずん揩オてゆくやうに思はれた。  火曜日の朝醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が來た時、処方箋に對して少女の心配してゐた事柄は事實となつて現はれた。醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]サンドリエ氏は病人を急いで診《み》た後、ペリーヌの大きな苦惱の種である恐ろしいあの手帳をかくし[#「かくし」に傍点]から取り出して書かうとしたのである、が、醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が鉛筆を紙の上につけたとき彼女は勇氣を出してそれをとめた。  ――先生、もしお藥の中に比較的大切でないのもあるのでしたら、今日は差し迫つて必要なものだけを書いて下さいませんでせうか?  ――それはどういふことですかな? と醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は不滿げな調子で聞いた。  少女はふるへた、が最後まで言ひ通すことができた。  ――と申しますのは、私たちは今日はお金が餘りないのです、明日にならないと、はひつて來ないのです、それで・・・  醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は少女を見た、次に彼女たちの貧乏を始めて見るかのやうに、あちらこちら素早く一瞥したのち、手帳をかくし[#「かくし」に傍点]にしまひこんだ。  ――では治療法を變へるのは明日にしよう、何も急ぐことはない、昨日のを今日もずつと續けてよろしい。  「何も急ぐことはない」、この言葉をペリーヌは記憶にとどめて幾度も自分に繰返してみた。急ぐことがないのはお母さんが思つたほど惡くないからだ、してみればまだ希望し期待することができる。  水曜日は少女の待つてゐた日だ、しかしその日の待遠しさには、その日を恐れる彼女の苦しい氣持ちがずつと流れてゐた、だつてその日、お金ははひるから彼女たちは助かるに違ひないにしても、他方では、パリカールと別れなければならないからである。そこで少女は、母の看護の手のすくごとに、圍ひの中へ駈けて行つて彼女の友達に言葉をかけた。驢馬は、もう働くこともなく疲れることもなく、飢じい目に逢つた後今は思ふ存分食べ物もあるので、これまでになく嬉しさうであつた。少女のやつて來るのを見るや否や、ギヨ園の小屋のガラスをふるはせて五六度いななき、彼女がそばへ來るまで、綱をぴんと引張つて幾度びか跳ねた、しかし彼女が背中に手を置くとすぐ※[#「さんずい+慍のつくり」、第3水準1-86-92]順しくなり、頸をのばしてそれを彼女の肩にのせるともう動かうとしなかつた。彼らはじつとさうしてゐた、――彼女は驢馬を撫でながら。驢馬は話をするやうな拍子で耳を動かせ瞬《まばた》きをしながら。  ――おまえが知つたら! 少女はそつと呟くのであつた。  しかし驢馬は何も知らず何も豫感しなかつた、さうして休息や、よい食べ物や、主人の愛撫など、現在の滿足のうちで、世にも仕合せな驢馬であつた。その上、驢馬は鹽爺さんと仲良しになり、鹽爺さんから、自分の食ひしんぼうにとつて嬉しい友情の印を貰つたのである。月曜日の朝驢馬は、うまい工合に綱を解くことができたので、屆いた屑をせつせと選り分けてゐる鹽爺さんのそばへ行き、珍しさうにそこに立つてゐた。大たい鹽爺さんが、一ぱい飮みたくなつた時――しきりに飮みたくなる爺さんであつたが――そんな時立たないですむやうに葡萄酒の一リットル壜とコップを手の屆く所にいつも置いておくといふことは、きちんと實行されてゐる一つの習慣であつた。その朝鹽爺さんは全く仕事に身を入れて、自分の周圍を見ようなどとは考へなかつた、しかし仕事に※[#「米+睛のつくり」、U+FA1D、4-14]を出し熱をこめたまさにそのために、その渾名の通り、間もなく咽喉が乾いてきた。手を休めて壜を取らうとして見ると、パリカールが頸を差し伸べて、じつとこちらに眼をそそいでゐる。  ――そんなところでお前、何をしてやがる?  それが怒鳴りつける調子でないので驢馬は動かなかつた。  ――やい、葡萄酒を一ぱい飮みてえのか? と鹽爺さんは尋ねた、この男の頭はいつも、飮むといふ言葉をめぐつて働くのが常であつた。  そこで爺さんは、滿たしたコップを自分の口へ運ぶかはり、冗談にパリカールに差出した、するとパリカールはこのもてなしを眞《ま》に受けて、二※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]前へ進み、脣をできるだけ薄く、できるだけ伸ばして、なみなみと注いだコップを半分も吸つてしまつたのである。  ――おほう! これは、これは!  鹽爺さんは大聲で笑ひながら叫んだ。  さうして呼び始めた。  ――侯爵夫人やあい! 默り屋さんやあい!  これを聞いて連中はやつて來た。一ぱいになつた負ひ籠を背にして菜園の中へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてきてゐた屑拾ひも來たし、貨車を借りてゐる男も來た、この男は、蜀葵《アルテア》入りの飴を賣る商人で、ぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る鈎《かぎ》にやはらかい飴の塊を吊して方々の祭や市《いち》を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]き、ちやうど紡績の女工がその紡錘《つむ》を取扱ふやうな工合にして、飴の塊から※[#「廣−广」、第3水準1-94-81]色いのや※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]いのや赤いのを捻り出すのが商賣であつた。  ――どうしたんだえ? と侯爵夫人がきいた。  ――今に分るわい、ま、喜んで貰ふからみんなその積りでゐてくんな。  再び爺さんはコップを滿たしてパリカールに差出した、するとパリカールは、前と同樣、見物の笑ひと感歎のうちにコップを半分飮み干した。  ――驢馬は葡萄酒が好きだつてえ話はきいてゐたが※[#「口+墟のつくり」、第3水準1-84-7]だらうと思つてゐた、と一人がいつた。  ――こいつあ飮みすけだ! と別の一人。  ――お前さん、これをお買ひなさいな、すてきなお相手をしてくれますよ、と侯爵夫人は鹽爺さんに向つていつた。  ――いい御兩人にならあ。  鹽爺さんは驢馬を買ひはしなかつた、が可愛くなつて、水曜日の馬|市《いち》にはお伴しようとペリーヌに申し出た。これで少女は大へん安心した、なぜなら彼女は、巴里でどうして馬|市《いち》を見つけるのか考へたことはなかつたし、どんなふうにして驢馬を賣り、値段を掛け引きし、盜まれずに金を受取るものか知らなかつたからである。少女は、たびたび巴里の馬盜人の話をきいたことがあり、盜人らが、ふと、自分を襲はうといふ氣でも起したら、たうてい防ぐことはできないと感じてゐた。  水曜日の朝少女はパリカールをきれいにしてやつた、さうしてそれを機會にパリカールを撫でたり抱いたりしてやつた。しかし、あゝ! どんなに悲しく! もう驢馬に逢へなくなるのだ。どんな人の手に渡ることやら? 可哀さうな友達! この思ひにとどまると必ず少女の眼には、これまで街道の到るところで彼女の出會つた、まるで驢馬といふものは苦しむためにのみ全地に存在するかのやうに、慘めな有樣をした、あるひは虐《いぢ》められてゐる驢馬どもが浮ぶのであつた。確かにパリカールは、彼女たちのものになつて以來、多くの苦勞貧困を――長い道中や※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]さ寒さ、雨、雪、氷雨や缺乏の持つ困苦を耐へしのんできた、けれども彼は少くともくたばらなかつた、さうして自分は、自分と不運を共にしてゐる人たちの味方であると思つてゐた。しかし今少女は、どんな人々がこれの主人となるであらうと思つてただ身ぶるひするほかはなかつた。少女は、自己の冷酷[#底本では「酷」は「酉+晧のつくり」]さに氣づきさへもしてゐない多くの冷酷な人々に、ずゐぶん出會つてきてゐた。  パリカールは、家馬車につけられる代りに馬|索《づな》をかけられたとき、驚きを見せた、さうして鹽爺さんがシァロンヌから馬|市《いち》への長い道を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くのをいやがつて、椅子を置いてその背中に乘ると、なほ驚いた、しかしペリーヌが頸をかかへて話しかけると、この驚きは反抗にまではならなかつた。それに鹽爺さんは仲良しではないか?  彼らはかうして出かけた。パリカールはペリーヌに曳かれて重々しく※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いた、さうして馬車や通行人の少い街を通つて、大きな庭園に接した大へん幅の廣い橋に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた。  ――ここが動物園ぢや、とてもお前の驢馬ほどのものは、ここにはをらぬわい、と鹽爺さんがいつた。  ――ぢやあ、ここで買ひ上げて貰へるかも知れないわ、とペリーヌはいつた、動物園では動物はぶらぶら※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゐさへすればいいのだからと考へながら。  鹽爺さんはこの考へを受けつけなかつた。  ――お役所との取引はどうもいけないよ、・・・なぜといふに、お役所つてえところは・・  お役所は鹽爺さんに信用がなかつた。  今は馬車や電車の交通が激しくなつたので、ペリーヌはその雜沓の中を進んでゆくのに有りたけの注意を拂つた、だから少女の目と耳は、ほかの事には一切向けられなかつた。大きな建物の前を通ることにも、荷車挽きや馭※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が驢馬の上の鹽爺さんの恰好を見て陽氣になり愉[#底本では「愉」は「りっしんべん+兪」]快になつて冗談をいひかけることにも――。しかし爺さんの方はペリーヌのやうな氣遣ひは要らないから困らない、嬉しさうに彼らに應へた。そこで彼らの通り道には叫びと笑ひの合奏が起り、これに鋪道を通る人たちも言葉を入れた。  つひに、なだらかな坂を登つた後、彼らは大きな柵の前に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた、その向ふに廣い地所があり、帶板で種々に仕切りを拵へ、そこに馬が入れられてゐた。鹽爺さんは降りた。  が爺さんの降りるひまにパリカールのはうは前方を眺めた、さうしてペリーヌが柵を越させようとすると、驢馬は前進を拒んだ。ここは馬や驢馬を賣る市《いち》だと感づいたのだらうか? 怖いのか? ペリーヌが脅したりすかしたりしても、驢馬は頑としていふことを聞かうとしない。鹽爺さんは、うしろから押せば前へ※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くだらうと考へた、が、一たいどんな人間が馴れ馴れしくも自分の臀を押すのか分らなかつたパリカールは、しりごみしてペリーヌを曳きずりながら、跳ねはじめた。  幾人かの彌次馬がやがて立ち止まつて周圍を取卷いた。一番前に列んだ連中は、例のとほり、速達の配達人や饅頭屋だ、どうして門を通すかについて、てんでに勝手なことをいつて助言した。  ――こんな驢馬を買ふ間拔け※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は、さぞ面白い目にあふだらう。  これは賣り値を落すかもしれぬ危險な言葉だ、そこでこれを聞いた鹽爺さんは、抗辯する必要があると思つた。  ――こいつはいたづら好きなんだ、何と自分の賣られることをちやんと感づいてゐやがるぢやあねえか、御主人に別れたくねえつてんで、ありつたけの顰《しか》め面をしてゐやがる。  ――確かにさうかね、鹽爺さん? と先刻苦情をのべた聲が尋ねた。  ――はてな、誰だい、こんなところでわしの名前を知つてゐるのは?  ――ラ・ルクリだと氣がつかないのかい?  ――なあるほど、違えねえ。  二人は握手した。  ――その驢馬はお前さんのかい?  ――なに、この娘のさ。  ――知合ひなのかい?  ――わしらは一獅ノ幾度も飮んだことがあるんでな、どうだいお前さん、上等の驢馬がほしかつたら、こいつをすすめるぜ。  ――ほしいんだよ、是非ともといふのではないけれど。  ――そんなら一ぱいやりに行かうぢやあないか。何もわざわざあそこへ行つて税金を拂ふことはない。  ――驢馬の奴もはひるまいと肚《はら》を決めてゐるらしいから、いよいよ都合がいいわ。  ――いたづら好きなんだ。  ――私の買ひたいといふのはね、いたづらをして貰ふためでもない、葡萄酒を飮んで貰ふためでもない、働いて貰ふためなんだよ。  ――こいつは中々くたばらねえよ、ギリシアから來たんだぜ、休みもしねえで。  ――ギリシアから! ・・・  鹽爺さんはペリーヌに合圖した。少女は二人に跟《つ》いていつた、二人の交はす言葉は少ししか解らなかつた、さうして、今は馬|市《いち》にはひらなくてもよくなつたパリカールは、少女が馬|索《づな》を曳きもしないのに、おとなしく後から跟《つ》いてきた。  この買ひ手は何※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]なのだらう? 男かしら? 女かしら? その※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きぶりや鬚《ひげ》のない顏から推すと、五十※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]ぐらゐの女だ。長上衣にズボンといふ服裝、乘合馬車の馭※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]のやうな革帽[#底本では「帽」は「冒」に代えて「瑁のつくり」]子、口から離さない短いKパイプからすると男だ。しかし心配なペリーヌにとつて大切なのはその樣子である。この人には少しも無情なところや意地惡なところがなかつた。  小さな往來を通つた後、鹽爺さんとラ・ルクリとは酒屋の前に立ち止まり、鋪道に置いた食卓に、壜一本とコップ二つを運ばせた。ペリーヌは相變らず驢馬をつれて彼らの前の往來に立つてゐた。  ――こいつがいたづら好きかどうか見せてやらう、と鹽爺さんは、一ぱい注いだコップを差出しながら言つた。  すぐにパリカールは、頸を伸ばし、脣をすぼめてコップを半分飮み干した、ペリーヌは敢てそれをとめなかつた。  ――どんなもんぢやい! と鹽爺さんは誇らしげにいつた。  が、ラ・ルクリのはうは喜ばなかつた。  ――私のほしいのはね、葡萄酒を飮んで貰ふためぢやあないよ、荷車と兎の皮を曳いてもらふためなんだ。  ――だつて家馬車を曳いてギリシアから來たつていつたぢやあないかい。  ――それは、別のことだ。  そこでパリカールの細かい注意深い檢査が始まつた。それがすむとラ・ルクリは幾らで賣るかとペリーヌにきいた。彼女が前以つて鹽爺さんと決めておいた値段は百フランだつたので、百フランだと答へた。  しかしラ・ルクリは大聲をあげた、「百フランだつて! 保證もなしに賣らうといふ驢馬が! 人を馬鹿にするもんぢやあないよ」。そこで不幸なパリカールは、鼻の先から蹄《ひづめ》まで、實に至れり盡せりの惡口を受けなければならなかつた。「二十フラン、せいぜいその邊のところだ、それも・・・  ――よし、と鹽爺さんは長い議論をした揚句に言つた、こいつは市《いち》へつれてゆく。  ペリーヌは、ほつとした、二十フランしか手に入らぬと思つてがつかりしてゐたからである。この困つてゐる時に二十フランが何にならう? 百フランだとて、一番差し迫つた必要事にとつてさへ不十分に違ひないのに。  ――今度は、奴さん、はひるかしらねえ、とラ・ルクリがいつた。  市《いち》の柵まで驢馬はおとなしく主人について行つた、がそこへ※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]くと立ち止まり、彼女がしきりに話しかけては引張るので、往來のどまん中にになつてしまつた。  ――パリカール、お願ひだから、パリカール! とペリーヌはおろおろ聲で叫んだ。  しかし驢馬は一向耳をかさうとせず、死んだ眞似をしてゐた。  人々はまたたかつてきて、からかつた。  ――尻尾に火をつけちまへ、と誰かが言つた。  ――そいつはいい、よく賣れるだらう、と別の一人が答へた。  ――なぐりつけてみろ。  鹽爺さんはひどく怒つた、ペリーヌは※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望した。ラ・ルクリが言つた。  ――どうだえ、はひりさうもないね、これの意地の惡いのは良い奴だといふ證據だから、私は三十フラン出さう。しかし急いで受取つておくれ、でないと他の奴を買つちまふよ。  鹽爺さんはペリーヌに目顏で相談した、そして同時に、受取つたはうがよいといふしるしを見せた。しかし彼女は決心がつきかね、當《あて》がはづれて立ちすくんでゐた、すると巡査がやつてきて往來をあけるやうに荒々しく言つた。  ――行くか※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るかせい、そこに止つてゐちやあいかん。  パリカールがうんと言はないので前へは行けない、そこで少女はあと※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]りをしなければならなかつた。少女がはひることを諦めたと知るとすぐ、パリカールは起きて嬉しさうに耳を動かしながら、すつかりおとなしく彼女について行つた。ラ・ルクリは、三十フランを百スウ銀貨でペリーヌの手に渡したのち、  ――さて、こいつを私のうちまで曳いて行つて貰ひたいんだよ。だつて私はこいつが解りかけてきたんだが、どうやら私には跟《つ》いて來さうもないわ。シァトー・デ・ランチエ町はそんなに遠くないところだから。  しかし鹽爺さんはあまり自分には遠いといふので、この相談を聞き入れなかつた。  ――このおばさんと一獅ノ行つて來るがいい、と鹽爺さんはペリーヌにいつた、あんまり落膽するんぢやないよ、お前の驢馬はこのお方となら不仕合せにはなるまい、いいお方だから。  ――では、シァロンヌへ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るにはどうしたらいいの? 彼女は、その無邊際の廣さを今初めて豫感した巴里の中で迷ひ兒になつたと思ひながら言つた。  ――お城を辿ればよい、これより易しいことはない。  實際シァトー・デ・ランチエ町は馬|市《いち》から遠くなかつた、彼らは間もなくギヨ園のに似た一むれのあばら屋の前に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた。  別れの時が來た。少女は、驢馬を小さな馬小舍に繋いでのち、抱きながら※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]でその頸を濡らした。  ――不仕合せにはしませんよ、きつと、とラ・ルクリはいつた。  ――私たちは大の仲良しだつたんです! [#2字下げ]五[#「五」は小見出し]  「百フランで計算を立ててゐたのに、三十フランで何ができよう?」  彼女はメゾン‐ブランシュからシァロンヌへと城砦を悲しく辿りながら、この問ひを※[#「てへん+蚤」、第3水準1-84-86]き立てた、が受け容れることのできる答へは見つからなかつた、だから母の兩手にラ・ルクリのお金を置いても、これを何に、またどんなふうに使つたらいいか、まるで見當がつかなかつた。  お母さんがそれを決めた。  ――出かけませう、すぐにマロクールへ立ちませう。  ――お母さん、大丈夫なの?  ――大丈夫といふことにしなければなりません。私たちは餘りぐずぐずし過ぎました、病氣が直ればいいがと思つて、それもだめらしいわね・・・ここでは。見合せてゐる間に私たちの身代も盡きてしまつたし、私たちの可哀さうなパリカールを賣つて出來たお金もなくなるでせう。こんな貧しい姿では人の前に出たくないとも思つたけれど、たぶんこの貧しさは、痛ましいものになつてゆけばゆくほど、いよいよ哀れをさそふものになるでせうから。出發しなければなりません。  ――けふ?  ――今日はもう遲いわ、夜中に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いては何處へ行きやうもないから、明日の朝にしませう、今晩は汽車の時間と賃銀を聞いておいておくれ、汽車は北線で、行先きはピキニ驛ですよ。  ペリーヌは困つて鹽爺さんに相談した、すると鹽爺さんは、その書類の山の中を搜すと、きつと汽車の時間表があるから、それを見るはうが、北停車場へ出かけるよりはずつと便利だし、らくだ、北停車場はシァロンヌから大分遠いから、と言つた。少女はこの時間表を見て、([#割り注]午前中は――入力者註[#割り注終わり])六時と十時の二つの列車があること、ピキニまでの賃銀は三等で九フラン二十五サンチームであることを知つた。母はいつた。  ――十時の汽車で立ちませう。それから停車場までは遠くてとても私は※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて行けまいから馬車に乘ります、辻馬車までなら力はあるでせう。  しかしそれまでの力もなかつた。九時に娘の肩によりかかつて娘の搜した馬車のところまで行かうとしたが、部屋から往來までは遠くなかつたのに、そこへ行きつくことはできなかつた。氣力が盡きてしまひ、もしペリーヌが支へてゐなかつたら、倒れたであらう。  ――今に力が※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るから、と母は弱々しくいつた、心配をおしでないよ、良くなるから。  しかし良くならなかつた。見送つてゐた侯爵夫人は椅子を持つてきた。必死の努力に支へられてゐたのだつた。腰をかけると氣が遠くなり、呼吸はとまり、聲は出なくなつた。  ――にして、さすつて上げなけりやあ、と侯爵夫人はいつた、お孃さん、心配ない、默り屋さん呼んできて。二人して部屋へ運ぶから。出かけられませんよ・・・直ぐには。  侯爵夫人は慣れてゐた。病人が寢かされると間もなく心臟は打ちはじめ、呼吸は※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つた、が少しして病人は坐らうとしてまた氣を失つた。  ――ねえ、じつとになつてゐなけりやいけません、と侯爵夫人は命令口調でいつた、立つのは明日にするんですよ、直ぐスープを一ぱいお飮みなさい、默り屋さんに貰つて來ますからね、酒が家主さんの癖なら、スープはあの默り屋さんの癖で、夏も冬も五時に起きてスープ鍋をかけるんです、そのすばらしい腕前といつたら! あんなおいしいスープを飮んでゐる親方は、あんまりゐませんね。  答を待たないで夫人は、再び仕事にとりかかつた隣人の部屋へはひつた。  ――あの病人にスープを一ぱい頂けますまいか? と夫人はョんだ。  彼は微笑で答へた、さうしてすぐ爐《ろ》で僅かな榾火の前で煮立つてゐた土鍋のふたを取つた。スープの香ひが部屋中にひろがると、侯爵夫人が目を見張り、偉さうに同時に幸bウうに鼻の孔をひろげるのを、默り屋さんは見た。  ――なるほどいい香ひ、と夫人はいつた、もしこれがあの氣の毒なひとを救ふことができたら、あの子も助かるのだけれどねえ、しかし――と聲を低めて――とても惡いよ、長いことはないね。  默り屋さんは兩腕を高くあげた。  ――あの娘が悲しむだらう。  默り屋さんは首を傾け兩腕を伸べて、かういふ身振りをした。  ――わし共に何ができる?  實際二人ともできるだけの事はしてゐた、が不仕合せな人々は、不幸に慣れてしまつてゐるから驚きもしないし手向ひもしない。彼らのうち誰がこの世で苦しまないでをられようか? 今日はお前、明日は自分なのだ。  お椀が一ぱいになると侯爵夫人は、一滴のスープもこぼさないやうに、そろそろと※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてそれを運んだ。  ――さあお飮みなさい、奧さん、と夫人はふとんのそばに膝をついていつた、とりわけ動かないやうにして、口だけをちよつとおあけになつて。  そうつと一匙のスープは口へそそがれた、が咽喉へ通らず、嘔吐を催し、再び前の二度よりも長い人事不省に陥つた。  明らかにスープは不適當だつたのだ。侯爵夫人はそれを見とめた、さうして勿體ないのでペリーヌにそれを飮ませるのであつた。  ――お前さん、力が必要だからね、元氣づいて貰はなけりやあ。  侯爵夫人は、自分にとつてなら萬病に効く藥であるスープで豫期した結果が擧らなかつたので萬策盡きてしまひ、醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を呼びにゆくに越したことはないと考へた、醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]がきつと何とかしてくれるだらう。  しかし醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は處方を書きはしたが、歸りがけ、率直に侯爵夫人に明言し、この病人には匙を投げるといつた。  ――この婦人は、病氣と貧乏と、疲れと心配とで力が盡きてをる。出發してゐたら車の中で事切れたらう。もう時間の問題ぢや、人事不省に[#「人事不省に」は底本では「人事不正に」]陥つてそれで多分おしまひぢやらう。  それは幾日間も續く人事不省で[#「人事不省で」は底本では「人事不正で」]あつた、思ふに生命といふものは、老人のときは速やかに消え失せるけれど、若い人々のときは比較的長く持ちこたへるものだ。病人は、良くもならず惡くもならなかつた、さうしてスープも藥も何も呑みこむことができなかつたのに、昏々と眠りながら、ほとんど息もしないで、じつとふとんの上にたはりつづけた。  そこでペリーヌは希望を取※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]した。死の觀念といふものは、老齡の人々にはうるさく附き纒ひ、死が未だ遠いところに在る時でさへ、到る處で、眞近かに死を見せるものであるが、若い人々からは斥けられ、死がついそこで脅やかしてゐるときでさへ、彼らは死を見まいとするものである。どうしてお母さんは直らないことがあらう? どうして死ぬことがあらう? 人間は五十※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]、六十※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]で死ぬものだ、お母さんは三十※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]にもなつてゐない! 何をしたからといつてこんなに早く死ななければならないことがあらう? どんな妻よりも愛情があり、どんな母よりも優しく、家の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]に、すべての人にただもう善良であつたお母さんが。死ぬわけはない、どころか囘復する。そこでペリーヌは、この眠りを見てさへ、さういふことを證據立てるに最もいい數々の理由を見つけ、この眠りは大へん疲れ飢ゑた後のごく自然の休息であると考へた。どうしても、疑惑があまりひどく苦しめてくると、少女は侯爵夫人の意見を叩いた、すると夫人は少女の希望を※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]めてやつた、  ――最初の失~のとき助かつてゐるんだから、亡くなられるはずはないよ。  ――さうですわねえ?  ――鹽爺さんも默り屋さんもさう思つてゐるよ。  お母さんのことを自分の安心してゐた通りに人に安心させて貰つた今は、少女の最大の心配は、ラ・ルクリの三十フランがどれだけ續くかしらといふことであつた、なぜなら費用は細々《こまごま》したものではあつたが、あの事へこの事へ、殊に不意の事へと恐ろしく速く流れ出ていつた。最後の一錢を使つてしまつたら何處へ自分たちは行かう? どんなに僅かにせよ、お金になるものを何處に搜さうか? ぼろの※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物のほかは何一つ殘つてゐないのであるから。どうやつてマロクールへ行かうか?  少女は母のそばでかういふ考へを追うてゐるとき、苦痛で~經が大へんひどく張り切るので自分もまた人事不省に陥るのではないかと、冷汗をかいて考へた瞬間が幾度かあつた。ある夜少女がかうした心配と落膽との※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]態の中にゐると、自分の把つてゐた母の手が自分の手を握りしめるのを感じた。  ――なあに? 少女は、さう握りしめられて現實に引※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]され、急いで尋ねた。  ――お前に話したいのです、遺言をする時が來たから。  ――おゝ! お母さん・・・  ――口を插まないで。つとめて感情を抑へるやうになさい、私も※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望しないやうにするからね。私はお前を怖がらせたくなかつた、そのために私は口を默《つぐ》んでお前の苦しみをうまく捌いてきました、しかし言ふべき事は言はなければなりません、たとひそれが私たち二人にとつてどんなに慘酷なことであつても。もうこれ以上延ばすなら、私は、惡い弱い卑怯なお母さんになることでせう、少くとも分別のない女にはなることでせう。  母は息をつくために、また、動搖する考へをしつかりさせるために間をおいた。  ――私たちは別れなければ・・・  ペリーヌは、耐へようとしても耐へきれずに泣き伏した。  ――それは本當に恐ろしい、しかし私は考へるけれど、結局お前は、追ひ拂はれるかも知れないお母さんに連れられて皆の前に出るより、親なし兒になるはうがいいのぢやあないかしら。結局、~樣がさう御望みなのだ、お前は孤りぼつちにならうとしてゐる・・・幾時間かしたら、たぶん明日には。  感情に言葉が途切れた。母はしばらくしてからやつと續けた。  ――私が・・・亡くなつたら、手續きをすまさなければなりません、それには私のかくし[#「かくし」に傍点]に絹で二重に包んだ證書があるから、それを要求する人に渡しなさい、それは私の結婚證書で私の名前もお父樣の名前もそれを見れば分ります。返して貰ふやうに言ふんですよ、後になつてお前の出生を明らかにするのに要るはずだから。大事にしまつておくんですよ。それでも無くすかもしれないから忘れないやうに暗記しておきなさい。何なら、それを示す必要の起きた折に、もう一枚ョんで貰つておきなさい。分りましたね、私の言つたことを皆憶えましたね?  ――はい。  ――お前は不幸になるでせう、ぼんやりしてしまふでせう、でも自棄《やけ》になつてはいけません・・・巴里で一人ぼつちになり、途方に暮れてしまつても。すぐにマロクールへお立ちなさい、お金が足りたら汽車で、お金がなかつたら※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて。巴里にゐるより、道傍の溝の中に寢たり、食べないでゐたりするほうがまだ揩オです。お前、約束をしてくれますね?  ――約束いたします。  ――私たちの境遇はずゐぶん恐ろしい境遇だから、さう行つてくれるだらうと思ふと、お母さんはそれで殆んど氣が鎭まりさうです。  しかし十分に氣は鎭まらなかつたから、彼女はまた氣が遠くなり、かなり長いこと呼吸もなく、聲もなく、身動きもなかつた。  ――お母さん、お母さん! とペリーヌは※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望に我を忘れ、不安にふるへながら、のぞきこんで叫んだ。  この聲で母は再び生氣を取※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]した。  ――さきほど、と彼女は、とぎれとぎれの呟きに過ぎない言葉でいつた、まだお前に言ひきかせておくことがあります、私はそれを言はなければならない、けれどさつきどんなことを言つたかもう忘れてしまつて。お待ち。  ちよつとしてから母は語を繼いで、  ――さうさう、お前はマロクールにつく。急がないで何事も愼重になさいよ。お前は何も要求する資格を持たない。お前の得ようとする物は、お前が善良な子になり人に可愛がられるやうになつて、自分自身で、自分獨りの力で得なければならない・・・可愛がられるやうになる・・・お前の身のために、・・・それが何より大事なことです・・・でもさうなると思ふ・・・お前は可愛がられるでせう・・・可愛がられないなんてことはある筈がない・・・さうなればお前の不幸もおしまひになる。  母は兩手を組み合せ、その眼差しはうつとりした表情を帶びた。  ――お前は、・・・さうだ、お前は仕合せになる・・・あゝ! 私はさう考へながら、さうしていつまでもお前の胸の中で生きるのだと思ひながら死にたい。  それは天に向つて上げられる※[#「示+斤」、第3水準1-89-23]りの興奮を以つて語られた。次いで間もなく彼女は、この努力に力盡きたかのやうに、ぐつたりと生氣なくふとんの上に伏した、しかしそれは、彼女の喘ぎが證據立ててゐたやうに、氣※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]のためではなかつた。  ペリーヌは暫く待つてゐたが、母がいつまでもさうしてゐるのを見て外に出た。庭に出るや否や、わつと泣きだして草の上に倒れた。餘りにも長いあひだ抑へられてゐたために心も頭も兩脚も、少女から失せ去つてしまつた。  少女は二三分の間さうして挫折《くづを》れたまま胸を詰まらせてゐた、次に、茫然としてはゐたが、母を一人抛つておいてはいけないといふ意識はずつと失せずにゐたから身を起した、さうして※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]と※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望の痙攣《けいれん》を止《と》めて、表面だけでも少し落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]かうとした。  さうして暗がりに滿ちた菜園の中を、少女は當てもなく眞つすぐに往つたり來たりした。むせび泣きは抑へても一そう激しくなるばかりであつた。  さうやつて貨車の前を十遍ほど通つたとき、蜀葵《アルテア》入りの飴ん棒を二つ摘《つま》んで家から出て見てゐた飴屋は、ペリーヌのそばへ寄つてきて、不憫さうな聲で、  ――お前さん、悲しからうなあ。  ――おゝ! をぢさん・・・  ――うむ、さあさ、これでもお食べ、――と彼はその二本の飴ん棒を差出していつた、――甘い物はつらい時にはいいもんだ。 [#2字下げ]六[#「六」は小見出し]  引導※[#「にんべん+曾」、第3水準1-14-41]は今し方歸つたところだつた。ペリーヌがお墓の前にじつとしてゐると、そこを立去らずにゐた侯爵夫人は腕をペリーヌの腕の下へ通して、  ――行かなけりやあいけませんよ。  ――おゝ! をばさん・・・  ――さあ、行かなけりやあ、と夫人は威嚴をもつて繰返した。  さうして腕をきつく締めて引つぱつて行つた。  少女はさうして暫く※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いた。少女は、周圍にどういふことが行はれてゐるのか覺えがなかつたし、どこへ連れてゆかれるのかも知らなかつた。少女の思ひも、理性も、感情も、生命も、母と一獅ノ殘つてゐた。  たうとう、ひつそりした道で立ち止まつた。少女は自分の周りに、自分を放した侯爵夫人と、鹽爺さん、默り屋さん、飴屋を見た、しかしどれが誰であるかはぼんやりしてゐた。侯爵夫人は、づきんにKリボンをつけ、鹽爺さんは紳士ふうの服裝をしてシルクハットをかぶり、默り屋さんは例の革の前垂の代りに足までとどく榛《はしばみ》色のフロック・コートを※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]、飴屋はその白い雲齋布の半纒《はんてん》の代りに毛織の背廣を※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]込んでゐた、だつて皆、お葬式を行ふ生粹の巴里ッ子として、今し方埋葬したあの女の人に敬意を表するために、どうしても盛裝しなければならないと思つたからである。  鹽爺さんは、自分は一同の中で一番|頭《かしら》立つた人物だから最初に口を利いて然るべきだと思つてかう言つた、  ――お前さんは無料《ただ》で、いつまででもゐたいだけ、ギヨ園に泊つてゐてよい。  ――私と一獅ノ唄はうといふならお前さんは暮してゆけるよ、と侯爵夫人がいつた、いい商賣だよ。  ――お前さん、お菓子屋のはうが好きなら、やらしてやるぜ、と蜀葵《アルテア》入りの飴を賣る男は言つた、これだつていい商賣だよ、本當の。  默り屋さんは何もいはなかつた、が、その默《つぐ》んだ口もとの微笑と何かを差出すやうな手振りとで、自分もまた提供したいといふ物を、はつきり示した、つまりスープが一ぱいほしい時うちへ來ればいつでも上等のものをあげよう、といふのであつた。  かうした次々の申し出にペリーヌの目は※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]で一ぱいになつた、さうしてその※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]の心よさは、昨日から彼女を萎《な》え入らせてゐた※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]の苛《きび》しさを洗つた。  ――どなた樣も御深切に! と少女は呟いた。  ――できることあ、するわな、と鹽爺さんはいつた。  ――お前さんみたいないい娘を巴里の敷石の上へうつちやるわけにはゆかない、と侯爵夫人が應じた。  ――私は巴里にじつとしてはゐられないのです、とペリーヌは答へた、すぐに身寄りの※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]のうちへ立たなければならないのです。  ――身寄りの※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]があるのかい? と鹽爺さんは口を插んで他の連中を眺めたが、大した親戚でもなからうといふ樣子であつた。それは、どこに住んでゐる?  ――アミアンの向ふです。  ――どうやつてアミアンへ行くつもりだね? お金は持つてるのかい?  ――汽車に乘るのには足りませんので、それで※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて行きます。  ――道は分つてるかい?  ――かくし[#「かくし」に傍点]に地圖を持つてゐます。  ――巴里の町の中をどう行つたらアミアンへ行く道に出るか、その地圖で分るかい?  ――いいえ。でもヘへて頂いたら・・・  めいめいが急いでそれをヘへた、しかしそれは混亂したちぐはぐの※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明だつた。鹽爺さんは止《や》めてゐた、  ――巴里で迷ひ兒になりたけりや、そんな※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明を聞くがいい。かうだ、かう行けばいいんだ、循環鐵道でシァペル‐ノールまで行くのさ、ここでアミアンへ行く道が分る、あとはもう眞直ぐにそれを辿りさへすればよい。汽車賃は六スウだ。お前さん、いつ立つ?  ――すぐに。私、すぐに立つやうにお母さんと約束しましたから。  ――お母さんには從はなければならない、と侯爵夫人はいつた、だからすぐにお立ち、ただし私が接吻してからですよ、お前さんはいい子だねえ。  男たちは少女と握手した。  少女はもう墓地を出るばかりであつた、が躊躇した、さうして今し方離れたお墓のはうを振り向いた、そこで侯爵夫人はその意圖を見拔いて止《と》めてかかり、  ――立たなければならないんだから、すぐ立つたはうがいい。  ――さうだ、出かけるがよい。鹽爺さんもいつた。  少女は、ありたけの感謝をこめて頭と兩手で皆に挨拶をした、それから逃げるやうに背を曲げて急ぎ足に遠ざかつて行つた。  ――一つ乾盃しようぜ、と鹽爺さんがいつた。  ――惡くない、と侯爵夫人が答へた。  默り屋さんは始めて言葉を洩らして、  ――ふびんな子ぢや!  ペリーヌは循環鐵道に乘ると、かくし[#「かくし」に傍点]からフランスの古ぼけた道路地圖を取り出した、これはイタリアを出て以來幾度も見てきたもので、見方は知つてゐた。巴里からアミアンへ行くのは造作ない。カレー街道を取りさへすればよかつた。この道は昔、郵便馬車の通つたもので、地圖上ではサン‐ドニ、エクアン、リュザルシュ、シァンチイ、クレルモン、ブルトゥイユを通る細いK線で示されてゐた。アミアンでブーローニュ道に移る。さうして少女は道程《みちのり》を計ることもできたから、マロクールまで百五十粁ぐらゐあるに違ひないと見積つた、すると※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]日きちんと三十粁づつ※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]けば六日間の旅だ。  しかしこの三十粁をきちんと、來る日も來る日も※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]き續けることができるだらうか?  ちやうど彼女は、パリカールと竝んで幾里幾十里を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いた習慣を持つてゐたから、偶然三十粁※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くことと※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]日それを續けることとは、全く別物であることを知つてゐた。足は痛むし膝はこはばつて來る。それに六日間の旅のお天氣はどうだらう? ※[#「晴のつくりに代えて睛のつくり」、U+FA12、78-11]れが續くかしら? 太陽の下なら、どんなに※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]くても※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゆける、が雨だつたらどうしよう? 身を包む物とてはぼろ[#「ぼろ」に傍点]しかないのだ。夏の美しい夜は、樹蔭や枝の繁みの蔭で、※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]外で寢ることができる。が、木の葉の屋根は露なら受けとめるが雨はもれる、さうしてその雫は一そう大きくなる。濡れたことなどは幾たびもあつた、夕立も驟雨も少女は怖くなかつた、しかし朝から晩まで晩から朝まで、六日間濡れどほしでをられようか?  少女が汽車に乘るにはお金が十分ないと鹽爺さんに答へたその言葉で、※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて行くのには十分ありさうだといふことは知れた、彼女自身もさう思つてゐた、ただしそれは旅の長引かないときの話である。  實際、ギヨ園を出るとき五フラン三十五サンチーム持つてゐた、そして今しがた汽車賃に六スウ拂つたから、五フラン銀貨一枚と一スウ銅貨一枚とが殘つてをり、スカートのかくし[#「かくし」に傍点]をうんと※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]く搖すぶると音を立てた。  だから旅の間のみならず更に長くこのお金をもたせなければならない。マロクールでも幾日か暮せるやうに。  それができるだらうか?  彼女はこの問題も、これに關聯するどんな問題も解決しなかつた。ラ・シァペル驛を知らせる聲をきくと、降りて、すぐサン‐ドニ道を取つた。  今は前へ眞直ぐに※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゆくだけだ、太陽はまだ二三時間は空にあるだらうから、沈む時分には巴里を大分離れて野原で寢られることになるだらうと思つた、さうなれば彼女にとつて一番よかつた。  ところが案に相違して引つきりなしに家また家、工場また工場、目のとどくかぎりこの一樣な平面の中に見えるものは屋根と、もくもくK煙[#底本では「煙」は「ひへん+(西/土)」]をはく高い煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]だけであつた。工場や倉庫や仕事場からは機械の恐ろしいひびき、怒號、うなり、鋭い笛、しわがれた笛の音、迸り出る蒸氣、一方、道路の上でも、赤茶けた埃の立ちこめる中で、馬車、荷車、電車が觸れあふやうにして引續き或は行き違つてゐた、さうして合羽[#底本では「羽」は「栩のつくり」]や幌をかけた荷車の上では、ベルシの税關で※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]に彼女を驚かせた文字が繰返された、「マロクール工場、ヴュルフラン・パンダヴォアヌ」。  してみると巴里はおしまひにならないのだらう! 自分は巴里を出られないのだらう! 少女の怖かつたのは、野原の寂しさや、夜の沈默や、不思議な影ではなく、巴里、その家屋、その群集、その光であつた。  少女は、自分が相變らず巴里にゐるのだと思つてゐたのに一軒の家の角に取り附けられた※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]い板を讀んで、サン‐ドニにはひることを知つた。これは希望を與へた、サン‐ドニの次はきつと野原になるだらう。  少しも空腹ではなかつたけれど、そこを出るまへ、ふと寢がけに食べるパンを買つておかうと思ひパン屋にはひつた。  ――パンを一斤下さいませんか?  ――お金はありますか? パン屋のおかみさんは少女の身なりを見て信用できずに尋ねた。  少女は坐つてゐるおかみさんの前の勘定臺に五フラン銀貨をおいた。  ――はい五フラン。どうぞこれでお釣りを下さい。  おかみさんは求められた一斤のパンを切る前に、その五フラン銀貨を取つて調べた。  ――何ですね、これは? おかみさんは大理石の勘定臺の上で銀貨を鳴らしながら聞いた。  ――ごらんの通り、五フランです。  ――誰が私にこんなお金を渡してみろといひましたい?  ――別に誰も。あの、晩御飯のパンを一斤ほしいんです。  ――パンは渡せないよ、つかまりたくなかつたら、とつとと行くがいい。  ペリーヌは抗辯できなかつた。  ――どうして私をつかまへるのです? と口ごもつた。  ――泥棒だからだよ・・・  ――まあ!  ――・・・こんな贋《にせ》金をつかまさうなんて。失せておしまひ、この泥棒、宿なし。ちよいとお待ち、お巡りさんを呼ぶから。  それが贋《にせ》か本物かは知らなかつたけれど、少女は自分を泥棒ではないと思つてゐた、しかし宿なしではあつた、なぜなら住む家も親もなかつたから。お巡りさんにどう答へよう? 逮捕されたら何と辯護しよう? どうされるだらう?  かうした疑問のすべては電光のやうに速く頭を通つた、しかし貧乏は身に沁みてゐたから、胸一ぱいになり出した恐怖に負ける前に、その銀貨のことを忘れず、  ――パンを下さらないんなら、お金だけは返して下さい、と言つて手を出した。  ――よそで使はうといふんだらう? お前のお金は取つておくんだ。ほしいならお巡りさんを搜しといで、一獅ノこれを調べようぢやあないか。見合すといふなら、さつさと行つておしまひ、この泥棒!  おかみさんの叫び聲は往來へ聞え、二三の通行人は立ち止まつて、物珍しげに話を交はした。  ――何です?  ――あの娘が、おかみさんの抽斗《ひきだし》を荒さうとしたんで。  ――身なりの惡い子だ。  ――お巡りなんてものは、要るときにやあゐないもんですかな?  狂氣のやうになつてペリーヌは、出られるかしらと考へた、が人々は道をあけてくれた、しかし惡口や罵り聲をあびせたので、思ひ通り一目散に逃げることもできず、人が追つて來るかどうか振返ることもできなかつた。  數分後、――少女には數時間に思はれたが――彼女は野原に出た、さうして何はともあれ息をついた、つかまらなかつた! もう罵られはしない!  パンもない、お金もない、と思つたのも本當である、がそれはあとのことだ。溺れかけた人々が水面へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて最初に思ふことは、どうやつて今夜はスープを飮まうか、明日は御飯を食べようかなどといふ事柄ではない。  とはいへ、始め暫くの間は助かつてほつとしたが、その後この御飯のことは今晩の事とはいはなくとも、ともかく明日や次の日々の事として、荒々しく心にのしかかつてきた。少女は、遣るPない思ひが※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず自分を力づけてくれるだらうなどと考へるほどに子供ではなかつた、さうして食べなければ※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]けないことを知つてゐた。旅をもくろんだとき、道中の勞苦、夜の寒さ、晝の※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]さは物の數に入らなかつた。五フランの保證してくれる食べ物をこそ一にも二にも大切なものと考へた、が今その五フランは取り上げられ、もう一スウしか殘つてゐないとすれば、日々必要な一斤のパンをどうして買はう? 何を食べよう?  彼女は、何とはなく道の兩側や畠を眺めた。地を掠める夕陽の光の下に作物《さくもつ》は並んでゐた。花を咲かせかけた小麥、※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]色になつた甜菜《てんさい》、玉葱、キャベツ、苜蓿《うまごやし》、つめくさ、しかしそれらはいづれも食べられない、それにたとひ、この畠に、熟したメロンか、實をつけた苺が植わつてゐたとしても、彼女にとつてそれが何にならう? 通行人にお慈悲を乞うて手を差出すことができないやうに、メロンや苺に手を伸ばすことも彼女にはできなかつた。宿なしではあつたが、乞食や、泥棒ではない。  あゝ! 少女は、どんなにか自分と同じやうに慘めな娘に出逢つて、文明國をつらぬく街道にうろつく宿なしらが一たい何を食べて暮してゐるかを尋ねたかつたことであらう。  だつて世に彼女ほどに慘めで不幸な※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]がゐたらうか、一人ぼつちで、パンもなく屋根もなく、助けてくれる人もゐず、胸を一ぱいにして、體を苦痛にせめ立てられて、しよんぼりと弱りきつてゐる彼女ほどに?  しかし彼女は、辿り※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いても門が開くかどうか分らないままで、※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて行かなければならなかつた。  どうしたら目的地に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]くことができるだらうか?  我々の日常生活には誰にでも心の勇む時刻と沈む時刻とがあり、我々の曳いてゆかなければならぬ荷物はそのあひだ輕くなり或は重くなるものである。少女を別段理由のない時でさへいつも悲しませたのは夕方であつた。しかし更に自分一個の直《ぢか》の苦痛の荷物が無意識に加はつて來て今それを耐へなければならないといふ時、悲しみはどんなに一そう重苦しかつたことだらう!  少女はこれまで、熟慮するのにこんなに當惑を感じたことはなく、態度を決めるのにこんなに困難を感じたこともなかつた。自分は、大風に吹かれて、ゆらゆら、抵抗もできず左右に倒れながら消えかかる※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]燭のやうに思はれた。  空に雲のない、風のそよぎもないこの夏の美しい明るい夕方は、どんなに少女にとつて寂しかつたらう。この夕方は、ほかの人々にとつて樂しく朗らかであつただけいよいよ少女にとつては悲しかつた。村人らは家の石段に腰をおろし、一日を終へた幸bネ表情をしてゐたし、農夫たちは野良から※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて、もう夕餉のスープのいい香ひをかいでゐた、馬でさへ、備へつけた蒭秣《まぐさ》架《だな》の前で自分の憩ふであらう馬小舍を思つて、足を急がせてゐた。  少女は村を出ると二つの大きな道の交はつた處へ來た、辻に立つた道標によると一つはモアゼルを經て一つはエクアンを經て、いづれもカレーへ行く道であつた。彼女はエクアンの道を取つた。 [#2字下げ]七[#「七」は小見出し]  腿《もも》は疲れ、足は痛みだしてきたけれど、少女はなほ※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きたかつた、なぜなら誰からも氣にされずにひつそりした涼しい夕方を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くのは、晝間にない心の安靜を覺えたからである。しかしさう決心するなら、餘りにも疲れ過ぎてから足をとめなければならなくならう、さうすれば夜の暗闇の中でいい場所を選ぶことができず、道傍の溝か近くの畠しか寢るところはなくなるであらう、これでは落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]かない。さういふ境遇だから一番いいことは、滿足を犧牲にして大事を取り、夕暮の最後の光を利用して、物蔭に身をひそめて安らかに寢ることのできる場所を搜すことだ。鳥が未だ明るいうちから夙《はや》く寢るのはいい寢場所を選ぶためではないか、彼女は動物の生活をしてゐるのだから今は動物の例にならふべきである。  そんなに遠く行かないうちに少女は、自分の希望するあらゆる保證を揃へて持つてゐるやうに見える一つの場所に出逢つた。彼女は、朝鮮薊の畠に沿うて通るとき、一人の百姓が一人の女と朝鮮薊の蕾をせつせと摘んでは、籠に入れてゐるのを見た。彼らは間もなく籠が一ぱいになるとそれを路に殘した車に積んだ。何とはなしに彼女は立ち止まつてこの仕事を見てゐた、するとそのとき一臺の荷馬車がやつて來た。一人の娘が轅《ながえ》の上に腰をおろして馬を驅つてゐた。村へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るのだ。  ――薊は摘めたかえ? とその小娘は叫んだ。  ――あんまり捗らねえよ、と百姓は答へた。※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]晩こんなところに泊つて畠荒しの張り番だなんて、へえ面白くねえや、せめて俺は、俺のうちの寢床へ寢に行かうわい。  ――ぢやあ、モノーさんの畠は?  ――モノーつて奴は小|賢《ざか》しい野※[#「螂−虫」、第3水準1-92-71]だ。畠はほかの奴らが見張つてくれるなんて吐かしてゐやがる。今晩はもうさうさう俺樣はござらつしやらねえぞ。夜が明けてみたら畠には手がはひつて丸坊主、と來りやあ面白えなあ!  三人とも大聲で笑つた、確かに彼らは、近所の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の行ふ監※[#「示+見」、第3水準1-91-89]を利用し自分は高枕で寢てゐるモノーといふ男の幸bネんぞはどうでもいいといふ樣子だつた。  ――それは面白いねえ!  ――ちよつと待つてくれ、俺らも※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]る。もうすんだから。  果して程なく二臺の荷車は村の方へ遠ざかつて行つた。  ペリーヌは人氣《ひとけ》のない路から夕闇の中に、隣り合ふ二つの畠の違ひを見ることができた、一方では蕾がすつかり無くなつてゐたし、一方では摘み頃の大きな蕾がまだ一ぱいついてゐた。境ひ目に枝で作つた小屋が立つてゐて、その小屋で百姓は、あんなにも惜しがつた幾夜かを過ごしながら自分の栽培物を見張り、ついでに隣の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]のも見張つてやつてゐたのだ。あんな寢室が得られたらどんなに嬉しいだらう!  さう思ふや否や少女は、どうしてこの部屋を貰つていけないことがあらうと考へた。人がゐないのだもの、惡いだらうか? それに畑は摘取りがすんで誰もそこへは來ないだらうから、この小屋なら人に邪魔される恐れもなかつた。最後にかなり近くで煉瓦を燒く窯《かま》が燃えてゐるので、そんなに一人ぼつちではないやうに思はれた。さうして夕暮の靜かな空氣の中に渦を卷くその赤い火※[#「火+陷のつくり」、第3水準1-87-49]は、ちやうど燈臺が※[#「さんずい+誨のつくり」、第3水準1-86-73]上の船員に對してするやうに、この寂しい畠の中で、少女の仲間となつてくれるやうに見えた。  しかしすぐにその小屋を陣取りに行く勇氣はなかつた、なぜなら彼女と道との間にはかなり廣い裸の地面があるので、そこを※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]き切るのにはもつと暗くなつてからがよかつたのである。少女はそこで溝の草の上に坐つて、ひどく辛《つら》い夜だらうと心配してゐたのにあそこでこれから過ごさうといふことになつた良い夜のことを思ひながら待つた。たうとう周圍の物がぼんやりしか見えなくなると彼女は、道に一時ひびきの途※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えたのに乘じて、朝鮮薊の中を這つて忍び入り、小屋に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた。見ると案外家具のそなへは良かつた、藁の上等の寢床が地面をおほひ、葦《あし》の束《たば》は枕になつたから。  サン‐ドニからずつと少女は追はれる動物のやうだつた、一度ならず少女は、巡査が贋《にせ》金の話を※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]きとめるために跟《つ》けてきて自分を捕へはしまいかと思つて振り返つた。小屋の中で、びくついた~經は休まり、頭上の屋根からは鎭靜と、それから彼女を引立てる勇氣の混つた安堵の情とが、心に降りてきた。何もかも駄目ではなかつたのだ、何もかもおしまひになつたのではないのだ。  しかし同時に空腹のことに氣づいて驚いた。※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゐるうちは食べ物も飮み物も要らないやうに思つてゐたのだが。  今後はそれが少女の境遇の不安であり危險であつた。殘つた一スウでどうして五六日間を生きるか? 今のところは何でもない、が明日はどうなる? 明後日は?  この問題は、甚だ重大ではあつたのだが、少女は、この問題に攻め入られ打ち伏せられる自分を默つて見てゐたくはなかつた、それどころか、次のやうに考へて氣を引立て、片意地を張る必要があつた、どうせ大道よりもよい寢場所、木の幹よりも良い凭《もた》れ物はあるまいと思つてゐたのにこんないい宿が見つかつたのだから、明日も食べ物は何か見つかるのだ、と。何が? それは目に浮ばなかつた。しかしそれが何であるか差當り分らなくとも、希望を抱いて眠ることがそのためにさまたげられるといふ筈はなかつた。  少女は目をつぶつた、さうして父の死後※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]晩さうしてきたやうに、眠る前に父の面影を浮べた、が今宵父の面影は、この恐ろしい日お墓に送つたばかりの母の面影と一獅ノなつた。少女はそれらがいづれも、生前いつもさうしてゐたやうに自分の上にかがんで接吻するのを見ながら、疲勞のため殊に感情のためにくたくたになつて、泣きじやくりつつ眠りに落ちた。  疲れは激しかつたが、ぐつすり寢たのではない、時々鋪道の馬車のひびきや、汽車の通過、あるひは靜かな心の澄み返る夜の中で胸をどきつかせる何か不思議な物音に目をさました。が間もなく眠りに※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つた。そのうちに少女は一臺の馬車が近くの道で停まつたやうに思ひ、今度は耳を澄ました。間違ひではなかつた、ひそひそ話にまじつて物の落ちる輕い音が聞えた。すばやく少女は膝を立てて小屋の孔の一つから眺めた、果して馬車が一臺畑のふちに停まつてをり、※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]白い星明りで判斷のつく限り、男か女か、一つの影が馬車から幾つかの籠を投げると、二つの影がそれらを受取り、隣のモノーの畑へ提《さ》げてゆくやうに見えた。今時分、何だらう? この問ひに答へを見つけないうちに、馬車は遠くへ行き、二つの人影は朝鮮薊の畑へはひつた。間もなく、そこで何かを切るやうなぷつぷついふ乾いた、す早い、小さな音が聞えてきた。  そこで少女はうなづいた。泥棒なのだ。「モノーの畑に手を入れて」ゐる「畠荒し」だ。急いで彼らは薊を切つて荷馬車の運んできた籠に詰めこんだ。たぶん荷馬車は摘み取りがすんだらそれを受取りに※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてくるのだらう、仕事中道路上にじつとしてゐて、通行人でも來て注意を惹くといけないからである。  しかしあの百姓たちのやうに「面白いなあ」と思ふどころかペリーヌは、恐ろしくなつた、なぜならすぐに彼女は自分の曝《さら》されるかも知れぬ危險を覺つたからである。  見つかつたら、どうされるだらう? 泥棒の話はたびたび聞いてゐた、さうして泥棒は、不意を打たれたり邪魔されたりすると、自分に不利の證據を持つ※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を殺すことを、知つてゐた。  實際のところは、まあ見つかりはしまい、だつて彼らは小屋が確かに空いてゐることを知つてゐればこそ、今夜モノーの畑に朝鮮薊を盜みに來たのだから。しかし彼らがもし不意に襲はれたら、もし逮捕されたら、自分も一獅ノつかまりはしないだらうか? 片割れでないことをどう辯護しよう? どう證據立てよう?  さう思ふと冷汗が一ぱい流れ、眼はくらんで、あたりの物が何も見えなくなつた、尤も薊を切る小|鉈《なた》の乾いた音は相變らず聞えてゐたけれど。心配中の唯一つの慰めは、あんなに熱心に働いてゐるから、すぐに畑全部を丸坊主にしてしまふだらうと思ふことであつた。  が彼らは邪魔された。遠く鋪道の上に荷馬車のひびきが聞えた、それが近寄ると彼らは薊の莖のあひだに縮こまり、うまく這ひつくばるので見えなくなつた。  荷馬車が行き過ぎると、彼らは休んで盛り返された元氣をもつて、再び仕事を續けた。  しかしその働きがどんなに激しくとも仕事は決して終るまいと少女は考へた、今にも人がやつてきて彼らを捕へるだらう、彼らと一獅ノ自分をも。  逃げることができたら! 少女は小屋を出る方法を搜した、それは實は難しいことでなかつた、しかし音を立てて自分のゐることを知らすといふ危い目に逢はずに、どこへ行けよう? じつとしてゐれば覺られずにすむに違ひない。  そこで少女はまたになつて眠つたふりをした、だつて出たらすぐつかまる危險があるのだから、泥棒が小屋へはひつてきても何も見なかつたやうすをしてゐる方が、ずつといい。  なほしばらく彼らは取入れをつづけ、つぎに笛を吹くと車輪の音が道路上に聞え、まもなく彼らの車は畑のふちで停まつた。數分間で荷物は積まれ、荷馬車は大急ぎで巴里の方へ行つてしまつた。  もし時刻を知つてゐたら少女は明方まで眠つたことであらう、しかしそこで何時間を過ごしたのか覺えなかつたから、少女は※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]き出すのが賢明だと考へた。田舍では人は早起きだ、夜明けに刈取られた畑から出るのを見たら、畑の附近にゐるのを見てさへ、百姓は彼女を泥棒の一味ではないかと疑つてつかまへるだらう。  そこで小屋からそつと出て、耳を立て目を見張り、泥棒のやうに這つて畑を出、何事もなく街道に辿りついて、急ぎ足で※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]みつづけた。雲のない空にちりばめた星は薄れてゐた、さうして東の方で微かな明るみが、日の出を告[#底本では「告」は「晧のつくり」]げながら夜の闇を照らしてゐた。 [#2字下げ]八[#「八」は小見出し]  そんなに長く※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]かないうちに前方にぼんやりKい物の群がりが見え、それは一方では屋根や煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]や鐘樓などの輪郭を白い空に描き、他方はまだ全部闇の中に沈んでゐた。  最初の家々にさしかかると本能的に足音を忍ばせた、がその用心は要らなかつた、道の上をうろつく猫以外すべてのものは眠つてゐた、ただ幾匹かの犬が目をさまして締つた門の向ふ側で吠えるだけで、死人の村のやうだつた。  村を拔けると落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた、さうして※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]をゆるめた、なぜなら今はもう、盜人のはひつた畑から十分離れ、泥棒の片割れだと咎められるわけはなかつたので、相變らずこの急ぎ足を續けてゆくことは要らないと感じたからである。すでに少女は今までに知らなかつた疲れを覺え、朝の冷氣にもかかはらず、頭に熱が上つてきて、ふらふらしてゐた。  しかし※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]を弛めても、また朝の冷氣が次第に※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]まつても、露に濡れても、彼女は、その苦しみを鎭められはしなかつたし元氣づけられもしなかつた、さうして彼女は、自分を弱らせ、やがて自分を打ちたふして全く氣を失はさせようとしてゐるものが、飢ゑであることを認[#底本では「認」の「刃」に代えて「仞のつくり」]めなければならなかつた。  もし感情も意思も失つてしまつたら、自分はどうなるだらう?  そんなことにならないためには暫く立ち止まるのが一番よい、と少女は思つた。その時少女は、最近刈取つた苜蓿《うまごやし》の前を通つてゐた。その刈入れ物は數々の小山にして平地《ひらち》にKく積んであつた。彼女は道の溝を飛びこえて、この小山の一つに隱れ場を掘つた、さうして、そこでほんのりと暖い秣の香ひに包まれてになつた。田舍はひつそりとして動きもなく音もなく未だ眠つてをり、東方から迸り出る光の下で限りなく廣々と見えた。休息、ぬくもり、枯草の香ひは少女の嘔氣《はきけ》を沈めた。少女はまもなく眠つた。  目がさめると、太陽はもう地平線に高く上り、その※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]い光で野をおほうてゐた。野良では男や女や馬が近くのあちらこちらで働いてゐたし、農夫の小さな群は燕麥の畠の草拔きをしてゐた。始め、近くに人がゐるので少し心配したが、人々の仕事をしてゐる樣子から、少女は、自分のゐるのを彼らが怪しんでゐないこと、あるひは何とも思つてゐないことを知つた、そこで暫く待つて彼らが遠のいた後道路へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つた。  よく眠つたので體は休まつた。少女はかなり元氣に何粁か※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いた、尤も飢ゑが今は胃の腑をしぼり、目まひや、ふるへや、欠伸をもつて頭を空※[#「墟のつくり」、第3水準1-91-46]にしたし、|顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》はひどく締めつけられてゐた。だから今しがた登つたばかりの坂の上から向ふ側の斜面に、森から出た大きな《やかた》の高い頂きに見おろされた大きな村の家々を見とめたとき、彼女はパンを買はうと決心した。  一スウかくし[#「かくし」に傍点]にあるのだから、わざわざ飢ゑを耐へなくとも使へばいいではないか。なるほど使へばもう無一文になる、しかし幸bェひよつこりやつて來て助けてくれないものでもない。大道でお金を拾ふ人々がゐる。少女もそんな幸運に逢ふかも知れない。少女を打ちひしいだ不幸は別として、これまでかなりの幸運に逢つてきたではないか?  そこでその一スウが本物かどうかを念入りに調べてみた、殘念ながら少女は、本物のフランスの銅貨が贋物とどう違ふかよく知らなかつた、それで、サン‐ドニのあの事件が起りはしまいかとびくびくしながら、始めに見つけたパン屋へ決心してはひつたとき、胸がどきついた。  ――パンを一スウだけ分けて下さいませんか?  パン屋は默つて勘定臺の上から一スウの小さなパンを取つて差出した、が少女は手を出さずに躊躇して、  ――切つて下さいませんか、新しいのでなくていいんです。  ――それぢやあ、はい。  とパン屋は、二、三日前からあつたパンを計りもせずに渡した。  しかし堅さの多少は問題でない、大事なことは、それが一スウの小パンよりずつと大きいといふことだつた、實際それは、少くとも小パンの二つ分はあつた。  兩手に受取るとすぐ口の中に一ぱい唾がわいた、が、どんなにほしくても村を出るまではそれを切らうとしなかつた。大急ぎで村を出た。最後の家々を通り越すと、かくしからナイフを取出し、パンが四等分されるやうに上に十文字をつけてその一つを切取つた、これは今日のただ一度の食事となるべきものであつた。殘りの三つは次の日々のためにとつて置けば、僅かだが、これでアミアンの近くまでは行けると少女は見積つた。  少女は村を通り拔けながらさう見積つたのである。そんなことは譯なく實行できるやうに見えた。しかしその小さなパン切れを一口呑みこむや否やかう感じた、世のどんな※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]い論法も空腹に對しては何の力も持たないものだ、我々の慾望といふものは、すべきだとかすべきでないとかいふ事柄によつて制せられるものではない、と。少女は空腹だつた、食べなければならなかつた、彼女は最初の一切れを餓鬼のやうにして平らげ、次の一切れはちよつと囓[#「囓るだけに」は底本では「※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]るだけに」]るだけにして殘さうと思つた、がこれも同樣にがつがつして呑みこみ、第三のものも、どんなにか止さうと思つたけれどこらへきれず、第二のものの後を追うた。こんな意思の弱さ、こんな動物的衝動を未だ嘗て經驗したことがなかつた。少女は自分のしたことが恥かしかつた。愚かな淺ましいことだと思つた、が言葉や論法は少女を曳きずる力に對しては無力であつた。もし彼女が言譯を持つてゐたとするなら、それは唯もうパン切れが小さいといふことだけだつた、皆集めても半斤にもならない、たとひ一斤でもこのひどい飢ゑを滿たすのには不足であつたらうのに。さうしてこの飢ゑがこんなに激しくやつて來たのは、昨日何も食べなかつたからであり、その前の幾日かにも、默り屋さんのくれたスープしか飮まなかつたからに他ならなかつた。  この※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明は一つの辯解であつた、さうしてすべての辯解の中でも一番いいものであつた、そこでこの※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明が原因となつて第四のパン切れも始めの三つと同じ運命を辿つた、ただし第四のパン切れについては少女はかう考へた、自分はかうより他にすることはできないのだ、してみればそれは自分の誤りでもなくまた責任でもない、と。  しかしこの辯舌は、彼女が※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]き出すと直ぐに力を失つてしまひ、埃だらけの道を五百米も行かぬうちに彼女はかう考へるのであつた、もし今しがた襲つた飢ゑがまたやつてきて、その時までに當てにしてゐた奇蹟が起らなかつたら、明日の朝は自分はどうなることだらう。  飢ゑよりも先きに渇きがやつてきて咽喉《のど》に乾燥と熱とをおぼえた。朝は※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]かつた、さうして少し前から※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]い南風が吹いて、少女に汗を一ぱいかかせてはそれをかはかした。吸ふ空氣は熱してゐた。道の斜面に沿つて、溝の中で、バラ色をした朝顏の喇叭型の花や、菊|萵苣《ちさ》の※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]い花は、萎《な》えた莖に凋んでぶら下がつてゐた。  始め少女はこの渇きを氣にかけなかつた。水は萬人のものだ、店へ買ひにはひる必要はない、川か泉が來たら、四つん這ひになるか身をかがめるかして、好きなだけ飮みさへすればいいのだ。  が、ちやうどその時少女はイル‐ドゥ‐フランスの高地にゐて、ルイヨンからテーヴまで川は一つもなかつたし、小川は幾つかあるが、水の滿ちてゐるのは冬の間で夏はすつかり干上つてしまふ。ひろびろした眺めの小麥や燕麥の畠、木のない平野、あちらこちらに丘が見え、丘の頂きには鐘樓や白い邸が立つてゐる、しかし底に川の流れてゐさうな谷を示すポプラは一と竝びも、どこにもない。  エクアンを過ぎた後小さな村に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いて、村を切る道の兩側を眺めたけれど、だめだつた。當てにしてゐた幸bネ泉はどこにも見えなかつた、思ふに咽喉《のど》を渇かせて通る宿なしのことを考へて出來た村はめつたにない、自分の家か隣かに井※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]があればそれでたくさんなのである。  彼女はさうして最後の家々のところへ來た。すると、引返して家へはひつて一ぱいの水を乞う勇氣はなくなつた。村人は、初めて通るときにもう、氣の滅入るやうな目つきでこちらを見てゐたことを少女は氣づいてゐたし、犬までが、怪しげなぼろ[#「ぼろ」に傍点]の女には齒を※[#「碌のつくり+りっとう」、第3水準1-15-94]きだしさうに思はれたのである。二度も家の前を通るのを見たら、人は自分をつかまへはしないだらうか? 包みでも背負つてをれば、何か賣り買ひする女だらうといふわけで※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らせておいてもくれよう、が、手ぶらで※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゐるのだから、これは泥棒だ、自分のため仲間のために隙を狙つてゐるのだ、と人は思ふに違ひない。  ※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くよりほかはなかつた。  しかしこの※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]さ、この熱氣、※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず灼けつくやうな風が埃を捲き上げて少女をつつむ樹木のないこの白い道で、渇きはいよいよひどくなつた。大分前から唾は出なくなつた。乾いた舌は口の中で異物にでもなつたのかと彼女を苦しめたし、上顎は、角《つの》が火に會つて縮んだやうに固くなつた、さうしてこの耐へ難い感覺のために、少女は仕方なく、息の詰まらないやうに口を半分あけておいた、そこで舌はいよいよ渇き、上顎はいよいよ固くなつた。  力盡きて少女は、道で見つけた一番なめらかな小石を幾つか口の中へ入れることを考へた。小石は、鈍《にぶ》くなつてゐた舌を少し潤し、唾はやや粘《ねば》りけを失つた。  勇氣も希望も※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてきた。フランスは水のない砂漠ではない、彼女は國境からこちら色々の地方を通つてそれを知つてゐた、我慢してゆけばやがては川か沼か泉が見つかるだらう。それに、※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]さは相變らず息詰まるばかりであり風は相變らず大|竃《かまど》からでも出るやうに吹いてゐるけれど、少し前から太陽はすでに曇り、巴里の方を振返ると、大きなK雲が空に立上り、眼のとどく限り、全地平線をおほつてゐるのが見えた。嵐が來るのだ、きつとそれは、水溜りや小川を作る雨を持つてきてくれ、好きなだけ飮むことができるであらう。  一陣の龍卷が通り過ぎて、刈入れ物を鳴らし、灌木の茂みをねぢり、道ばたの小石を浚《さら》ひ、埃や※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]の葉や藁や秣の旋風を曳きずつて行つた、つぎにそのひどい物音が鎭まると南方に、遠く雷鳴が、暗い地平線の端から端へ※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]え間なく吐き出されて、とどろき渡るのが聞えた。  ペリーヌはこの恐ろしい壓迫にたまらず、目と口に兩手をあてて腹ばひに溝の中に伏した。始めは渇きに夢中になつて雨のことしか考へなかつたが、雷鳴に搖り立てられた彼女は、嵐には雨だけでなく目もくらむ稻妻や、どしや降りの水、雹、雷※[#「(車/凵+殳)/手」、第3水準1-85-2]も伴ふことを思ひ出した。  この裸の廣い野原で、どこに宿を借らうか? ※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物がびつしより濡れたらどうして乾かさうか?  龍卷の持ち去る最後の埃の旋風の中で少女は、およそ前方二粁のところに、道がはひりこんで通りぬけてゐる一つの森の端を見とめた、さうしてあそこにたぶん隱れ家か、石切場か、もぐりこむ洞穴《ほらあな》があるだらうと考へた。  ぐづぐづしてはをられなかつた。暗さは一そう深まり、雷の轟きは今は際限なく長びき、不規則な間を置いていよいよすさまじい閃光がこの轟きを支配した。閃光は、地上の生命を打碎きにでも來たやうに、野の上で空の中で、あらゆる動きあらゆる物音をひそめさせた。  嵐より先きに森に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]けるだらうか? 喘ぐ息の許すかぎり早く急ぎながら時々ふりむいて見ると、嵐はK雲を伴つて激しく駈けながら押寄せて來る、また雷鳴をもつて、巨大な火の輪で少女を包みながら追ひかけて來る。  旅のとき山中で一度ならず恐ろしい嵐に逢つたことがある、がそのときは父も母もゐて自分を守つてくれた、ところが今、自分は、嵐に襲はれた哀れな旅鴉として、寂しい野原の眞中にたつた一人だ。  もし激しい風に向つて進まなければならなかつたのなら、少女はきつと※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]けなかつたであらうが幸ひにも風は少女を押してくれた、さうして大そう※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]く押したから、をりをり少女は走らされた。  この足取りを續けていけないわけはない。電光はまだ頭上にはなかつた。  肱を胴につけ、前かがみになつて、少女は駈けだした。息切れがして倒れないやうに加減はしながら。しかしどんなに早く駈けても嵐は彼女より早く駈け、その恐ろしい聲は追ひついたぞと背中の上で叫んだ。  いつもならもつと粘り※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]く鬪つたらう、が、疲れ、弱り、頭はふらつき、口は渇いてゐたから、死物狂ひの[#「死物狂ひ」は底本では「死者狂ひ」]努力を續けることはできなかつた、さうして時々氣力がなくなつた。  幸ひ森は近づいてきた。最近斧を入れて透《す》けた森の大きな木々が、今ははつきり見分けられた。  もう數分すれば※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]く。少くとも森のふちには※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いて、野原ではとても得られさうにない物蔭が見つかるに違ひない。この希望は、それの實現しさうな一機會を、それが甚だョりないものでも構はない、少女に與へさへすればそれでもう十分、少女の勇氣は挫けはしなかつた。幾度お父さんは彼女に言つたことだらう、危險に際しては、最後まで鬪ひぬく人々に、救はれる機會は來るものである、と。  少女はこの思ひに力づけられて鬪つた、まるで父の手がなほ自分の手を取つて曳いてくれるやうに。  これまでのものよりも更に燥いた更に激しい雷※[#「(車/凵+殳)/手」、第3水準1-85-2]が、一面火の※[#「さんずい+誨のつくり」、第3水準1-86-73]になつた地面に少女を釘付けた、今度は轟音はもう少女を追ふものではなく、少女に追付いてゐた。少女の上にあつた。駈ける足を弛めなければならなかつた。雷に※[#「(車/凵+殳)/手」、第3水準1-85-2]たれるより雨にぬれる方がまだ揩オだつた。  二十※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]も行かぬうちに大つぶの雨が幾つか隙間なく降りかかつたので夕立が始まつたと思つた、が夕立は、それを追ひ拂ふ雷鳴の震動に斷ち切られ、風に持ち去られて、續かなかつた。  つひに森にはひつた。が闇が大そう深いので目は遠くまで利かなかつた、けれど閃光のお蔭で、つい近くに小屋があつて、深く轍の抉れた惡い路がその方についてゐるのを見たやうに思つた。めくら滅法にそこへ飛びこんだ。  次に光つた稻妻で、自分の間違ひでなかつたことが分つた。それは樵夫が、日光や雨を避けて小枝の屋根の下で働くために柴で拵へた小屋であつた。もう五十※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]、もう十※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]、さうすれば少女は雨を※[#「月+兌」、U+812B、34-9]れるのだ。少女はその距離を乘越えた、さうして、走り疲れ、心配のために息もつけなかつたので、力盡きて、地面をおほう木屑《こつぱ》の寢床にくづをれた。  少女が息を取※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]すまもなく、すさまじい爆鳴が、引つ浚はれるかと思ふばかりのばりばりツといふ音を立てて森中にひびき渡つた。下草を切拂はれて孤立してゐた大きな木々は曲り、幹はねぢれ、枯枝は同じ幹から出た若木を押しつぶしながら鈍い音をたてて八方に落ちた。  小屋はこんな龍卷をよく持ちこたへるだらうか、更に※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]い搖れが來たら崩[#底本では「崩」は「山/(萠−くさかんむり)」]れはしまいか? と考へる間もなく、恐ろしい壓力を伴つた大きな※[#「火+陷のつくり」、第3水準1-87-49]が、少女に枝をかぶせながら、目をくらませ耳をつんざいて、仰向けに※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]きとばした。我に返つて未だ生きてゐるのかしらと體にさはりながら見ると、近くの闇の中に眞白く樫の木が雷に※[#「(車/凵+殳)/手」、第3水準1-85-2]たれてゐた。樹の皮は上から下まで※[#「碌のつくり+りっとう」、第3水準1-15-94]げて周圍に飛び散つてゐた。小屋に落ちた樹皮はその破片で小屋を破つてゐた。樫の木の裸になつた幹に沿つて、その二本の大枝が、附け根のところを捩[#底本では「捩」は「てへん+(戸の旧字+犬)」]られてぶら下り、風にゆられて、氣味惡く呻きながら動いてゐた。  死が自分の上を、しかもその物凄い息吹で地面に倒されたほどに近くを通つたと考へると恐ろしく、ふるへながら、氣もそぞろになつて眺めてゐると、森の奧が霧でけむるのが見え、同時に、速い汽車の音よりもつと※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]い特別のとどろきが聞えた、――それは森を襲ふ雨と雹とであつた。小屋は上から下まで搖れ、屋根は※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]風に波打つた、しかし崩れはしなかつた。  水はやがて樵夫が北向きにつけておいた傾斜面を瀧となつて流れはじめた。少女は、濡れずに、ただ手を伸ばしさへすれば掌にすくつてがぶがぶ水を飮むことができた。  もう夕立の止むのを待つばかりだ。小屋はこの二つの猛攻※[#「(車/凵+殳)/手」、第3水準1-85-2]を持ちこたへたのだから、他の攻※[#「(車/凵+殳)/手」、第3水準1-85-2]をも持ちこたへるであらう。どんなに堅固な家でも自分が主人であるこの柴の小屋にまさるものはない。さう思ふと、今しがた爲した努力や心配や苦惱に續いて快い幸bェやつてきて少女をうつとりさせてしまつた。少女はぴかぴかごろごろを續ける雷にも、ざんざん降りしきる雨にも、木々を通る風にもその響にも、空中と地上に荒れ狂ふ暴風雨にも一向構はず、枕代りに木屑の中にたはり、久しぶりの安靜と信ョの情をもつて眠つた。かうしてみると、最後まで鬪ひぬく勇氣のある人々が助かるといふことは本當だ。 [#2字下げ]九[#「九」は小見出し]  目がさめると雷はもう止んでゐたが未だ細かい雨が※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず、雫のしたたる森の中を一面煙らせて降つてゐたから、これは出かけられないと思つた。待たなければならなかつた。  待つのは不安でもなく不愉快でもなかつた。森の寂寞[#底本では「寞」は「うかんむり」に代えて「わかんむり」]も沈默も恐ろしくなかつた。少女は大へんよく自分を守つてくれ、今氣持ちよい眠りを與へてくれたこの小屋が、もう好きになつてゐた。もしここで夜を過ごさなければならないとしても、たぶん他處《よそ》よりもここのはうが少女には良かつたらう、屋根は上にあり、乾いた寢床もあつたから。  空は雨で見えなかつたし時の經つのを知らずに眠つたから、何時頃か少しも分らなかつた、がそれは何でもない。夕方が來れば分る。  巴里を出てからは身づくろひをする暇も折もなかつた、ところで風に飛ばされた道の砂が、少女の頭から足まで、肌を灼いて一面埃の厚い※[#「尸+曾」、第3水準1-47-65]となつてゐた。一人だつたし、水は小屋の周圍につけた溝を流れてゐたから、得られなかつた機會を利用する時だつた。かう雨が長引いては、誰も邪魔しに來はしまい。  スカートのかくし[#「かくし」に傍点]には地圖と母の結婚證書のほかに、石※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]のかけら、短い櫛、指拔《ゆびぬ》き、針を二本さした絲卷き、これらをぼろ[#「ぼろ」に傍点]にしつかり卷いた小さな包みがあつた。少女はそれを解いて上衣も靴も靴下も※[#「月+兌」、U+812B、34-9]いだ後、きれいな水の流れる溝にかがんで石※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]で顏や兩肩や足を洗つた。拭くのには包みを卷いてゐたぼろ[#「ぼろ」に傍点]しかない、それは大きくもなく厚くもなかつた、が、ないよりは揩オだつた。  この身じまひで、氣持ちのいい眠りと殆んど同樣に疲れがなほつた、そこで少女はゆつくり髪を梳きそれを二つの金色の太いお下げに編んで兩肩に垂らした。飢ゑが再び始まつて胃袋を困らせなかつたら、また靴ずれで處々、足がすりむけてゐなかつたら少女は全く氣樂だつたらう、心は靜かだつたし、體はさつぱりとしてゐた。  ひもじいのはどうする事もできなかつた。小屋は宿り場ではあつても、食べ物を何もくれないからである。が擦りむいた傷に對してはかう考へた、擦れて破れてゐる靴下の孔をふさげば靴の固いのに苦しまなくなるだらうと。そこで早速仕事にかかつた。それは手間取つたし難儀でもあつた、なぜなら完全に近く繕はうといふのには綿布が必要だつたらうが、絲しか持つていなかつたから。  この仕事はそれでも有難いところがあつた、せつせとこれをやつてゐると空腹が紛れたのである、しかしそれはいつまでもは續かなかつた。仕事は終つたが雨は相變らず、程度の多少を見せてあるひは細かく、あるひはひどく降りつづき、胃袋もまた次第に激しくその要求を續けてゐる。  今は、明日にでもならないと宿を立去ることはできないやうに思はれたし、一方、奇蹟が起つてスープが貰へるやうなことは到底なかつたから、飢ゑがいよいよ差し逼つてきてそのためにもう食べ物の事しか考へられなくなつた少女は、ふと、小屋の屋根に混つた樺の幹を切つて食はうかと思つてみた。枝の上に攀ぢのぼれば樂に手が屆いた。父と一獅ノ旅をしてゐた頃彼女は、樺の樹の皮で飮料水を作る地方を見たことがある、さうしてみればそれは毒になるやうな有害な木ではない。しかしお腹の足しになるだらうか?  物は、ためしだ。小刀で葉の多い枝を少し切つて、ごく短かくそれを切り分け、その一つを※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]みはじめた。  少女の齒はしつかりしてゐたけれど、それはずゐぶん固く、またずゐぶん澁く、苦いものに思はれた、しかし食通の人が味はふのではあるまいし、少女はそれがどんなにまづくても飢ゑが鎭まり腹の足しになりさへすれば、文句はいはなかつた。しかし呑みこめたのは僅かで、ほとんど木の大部分は、口中でただ無※[#「縊のつくり」、U+FA17、106-5]にもぐもぐやつたのち吐き出してしまつた。葉のはうはそんなに通りにくくはなかつた。  少女が身づくろひをし、靴下を直し、樺の枝を晩御飯にしようと努めてゐるうちに時は經つた、さうして空は相變らず雨で曇つてゐるので日の沈むのを見ることができなかつたが、いつ頃からとなく闇が森を罩《(こ)》め、夜は近づいたに違ひなかつた。果して夜は間もなくやつて來て、森は夕方のない日のやうな工合にして暗くなつた。雨はやんで白い霧がやがて立つた、さうして數分の中にペリーヌは暗闇と沈默との中に沈んだ。十※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]前は見えなかつた、さうして周圍では、遠くの方でのやうに、ただ水滴が枝から屋根へあるひは近くの水溜りへ落ちる音しか聞えなかつた。  ここに泊る積りではゐたが、かうして一人ぼつちで闇の中で森の中に忘れられてゐる自分を見ると、やはり胸が詰まつた。むろん彼女は、雷に※[#「(車/凵+殳)/手」、第3水準1-85-2]たれるといふ危險以外には逢はずに、この場所で晝の一部分を今し方過ごしはした、が晝の森は夜の森ではない、夜の森は多くの不安なものを知らせ見せる不思議な影と、荘嚴な沈默とを持つてゐる。  だから少女は、胃の痙攣には※[#「てへん+蚤」、第3水準1-84-86]き立てられ、幽靈を目に浮べては怯えて、思ふやうに直ぐに寢つくことはできなかつた。  この森にはどんな動物がすんでゐるだらう? たぶん狼が?  と思ふと、うとうとしてゐた少女は引※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]されて、身を起し、丈夫な棒切れを取つて小刀でその端を尖らせ、次に周圍に柴を置いた。少くとも、狼がかかつてきたらこの砦の蔭で防ぐことができる。確かにその勇氣は出る。そこで安心して、兩手にその槍を握つたまま木屑の寢床にになると、まもなく眠つてしまつた。  小鳥の歌で目がさめた、それは、張りのある、笛のやうな調子の、落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた物悲しい歌だつた。少女はすぐにそれを鶫《つぐみ》の聲だと知つた。目をあけると柴の上に暗い森を通つてきた白い弱い光が見えた。森の樹や若木は夜明けの※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]白い背景にKく浮き出てゐた。  雨はやんでゐた。一吹きの風も重い木の葉を動かさず、森の中はしいんとして、これを破るものはただこの鳥の歌だけで、それが彼女の頭上で揚ると、遠くで他の數々の歌がそれに答へた、ちやうど村から村へと繰返され長引いてゆく朝の呼び聲のやうに。  もう起きて出かけなければなるまいかと思ひながら耳をすましてゐると少女は身ぶるひが出た。手を上衣にやると夕立の後のやうに濡れてゐた。森の濕氣が透つて、今、夜明けの冷氣の中で少女を冷やしたのだ。もう躊躇してはゐられない。すぐに立つて、馬が嚔《くさめ》をするやうに體を※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]くゆすぶつた。※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いたらあたたまるだらう。  しかし考へ直して、未だ出かけずにゐようと思つた。空模樣の分るほど明るくはなかつたからである。この小屋を去る前、もう雨が降らないかどうかを見るのは賢明だ。  時を過ごすため、また體を動かすために、少女は昨夜亂した柴をかたづけ、次に髪を梳き、水の滿ちた溝のふちで身繕ひをした。  それがすむと夜明けの代りに朝日が出てゐた、さうして今は枝越しに、空が、どんな薄い雲もなく※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]白く見えた。確かに朝はいい天氣らしい、たぶん晝もさうだらう。出かけよう。  靴下は繕つたけれど※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]き出すのはひどく辛かつた、それほど足は痛んだが、まもなく慣れてしまひ、やがて規則正しい足取りで、雨で柔らかくなつた道を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて行つた。太陽の斜めの光が背中に當つて少女をぬくめ、同時に、少女と並んで※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]く長い影を砂利の上に投げた、この影を見ると少女は安心した、なぜならその影は、別段身なりの立派な少女の姿を見せてはくれなかつたけれど、少くともあの、髪を振り亂した土色の顏の昨日の哀れな娘の姿はもう見せなかつたからである。犬もたぶん吠えつかないだらう、人々も疑ひの眼で見送らないだらう。  天氣も、心に希望を抱かせるのにあつらへ向きのものだつた。こんなに美しい朗らかな朝を見たことがなかつた。夕立は道や野原を洗ひ、樹にも草にも一切に、昨夜にも孵《かへ》つたやうな新しい生命を與へてゐた。空は再びぬくもり、幾百の雲雀が嬉しげな歌を投げながら澄み切つた※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]空を眞直ぐに飛び、森をふちどる野原一面から、草や花や刈入れ物の人を力づけるやうな香ひが立ち昇つてゐた。  この萬物の歡喜のまん中で、自分だけが※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望したままでゐなければならないわけはなからう。不幸といふものはいつまでも追つてくるものかしら? 幸運がどうして來ないことがあらう? 森で宿られたのがすでに大きな幸運であつた、次の幸運にもめぐり會はないわけはない。  道々少女の想像は、かくし[#「かくし」に傍点][#底本ではこの「かくし」には傍点がない]に孔があいて街道にお金を落すといふことは時々あるものだといふ考へから翼に乘つて飛び立ち、またいつもこの考へに※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るのであつた。だから、彼女が、人に返さなければならないやうな大きな財布でなく、ほんの一スウか、誰にも迷惑をかけずに取つておくことができて自分を救つてくれるやうな十スウ銀貨でも拾ふことはあるかも知れないと繰返し思つたのは、狂氣の沙汰とはいはれない。  同樣に、何か仕事か手傳ひをする機會にうまく出逢つて何スウか貰へるかも知れないと思ふのも、彼女にとつては、とんでもないことではないやうに見えた。  三四日生きるのには、それほど僅かしか要らなかつた。  そこで目を砂利の上につけて※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いた、が二スウ銅貨も小さな銀貨もかくし[#「かくし」に傍点]の綻びから落ちてはゐなかつたし、また仕事の機會も見當らなかつた。想像はそれを甚だ容易に見せてくれるのだが現實はどこにも與へてくれないのだ。  しかしさうした幸運のどちらかは、火急のこととしてできるだけ早く實現しなければならないものだつた、なぜなら少女の昨日覺えた不快は、時々激しく繰返されるので、道を續けて行くことはできないのではないかと心配しはじめたほどであつたからである。胃の傷み、嘔氣《はきけ》、眩暉《めまひ》、元氣をすつかり無くしてしまふ發汗。  その苦惱の原因を尋ねる必要がなかつた、胃袋がそれを苦しさうに彼女に訴へてゐたのだ、さうしてあのひどく不成功に終つた樺の枝での昨日の經驗を繰返すわけにもゆかなかつたので、もし、いよいよ※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]い眩暉《めまひ》のために道の低い斜面に坐りこまなければならなくなつたら、そのあとはどうなることだらうと考へた。  再び立ち上れるだらうか?  もしそれができなかつたら、自分は誰にも手を差伸べられずにそこで死ぬよりほかないのだらうか?  もし誰かが、昨日あの死物狂ひの努力で森の小屋に辿り着いた彼女に向つて、死といふものは※[#「「褒の保に代えて丑」、U+2E569、10-4]弱によつても自暴自棄によつても起り得るといふ考へをそのうちにお前は逆らはず受け容れるだらう、と言つたとしたら、しまひまで鬪ひぬく※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は救はれるのではないのでせうか、と答へて、彼女は反對したに違ひない。  しかし昨日は今日と同じではなかつた、昨日は未だ力が殘つてゐた。今はそれがない。昨日は頭はしつかりしてゐた、今は頭はふらふらである。  無理をしてはいけないと思ひ、氣の遠くなる※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]に、草の上に坐つて少し休んだ。  豌豆の畑の前に立ち止まつたとき、自分とおほよそ同じ年頃の四人の娘が、一人の百姓の女の指圖で、畠へはひつて豆摘みを始めるのを見た。そこでありたけの勇氣を振ひ起して、少女は道の溝を越えて百姓の女の方へ行つた、がこの女は少女を寄せつけなかつた。  ――お前さん、何の用だえ?  ――あのう、お手傳ひをさせて頂きたいと思ひまして。  ――誰も要らねえよ。  ――どんな事でも構ひませんからやらして下さい。  ――お前さん、どこから來たんだえ?  ――巴里からです。  娘の一人は顏をあげて、意地惡さうな目付きを投げて叫んだ、  ――巴里から人の作物《さくもつ》を荒しに來たのだろ。  ――誰も要らねえといつたに、と百姓の女は續けた。  溝をまた越えて、※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]き出すよりほかなかつた。少女はさうした。胸を一ぱいにして、脚を棒のやうにして。  ――それ、お巡りさんが來た、逃げな、と別の娘が叫んだ。  少女は急いで振返つた、すると皆その冗談に興じて、どつと笑つた。  そんなに※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]かないうちに、間もなく立ち止まらなければならなかつた、もう道が見えないほど目に※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]があふれたからである。何をしたからといつて、あんなにつれなくされるのだらう!  確かに、宿なしにとつては、仕事は二スウ銅貨と同樣になかなか見つからない。その證據は分つた。だから少女はそれを繰返さうとせず、脚にも心にも力なく、しよんぼり※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]き續けていつた。  眞晝の太陽はつひに少女を壓しつぶした。今は少女は※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゐるといふより身を曳きずつてゐた、さうして自分の後を眺めてゐるやうに思はれる人々の※[#「示+見」、第3水準1-91-89]線を逃れるため、村々を通り過ぎるときだけ少し※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]を早め、反つて、後から馬車が來て追越さうとする時などは※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]をゆるめた。さうして自分一人だけになつた時は、※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず立ち止まつて休んで息をついた。  しかし休むと頭のはうは働きだした、さうして頭に浮ぶ次第に不安になつてゆく考へは、ただ少女の※[#「「褒の保に代えて丑」、U+2E569、10-4]弱を揩キばかりであつた。  終りまで行けないのは明らかであるとすれば、頑張つたとて何にならう?  少女はさうして或る森までやつて來た。道は眞つすぐ森の中へ目のとどく限りはひりこんでゐて、すでに野原で重苦しく燃えるやうであつた※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]さは、ここでは息づまりさうだつた。太陽は灼熱し風は一そよぎもなく、下草や道路の低い斜面からは、しめつた蒸氣がむんむんと立ち昇つて息ができなかつた。  少女は間もなく力盡きたことを感じた、さうして汗にぬれ、動悸は※[#「「褒の保に代えて丑」、U+2E569、10-4]へて、動くことも考へることもできずに草の上にたふれた。  その時、後から荷馬車がやつて來て通過した。轅《ながえ》の上に腰をおろして馬を驅つてゐた百姓がいつた、  ――※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]い、こりやあ死ぬよりほかは無《ね》え。  少女は夢うつつの中で、この言葉を自分に言ひ渡された刑罰の承認のやうに聞いた。  してみると本當に自分は死ななければならないのだ。少女は※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]にそのことを一度ならず自分に言ひ聞かせてきた、さうして、見よ、死の使ひはそのことを自分に重ねて言つたのだ。  よし、自分は死なう、これ以上逆らふことはなく鬪ふこともない。もうさういふことはできなくなつてしまへばいい。お父さんも死んだ、お母さんも死んだ、今度は自分の番だ。  うつろな頭に浮んだかうした考へのうち一番痛ましかつたのは、こんな溝の中に哀れな動物のやうにして死ぬのでなく、兩親と一獅ノ死ぬのなら、それはまだしも不幸でない、といふ考へであつた。  そこで少女は最後の努力をして森蔭にはひり、そこに物見高い人々の目を※[#「月+兌」、U+812B、34-9]れて寢る最後の眠り場所を選ばうとした。ほど近くに拔け路がついてゐた。これを取つて五十米ほど行つた、すると草の生えた小さな空地があり、そのふちには美しい紫の狐尾草の花が咲いてゐた。少女は栗の若木の蔭に坐つた、さうしてになりながら、※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]晩寢るときのやうに腕の上に頭をおいた。 [#2字下げ]十[#「十」は小見出し]  暖いものを顏の上に感じて、はツと目がさめ、驚いて目をあけると、毛の生えた大きな顏が自分を覘きこんでゐるのが、ぼんやりと見えた。  少女は脇へ跳びのかうとした、が、舌が顏の上をまともに大きく舐めて、少女を芝草の上に引き留めた。  これは瞬時の出來事ではあつたが、少女はその間に我に返つた、この毛の生えた大きな顏は驢馬のものであつた。彼女は、自分の顏や前においた自分の兩手を※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず舌でぐいぐい舐められてゐる最中に、驢馬を見ることができた。  ――パリカール!  兩腕を驢馬の頸にまはして※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]にかきくれながら、抱きついた。  ――パリカール、私のパリカール。  驢馬は自分の名前をきいて舐めるのをやめ、首をあげて五六度誇らしげな喜びの嘶きをあげ、それではまだ自分の滿足を叫ぶのに十分でないので、さらに、前に劣らぬ大きな聲を五六度あげた。  そのとき少女は、驢馬が、馬具も頭絡《おもがひ》もなく、脚には桎《かせ》を嵌められてゐるのを見た。  少女は身を起し、驢馬の頸を取つて、なでながらその頸に自分の顏をおいた、一方驢馬はその長い耳を少女のはうへ傾けた、その時、誰かしわがれ聲で叫ぶのが聞えた。  ――どうしたといふんだ、いたずらツ子め? ちよつと待つて、今行く、今行くから。  果して、道の砂利の上に間もなく急いでくる足音が聞えた。ペリーヌは、仕事※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]を※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]て革の帽子をかぶつた男がパイプをくはへて現はれるのを見た。  ――おい! 娘つ子、うちの驢馬に何をしてゐるんだい? と男は、パイプを口から離さずに叫んだ。  すぐにペリーヌは、それをラ・ルクリだと覺つた。馬|市《いち》で自分がパリカールを賣つた男裝の屑屋だ、しかし屑屋は彼女と知らず、ちよつとして後、始めて彼女を驚いて見つめ、  ――どこかで見たやうだが?  ――私があなたにパリカールを賣つたときですわ。  ――おや、まあ、お前さんだ。何をしてるんだね?  ペリーヌは答へられなかつた、氣が遠くなつて坐るよりほかはなかつた、さうして※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]い顏色と窪んだ目とが、代りに語つてくれた。  ――どうしたんだえ? とラ・ルクリは尋ねた、病氣なのかえ?  しかしペリーヌは一言も出さずに脣を動かした、さうして※[#「「褒の保に代えて丑」、U+2E569、10-4]弱と感動とに力を失ひ、生きた色もなくふるへながら、片肱をついてたはつた。  ――これ、これ、とラ・ルクリは叫んだ、どうしたのか言へないのかえ?  まさしく少女は自分がどうしたのか、言へなかつた、自分の周圍に起つたことは覺えてゐたが。  しかしラ・ルクリは、あらゆる貧苦を知つてゐる苦勞人だつた。  ――大かた、死ぬほどお腹がすいてゐるんだらう、と呟いた。  それだけ言つて彼女は空地を出て道の方へ行つた、そこには驢馬をはづした小さな荷車があり、荷車の粗い圍み格子にはそこここに兎の皮が張つてあつたが、彼女は急いで一つの箱をあけてパンとチーズと一本の壜を取出し、全部をかかへて駈け※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてきた。  ペリーヌは相變らず同じ※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]態だつた。  ――お待ちよ、お待ちよ。  彼女はそばに膝をついて、壜の口をペリーヌの脣に差し入れた。  ――ぐつと飮みなさい、力がつくから。  實際ぐつと飮むと、ペリーヌの※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]い顏に血の氣が※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]り、活氣づいてきた。  ――飢じかつたのだらう?  ――ええ。  ――さあお食べ、だがゆつくりとだよ、ちよつとお待ち。  彼女はパンとチーズとから少しだけ切り取つて、それを差出した。  ――なるべく、ゆつくりとだよ、それよりか私もお相伴しよう、さうすればお前さんを加減できるから。  この用心は賢明だつた、なぜならもう少女はパンへぢかにかぶりついてゐて、ラ・ルクリの忠告に從ひさうに見えなかつたから。  それまでパリカールは、じつと大きな優しい目で樣子を見てゐたが、ラ・ルクリがペリーヌのに坐るのを見ると自分もそのそばに膝をついた。  ――この小※[#「にんべん+曾」、第3水準1-14-41]もパンがほしいんだらう、とラ・ルクリはいつた。  ――一つやつて構ひませんか?  ――一つでも二つでも好きなだけおやり、無くなつたら、まだあるから遠慮しないで。お前さんに逢つて喜んでゐるんだよ、このいい子は。だつて、これはいい子だものねえ。  ――さうでせう?  ――その一切れを食べたら、お前さん、どうしてこんな森でお腹がへつて死にかけてゐたのか話しておくれ、だつてお前さんを死なすなんて本當に可哀さうなことなんだもの。  ラ・ルクリが勸めたにも拘らずそのパンの切れは、あつといふ間に平らげられた。  ――もう一つほしいだらう? と彼女は、それが無くなると言つた。  ――ええ。  ――それぢやあ、あげるのは話を聞いてからにしよう、話をしてるうちに今食べたのがこなれるだらう。  ペリーヌは、きかれた話をし、母の死から始めた。サン‐ドニの一件まで來ると、パイプに火をつけたラ・ルクリはそれを口から離して、パン屋のおかみにひどい惡口をならべた、  ――そりやあ泥棒だ、と彼女は叫んだ、私は贋《にせ》金なんぞ、誰にも渡しやあしないよ、だつて私はそんなものを誰からも※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]ませられはしないもの。安心をおし、サン‐ドニを通るとき吐き出さしてやるから、それとも町中を集めてけしかけてくれる、私はサン‐ドニに友達があるんだ、やつの店に火をつけてやる。  ペリーヌは語りつづけ、物語を終つた。  ――そんな工合で死にかけてゐたのだね、とラ・ルクリはいつた、一たいどんな感じだつたえ?  ――始め大へん苦しくつて、ちやうど夜中に胸が苦しくて聲をあげるやうに、どうしても聲を立てずにゐられない時があつたわ、それから天國とそこで食べようとするおいしい物の夢を見ました、待つてゐるお母さんが、ミルク入りのチョコレートを作つてゐて下さる、それが私には分るんです。  ――お前さんは、※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]さに中《あた》つて死ぬはずだつたのが、ちやうどそのことで助かつたなんて面白いね、だつて、私だつて※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]さに中《あた》らなかつたら、この森の中に止まつてパリカールを放しもせず、パリカールはお前さんを見つけもしなかつたのだから。これからお前さんどうする積りだい?  ――道を續けてゆきます。  ――で、明日はどうして食べる? お前さんぐらゐの年でなくちやあ、そんなふうに當てもなしに※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]けるもんぢやない。  ――どうしたらいいでせう?  ラ・ルクリは、考へながら重々しく二三度パイプを吹かした、さうして答へた、  ――かうしよう、私はクレイユまで行く、それから先きへは行けない。道筋やその近所にある村や町、シァンチイやサンリスで品物を買ひながら行くんだ。お前さん一獅ノおいで、もし力があつたら少し呼んでごらん、「兎の皮、ぼろ屑、古鐵はありませんか」  ペリーヌは、いはれたことをやつた。  ――これや結構だ、聲が澄んでゐる、私は咽喉が痛いから、私の代りに呼んでくれてパンを稼ぐといいや。クレイユへ行つたら、※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]卵を集めにアミアン邊までゆく卵屋を識つてるから、ョんでお前さんをその馬車に乘せて行つて貰はう。アミアンの近くへ行つたら、そこから親戚のゐる土地まで汽車に乘るといい。  ――汽車賃は?  ――それはパン屋のおかみが盜んだお金の代りに前以つて百スウあげておくから。なあに、あのお金は取※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]すから、安心しておいで。 [#2字下げ]十一[#「十一」は小見出し]  事はラ・ルクリの手筈通りに運んだ。  一週間にペリーヌは、シァンチイの森の兩側にあるすべての村、グヴィユ、サン‐マクシマン、サン‐フィルマン、モン‐レヴェック、シァマンを通つた、さうしてクレイユに※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]くとラ・ルクリは少女を引取らうといひ出した。  ――お前さんの聲は屑屋にはすてきな聲だよ、手傳つておくれ、不仕合せにはしないから。らくに暮してゆけるよ。  ――有難うございます、でもそれはだめですわ。  この論理が十分でないのを見て、ラ・ルクリは次の論理を前へ持ち出した、  ――パリカールと別れることはないし。  これには實際ペリーヌは弱らされた、さうしてつい感動を見せた、が意思を固くして、  ――親戚のところへ行かなければなりませんから。  ――その親戚といふのは、パリカールみたやうにお前さんの生命を救つてくれでもしたのかえ?  ――もし行かないとお母さんの言ひつけに反くことになりますので。  ――さうかい、ぢやあお行き、でもね、私のあげようといふこの機會を後日思ひ遺すやうなことがあつても、それはお前さんだけの責任だよ。  ――安心して下さい、あなたのことは忘れません。  ラ・ルクリは、さう斷られても氣を惡くせず、友達の卵屋とアミアン近くまで馬車で運んでくれることに話をつけてくれた。そこで一日中ペリーヌは滿足にも幌の下で藁の上に寢ながら、立派な二頭立ての馬の速※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]《はやあし》で運ばれて行き、この長い道を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて疲れることは要らなかつた。その道は、今の幸bニ過去の勞苦とを較べるといよいよ長いものに彼女には見えた。エサントーでは納屋に泊り、翌日、――それは日曜日であつたが――、彼女はアイ驛の切符賣場の窓口に百スウ銀貨を差出した。今度は刎ねつけられもせず取り上げられもせず、ピキニ行きの切符と二フラン七十五サンチームのお釣りを貰つた。ピキニに※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いたのは朝の十一時、輝かしい※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]い朝だつたが、その※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]さは穩やかで、シァンチイの森の※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]さのやうではなかつたし、少女自身もあの時の見すぼらしい少女とは違つてゐた。  少女はラ・ルクリと數日を過ごした間に、スカートと上衣を繕ひ、補布《つぎ》をあて、ぼろで襟掛けを拵へ、肌※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]を洗ひ、靴を磨[#底本では「磨」は「麾」の「毛」に代えて「石」]いた。アイで汽車の出るのを待ちながら川の流れで細々《こまごま》とした身じまひをした。そこで今彼女は、C潔に、すがすがしく、さつぱりとなつて汽車を降りたのである。  が、C潔さよりも、またかくし[#「かくし」に傍点]で音を立てる五十五スウよりもなほよく心を引立てたものは、過去の經驗から來た勇氣である。やけ[#「やけ」に傍点]にならずに終りまで頑張つて勝利を占めたのであつたからには、征服しなければならない殘りの困難にもこれから打ち勝つであらうことを希望し信ずる權利を、彼女は持つてゐるわけではないか? 一番骨の折れる事柄は成就されずにゐたとしても、少くも何らかの事實、確かに最も難儀で最も危險な事柄は征服されてゐた。  停車場を出ると水門の橋を渡り、今は心も輕くポプラと柳の植わつた※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]の野原を切つて※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて行つた。處々に沼があり、釣りをする人が周りに道具をおいて、うつむいて泛子《うき》を見てゐた。その道具で直ぐに、その人々が、いい身なりをして都會を※[#「月+兌」、U+812B、34-9]れてきた釣り好きの連中であると知れた。沼に續いて泥炭坑があり、赤茶けた草の上には白い字や番號のついたKい小さな立方體が幾何學的に積まれて何列にも列んでゐた、かわかすために列べた泥炭の堆積であつた。  幾度お父樣は、この泥炭坑やその掘り込み、つまりソム低地に獨特の、泥炭を採つた跡に水の溜つた大きな數々の池のことを話してくれたことだらう。同樣にまた少女は、※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]さにも寒さにも何ものにもめげない熱心な魚釣りのことも識つてゐた、だから少女の通つてゆく處は新しい土地ではなくて、たとひ目では未だ見たことがなかつたとはいへ、よく識つてゐる親しい土地であつた。低地をふちどる潰れたやうな裸の町々も識つてゐたし、その町々に聳えてゐて、ここまで感じられる※[#「さんずい+誨のつくり」、第3水準1-86-73]の微風に打たれて靜穩な日でさへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る風車も識つてゐた。  始めて※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた赤瓦の村もそれと分つた、サン‐ピポア村だ、マロクールの工場で[#「マロクールの工場の製品を使って」の意か?――入力者註]織物業や綱の製造をしてゐる處だ。少女はそこへはひる前、鐵道線路を平面交叉してゐる道で切つた。この線路は、エルシゥ、バクール、フレクセール、サン‐ピポア、それからヴュルフラン・パンダヴォアヌの工場の中心マロクール、これら色々の村をつらねた後、ブーローニュの幹線に繋がつてゐる。低地のポプラに隱見する景色を當てもなく眺めると、これらの村の葺石《スレート》の鐘樓や、けふ日曜日には一片の煙もない工場の煉瓦の煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]が見えた。  ヘ會の前を通ると大|彌撒《ミサ》ををへた人々が出てきた、さうして行き違ふ人々の話をきいて少女はなほ、お父さんが自分を面白がらせるためによく眞似をしたあの、言葉を歌ふやうにして長く曳くピカルディ地方ののんびりした方言を想ひ出した。  サン‐ピポアからマロクールへは、ふちに柳の木の並んだ道が、泥炭坑の中を、眞直ぐにではなく、餘りぼこぼこしない地面を選びながら縒れ曲がつて通つてゐる。だからここを通る人々は、前もうしろも少しの距離しか目が利かない。かうして彼女は、腕に重い籠をかけたために體をまげてゆつくり※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて行く一人の娘に追ひついた。  ペリーヌは取※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]してゐた勇氣に力づけられてその娘に言葉をかけた。  ――この道はマロクールへ行くんでせう?  ――えゝ、眞つすぐに。  ――まあ! 眞つすぐにだつて、とペリーヌは※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]笑んだ、こんな眞つすぐなのは無いわ。  ――お困りでしたら、私もマロクールへ參りますの、御一獅ノ參りませう。  ――それは結構ですわ、あなたのお籠を私にも持たして下さいな。  ――さうして頂けませうか、とても重たくて。  その娘は籠を地面におろして、ほつと吐息をもらした。  ――あなたはマロクールのお方ですか? と娘は尋ねた。  ――いいえ。あなたは?  ――私はもちろんさう。  ――工場で働いていらつしやるんでせう?  ――ええ、皆と同じやうに。私、|管[#底本では「管」は「竹かんむり/孚」]捲《くだまき》機のところで働いてゐます。  ――それはどんな機械ですの?  ――まあ、管捲《くだまき》機を御存じないんですか、エプロワールを! 一たいどこからあなたはいらしつたのです?  ――巴里から。  ――巴里の人が管捲《くだまき》機を御存じないなんて面白いこと。つまり梭《をさ》のために絲を仕組む機械ですわ。  ――日當はたくさん貰へますの?  ――十スウ。  ――難かしいお仕事?  ――そんなに難しくありません、でも目が離せないし、ぼんやりしてはゐられませんわ、あなたは、そこに雇はれたいのですか?  ――ええ、採用して貰へたら。  ――もちろん採用して貰へますわ、誰だつて入れるんですもの。さうでなくちやあ工場に働いてゐる七千人の職工さんは、何處で見つかりませう。明日の朝六時に工場の柵門のところへいらつしやればいいのです。でもお喋りはもうたくさん。遲れるといけない。  娘とペリーヌは、籠の柄《え》を兩側から取つて、道のまん中を足並そろへて※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きだした。  知りたいものだと思つてゐた事を知る機會は餘りにも都合よく到來したから、ペリーヌはそれをつかまずにはおかなかつた、が、その娘にあけすけに問ふことはできなかつたから質問は上手にしなければならなかつたし、まるで出まかせに喋るやうなふりをしながら、目的をさとられないやう十分よく包み隱したさういふ事柄だけしか尋ねないやうにしなければならなかつた。  ――あなたはマロクールで生れたの?  ――ええ、そこで生れました、私の母さんもさうでした、お父さんはピキニでした。  ――二人とも亡くなられたのね?  ――さう、私はお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんと一獅ノ暮してゐるのです。お※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんは、小賣と食料品雜貨店とをやつてゐます、フランソアズお婆さんといつて。  ――まあ! フランソアズお婆さん!  ――御存じなの?  ――いいえ、・・・まあ! フランソアズお婆さん、といつてみただけですわ。  ――お※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんは土地では大へんよく人に知られてゐるんですの、小賣りをやつてゐますし、エドモン・パンダヴォアヌ樣の乳母でしたから何事かヴュルフラン・パンダヴォアヌ樣にョみたいことのある人達が、お婆さんのところへ來るもんですから。  ――お※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんはその人たちにョまれた事を、聞いて貰へるのですか?  ――聞いて貰へたり貰へなかつたりですわ、ヴュルフラン樣は、さういつも甘くはいらつしやらないから。  ――お※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんがエドモン・パンダヴォアヌ樣の乳母だつたのなら、何故みんなはエドモン樣のところへ行つてョまないのでせう?  ――エドモン樣ですつて! エドモン樣は、私などの生れる以前にこの土地をお出になつたんですよ。印度へ苧《を》を買ひに遣られになつたとき、仕事のことでお父樣と仲違《なかたが》ひなすつて二度と歸つておいでになりませんの・・・あなたは管捲《くだまき》機を御存じないから、苧《を》といつても、分らないでせうね。  ――草なの?  ――麻なのです、印度で採れる大麻《たいま》なのです、これをマロクールの工場で紡いで織つて染めます。この苧《を》でヴュルフラン樣は財産[#底本では「産」は「顏のへん」の「彡」に代えて「生」]をお拵へになつたのです。それやねえ、ヴュルフラン樣だつてずつとお金持ちでいらしつたわけではなく、始めは御自分で荷馬車を曳いて絲を運んでは、土地の人々が家で機《はた》にかけて織つた布を貰つて歸られたのですわ。あのお方はそれをお匿しにならないので私も申しあげるんですけれど。  娘は話を中途でやめて、  ――腕を替へませうか?  ――さうしませう、お孃さん・・・あなたは何と仰つしやるの?  ――ロザリー。  ――ではさうしませう、ロザリーさん。  ――それではあなたは、お名前は?  ペリーヌは本名をいはうとせず、思ひついたままの名前をいつた、  ――オーレリー。  ――では腕をかへませう、オーレリーさん。  少し休んだのち再び調子を合はせて※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きだすと、ペリーヌは直ぐ自分に關係した事柄に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つた。  ――エドモン樣は、お父樣と仲違ひして出られたんですつてね。  ――えゝ、それから印度へ行かれると一そう仲違ひがひどくなりました、エドモン樣はその土地の娘とさう立派でもない結婚をなすつたのです、こちらではヴュルフラン樣が、ピカルディ一の家柄のお孃樣を婚《めあ》はさうとしていらしつたのに。ヴュルフラン樣は、この結婚のために、息子と嫁とを住ませようとして何百萬圓もかけてお邸を造られました。どうしてもエドモン樣は、あちらの奧樣と別れてこちらのお孃樣を貰はうとはなさらないので、すつかり仲違ひなさり、今はエドモン樣は生死のほども分りません。生きてをられるといふ人もあり亡くなられたともいひます、が何も分りません、もう幾年も幾年も前から音沙汰なしですから、・・・それも人の噂ですけれど。だつてヴュルフラン樣も甥御さんもその話は誰にもなさらないので。  ――ヴュルフラン樣には甥御さんがいらつしやるのですか?  ――お兄さんの息子テオドールさんと、お姉さんの息子カジミール・ブルトヌーさん。一獅ノ呼んで手傳つて貰つていらつしやるのです、もしエドモン樣が歸つて來られないと、ヴュルフラン樣の財産も工場も皆、甥御さんのものになります。  ――面白いこと。  ――エドモン樣が歸つてこられなかつたら厭ですわねえ。  ――お父樣のためにね?  ――土地のためにもですわ、だつて甥御さんの手にかかつたら、あんなに大勢の人々を養つてゐる工場はどうなるか分りませんわ、皆がその話をしてゐます、日曜日に私が店の小賣を手傳つてゐますと色んなことがみんな耳にはひりますのよ。  ――甥御さんのこと?  ――ええ、甥御さんのことだの、ほかの事だのが。でもそんな事は、私たち他人の知つたことぢやありませんわね。  ――ほんたうにさうね。  ペリーヌは、※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]ひて聞きたがつてゐると見られたくないので數分間默つて※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いた、が口の輕いらしいこのロザリーは間もなく話をつづけるに違ひないと思つてゐた、果してさうだつた、  ――あなたの御兩親もマロクールにいらつしやるの?  ――私、もう親はないんですの。  ――お父さんも、お母さんも?  ――ええ、お父さんもお母さんも。  ――私と同じことね、でも私にはお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんがあるわ、いい人よ、氣兼[#底本では「兼」は「税のつくり−兄」に代えて「八がしら」]ねしなければならない叔父さんと叔母さんがゐなかつたらもつといい人なんだけど。叔父さんや叔母さんがゐなかつたら、私、工場なぞで働かないでお店にゐるんだけど。でもお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんの思ふやうにはならないわ。ぢやあなたは一人ぼつちなの?  ――一人ぼつちよ。  ――巴里からマロクールへいらしつたのは、御自分のお考へなの?  ――マロクールでたぶん仕事が見つかるだらうといふことでしたので、殘つた親戚のゐる土地へずんずん行つてしまはないで、マロクールを見ようと思つたのです、だつて親戚といつても、こちらで識らない限り、どんなふうに迎へてくれるか分らないものですわね。  ――ほんたうにさう、善い人もゐれば惡い人もゐるし。  ――さう。  ――あの、心配要りませんわ、工場に仕事が見つかりますわ、十スウは大した日給ではないけれど、でも幾らかにはなるし、それに二十二スウまでは上れますのよ。ちよつとお尋ねしますからよかつたら答へて頂戴、答へたくなかつたらいいのよ、あなたお金を持つていらしつて?  ――少しばかり。  ――さう、何でしたらフランソアズお婆さんの宿にお泊まりになれば、前拂ひで一週二十八スウですわ。  ――二十八スウなら拂へるわ。  ――値段がこれですからお一人だけの立派なお部屋は約束できません、一部屋に六人なの、でも寢床も、敷布も、毛布もあるわ、これは誰でもあてがはれるわけぢやありませんのよ。  ――では有難くお受けします。  ――お※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんの宿には一週二十八スウの人達しか泊まらないけれど、ほかに、うちの新のはうにですけれど、立派なお部屋がありますわ、工場に務めてゐる人が泊つていらつしやるんです。建築技師のファブリさん、會計課長のモンブルーさん、外國通信係のベンディットさん。この人に話しかけるときには忘れずにベンディットつていはなくちやあいけません、この人は英國人だから、バンディ([#割り注]佛蘭[#底本では「蘭」は「くさかんむり/闌」]西語で盜賊の意――譯※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]註[#割り注終わり])と發音すると「泥棒」とでもいはれて侮辱されるやうに思つて怒りますわ。  ――きつと忘れないわ、それに私は英語を知つてゐるのよ。  ――英語を知つていらつしやるの、あなた?  ――お母さんが英國人でした。  ――それぢやあさうだわね。あゝ、ベンディットさんはずゐぶん喜んであなたと話すでせう。もしあなたがどんな國語でも知つてゐたらなほ喜ぶでせう。だつてあの人は日曜日には、二十五箇國語で印刷した本を開いて「主の※[#「示+斤」、第3水準1-89-23]」を讀むのが大の慰安なのですもの、讀みをはると讀み返し、終るとまた讀みはじめるのよ、日曜日にはいつもさうなの、でもいいお方ですわ。 [#2字下げ]十二[#「十二」は小見出し]  道の兩側にずつと生えてゐる大樹の二枚のカーテンの間に、※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]に少し前から、右手には丘の斜面に葺石《スレート》の鐘樓、左手にはトタンで出來た大きなぎざぎざの屋根、やや遠くに煉瓦の高い煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]がたくさん見えてゐたが、やがて見えなくなつた。ロザリーは言つた。  ――もうマロクールです、やがてヴュルフラン樣のお邸が見えます、それから工場が。村の家は木の蔭になつてゐるから高みへゆかないと見えません、川の向ふ側にヘ會と墓地が並んでゐますのよ。  果して、柳の木々がみんな同じ高さに頭を斷られてゐる場所へ來ると、お邸の全貌がその壯大な整ひを見せて浮び上つて來た。白い石と赤い煉瓦の正面を持つた建物の三つの棟、高い屋根、木立のある廣々とした芝地のまん中にそびえる煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]、さうしてその芝地は降《くだ》つていつて草原となり、そこから丘の動きに從ひ土地の起き伏しにつれてずつと遠くへ延び擴がつてゐる。  ペリーヌは驚いて※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]をゆるめロザリーは※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きつづけたので、二人はぶつかり合つて籠をおろしてしまつた。  ――どう! お邸、立派でせう、とロザリーはいつた。  ――立派なこと。  ――ヴュルフラン樣は、あそこにたつた一人で、庭師や馬丁を勘定に入れないでも十二人ほどの召使ひと暮していらつしやるのです、庭師や馬丁たちは、ずつと下の方の庭園の端にあるあの、工場の煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]より低くて小さい煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]の二本ある村の入口ねえ、あそこに見える附屬の建物の中にゐるんです。それからあれは、お邸の照明用の電氣機械の仕事場と、お邸や※[#「さんずい+慍のつくり」、第3水準1-86-92]室をぬくめるための汽鑵室です。お邸の中の美しいことといつたら、どこもかしこも金づくめよ。甥御さんたちはヴュルフラン樣と一獅ノ住みたがつていらつしやるのだけれども、ヴュルフラン樣はそれがお嫌ひで、一人で暮し一人で食事をなさるのがお好きなんですつて。甥御さんたちをお泊めになつてゐられることは確かです、お一人は工場の出口のところにある古いお邸に、もう一人はそのお隣りに。それでお二人は事務所がずつと近くなられたわけなの、それなのに、をりをり遲刻なさいます、ところが工場主のをぢ樣のはうは六十五※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]でもう樂をなすつてもいいお方なのに、夏も冬も、お天氣のいい日も惡い日も、いつも事務所にいらつしやるの、日曜日は別です、日曜日は、工場主も誰もかも皆お休みになるから。煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]から煙の出てゐないのはそのためなのです。  再び籠をさげて彼女たちは間もなく工場の全景を眺めることができた、けれどペリーヌの見とめたものはただ、どつしりと周圍のものを壓へつけてゐる、頂きのKい、背丈の殆んど全部が灰色をした巨大な煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]のまはりに、敷瓦や葺石《スレート》の屋根を集めてゐる、新しい古いさまざまの建物の混雜だけであつた。  その上彼女たちは、貧弱な林檎の木の植ゑてある庭々に散在する最初の家々へ辿り着いてゐた、さうして周りに見えるものはペリーヌの注意をひいてゐた。――隨分しばしば話に聞かされた村だ。  殊に驚いたのは、うようよした大勢の人たちだ。家の周圍や、明いた窓から内部の樣子の見える低い部屋の、※[#「晴のつくりに代えて睛のつくり」、U+FA12、78-11]衣を※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]た男や女や、子供たちだ。都會でも人の群はこんなに固まりはしないであらう。※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]外では、人々は手ぶらで、ひまさうに、ぼんやり話をしてゐたし、内では、その色でそれが林檎酒《シードル》、珈琲、あるひは火酒《ブランデー》と分る種々の飮物をのんでゐて、議論めいた聲をあげながらコップや茶碗をテーブルにぶつつけてゐた。  ――まあ大勢の人が飮んでゐるのねえ! とペリーヌはいつた。  ――もしこれが、半月分のお給金の支拂ひのあつた後の日曜日だと、大分違ひますよ。お晝から、もう飮めなくなる人たちが、たくさん出來ますわ。  彼女らが通り過ぎる大抵の家々で特に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]しいことは、粘土で羽目を粗塗《あらぬ》りした土造か木造の、どんなに古ぼけた傷《いた》んだ建て方の惡い家でも、その大方が、看板のやうに人目をひく※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口や窓には少くともペンキを塗り立てて、媚びるやうな樣子を見せてゐることであつた。實際この色塗りは一つの看板であつた。かうした家では職工たちに間貸しをするのである、さうしてこの色塗りは、ほかの色んな修繕をやらなくとも、如何にも小ざつぱりしてゐさうに思はせるのである、ちよつと内部を覘いたら、すぐに、ばれてしまふのだが。  ――※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]きましたわ、とロザリーは、※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]き當りの、刈り込んだ垣の向ふにある煉瓦造りの小さな家を、空いてゐるはうの手で指しながら言つた。庭の奧と裏手に、職工に貸す建物があります、このお家はお店、小間物店なのです。二階が下宿部屋。  垣の中に木柵があつてそれは林檎の植わつた小さな庭に向つて開いてをり、庭のまん中に大きな砂利をしいた細道が家のはうへついてゐた。この細道を三四※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]行つたかと思ふと、まだ若い女の人が※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口に出て叫んだ、  ――急いでおくれよ、意氣地なしめ、何だいピキニへ行くだけの用事に。さんざん怠けてきたんだらう。  ――あれは私のゼノビ叔母さんなの、とロザリーは小聲でいつた。いつもうるさいのよ。  ――何をこそこそいつてるんだい?  ――籠を手傳つて頂かなかつたら未だ※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いてはゐないところだつていつてますの。  ――默つておいで、怠け※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]。  この言葉が、甲高《かんだか》い調子で放たれたので、一人の肥つた婦人が廊下へ現はれて、聞いた。  ――何だといふのだえ、お前?  ――あのねえお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さん、ゼノビ叔母さんが遲かつたつて叱つていらつしやるの、この籠、重たいんですのよ。  ――よし、よし、とお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんは穩やかにいつた。そこへ籠をおいて、七輪にシチウがかけてあるから取りに行つておいで。あたたまつてゐるだらう。  ――庭で待つてゐてね、とロザリーはペリーヌにいつた。すぐに歸つて來ますわ、一獅ノ御飯を食べませう、あなたもパンを買つていらつしやいな、パン屋さんは左手の三軒目よ、急いで行つてらつしやい。  ペリーヌが※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るとロザリーは、林檎の木の蔭に食卓をすゑて坐つてゐた。卓上には二つのお皿に、馬鈴薯《じやがいも》入りのシチウが一ぱいよそつてあつた。  ――おかけなさいな、とロザリーは言つた。私のシチウをお分けしませう。  ――でも・・・  ――お上りになつていいんですよ、フランソアズお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんに聞いたら、いいつておつしやつたんです。  さうだとすれば遠慮することはない、とペリーヌは思つて食卓についた。  ――宿のことも話しましたわ、もう決まつたのよ、二十八スウをフランソアズお婆さんに拂ひさへすればいいの、あなたの泊るところはあそこ。  彼女は粘土の壁の建物を指した、それは、煉瓦の家の向ふになつてゐたので、庭の奧のはうに一部分しか見えなかつた。見たところひどく荒れ、壞れてゐて、倒れないでゐるのが不思議なほどであつた。  ――フランソアズお婆さんは、エドモン樣の乳母として貰つたお金で私たちの家《うち》を建てるまで、あそこに住んでゐました。あそこは、家《うち》ほど氣持よくはないかも知れません、けれども職工たちは、親方のやうにしては泊れませんわねえ?  彼女たちの食卓から多少へだたつた別の食卓で、絹帽《シルクハット》を被り上衣のボタンをかけて角《かく》張つた、重々しい四十※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]ぐらゐの男が、製本した小型の本を一心に讀んでゐた。  ――あれがベンディットさんです、「主の※[#「示+斤」、第3水準1-89-23]」を讀んでるんです、とロザリーは低い聲でいつた。  それから直ぐ彼女は、この※[#「示+土」、第3水準1-89-19]員の勤勉にはおかまひなく話をしかけた。  ――ベンディットさん、このお孃さんは英語が話せますのよ。  ――ははあ! と彼は眼をあげないでいつた。  さうして、やつと彼女たちのはうへ眼を向けたのは少くとも二分經つてからだつた。  ――あなたは英國人ですか? と彼は尋ねた。  ――いいえ、でもお母さんがさうでしたの。  それきり一言もいはないで、彼は再び熱心な讀書に耽つた。  彼女らの食事がすんだ時、輕い馬車の音が道の上に聞え、まもなく垣の前で緩かになつた。  ――ヴュルフラン樣の馬車らしい、とロザリーは急に立ち上つて叫んだ。  馬車はなほ五六※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]進んで入口の前に停まつた。  ――さうだ、とロザリーは道のはうへ駈けだして言つた。  ペリーヌは席を離れる勇氣がなく、眺めてゐた。  輪の小さい馬車の中に二人の人がゐた。一人は馬車を驅る若い男、もう一人は麥藁帽を被り、※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]に赤い小靜脈の走つた※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]い顏をして、じつとしてゐる白毛の老人で、腰かけてはゐるけれど背は高さうに見えた。ヴュルフラン・パンダヴォアヌ氏だ。  ロザリーは馬車のそばへ行つた。  ――どなたかおいでになりました、と降りようとしてゐた若い男は言つた。  ――どなただ? とヴュルフラン氏は尋ねた。  この問ひに答へたのはロザリーであつた。  ――ロザリーです。  ――話があるからお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんに來てくれるやうに言つておくれ。  ロザリーは家へ駈けこんで、まもなく、大急ぎで來るお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんを連れて※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてきた。  ――今日は、ヴュルフラン樣。  ――今日は、フランソアズお婆さん。  ――何の御用でござります、ヴュルフラン樣。  ――お前の弟のオメールのことぢや。今その家《うち》へ行つてきたが、何も分らぬ飮んだくれの女房がゐただけでのう。  ――オメールはアミアンに行つてをりまして、今晩※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]りますが。  ――あの男にかういつてくれぬか、わしは、あれが舞踏場をごろつき共の大つぴらの會合に貸したと聞いたが、わしはそんな會合をやらせたうはない、とな。  ――もしも契約をしてをりましたら?  ――取り消させるんぢや、さもなければ會合の翌日に家を追ひ出す。これはわしの家貸しの條[#底本では「條」の「木」に代えて「ホ」]件ぢやから嚴重に履行する、わしはあの種の集りは好かん。  ――フレクセール村でもございましたよ。  ――フレクセールとマロクールとは別ぢや、わしはこの土地の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]をフレクセールの※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]のやうにしたうはない、皆を取締るのはわしの務めぢや。お前たちだけはアンジゥやアルトアのうろつき[#「うろつき」に傍点]ではない、今のままでゐて貰ひたい。これがわしの意志ぢや。オメールに傳へておいてくれよ。では失禮する、フランソアズ。  ――それでは御※[#「俛のつくり」の「危−厄」に代えて「刀」、第3水準1-14-48]なさい、ヴュルフラン樣。  彼はチョッキのかくし[#「かくし」に傍点]を探つた。  ――ロザリーはどこぢや?  ――ここにゐますわ、ヴュルフラン樣。  彼は手を差出した、その手には十スウ銀貨が光つてゐた。  ――さあ、お前に上げよう。  ――まあ! 有難うござゐます、ヴュルフラン樣。  馬車は出かけた。  ペリーヌは一言も聞きもらさなかつた、がヴュルフラン氏の言葉そのものよりも※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]く彼女の胸を打つたのは、その意志を現はす口調と權威ある態度であつた、「そんな集りはさせたうない・・・これがわしの意志ぢや」。少女はこんな口調を聞いたことがなかつた、さうしてこの口調だけが意志のどんなに堅く撓み難いかを語つてゐた、なぜなら彼の體つきのはうは不安さうで、あやふげで、その言葉に一向そぐはなかつたから。  ロザリーは間もなく嬉しさうに勝ち誇つたやうにして※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてきた。  ――ヴュルフラン樣に十スウ頂いたわ、といつて銀貨を見せた。  ――見てゐたわ。  ――ゼノビ叔母さんが知りさへしなければいいの。叔母さんは、貯めておいてやるからつて取り上げてしまふのよ。  ――ヴュルフラン樣はあなたを御存じなかつたやうね。  ――まあ! 御存じないつて。あのお方、私の名親なのよ!  ――でも、あなたがそばにゐるのに、「ロザリーはどこにゐる」つて尋ねていらしつたぢやあないの。  ――だつて見えないんですもの。  ――見えないの!  ――あなた、盲目だといふことを知らないの。  ――盲目!  二三度、低くこの言葉を少女は繰返した。  ――もう長いことなの?  ――ずつと前から目は弱つてゐたのですけれど、みんなは氣づかないで、あれは息子樣がゐなくなられて悲しんでをられるのだと思つてゐました。お丈夫だつたお體も惡くなられました。肺炎になられて、いつまでも咳が直らず、さうして或日、目が見えなくなり、讀むことも動くこともできなくなられたんです。もし工場を賣るか見棄てるかなさらなければならなかつたら、どんなに土地の人は心配したことでせう! ええ! 勿論何もお見棄てにならず、まるでいい眼を持つていらつしやるかのやうに仕事をお續けになりました。だから御病氣を當て込んで自分が工場主にならうと思つてゐた人たちは――と彼女は小聲になつて――、甥御さんたちも、支配人のタルエルさんも、元の木阿彌。  ゼノビが※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口で叫んだ、  ――ロザリー、やくざの意氣地なし、來てくれるかい?  ――もう御飯はすみました。  ――お客さまのお世話だよ。  ――私、失禮しなければならないわ。  ――どうぞ私に御遠慮なく。  ――ぢやあ、今晩ね。  ロザリーは、いやいやゆつくりと家のはうへ行つた。 [#2字下げ]十三[#「十三」は小見出し]  娘の立つた後もペリーヌは、もしできたら、自分の家にでもゐるやうに心よくテーブルに坐つてゐたことであらう。しかし彼女は自分の家にゐるのではなかつた、なぜならこの庭は下宿人たちのための庭であつて職工のための庭ではなかつたからである。職工は、腰掛も椅子も食卓もない奧まつた小さな庭しか使ふ權利はなかつた。そこで腰掛を立ち、當てもなく、ぶらぶら、足の向くままに路を取つて出かけた。  しかし隨分ゆつくり足を運んだのだが間もなく路といふ路を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてしまつた、さうして人々の好奇の眼が自分を追つてゐることを感じて、立ち止まりたいと思つても立ち止まれずに、引返す勇氣もなくて、際限なく同じ處をぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐた。工場と反對側の斜面の高みに森が見え、そのこんもりした※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]がはつきり空に浮き出てゐた。この日曜日には、たぶんあそこならひつそりしてゐて、誰にも注意されずに坐つてゐることができるだらう。  果してその森は人氣《ひとけ》がなかつた。森の※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]《ふち》の畠もさうだつた。少女はその※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]《ふち》の苔の上に、谷と、その谷の中央に在る村とを前にして、樂々と體をたへることができた。少女は、父の話で聞いてよく知つてはゐたけれど、※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りくねつた迷路の中では少々まごついた、しかし今それを上から見渡してみると、それは長い道中、母に語り聞かせながら想像してゐたとほりのものであり、果して行き※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]くことができるかしらと※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望的に考へながら、飢ゑの起す幻の中で樂園のやうに思つてゐたそのとほりのものであつた。  見よ、自分はそこに※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いたのだ。眼前にそれは廣がつてゐる。指先きで、どの路どの家をも、その正確な場所に示すことができる。  何といふ喜び! 本當にさうだ、惡魔にでも憑《つ》かれたやうにして幾度となくその名を口にし、フランスに入つてからも、信ずるためには見る必要があるかのやうに、行き過ぎる馬車や驛に停まつた貨車の幌の上に搜したあのマロクールは、もう途方もない漠然としたあるひは捉へ難い夢の國ではなく、現實の國であるのだ。  村の向ふ側、少女の坐つてゐる斜面と反對の斜面の上、少女の正面に、工場の建物は立つてをり、その屋根の色で少女は、まるで住民が語りきかしてくれるかのやうに、工場發展の※[#「櫪のつくり」、第3水準1-86-37]史を辿ることができた。  川の中央とその※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]《ふち》に煉瓦とKずんだ瓦との古ぼけた建物があり、その隅に※[#「さんずい+誨のつくり」、第3水準1-86-73]風や雨や煙に蝕《むし》ばまれた高い細い煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]がある、この建物が昔の亞麻の製絲工場で、長いこと見棄てられてゐたのを、三十五年前ヴュルフラン・パンダヴォアヌといふ小さな織物製造人が借り受けたのであつた。土地の高慢な連中は馬鹿げたことだと輕蔑し切つて、どうせ潰れると言つてゐたものだ。ところが潰れないで、身代は始め一スウ一スウと少しづつ、間もなく何百萬と揩オていつた。瞬くまにこの母親の周圍に子供は殖えていつた。上の子供たちはお母さんと同樣不恰好で※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物も惡く、ひよわであつた。これは貧乏に苦しんだお母さんには有り勝ちなことだ。ところが次の子供たち殊に末つ子たちは、立派で頑丈で、必要以上に頑丈で、兄たちの年齡の割に早く消耗した漆喰《しつくひ》や粘土の慘めな粗《あら》壁とは似てもつかぬ、多彩な裝飾の被覆[#底本では「覆」は「襾/復」]を粧《よそほ》つてゐて、その鐵の小屋組みや漆《ニス》塗《ぬり》煉瓦の薔薇色や白の玄關とともに、仕事や年月の勞苦に挑戰してゐるやうに見えた。初期の建物は古い工場の周圍の窮屈に劃られた地面に押し詰められてゐるのに、新しい建物は、附近の野原にひろびろと擴がり、鐵道線路や傳達軸や工場全體を無數の細縞でおほふ電線の網で、互ひに結ばれてゐた。  長いこと少女は、これらのこみ入つた路の中に迷ひ入り、高く力※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]い大煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]から、屋根にそびえる避雷針へ、電柱へ、線路の貨車へ、石炭置場へと移りながら、すべてこれらのものが、巴里を出るときサン‐ドニの眞中で聞いたあの恐ろしい響を立てて熱し、煙を吐き、動き、※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、うなるとき、今は死んでゐるこの小さな町がどんな活氣を呈するかを頭の中に描かうと努めるのであつた。  次に目を村へ落すと、村も工場と同じ發展を辿つたことが見えた。花の咲いたべんけい草が金色の塗料となつて一面に生えてゐる古い屋根が、ヘ會の周圍に立てこんでゐた。窯から出たての赤い瓦の色をまだ保つてゐる新しい屋根は、川に沿うて野原や樹木の中に谷間に散在してゐた。ところが工場に見られることとは反對に、古い家々はどつしりした樣子でいい恰好をしてゐるのに、新しいのは見すぼらしく見え、まるで昔マロクールの農村に住んでゐた百姓たちは當時、今の工業に依つて暮す人々よりもずつと樂に暮してゐたやうに思はれるのであつた。  かうした古い家々の中一軒の邸が、その重々しさで他の家を凌《しの》いでゐた、さうしてなほ大樹に圍まれたその庭で他の家よりも際立つてゐた。庭は果樹の牆《かきね》のある二つの高臺となつて川まで下り、洗濯場にとどいてゐた。この邸を少女は想ひ出した、これはヴュルフラン氏がマロクールに居を定めた時はひつた邸で、自分の《やかた》に住むやうになるまでは氏はここを離れなかつた。子供であつた自分の父は、洗濯日には長い時をこの洗濯場で過ごし、そのことを憶えてゐた。父は、其處でお喋りをする洗濯女たちから土地の傳※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]の長い物語を聞いたのであつた、さうして後それを父はその娘に再び語りきかせたのである。「泥炭坑の魔女」や「英國人の砂地獄」や「アンヂェストの魔法使」やその他多くの物語を、少女は昨日聞いたことのやうに想ひ起した。  太陽が動いてゆくから少女は居場所を變へなければならなかつた、が、ほんの數※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]移りさへすれば、棄てた場所と同じ値打のところを見つけることができた、そこでは草は、やはり柔らかく芳ばしく、またやはり村や谷全體の美しい景色を見ることができたから、夕方まで少女は久しぶりに味はふ樂しい※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]態でそこにゐることができた。  少女は決して先きの見えない女ではなかつたから、甘い憩ひに耽つて、これで自分の試煉は終つたなどと考へはしなかつた。仕事とパンと寢床とを確保したからといつて、すべてがすんだわけではない。母の希望を實現するためになほ手中に收める必要のある事柄は大へん難しさうに見えたから、それを思ふと身ぶるひせずにはゐられなかつた、でも結局マロクールに自分を見出すといふことは有難い結果だ、不運にしてここへやつて來られないといふことも大いにあり得たのだ。今は少女は、どんなに長く待たなければならなくとも、どんなに辛い鬪ひに耐へなければならなくとも、ここで何事にも※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望してはならない。頭上に屋根、一日に十スウ、それは道ばたしか寢る處はなく、樺の樹の皮しか食べるもののなかつた哀れな娘にとつて、幸運ではないだらうか?  翌日から始まらうとしてゐる新生活の中で、することしないこと、言ふこと言はないことを決めて、行動の計畫をしておくのは賢いことのやうに思はれた、しかしそれは何一つ知らない少女にとつて大へん難しい事であつたから、間もなくそれは、自分の力のとても及ばない仕事だと覺つた。お母さんがマロクールへ※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いたのなら、どうしたらいいかきつと知つたであらう、がペリーヌは經驗も理解力も智慧も巧みさも、氣の毒なお母さんのどんな特性をも持つてゐなかつた。導き手もなく援助もなく忠告もない子供に過ぎなかつたのであるから。  こんなことを考へた上、お母さんのことを思ひ出したのでなほさら、眼に※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]がこみ上げてきた。少女は墓地を去つて以來まるで自分を救ふ魔力でもこもつてゐるかのやうに幾度となく口にしてきた次の言葉を繰返しながら、こらへ切れずに泣き出した。  ――お母さん、懷しいお母さん。  事實この言葉は、疲れと※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望に苦しんで氣を落したとき、少女を助け、※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]め引立てはしなかつたであらうか? 「お前は・・・さうだ、お前は仕合せになる」といふあの死に臨んだ人の最期の言葉を繰返さなかつたら、少女は終りまで鬪ひぬいたであらうか? その魂が※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]に天と地の間を漂つてゐる臨終の人々には、生きてゐる人々に明《あか》されない多くの~祕な事柄が分る、といふのは、本當ではないであらうか?  この危機は少女を弱らせるどころか力づけた。少女は、時々夕方の靜かな大氣の中を通る微風が自分の泣きぬれた※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]に母の愛撫をもたらしながら「お前は仕合せになる」といふあの臨終の言葉をささやくやうに思つて、心を一そう希望で※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]められ勇氣で高められて、危機をくぐりぬけるのであつた。  どうして仕合せになれないことがあらう? どうしてお母さんは、今、守護の天使のやうに自分の上に身をかがめ、自分の傍に、いらつしやらないことがあらう?  そこでふと少女は、お母さんと話を交はして、巴里でして貰つた豫言をもう一度して頂かうと思つた。しかし少女は、たとひどんなに興奮してゐたとしても、生きてゐる人に話しかけるやうにして母に話しかけることができるとか生きてゐる人の言葉で母が返事をしてくれるなどとは考へなかつた、だつて亡靈は生きてゐる人のやうにしては話をしないのだから。尤も亡靈が話をするといふことは、その亡靈の~祕な言葉の分る人にとつては間違ひないことであるが。  少女は、狂ほしくなるほどに自分を迷はせながら惹きつけるこの測り知れない未知の事柄の上にうつむいて、かなり長い間考へに耽つてゐた。それから何といふことなく彼女の目は、自分の寢てゐる森の※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]《ふち》の草の中で白い大きな花冠を以つて一段と際立つてゐる大きな雛菊の一群にそそがれた、すると少女はすぐに立上つてそれを取りに行き、あれこれと選ばないやう目をつぶつて、その幾本かを摘み取つた。  それから元へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて、じつくり心を鎭めて坐り、感情にふるへる手で、一つ一つその花冠を毟《むし》りはじめた。  ――私の首尾は、半吉、吉、大吉、凶。私の首尾は、半吉、吉、大吉、凶。  愼重にさうしていつて、もう幾枚かの花瓣しか殘らないところまで來た。  幾枚? 少女は數へたくなかつた、だつてその數で答へは分るのだから。しかし胸はひどく塞がつてゐたけれど急いでそれらを毟《むし》つた。  ――私の首尾は、半吉、・・・吉、・・・大吉。  同時に生まぬるい微風が少女の髪の毛の中と脣の上を過ぎた。お母さんのして下さる一番優しい接吻の返事だ。 [#2字下げ]十四[#「十四」は小見出し]  つひにそこから引返さうと決めた。日は暮れてゐた、さうして※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]に狹い谷にもずつと遠くソムの谷にも白い霧が立ち昇つて、それは大樹のぼんやりした梢の周圍に輕く漂つてゐた。小さな光が家々のガラス窓の向ふに灯《つ》いてあちらこちら闇に孔をあけてをり、漠然としたざわめきが唄の幾節[#底本では「節」は「竹かんむり/(皀+卩)」]かも混つて靜かな空氣の中を渡つてきた。  森や街道で遲くなるのは慣れてゐたから恐ろしくはなかつた、けれど何のために遲くなる必要があらう! 少女は、あんなに慘めにも持たずにゐた屋根と寢床とを今は持つてゐるのだ。その上、明日は仕事に出るために早く起きなければならないのだから早く寢るはうがよい。  村へはひつて見ると、聞えてゐたざわめきや唄は居酒屋から出てゐた。そこでは少女のここへ※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた時と同樣に飮み手が一ぱい食卓についてをり、明いた※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口から、珈琲や熱い酒や煙草の香ひが發散し、往來に滿ちて、まるで往來までも廣い居酒屋のやうであつた。しかもこれらの居酒屋は途切れることなく、時には軒を並べてずつと續き渡つてゐて、三軒の中少くも一軒は飮物の一杯賣りをする店であつた。少女は街道をあらゆる土地を旅して、酒飮みの集つてゐる前を幾度も通つてみたが、これらの低い部屋からごちやまぜになつて出て來るこんなはつきりした鋭い言葉の騷ぎは、どこでも聞いたことがなかつた。  フランソアズお婆さんの庭へ來てみると先きに見たあの食卓で、ベンディット氏が燭臺を前に置き、※[#「火+陷のつくり」、第3水準1-87-49]《ほのほ》を新聞紙でかこつて相變らず本を讀んでゐた。燭臺の周圍には蛾や蚊が飛びまはつてゐたが、彼は夢中に讀み耽つて、そんなことを氣にとめてゐないやうすだつた。  しかし少女がそのそばを通ると男は顏をあげて、彼女だと氣づいた、さうして自分の國語を話すのが嬉しくて少女にいつた、  ――今晩は。  少女はこれに答へて、  ――今晩は。  ――どこへ行つてきました? と彼は英語でつづけた。  ――森を散※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]しに、と少女も同じ國語を使つて答へた。  ――一人で?  ――ええ一人で、私マロクールには誰も識つてゐる人がないんです。  ――ぢやあ、なぜじつとして本を讀まないのです? 日曜日には讀書よりいいことはない。  ――本は持つてをりませんの。  ――あなたはカトリックの信※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]ですか?  ――ええ。  ――ともかくいづれ本を貸してあげよう、ではさやうなら。  ――さやうなら。  ロザリーは家の※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口に腰かけ、框《かまち》にもたれて、涼みながら休んでゐた。  ――お寢みになる?  ――ええ、さうしますわ。  ――御案内しませう、でも先づお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんにさういつておかなくては。お店へゆきませう。  話は、※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母とその孫娘との間で出來てゐたので、二十八スウの支拂ひですぐに決まり、ペリーヌはそのお金と更に一週間分の電燈代二スウとを勘定臺の上に列べた。  ――それではこの土地にお住ひなさるのですね? フランソアズお婆さんは靜かな深切な樣子でいつた。  ――ええ、できましたら。  ――できますよ、お働きになれば。  ――それだけが望みです。  ――それは、さうできますよ、いつまでも五十サンチームでゐることはありません、一フランにも二フランにさへも昇ります、ゆくゆく三フランも取るいい職工さんと結婚すれば一日百スウでせう、これならお金持ですよ・・・お酒さへ飮まなければね、ただし飮んぢやあいけません。ヴュルフラン樣が村に仕事を下すつたのは仕合せなことです。なるほど土地はありますけれど、土地からは皆の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の食べてゆけるだけの物は出ませんからね。  自分の言葉が尊重されるのに慣れたひとの權威と重々しさとをもつて、この老乳母がさう意見をのべてゐる間に、ロザリーは押入の下※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]の包みのところへ行つた。ペリーヌは聞きながらロザリーを目で追つてゐたが、自分のために用意せられるシーツが※[#「廣−广」、第3水準1-94-81]色い荷造り用の厚ぼつたい亞麻布であるのを見た。けれども久しくシーツには寢たことがなかつたから、どんなに堅くともさうしたシーツのあることを、まだ仕合せだと考へなければならなかつた。ラ・ルクリは、※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物なんぞ※[#「月+兌」、U+812B、34-9]いでしまつて、旅の間といふもの、決して寢床を用ひなかつた。寢床を用ひる喜びを少女に與へようとさへ考へなかつた。家馬車のシーツも、フランスに※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]くずつと以前に、お母さん用のものを除いて、賣り拂はれたり、ぼろぼろにちぎれたりしてしまつてゐたのである。  少女は包みの半分を持ち、ロザリーの後から庭を切つた。庭では二十人ばかりの職工たち、男や女や子供たちが木の切株や石材の上に坐つて話したり煙草をのんだりしながら寢る時を待つてゐた。そんなに大きくもないこの古家にどうやつてこの人々が皆泊れるのかしら?  ロザリーが鐵網の向ふに置いた小さな※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]燭に火をつけたとき、屋根裏部屋の光景はこの疑問に答へた。奧行六米、幅三米少々の部屋に、壁に沿つて六つの寢臺が列び、眞中にあけた通路はやつと一米しかなかつた。二人分あるかないこの部屋で、六人の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が夜を過ごさなければならないのだ。だから小窓が一つ入口と反對の壁に明いてゐたが、早くも※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口からきつい熱い香ひがしてペリーヌはむツとした。しかし彼女は小言をいはなかつた、さうしてロザリーが笑ひながら、  ――少々狹苦しいでせう? といつたときかう答へて滿足した。  ――少しばかりねえ。  ――四スウは百スウぢやあありませんからね。  ――ほんたうにさうですわ。  結局森や野原より、狹過ぎてもこの部屋のはうが揩オだつた、鹽爺さんの掛小舍の※[#「嗅のつくり」、第3水準1-90-56]氣を我慢したのだから、きつとこの※[#「嗅のつくり」、第3水準1-90-56]氣だつて我慢できる。  ――これがあなたの寢床です。とロザリーは窓の前に置いてあるのを指していつた。  彼女が寢床と呼んだのは、四本の足に二枚の板と木とを取付けその上に藁ぶとんを置いたもので、袋が枕の代りをしてゐた。  ――この齒朶《しだ》は新しいのですよ、とロザリーはいつた。新しくおいでになつたお方を古い齒朶の上にお泊めはゐたしません、そんな事はしていけない事ですわ、尤も本當のホテルでもそれをやり兼ねないといふことは聞いてをりますけれど。  この小さな部屋に寢床は多すぎたのに、椅子は一つも見えなかつた。  ――壁に釘がありますわ、とロザリーはペリーヌの沈默の質問に答へた、※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物をかけるのに大へん便利です。  寢床の下にはなほ、下※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]類を持つた宿泊※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]がそれをしまつておく箱や籠があつた、がペリーヌは下※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]類を持たなかつたから、寢床の足に打つた釘で十分だつた。  ――いい人たちよ、とロザリーはいつた。もしラ・ノアイエルが夜中に物をいつてもそれは飮み過ぎたんですから氣になさらないで頂戴。少しばかりお喋りなの。明日は皆と一獅ノお起きなさいね、雇つて貰へるのにはどうしたらいいかヘへてあげますから。ぢやおやすみなさい。  ――おやすみなさい、どうも有難う。  ――どういたしまして。  ペリーヌは急いで※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物を※[#「月+兌」、U+812B、34-9]いだ。一人きりだつたので、同室の連中から物珍しげに見られないのは仕合せだつた。が、シーツの間にもぐりこんでも豫期してゐた幸bヘ味はへなかつた、それほどシーツはごはごはだつた、木屑で織つてもこれほど堅くはなからう。でもそんなことは取るに足らない、地べただつて始めてその上に寢たときは堅かつた。少女はすぐそれに慣れてしまつた。  間もなく※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]が明いて十五※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]位の娘がはひつてきて、をりをりペリーヌのはうを見ながらしかし何もいはずに※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物を※[#「月+兌」、U+812B、34-9]ぎはじめた。よそゆきの※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物を※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]てゐたので彼女の身じまひは長かつた、だつて彼女は小函の中にその|※[#「晴のつくりに代えて睛のつくり」、U+FA12、78-11]衣《はれぎ》をたたみ、翌日のため仕事※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]を釘にかけなければならなかつた。  次の一人がやつてきた、次に三人目が、四人目が。するとやかましいお喋りだ。一時に皆がめいめいその日の話をする。寢床と寢床の間に節約して設けた隙間で、娘たちはや籠を引き出したり押しこんだりし、それらは互ひに縺れあふ。そのために待切れない動作や、怒り聲が起り、その聲は皆この屋根裏部屋の家主の惡口に變つていつた。  ――なんて荒屋《あばらや》だ!  ――今にあの子はほかの寢床を眞中へ曳きずり出すよ。  ――ほんたうにこんな處にゐてやるもんか。  ――どこへ行く積りだえ? ほかにいい家があるのかい?  怒鳴り聲がふえた、しかし遂に最初にやつてきた二人が寢ると少しをさまりがつき、まもなく寢床は一つを除いて全部塞がつた。  でもそのために會話は止みはしなかつた。ただし方面が變つた。過ぎた一日の面白かつた事を語りあふと、次には明日の面白い事や工場での作業の事、不平や泣き言、めいめいの喧嘩の事、工場全體の惡口へと移り、上の人々、ヴュルフラン氏や、その甥たちや、監督タルエルについては、隱し言葉を遣ひ、甥たちのことを「若※[#「にんべん+曾」、第3水準1-14-41]《わかぞう》」と呼び、また唯一度だけタルエルとさう名前を呼んだほかはこの男を指すのに「鼬」とか「※[#「やまいだれ+溲のつくり」、第3水準1-94-93]せつぽち」とか「ユダ」とか、文句よりもずつと良く娘らの見方を示してゐる形容詞を使つた。  ペリーヌは妙な感じを受けた、さうしてその感じの矛盾してゐるのに驚いた。すなはち彼女は自分の聞いてゐる報告をどんなに重大なものかも知れないと感じて全身を耳にしようとしながら、一方では、これらの話を聽くのを恥かしいかのやうに窮屈な思ひをしてゐたのである。  その間にも話はどんどん進んだ、しかしそれは往々大へんぼんやりしてゐたり大へん個人的であつたりしたから、話を呑みこむためには、誰のことをいつてゐるのかそれを識らなければならなかつた。しかし長いことかかつてやつと彼女は、鼬、※[#「やまいだれ+溲のつくり」、第3水準1-94-93]せつぽち、ユダといふのが、タルエルといふ男のことだなと氣づいた。この男は職工たちの※[#「りっしんべん+曾」、第3水準1-84-62]まれ※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]で、皆この人を恐れもし嫌つてもゐた。しかしわざと言葉を※[#「月+兌」、U+812B、34-9]かしたり、遠慮したり、用心したり、心にもない愛嬌を見せたりしながら話してゐるのを見ると、どんなに皆がこの男を怖がつてゐるかが分つた。みんなの意見は、同じやうな文句で終つたのであつた、  ――でもやつぱり深切な人だ!  ――几帳面だし!  ――ほんたうにさうだ!  しかし直ぐもう一人が附け加へた、  ――それにやつぱり・・・  さうして樣々の證據が擧つて、深切で几帳面なことが示されるのであつた。  ――パンを稼ぐ必要なんかなかつたらなあ!  少しずつ舌が緩やかになつていつた。  ――もうみんな寢ようか、と力のない聲がいつた。  ――誰がお前さんの邪魔をしたい?  ――ラ・ノアイエルが※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてないわ。  ――ついさつき會つたよ。  ――醉つてゐたかい?  ――正體もなく。  ――階段、上れないほど?  ――それはどうだか。  ――※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]を締めて栓を差しておかうか?  ――がたがた騷ぐぞ。  ――またこの間の日曜日みたいなことになるのか。  ――もつと面倒なことになるかも知れない。  この時、階段に重いたどたどしい足音が聞えた。  ――來た、來た。  しかし足音は止まつて、どたりといつた、さうして次に唸り聲がした。  ――たふれた。  ――起き上れないかしら?  ――階段でも、ここと同じやうによく眠るだらう。  ――こつちだつて一そうよく眠れる。  唸り聲に呼び聲が混つて續いた。  ――ライッド、行つといでよ、ちよつと手を貸しに。  ――何遍やらされるんだろ。  ――おい! ライッド、ライッド。  しかしライッドは動かなかつたので、しばらくすると下から呼ぶ聲は止んだ。  ――眠つた。  ――うまい工合。  ラ・ノアイエルは決して眠つたのではなかつた、どころか再び階段を上らうとしてゐた、さうして叫んだ。  ――ライッド、來て手をかしてくれ、よう、ライッド、ライッド。  彼女の上つて來ないのは明らかだつた、聲は相變らず階段の下から出てきたからである、それは叫ぶ※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]にいよいよ激しくなり、つひには※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]ぐんで、  ――ねえ、ライッド、ねえ、ライッド、よう、階段がめり込むよ、おゝ! お!  笑ひがどつと寢床から寢床へ走つた。  ――ライッド、部屋に歸つてゐないのかい、返事をしてくれ、返事を、ライッド。私はお前を誘《さそ》ひに行つてくる。  ――これで靜かになるわ。一つの聲がいつた。  ――とんでもない、あの子がライッドを搜しに行つて見つからないで一時間たつうちに※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてきたら、またあれが始まるんだ。  ――それぢやあ、いつまでたつても眠れやしない!  ――ライッド、行つて助けておやんなさいな。  ――あなた、行きなさいよ。  ――あなたを呼んでるんだもの。  ライッドは決心し、スカートをはいて降りた。  ――おゝ! ライッド、ライッド。喜んだラ・ノアイエルの聲が叫んだ。  二人は、もうめりこまない階段を上つて來さへすればいいやうに見えた。がライッドを見た嬉しさに、そんなことは忘れてしまつて、  ――私と一獅ノおいでよ、一ぱいおごつてやるからよ。  ライッドは、この申し出に誘はれなかつた。  ――さあ寢るんです。  ――いやだよ、ライッド、私と一獅ノおいでよう。  議論は長びいた。ラ・ノアイエルは自分のこの新しい考へを固執して、いつまでたつても變らぬこの言葉を繰返したからである。  ――まあ一ぱいやらうよう。  ――いつまでも切りがありやしない。一つの聲がいつた。  ――こつちは、ねむたいといふのに。  ――明日は起きなけりやならない。  ――日曜日はいつだつてかうだ。  屋根の下だからこの上なく安らかに眠れると思つてゐたペリーヌ! これでは、物影に驚いたり空模樣が氣まぐれであつたりしても原つぱに寢るはうが、騷がしいこんな共同部屋にごたごた詰めこまれて、二三時間もした後はどうして怺へようかしらと思ふほど厄介に胸をつまらせかける嘔きそうになる※[#「嗅のつくり」、第3水準1-90-56]氣に當るより、ずつと揩オだ。  外では相變らず議論がつづき、ラ・ノアイエルが「まあ一ぱい」を繰返すと、ライッドが「あしたね」と答へるのが聞えてゐた。  ――ライッドに加勢して來よう、と一人の娘がいつた。さうしないと夜が明けてしまふ。  實際その娘は起きて降りていつた、すると階段でがやがや大きな聲が、重たげな足音や、ぶつかる鈍い音や、この騷ぎにひどく怒つた一階の連中の怒鳴り聲などに混つて起つた。家中が呼び起されたやうに見えた。  つひにラ・ノアイエルは死に物狂ひの叫びをあげて泣きながら、部屋の中へ曳きずりこまれた。  ――私が何をしたといふんだい?  泣き言には耳をかさずに、みんなは※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物を※[#「月+兌」、U+812B、34-9]がせて寢せた、がそれでも彼女は一向眠らないで呻きながら泣いた。  ――私が何をしたからといつてこんなひどい仕打ちをするんだい? 私が可哀さうだよ! 一獅ノ飮んでくれないなんて、※[#「てへん+蚤」、第3水準1-84-86]つ拂ひかい、私は? ライッドや、咽喉が乾いた。  彼女が泣き言をいへばいふほど、同室の連中の怒りは高まつた、さうしてめいめいが色んな怒り工合で文句をどなつた。  しかし彼女は相變らずやめなかつた、  ――サリュ、チュルリュチュチュ、シャッポー・ポアンチュ、フィル・エクリュ、テラバチュ。  耳に響くのが面白い「ュ」といふ音《おん》の言葉をいひ盡すと、彼女は、もう埒《らち》もない別の言葉へ移つた。  ――蒸氣珈琲か、怖いことなんかあるもんかい、心臟にはいいが、さあさ、掃除人や、それで妹さんは? こんにちは、骨董屋さん。まあ! あんたお酒飮みなんですか? それは仕合せだ、たぶんあんたには不幸だらう。※[#「廣−广」、第3水準1-94-81]疸になるぞ、救護所へ行かなくちやあ、婦長さんをごらん、甘草をお食べなさい、お父さんが賣つて私が奢《おご》つたんだ、だから私や氣に入つた。咽喉が乾いた、※[#「示+土」、第3水準1-89-19]長さん、咽喉が乾いたよ、咽喉が、咽喉が!  時々、聲は緩やかになり、眠りかけるやうに弱まつていつた、が※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]然また前より一そう急に一そうやかましくやり出す、そこで眠りかけた連中はぎくりとして目が醒め、ラ・ノアイエルを脅かして恐ろしい聲を出すのだが、ラ・ノアイエルは一向默らなかつた。  ――何で、ひどい仕打ちをするのよ? 聞いて赦してくれたらそれで澤山ぢやあないか。  ――この子を上げてやるなんて、あんたも、いい事を考へた!  ――あんたが、さうしようつていつたんぢやあないか。  ――また下へ降ろしてやらうか?  ――寢られるもんか。  日曜日はいつも本當にかうなのかしら、何故ラ・ノアイエルの仲間たちはその隣人を赦しておくのだらう、と、これがペリーヌの氣持であつた。マロクールには靜かに寢られるほかの宿はないのだらうか。  この部屋で腹の立つのは騷ぎだけではなかつた、吸ふ空氣もまた少女にはもう我慢できなくなりはじめた。重苦しくて、※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]くて、息づまりさうで、※[#「嗅のつくり」、第3水準1-90-56]氣がこもつてをり、この混合物は胸をむかむかさせ、吐きさうになつた。  しかし遂にラ・ノアイエルのお喋りは緩やかになり、むにやむにやといふ言葉だけしか飛び出さなくなり、次には鼾聲《いびき》しか出なくなつた。  今はこの部屋は靜かになつたけれどペリーヌは眠られなかつた。少女は息苦しかつた、さうして額《ひたひ》に鈍い音が打ち、頭から足までびつしより汗をかいた。  この不快の原因を尋ねる必要はない。空氣の缺乏で息がつまるのだ。同室の仲間が自分のやうに息苦しくないのは、平常野原で寢てゐる※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]なら窒息してしまふやうなこの空氣の中に、暮しつけてゐるからである。  しかしこの娘たち、田舍娘たちがこの空氣になれてゐるのだから自分も同じやうに慣れることができさうだ、きつと勇氣と忍耐は要るだらう、けれども自分だつて田舍の女でこそないが、その女たちのと同じ辛い生活を、この上なく慘めな生活をさへ送つたのだ、してみれば女たちの耐へてゐることを自分が耐へられないわけはもうないと少女は思ふのであつた。  だから呼吸をせず嗅ぎさへしなければいい、さうすれば眠りが來るだらう、眠つてゐる間は嗅覺は働かないことを少女はよく知つてゐた。  殘念ながら呼吸といふものは、好きな時に或ひは好きなやうに止めてゐるといふわけにはゆかない。口を塞ぎ鼻をつまんでもだめだつた、間もなく脣をあけ鼻孔をあけて肺に空氣がなければないだけ一そう深く息を吸ひこまなければならなかつた、しかも厭なことには、幾度も繰返し吸ひこまずにはゐられなかつた。  してみると? どういふ事になるか? 息をせずにゐれば窒息する、息をすれば氣分が惡くなる。  もがいてゐると、寢臺のの窓ガラスの中一枚が紙になつてゐるところに手がふれた。  紙はガラスではない、音をたてずに破れる、破れたら外の空氣がはひつてくる。破つたつて何惡いことがあらう? 娘たちは、この有害な空氣に慣れてゐるにしても、やはり確かにそれに苦しんではゐるのだ。だから誰も起さないやうにしてなら紙を破つていいわけだ。  しかしこれは跡が分るだらうし、それほどひどくやる必要もなかつた。手でさぐつてみると紙はよく張つてないことが分つたのである。そこで少女は爪で注意深く隅のはうを※[#「碌のつくり+りっとう」、第3水準1-15-94]がした。かうして彼女はこの隙間へ口をあてて、息をすることができた、そしてさういふ姿勢でゐるうちに眠りに落ちた。 [#2字下げ]十五[#「十五」は小見出し]  目が醒めると光が窓ガラスを白くしてゐたが、それは大へん弱いので部屋を照らしてはゐなかつた。外では牡※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]が歌つてゐたし紙の隙間からは冷たい空氣がはひつて來た。夜明けだ。  外から微かに空氣が吹き入るにも關らず、部屋の※[#「嗅のつくり」、第3水準1-90-56]氣は拔けてゐなかつた。きれいな空氣が少しは流れこんでも惡い空氣は一向出て行かず、溜つて濃くなり熱くなつて、息もできない濕氣をもたらしてゐた。  しかし皆身動きもせずに眠つてゐて、ただ時々息苦しさうな泣き言が聞えるだけであつた。  紙の隙間を大きくしようとしたとき少女は粗忽にも肱を※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]くガラスに打當てたので、框《わく》にぴつたり嵌まつてゐない窓はふるへて音を立て、それは長くひびいた。心配したけれど誰も起きはしなかつたのみならず、この常ならぬ物音に眠りを亂された娘も一人もゐないやうだつた。  少女は心を決めた。そつと※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物を釘からはづし、音を立てずにゆつくりそれを※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]て、靴を手に素足のまま※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口のはうへ行つた。夜明けでその方角は分つた。押錠で締めてあつただけだから※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]は音もなく明き、ペリーヌは誰にも見られずに踊り場へ出た。そこで階段の最初の段に腰をかけた、さうして靴をはいて、降りた。  あゝ! いい空氣! 何ともいへない爽かさ! こんなに嬉しく呼吸したことは嘗つてなかつた。小さな庭を口をあけ、鼻の孔をひくひくさせ、手を叩き、頭をゆすぶりながら※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いた。足音で隣の犬が目を醒まして吠えだした、すると直ぐほかの犬も激しくこれに答へた。  がそんなことは何ともない。もう自分は、犬からどんな目に逢はされても仕方のないやうな浮浪人ではない、さうして自分は寢床を出たかつたのであるからには、さうする權利は確かにあるのだ――お金を拂つて得た權利が。  内庭は運動をするのに狹過ぎたので開いた垣から往來へ出て、どこといふ當てもなく足の向いたはうへ※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きだした。夜の闇はまだ道に立ちこめてゐた、が頭上ではもう木々の梢や家の棟を曉が明るくしてゐた。やがて夜が明けるのだらう。その時深い沈默の中で鐘が鳴り響いた。それは工場の大時計で、三つ鳴り、まだ仕事場へはひるのに三時間あることを知らせた。  この時間をどうしよう? 就業前に疲れたくはなかつたのでその時刻まで※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゐるわけにゆかなかつた。今からならどこかに坐つて待つてゐるのが一番いい。  刻一刻と空は明るみ、あたりの物は地を掠めて差してくる光の下ではつきりした姿を取り、自分がどこにゐるかが分つた。  まさしく掘り跡に水の溜つた池の※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]だ、この池はここから始まりその水面を擴げていつてほかの池を合はせ、泥炭採掘のままに大小樣々の池から池へとつづいて大川まで行つてゐるらしい。ここは何處やらピキニを出るときに見たやうなところがあるが、思ふに、ピキニより一そうへんぴで、一そう寂しい。また、混雜した線になつて縺れ合つて並んだ樹木で一そう深く蔽はれてゐはしないか?  少女はそこにちよつと立つてゐた、が坐るのによささうな場所でないので道を續けた。道は池の※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]を離れ、木の生えた小さな丘の斜面へ登つてゐた、きつとこの伐採林《ばつさいりん》中に、自分の搜すものは見つかるだらう。  がそこへ※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]かうとした時、見渡す池のふちに、土地で隱れ小屋といひ、冬、渡り鳥の狩獵のために使ふ、木の枝と葦とで作つた一つの小屋が見えた。そこで少女は思つた、あの小屋にはひれたら人目につかずにゐることができ、朝のこんな時刻に野原で何をしてゐるのだらうと人に怪しまれることもないし、道にかぶさる枝々を傳ひ落ちて本當の雨のやうに體をぬらす大粒の露の雫を浴び續けることも要らない。  少女は降りた、さうして搜した揚句つひに柳林の中に、小屋へ行くらしい殆んど人の通つてゐない細道を見つけて、それをとつた。しかし道はそのはうへ附いてゐるにしても小屋の中までは行つてゐなかつた、なぜなら小屋は小島の上に、そこに植わつた三本の柳を骨組にして立つてをり、水の滿ちた溝がそれを柳林から距ててゐたから。幸ひ丸太が溝にかけてあつた、それはかなり細かつたし露にもぬれて辷りさうになつてゐたけれど、ペリーヌを[#「ペリーヌを」は底本では「ペリーーヌを」]思ひとどまらせはしなかつた。それを渡つて、柳で編んだ葦の※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]の前に來た、※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]は引きさへすれば明いた。  隱れ小屋は四角で、四圍は屋根まですつかり、葦や大きな草の厚い覆ひで張られてゐた。四方には、外からは目につかない數々の小孔があいてゐて、あたりの眺めが見え、また日光を通してゐた。地面には厚く齒朶《しだ》が敷いてあり、片隅には丸太切れが腰掛になつてゐた。  あゝ! すてきな棲家! 先刻出た部屋とは何といふ相違だらう。フランソアズお婆さんの堅いシーツの中で、ラ・ノアイエルやその仲間の怒鳴り聲の中で、いつまでもしつこく附き纒つて胸をむかつかせる※[#「嗅のつくり」、第3水準1-90-56]い厭な空氣の中で寢るより、ここで、いい空氣の中で、靜かに齒朶の中に寢たはうがどんなに揩オだつたらう。  少女は齒朶の上にになつた、さうして片隅の、やんわりした葦の壁に身を凭《もた》せて目をつぶつた。が、やがて快い眠りに落ちさうだつたので立ち上つた、だつて仕事場にはひる前に目が醒めないといけないので、ぐつすり眠ることはできなかつたからである。  今は太陽は昇つてゐた、さうして東向きの隙間から金色の光が小屋へ差込んでそこを照らした。外では鳥が歌ひ、小島の周圍で、池の上で、葦の中で、柳の枝の上で、混沌とした響や、ささやきや、笛のやうな音や、叫び聲が聞え、泥炭坑のあらゆる動物の生活への目醒めを告げ知らせてゐた。  孔に顏をあてて見ると動物どもは、小屋の周圍で安心しきつて遊んでゐた。葦の中では蜻蛉《とんぼ》があちらこちら飛んでゐたし、岸に沿つて小鳥は蟲をさがして濕つた土を嘴でつついてゐたし、輕い湯氣の一面に立つ池では、家鴨より可愛い、灰色がかつた茶色の小鴨が幾羽かの子供に取り卷かれて泳いでをり、※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず呼んで、自分のそばへ引寄せておかうとしたがうまくゆかないでゐた、なぜなら子供らは、逃げて花の咲いた睡蓮をかきわけて飛びこみ、そこで嘴の屆くところを通る蟲といふ蟲を追つて絡みあふのだ。※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]然電光のやうな速い※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]い線が、彼女の目を奪つた。それが消え去つてから始めて、翡翠《かはせみ》が池を切つたのだと分つた。  少女は長いあひだ、身動きもせずに窓について眺めてゐた、身動きしたら自分のゐることが知れて、この野の住民共は皆飛び立つたかも知れない。爽かな光の中でこの眺めはすべて、彼女の目に何と賑やかで、活※[#「さんずい+發」、第3水準1-87-9]で、面白く、珍しいことだつたらう、さうしてまたお伽噺のやうなので、この小屋のある島はノアの小さな方舟《はこぶね》ではないかしらと思はれたほどであつた。  そのうちに少女は、はつきりした原因もなしに大きくなり小さくなりながら氣まぐれに過ぎてゆくKい影が池をおほふのを見た、ところで太陽は水平線の上に昇つて雲のない空に赤々と輝きつづけてゐたから、いよいよそれは譯が分らなかつた。どこからこの影は來るのかしら? 小屋の狹い窓からでは※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明がつけられなかつたので※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]を明けて見た、するとその影は、微風と共に過ぎて行く煙の渦卷で出來たもので、煙は、職工がはひるとき蒸氣が働くやうに早くも火を點ぜられた工場の高い煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]から來るのであつた。  すると仕事はやがて始まるのだ。小屋を出て作業場へ行く時だ。しかし少女は出がけに丸太切れの上に乘つてゐた新聞を拾つた。今まで氣づかなかつたのが、※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]が明いて光が一ぱいはひつたので見えたのである。何となくその名前の上に目をそそいだ、それは去年二月二十五日のアミアン新聞だつた。そこで少女は、この新聞が人の坐るたつた一つの腰掛の上に置いてあつたといふこと及びその日附から、この小屋は二月二十五日以來人に見棄てられてをり、誰もこの※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]をくぐらないでゐると考へた。 [#2字下げ]十六[#「十六」は小見出し]  柳林を拔けて道へ出たとき、大きな汽笛がその力※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]いしわがれ聲を工場の上に聞かせた。すると間もなく他の數々の汽笛が同じリズムを持つた響で、遠く近く色々の距離でこれに答へた。  それが職工を呼ぶ合圖であることを少女は覺つた。それはマロクールから出て、サン‐ピポア、アルシュ、バクール、フレクセールの村から村へ、パンダヴォアヌの全工場で繰返され、工場主に向つて、作業準備が到るところで同時に出來たことを豫告するものであつた。  そこで遲れてはならないと足を急がせた。村へはひると家々は皆起きてゐて、※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口で職工たちは立つたり※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]の框《かまち》に倚りかかつたりしてスープを飮んでゐた。居酒屋で飮んでゐる※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]、庭のポンプで顏を洗つてゐる※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]もゐた、が工場のはうへ行く人は一人もゐなかつた。確かに未だ作業場に入る時刻ではないのだ、だから急ぐことはない。  しかし大時計が小さく三つ打ち、前より※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]くてけたたましい汽笛がすぐこれに續くと、忽ちこの靜けさは動きとなつた。家から庭から居酒屋から、到る處から、人ごみが出てきて蟻の群のやうに往來一ぱいになつた、さうしてこの男や女や子供の群は工場へ向つた。盛んにパイプを吹かす※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]。目を白Kしながら大急ぎでパンを囓る[#「囓る」は底本では「噛る」]※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]。大抵の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]はがやがや喋つた。※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず人々の群は手の小路から流れ出てKい波に加はり、その波を緩かにすることなく大きくしていつた。  一と押し新たにやつて來た人波の中にペリーヌは、ロザリーがラ・ノアイエルと連れ立つてゐるのを見つけ、巧みにくぐりぬけて二人に追ひついた。  ――どこに行つてゐたの? ロザリーは驚いて尋ねた。  ――ちよつと散※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]しようと思つて、早く起きたの。  ――まあ! さうだつたの。搜したわ。  ――どうもすみません、でも搜さなくていいのよ、私、早起きなんですから。  作業場の入口まで來た。人波は工場へ流れ込んでゆく。それを、背の高い※[#「やまいだれ+溲のつくり」、第3水準1-94-93]せた一人の男が柵門のあたりに立つて見張つてゐる。兩手を上衣のかくし[#「かくし」に傍点][#底本ではこの「かくし」に傍点はついていない]に※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]込んで、麥藁帽子をうしろへ刎ね上げてゐる、が頭は少し前へかがめ、見ないでは誰一人通さないぞといふ注意深い眼だ。  ――あれが「※[#「やまいだれ+溲のつくり」、第3水準1-94-93]せつぽち」、とロザリーがささやいた。  しかしペリーヌにはそれは必要でなかつた、言はれない先きから、この男を監督のタルエルだと見拔いてゐた。  ――私、あなたと御一獅ノはひるの? ペリーヌは聞いた。  ――ええ。  少女の運命のきまる瞬間だ、が少女は努めて興奮しないやうにした。誰だつて採用するのだから、どうして自分を雇つてくれないことがあらう?  彼女たちがその男の前へ來ると、ロザリーは、ペリーヌに跟《つ》いておいでといつて人波を出、恐れげもなく近づいて行つた。  ――監督さん、私の友達が働きたいつて言つてゐますの。  タルエルは、す早い一瞥をその友達の上に投げた。  ――後で話をする。彼はさう答へた。  ロザリーは、心得てゐたからペリーヌと一獅ノ別に立つてゐた。  その時、柵門のところにがやがやいふ聲が起つて職工たちは急いで分れ、ヴュルフラン氏の馬車に自由な通り道をあけた。馭※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は昨日と同じ若い男だ。ヴュルフラン氏の目の見えないことを知つてゐながら、男たちは皆その前で帽子をぬぎ、女たちは輕く會釋するのであつた。  ――ほら、あのお方は一番遲れてはいらつしやらないでせう、とロザリーがいつた。  監督は急ぎ足で二三※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]馬車の前へ出て、  ――ヴュルフラン樣、お早うございます、と帽子を手にして言つた。  ――お早う、タルエル。  ペリーヌは通つて行く馬車を見送つた、それから目を柵門へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]すと自分の※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]に知つてゐる雇員たちが次々に通つて行つた。技師のファブリ、ベンディット、モンブルー[#「モンブルー」は底本では「モンブルウ」]、その他ロザリーが名前をいつてくれた人たち。  そのうちに人の群はまばらになり、今はもう、やつて來た連中は駈け出してゐた。時計が鳴らうとしてゐるからだ。  ――若※[#「にんべん+曾」、第3水準1-14-41]どもは遲れて來ると思ふわ、とロザリーが小聲でいつた。  時計が鳴つた。最後の一群が流れこみ、遲刻※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が四五人、息を切らしてこれに續いた。すると往來はひつそりした、がタルエルはその場を去らず、兩手をかくし[#「かくし」に傍点]に※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]込み、顏を上げて遠くを眺めつづけた。  數分經つと背の高い若い男がやつてきた。職工ではなく紳士だ、その態度や念入りな身嗜みから、技師や雇員たちよりずつと紳士だ、急ぎ足で※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きながらネクタイを結んでゐる。明らかに結ぶひまがなかつたのだ。  前へ來ると監督はヴュルフラン氏にしたやうに帽子を取つた、がペリーヌの見たところでは、先刻の挨拶とは似てもつかないものであつた。  ――テオドールさん、お早うございます。  この文句はヴュルフラン氏に向つていはれたのと同じ言葉で出來てゐたのに一向前と同じものを感じさせなかつた、これまた確かであつた。  ――お早う、タルエル、叔父はもう來ましたか?  ――ええそれやあもう、テオドールさん、五分も前に。  ――ははあ!  ――あなたが一番あとではございません、けふはカジミールさんのはうが遲うございます、カジミールさんはあなたのやうに巴里には行かれなかつたのに。いや、あそこにお見えになりました。  テオドールが事務所へ向ふとカジミールが急いでやつてきた。  これはその從兄弟と、人柄も服裝もどんな點でも似てゐず、小さくて頑固で、無愛想だ。監督の前を通るとき一言もいはずにちよつと頭を下げたので、その頑固なことは明らかに分つた。  相變らず上衣のかくし[#「かくし」に傍点]に兩手を入れてタルエルは挨拶した、さうしてその姿が見えなくなるとはじめてロザリーのはうを向いた。  ――友達といふのは何ができるんだ?  ペリーヌ自身がこの問ひに答へて、  ――工場で働いたことはまだありません、と努めて聲をしつかりさせながら言つた。  タルエルはす早い一瞥で少女を包んだ、それからロザリーに向ひ、  ――この子を、トロッコに※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すやう、わしに代つてオヌーさんに言ふんだ、さ! 急いで。  ――トロッコつて何? ペリーヌは作業場と作業場とのあひだの廣い庭をロザリーに跟《つ》いて切りながら尋ねた。その仕事が自分にできるだらうか? 自分に力があるかしら、分るかしら? 修業が要るのではなからうか? かうした疑問はみな、少女にとつておそろしかつた、さうしてもう工場に入れて貰つたのであるからには、撓まずにやるといふことは自分次第だと感じたので、それだけいよいよ氣になつた。  ――心配要らないわ、とペリーヌの胸の騷ぎを覺つたロザリーがいつた、とても易しいことよ。  ペリーヌはこの言葉を聞いた、といふより寧ろその意味を推量した、なぜなら、彼女たちがはひつた時休んでゐた工場の機械や織機が少し前からもう動き出してゐて、今は色んな響の混つた恐ろしいうなりが庭々に滿ちてゐたからであり、作業場では織物機械がばたばた動き、杼《ひ》が走り、鐵の軸や絲卷がまはり、また外では、傳達軸や車輪やベルトや、おもり車が、目をくらませ耳をたじろがせたからである。  ――もつと大きな聲で話して、とペリーヌはいつた、聞えないのよ。  ――慣れるわ、とロザリーは叫んだ、難しくないつていつたのよ、トロッコに管《くだ》を積めばいいの、トロッコ知つてる?  ――貨車の小さいのだと思ふけど。  ――さう、トロッコが一ぱいになつたら織り場まで押していつてそこで空けるの。始めうんと押せばひとりでに走つてゆくわ。  ――それから管《くだ》つて、はつきりしたところ、どんな物なの?  ――管《くだ》を知らないの? まあ? 管捲《くだまき》機とは、梭《をさ》のために絲を仕組む機械だと昨日いつたでせう、分るはずだのに。  ――餘りよく分らないわ。  ロザリーは、少女を馬鹿ではないかしらと明らかに思ひながら見つめた、さうして續けた、  ――管《くだ》といふのはつまり軸《じく》なのよ、これを受け木に差込んで、ぐるぐる絲を卷くの、一ぱい卷けたら受け木からはづして、これを小さな線路を走るトロッコに積んで織り場へ持つて行くの。散※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]みたいよ、私も始めそれをやつたわ、今は管《くだ》の掛りだけど。  彼女は迷ひさうな庭々を切つて行く。ペリーヌは、自分たちにとつて甚だ關係の深いこの言葉に注意してゐて、周りに見える物の上に目を止めてゐることができなかつた。その時ロザリーは一並びの新しい建物を指した。平屋で窓はないが、屋根の北側半分がガラス張りでそこから明りを採つてゐる。  ――あそこよ。  すぐ※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]を明けて彼女はペリーヌを長い部屋へ通した。そこでは、動く何千といふ軸のまばゆいばかりの圓舞が、耳も破れさうな騷ぎを起してゐた。  しかし喧しいにも關らず、二人は男の聲の怒鳴るのを聞いた、  ――こら、お前、うろついてゐたな!  ――誰が、うろついてゐて? 誰が? とロザリーは叫んだ、私、うろついてゐやしないわ、分つて? 木の足爺さん。  ――どこにゐたんぢや?  ――「※[#「やまいだれ+溲のつくり」、第3水準1-94-93]せつぽち」がね、この娘をあなたのところへ連れていつてトロッコをやらして貰へつて言つたの。  二人にこの愛想のいい挨拶をかけた人は老職工で、十年ほど前に工場で片輪になり、木の足をつけてゐた、だから木の足といふのだ。體の自由が利かないので、管捲《くだまき》機の見張りをさせられ、※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず怒鳴つたり、ぐづつたり、叫んだり、罵つたりしながら、熱心に荒つぽく、自分の命令下においた女工らを働かせてゐた、なぜならこの機械の作業はかなり難しいもので、一ぱいになつた管《くだ》を取去り、空《から》の管《くだ》と取替へ、切れた絲をつなぐ、さういふためには目の注意も手の素早さも必要であつたし、また彼の確信してゐるところでは、罵る※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]に、足の木槌《きづち》で床《ゆか》を勢ひよく※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]き鳴らして、しよつちゆう叱りつけ聲を立ててゐなければ、軸は停まつてしまつたからである、ところで停まるなどといふことは彼にとつて容赦ならぬことだつた。しかし實際はいい人だつたので、みんなは殆んど言ふことを聞かなかつた、おまけに爺さんの言葉の一部は機械の騷音の中に消えた。  ――それはさうでも、お前の軸は停まつてゐるぞ! と爺さんは拳固で脅かしながらロザリーに叫んだ。  ――私のせゐですか?  ――さつさと仕事にかかれい。  次にペリーヌに向つて、  ――お前の名は何といふ?  昨日ロザリーにこの質問をされたから豫め考へておくべきであつたらう。少女は不意を打たれて、うろたへた。本名をいひたくなかつたのである。  ――名前を聞いてをるのぢや。  少女はうまく立ち直つて前に言つた名前を想ひ出すことができた。  ――オーレリー。  ――オーレリー何だ?  ――それだけです。  ――よろしい、わしの後からついて來い。  爺さんは片隅で待避線にはひつてゐるトロッコの前へつれて行き、一と言いつては「分るか?」と叫びながら、ロザリーと同じことを※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明した。  少女はうなづいてそれに答へた。  事實少女の仕事は簡單なものであつたから、それを果せないとすれば馬鹿だつたに違ひない、さうして彼女は、そこに有りたけの注意と好意とをそそいだから、木の足爺さんは、晝休みまでに十二遍以上はどなりつけなかつた、それも叱るといふより寧ろ勸めるためであつた。  ――途中で遊んぢやいかん。  遊ばうとは思つてゐなかつた、が少くともトロッコを規則立つた足取りで停まらずに押しながら少女は、自分の通過する樣々の場所のやうすを眺め、ロザリーに※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明されてゐるとき聞きもらした事柄を見ることはできた! 車を動かす肩の力、邪魔が現はれたとき引き留める腰の力、それだけだ、目も心も、思ひ通り自由自在に駈けることができた。  晝休みにめいめいは家へ急いだが、少女はパン屋へはひつて半斤のパンを切つて貰ひ、道をぶらぶらしながら、明いた※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口から出てくるスープの香ひをかぎながら、もしそれが自分の好きなスープならゆつくりと、もしそれがどうでもいいものなら急いで、自分のパンを食べた。少女の空腹にとつて半斤のパンでは薄い、だから忽ち無くなつた、しかし何でもなかつた。少女は食慾を沈默させることに慣れて以來、そのために體の工合が惡くなつたりなどはしなかつた。飢じいままでゐることはできないと思ふのは食べ過ぎるのに慣れた人々だけだし、また、きれいな川の流れを手のひらで掬つて、がぶがぶ飮むことができることを信じないのは、いつも安樂に暮した人々だけである。 [#2字下げ]十七[#「十七」は小見出し]  作業場へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]る時刻よりずつと早めに少女は工場の柵門へやつて來て、柱の蔭で、標石の上に腰かけて、開始の汽笛を待ちながら、自分と同じ年輩の男の子や女の子が、自分と同じやうに早く來て駈けたり跳んだりして遊ぶのを眺めてゐた。さうした遊びに仲間入りがしたかつたけれどその勇氣はなかつた。  ロザリーが來ると、一獅ノ中へはひつて、午前のやうに、木の足爺さんの怒鳴り聲や床を蹴る音に勵まされて再び仕事を始めた、しかし時が經つにつれて遂には疲れを※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]くおぼえてきたので、この怒鳴り聲や蹴る音は午前中よりは有意義なものになつた。トロッコの積み降ろしに屈んだり立つたり、また出がけの肩の一※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]き、速さをゆるめる腰の一引き、押すこと、停めること、これらは始めは一つの遊びに過ぎなかつたが、休みなく繰返され續けられると一つの勞働となり、幾時間も經つと殊に終りがけは、これまでに※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いたどんな辛い日にさへ味はつたことのない疲勞が少女を抑へつけて來た。  ――そんなにのろのろしちやあいかん! と木の足は怒鳴つた。  この注意の言葉に伴ふどん[#「どん」に傍点]といふ足の音に搖り立てられて、少女は馬が鞭を打たれたやうに※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]度をのばす、が爺さんの目の屆かない處へ來ると直ぐまた※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]をゆるめた。もう自分の仕事で手一ぱいだ。少女は仕事のために體の自由が利かなくなつてしまひ、いつ退《ひ》けるのかしら、終ひまでやれるかしらと思ひながら、十五分、三十分、何時と、時計の鳴るのを勘定する以外には好奇心も注意もなくなつてゐた。  さういふ疑問に苦しめられて來ると、少女は自分の弱さに腹が立ち口惜しくなつた。自分より年上でもなければ※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]くもない他の連中が苦しむふうもなく仕事をやり遂げてゐるのだ、それを自分はすることができないのか。しかし少女は、あの仕事が自分の仕事よりずつと難儀なもので、ずつと頭を使ひ、ずつと※[#「誨のつくり+攵」、第3水準1-85-8]捷でなければならないものであることを承知してゐた。もしトロッコにつけられず、いきなり管捲《くだまき》機に使はれたら、どうなつたらう? 自分は慣れてゐない、が勇氣と意志と忍耐とをもつてすれば慣れるだらう、とさう思ふと始めて彼女の心は落ちついた。慣れるためには、――萬事さうだが――そのことを望みさへすればいい、そこで彼女は望んだ、今後も望むであらう。この最初の日に、弱りきつてしまひたくない、二日目は辛さも減り、三日目はさらに減るだらう。  少女は、トロッコを押したりそれに積んだり、また羨ましいほどの※[#「誨のつくり+攵」、第3水準1-85-8]捷さで働く仲間を眺めたりしながらさう考へてゐた、その時絲をつないでゐたロザリーが、※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]然隣の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]のそばへたふれた。大きな叫び聲が上り、同時にすべてのものは止まつた。機械の騷音や、うなりや、震動が、また床《ゆか》や壁やガラスの動搖が、しいんと靜まつた、さうしてその靜寂を女の子の泣き聲が破つた、  ――あゝ! 痛《いた》! た、た・・・  男の子も女の子もみんな駈けつけた。彼女もみんなのとほりに駈け寄つた。木の足が大聲で「とんでもねえ! 軸が停まつたぢやあないか」と怒鳴つたけれど構はなかつた。  もうロザリーは起きてゐた。みんなは慌てて、彼女を押し潰すやうにして取りかこんだ。  ――あの子、どうしたの?  彼女自身が返事をした、  ――手を挾まれたの。  ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]は※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]ざめ、脣は色を失つてふるへてゐた。傷ついた手から血がぽたぽた床へ落ちた。  がよく見ると指を二本怪我しただけだつた、それも多分一本だけが潰れたか、ひどく切れたかしたのだ。  その時、誰よりも先きに同情の心を動かした木の足爺さんは夢中になつて割込んで來て、ロザリーの周圍にゐる仲間たちを押しのけた。  ――あつちへ行け! 何でもない事ぢや!  ――爺さんが足を折つた時だつて、大方、何でもない事ぢやつたらうて。誰かがさう呟いた。  誰がこんな失敬な考へをもらしたのかと爺さんは搜した、が大勢の中に確かな※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を見つけることは難しかつた。そこで前よりも大きく怒鳴つた、  ――あつちへ行けといふに!  みんなはゆつくり散つていつた。ペリーヌも他の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]のやうにトロッコへ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]らうとすると木の足は呼んで、  ――おい、新米、ここへ來い、お前ぢや、さつさと來い。  少女は、他の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]だつて皆仕事をやめたのに自分だけなぜ惡いのだらうと思ひながら恐るおそる引返した、が叱られるのではなかつた。  ――お前、こ奴《やつ》をな、監督のところへ連れていつてやれ。  ――どうして私を奴《やつ》だなんていふの、とロザリーは大聲を出した。機械の騷音が再び始まつてゐたからである。  ――指なんぞを挾まれるからぢや。  ――私がいけないの?  ――勿論、お前が惡い。へま[#「へま」に傍点]ぢや、ぼんやりぢや。  しかし爺さんはやはらいで、  ――痛むか?  ――そんなに痛まない。  ――ぢやあ行つて來い。  娘たち二人は出ていつた、ロザリーは傷ついた左手を右手で取つて。  ――私に倚りかかりなさいな?  ――有難う、それほどのことはないわ、※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きますわ。  ――ぢや何でもないのね?  ――さあ? 始めの日は痛まないけれど、後になつてから痛むから。  ――どうしてこんな事になつたの?  ――どうしてだつたのかしら。私、辷つたのよ。  ――たぶん疲れてゐたのね、とペリーヌは自分のことを思ひながらいつた。  ――みんな、疲れたときにいつも片輪になるんだわ、朝のうちは身輕で氣をつけるけれど。ゼノビ叔母さんがどういふでせうね?  ――だつてあなたのせゐぢやないんですもの。  ――フランソアズお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんなら私のせゐぢやないと思ふわ、しかしゼノビ叔母さんは、働きたくないから、そんな事になるんだつていふでせう。  ――いはしてお置きなさい。  ――もしあなたが面白いから聞きたいとおつしやるんなら。  途中、出會う職工たちは二人をとめて尋ねた。ロザリーに同情する人々もゐた。大抵の人は冷淡に聞き流した。こんな事には慣れてゐて、いつだつてかうだつたんだ、人間といふものは病氣をするやうに怪我もする、運だ、今日がお前なら、明日は俺、めいめいの※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り持ちだ、と思つてゐる人たちだ。また腹を立てる人もゐた、  ――いつかは皆、片輪にされちまふだらう!  ――おめえ、干《ひ》ぼしになるはうがいいのかい?  彼女たちは工場の中央、※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]や薔薇色に塗られた煉瓦の大きな建物の中に在る監督事務室へやつて來た。この建物にはほかの事務室もすべて集つてゐて、それらの部屋やヴュルフラン氏の部屋でさへ特に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]しい點を持たないのに、監督の部屋は二重に旋《めぐ》つた踏段の通じてゐるガラス張りのヴェランダがあつて一際目立つてゐた。  このヴェランダの下へ來ると、兩手をかくし[#「かくし」に傍点]に入れ帽子をかぶつて船長が甲板を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くやうにあちらこちら※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゐたタルエルに引入れられた。  彼は怒つてゐるやうに見えた。  ――何をまたやらかした? と叫んだ。  ロザリーは血のついた手を見せた。  ――ハンカチでくくつておけ、そんな手は!  彼女がハンカチを出しにくさうにして取り出す間、彼はヴェランダを大股に※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いた、さうして彼女がハンカチで指を卷くと、やつて來てその前で身構へ、  ――お前のかくし[#「かくし」に傍点]を空《あ》けてみい。  彼女は分らずに彼を見つめた。  ――かくし[#「かくし」に傍点]の中の物をみんな出してみろといふんだ。  彼女は、言はれた通りかくし[#「かくし」に傍点]から妙な品物を取り出した。榛《はしばみ》で作つた笛、小骨、骰子《さいころ》、葡萄酒壜のかけら、三錢、それから亞鉛の小さな鏡。  彼は鏡をすぐに取り上げて、  ――きつとこんな事だらうと思つてゐた、と叫んだ、鏡を見てる間に絲が切れて、管《くだ》が停まつた、ぼんやりしてゐた時間を取※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]さうと思つて、さういふ目に逢つたんだらう。  ――私、鏡は見てゐませんでした。  ――お前たちはどれもこれも同じだ。わしは何でも知つてゐるんだぞ。それで一たい何の用だ?  ――別に何つて。指を潰されましたので。  ――わしにどうしろといふんだ?  ――木の足爺さんが、あなたのところへ行くやうにいひましたので。  彼はペリーヌのはうを向いて、  ――それでお前、お前は何用だ?  ――私は何も用はありません、と少女はこの嚴しさにうろたへて答へた。  ――それで?・・・  ――木の足爺さんがあなたのところへ私を連れてゆけといはれましたの、とロザリーが後を言つてくれた。  ――成程な! 連れていつて貰はにやなるまいて。よし、リュション博士のところへ連れていつて貰へ、しかしいいか! 追つつけわしは問ひ糺す。もしお前のへまだつたら、怖いぞ!  彼は、ヴェランダのガラスを響かせ、どこの事務室からでも聞えたに違ひないやうな大きな聲でどなり立てた。  出ようとすると、入口の壁から手を離さずに注意して※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて來るヴュルフラン氏を見た。  ――何事ぢやな、タルエル?  ――何でもございません、管捲《くだまき》機の女工が手を挾まれたのでございます。  ――どこにをる?  ――ここにゐますわ、ヴュルフラン樣、とロザリーは彼のはうへ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]りながらいつた。  ――フランソアズの孫娘の聲ではないか?  ――ええ、さうです、ヴュルフラン樣、私です、ロザリーです。  彼女は泣き出した、だつて無情な文句のためにそれまで一ぱいになつてゐた胸が、かけられたこの幾つかの言葉の情け深い口調のために、弛んだからである。  ――どうしたのぢや、お前?  ――絲をつながうとしたら、どうしてか知りませんけれど辷つて、手が挾まれて、指が二本潰されました・・・やうなのです。  ――ひどく痛むか?  ――そんなには痛みません。  ――それではなぜ泣く?  ――あなたは怒鳴りつけないから。  タルエルは肩をすぼめた。  ――※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]けるかい? ヴュルフラン氏は聞いた。  ――ええ! ※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]けますとも。  ――急いで家へ歸りなさい。リュション氏をやるから。  それからタルエルに向ひ、  ――リュション氏にすぐフランソアズの家へ行つてくれるやう書附けを書いてくれ。「すぐ」のところに線をひいて、「急を要する傷」と書き添へてくれ。  彼はロザリーのところへ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]り、  ――誰かに連れていつて貰ふかい?  ――有難うございます、ヴュルフラン樣、お友達がゐますから。  ――では行きなさい、お前の支拂ひはするからとお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんにいひなさい。  今度はペリーヌが泣きたくなつた、がタルエルが見てゐるので我慢した。庭々を通つて出口に來たとき始めて、少女はその氣持をもらした。  ――ヴュルフラン樣はいいお方ね。  ――お一人だといいお方なのよ、でも「※[#「やまいだれ+溲のつくり」、第3水準1-94-93]せつぽち」と一獅セとだめなの。それにお暇《ひま》はないし、ほかの色んな事が頭の中にあるし。  ――でも結局私たちには御深切だつたわね。  ロザリーは反身《そりみ》になり、  ――それあ! 私、あのお方に息子さんのことを想はせるんですもの、それに私のお母さんはエドモン樣と乳兄弟ですからねえ。  ――息子さんのことをお考へになるの?  ――ええ、そのことばかり想つていらつしやるのよ。  血のついたハンカチで手を卷いてゐるので、人々は好奇心を起して※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口で通るのを眺めた。二三の聲は、問ひかけもした。  ――怪我をしたんですかい?  ――指が潰れましたの。  ――まあ! お氣の毒に!  この叫びの中には同情もあり怒りもあつた、なぜならさう叫んだ人々はこの娘に起つた事柄は翌日は、いや今にも、自分の家の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を、夫、父、子供を襲ふかも知れぬと考へるからである。マロクールの人はみんな工場で暮してゐるのではないか?  幾度か足を止めたがフランソアズお婆さんの家へ近づいてきた。もうその灰色の垣が道の行當たりに見えた。  ――私と一獅ノおはひりなさいね、とロザリーがいつた。  ――さうするわ。  ――さうすれば、たぶんゼノビ叔母さんが遠慮するから。  しかしペリーヌがゐても、怖いゼノビ叔母さんは遠慮せず、ロザリーが常ならぬ時刻に歸つてきて手を繃帶してゐるのを見て、高い聲を上げた。  ――怪我をしたね、惡戯《いたづら》※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]! きつとわざとしたんだらう。  ――お金は拂つて頂くのよ、とロザリーはぷりぷりして口答へした。  ――お前、さう思つてゐるのかい?  ――ヴュルフラン樣が私にさう仰つしやいました。  しかしそれでもゼノビ叔母さんは鎭まらず大きな聲で叫び續けたので、フランソアズお婆さんが、賣臺を立つて※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口へ來た、が、怒つた言葉では孫娘を迎へなかつた。駈け寄つて來て抱いて、  ――怪我をしたのかえ? と叫んだ。  ――ちよつとだけよ、お※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さん、指を。何でもないのよ。  ――リュションさんをば呼んで來なけりやあ。  ――ヴュルフラン樣が、もう呼んで下すつてゐるの。  ペリーヌは二人の後から家へはひらうとすると、ゼノビ叔母さんがこちらを向いてそれを止め、  ――あの子の介抱をするのに、お前さんが要ると思つてゐなさるのかい?  ――どうも有難う、とロザリーが叫んだ。  ペリーヌはもう工場へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るよりほかなかつた。少女は引返した。しかし工場の柵門に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いたとき、長い汽笛が響いて、退《ひ》ける時刻を知らせた。 [#2字下げ]十八[#「十八」は小見出し]  一日に十遍も二十遍も少女は考へた、どうしたらあの息の詰まりさうな少しも眠られない部屋に寢ないですむかしら。  確かに今晩もやはり息苦しいだらうし一そうよくは眠れないだらう。さて、ぐつすり眠つて一日の疲れを囘復することができなかつたら、どんなことになるだらうか?  これは恐ろしい問ひだ、少女はそれのあらゆる結果をしらべてみるのだつた。働く力がなくなる、そこで罷《や》めさせられる、さうすれば希望はおしまひだ。病氣になる、さうすればなほのこと罷《や》めさせられる、世話や助けを乞ふ人は誰もゐない、自分を待つてゐるものは森の中の樹の根元だ、それ以外のものではない。  なるほど自分のお金を拂つた寢床だから當然寢ないでもいいわけである、がさうするとほかにどこに寢床があるか? 殊に、ほかの人々には良いものが自分にとつては惡いといふそのわけを、どうロザリーに※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明したら納得してもらへるか? 自分があの部屋を嫌つてゐることをほかの人たちが知つたら、どう自分をあしらふだらう? それがために※[#「りっしんべん+曾」、第3水準1-84-62]まれて工場を退《ひ》かなければならないやうなことになりはしまいか? 少女は良い女工にもならなければならなかつたが、またほかの女工たちと同じやうな女工にもなる必要があつた。  思ひ切つて決心することができずに一日が流れていつた。  しかしロザリーの怪我は情況を變へた。今はあの氣の毒な娘はきつと幾日間か床に就くであらう、さうして、あの部屋に誰が泊るのか泊らないのか、部屋に起る事柄を知ることはできまい、してみれば自分の問題は恐れるに足りなくなる。また一方、あの部屋に寢泊りしてゐる連中は誰一人、自分たちの身近に一と晩泊つた※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が誰であつたかを知らないのであるから、その未知の娘のことを氣にかけはしまい、そこでその未知の娘は十分、ほかに宿を求めることができることになる。  さう決め、たちどころにさう推論するともう後は、あの部屋を見棄てるとすれば何處へ寢に行くか、その場所を見つけさへすればよかつた。  しかし搜すまでもなかつた。何遍彼女は、あの隱れ小屋のことを、たまらなくほしい氣持ちで考へたことであらう! もしあそこで眠ることができたら、どんなにいいだらう! アミアン新聞の日附を見て分るやうに、狩獵の季節以外には人は來てゐないのだから、少しも人の心配はない。頭上には屋根があり、暖い壁、一つの※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]があり、寢床としては乾燥した齒朶《しだ》のふつくらと敷いたものがある。夢が實現して自分の家に住むといふ喜びは算へ上げるまでもない。  とても實現できないやうに思はれてゐた事柄は、今※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]然、可能になり容易になつたのである。  少女は二度とためらはなかつた、さうしてパン屋へ行つて夕餉のパンを半斤買つたのち、フランソアズお婆さんの家へは歸らずに、朝、工場へ行くときに※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いた道を※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るのであつた。  しかしその時マロクール附近に住む職工たちが家へ歸るためにこの道を通つてゐた、さうして少女は自分が柳林の小路へはひりこむのを見られたくなかつたので、野を見渡す伐採林にはひつて腰をおろした。誰もゐなくなつたら小屋にはひつて、そこで靜かに、※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]を池に向つてあけ、夕日に向ひ、誰も邪魔しには來ないから安心して、ゆつくりと晩御飯を食べよう。それは晝御飯のときにしたやうに、※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きながらパン切れを呑み込むのとはまた違つて樂しいだらう。  少女は、この段取りにひどく有頂天になつてしまひ早くそれを實行に移したかつた、が長いこと待つてゐなければならなかつた。一人通るとまた一人、次いでまた幾人かが通るからである。その時彼女は、小屋の中に家具を備へようと考へついた、小屋は確かにC潔で居心地がよいに違ひない、が幾らか手入れをすればなほ更さうなる。  少女の坐つてゐた伐採林は大部分、ひよろひよろの樺の木で、その下には齒朶《しだ》が茂つてゐた。樺の小枝で箒《はうき》を拵へよう、さうすれば部屋を掃くことができる。乾いた齒朶《しだ》の束を採らう、さうすれば、やはらかくて暖いよい寢床ができる。  少女は、作業の最後の數時間自分に重苦しく襲ひかかつてゐた疲勞を忘れて、ただちに拵へにかかつた。たちまち箒を束ね、柳の若枝でくくり、棒の柄をつけた。これに劣らず素早く齒朶《しだ》の束を切り、柳の箍《たが》で締めつけて、らくに小屋へ運びこめるやうにした。  その間に一番遲れた人々が道を通り、今は見渡すかぎり人氣《ひとけ》なく、ひつそりした。柳林の細路へ近づいてゆく時は來たのだ。彼女は齒朶《しだ》の束を背負ひ、箒を手にして伐採林を駈け降りた、それから道をも駈けて切つた。が細路では※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]をゆるめなければならなかつた。齒朶《しだ》の束が木の枝にひつかかり、身を低めて四つばひにならないと通れなかつたからである。  小島に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]くと先づ、小屋の中にある物、すなはち丸太切れと齒朶《しだ》とを取り出し、次に天井や壁や地べた、そこら中を掃き始めた、すると池の上でも葦の中でも、動物といふ動物が、これまで長いこと我が物顏でゐた水面や汀の靜かな領域で、この引越し騷ぎに邪魔されてやかましく飛び立ち、泣き叫んだ。  狹い處だから、どんなに念入りにやつても掃除は忽ちすんでしまひ、もう丸太切れと古い齒朶《しだ》とを取り込みさへすればよかつた。少女はその古い齒朶《しだ》の上に、太陽のぬくみと、生えてゐたとき周圍にあつた花の咲いた草の香ひとの未だ殘つてゐる自分の齒朶《しだ》を、かぶせた。  さあ夕御飯の時だ。胃袋はエクアンからシァンチイへ※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いたときに劣らず、ひもじがつてゐた。幸ひにしてあのいやな日々は過ぎた、さうしてこのすてきな小島に落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]き、寢床は確かに得られて、人も雨も嵐も、どんなものであらうとも恐れるものはなく、充分のパンをふところにして、この美しい靜かな夕べに少女はあの貧苦を、ただもう現在の時と比べて翌日の希望を※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]めるためにのみ想ひ出したに違ひなかつた。  少女は、碎けてこぼれないやうパンを幾つかに小さく切つてそれを食べた、さうしてもう物音は立てなくなつた、そこで池に住む連中は安心して夜のために※[#「巛/果」、第3水準1-84-8]へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてきた。※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず、飛ぶ鳥どもは夕日の金色の上に線を曳いたし、水鳥は葦の間から用心深く現はれ出て、頸を差しのべ、位置を知るために立ち聞きするやうな頭の恰好をしてゆつくりと泳いだ。今朝、彼らの目醒めが少女を面白がらせたやうに、今は彼らの寢るのが少女を樂しませた。  少女はパンを食べ終つた。パンは減つてゆくにつれていよいよ小さく切つたのだけれど、忽ち無くなつてしまつたのであつた。その時、少し前には鏡のやうに光つてゐた池の水が薄暗くなり、空はそのまばゆいばかりの火事を消した。數分の中に夜は地上に降りるであらう。寢る時刻は鳴つたのだ。  しかし※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]を締めて齒朶《しだ》の寢床にたはる前、少女は最後の用心をして溝にかかつた橋を取上げておかうと思つた。小屋は十分安全だと確信してはゐた。誰も邪魔しには來ないだらう、それは確かだと少女は思つてゐた、いづれにせよ誰かが近づけば、耳のさとい池の住民どもは叫びを上げて自分を目醒ましてくれるだらう。しかしさうだからといつて、もしできるなら橋をはづしておくといふことは愚かなことにはならない。  その上、取りはづすのはただ安全だからではない、嬉しいからでもある。自分の占領した紛れもない島の中で地上とは何の交通もしてゐないと思ふのは、愉快なことではないか? 旅行談にあるやうに屋根の上に旗を※[#「てへん+曷」、第3水準1-84-83]げて、どかんと大砲を※[#「(車/凵+殳)/手」、第3水準1-85-2]つことのできないのは、はなはだ殘念である。  急いで少女は仕事にかかつた。箒の柄で、橋になつた柳の丸太の兩端を埋めてゐる土を掘りのけて、それを自分のはうの岸へ引き取つた。  さあ、もう自分の住居だ。自分はこの國の主人だ、島の女王樣だ。少女は大旅行※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]たちのするやうに大急ぎで島に洗禮を施した、さうして名前をつけるのに一秒の當惑も躊躇もしなかつた。自分の現※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]にふさはしいこの名前よりいいものが見つからうか、  ――喜望《グッドホープ》。  ※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]に喜望峰といふ岬がある、しかし岬と島とを人が取違へるはずはない。 [#改丁] [#ページの左右中央] [#2字下げ]家なき娘 下[#「家なき娘 下」は大見出し] [#改丁] [#2字下げ]十九[#「十九」は小見出し]  女王樣になるといふことは、殊に家來も隣人もゐない時は大そう愉快なことだ、しかしなほ仕事としては、自分の國々を歡迎から歡迎へと移り※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くといふこと以外には何もないのでなければいけない。ところでペリーヌはまさしく未だ、歡迎や遊覽などの幸bネ時期にはゐなかつた。だから翌日、夜明け方、池の小鳥の朝の歌に目を醒まし、小屋の隙間を通つた太陽の光線が顏の上でたはむれると、彼女はすぐに考へた、もうぐつすり眠るわけにはゆかない、汽笛が呼び始めたらすぐに目が明くやうに輕く眠つてゐなければならない、と。  しかし最も深い眠りが必ずしも一番良い眠りではない。一番良い眠りといふものは、むしろ途切れ、眠り、また途切れ、かうして夢のつながり續いてゆくことが意識せられるさういふ眠りだ。少女の夢の中にはただ樂しいもの※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]笑ましいものだけがあつた。昨日の疲れは眠つて全くなくなつてゐて、もう思ひ出すことさへできないほどだつた。寢床は、やはらかく暖く、いい香ひがしてゐたし、吸ふ空氣には乾草の香ひがこもつてゐたし、小鳥は樂しい歌で搖すぶりながら寢せつけたし、柳の葉に溜つた露の滴は、水に落ちて澄みきつた音樂を聞かせた。  汽笛が野の沈默を破ると少女はすぐに起きた、さうして池の※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]で念入りに身繕ひした後出かけようとした。しかし橋を元通りにかけて島を出るといふ遣り方は平凡であるのみならず、萬一冬になる前に、誰か小屋へはひつてみようかなどととんでもない考へを抱くやうな※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]があるとしたら、さういふ連中を通してやるといふ危險をひき起すやうに思はれた。少女は跳び越えることができるかしらと考へながら溝の前で立つてゐた、すると柳の木の生えてゐない側で小屋を支へてゐる長い枝を見つけたので、彼女はこれを取り、これを使つて溝を棒跳びで跳んだ、こんな事はたびたびやつて慣れてゐた彼女にとつて譯のないことだつた。こんなふうにして王國を出るのは上品ではないかも知れない、しかし誰も見てゐなかつたから實際は大したことでない。それに、若い女王樣といふものは、年寄りの女王樣にはできない色々の事をすることができる筈である。  棹を、夕方はひる時に見つかるよう柳林の草の中に匿した後少女は出かけ、早い仲間の一人として、工場に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた。待つてゐると、みんながあちらこちらに群を拵へ、昨日に見られなかつた興奮をもつて話しあふのだ。何が起つたのだらう?  偶然幾つかの言葉を聞いて彼女はうなづいた。  ――可哀さうに!  ――指を切つたんだつて。  ――小指?  ――小指を。  ――もう一つの指は?  ――それは切らなかつたの。  ――泣いた?  ――呻いたわ、そばにゐた人が貰ひ泣きをしてしまふほど。  ペリーヌは指を切つた人を尋ねるまでもなかつた。始め驚いて身の凍る思ひがしたが、次に胸が一ぱいになつた。彼女とはやつと昨日[#一昨日?]識り合つたばかりだ、それは確かである、しかし自分の※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いたとき迎へてくれ、案内してくれ、仲間としてつきあつてくれたあの子が、可哀さうにひどく苦しんでをり、片輪にならうとしてゐるのだ。  少女は悄然として考へこんだ、その時何氣なく目を上げるとベンディットさんのやつて來るのが見えた、そこで少女は立上つて、自分のする事がどういふ事かをよく知らず、また地位の卑しい自分が要職にあるしかも英國人である人に言葉をかけることの無遠慮さをわきまへずに、彼のはうへ行つた。  ――あの、ロザリーさんはどんな工合でせうか、御存じでしたらヘへて下さいませんでせうか? と英語でいつた。  常にないことだが少女のはうへ目を落して答へてくれた。  ――けさ、お※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんに逢つたが、よく眠つたとのことだ。  ――まあ! さうですか、どうも有難うございました。  しかし、これまで一度も人に感謝といふものをしたことのないベンディット氏は、少女の言葉の調子に含まれる感動と心からのお禮とを全部感じたわけではなかつた。  ――結構なことです、と※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きながらいつた。  少女は午前中ずつとロザリーのことばかり考へてゐた、さうして、もう仕事に慣れてしまひ注意も要らなくなつたのでそれだけいよいよ自由に、自分の幻想を追ふことができた。  お晝休みにフランソアズお婆さんの家へ駈けていつた、が生※[#「りっしんべん+曾」、第3水準1-84-62]、叔母さんに出くはしたので入口の閾より奧へは行かなかつた。  ――何でまたロザリーに會ひに? 醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が心配することはないつていつてますのに。あれが起きられるやうになつたら、どんなにして片輪になつたか言ふでせう、あの間拔け※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が!  午前にこんな工合に取扱はれたから、夕方また行く氣はしなかつた。あれ以上丁寧にはもてなされないに決まつてゐるから、自分の島へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るよりほかはない。早く島が見たかつた。歸つて見ると出かけたときと同じだつた、さうしてその日は家のお仕事がなかつたので、すぐに晩御飯を食べた。  少女はこの御飯を長びかせたいと思つた、がパンをどんなに小さく切り分けようとも無限にふやしてゆくわけにはゆかなかつた、さうしてもう殘りがなくなつたとき、太陽はまだ地平線上に高かつた。そこで少女は小屋の奧の丸太切れに腰かけ、※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]をあけたまま、池を前にして、木々のカーテンで處々さへぎられた野原を遠くに見ながら、立てなければならぬ暮しの計畫を夢みるのであつた。  物質上の生活については第一に重要な三つの要點が考へられる、すなはち宿、それから食べ物、それから※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物。  宿は、運よく島で見つけたお蔭で、少くとも十月までは費用が要らないで保證されてゐる。  しかし衣食の問題は、さうあつさりとは片附かない。  幾月も幾月も一日に一斤のパンで、仕事に費す力を養ふに足る食べ物といはれるだらうか? 少女には分らなかつた、これまで眞劍に働いたことがなかつたからである。苦痛、疲勞、缺乏、なるほど少女はこれらを知つてゐた、ただしそれは偶然に知つてゐたのであり、二三日不幸な日が續けば、次に來る日々はすべてを忘れさせてくれるといふ工合だつた。ところで、繰返され續けられる仕事になるとそれがどういふものか、また長い間にそこにどれだけの費用が要るものか、少女には一向分らなかつたのである。おそらく少女は、昨日も今日も、自分の食事が甚だ貧弱なことを知つてゐた。しかしそれは結局、彼女のやうな飢ゑの苦痛を心得た※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]にとつてはほんの一つの當惑であつたに過ぎない。健康と力とを保つことができさへすれば、空腹のままでゐることなぞは何でもないことであつた。それに、やがては一日分の食べ物をふやすこともできようし、パンに少量のバター、チーズを添へることもできよう。だから待ちさへすればいいのだ、それが幾日早く來ようと遲れようと、よしんば幾週間遲れようと、大したことではなかつた。  ところが※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物は、少くともその多くの部分が傷《いた》んでしまつて、※[#「誨のつくり+攵」、第3水準1-85-8]速に動くことができなかつた。思ふに、ラ・ルクリのそばで幾日か暮しながらやつた繕ひは、もう保《も》たなくなつたのである。  殊に靴はひどくへつてゐて、指で底革に觸れてみるとそれが曲がるほどだつた。底革が甲から※[#「碌のつくり+りっとう」、第3水準1-15-94]がれる時期を豫想することは難しくなかつた、その上トロッコを押すのに最近砂利を敷いた道を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]かなければならず、そこでは傷《いた》みが速いからいよいよ早く※[#「碌のつくり+りっとう」、第3水準1-15-94]がれることだらう。さうなつたらどうしよう? むろん新しい履き物を買はなければならないが、買はなければならないといふことは、買ふことができるといふことではない。これに要するお金がどこにあらうか?  始めにする仕事、一番さし逼つた仕事は靴の製造だ、ところでこれは色々の面倒を生じ、先づ最初その實行をよく考へてみたとき、少女はがつかりしてしまつた。靴とはどんなものかこれまでに考へてみたこともなかつた、しかし一方の靴をぬいで調べてみて、どんなふうに甲が底革に縫ひつけられ、どんなふうに後部が甲に合はせられ、どんなふうに踵が全體に附けられてゐるかを知つたとき、少女はその仕事が自分の力と意思との及ばないものであることをさとり、ただもう靴屋の技術に頭をさげるばかりであつた。木履《きぐつ》は、ただ一|材《ざい》で、木切れを抉《ゑぐ》つて作られるから、それだけでずつと容易である、しかし一切の道具としてナイフ一つしかないのに、どうしてそれを彫《ほ》らうか?  かうした出來ない相談を悄然と考へてゐた。するとぼんやり池や岸邊をさ迷つてゐた目は葦の茂みに出逢つて、これにとまつた。葦の莖は丈夫で、丈が高く、密生してをり、春に生えた莖に混つて去年のものもあつたが、水中に落ちてゐても未だ腐つてはゐないやうだつた。見ながらふと考へが浮んだ。革靴や木履だけが履き物ではない。底を葦で編み、上をズックで作つたスペイン鞋《ぐつ》もある。もし少女が賢明なら、わざわざ使つて貰ふやうに其處に生えてゐるやうに見えるあの葦で靴底を編んでみようとしないはずはない。  すぐに島を出て岸邊づたひに葦の茂みのところへ來た。來てみると、一番いい莖、すなはちもう枯れてゐるが未だしなやかで折れない莖の中から、一と抱《かか》へを取りさへすればよいことが分つた。  直ぐに大きな束を切つて、小屋へ持ち歸り、さつそく仕事に取りかかつた。  けれども一米ぐらゐの編みかけを作つたのち、この靴底は餘りうつろ[#「うつろ」に傍点]だから輕過ぎて少しも丈夫でないこと、葦を編む前にその筋《すぢ》をつぶして太い麻束のやうなものに變へるといふ下拵へをしなければならないことに氣づいた。  それでも少女は止《や》めもせず困りもしなかつた。葦をのせて叩く臺には丸太切れがあつた。木槌とか金鎚がないだけだ。しかし道へ搜しに行つた丸い石はそれの代りになつた。そこで直ぐに葦を縺《もつ》れさせないやうにして叩きはじめた。仕事中に、ふいに夜の闇がやつてきた。そこで、※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]リボンの美しいスペイン鞋《ぐつ》を間もなく履くことを考へながら眠つた、だつて彼女は、一遍でとはいはなくとも、少くとも二度目、三度目、十度目には成功することを疑つてゐなかつたのである。  しかし十度目までやることはなかつた。翌日の夕方にはたくさん編んだので數々の靴底を拵へ始めることができた、さうして次の日、一スウの曲つた大針、これも一スウの絲の毬、同じ値段の※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]い木綿のリボンの切れ端し、四スウの厚い雲齋布《うんさいぬの》を二十|糎《(センチメートル)》、全部で七スウの買物をした。土曜日にもパンを食べたいと思ふならこの七スウ以上は使へなかつたのである。さてこの買物の後、少女はその靴底を自分の靴底に眞似て仕上げてみようと試みた。最初のものは丸過ぎて明らかに足の形になつてゐない。第二のものは一そう苦心したのだが、これもどうも似つかない。第三のものも、これまた似たり寄つたりの出來ばえだ。が最後に第四のものは眞中がくくれ、指のところが廣がり、踵《かかと》が小さく、靴底としてうなづけるものになつた。  嬉しい! 固く望むことなら、意志と忍耐とを以つてすれば、お金もなく道具もなく、何もなく、ほんのちよつぴり器用なだけをョりにしてでもやりとげることができる、それは又しても證據立てられたのである。  スペイン鞋《ぐつ》の完成にほしいものは鋏だ。しかし買ふと高くつくから、無しですまさなければならない。幸ひナイフがあつた、川床へ砥石を搜しに行き、これでよく|※[#「石+幵」、第3水準1-89-3]《と》ぎ、丸太の上に平らに雲齋布《うんさいぬの》をあててこれを切つた。  布を縫ふのにもまた、試みや遣り直しをしなければならなかつた、が遂にやりとげた、さうして土曜日の朝、嬉しくも、灰色の美しいスペイン鞋《ぐつ》をはいて※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]いリボンを靴下の上へ十字に卷き、しつかり足に締めつけて出かけた。  この仕事は、夜明けから始めて三朝《みあさ》と四晩《よばん》かかつたのであるが、仕事中少女は小屋を出る時は靴をどうしておいたものかと考へた。小屋には誰も來ないのだから人が來て盜む心配は確かにない。しかし鼠に囓られは[#「囓られは」は底本では「噛られは」]しないだらうか? もしそんなことでもあつたら災難だ! この危險を防ぐためには、どこへでも潛つてくる鼠共の屆かない場所に入れておく必要がある。ところで、しまつておく押入れも箱も何もないから、天井から柳の枝で吊しておくのがいい、と思つた。 [#2字下げ]二十[#「二十」は小見出し]  少女は履き物に得意ではあつたけれど、しかし一方では、働いてゐるうちにどうなるかとそれが心配であつた。底が廣がりはしまいか? 布は、型がすつかり崩れてしまふほどに伸びはしまいか?  そこで、トロッコに荷を積んだり、これを押したりしながらたびたび足を見た。始めの中は靴は持ちこたへてゐた、でもそれは續くだらうか?  このそぶりは、おそらく、一人の仲間の注意を惹いた。その仲間は、スペイン鞋《ぐつ》を見ると、自分の好みにあふのでペリーヌに向つてそれをほめた。  ――その舞蹈靴、どこで買つたの?  ――舞蹈靴ぢやあないのよ、スペイン鞋《ぐつ》よ。  ――でもすてきだわ、高いでせうね?  ――私が自分で拵へたのよ、葦を編んで、雲齋布、四スウで。  ――いいわねえ。  この成功は次の仕事を企てようと決心させた、これは更にやりにくい仕事で、たびたび考へてはきたのだが大へん費用がかかるし、あらゆる種類の面倒を伴つて現はれるので、いつも打ち棄てておいたものだ。仕事といふのは一枚シュミーズを裁つて縫ひ、自分の今持つてゐる、しかし※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]てゐるので※[#「月+兌」、U+812B、34-9]いで洗濯のできない一張羅のシュミーズの代りにするといふことである。必要な二メートルのキャラコは幾らするだらう? 分らなかつた。手に入れたらどう裁《た》つのか? さらに分らなかつた。そこには、※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]て寢なければならないのでそれだけいよいよくたびれてゐる上衣と下裳の代りとして先づ胴※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]と更紗《さらさ》のスカートを作るはうが賢いかしらと考へることなどは勘定に入れないでも、次々に起る疑問があつて彼女を考へこませるのであつた。さうした※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物を全く見棄てなければならなくなる時期は豫想するに難くなかつた。もしさうなつたらどうして外へ出よう? しかも生活のため、日々のパンのため、また計畫の成功のために、これからもずつと工場で働かして貰ふことは必要であつた。  しかし土曜日の夕方その一週間に得た三フランを手にすると、シュミーズの誘惑に抵抗することができなかつた。むろん胴※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]とスカートが不必要に見えたといふのではない、がシュミーズもなくてならないものだつたし、その上それはほかの理由を伴つてやつて來た、すなはち少女の育つたC潔といふ習慣、及び自分自身に對する尊敬がそれだ、つひにそれらが勝ちを占めた。上衣と下裳とはまだ繕つておかう、布地は丈夫に出來てゐるから、きつと幾度か修繕してもつだらう。  ※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]日彼女は晝食の時間には、ロザリーの樣子を尋ねるために工場からフランソアズお婆さんの家へ出かけた。答へてくれるのがお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんであるか叔母さんであるかに從つて、ヘへて貰へたりヘへて貰へなかつたりしたものだ、ところで、シュミーズがほしくなつてから少女は、一軒の小さな店の前によく立ち停まつた、その店の陳列棚は二つの商品に分れてゐて、一方は新聞、寫眞、歌曲集など、他方は麻織、キャラコ、更紗《さらさ》、小間物である。少女は、その中央に立つて新聞を見てゐるやうな、または歌をおぼえてゐるやうな風をしてゐたが、實は布地に眺め入つてゐたのである。この魅力のある店の閾口を跨いで、反物を好きなだけ分けて貰ふ人たちは、何と幸bセらう! 長いこと立ち停まつてゐるうちに、たびたび工場の女工たちがこの店へはひり、紙で丁寧に包んだ荷物を胸に抱きしめてそこから出て來るのを見かけた。少女はさうした喜びを・・・少くとも現在は・・・自分のものにできないのだと思ふのであつた。  ところが今は手に三つの銀貨が音を立ててゐるのだから、この閾を跨がうと思へば跨ぐことができるのだ、そこで胸をとどろかせながら閾を越えた。  ――何にいたしませう? と小さな老婆が、愛想よく※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]笑みながら丁寧な聲で尋ねた。久しぶりにこんな優しい言葉をかけられたので、氣※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]くなつた。  ――お店のキャラコはお幾らでせうか? ・・・一番お安いのは。  ――一メートル、四十サンチームでございます。  ペリーヌはほつとした。  ――ではそれを二メートルほど分けて下さいませんか?  ――これは餘り良い手のものではございません、こちらの六十サンチームのはうでございますと・・・  ――四十サンチームのはうで結構ですわ。  ――さやうでございますか、どうぞお好きなはうになすつて下さいまし。御承知置きを願ふために申し上げましたので。あとで苦情を仰つしやられると厭でございますから。  ――苦情なぞいひませんわ。  賣り手は四十サンチームのキャラコを取つた、ペリーヌはそれが、陳列棚で眺め入つた品物のやうな白さも艶もないのを見た。  ――それから何にいたしませう? と賣り手は、乾いた音を立ててキャラコを引き裂いていつた。  ――絲を頂きたいのです。  ――毬《たま》になつたのと、束ねたのと、絲卷のとございますが、どれにいたしませう?  ――一番安いのを下さい。  ――これが十サンチームの毬《たま》でございます、全部で十八スウでございます。  ペリーヌは自分もまた、賣れ殘りの古い新聞紙で包んだ二メートルのキャラコを胸に抱きしめてこの店を出るといふ喜びを味はつた。三フランの中、十八スウしか使はなかつたから次の土曜日までに四十二スウ殘る、すなはち一週間のパン代二十八スウを前以て差引いた後、少女は、もう宿賃が要らないので、不意のため、または貯蓄として七スウの資本を設けた。  少女は島までの道を駈けて歸り、そこに※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた時は息を切らしてゐた、がそれでも直ぐに仕事を始めることはできた、なぜならシュミーズをどんな形にするかは長いこと頭の中で考へをめぐらしてゐたので、もうその事を考へ直す必要はなかつたからである。シュミーズは、紐附きの折返しにしよう、第一それが、シュミーズを裁《た》つたこともなく鋏も持たない自分にとつて一番簡單に一番らくにやれるし、第二に古いシュミーズの紐がまた使へるから。  縫ひ仕事の間は、物事は、滿足にとはいはないまでも少くとも遣り直しをする必要はない程度にうまく、思ひ通りに運んだ。が頸と腕の孔をあけるといふ段になつて面倒と責任とにぶつかつた、これをナイフと丸太切れだけの道具でやつてのけるのはひどく重大なことに見えたので、布を切り始めてみたとき、どうしても少しふるへた。しかし遂にやりとげた、さうして土曜日の朝、自分が働いて手に入れ、自分の手で裁ち、自分の手で縫つたシュミーズを※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]て工場へ出かけた。  その日フランソアズお婆さんの家へ行くと、ロザリーが、腕を吊つて出て迎へた。  ――なほつたの!  ――いいえ。ただ、起きて庭へ出ることは構はないの。  逢つて大へん嬉しかつたペリーヌは、質問を續けた。がロザリーは、他人行儀な返事しかしない。  一體どうしたのだらう?  たうとうロザリーはかういふ問ひをもらしたので、ペリーヌには譯が分つた。  ――あなた、今どこに泊つてゐて?  ペリーヌは答へる勇氣がなくて、わきへそれた。  ――あそこは私には餘り高かつたのですもの、食べ物や※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物には何も殘らなかつたわ。  ――ほかに安い處を見つけたの?  ――無料《ただ》なの。  ――まあ!  彼女はちよつと默つてゐた、が次いで好奇心に負かされて、  ――誰のうちなの?  ペリーヌは今度はこの直接の質問を避けることができなかつた。  ――あとで話すわ。  ――ぢやあいつでもお好きな時に聞かして頂戴、ただし、ゼノビ叔母さんが庭か※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口にゐたら、はひらないはうがいいわ、あなたを怨んでゐますのよ。夕方いらつしやい、その時分は叔母さん忙がしいから。  ペリーヌはかうあしらはれて悲しく作業場に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つた。フランソアズお婆さんの部屋に引續いて泊ることができなかつたのが、どうして惡いのかしら?  一日中この感じが心に殘つてゐた、さうしてこの一週間で[#「この一週間で」は底本では「一週間後」]始めて何もすることなく、小屋に夕方一人ぼつちになるとその感じは一そう※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]く※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてきた。そこでそれを拂ひのけるために、未だその暇がなかつたのでせずにゐた島の周圍の原ツぱを散※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]に出ようと思つた。夕方は輝くやうに美しかつた、それは、思ひ出す生れ故郷の幼少の頃の夕方のやうに眩いものでもなく、藍色の空の下の燃え上るやうなものでもなく、暖かで光はやはらかであつた、さうしてその光は、※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]白い金色の靄の中にひたつた木々の頂きを見せてゐた。まだ古くなつてはゐないがもう花の落ちた乾草《ほしぐさ》は、人を落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]かなくする香ひに凝集した色々の芳香を、空中に放つてゐた。  島を出ると少女は池のふちを辿つて、春に生え出てから誰にも踏まれたことのない丈の高い草の中を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いた、さうしてをりをり振り返ると岸邊の葦を透して隱れ小屋が見えた、それは柳の幹や枝と大へん紛らはしいので、野の動物は、それが人間の作つたものであつて、その背後に人間が鐵砲をもつて待伏せるのだとは確かに思はなかつた。  そのやうにして葦と藺《ゐ》の中へ降りて足をとめた後、岸へ上らうとした時、足下で物音がしたのでびつくりした。一羽の小鴨が驚いて逃げ出して水に飛び込んだのである。どこから飛び立つたのだらうと思つて見ると、草の芽や羽根で作つた一つの※[#「巛/果」、第3水準1-84-8]が見つかつた。そこには、汚れた白色に小さな榛《はしばみ》色の斑點のついた卵が十個はひつてゐた。この※[#「巛/果」、第3水準1-84-8]は、地面や草の上においてあるのではなく、水面に浮いてゐるのであつた。少女はそれに手をふれないで暫く調べてみた、さうしてその※[#「巛/果」、第3水準1-84-8]は、水嵩の搆クにつれて高くなり低くなるやう作られてをり水嵩が揩オて流れが出來ても、風が吹いても、離れ去らないやうに實にうまく葦で圍んであるのに氣づいた。  少女は、母鳥を驚かさぬやうに相當離れたところへ行つてそこにじつとしてゐた。坐れば姿の見えなくなつてしまふ丈の高い草の中に匿れて、少女は小鴨が※[#「巛/果」、第3水準1-84-8]へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてくるかどうかと待つてゐた、が※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてこないのでかう結論した、小鴨は未だ卵を孵《かへ》してはゐないのだ、あの卵は生みたてなのだと。そこで少女は散※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]をつづけた、するとまた枯れ草にスカートが擦れて、驚いたほかの鳥の飛び立つのが見えた。――浮いてゐる埃及蓮《えじぷとはす》の葉の上を走つてもその葉の沈まないほど輕やかに逃げる田鶴、嘴の赤いくひな[#「くひな」に傍点]、ひよいひよい跳ぶ鶺鴒《せきれい》、それから寢がけを邪魔されて少女の背後から叫び聲をあびせる雀の群、この雀共は、この叫び聲のために土地では「クラ・クラ」と呼ばれてゐる。  そんな發見を續けて行きながら、やがて池のはづれへやつて來た、さうしてその池はもう一つの池につながつてゐることを知つた、それはずつと大きくずつと長い池だつたがそのため遥かに樹木が少なかつた、だからその池の岸に沿つて野原の中をしばらく※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてみて、そこに鳥のずつと少い譯が分つた。  鳥共は、木の茂つた、大きな葦のゆたかにある、さうして水草が水面をゆらゆらする※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]の絨毯でおほつてゐるこの池のはうを選んだのだ、なぜなら食べ物も見つかるし安全でもあつたから。一時間後引返しながら、池が實に靜かな※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]色の美しい夕べの闇に半ば沈んでゐるのを見たとき、少女は思ふのであつた、自分もまた住居としてこの池を選んだのはこの動物共と同樣に賢明であつたと。 [#2字下げ]二十一[#「二十一」は小見出し]  ペリーヌにあつては、過ぎ去つた日の出來事が、夜の夢となることがよくあつた。從つて、最近幾月かの彼女の生活は悲しみで一ぱいだつたから生活と同樣に夢もまたさうだつた。不幸な目に逢ひはじめてから、何度少女は、現實の慘めさを眠りの中にまで持ちこんでくる色々な惡夢のためにうなされ、汗をかいて目をあけたことであらう。實をいふと、少女がその胸の中に生れた希望にひかれ仕事にひかれてマロクールに※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いてからといふものは、その惡夢はあまり襲はなくなり、苦しめなくなり、重くおさへつけなくなり、その鐵の指はそんなに咽喉を締めつけなくなつてゐた。  この頃、眠るときに考へることは明日のこと、安全な明日のことや、または工場や島のことや、または自分の境遇を改善するために企てた或ひは企てようと思つた事柄や、スペイン鞋《ぐつ》、シュミーズ、胴※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]、スカートなどのことであつた。すると少女の夢は、まるで~祕な暗示にでもかかつたやうに、彼女の努めて心にかけた事柄を、舞臺にのぼせるのであつた。それはあるときは木の足爺さんの木槌の代りに妖女の魔法の杖が機械に動きを與へ、機械を扱ふ子供らは何の骨折もしない作業場であつたり、あるときは皆にとつて嬉しくてたまらぬ輝やかしい翌日であつた。またあるときは、夢は、夢の中だけでしか生氣のない不思議な形の動物や景色の眺められる、この世にない美しい新しい島を出現させた。あるひはまた少女の空想は、もつと手近かなところで、スペイン鞋《ぐつ》に代るすばらしい編上靴を縫はしてくれたり、金剛石とルビーの洞窟中で妖※[#「米+睛のつくり」、U+FA1D、4-14]たちの織つた、さうしていつかはあの自分の欲しがつた胴※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]と更紗のスカートの代りになる、特別の衣裳を縫はしてくれたりした。  むろんこの暗示法は確實だつたとはいひえない、さうして少女の無意識の空想はそんなに忠實にそんなに規則正しくはこの方法に從はなかつたから、目をつむれば確かに夜の考へが、晝間に抱いた或ひは再び眠りこむ時に抱いた考へを承けついでくれるといふわけにはゆかなかつた、しかし要するに、たびたびつながり合つてくれたのである。少女はさういふ夜は體も心も慰められて元氣づくのであつた。  その夜小屋を締めて寢たとき、少女の半ば眠りに溶けた眼の前を通り過ぎる最後の映像と、しびれた頭の中に漂ふ最後の考へとは、なほ島の附近の探檢旅行を續けてゐた。しかし少女の見たのは、この旅の夢ではなく、御馳走の夢であつた。大|伽藍《がらん》のやうな高い大きな料理場で、惡魔のやうな物腰をした白い小人《こびと》の料理人の一群が、巨大なテーブルや、すさまじい炭火のまはりで忙がしく立ち働いてゐた。或る※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が卵を割ると別の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]はそれを※[#「てへん+蚤」、第3水準1-84-86]きまぜて雪のやうな泡にする。彼らは、そのメロンのやうに大きいのもあれば、やつと豆ほどしかないのもある全部の卵で、珍しい料理を拵へてゐた。小人《こびと》たちは、知つてゐるあらゆる方法を一つ殘らず用ひてこの卵を料理しようといふのが目的であるらしい。すなはち半熟にしたり、チーズを入れたり、燒バタをつけたり、トマトをかけたり、混ぜ卵にしたり、落し卵にしたり、クリームをつけたり、衣《ころも》をかけて燒いたり、色んなオムレツにしたり、ハムを插んだり、膩肉《ラード》でいためたり、馬鈴薯を混ぜたり、臟物を入れたり、砂糖煮にしたり、ぴかぴか光りながら燃えてゐるラム酒をかけたり。この連中の隣で、ずつと偉い、明かに頭《かしら》だつた※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]たちが、饅頭《まんぢゆう》やスフレや飾[#底本では「飾」は「飲のへん」に代えて「飮のへん」]り菓子を作らうとして、|捏[#底本では「捏」は「てへん+臼/工」]粉《ねりこ》に別の卵を混ぜてゐた。少女は目が醒めかけるごとにこのばかげた夢を追つ拂はうとして體をゆすぶつたけれど、やはり夢の中に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてしまつた、さうして料理人たちは少女を手放してくれずに相變らずその不思議な仕事を續けたので、工場の汽笛で目が醒めてもなほ少女は、チョコレート・クリームの製造の跡を追ひ、その味や香ひを脣の上に想ひ出してゐた。  さて、心が開いてそこへ正しい意識が※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]りはじめると少女は、散※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]中に自分を驚かしたものが、島の魅力や、その美しさやその靜けさではなくて、ただもう小鴨の卵であり、この卵がもうそろそろ二週間もスープなしのパンと水しか貰はずにゐることを胃袋に訴へたのだ、といふことに氣づいた。さうしてこの卵が少女の夢をさそつて、あの料理人やあらゆる不思議な料理を見せたのであつた。胃袋は、さうしたおいしい物に飢ゑてゐて、胃袋なりにそのことを告げ、かういふ幻を惹き起させたのだ、この幻は實は胃袋の抗議に他ならなかつたのである。  卵を生んだ小鴨は野の動物だから誰の所有物でもないわけであるあの卵を、卵の幾つかを、なぜ自分は取らなかつたのだらう? もちろん自分には鍋も、フライパンも、どんな種類の道具も、自由に使へるものはないのだから、さきほど目の前を列《なら》んで通つた、いづれ劣らぬすてきな巧みな御馳走は何一つ、作ることはできない。しかし巧みな調理の必要がないといふことはまさに卵の長所である。鍋か皿の買へるやうになるまでは、伐採林で枯枝を拾ひ集めて來て、それを少しばかり積んでマッチで火をつける、さうすれば灰の下で半熟にでも固くでも、思ひのままに手輕に燒くことができる。夢の拵へた贅澤な食べ物とは似てもつかないものだとしても、それ相應の値打のある御馳走にはなるだらう。  なぜ取らなかつたらうといふ考へは、仕事中一度ならず頭に浮んだ、さうしてそれは夢のやうにしつこく附き纏ふといふ性質は伴はなかつたけれど、充分切實だつたので、仕事が退《ひ》けると、マッチ一箱と鹽を一スウ買ふ決心をした。さうしてこの買物をすると池へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るために駈け出した。  ※[#「巛/果」、第3水準1-84-8]の場所は、よく覺えてゐたからすぐに見つかつた、が母鳥は※[#「巛/果」、第3水準1-84-8]にゐなかつた。ただしその日の中いつかは※[#「巛/果」、第3水準1-84-8]に來たに違ひなかつた、なぜなら今は卵は十個でなく十一個あつたから。これで小鴨は、まだ卵を生み續けてゐて、卵を抱いて孵《かへ》す時期ではないことが分つた。  いい機會だつた。第一卵は新しいし、それに、五つ六つぐらゐ取つても算へることのできない小鴨は一向氣がつくまい。  昔ならペリーヌはそんな心配をしないで平氣で※[#「巛/果」、第3水準1-84-8]をすつかり空《から》にしてしまつたことであらう、が、色んな苦しい目に逢つてきたため、彼女の心は、ほかの※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の苦痛に對して憐みの心を動かすやうになつたし、同樣にまたパリカールへの愛情は、あらゆる動物に對して子供の時分には知らなかつた同情の心を彼女に抱かせた。この小鴨は彼女にとつては友達ではないか? むしろ彼女の遊びを續けていふなら、家來ではないか? 王樣は、臣下から物を得てそれで生きるといふ權利を持つてゐるにしても、臣下に對し幾分の手加減はしなければならない。  この狩獵を決心したとき、少女は同時にそれを燒く方法をも定めてゐた。むろん小屋の中ではやれない。どんなに微かに煙がもれ出ても、それを人が見たらをかしいぞと思ふであらうからである。だから手輕に伐採林の道傍でやればいい。そこでは村を通る流浪※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]たちが野宿してゐるから、火も煙も誰の注意をもひかないはずである。忽ち少女は一抱への枯枝を集めて間もなく炭火を作り、その灰の中で卵を一つ燒く一方では、C潔でなめらかな二つの硅石で一つまみの鹽をつきくだいて一そうよくそれを溶かした。實をいふと、卵立てがなかつた、が卵立てなどは餘計な物を列べておく人にだけ必要な道具であるに過ぎない。パンに小さな穴をあければそれの代用になつた。間もなく少女は、パンの一切れを、ほど好く燒けた卵の中に浸《つ》ける滿足を味はつた。初めの一口で、こんなおいしい物はこれまでに食べたことがないやうに思つた、さうしてたとへ夢の中の料理人たちがこの世にゐたとしても、とても灰の中で燒いたこの半熟の小鴨の卵に追ひつく物を作ることはできまいと考へた。  もし少女が、前日のやうにまた例のパンと水とに引※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]され、幾週も、たぶん幾月も、パンには何も添へられないと思つたのだつたら、食慾や胃袋の誘惑は、この夕食で滿足したかも知れない。がさうではなかつた、そこで未だその卵を食べきらないうちに少女は考へた、この殘りの卵や新しく搜して手に入れたいと思つてゐる卵を別の仕方で料理することはできないものだらうか。半熟卵はおいしい、實においしい、しかし卵の※[#「廣−广」、第3水準1-94-81]身で濃くした熱いスープはまたおいしい。このスープの考へは、それの實現を諦めなければならないといふ深い口惜しさを伴ひつつ、頭の中を速足《はやあし》で走つた。スペイン鞋《ぐつ》やシュミーズを仕上げたことによつて、彼女は忍耐をもつて手に入れることのできる物を見せられ、或る勇氣を與へられたには違ひなかつた。しかしその勇氣は、スープを作るためのお鍋を土かブリキで製造することができると思ひ、それを飮むための匙を何かしらの金屬でまたは簡單に木で造ることができると思ひ立つほどには※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]くなかつた。そこには彼女の心を碎く難題があつたのである。だからこの二つの道具を買ふお金ができるまでは、事スープに關しては、家々の前を通るときに吸ふ香ひと、聞えてくる匙の音とで滿足しなければなるまい。  或る朝少女は仕事に行きながらさう考へた、すると村へはひる少し前、昨日引越してしまつた家の入口に、道の低い處に、古藁やあらゆる種類のがらくたが一獅ノ投げすてられて積んであるのを見、そのがらくたの中に、肉や魚や野菜の鑵詰のはひつてゐたブリキの箱を見とめた。大きいのや小さいのや、深いのや平らなのや、色々な形のものがあつた。  それらの物の表面のぴかぴかした光を受けて少女は何とはなしに立ち停まつた。が一秒の躊躇もしなかつた。自分の持たない鍋や、皿や、匙や、フォークが少女の眼に鮮やかに映つた。お臺所の道具を自分のほしいだけ取り揃へるといふためには、この古箱を利用しさへすればよいわけだ。つツと彼女は道を切つて、急いで四つの箱を選び、駈けながらそれを垣の根方へ持つて行つて枯葉の堆《うづ》みの下に匿した。この枯葉の堆《うづ》みは夕方歸りがけに見つかる。少し器用にやれば、自分の工夫したどんなお料理の獻立でも拵へることができることになる。  しかし見つかるだらうか? この疑問は一日中少女を離れなかつた。もし人が取つてしまつてゐたら彼女は、いよいよ實現できるぞと思ふその時になつてふい[#「ふい」に傍点]にしてしまふそのためにのみ、仕事のあらゆる計畫を立てたといふことになる。  幸ひそこを通る人々は誰もそれを持つてゆかうとしなかつた、そこで日が暮れると、道を行く職工たちの群をやり過ごした後、垣根へやつてきた。箱は匿したその場所にあつた。  島の中では煙と同樣に音だつて立てられないから、腰をすゑるのは道の上だ。其處で必要な道具も見つかるだらう、すなはちブリキを叩く金鎚になる石、それから鐵床《かなどこ》にする平らな石、それから軸にする丸い石、ブリキを切る鋏にする石。  この仕事は一番骨が折れた、さうして一つの匙を仕上げるのに三日以内ではすまなかつた、その上、それを人が匙だと見るかどうかもどうやら怪しかつた、しかしそれは自分が作らうと思つてゐた品物であるからそれで結構だ。それに自分一人で食事をするのだから、人が自分の食器をどう考へるだらうなどといふ心配は要らない。  もう、待望のスープを作るのに不足の品は、バタと酸模《すかんぽ》だけだ。  バタは、これはパンや鹽みたやうなもので、牛乳がないから自分の手で拵へることはできない、買ふよりほかない。  が酸模《すかんぽ》なら、これは野原へ搜しに行けばその費用を節約できる。野原には野生の酸模《すかんぽ》だけでなく人參もばらもんじん[#「ばらもんじん」に傍点]も見つかるだらう。美しくなからうと、人の栽培した野菜のやうに太くなからうと、少女にとつては大へん結構なものなのだ。  なほまた食事の獻立に入れることのできるものは卵と野菜だけではない。煮るための容器も、食べるためのブリキの匙も、木のフォークも作つた今は、もし上手に採ることができるとするなら池の魚もある。採るためには何が要るか? 絲だ、泥の中で餌の蟲を搜してつける絲だ。それにはスペイン鞋《ぐつ》のために買つたのがたくさん殘つてゐる。だから一スウ使つて釣針を買ひさへすればよかつた、なほ蹄鐵工場の前で拾つた馬の尻尾の毛もあり、これらの絲は、さまざまの種類の魚――といつても澄んだ水中で彼女の餘りにも簡單な餌をばかにしてその前を通り過ぎる池の一番立派な魚とまではゆくまいが、少くとも彼女にとつては十分に大きくてかかりやすい小魚の何匹かを、釣るのには十分であつた。 [#2字下げ]二十二[#「二十二」は小見出し]  かういふ色んな仕事でとても急がしくて夕方はいつもつぶれてしまふので、一週間以上もロザリーに逢ひに行くことができなかつた。ロザリーの樣子はフランソアズお婆さんの宿にゐる管捲《くだまき》機の仲間の一人からきいてゐたし、怖いゼノビ叔母さんが應待に出てくるといやだつたので、ついのびのびになつてゐた。しかしたうとう或る夕方少女は決心して、すぐに自分の家へは歸らなかつた。昨日採つて燒いておいた魚を冷たいまま食べればよいので夕飯の仕度もいらなかつた。  ちやうどロザリーは一人で庭の林檎の樹の下に坐つてゐたが、ペリーヌを見ると、怒つたやうな嬉しいやうな樣子で垣根のはうへやつて來た。  ――あなたはもう來たくないのだと思つてゐたわ。  ――急がしかつたの。  ――何が急がしかつたの?  ペリーヌは答へないわけにゆかなかつたのでスペイン鞋《ぐつ》を見せた、それからシュミーズを作つた次第を話した。  ――鋏なんかおうちの人に借りられなかつたの? とロザリーは意外だつた。  ――うちには鋏を貸してくれる人、ゐないんです。  ――鋏ぐらゐ誰だつて持つてゐるわ。  ペリーヌは自分の住居の祕密を匿しつづけるはうがいいかしらと思つたが、匿しつづけるとすれば、わざと言ひ|※[#「月+兌」、U+812B、34-9]《ぬ》かしをするよりほかなく、そんなことをすればロザリーを怒らせるだらうと考へて、打明けてしまはうと決め、  ――あたしのうちには誰もゐないのよ、と※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]笑んだ。  ――まさか。  ――でも本當なの、だからスープを作るお鍋も、それをすくふお匙も手にはひらないから、拵へなければならなかつたのよ。ほんとに匙はスペイン鞋《ぐつ》よりずつと難かしかつたわ。  ――冗談だわ。  ――いいえ、ほんたうなの。  少女は何も包みかくさずに隱れ小屋の住居のこと、お道具作りのこと、卵さがしや、池での釣りのこと、道ばたでのお料理のことなどを語つた。  ※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えずロザリーは喜びの聲をあげた。全く珍しい物語でも聞いてゐるやうだつた。  ――まあ面白いでせうね! 彼女は、ペリーヌが始めて酸模《すかんぽ》のスープを拵へた次第を※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明するとさう叫んだ。  ――えゝ、うまくできる時は。でもねえ、うまくゆかないと! 私、匙を作るのに三日もかかつたわ。どうしても板をくぼませることができませんでした。ブリキを二枚もむだにしてしまつて、たつた一枚しか殘らなかつたの。石で指を叩いたときのことを考へて頂戴。  ――私、あなたのスープのことを考へてゐるの。  ――スープは本當においしかつたけれど・・・  ――さうでせうねえ。  ――私、スープなんぞ一遍も、大たい、あたたかいものは何も口に入れたことないんですもの。  ――私は※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]日頂いてゐるけれど、でも、それはこれと別だわねえ。野原に酸模《すかんぽ》があつたり、人參や、ばらもんじん[#「ばらもんじん」に傍点]があつたりするのは面白いこと!  ――それにまだまだ、たがらし[#「たがらし」に傍点]や、葫葱《えぞねぎ》や、野萵苣《のぢさ》、パネ、蕪《かぶら》、しでしゃじん[#「しでしゃじん」に傍点]、唐萵苣《たうぢさ》、そのほか食べられる植物がたくさんあるわ。  ――心得ておく必要があるわね。  ――私、お父さんにヘはつて知つてゐるの。  ロザリーは考へこむ樣子でちよつと默つてゐた、がつひに決心して、  ――あなたのところへお邪魔してもいいこと?  ――えゝ、どうぞ。もし私がどこに住んでゐるか誰にも言はないと約束して下さるなら。  ――約束するわ。  ――ぢやあ、いついらつしやる?  ――私、日曜日にサン‐ピポアの叔母さんのうちへ行くの、午後そこから歸りがけに寄つてみるわ。  今度はペリーヌがちよつと躊躇した、それから丁寧な樣子で、  ――それよりも、私と一獅ノ晩御飯を食べませうよ。  ロザリーは、しんからの田舍※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]だつたから、はいとも、いいえともいはずに、しきりに他人行儀な返事をしてゐた、が、大へんその申し出を受けいれたがつてゐる樣子はすぐに分つた。  ペリーヌは重ねてすすめた。  ――いらして下すつたら、きつと嬉しいわ。一人ぼつちで、とても寂しいんですもの!  ――いづれにしてもそのことは本當ね。  ――ぢやあ、いらつしやるんだわね、でも、あなたのお匙を持つてきて頂戴、もう一つ拵へるひまもないし、ブリキもないから。  ――パンも持つて來るわ、ね?  ――どうぞ。道ばたで待つてゐます、せつせとお料理してゐますわ。  ペリーヌは、ロザリーを招くのが嬉しいといつたが、それは本氣でいつたのだ。少女は前からそれを樂しみにするのだつた。お客樣をおもてなしする、獻立をつくる、必要な物を見つけて貯へる、何といふことだ! 少女には、自分といふものの重要さが何かしら感じられてきた。彼女が友だちに食事を出せるなどといふことは四五日前なら誰もいふ人はなかつたであらう。  大切なことは狩りと魚釣りだ、だつて卵もとれず魚も釣れないなら、食事は酸模《すかんぽ》のスープだけになつてしまふ、これではまことに野菜けばかりで貧弱すぎる。金曜日から少女は、近所の池を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きまはつて夕方を過ごした、さうして運よく田鶴の※[#「巛/果」、第3水準1-84-8]を見つけた、むろん田鶴の卵は小鴨の卵より小さい、しかしあまりむづかしい註文をする資格は少女にはなかつた。釣りのはうもまた上首尾で、赤いみみずの餌をつけた絲で、みごとな鱸《すすき》[#「すすき」は「すずき」の方言か?]をうまく釣り上げた、これは彼女とロザリーの食慾を滿たすに違ひなかつた。しかし少女はさらに食後の果物がほしいなと思つた、さうしてこの果物は、梢を切られた柳の蔭に生えてゐるまるすぐり[#「まるすぐり」に傍点]の木が與へてくれた。すぐり[#「すぐり」に傍点]の實は十分|熟《う》れてゐなかつたやうだ、しかしこの果物の性質として、※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]いままでも食べられた。  日曜日の夕方ロザリーが道ばたへやつて來ると、ペリーヌは、火にスープをかけて沸《たぎ》らせながらその前に坐つてゐた。  ――卵の※[#「廣−广」、第3水準1-94-81]味をスープにまぜようと思つてあなたを待つてゐたのよ。スープをそうつとあけるあひだ、あなたはいいはうの手でかきまはして下さればそれでいいの、パンは切つてあるわ。  ロザリーは晩餐のためにおつくり[#「おつくり」に傍点]をして來てゐたが、ためらはずその仕事を引きうけた、それは遊びであつたし、更にこの娘にとつては何よりも面白いことであつた。  まもなくスープが出來た。もうそれを島の中へ運ぶばかりだ。ペリーヌがそれを運んだ。  ペリーヌは、未だ片手を吊つてゐるお友達を迎へ入れるため、橋代りの板をもとどほりにかけた。  ――私なら棒で出はひりするのよ、でもあなたは手が惡いから、それはむづかしいわね。  ロザリーは隱れ小屋の※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]をあけた。さうして四隅に、あちらには蒲《かば》、こちらには薔薇色のたしゃうぶ[#「たしゃうぶ」に傍点]、そちらには※[#「廣−广」、第3水準1-94-81]色い菖蒲、ここには※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]い鈴をつけたかぶと菊[#「かぶと菊」に傍点]といふやうにいろんな花束が立てられてあり、また地面には食器が置いてあるのを見て感歎の聲をあげたので、ペリーヌは骨折り甲斐があつた。  ――まあすてきだこと!  新しい齒朶の床《とこ》の上にはお皿の代りに拳參《パシアンス》の大きな葉が二枚ならんでゐた、さうして深皿にふさはしいずつと大きい|野白※[#「くさかんむり/止」、第 3水準 1-90-68]《ベルス》の葉の上には、鱸《すすき》が、たがらし[#「たがらし」に傍点]に圍まれてととのへられてゐた。まるすぐり[#「まるすぐり」に傍点]の砂糖漬の容器の代用として鹽入れになつてゐるのもまた一枚の小さな葉つぱであつた。お皿とお皿とのあひだには埃及蓮の花が插され、その花は、すがすがしい※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]の上に目もくらむむばかりの白い色を放つてゐた。  ――どうぞお坐り下さい、とペリーヌは、手を差しのべながらいつた。  二人が向ひあつて坐ると食事は始まつた。  ――來られなかつたらずゐぶん口惜しかつたことだらうと思ふわ、こんなにすてきで樂しいのですもの。ロザリーはほほばりながらいつた。  ――何か來られないことがあつたの?  ――だつて、ベンディットさんが病氣なので、私ピキニへやらされようとしたんですもの。  ――ベンディットさん、どうなすつたの?  ――腸チフスなのよ、とても惡いの、その證據に、昨日からうはごとを仰しやるし、もう誰の見さかひもつかないの。私がちやうど昨日、あなたをお尋ねしようとしたのも、そのためなのよ。  ――私を! それはまたどうして?  ――それがね! 私考へたことがあるの。  ――ベンディットさんのために何かしてあげることができるのなら、いつでもするわ。あのお方は私に深切でした、でも哀れな女の子に何ができるかしら? どうも分らないわ。  ――もう少しお魚と、たがらし[#「たがらし」に傍点]を頂戴、どういふことなのかそれをこれから※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明しませう。あなたも知つてるとほり、ベンディットさんは外國通信係りの※[#「示+土」、第3水準1-89-19]員で、英語やドイツ語の手紙を飜譯してゐます。ところで今はもう頭が變だから、飜譯のはうはさつぱりなの。代りの人を雇はうとしたのですけれど、その人は、ベンディットさんが、もし癒るとするならば、――癒つても、引續いてずつとその地位にゐたいといふかも知れないといふので、ファブリさんとモンブルーさんとがその役を引受けようと申し出て、ベンディットさんが後々また元へ復職できるやうになすつたの。ところがファブリさんが昨日スコットランドへ出張にやられなすつて、モンブルーさんは困つてゐるの、なぜつてモンブルーさんは、ドイツ語はよく讀めるし、英語の飜譯だつて幾年も英國にゐたことのあるファブリさんと一獅ネらやれるのだけれど、一人きりだとそんなにうまくゆかないのよ、殊に、書いてある字を判斷しなければならないやうな英語の手紙のときだと。モンブルーさんは、食事のとき私がお給仕をしてゐると、さういふことを私に※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明し、どうもベンディット君の代りをするのは止さなければなるまいと心配してゐるといつてたわ。それで私、あなたがフランス語と同じやうに英語を話すといふことを、モンブルーさんにいつてみようかと思つたの・・・  ――私は、お父さんと話すときはフランス語、お母さんと話すときは英語でした。三人で一獅ノ話すときは、別に注意しないで、無頓※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]に、あれを使つたりこれを使つたりしてゐましたわ。  ――でもその勇氣がなかつたのよ、しかし今はもうあのお方にさういつていいかしら。  ――それはいいわ、もし私のやうな不憫な娘でもお役に立つとあなたが思ふなら。  ――不憫な娘だとかお孃さんだとか、そんなことでなく、英語を話せるかどうかそれが問題なのよ。  ――話せるわ、でも用務上の手紙を譯すとなると別のことだわね。  ――いいえ、用務のことを知つてゐるモンブルーさんと一獅セからそんなことはないわ。  ――それはさうかも知れない。ぢや、もしさういふことなら、ベンディットさんに何かしてあげることができれば私は嬉しく思ふといふことを、モンブルーさんに話して頂戴。  ――ぢやあ、話すことにしませう。  鱸《すすき》は大きなものだつたけれど平らげられてしまひ、たがらし[#「たがらし」に傍点]も無くなつた。いよいよ果物だ。ペリーヌは立つて、お魚を出した|野白※[#「くさかんむり/止」、第 3水準 1-90-68]《ベルス》の葉を下げて、その代りに、この上なく美しい七寶燒のやうに葉脈の模樣のある釉藥《やきぐすり》のかかつたコップの形の埃及蓮の葉をおいて、次に、まるすぐり[#「まるすぐり」に傍点]の實を出した。  ――うちの庭の果物をどうぞ召上れ、と彼女は、ままごとをしてゐるやうに笑つた。  ――あなたのお庭つて、どこなの?  ――私たちの頭の上よ。この家の柱の一つになつてゐる柳の木の枝の間に、すぐり[#「すぐり」に傍点]が伸びたのよ。  ――あなた、この家に長くはゐられないことを知つてゐて?  ――冬までは、と思つてゐるの。  ――冬までですつて! もうすぐ沼地の狩獵が始まるのよ、そのときこの隱れ小屋は、きつと使はれるのよ。  ――まあ! どうしよう。  樂しく明けた一日は、この恐ろしい不吉な前觸れで暮れた、さうしてその夜は確かに、ペリーヌがこの島を乘つ取つて以來過ごした一番いやな夜であつた。  どこへ行かう?  苦心してまとめた一切の道具は、どうしたらよからう? [#2字下げ]二十三[#「二十三」は小見出し]  もしロザリーが、沼地の狩獵の開始の近いことだけしかいはなかつたのなら、ペリーヌは、不吉なこの豫告の大きな危險におびえたままでゐたことであらう、がしかしベンディットさんの病氣のことやモンブルーさんの飜譯のことをも聞いたため、その印象はやはらいだ。  なるほどこの島には魅力がある。ここを去るのはまことに不幸だ。しかしここを離れなければ、お母さんの定めたさうして自分の目ざしてゆかなければならぬ目的には近づけまい、とても近づけないとさへ少女には思はれた。ところでもしベンディットさんやモンブルーさんに役立つ機會が自分にやつてきたとすれば、自分はさやうにして※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]故を拵へることになり、これがたぶん、自分のために門※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]を押し開いてくれ、自分はやがてそれをくぐるといふことにならう。これこそ、ほかのどんなものよりも重んじなければならない理由だ。王國をうばひとられる切《せつ》なささへも、これには替へられない。そもそもあの苦しい旅の疲れと慘めさとを耐へしのんできたのは、それがどんなに面白いことであらうとこんなことをして遊んで過ごすためではなかつたし、また卵を採つたり、魚釣りをしたり、花をつんだり、鳥の歌を聞いたり、ままごとみたやうな食事を出したりするためでもなかつた。  月曜日、ロザリーと打合せておいたとほり、お晝の休み時間にフランソアズお婆さんの宿の前を通つてみた。もしモンブルーさんが入用だといふならその指圖を受けようといふためである。しかしロザリーは出てきて、月曜日は英國から手紙が來ないから、朝のうちは飜譯するものがない、たぶん明日のことになるだらう、といつた。  ペリーヌは仕事場へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて再び働いた、すると二時を何分か過ぎた頃、木の足爺さんが通りがかりの彼女を引つたくり、  ――急いで事務所へ行け。  ――何の用ですか?  ――わしの知つたことかい? 事務所へよこせといはれたのぢや、行つてこい。  少女はそれ以上尋ねなかつた、第一、木の足爺さんには質問してもむだであつた、それに、用事といふのは大方あのことだらうと思つてゐたからである。しかし少女にはよく呑みこめなかつた、もしモンブルーさんと一獅ノ難しい飜譯をするといふのなら、なぜ事務所へなぞ呼ぶのかしら、事務所ではみんなが自分を見るだらう、從つてモンブルーさんは自分を必要としてゐるといふことが、知れてしまふだらうに。  踏段の上から、彼女の來るのを見てゐたタルエルは呼んだ、  ――こつちへ來るんだ。  彼女は急いで段々を上つた。タルエルは尋ねた。  ――お前か、英語を話すといふのは? ※[#「口+墟のつくり」、第3水準1-84-7]をつかずに返答せい。  ――お母さんが英國人でした。  ――ではフランス語はどうだ? 訛《なまり》はないやうだが。  ――お父さんがフランス人でした。  ――すると二國語を話すのか?  ――さうです。  ――よし、サン‐ピポア村へ行け、ヴュルフラン樣が御用なのだ。  この名前を聞いて少女は驚きを見せた。監督は腹を立てた。  ――お前、ばかぢやあなからうな?  少女はもう我に返つてゐた、さうして自分の驚きを※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明する答を見つけた。  ――サン‐ピポア村つて何處か知らないのです。  ――馬車で送つてやるんだ、だから道に迷ふことなんかない。  さうして彼は踏段の上から呼んだ、  ――ギヨーム!  日蔭に事務所のわきに置いてあつたヴュルフラン氏の馬車が寄つてきた。  ――これを、ヴュルフラン樣のところへつれて行くやうに。急いでだ、よいな!  もうペリーヌは踏段を降りてゐた、さうしてギヨームのに乘らうとした、しかしギヨームはそれを手で止めて、  ――そこではない。うしろだ。  なるほど一人分の小さな座席がうしろにあつた。少女はそこに乘つた、馬車が急いで出かけた。  村を出るとギヨームは、馬の※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]度をゆるめないでペリーヌをふり返り、  ――お前さん、ほんとに英語を知つてるのかい?  ――えゝ。  ――うまい工合に御主人を喜ばせることになるだらうな。  少女は勇氣を出して尋ねた。  ――どうしてですか?  ――といふのは今御主人のところへ機械を組立てに英國人の機械工たちが來たところなんだがね、御主人のいふことが通じないんだ。自分では英語が話せるといふモンブルーさんをつれてゆかれたんだけれど、モンブルーさんの英語は、機械工たちの英語と違ひ、通じないでお互ひに言ひあひをしてゐるんで、御主人は眞赤になつて怒つてゐなさる。をかしくつてやり切れなかつた。たうとうモンブルーさんは、どうしようもなくなり、御主人を宥めようとして、管捲《くだまき》機にオーレリーといふ英語を話す娘がゐますがといつたので、御主人がお前さんを搜しに私を送られたのさ。  一瞬の沈默があつた、それから再び少女のはうを見て、  ――何だぜ、もしお前さんがモンブルーさんみたやうな英語を話すんなら、すぐに降りたがいいかも知れないぜ。  彼は人を馬鹿にしたふうをした。  ――停めようか?  ――驅つてゐていいわ。  ――お前さんの爲を思つていふんだよ。  ――それはどうも有難う。  しかし、返事はしつかりしてゐたが息詰まる苦痛を感じないではゐなかつた、だつて、彼女は、自分の英語に自信はあつたけれど、ギヨームがあざ笑つていふところによると、モンブルーさんの英語と違ふといふその機械工の英語とはどんなものか知らなかつたし、それに、商賣にはおのおのその言葉――少くともその專門語があり、自分はまだ一度も機械に關する言葉をしやべつたことがないのを承知してゐたのである。分らなかつたり、ぐづついたりしたら、たちまちヴュルフラン氏はモンブルーさんに向つてしたやうに、自分に向つても腹を立てはしないだらうか。  もうサン‐ピポアの工場に近づいてゐて、ポプラの梢の上に、高い煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]の煙をはいてゐるのが見えた。サン‐ピポア村では、マロクール村と同じやうに、製絲と織物とをやつてをり、その上なほ、綱や獅熕サ造してゐることを少女は知つてゐた、しかしそんなことを知つてゐようとゐまいと、少女のこれから聞かなければならぬ事柄、言はなければならぬ事柄は、一向はつきりしてこなかつた。  道の曲り角で、野原に散在する建物の全體を一目で眺めたとき少女には、その建物が、マロクール村のより重要なものでない割には相當なものであるやうに見えた、しかし早くも馬車は入口の柵門を越えて、まもなく事務所の前に停まつた。  ――ついておいで、とギヨームがいつた。  さうして一つの部屋へ案内した。ヴュルフラン氏はサン‐ピポアの監督をそばにおいて話しあつてゐた。  ――娘が參りました、とギヨームは帽子を手にしていつた。  ――よし。わしらには構はんでよい。  氏はペリーヌに言葉をかけず、監督に手ぶりをして自分のはうへ耳を傾けさせて小聲で物をいつた。監督も同樣にして返事をした、がペリーヌは鋭い耳を持つてゐた、さうしてヴュルフラン氏がこの娘は誰だと尋ね、監督が「十二三※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]の、ちつとも間の拔けた樣子のない女の子です」と答へたことだけを聞いたやうに思つた。  ――お前、こちらへお寄り、とヴュルフラン氏はいつた。その調子は、前にロザリーへ話しかけたとき聞いたことのある調子で、※[#「示+土」、第3水準1-89-19]員に對するものと少しも似たところのない調子だつた。  少女は元氣づいた、さうして自分を不安にする感情に抵抗することができた。  ――お前の名前は何といふ? ヴュルフラン氏がきいた。  ――オーレリーと申します。  ――兩親は?  ――亡くなりました。  ――いつからわしのところで働いてをる?  ――三週間前からでございます。  ――何處から來たのぢや?  ――巴里からまゐりました。  ――英語を話すか?  ――お母さんが英國人でした。  ――では英語を知つてゐるのか?  ――會話ならいたしますし、分ります、けれども・・・  ――けれどもはいけない。おまえは英語を知つてゐるのか、知らないのか?  ――色んな商賣上の英語は存じません、私の分らない言葉を使ひますから。  ――ブノア君、この娘の今いつたことは、ばかげたことではないね。ヴュルフラン氏はさう監督に向つていつた。  ――本當にこの娘には間の拔けた樣子がございませんよ。  ――それではたぶん何かの役に立つぢやらう。  杖にすがつて身を起し、監督の腕を取つた。  ――わしらについて來い。  ふつうペリーヌの目は出くはすものを見てこれを記憶することができた、が、あとからついてゆく途中、彼女の見つめたのは心の中であつた、英人機械工たちとの對談はどういふことになるだらう。  エナメル塗りの白と※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]の煉瓦造りの新しい大きな建物の前へ來ると、モンブルー氏が、不愉快さうな樣子であちらこちら※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きまはつてゐるのを少女は見た、さうして自分に向つて意地惡さうな眼つきをしたやうに思つた。  はひつて二階に上ると廣い部屋のまん中の床《ゆか》の上に、白い板の大きな箱が幾つか置いてあり、その箱は、その上に |Matter, Platte, Manchester《マター プラット マンチェスター》 などといふ名前がそこらぢゆうに幾つも樣々の色で入れてあつて、雜多な色彩をしてゐた。一つの箱の上に英國人の機械工たちが腰を下ろしてゐたが、ペリーヌは、少くとも服裝の點ではこの人々が紳士ふうだといふことを見とめた。毛織の背廣の三つ揃ひ、銀のネクタイ・ピン。そこで少女は、粗野な職工を相手にするよりはよく分るだらうといふ希望を抱いた。ヴュルフラン氏が來るとみんなは立上つた。そこで氏はペリーヌに向ひ、  ――この人達にいひなさい、私が英語を話します、あなた方も、私がゐれば、自分を分らせることができます、と。  少女は命ぜられたとほりにした、さうして、いひかけるとすぐ機械工たちの顰《しか》めつらが明るくなつたので嬉しかつた、なるほどそれはほんの日常の會話の一と言には違ひなかつたが、しかし彼らの※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]笑みかけたことは吉兆であつた。  ――この人たちは、十分に分りました、と監督はいつた。ヴュルフラン氏は、  ――では今度はかう聞かう、なぜ豫定よりも一週間早く來たのですか、そのために、指圖に當るはずの英語のできる技師が不在なのです。  少女はこの文句を忠實に言ひ替へ、ただちに、中の一人が返した答を通譯した。  ――カンブレーで案外早く機械の組立てを終つたので、英國へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]らず眞直ぐにここへ來たのださうです。  ――カンブレーのどこの工場でその機械を組立てたのぢや! とヴュルフラン氏がいつた。  ――アヴリーン兄弟の工場です。  ――何の機械ぢや、それは?  質問と返答とが英語でやりとりされた。ペリーヌはためらつた。  ――何をぐづぐづしてをる? と急いで氏は氣短かにいつた。  ――私の知らない商業上の言葉なので。  ――英語でそれをいひなさい。  ――ハイドロリック・マングル。  ――やつぱりさうぢや。  氏はその言葉を英語で繰返した、しかしそのアクセントは機械工のとまるで違つてゐた、それで、彼らがこの言葉を發音しても氏の理解できなかつたわけが分つた。つぎに氏は監督に向ひ、  ――アヴリーン兄弟が我々の先を越したんだ、ぐづぐづしてはゐられない、ファブリ君に電報を打つて一刻も早く呼び返さう。しかし待つてゐるあひだにも、この男たちに仕事を始めるやうにしてもらはなけりやあならぬ。なんで取りかからずにゐるのか、お前尋ねてみよ。  彼女はその質問を通譯した、すると頭《かしら》立つた人がそれに長い答をした。  ――どうぢやといふな?  ――返事が私には大へんこみ入つた事柄で。  ――でもまあ、※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明してみよ。  ――床《ゆか》が機械の重みに耐へるほど、※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]くないさうです、機械の重みは十二萬リーヴル・・・  彼女は中途でやめて、英語で職工たちにきいた、  ――十二萬?  ――さうです。  ――十二萬リーヴルでございますさうで。それで、この重みでは、動いたら、床《ゆか》がへこんでしまふでせうつて。  ――桁構《けたぐみ》は高さ六十糎なんだが。  少女はこの反駁を通譯し、職工たちの返答をきいてつづけた、  ――床《ゆか》の水平位置を調べてみたら床《ゆか》はたわんださうです。抵抗力を計算してくれるか、床《ゆか》下に支柱を設けるかしてくれるやうにといつてゐます。  ――計算はファブリ君が歸つたらするし、支柱はすぐに設ける。さういひなさい。だから一刻も早く仕事を始めてほしい。大工でも石工でも必要な職人は何でも入れよう。あの人たちはお前を自由に使ひ、お前に向つてただ何でもョんでさへくれればよい、ブノア君に傳はりさへすればいいのだから。  彼女はこのお達しを職工たちにいひ替へた、職工たちは、彼女が通譯になるといふことを喜んだやうに見えた。ヴュルフラン氏は續けて、  ――お前はここにゐよ、宿の食事代と宿泊料とのためには傳票をあげるから、お前は何も拂はなくてよい。滿足にやつてくれたら、ファブリ君の歸つたときに御褒美をあげる。 [#2字下げ]二十四[#「二十四」は小見出し]  通譯といふこの仕事は車を押すより揩オだつた。少女は通譯※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]として、その日の仕事が終ると、組立職工らを村の宿屋へ案内し、そこで、彼らおよび自分の泊るところを決めた、それは見すぼらしい共同部屋ではなくて、めいめいが自分の室を持つのであつた。彼らは、フランス語を一と言も理解せずまた話しもしなかつたので彼女に、一獅ノ食事をしてもらつた、そのお蔭で彼らは、十人のピカルディ人が食べるのに十分なぐらゐの食事を註文することができた、その食事は肉類が豐富であつて、――ペリーヌが前日ロザリーに出した御馳走もずゐぶんたくさんではあつたが、――とても比べものにはならなかつた。  その夜少女は本當の寢床にになり、本當の敷布と掛布とにくるまつた、しかしながら眠りの來るのは遲かつた、大へん遲かつた。たうとう眼瞼《まぶた》を閉ぢたけれど、ひどくざわついた眠りで、何度ともなく目がさめた。そこで、次のやうに考へながら努めて落ちつかうとした、自分は、起る事柄が幸bネものになるか不幸なものになるかを豫め知らうなどといふ努力はよして、たださうした事柄の成行に從つてゆくべきである、さうすることだけが道理にかなふことだ、事柄がこんなに有利な方向を取つてゐるらしいときには何も惱むことなんかない、結局、待つてゐればいいのだ、と。しかしどんな立派な※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]ヘも、自分で自分に向つてするときには、決してその人を眠らせたことはないどころか、立派であればあるほど我々をうまく目醒ませておくものでさへある。  翌朝工場の汽笛が聞えると少女は、起きる時刻であることを告げるために二人の組立職工の部屋の扉を叩きに行つた。しかし英國人の職工は、少くとも大陸では、汽笛にも呼び鈴《りん》にも從はなかつた、さうしてピカルディ人の知らない身仕舞ひといふものをやり、たつぷりバタをつけた燒きパンをたくさん食べ、何ばいとなくお茶をのんでそれから始めて、仕事に出かけた。一たいいつすむのだらうか、ヴュルフラン樣のはうが先きに工場へ行きはしないかしらと愼み深く門の前で待つてゐたペリーヌは、彼らに跟《つ》いてゆくのであつた。  ヴュルフラン氏は、やつと午後になつて一番若い甥のカジミールをつれてやつて來た、なぜなら、眼がかすんで見えないので、代りに人に見てもらふ必要があつたからである。  しかしカジミールは、輕蔑の眼を職工らの仕事の上に投げた。仕事は實際のところまだ準備をやつてゐるに過ぎなかつた。カジミールはいつた。  ――この連中は、ファブリ君が歸らなけりやあ、大したことはやれますまい。もつとも、あなたのお付けになつたのがあの監督では不思議はありませんがね。  彼はこのしまひがけの言葉を、素氣ない嘲けるやうな調子でいつた、がヴュルフラン氏はその嘲笑に加はらず、それを惡い意味に取つて、  ――お前にこの監督の役目を果たせる力があつたら、わしは、この管捲《くだまき》機の娘を採用することは要らなかつたらうて。  ペリーヌが見てゐると、カジミールはかう嚴しい口調で小言をいはれて氣短かさうにむツとした、しかし、あつさり答へて滿足した。  ――もし僕が、いつか經營から實務のはうへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]されるといふことを前以つて知つたら、きつとドイツ語より英語を勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]してゐたんですがねえ。  ――勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]するのに遲すぎるといふことはないぞ。ヴュルフラン氏は、お互ひが時を移さずいひあふこの口論を切り上げるやうにかう返答した。  ペリーヌは身動きもせずにちぢこまつてゐた、がカジミールは眼をこちらへ向けなかつた、さうして間もなく叔父に腕を貸して出ていつた。そこで彼女はくつろいで考へた、ヴュルフラン氏は本當にその甥には嚴しかつた、しかし甥といふ人はまた何て柄で、素氣ない、いやな人だらう! あの人達が互ひに愛情を持つてゐたとしても、さうは確かに見えなかつた! なぜだらう? なぜあの※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]年は、悲しみと病氣とに苦しむ老人にやさしくないのだらう? なぜあの老人は、自分のそばで息子の代りをしてゐる※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の一人に、あんなに手きびしいのだらう?  こんな疑問を考へめぐらしてゐると、氏が今度は監督につれられて仕事場へはひつて來た。監督は、荷造りした箱の上に氏を掛けさせたのち、組立職工の仕事がどのくらゐ進んでゐるかを※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明した。  ややあつて監督が二度「オーレリー! オーレリー!」と呼ぶのが聞えた。  しかし少女は、それが自分のつけた自分の名前であることを忘れてゐたので動かなかつた。  三度目監督は叫んだ。  ――オーレリー!  そこで、はつと目が醒めたやうに駈けていつた。  ――お前、つんぼか? とブノアがきいた。  ――いいえ。組立職工たちの話をきいてゐたものですから。  ――君はもうよい、とヴュルフラン氏は監督にいつた。  さうして監督が出て行くと前に立つてゐるペリーヌに向ひ、  ――お前、字が讀めるか?  ――えゝ。  ――英語が讀めるか?  ――えゝ、フランス語と同じやうに。どちらでも私には同じことなんです。  ――しかし英語を讀みながらフランス語に直せるか。  ――えゝ、美文でなかつたら。  ――新聞記事は?  ――やつてみたことはございません、英語の新聞を讀んだに致しましても、何をいつてゐるか分りますので、譯す必要がございませんでしたから。  ――分るとすれば譯せるはずだ。  ――譯せると思ひます、でも確信はございません。  ――ぢやあひとつ、やつてみよう。組立職工たちに、いつも御用は承りますから入用なときは呼んで下さるやうにと斷つてからでないといかぬが、職工たちの働いてゐるひまに、お前はこの新聞の記事の、わしのいふところを譯してみてくれい。あの連中のところへ斷りに行つて來て、それからわしのそばに坐りなさい。  少女がその用事をして、氏のそばにあまり無作法にならないやう間を置いて坐ると、氏はその新聞を差出した、それはダンディー新聞だつた。  ――どこを讀むのでございますか、とそれを擴げながら尋ねた。  ――商業※[#「木+闌」、第3水準1-86-27]を搜してみよ。  少女は、どこまでも續くKい長い色んな※[#「木+闌」、第3水準1-86-27]の中に迷ひこんだ。彼女は心配だつた、さうして、初めてのこの仕事をどうして切り拔けようか、ぐづついてゐたらヴュルフラン氏は苛々《いらいら》しはしないだらうか、へま[#「へま」に傍点]なのに腹を立てはしないだらうかと思つてゐた。  しかし氏はどなりつけなかつたどころか安心させてくれた、なぜなら、めくらの人の非常に鋭※[#「誨のつくり+攵」、第3水準1-85-8]な耳で新聞のふるへるのを聞いて、少女の氣持ちを見拔いたのである。  ――急がずともよい、わしはひまなのぢや、それにお前は未だ商業新聞を讀んだことがないらしいの。  ――さうなのです。  少女は搜しつづけた、さうして※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]然小さな聲を洩らした。  ――見つかつたかい?  ――えゝ、どうやら。  ――今度は見出しを搜すんだ、麻布《リネン》、大麻《ヘンプ》、※[#「廣−广」、第3水準1-94-81]麻《ジュート》、麻袋《サクス》、麻絲《ツワイン》。  ――あら、英語を御存じで! 彼女はつい叫んだ。  ――わしの商賣上の言葉を五つか六つさ、殘念ながらそれだけぢや。  少女はそれが見つかると飜譯をはじめた。それはじれつたいほどはかどらず、躊躇したり讀み澁つたりしては手に汗が流れた。をりをりヴュルフラン氏が、「それで十分ぢや、よく分る、かまはずに續けよ」と力づけてはくれたけれど。  少女はつづけた。機械工の鐵鎚の音が襲つてきて息苦しくなる時は聲を張りあげながらつづけた。  たうとう終りまで來た。  ――今度は、カルカッタの情報はないかな?  彼女は搜した。  ――えゝ、ここにございます、「本※[#「示+土」、第3水準1-89-19]特派員より」。  ――それぢや、讀んでみよ。  ――ダッカよりの報道・・・  少女はダッカといふ名をふるへ聲で發音したので、驚いて、  ――なぜ、お前、ふるへてゐるのぢや?  ――ふるへましたかしら、きつと昂[#底本では「昂」は「日/(功のへん+卩)」]ぶつてゐるからですわ。  ――心配は要らぬといつたではないか。お前は、わしの當てにしてゐたよりもずつと多くのことをしてくれるのぢや。  少女はブラマプートラ川沿岸の苧《を》の收穫のことを語つてゐるダッカ通信を飜譯した。つぎに、それがすむと氏は「※[#「さんずい+誨のつくり」、第3水準1-86-73]上通報」の中に、サント‐エレーヌからの電信はないかといつた。  ――英語ならセント‐へレナぢや。  少女はまたKい色んな※[#「木+闌」、第3水準1-86-27]を下つたり上つたりしはじめた。つひにセント‐ヘレナの名が、はつきり目にはひつた。  ――二十三日、英國船アルマ號、ダンディー向けカルカッタ出帆。二十四日、諾威《ノルウェイ》船グルンドローヴェン號、ブーローニュ向けナラインゴージ出帆。  氏は喜んだやうであつた。  ――大へん結構ぢや。わしはお前に滿足してゐる。  少女は答へようとしたが喜びでわくわくしてゐることが聲で知れるといけないと思ひ、默つてゐた。  彼は續けて、  ――氣の毒なベンディット君のなほるまでは、お前を役に立てることができさうぢや。  彼は組立職工の仕上げた仕事の樣子を知り、できるだけ急ぐやう繰返し注意した後ペリーヌに、監督事務所へつれてゆくやうに言つた。  ――手をお貸し致しませうか、と少女はおづおづ尋ねた。  ――むろんさうしてくれ、でなけりやあどうしてわしを引いてゆける? また途中で邪魔になるものを見たら注意してくれ、何よりも先づぼんやりしてゐないやうにな。  ――それはもう! 確かに、私に信ョなすつてようございますわ!  ――信ョはしてをる。  少女がていねいに左手を取ると、氏はその右手では杖の先きで、前のはうをさぐつた。  仕事場を出るや否や、二人はレールが地面から出てゐる鐵道線路の前へ來たので、少女はそれを注意しなければならないと思つて注意した。  ――その必要はない。わしは工場中の地面といふ地面を頭と足とで覺えてゐるからな、しかし、ふいの邪魔に出くはすかも知れない、それはわしにも分らぬから知らしてくれるか、避《よ》けさせてくれるかしなければならぬ。  彼は工場の地面だけでなく、その就業員をもまた覺えてゐた。庭を通り過ぎるとき、職工たちは、まるで彼が見てでもゐるやうに帽子を※[#「月+兌」、U+812B、34-9]ぐのみならず、さらに彼の名を呼んで挨拶するのであつた。  ――今日は、ヴュルフラン樣。  すると大抵の人々、少くとも古顏の人々に對して彼は、「今日は、ジァック」とか「今日は、パスカル」とか、同じ調子で答へた、耳でその人々の聲を覺えてゐるのだ。彼は、ほとんど全部の人を識つてゐたから、誰かなあと思ふやうなことは餘りなかつたが、もしさういふ時があると立ち停まり、誰々と名を呼んで、  ――さうぢやなかつたかね? といつた。  間違ふとその理由を※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明した。  さうやつてゆつくり※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くので、仕事場から事務所へ行くのは長かつた。少女が彼をその肘掛椅子までつれてゆくと、暇をくれて、かういつた。  ――では明日また。 [#2字下げ]二十五[#「二十五」は小見出し]  實際翌日、前の日と同時刻にヴュルフラン氏は監督にひかれて仕事場へ來た。が、ペリーヌはむかへに出ようと思つても出られなかつた、なぜならその時彼女は、石工や、大工や、鍛冶屋や、機械工など、集められた職人たちに、組立職工の頭《かしら》の指圖を傳へるのに急がしかつたからである。自分の與へられた指圖をそれぞれに向つて、はつきりと、ぐづぐづせず、一遍で通譯し、同時に、頭《かしら》に向つてはフランス人の職人共の述べた質問や抗辯を傳へてゐたのである。  ゆつくりヴュルフラン氏は近寄つて來た。すると話し聲がやんだので、杖で、自分はゐないものと思つて仕事を續けるやうに、といふ身振りをした。  ペリーヌがすなほにこの命令に從つてゐる間に、氏は監督のはうへ身をまげて、  ――ねえ君、あの娘は立派な技師になりさうぢやあないか、と小聲で、尤もペリーヌに聞えないほどには低くなかつたが、さういつた。  ――確かにあの娘は、決斷をすることに驚くべきものがございますな。  ――ほかの多くの事についても、さうだと思ふ。昨日、ダンディー新聞を譯してくれたが、ベンディット君よりうまかつた。新聞の商業※[#「木+闌」、第3水準1-86-27]といふものを讀んだのは、それが始めてだつたのぢやよ。  ――兩親はどういふ人だつたか、御存じでございますか?  ――たぶんタルエル君が知つてゐるだらう、わしは知らぬ。  ――それはともかく、可哀さうなほど貧しさうですね。  ――わしは、あれの食費と宿泊料とに五フランやつておいた。  ――いえ、身なりのことなんですが。上衣はぼろぼろですよ。それから、あんなスカートは乞食女の身につけてゐるものしか見たことがありません。履《は》いてゐるスペイン鞋《ぐつ》も、きつとお手製に違ひありません。  ――で顏つきはどうぢや? ブノア君。  ――聰明です、とても聰明ですね。  ――身持ちが惡さうではないか?  ――いいえ一向に。それどころか貞淑で、率直で、大膽です。眼は壁でも見透しさうですが、それでゐて用心と深い優しさとを持つてゐます。  ――一たいどこの※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]だらう?  ――この土地の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]では確かにありません。  ――母は英國人だといつたが。  ――私の識つてゐる英國人たちに似たところが少しも、あの娘にはございません。別のものが、まるで別のものがございます、それでゐて綺麗なんです、實際見すぼらしいあの※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物があの娘の美しさを浮立たせるので、いよいよ綺麗です。あんな身なりで職人共はよくそのいふことを聞くのですから、本當にあの娘には、思ひやりがあるのか、それとも生れつきの權威があるものに違ひありません。  ブノアは、賞與の表《リスト》を握つてゐる工場主にはお上手をいふ機會をのがさぬ性質の人だつたから附け加へて、  ――あの娘をごらんになりもしないのに、あなたはさういふことを皆見拔いていらしつたのですね。  ――あの娘の言葉の調子で、これはと思つたのぢや。  ペリーヌはさうした會話を全部は聞かなかつたがそれの幾つかの言葉は聞き取つた、さうして激しい興奮の中に投げこまれた。彼女はその興奮を努めて鎭めようとするのであつた、なぜなら、自分の背後で話されてゐる事柄はどんなに面白いことであつても聞いてはならないものであり、組立職工や職人らのかける言葉こそ聞かなければならなかつたからである。もし自分がフランス語の※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明中に、何か自分の不注意を證據立てるやうなへま[#「へま」に傍点]なことをやらかしたとしたら、ヴュルフラン氏はどう思ふだらう?  少女はうまく※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明をすますことができた、その時、少女はそばへ呼ばれた、  ――オーレリー。  少女は、これから後は自分のものとならなければならないこの名前に今度は、返答をせずにゐるやうなことはしなかつた。  氏は昨日のやうに少女をそばに坐らせて、飜譯する新聞をわたした、がそれはダンディー新聞でなくて、いはば苧《を》の取引の公報である「ダンディー貿易通報協會」の通牒であつたので、あちらこちらを搜すことなく、始めから終りまで譯さなければならなかつた。  また昨日と同樣、飜譯の一と時が終ると、彼は工場の庭を切つて自分を曳いてゆかせた、しかし今度はかう質問するのだつた、  ――お母さんを亡くしたといつたが、何日ぐらゐ前のことぢや?  ――五週間前です。  ――巴里でかな?  ――巴里です。  ――ではお父さんは?  ――半年前に亡くなりました。  彼は少女に手を取られてゐたので、少女の手がふるへてひきつることから、どんなに少女の思ひ出が苦しい氣持を惹き起したかを感じた。だから彼は、彼の話題をすてはしなかつたけれど、少女が今答へた數々の質問から必ず生れ出るやうな質問は差し控へた。  ――兩親は何をしてゐたのぢや?  ――私たちは一臺の馬車を持つて商ひしてをりました。  ――巴里のまはりでかい?  ――この地方あの地方と、旅をしてゐましたの。  ――ではお母さんが亡くなつて、お前は巴里を離れたのぢやな?  ――えゝ。  ――なぜぢや?  ――お母さんが私に約束させて、自分が巴里にゐなくなつたらお前もそこにゐないで、北部の、お父樣の家族のそばへ行くやうに、と仰しやつたものですから。  ――ではどうしてここへ來たのぢや?  ――可哀さうなお母さんが亡くなつたとき、車も、驢馬も、わづかの持物も賣り拂はなければなりませんでした、さうしてそのお金は病氣のためになくなつてしまひ、私がお墓を立去るときには五フラン三十五サンチームしか殘つてゐず、汽車に乘ることができませんでしたので、※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて行かうと決心しました。  ヴュルフラン氏の指が動いた、が少女はその理由が分らなかつた。  ――いやな思ひをなすつたのなら御※[#「俛のつくり」の「危−厄」に代えて「刀」、第3水準1-14-48]下さい、つまらないことを申しあげましたやうで。  ――いやな思ひなぞはしない、どころか、わしはお前が立派な娘だと知つて嬉しい。わしは氣のくじけてしまはぬ意志と勇氣と決斷の人が好きぢや。さういふ性質を男の中に見つけるのは嬉しいが、お前のやうな年輩の子供の中に見るのは、なほ嬉しい。するとお前は、ふところに百七スウ持つて出かけたんぢやな・・・  ――それからナイフ、石※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]、指拔き、針を二本、絲、道路圖を一枚、これだけでした。  ――道路圖の見方を知つてゐるのか?  ――街道を馬車で行かうとすれば知る必要がございます。これが、私たちの馬車の家財道具から救つたものの全部でした。  彼は口を插んで、  ――左手に大きな樹があるだらう?  ――えゝ、ぐるりにベンチのあるのがございます。  ――そこへ行かう、腰掛の上がよい。  坐ると少女はその話をつづけた、が簡單に話さうといふ心遣ひはもうしなかつた、なぜなら氏が興味を持つてゐることを見て取つたから。  ――人に物を乞ふ氣はなかつたか? と、彼女の話が夕立に襲はれて森を出たところへ來ると尋ねた。  ――いいえ、少しも。  ――しかし働く仕事が見つからないと知つたとき、お前は何を當てにしたのぢや?  ――別に何も。力のつづくかぎり※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いたら助かるかも知れぬと思ひました。力が盡きたとき、私は諦めてしまひました、もうどうすることもできなかつたからです。一時間も早くたふれてゐたら私はだめだつたでせう。  少女はさうして、氣を失つてゐたとき自分の驢馬になめられて我に返り、屑屋の女に助けられた次第を物語り、次にこのラ・ルクリの下《もと》で過ごした時をすぐに見すててロザリーと出逢ふに到つた次第を物語つた。  ――話をしてをりますうちに、働きたい人は誰でもあなたの工場で仕事を與へてもらへることを知り、出てみようと決めたのでした。さうして管捲《くだまき》機のはうへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して頂きました。  ――また旅に出るやうなことになつたらどうする?  この質問が思ひがけなかつたので、口ごもつた。  ――しかし、もう旅に出るやうなことはないと思つてゐます、と少女はちよつと考へこんでから答へた。  ――ではお前の親戚は?  ――私は親戚の人を識らないのです、私をよくもてなしてくれるかどうか分りません、だつて私のお父樣に腹を立てた人達なのですもの。私は、誰も自分の保護を乞ふ人がないので親戚のもとに參りました、けれども家へ容れてくれますかどうか。ここで働き口が見つかりましたから、私としてはここにゐるのが一番いいやうに思ひます。もしも※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]き※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]されたら私はどうなることでせう? 飢ゑて死ぬことは確かにないと致しましても、新しくまた色んな目にあふのが大へん怖いのです。運の向いてゐないかぎり、さういふ危い目に身をさらしたくはございません。  ――その親戚といふのは、未だ一遍もお前の面倒を見てくれたことはないのか?  ――えゝ、一遍も。  ――さうしてみるとお前の分別も淺くはないといへる、しかし締つたままで内へ入れてくれない門などを叩きに行くやうな冒險はしたくないとしても、その親戚なり、または村の牧師なり、村長さんなりに手紙を書いてみたらどうぢや? そりやあお前を引き取ることができないかも知れぬ、さうしたらその時は確實に暮してゆける此處にゐるがよい。しかしまた喜んでお前を引き取つてくれるかも知れぬ、さうしたらお前は親戚で、もし此處にゐれば受けられない愛情や、世話や、援助を得ることになる。この世で一人ぼつちのお前位の年輩の娘にとつては暮しといふものは難しいし、・・・また寂しいといふことを知らなければならぬ。  ――えゝ、ほんとに寂しいものでございます、知つてをります、※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]日さう感じてゐるのです、もし迎へてくれたらきつと喜んでそこへ飛びこむでせうが、しかしもし、お父樣が拒まれたやうに私もまた拒まれたら・・・  ――一たいお前の親戚は、お前の父親から手ひどい損害でも受けたのかな、つまり大きな過失から生ずる法律上の損害でも?  ――私はお父樣が誰に向つても大へん優しく、お母樣にも私にも大へん深切で、寛大で、あたたかく、情け深い人だつたと覺えてをりますから、そのお父樣が何か惡い事をなすつたと考へたくはありません、でも結局、大きな理由なしにお父樣の御兩親がお怒りになつたとは思へません。  ――もちろんぢや、しかしお父樣に對しては苦情を持つても、お前に對しては持ちはしまい。父の過ちが子にもふりかかることはない。  ――さうだつたらいいのですけれど!  少女はこの言葉をひどく興奮した口調でいつたので、ヴュルフラン氏はびつくりした。  ――お前、心の奧では、引き取つて貰へたらと願つてをるのぢやな。  ――でも※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]き※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]されたらとそれだけが心配です。  ――どうしてそんな事があらう? お※[#「示+且」、第3水準1-89-25]父さんたちは、お前のお父さんのほかにも子供を持つてゐたのか?  ――いいえ。  ――お前が失つた息子の代りになることを、どうしてお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]父さんたちの喜ばないわけがあらう? この世でたつた一人だといふことがどんなことか、お前には分らぬのぢや。  ――分り過ぎてをりますわ。  ――一人ぼつちでも若い人には將來といふものがある。死ぬよりほかない老人と同じ境遇にゐるのではない。  氏は少女を見ることができなかつたが、少女のはうは目を離さずに、氏の言葉の洩らす感情を氏のうちに讀み取らうと努めてゐた、が、老境のことをさう氏が仄めかしていつた後は、氏の胸の奧にひそむ思ひをその表情の上に探ることを、彼女は怠つてしまつた。  ――どうぢや、と氏はちよつと待つてから言つた、どうお前決心する?  ――私がためらつてゐるのだとお考へにならないで下さい。お返事ができないのは胸が一ぱいだからなのです。あゝ! 見知らぬ女として※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]き※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]されるのでなく、娘として引き入れられるのだと思へたら、どんなにいいでせう!  ――可哀さうに、お前は人生といふものを知らぬ。が老境といふものは子供時代と同じやうに一人ぼつちではをられぬものぢや。  ――お年寄りのお方はみんなさう考へていらつしやいますの?  ――さう考へてゐないにしても、さう感じてをるものぢや。  ――あなたも同じお考へですか? 少女は、ふるへながら目をそそいで言つた。  直接少女に答へず、獨り言をいふやうに低い聲で話しながら、  ――さうぢや、年寄りといふものはさう感じてをる。  それから、苦しい思ひから逃れるやうに急に立ち上つて、命令口調でいつた。  ――事務所へ。 [#2字下げ]二十六[#「二十六」は小見出し]  技師のファブリさんはいつ歸つて來るのだらう?  これはペリーヌが心配して自分に尋ねる事柄であつた、なぜならその日、英人職工のそばでの彼女の通譯の役目は終るのだから。  ヴュルフラン氏のためのダンディー新聞飜譯の役目は、ベンディット氏の癒るまで續くのだらうか? これが更に心配な次の疑問であつた。  木曜日、彼女が職工たちと一獅ノ朝來てみると、ファブリは仕事場にゐて、できた仕事をしきりに檢査してゐた。彼女は、愼み深く、しかるべき距離を保ち、交はされる※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明には立入らないやう注意してゐた、がそれにも關らず組立職工の頭《かしら》は彼女を仲にはひらせた。  ――あの娘がゐないと、わしらは、腕組みしてるよりほかありません。  するとファブリは彼女を見た、が何もいはなかつた。彼女のはうも、自分はどうしたらいいのか、つまりサン‐ピポアにゐたらいいのか、マロクールに歸つたらいいのかを、ファブリに尋ねようとしなかつた。  自分を呼んだのはヴュルフラン氏だから、自分を置いておくのも返すのもヴュルフラン氏だと思ひ、少女は氣がかりのままでゐた。  氏はやつといつもの時刻に監督につれられて來た。監督は、技師の與へたヘ示やその述べた意見を氏に※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明した。しかし氏は、それらに十分滿足しなかつた。  ――あの娘のゐないのが殘念ぢや、と不滿足さうにいつた。  ――をりますよ、と監督はいつてペリーヌにそばへ來るやうに手振りをした。  ――何故マロクールへ歸らなかつたのぢや? とヴュルフラン氏はいつた。  ――あなたのお命じにならないうちは、ここを立つてはならないと思ひまして。  ――それは尤もぢや。お前はここにゐるがよい、わしが來たら指圖をするから・・・  氏は默つた、が間もなく續けて、  ――それにマロクールでも要ることにならうから。今夕そちらへ歸るやうに。さうして翌朝、事務所に來るがよい。來たらお前のする事をいふから。  氏は、職工たちにいひたい事を少女に通譯させると、出かけた、さうしてその日は新聞を讀むことはなかつた。  しかしそんなことは何でもない。彼女は、明日が保證されてゐるやうに思はれる時に、今日の當てはづれなぞを氣遣ひはしなかつた。  ――マロクールでも要ることにならうから。  少女は、サン‐ピポアへギヨームと竝んでやつて來たその道を歸りながら、この言葉を繰返した。何に使はれるのかしら? 心は飛び立つた、しかし何もしつかりしたものに取りすがることはできなかつた。ただ、管捲《くだまき》機に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]らないことだけは確かだ。ほかの事は待つてみなければ分らない、しかしもう、苦痛の熱病のうちで待つことは要らない、なぜなら、お母さんが死ぬ前につけてくれた道をゆつくり、愼み深く、あわてず、危險をよけて利口に※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゆきさへすれば、自分のつかんだ事柄からみて、どんな事にも希望を抱き得たからである。今や自分は自分の思ひどほりになる生活を手中に收めた。言葉を口に出すときには、決心をするときには、一※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]前へのり出してみるときにはいつも、自分はさう考へればいいのだ、誰にも智慧を借ることができなくても。  少女はさう考へながらマロクールへ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るのだつた。少女はゆつくり※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いた、が垣根の花を摘みたいと思ふときや、※[#「塀」の「并」に代えて「餠のつくり」、第3水準1-15-58]越しに野原や池の上に美しい景色が見通されるときは立ち停まつた。胸のざわめき、一種の熱望のやうなものが少女を驅つて足を急がせたが、わざと※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]をゆるめた。急いで何の役に立たう? それは本能の衝動に決して負けないやう彼女の守らなければならない習慣であつた、彼女の從はなければならない規則であつた。  島の樣子は出かけた時のままで、どれも皆もとの場所にあつた。小鳥は柳の木にあるすぐり[#「すぐり」に傍点]の實を見逃してくれてさへゐて、これは留守中に熟してゐたので全く思ひがけない夕餉の御馳走となつた。  少女は、工場の退《ひ》ける時刻よりも早く歸りついたので、夕飯がすんでもすぐ寢ようとせず、日の暮れるのを待ちながら、隱れ小屋の外に出て、池や岸邊を自由に見まはせる場所に坐つて夕方を過ごした。そのとき少女は、わづかばかりの留守をしたにもかかはらず、その間に時は進んで、悲しまなければならない變化がやつて來てゐることに氣づいた。野を支配してゐたものはもう、この島に住み始めたころ少女をひどく感激させたあの夕べの荘嚴な靜けさではなかつた、その頃この低地一帶で、水の上や、丈高い草の中や、木々の葉蔭で聞えるものとてはただ、※[#「巛/果」、第3水準1-84-8]に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]る小鳥どもの物にふれる~祕な音だけであつた。今この低地では鎌の動く音や、車軸のきしり[#「きしり」に傍点]、鞭をふる音、呟く人聲、あらゆる種類のひびきで、遠くのはうがざわついてゐた。それは、サン‐ピポア村から歸りながら少女の氣づいてゐたやうに、果して、草のよく伸びる日當りのいい野原で草刈りが始まつてゐたのである。彼女のゐる池のあたりの野原は木蔭が深いから後※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しになつてゐるが、やがてそこへも草刈人たちはやつて來るだらう。  さうすればもう住めなくなつて、彼女は當然、この棲み家を離れなければなるまい。しかしこの草刈りのためであつても狩獵のためであつても、幾日かの違ひがあるだけで結果は同じことにならなければならないのだ。  少女は、もう上等の敷布や、窓や、締つた扉などの習慣がついてゐたが、どこにも行かずにずつとそこにゐたかのやうに齒朶《しだ》の寢床の上に眠つた、さうして朝日に起されてやつと目がさめた。  柵門のひらく時刻に少女は建物の入口の前にゐたが、仲間に跟《つ》いて管捲《くだまき》機のはうへ行かないで、事務所に向つて行きながら、どうしたらよからうかと考へた、はひらうか? 待つてゐようか?  後《あと》のやうにしようと決めて足をとめた。入口の前にゐるのだから呼びに來たら見つかるだらう。  一時間近く待つた、たうとうタルエルが來て、何をしてゐるのだと嚴しくきいた。  ――ヴュルフラン樣が今朝事務所へ來るやう仰しやいましたので。  ――庭は事務所ではない。  ――呼ばれるのを待つてゐるのです。  ――上へ來い。  少女は彼に從つた。ヴェランダの下に行くと、彼は椅子に跨つて腰をかけ、手ぶりでペリーヌを前へ呼んで、  ――お前、サン‐ピポア村で何をした?  彼女はヴュルフラン氏が自分をどんな事に使つたかを話した。  ――するとファブリ君がへま[#「へま」に傍点]な命令をしたのだな。  ――知りません。  ――どうして知らぬ、お前は物が分らないのか?  ――さうかも知れません。  ――お前は十分物が分る、返事をしないのは、したくないからだ、誰に話をしてゐるのかを忘れるな、わしはここの何だと思ふ?  ――監督です。  ――つまり頭《かしら》だ。頭《かしら》として萬事はわしの手を通るのだから、わしは萬事を知る必要があるのだ。わしのいふことを聞かぬ※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は、はふり出してしまふぞ、忘れるな。  この男は、まさしく女工たちに共同部屋で噂をされた男であつた。嚴しい支配※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]であり、マロクールのみならず、サン‐ピポア村、バクール村、フレクセール村、すべての場所で、工場を意のままにしようと思ひ、ヴュルフラン氏の權威と竝んで、否むしろこれに立ち勝《まさ》つて、自分の權力をひろげ維持してゆくためにはどんな手段でも正しいとする暴君であつた。  ――おまえに尋ねるがファブリ君はどんなへま[#「へま」に傍点]をやつたのだ? と聲を低めてまたいつた。  ――存じませんから申し上げることはできません、しかしヴュルフラン樣が組立職工たちに向つて私に通譯をおさせになつたお小言をあなたに申しあげることはできます。  少女は一語も省かずにその小言を傳へた。  ――それだけか?  ――それだけです。  ――ヴュルフラン氏は、手紙をお前に譯させたか?  ――いいえ、私はただダンディー新聞の文句と、「ダンディー貿易通報協會」全部とを譯しただけです。  ――本當の事を、何でも本當の事をいはぬと、わしには直ぐそれが知れる、知れたが最後、はふり出すぞ!  ひとつの身振りがおしまひの言葉に力をつけた、それは早くも、この男の野蠻なことを極めて的確に示してゐた。  ――どうして本當の事をいはないことがありませう?  ――前以つてヘへてやるんだ。  ――忘れないやうに致しますわ、きつと。  ――よし、向ふの腰掛に坐つてをれ、ヴュルフラン氏は、お前が入用になつたら、ここへ來るやうにいひつけたことを思ひ出されるだらう。  少女は二時間近くその腰掛にゐた。タルエルのゐるあひだは、動くこともできず考へることさへもできなかつた。さうして彼が外へ出て始めて、もとの自分に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つた、が安心するどころか氣懸りだつた、なぜなら、この恐ろしい男を少しも恐れることはないと信ずるためには、大膽な勇氣が要つた、さうしてこの性質は彼女にはなかつたからである。彼が彼女に要求したところのものは分り過ぎるほど分つてゐた。ヴュルフラン氏の身近かでわしのスパイになつて、お前の飜譯させられる手紙の内容をわしに知らせろといふのだ。  それは彼女をおびやかすに足るひとつの豫想であつたが、お蔭で、次のやうなことを考へることができた、自分がやがて手紙を飜譯させられることをタルエルは知つてゐる、少くともさう推測してゐる、つまりヴュルフラン氏は、ベンディットが病氣でゐるあひだは、自分をそばに置いておかれるらしい。  馭※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の仕事をしない時はヴュルフラン氏の私用に從事するギヨームが、五度だか六度だか、やつて來るのを見て、少女は自分を呼びに來たなと思つたが、その度※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]に、ギヨームは言葉をかけないで前を通り過ぎるのだつた、庭に出るときも※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るときも、せはしさうに急いでゐた。  そのうちに彼は三人の職工をつれ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて來て、ヴュルフラン氏の事務所へ案内した。これに續いてタルエルもそこへはひつた。かなり長い時間が流れ、をりをり人聲が湧き起つた、それは玄關の扉があくと少女にまで聞えてくるのであつた。明らかにヴュルフラン氏は、ほかに仕事があつて彼女には構つてをられないのだ、そこにゐることさへ忘れてゐるのだ。  つひに職工たちはタルエルを伴つて現はれた。始め通り過ぎたときは職工らは、心を決めて前進するしつかりした足取りだつた、が今は不滿な、困つた、ためらひがちな樣子をしてゐる。出がけにタルエルは手ぶりで彼らを引きとめて、  ――工場主は、わしのいつたことと違つたことをお前たちにいつたかね? いはなかつたらう。但し、わしよりもいひ方はずつと嚴しかつた、さうしてそれは尤もなんだ。  ――尤もだなんて! あゝ! ひでえ目に逢ふもんだ!  ――あんたなら、あんなにはいふめえ。  ――いふとも、あれが本當なのだから。わしはいつも眞理と正義の味方だ。わしは、工場主とお前達との間にゐるんで、工場主の側《がは》にもつかぬしお前たちの側にもつかぬ、わしは、眞中にゐるわしにつく。お前たちが正しいならわしはさう認めるし、お前たちが間違つてゐるならわしはさういふ。今日はお前たちが間違つてゐる。お前たちの要求は取るに足らん。お前たちは譯分らずにおだてられてゐるんだ。工場主は自分たちを喰ひものにするとお前たちはいふが、お前たちを使ふ連中は、一そうお前たちを喰ひものにするんだ、工場主は少くともお前たちを生活させてくれる、ところがその連中はお前たちを、お前たちの妻子を、死ぬほど飢じい目に逢はすぞ。が今はもうお前たちの好きなやうになる、わしの事といふよりはむしろお前たちの事だ。わしは新しい機械をすゑるから苦勞はせぬ、その機械は、一週間經つうちに動いて、お前たちのする事をお前たちよりも立派にやつてくれる、ずつと速くずつと經濟的にな。その上、機械と押問答して時間をつぶすことも要らぬ――有難いことぢや、な? お前たちが暮しに困り、兜をぬいで※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて來る時分には代りの※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が出來てゐてお前たちはもう要らぬ。新しい機械にかけた費用は瞬く間に取り※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]す。もう話はたくさんだ。  ――しかし・・・  ――得心がゆかぬといふんなら、それは頭が惡いんだ。もうお前たちに耳をかしてゐる暇はない。  さう※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]き放されて、三人の職工は頸垂《うなだ》れて行つてしまつた。ペリーヌはなほ待つてゐた、するとたうとうギヨームが連れに來て、彼女を廣い事務室に案内した。ヴュルフラン氏は大きな机についてゐた、その机には見えなくても手でふれて分るやう浮彫の文字のついた文鎭に書類の束の凭たせかけたのが一ぱいあり、その端には電氣裝置や電話機があつた。  ギヨームは彼女をつれて來たことを告げないで扉を締めて行つた。少女はちよつと待つたが、自分のゐることをヴュルフラン氏に告げるべきだと思ひ、  ――私でございます、オーレリーで。  ――足音で分つてゐた。ここへ來て話を聞きなさい。わしは、お前の話した色んな不幸やお前の見せた勇氣といふものから、お前の身の上を面白いと思うたし、一方ではお前の組立職工らとの通譯の役目や、お前にさせた飜譯や、最後にわしとの對話から、お前の利口なことを知つて嬉しかつた。わしは病氣で盲目になつてからといふもの、誰かわしの代りに見てくれ、わしの指すものを眺めてくれ、※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]しいものを※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明してくれるさういふ人がほしいのぢや。わしはギヨームがそれをやつてくれればと思うてゐた、あの男も賢い、が殘念なことに酒でひどく馬鹿になつてしまうてもう馭※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]しかやれぬのぢや。しかもそれも、大目に見てやるといふ條件をつけての話ぢや。お前、わしのそばでギヨームの果《はた》せなんだ役目をやつてみぬか? 始めのうち月に九十フランやらう、それから、わしはたぶんお前に滿足すると思ふが、さうしたら賞與もやる。  ペリーヌは嬉しさに胸が一ぱいになつて答へずにゐた。  ――何もいはないのかな?  ――私はお禮のお言葉を搜してをります、けれども胸がわくわくして落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]きませんので、言葉が見つからないのでございます、決してあの・・・  氏は口を插んで、  ――いや、お前は實際感動してゐるやうぢや、その聲で分る、わしは嬉しい、それは、お前がわしを滿足させるためにできるだけのことをするといふ約束といふものぢや。さて話が變るが、お前、親戚に手紙を出したことがあるかな?  ――いいえ、私にはそれができませんでした、紙がございませんし・・・  ――よしよし、今にできるやうになる。ベンディット君の囘復するまでお前はその事務室を使ふことになるから、必要な物は何でもそこにある。手紙を書くとき、お前は自分がわしの家でどんな地位にゐるかを親戚に言つてやるがよい。もし親戚が、お前をここへ出すのがよいと思うたら、寄越すだらうし、さうでなかつたら、お前をここに放つておくだらう。  ――きつと私はここにゐることになるでせう。  ――わしはさう思ふ、それは今のお前にとつて何よりよい事ぢや。これからお前は、事務所で暮すことになり、わしの命令を傳へに行く雇員たちとも交はるし、またわしと一獅ノ外出もするのだから、いつまでもその女工服を※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]てゐるわけにはゆかぬ、ブノアの言ふところによると破れてゐるやうぢやが・・・  ――ぼろでございます、でも、これは決して怠けや不注意のためではございません。  ――言譯をせんでもよい。が結局それは變へなければならぬのだから會計課へ行つて傳票を貰ひなさい、それを持つてラシェーズ夫人の店へ行けば下※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]や、帽子や、靴や、服裝に必要なものが買へる。  ペリーヌは重々しい顏をした盲目の老人ではなくて、魔法の杖をかざした美しい妖女でも物をいつてゐるやうに耳を傾けてゐた。  ヴュルフラン氏は、少女を現實の世界へと呼び※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]して、  ――自由にお前の好きなものを選んでよい、が、その選び方でわしはお前の性格を決めるから、そのことを忘れぬやうに。よく心がけてやるのぢや。今日のところは用事はない。ではまた明日。 [#2字下げ]二十七[#「二十七」は小見出し]  會計課で頭から足の先きまで見られた後、ヴュルフラン氏のいつた傳票を貰ふと、そのラシェーズ夫人といふのは何處に住んでゐるのかしらと思ひながら工場を出た。  それがあのキャラコを買つた店の女主人だといいなと思つた、だつて※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]に顏見知りなら、自分の買ひ物を相談するのに氣兼ねがいらなくていいからである。  油斷のならぬ問題だつた、それにヴュルフラン氏の最後の言葉があるからいよいよ重大だ、「その選び方でわしはお前の性格を決めるから」。この忠告は、贅澤な布地なぞに飛び付かないやうにといふためなら確かに不必要だつた、しかし彼女の理に適ふものがヴュルフラン氏の理にも適ふだらうか? 幼い時彼女はきれいな衣裳を知つてゐた、さうしてそれを※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]て、得意になつて威張つて※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いたものだ。今時そんな衣裳は明らかに似合はない、しかしできるだけ質素なものを見立てたらそれで、彼女にはずつと良く似合ふことになるだらうか?  彼女がもしも、自分の見すぼらしさにあんなにも惱んでゐた昨日衣裳や下※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]を拵へてやらうといはれたのなら、この思ひもかけぬ※[#「貝+曾」、第3水準1-92-29]物が自分を喜びで一ぱいにしないなどとは夢にも思はなかつたであらう、が當惑と心配とは、ほかのどんな感情よりもずつと※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]かつたのである。  ヘ會の廣場にラシェーズ夫人は店を開いてゐた。異論なくマロクールで一番立派な一番しやれた店だ。布地、リボン、麻布類、帽子、寶石、香水、さういふものが陳列され、土地のおしやれな女たちの慾望を目醒ませそそり立て、ちやうど父や夫たちがその儲けた金を居酒屋で使ふやうに、彼女たちの收入はそこで使はれた。  この陳列でいよいよペリーヌはおぢけづいた、さうして、ぼろの女がはひつて來たつて、店の女主人も、勘定臺の向ふで働いてゐる女たちも愛嬌を撒かうとはしないから、誰に話しかけたものかと、ちよつと店の眞中でためらつてゐた。つひに決心して手に持つてゐた封筒を差上げた。  ――何ですえ? ラシェーズ夫人は尋ねた。  少女は封筒を差出した、その隅には赤字で「マロクール工場、ヴュルフラン・パンダヴォアヌ」と印刷してあつた。  女主人の顏はその傳票を皆まで讀みをへないうちから、この上なく※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]く人をひく微笑で輝いた。  ――御用は何でございませう、お孃樣? と、勘定臺を離れて椅子をすすめながらきいた。  ペリーヌは、服と下※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]と靴と帽子がほしいと答へた。  ――いづれも極く上等の品が揃つてをります、先づお召物からごらんに入れませうか? さういたしませうね。布地をお目にかけませう、ごらん下さいまし。  しかし少女の見たかつたのは布地ではなかつた、すつかり出來上つてゐて、すぐに、少くとも今夕には※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]られ、翌日はヴュルフラン氏と一獅ノ出かけられるやうな、さういふ※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物であつた。  ――まあ! ヴュルフラン樣とお出かけになるんでございますの、と女主人は、この變つた註文にひどく好奇心を持つて急いでいつた。マロクールの全能の支配※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が一たいこの乞食娘とぐる[#「ぐる」に傍点]になつて何をしようといふのかしらと思つたのである。  ペリーヌはしかしこの疑問に答へずに※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明をつづけ、自分は喪にあるからKい服でなければならないことをのべた。  ――お葬式にいらつしやるんでございませうね、そのお召物は?  ――いいえ。  ――あのどういふ時にお召しになるのか、お孃さま、仰しやつて頂けましたら、それに適當な型なり布地なりお値段なり見計らつて差上げられますから。  ――型は一番簡單で、布地は丈夫で輕く、お値段は一番お安いのを。  ――さやうでございますか、はい、お目にかけませう。ヴィルジニーや、このお孃さんを見ておあげ。  口調も變つたし態度も變つた。ラシェーズ夫人は、さやうな意向を見せるお客を自分から世話することを輕蔑し、品位を保つて勘定臺のもとの場所へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つた。たぶん下男の娘か何かで、ヴュルフラン氏に喪服を買つてもらふのだらう、でも、どんな下男かしら?  しかしヴィルジニーは、飾り紐とK玉のついたカシミアの洋服を勘定臺へ持つてきたので、女主人は口を插んで、  ――それはとても高いんだよ、あの豆模樣のKい更紗のブルーズとスカートをお見せ、スカートは少し長いかも知れない、ブルーズも少し大きいかも知れないけれど、縫上げるか縫ひ襞を取るかすれば、立派に似合ふわ。それに、ほかの手のものはないし。  これはほかの衣裳を見ないですむ一つの理由になつた。その上ペリーヌは、丈や胴まはりはともかく、そのスカートとブルーズが大變すてきだと思つた、また、少し直せばとても良く似合ふと請[#底本では「請」は「言+睛のつくり」]合はれたのだからそのことを信ずべきであつた。  靴下とシュミーズとはずつと樂に選べた、なぜなら値段の安いのがほしかつたからである。しかし少女が、靴下二足とシュミーズ二枚しか要らないといふと、ヴィルジニー孃は女主人と同樣に輕蔑の色を見せた、さうしてお情けをもつて、靴とKい麥わら帽子を出して見せ、このつまらない女の子の服裝をととのへてやるのだつた。靴下を二枚ツきり! シュミーズをたつた二枚! かうした惡口を考へてゐた。ペリーヌは、長いことほしかつたハンカチを註文したが、この新しい買物も三枚に限られたので、女主人の氣持も賣り子の氣持も變りはしなかつた。  ――この子のちよつぴりなこと。  ――ではお屆けいたしませうか? ラシェーズ夫人が聞いた。  ――有難う、私が今夜頂きにあがりますわ。  ――では八時から九時までのあひだに。  ペリーヌが※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物を屆けて貰ひたくないのには十分理由があつた、どこで今夜泊るか分らなかつたからだ。自分の島、これを考へるわけにはゆかなかつた。無一物の人なら※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]も錠前もなしですむ、しかし財産には要心が入用だ、――だつてあの店の主人は輕蔑したけれど、彼女の今買つた品物は彼女にとつては財産であつた。だから今夜は宿を取らなければならなかつた、さうして彼女はごく自然にロザリーのお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんの家に泊らうと考へ、ラシェーズ夫人の店を出るとフランソアズお婆さんの家へ向つた、そこに自分の望むもの、つまり値段の張らない私室か小部屋があるかどうか見るためであつた。  垣根までゆくと、ロザリーが輕やかな足取りで出て來るのを見た。  ――お出かけ!  ――あなたは、あなたはお暇なの!  彼女たちは急がしく幾つかの言葉で自分を※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明しあつた。  ロザリーは急ぎの用事でピキニへ行くところだつたので、思つたやうに直ぐ※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんの家へ引返して、うまく貸部屋の話をつけるといふことができなかつた、しかしペリーヌは一日中仕事がないのだから、ピキニへお伴することができるわけだ。歸りがけも一獅セ。嬉しい遊びになる。  往きは速かつた、さうしてこの嬉しい遊びは一たび用事がすむと、歸りがけはお喋りをしたり、ぶらぶら※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いたり、野原を駈けたり、日蔭で休んだりして、大そう面白かつたので、二人は夕方やつとマロクールに入り、※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんの家の垣根を過ぎて始めてロザリーは時刻に氣づいた。  ――ゼノビ叔母さんは何ていふでせう?  ――さうねえ!  ――ほんとに困つた、でも私、面白かつたわ。あなたは?  ――だつて一日話し相手のあるあなたが面白かつたのなら、ひとりぼつちの私にとつてこの遊びがどんなだつたか分るぢやないの。  ――そりやまあさうね。  幸ひ、ゼノビ叔母さんは下宿人たちのお給仕に急がしかつたので、フランソアズお婆さんと相談した、そのお蔭で話は速くまとまり、餘りひどい條件にはならずにすんだ、すなはち一日二食で一箇月五十フラン、部屋代二フラン、この部屋には、窓が一つと化粧臺が一つ、それから小さな鏡の飾りが附いてゐる。  八時にペリーヌは、共同部屋でナプキンを膝に置いて一人自分の食卓についた。八時半に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物を取りに行つた。それは用意してあつた。九時に自分の部屋の扉に鍵をおろした、さうして多少心配もあつたが醉ふやうな氣持にもなり、頭はふらついたが、實際は希望に滿ちて、床に就いた。  さあ見ていただかう。  翌朝ヴュルフラン氏が、廊下にある電氣標識中の符牒の押し方でベルを鳴らして課長らを招きこれに指圖を與へた後、少女を呼びよせたとき、少女は氏の嚴しい顏を見たので、どうしようかと思つた、だつて少女は、部屋へはひる時自分に向けられた氏の眼は眼差しを持たなかつたとはいへ、長いこと觀察してきて識つてゐるあの顏の表情を見そこなふはずはなかつたからである。  この顏の示したのは確かに深切ではない、むしろ不滿と怒りだ。  一たいどんな惡いことをしたからといつて叱られるのだらう?  さう自分に尋ねてみた時、答は一つしか見つからなかつた、きつとラシェーズ夫人の店での買物が過ぎたのだ。その買物で氏は私の性質を判斷したのだ。でもあんなに一所懸命につつましく控へ目にやつたのに。それなら何を買へばいいのだ、むしろ何も買はずにゐたはうがよかつたのかしら?  しかし少女は考へるひまがなかつた、嚴しく言葉をかけられたのである。  ――なぜお前は本當のことをいはなかつた?  ――何の事で私は本當のことを申しあげなかつたでせうか? とおびえて尋ねた。  ――ここへ來てからのお前の行動のことぢや。  ――でも確かに私、誓つて本當のことを申しあげました。  ――お前はフランソアズの宿に泊つてゐるといつた。そこを出て何處へ行つたのだ? 前以つていふが、フランソアズの娘ゼノビが昨日、誰かお前のことを知りたい人があつてその人に訊《き》かれて話をしたところによると、お前はお婆さんの家では一と晩しか過ごさずに、どこかへ行つてしまひ、その後お前がどうしたか誰も知らないさうぢや。  この訊問を始め心配して聞いた、がそれの進むにつれて、氣はしつかりしていつた。  ――私がフランソアズお婆さんの部屋を出てから何をしたかを、知つてゐる人がございます。  ――誰ぢや?  ――お婆さんの孫娘ロザリーさんです。もしあなたが、その日以來私のして參りました事柄を知る値打のある事柄だとお考へになりますなら、これからお話し申しあげます、さうしてロザリーさんはその話を證明して下さるでせう。  ――わしはお前をそばに置くのだからして、お前のことを知つておく必要がある。  ――それでは申しあげます。どうぞお聞きになりましたら、ロザリーさんをお呼びになりまして私のゐない處でお尋ねになつて下さいまし、さうすれば私が※[#「口+墟のつくり」、第3水準1-84-7]を吐かなかつたことがお分りになりませう。  ――いや實際にさうしてみるかも知れぬ、と氏はおだやかにいつた。では話してみい。  少女は、あの共同部屋の夜のいやだつたこと、不愉快だつたこと、きゆうくつで嘔《は》きさうで、息苦しかつたことに力をこめながら話をした。  ――ほかの連中のやつてゐる事をお前は我慢ができなかつたのか?  ――ほかの人たちはたぶん私のやうに※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]外で暮したことはないのでせう、なぜなら斷言いたしますが、私は別にどんな事にも不平を申しませんし何事も辛抱しなければならないといふことを貧乏からヘへられてをります。私は死にさうでした。死を※[#「月+兌」、U+812B、34-9]れようと計ることが、卑怯なことだとは思ひません。  ――フランソアズの共同部屋はそんなに不健康なところかの?  ――えゝ! もしあなたが御覽になりましたら、とても女工たちをあそこにお住まはせにはならないでせう。  ――うむ、話をつづけてみよ。  少女の話は、島を見つけたこと、隱れ小屋に引越したいと思つたことに移つた。  ――怖くはなかつたか?  ――慣れてをりますので怖いことはございません。  ――その池は、サン‐ピポア街道の一番しまひに在つて左手だといふのだな?  ――さうでございます。  ――それはわしの小屋で、甥共の使つてゐるものぢや。するとお前はそこで泊つたのぢやな。  ――泊りも致しましたし、また働きも食べも致しました、ロザリーさんに御飯を差上げさへも致しました、ロザリーさんがお話しになることでせう。私が小屋を出ましたのは、組立職工のそばについて用をするやうに仰せを受け、サン‐ピポア村へ參りました時始めてでした。今夜も小屋には泊りません、もう私一人だけの部屋代を拂ふことができますので、フランソアズお婆さんのところに泊りますから。  ――お前は、友達に御飯を出せるほどにお金持なのだね。  ――まあ申し上げてみれば、さうなのでございます。  ――何でもいはなければいけない。  ――娘の話などにあなたのお時間を費して構はないでございませうか?  ――時間は、わしがそれを思ふやうに使へなくなつてからといふもの、そんなに短いものではなくなつた。長い、とても長い・・・さうして空※[#「墟のつくり」、第3水準1-91-46]だ。  ヴュルフラン氏の顏を、一つの暗い影の通りすぎるのが見えた、それは、多くの人々の羨んでゐる、實に幸bネものに人々の思つてゐる生活にも數々の悲哀のあることを示してゐた。さうして氏が「空※[#「墟のつくり」、第3水準1-91-46]だ」といつたその調子に、少女の胸はぐつと詰つた。彼女だつて父母を亡くしてからは一人ぼつちになり、長い空※[#「墟のつくり」、第3水準1-91-46]な日々といふものがどんなものか覺えがあつた、さうした長い空※[#「墟のつくり」、第3水準1-91-46]な日々を滿たすものとては、ただ現在の心配と疲勞と貧乏であるにほかならず、誰もこれらのものを自分と共に苦しんでくれず、誰も自分を助けてくれず、陽氣にもしてくれないことを知つてゐた。ヴュルフラン氏のはうは勞苦も、貧困も、慘めさも知らなかつた。しかしさうしたものだけがこの世の苦痛ではない。これとは別の苦しみ、別の惱みもあるのだ! ヴュルフラン氏の言葉、その口調、またそのうなだれた頭、その脣、そのくぼんだ兩※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]、おそらくは辛い想ひ出のためにぼんやりした容貌は、ほかでもないその苦惱を現はしてゐた。  氣の紛れるやうにして差上げようか? それは氏をよく知らない彼女にとつて大膽なことに違ひない。しかし氏が自分から、彼女に話をさせ、暗い顏を明るくさせ、※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]笑ませるやうにョんでゐるのだからには、何の氣遣ひがあらう? 自分は氏を觀察することができる、だから自分が氏を樂しませるかそれとも退屈させるかはよく分るはずだ。  少女はすぐ、歌ふやうにはずんだ快活な聲で語り始めた、  ――私たちの御馳走よりももつと面白いことは、私が煮炊きをいたしますお臺所道具をどうして手に入れたかといふことや、お金を少しも遣はないで――とてもお金を出すことは私にはできませんから――どんなふうにして獻立の品物を取り揃へたかといふことでございます。その事を申しあげますわ、まず、始めからお話しいたしませう、さうすれば私が隱れ小屋に引越してからどんなふうにして其處で暮したかがお分りになるでせうから。  話しの間少女は、いつでも話を切り上げる用意をしながら、退屈なしるしが現はれるかどうかと目をヴュルフラン氏からそらさなかつた、現はれたら決して見逃すまい。  しかし見えたのは退屈さではなくて、好奇心と興味だつた。  ――そんな事をしたのか? 氏は幾度も口を插んだ。  さうして、少女が退屈させないやうにとかいつまんで話した事柄を、もつとはつきり聞かうとして、質問し、色々のことを問ひかけるのであつた、それによつて見ると氏は、少女の仕事だけでなく、特に少女が自分の持たない物の代用品を作るために用ひた方法を、正確に知りたいのであつた。  ――そんな事をしたのか!  話がすむと少女の髪の毛に手を置いて、  ――ううむ、お前は立派な娘ぢや、お前は役に立ちさうでわしも嬉しい。今はお前の事務室に行つて好きな事をしてゐよ。三時にわしらは出かけよう。 [#2字下げ]二十八[#「二十八」は小見出し]  彼女の事務室といふよりベンディット氏の事務室は、大きさからいつても備へつけの家具からいつても一向ヴュルフラン氏の部屋には似てゐなかつた。ヴュルフラン氏の部屋は、二つの窓、幾つかの机、厚紙挾み、※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]色の革の大きな肱掛椅子、壁には、樣々の工場の設計圖が金箔塗りの木製の額※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]に入れてかかげてあり、大へんどつしりと良く出來た部屋で、そこで決められる事柄の重要さをしのばせた。  ところがベンディット氏の事務室といふのはごく小さく、備へつけてあるものはただ一つの机、二つの椅子、Kずんだ木の書棚、及び樣々の色の旗が主要航路を示してゐる世界地圖。しかし十分※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]をひいた松の嵌《はめ》木の床《ゆか》、中央には、赤い模樣の囘轉窓掛を張つた窓があつて、この部屋はペリーヌには、それだけで陽氣に見えたが、その上、扉を開け放しておくと近所の部屋でやつてゐる事が見えもし時には聞えもするので、一そう陽氣に見えた。近くの部屋といふのは、ヴュルフラン氏の部屋の右と左、甥のテオドール氏と[#「テオドール氏と」は底本では「エドモン氏と」]カジミール氏との部屋、それから會計室、帳場、最後に向ひのファブリ氏の部屋だ、そこでは雇員らが傾斜した高い机に向ひ、立つて圖面を引いてゐた。  ペリーヌは、何をする事もなく、またベンディット氏の席に坐る勇氣もなく、その扉のに腰をかけた、さうしてこの部屋の唯一の藏書である幾册かの辭書を讀んだ。本當の事をいふと彼女はほかのものがほしかつたのだが、辭書で滿足しなければならなかつた、これは時間の經つのを遲く思はせた。  つひに鐘がお晝を知らせた。少女は一番早く外へ出た人々の一人だつた。しかし途中で、自分と同樣にフランソアズお婆さんの家へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るファブリとモンブルー氏が追ひついて來た。  ――あなたも我々の同僚になりましたなあ、とモンブルー氏がいつた。この男は、サン‐ピポアでの屈辱を忘れてはゐなかつた、さうして面目を失はせられたその仕返しをしようと思つてゐた。  少女はその言葉を皮肉に感じてちよつとあわてた、がすぐに落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いて、  ――とてもあなた方の同僚には、と穩かにいつた。ギヨームさんの同僚でございますわ。  この返事の調子は、きつと技師の氣に入つたのだらう、技師はペリーヌのはうに向いて微笑を見せた、それは同時に激勵であり承認であつた。  ――しかしあなたがベンディット君の代りをしてゐるのだからには、とモンブルーがいつた、この男はしつこいことにかけては、生ま半可のピカルディ人ではなかつた。  ――お孃さんがベンディット君の地位をあづかつてゐるのだからにはと言ひたまえ、とファブリ氏は注意した。  ――同じことぢやあないか。  ――大違ひだ、なぜといふに、もう十日か半月もするうちにベンディット君が囘復したらベンディット君はその地位に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]ることになるだらうが、もしその時お孃さんがその地位を取つて置いてくれなかつたとしたら、※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]れないかも知れないからな。  ――君は君、僕は僕として、二人共、その地位をあの男のために取つて置いてやることに力を盡したやうに思ふね。  ――お孃さんはお孃さんとしてまたさうなんだ。つまり英國人といふものがこれまで自分自身のため以外に一遍でもお禮のお燈明をあげたとするなら、ベンディット君は我々三人のためにそれをあげる義務があるといふわけさ。  ペリーヌがモンブルーの言葉の本當の意味を履《は》き違へてゐたとしたら、フランソアズお婆さんの宿での取扱はれ方で、それに氣づいた、なぜなら彼女の食器は、もしも同僚であるならば下宿人たちの食卓の上に置いてあるはずなのに、さうではなくて、その食堂に在りはしたが隅つこのはうに片づけられてゐるやうな小さな食卓の上に置いてあり、彼女は其處で、料理のお皿も一番後にしか持つて來られずに、みんなの後※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しになつてお給仕されたからである。  しかしそんな事は少しも氣に障らなかつた。お給仕が最初だらうと最後だらうと、また途中でおいしい部分が人に取られてしまはうと、何程の事があらう? 少女の面白かつたことは、彼らの近くに坐つてその會話を聞き、彼らの語る事柄によつて、自分のこれから冒して進まうとしてゐる樣々の面倒の中に自分の行動の道をつけようと努めることだつた。彼らは工場の習慣を知つてゐた。彼らはヴュルフラン氏も、その甥も、彼女の恐れてゐるタルエルをも識つてゐた。彼らの一言が、少女の知らない事をはつきりさせ、少女の氣づきさへもしてゐなかつた危險をヘへてくれそれをよけさせてくれるかも知れない。彼らを探るのではない。そつと立ち聞きするのでもない。彼らは、自分たちだけで話をしてゐると思つてゐはしないのだ、從つて何の懸念もなく彼らの意見を利用することができた。  殘念ながらその晝、彼らは何も興味ある事を話さなかつた。彼らの會話は、晝食中ずつと、政治とか狩獵とか鐵道事故とかいふ取るに足らぬ話題をめぐつたので、少女は、聞き耳を立ててゐないやうに見せるために無關心な風をするといふ必要がなかつた。  おまけにその晝はどうも急がしかつた、だつて自分が一度しかフランソアズお婆さんの宿に泊らなかつたことを、どういふふうにしてヴュルフラン氏が知つたのか、ロザリーを問ひただして、どうしても知りたかつたからである。  ――あの※[#「やまいだれ+溲のつくり」、第3水準1-94-93]せつぽちが、私たちのピキニへ行つた留守中に來て、私たちのことをゼノビ叔母さんに聞いたの。ゼノビ叔母さんに話をさせるのは難しいことではないのよ、殊に、默つてゐたつてお禮は貰へないと叔母さんが見込みをつけてゐる時は。そこで叔母さんが喋つたの、あなたがここに一晩しか寢なかつたことや、そのほか色んなことを。  ――どんな色んなこと?  ――私はそこにゐなかつたから知らないけれど、でも一番惡いことと思つてゐていいわ。幸ひあなたのためには、惡くならなかつたけれど。  ――それどころか良くなつたわ、なぜつて私、私の話でヴュルフラン樣を喜ばせたのよ。  ――ゼノビ叔母さんにそのことを話すわ、さぞ、ふくれることでせう!  ――でも私に叔母さんを嗾《けしか》けるやうなことのないやうにして頂戴。  ――叔母さんを嗾《けしか》けるなんて! もう危險なことなんかないのよ。ヴュルフラン樣のあなたに下すつた地位を叔母さんが知つたら、上べだけのいいお友達なんぞはゐなくなりますわ。明日分ることですわ、ただ、もしあの※[#「やまいだれ+溲のつくり」、第3水準1-94-93]せつぽちに自分の事を知られたくないなら、あなたは自分の事を叔母さんに仰しやつてはいけません。  ――大丈夫よ。  ――叔母さんは意地惡だから。  ――心得てゐますわ。  ヴュルフラン氏は豫告どほり三時にペリーヌをベルで呼び、二人は馬車で、いつもの工場巡囘に出かけた。氏は一日とても缺かすことなく方々の建物を何から何まで見るためにとはいはなくとも少くとも自分を見せるために、見て※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、監督たちの意見を聞いた後これに命令を與へるのであつた。さうしてそこで、見えない眼を補ふあらゆる方法によつて、まるで盲目ではない人のやうに、多くの事柄をひとりで會得するのであつた。  その日彼らはまずフレクセールから※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り始めた。ここは亞麻と苧《を》をさばく作業場のある大きな村である。工場につくと氏は、監督室へは向はないで、ペリーヌの肩に凭りかかつて、大きな倉庫の中へはひつた。そこでは苧《を》の小梱《こごり》を、運んで來た貨車から降ろしては倉庫に納めてゐた。  これは氏の行く到る處においての規則だつたが、働いてゐる人々は誰も氏を迎へるために仕事をやめたりしてはいけなかつたし、返事以外には、氏に言葉をかけてもいけなかつた。從つて仕事は氏のゐない時と同じやうに運ばれていつた、もつとも普通の時よりは少し急いだ。  ――わしのこれからいふ事をよく聞け、わしは始めてお前の眼を借りて、ここに降ろしてゐるこの小梱《こごり》のうちの或る物を見てみようと思ふのぢやから。お前は銀色といふものがどういふものか知つてゐるかな?  少女はためらつた。  ――薄鼠色といつたはうがよいかも知れぬが?  ――薄鼠色は知つてをります。  ――よし。では※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]色のいろんな色合――濃い※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]や、うす※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]をまた茶色がかつた灰色や、赤色を見分けることができるか?  ――はい、少くとも大體はできます。  ――大體で結構ぢや。ではどれでもよい、始めにやつて來た苧《を》を一撮み取つて、よく見てみい、どんな色合をしてゐるかわしにいへるやうに。  少女はいはれたとほりにした、さうして苧《を》を十分調べてから、おづおづとかう言つた。  ――赤。赤でございませうか?  ――どれ、よこしてみい。  氏はそれを鼻へ持つていつて、かいだ、  ――間違ひない。この苧《を》は實際に、赤いはずぢや。  少女は氏を驚いて見つめた。氏はその驚きを前以つて知つてゐたやうにいひ續けて、  ――この苧《を》を嗅いでみい、キャラメルのにほひがするだらう?  ――さうです。  ――かういふにほひがするといふのは、つまり爐で燒いてそこで乾燥したといふ事ぢや、それはまた色が赤いといふことにもなる。從つてにほひと色とで互ひに檢べ合ひ確め合つて、わしはお前の見方の正しかつたことを知り、お前を信ョできると思つたのぢや。さあ別の貨車へ行つて、一撮み取つてみい。  今度は※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]色をしてゐると思つた。  ――※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]にも色々ある。お前のいふ※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]といふのはどんな植物の色に似てゐる?  ――キャベツに似てゐるやうで。その上、處々に茶とKのしみ[#「しみ」に傍点]がございます。  ――どれ、よこしてみい。  氏はそれを鼻へ持つてゆかないで、兩手で引つ張つた、するとその莖は、ちぎれた。  ――この苧《を》は餘り※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]いときに刈取つたのぢや、そのうへ梱《こり》の中で濕つてをる。今度もお前の吟味は正しかつた。わしは滿足してをる。結構な手始めぢや。  彼らは引き續き別の村々、バクールとエルシュを訪れ、最後にサン‐ピポアへ來た。ここでは、英人職工の仕事を檢査するために一番長くひまどつた。  例のやうに馬車は、ひとたびヴュルフラン氏を降ろすと、大きな丸葉柳の蔭に引いて行かれた。ギヨームは、そこにゐて馬を見張る代りに、馬を腰掛につないだまま、主人よりは先きに※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]るつもりで、村へぶらぶら※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて行つた。おれの飛び出したことなんか主人には知れはしまい。ところが急いで散※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]をすませて歸るはずのを、仲間と一獅ノ居酒屋にはひつて、時間を忘れさせられてしまつたので、ヴュルフラン氏が馬車へ乘らうとして※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてみると、誰もゐなかつた。  ――ギヨームを搜させよ、と氏は、ついて來た監督にいつた。  ギヨームの搜索は手間取つた。一分も自分の時間をむだに過ごさせない氏は、大へん腹を立てた。  遂にペリーヌは、ギヨームが全く奇妙な足取りで駈けて來るのを見た。顏を高くあげて、頸と上體はしやちこ[#「しやちこ」に傍点]張り、脚は曲つてゐる。一※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]に邪魔物でもとびこえるつもりか脚を前へ投げ出すやうにしながら持上げてゐた。  ――奇妙な走り方ぢやな、とヴュルフラン氏はその不揃ひな足取りを聞いていつた、奴め醉つてゐるな、さうだらう、ブノア君?  ――あなたには何もお匿しできません。  ――わしは仕合せにも聾ではない。  次に、立ち止まつたギヨームに向つて、  ――どこから來た?  ――御主人樣・・・申し・・・あげますが・・・  ――お前の息がお前の代りに申しあげてをる、お前は居酒屋にゐたんぢや。お前は醉つてをる。足音で分つたぞ。  ――ご主人樣・・・申し・・・あげますが・・・  といひながらギヨームは馬をはづした、さうして手綱を馬車の中へはふりこむ際、鞭を落した。彼はそれを拾はうとして身をかがめた、しかし、つかめないで三度その上をふみこえた。  ――私があなたをマロクールへお送り申しあげました方がよささうに思ひます、と監督がいつた。  ――それはまたどういふ譯で? とこれを聞いたギヨームが偉さうに口答へした。  ――默れ、と氏が、その口答へは許さぬといふ口調で命じた。今後はもう、お前に用はない。  ――御主人樣・・・あの申し・・・あげます・・・  しかしヴュルフラン氏は、それを聞かず、監督に向ひ、  ――結構だよブノア君、この娘がこの醉つぱらひの代りをしてくれるから。  ――馭※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]ができるのですか?  ――これの兩親が旅商人だつたので、よく馬車を驅つたことはあるのぢや、さうだなお前?  ――はい。  ――その上、ココは羊みたやうな奴でのう。溝へでもはふりこまない限り、ひとりでは動かぬ奴ぢやで。  氏は馬車に乘つた。ペリーヌは自分の負ふ責任をはつきり意識して、注意深く、落ちついて、そのに座を占めた。  彼女が鞭の先きで輕くココにふれた時、ヴュルフラン氏はいつた、  ――あんまり急がせないでやれ。  ――急がすつもりは本當に少しもございません。  ――それで先づ安心ぢや。  マロクールの町々を、ヴュルフラン氏の無蓋の四輪馬車が、Kい麥藁帽子をかぶつた喪服の一人の娘によつて驅られて行き、年老いたココは上手にあやつられてゐて、その足竝みもギヨームのために仕方なく取らされてゐたあのみだれた足竝みでないのを見た時、人々はどんなに驚いたことだらう! 一たい何事が起つたのかしら? あの娘は何だらう? 皆※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口に立つてこの質問をし合つた。娘を識つてゐる村の人々は少なかつたし、ヴュルフラン氏が自分のそばのどんな地位に娘をつけたかを知つてゐる※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は、なほさら少なかつたからである。フランソアズお婆さんの家の前で、ゼノビ叔母さんが垣にもたれて二人のおばさんとしやべつてゐた。ペリーヌを見ると、びつくり仰天して兩腕を高く上げた。が間もなく實に愛想のいい挨拶の言葉をかけてほほゑんだ、それは、ゼノビ叔母さんの最良の微笑であり、眞の友達の微笑であつた。  ――今日は、ヴュルフラン樣、今日は、オーレリーさん。  馬車が垣根を通り過ぎるとすぐゼノビ叔母さんは、その隣のおばさん達に、自分がどんなにして、自分の家の下宿人であるあの若い娘を、ヴュルフラン氏のそばの良い地位につけてやつたかを、あの※[#「やまいだれ+溲のつくり」、第3水準1-94-93]せつぽちに與へた色んな情報に依つて話してきかせた。  ――あれはいい娘さんですわ。私の世話になつてゐる事をあのひとは忘れはしますまい、だつてあのひとは私たち皆の世話になつてゐるのですから。  一たいどんな情報をこの女は傳へたのか?  ここでゼノビ叔母さんは、ロザリーの語つた事柄を土臺として長々と作り話を聞かせたのであつた、その話は、各人の性格とか好みとか、または偶然とかさういふものによる尾鰭《をひれ》をつけられながらマロクール中に廣がつて、ペリーヌから一つの傳※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]――さらに適切にいへば百の傳※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]を拵へあげた、さうしてたちまちこの傳※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]は、その不意の幸運のわけが誰にも分らないのでそれだけいよいよ人を熱中させる會話の種となつた。これは、新たに作り話を伴ふあらゆる種類の想像や解釋に、その餘地を與へてゐた。  ヴュルフラン氏がペリーヌを馭※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]にして通るのを見て村人も驚いたが、それがやつて來るのを見て、タルエルは全くたまげてしまつた。  ――ギヨームは一たいどこにをりますので? と工場主を迎へるためにヴェランダの段々の下に駈けつけながら聲をあげた。  ――飮みぐせが惡いのでお拂ひ箱にしたのぢや、とヴュルフラン氏は※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]笑んで答へた。  ――察しますに、さやうな決心をなさるお積りは大分以前から持つてをられたのでございませうな、とタルエルはいつた。  ――いかにもさうぢや。 「察しますに」といふこの言葉は、工場においてタルエルの運勢をひらき、タルエルの權力をたてたところの言葉であつた。自分はヴュルフラン氏の忠實で從順な片腕に過ぎなく、ただもう主人の命令や考へのみを行ふ※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]に過ぎないといふことを、ヴュルフラン氏に納得させた事、これが實際タルエルの腕前であつた。  タルエルはよくかう言つたものだ、もし自分に特別の能力があるとするなら、それは主人の望むところを見拔き、主人の心をひかれてゐる事柄をよく呑み込んで、その胸中を讀むことだと。  だから彼は口を利けば大抵いつも、例の言葉で始めるのであつた、  ――察しますに、あなたのお望みは・・・  さうして、彼の※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず目を光らせてゐる野生的な※[#「誨のつくり+攵」、第3水準1-85-8]感さは、情報をつかむためならどんな手段をも遠慮しないスパイ的行動に助けられてゐたから、ヴュルフラン氏は、ほとんどいつも自分の脣に浮ぶ「いかにもさうぢや」といふ返事をしさへすればよかつた。その外の返事をしなければならないやうな時は珍しかつた。  ――それに、察しますに、とこの男はヴュルフラン氏が馬車から降りるのを助けながらいつた、あの醉つぱらひの代りになすつたこの娘は、信ョなさるに足る娘に見えたのでございませうな?  ――いかにもさうぢや。  ――格別意外なことではございません。ロザリーさんに連れられてここへはひつた日から、これは役に立ちさうだ、あなたのお眼にとまるだらう、と私も思つてをりました。  さういひながら彼はペリーヌを見た。その一瞥は力※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]くかういつてゐた、  ――このとほり、お前の爲につくしてやるぞ、忘れるな、恩返しをするやう心掛けてゐるんだぞ。  この取引の支拂ひは、程なく請求された。タルエルは、工場のひける少し前ペリーヌの事務机の前で立ち停まつて、はひらず、他人には聞えないやうに低い聲できいたのである。  ――一たいサン‐ピポアでギヨームがどうしたんだ?  この質問は、重大な事柄の漏洩を惹き起すものではないから、少女はこれに應じて、要求された話をしてもよからうと考へた。  ――よし、と彼はいつた、お前は心配せんでよい。ギヨームが※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]りたいといつて來たらわしが話を聞かう。 [#2字下げ]二十九[#「二十九」は小見出し]  「サン‐ピポア村でギヨームがどうしたんだ?」夕方御飯の時、ペリーヌはファブリとモンブルーからもまたさう尋ねられた、なぜなら家の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]で、彼女がヴュルフラン氏をつれ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つたことを知らない※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]はゐなかつたからである、そこで彼女は、一遍タルエルに對してした話をまた繰返した。するとみんなは醉つぱらつてさうなつたのは當り前だと公言した。  ――あいつが御主人を十遍もひつくり返さずにすんだのは奇蹟だぜ、とファブリがいつた。氣違ひみたいに操るんだからなあ・・・  ――氣違ひ酒を飮んだみたいにと言つてやつた方がよからう、とモンブルーが笑つた。  ――とうの昔に暇を出されてゐていい男さ。  ――後押しがなかつたら、實際とつくに暇を出されてゐたんだが・・・  少女は全身を耳にした、が聞き耳を立てる樣子が見えないやうに努力した。  ――その後押しにはそれだけのお返しをしてゐたんだぜ。  ――さうより外にはできないぢやあないか?  ――できたかも知れぬ、もしも懷《ふところ》を暖めて貰はずにゐたらな。人間といふものは眞直ぐに※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゐれば、どこからどんな壓迫が來てもしつかり、それに抵抗するものだ。  ――あいつにとつては、眞直ぐに※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くのが骨が折れたんだ。  ――案外あいつは、あの男から「やがてお前はお拂ひ箱になるぞ」と注意をされるどころか、むしろさういふ惡習慣のはうへ差し向けられてゐたのぢやあないかな?  ――あいつが※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて來ないのを見てあの男がさぞ變な顏をしたらうと思ふ。僕はその場に居たかつたよ。  ――あの男は、あいつに劣らずうまく探つて告げ口してくれる男を、見つけにかかるだらう。  ――ともかく、スパイに探られてゐるお方がそのことを見拔かず、あの男の自慢にしてゐる立派な意見の一致や異常な直觀なんていふものが實はただもう巧みなP踏みの結果に過ぎないといふことを知らないのだから、驚くわい。假りに誰かが僕に、けさ君は人參をそへた仔牛の膽《きも》がうまいといふ意見をのべたと告げ口をしてくれたとしたまへ、さうすれば僕が今晩君に、察しますに君は人參をそへた仔牛が好きですなあ、といつたとしても、大した手柄ではなからうぢやあないか?  彼らは、あざけるやうに顏を見合せながら笑ひ出した。  もしペリーヌが、彼らの口に出さない人名を察知する鍵を必要としたとするならば、この「察しますに」といふ言葉がその鍵となつてくれたことであらう、しかし彼女は、スパイを行ふ「あの男」といふのがタルエルであり、そのスパイ行爲を受けてゐる人がヴュルフラン氏であることを、すぐに呑みこんだ。  ――で結局この話はどんな面白いことになるのかね?  ――だつて君、面白いぢやあないか! 人間といふものには慾張りもをり、さうでないのもゐる。また野心家もをり、さうでないのもゐる。ところであの男ときたら慾張りでその上これに輪をかけた野心家だ。裸一貫からつまり職工から身を起して、あの男は、フランス工業界の首位を占め年に千二百萬圓以上の利※[#「縊のつくり」、U+FA17、106-5]をあげてゐる工場で二番目の地位に上つた。さうしてその二番目の地位から工場主になつてやらうといふ野心を抱いた。さういふ事はこれまでになかつた事ではないし、一介の雇員が堂々たる工場の創設※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]に取つて代つたことは、皆の知つてゐるところだ。あの男は色んな事情や、一家の不幸や、病氣などのために、いつかは工場主が經營を續けてゆけなくなるだらうと見て、自分を無くてはならない人間にし、自分だけが大任を背負ふ力量を持つてゐるやうに思はせやうとして立ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。ところでそれに成功する一番いい方法は、自分の取つて代らうと思ふ人を征服して、その人に朝な夕な、自分こそ、竝みならぬ事柄に對して能力も理解力も技倆も持つてゐるといふことを見せる、といふことではなからうか? そこでそれ、いつも完全にうま[#「うま」に傍点]を合はせるために、また一※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]先きへ進んでゐるやうにさへ見せかけるために、主人の言つた事、した事、考へた事を、前以つて知る必要ができるんだ。だから「察しますにあなたは人參をそへた仔牛を召上るのはお好きのやうですな」といへば、どうでもかうでも返事はかうなる、「いかにもさうぢや」。  彼らはまた笑ひ出した。さうしてゼノビ叔母さんが食後のお菓子のためお皿を取り代へてゐる間は、用心深く默つてゐた、しかし叔母さんが出てゆくと再び談話を始めるのであつた、片隅で默つて食べてゐる小娘なんぞは、自分たちのわざとぼんやりさせて話してゐるこの内幕を見すかすことなんかできるものではないといふふうに。  ――ゐなくなつたあの人が現はれて來ないものかな? とモンブルーがいつた。  ――それは皆の願つてゐることに違ひない。しかし現はれて來ないとなるとそれは、そこに、たぶん亡くなつたのだらうといつたやうな尤もな理由があるからなんだ。  ――同じことだぜ、あの人のさうした野心だつて、――自分がどういふ身分か、また自分が自分のものにしたいと思つてゐる工場がどんなものかを承知してゐるとしたら、――それはやつぱり※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]いわけだ。  ――もしさういふ野心を持つてゐるあの人が、自分と自分の狙つてゐる目的との間の距離を正しく領會してゐたら、十中八九までは旅に出ないだらう。何れにせよ僕らの話してゐるこの男を見そこなつてはいけない、この男は君の思ふよりは遥かに手剛い男なんだ、その出發點と到達點を比べてみれば分るやうに。  ――その男が、その男の取つて代らうと思つてゐる人を行方不明にさせた譯ではないんだらうな。  ――どうだか。その行方不明を惹き起すのに、もしくはそれを長引かせるのに、その男が力を添へてゐないと誰がいへよう?  ――君はさう思つてゐるのかい?  ――僕らは誰もその場にゐたのではないから、從つてどんなふうな事だつたのかは知ることはできない、しかしその人物の性格が分つてゐるからには、ああした重大な出來事が起つたのはきつとあの男が立ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて事を惡化させて自分の利※[#「縊のつくり」、U+FA17、106-5]のはうへ差し向けたものに相違ないとするはうが、眞相に近いやうだ。  ――僕はそんな事を考へてもみなかつた、はて、さて!  ――考へたまえ、さうしてその役割を理解したまへ、僕は何もあの男が立ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたといふのではない、ただその行方不明のお蔭で自分の勢力が揩キと見て立ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたかも知れないといふのだ。  ――その行方不明になつた人のあとを自分とは別の人たちが繼ぐかも知れぬといふことをその時あの男が見拔けなかつたのは確かだ、しかしもうその地位がふさがつてしまつた今となつてはあの男は未だどんな希望をつないでゐるんだ?  ――ふさがつてゐるにしても見かけ程にはしつかりしてゐないといふそれくらゐの希望に過ぎないかも知れぬがさういふ希望を、あの男はつないでゐる。實際、それほど地位はしつかりしてゐるだらうか?  ――すると君は・・・  ――僕はここに來た時はしつかりしてゐると思つてゐた、しかしその後、君自身も氣づいたことと思ふあの色んな小事件を通して僕の見たところによると、あの男は監※[#「示+見」、第3水準1-91-89]するといふよりはむしろ先きを見拔いて、つまらぬ事についてもさうなのだからあらゆる事についてこつそり立ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐる、さうしてあの地位にゐる人たちをいたたまらなくさせてやらうといふのが確かにその目的なんだ。首尾よく行くだらうか? あの人たちの生活をたまらなく煩はしいものにして已むなく隱退するやうにしむけ得るだらうか? それとも、あの人たちをお拂ひ箱にする手段を見つけるだらうか? それは知らない。  ――お拂ひ箱に! まさか君がそんなことを。  ――むろんあの人たちがひどく攻※[#「(車/凵+殳)/手」、第3水準1-85-2]されるやうなことにでもならなければ、それはできまい。しかしあの人たちがもし、地位にョつて身を愼まないやうなことがあつたら? もし必ずしも受身の立場にばかりは立たなかつたとしたら? もしも過ちを犯したら? 過ちを犯さないなんて人はないからね? 殊にあの男にはなんでも行ふ權力があり、將來を確實と信ずる理由もあるといふことになると、面白い改革が見られないとはいへない。  ――面白いことなんかないよ僕には、改革なんて。  ――僕だつて、さうなつたら君よりも得《とく》をするだらうなどと思つてはゐない。しかし流れに逆らつて僕らに何ができよう? どちらかの側《がは》についたら? そんなことはとてもできる相談ぢやあない。實のところ僕は遺産を狙はれてゐる人に同情してゐる、ところでその人は、遺産を狙つてゐる男の當てにしてゐる病氣のために、――或る人々の思つてゐるところによると、――やがて亡くなるに違ひないといふんだから、いよいよ工合がいいや。その人がきつと死ぬかどうかは僕にはとんと分らないんだ。  ――僕にも分らない。  ――僕は見物人の立場にとどまるつもりなんだ、さて、さうして見てゐると、芝居の役※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の一人が、僕の眼の前で、氣違ひじみたたうてい無理なやうなたたかひを企てるさういふ役を演じてござるといふわけさ、その男が味方にしてゐるのはただもう自分の大膽さ、押しの※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]さ・・・  ――下劣さ。  ――さうだ、君がさういひたかつたら僕もさういひたい。面白いよ、もつとも僕は、このたたかひで毆り合ひのとばつちりが僕にかかるかも知れぬといふことは心得てゐるが。さういふわけで僕はあの人物を觀察してゐるんだ、あの人物は悲劇的な點を持つてゐるがまた、出來のいい芝居にふさはしく、滑稽な點も持つてゐる。  ――僕にはあの男が滑稽だとは一向思へぬが。  ――どうして? 二十※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]時分にはほとんど自分の名前を讀むことも書くこともできなかつたのが、勇敢に勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]をして申し分なく書き綴れるやうになり、學校の先生みたやうにみんなを咎めだてできるやうになつた男だぜ、喜劇役※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]と思はないかい?  ――むろん、僕はそれを※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]しいことだと思ふ。  ――僕もそれを※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]しいことだと思ふ、が滑稽なのは、ヘ養がその初等ヘ育に伴はなかつたといふことなんだ、奴さんが自分を世間で申し分のない人間のやうに思つてゐることなんだ、だから字もきれいに書くし綴りもやかましいけれど、あの男が特別の言葉遣ひをして、隱元豆を「えんげん豆」といつたり、南瓜《かぼちや》を「ぼうぶら」といつたりするのを聞くと僕は吹き出さずにはをられない。僕らはスープに滿足する、があの男は「ソップ」しか飮まない。僕がもし君が散※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]したかどうか知らうとするなら僕はかう尋ねる、「君、散※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]に行つたかい?」、あの男はかういふ、「君、散策に行つたかね? 君、いかやうに感じたか? 僕らは旅をばなした」。あの男が、かういふ御立派な言葉遣ひをしながら、世間の誰よりも偉いんだと思つてゐるのを見ると、果してあの男のほしがつてゐる工場の主人になれるかしらと僕は思ふ、なれるとすれば大きな組合の組長か理事ぐらゐのところだ。きつとフランス翰林院《アカデミー》の一員になりたいなんて氣を起し、何でそこへ迎へて貰へないのか譯が分らないといふ手合ひさ。  その時ロザリーが部屋へはひつてきて村を一と※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きして來ないかとペリーヌに尋ねた。拒むことはなかつた。もうとつくに食事はすんでゐたし、いつまでも席にゐれば疑はれるかも知れなかつた。もしこれからも自由に自分の前で話をして貰ひたいとするなら、疑はれないやうにする必要があつた。  夕方は氣持ちがよかつたし、人々は往來に腰を降ろして※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口から※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口へおしやべりをしてゐたので、ロザリーはぶらぶら※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きまはりたくなり、一と※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きを散※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]に變へたいと思つた、しかしペリーヌはこの氣まぐれを承諾せず、疲れたからといつて※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つた。  實のところ少女は、眠りたいよりは考へたかつたのである。扉をしめて、小さな自分の部屋の靜かな中で、自分の境遇、自分のこれから取らなければならない行動を理解したかつたのである。  ※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]に少女は、あの同室の仲間たちがタルエルの噂をしたのを聞いた夜に、この男を恐ろしい男だと想像してゐた。その後タルエルが彼女に向ひ、「ファブリの愚行に關して本當の事を殘らずいへ」といひ、自分は頭《かしら》だ、頭《かしら》として何事をも知る必要があるのだといひ足したとき、この恐るべき男がどんなふうにその權力を張るか、どんな手段を用ひるかを見たのであつた。しかしさういふ事はすべて、彼女のさつき話を聞いて知つた事柄と比べれば、物の數でもなかつた。  タルエルがヴュルフラン氏と竝んでむしろ氏を凌いで暴君の權力を持たうとしてゐることは少女は知つてゐた。が、彼がマロクールの全權力を備へた工場主にやがて取つて代らうと思ひこれを目的に久しい以前から畫策してゐるといふことは、思つてもみなかつた。  しかしながらそのことは、誰よりもよく、起る事柄を知り、人物や事物を判斷し、それらを語ることのできる技師とモンブルーの會話から、知れたのだ。  かくてこの人達が別の言葉では指し示さなかつた「あの男」は、失つたスパイの代りを立てようとするに違ひない。ところでその代りとは、ギヨームの地位に就いた彼女自身だ。  どんなふうにして身を防いでゆかうか?  自分の立場は恐ろしいものではないか? 自分は援助もなく經驗もない子供に過ぎない。  彼女は、右の問題を考へてきてはゐた、が今の情勢はこれまでの情勢と同じではない。  苦惱にせめたてられ、寢てゐることができなくなつたので、寢床の上に坐り、自分の聞いた事柄を一語一語繰返した、  ――あの男が、行方不明を惹き起させ、またそれを長びかせるのに力を添へなかつたと誰がいへよう。  ――この行方不明の人に代るべき人たちのついた地位、その地位は皆の考へてゐる程しつかり占められてゐるだらうか? その人たちを無理に隱退させるか解雇するかして、その地位を棄てさせてしまはうと、祕密行動が行はれてゐはしまいか?  あの男が工場主のあとつぎと決まつてゐるらしい人たちをお拂ひ箱にする力があるとするなら、ちつぽけなペリーヌみたやうな※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]に對して、どんなできない事があらう! もしも彼女があの男に逆らはうとしたら、さうしてスパイになれといふのを拒んだとしたら。  どうしたらよからう?  かういふ問題を熱心に考へながら夜がふけた、しかしたうとう疲れて枕についた時、難題には一つも安心できる解決はついてゐなかつた。 [#2字下げ]三十[#「三十」は小見出し]  朝ヴュルフラン氏が事務室に來てする最初の仕事は、給仕がポストへ取りに行つてフランスからのと外國からのと二つの山に分けて卓上に置いた郵便物を開くことであつた。昔ならフランス語の信書は一切自分で開封し、返事をしたり命令をしたりするため、それぞれの手紙に應じた控へを一雇員に書き取らせたものである。しかしめくらになつてからは、この仕事に甥たちとタルエルをたづさはらせ、この人々が手紙を聲高く讀んで控へをした。外國語の手紙のはうはベンディットの病氣からこちら、開封後は、英語ならファブリに、ドイツ語ならモンブルーに渡された。  ペリーヌの心をあんなにひどく動かしたあのファブリとモンブルーの會話のあつた次の朝、ヴュルフラン氏、テオドール、カジミール及びタルエルは、この郵便の仕事をやつてゐた、その時外國からの手紙をひらいたタルエルは、發信地を告げて、  ――ダッカからの手紙一通、五月二十九日。  ――フランス語か? ヴュルフラン氏が尋ねた。  ――いや、英語です。  ――署名は?  ――どうも讀みにくい字で。フェルデスか、ファルデス、それともフィルデス、その次の字は私には讀めません。四枚ありまして。あなたのお名前が方々に見えます。ファブリ君へ渡しませうか?  ――いや、わしにくれ。  テオドールとタルエルとは同時にヴュルフランを見た、が、自分たちがどちらも、お互ひの洩らした衝動を現場で取りおさへ、つい同じ好奇心を示したのを見て、何でもないやうなふうをよそほうた。  ――手紙はあなたの机の上に置きます、とテオドールがいつた。  ――いや、わしに渡してくれ。  やがて仕事はすんだ。雇員が控へを取つた信書を持つて引き下つた。テオドールとタルエルとは、ヴュルフラン氏に色んな事柄の指圖を乞はうとした、が追ひ返された、さうして彼らが去るとすぐ、氏はペリーヌをベルで呼んだ。  すぐに彼女はやつて來た。  ――この手紙は何だらう?  彼女は差出された手紙を取つて、その上に目を落した。もし氏の目が見えたら、少女が※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]ざめ、兩手をふるはせるのを認めたことであらう。  ――これは五月二十九日にダッカから差出された英語の手紙でございます。  ――署名は?  少女は手紙を裏返して、  ――フィルデス~父。  ――確かかな?  ――はい、フィルデス~父。  ――どんな文面ぢや?  ――ご返事申しあげる前に少々讀まして頂けませんでせうか?  ――むろんぢや、が早くせい。  少女はこの命令に從はうとした、が感情は靜まらないで高ぶり、文句は少女のすわらぬ眼の前で踊つた。  ――どうぢや? と待ち切れない聲できく。  ――あの、讀みにくいんでございます。それに意味も取りにくいものですから。文句が長くて。  ――譯すんぢやない、ただかいつまむんだ、何の話ぢや?  返事する前になほしばらくが流れた。たうとう彼女は、  ――フィルデス~父の※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明によりますと、あなたが手紙をお差出しになつたルクレルク~父樣は亡くなられました、さうしてあなたへ返事をするやうルクレルク~父樣にョまれたフィルデス~父樣自身も、留守だつたり、あなたの御依ョの情報を集めるのが難しかつたりしたために、御返事ができずにゐました。この~父樣は、あなたに英語でお便りすることをおわびしてをります、あなたの美しい國語は不完全にしか知らないので。  ――そんな事を! とヴュルフラン氏は叫んだ。  ――でも未だそこまでは行つてゐませんので。  この返事はこの上もなく穩かな口調でなされたけれど、氏は、少女をまごつかせたとて何の得《とく》もないことに氣づいた。  ――無理もない、お前はフランス語の手紙を讀んでゐるんぢやあないのだから。わしに※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明する前に意味を取る必要がある。それをこれからしなさい。この手紙をベンディットの事務室へ持つて行つて、そこでできるだけ丁寧に譯して、それを書いてわしに讀んでくれるとよい・・・。一刻もぐづぐづしないで。わしは内容を早く知りたいのぢやから。  少女は行きかけた。氏は呼びとめて、  ――よいか、その手紙は誰にも知られてはいけない個人的な事柄なのだ、分つたな、誰にも知られてはならぬ、たとひ聞かれても、もし誰か尋ねる※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]があつても、何もいつてはならぬ、見すかされるやうなことがあつてさへもいけない。わしはお前を信ョするのだから。お前はそれにふさはしく振舞つてくれることと思ふ。忠實にわしの事をしてくれればお前を不滿なやうにはさせぬから安心せよ。  ――きつと何事も御信ョにそむかぬやうに致します。  ――早く行つて、早くせい。  さう注意を受けたけれどいきなり飜譯に取りかからず、手紙を始めから終りまで讀み、讀み返して、それから始めて大型の紙を取つて書き出した。 [#ここから1字下げ]  「五月二十九日 ダッカ 拜啓 あなた樣が報告をおョみなされたルクレルク~父樣には悲しいことに亡くなられました、甚だ遺憾なことながらお知らせ申し上げます。あなた樣にはその報告を重要※[#「示+見」、第3水準1-91-89]していらつしやるやうに存じますので、私が代つてお答へ申し上げようと決心致しました。國内旅行のために妨げられましたし種々の面倒のためにも手間取りまして、御返事延引致しました、おわび申しあげます。十二年以上も立ちましたので多少なりとも正確に情報を纏めてみなければなるまいと思ひました次第でございます。唯々あなた樣の御厚情にすがり、御返事が心ならずも遲れましたこととこの書面を英語で認《したた》めますこととを御容赦下さるやうお願ひ申し上げます。英語を用ひますわけは、ただ私があなた樣のお國の美しい言葉を不十分にしか存じ申し上げないからでございます。」 [#ここで字下げ終わり]  この文句は彼女がヴュルフラン氏に言つた通り本當に長かつた、さうしてただもうそれだけで、淨書するのに實際上の色んな困難を生じたが、彼女はこの文句を書くと、筆をおいてそれを讀み返し、訂正した。ありつたけの注意力をもつてそれに熱中してゐると、締めておいた部屋の扉があいて、テオドール・パンダヴォアヌがはひつて來て、英佛辭典を貸して[#「貸して」は底本では「借して」]くれといつた。  ちやうどその辭典を前に開いてゐたので、閉ぢてテオドールに差出した。  ――君は使はないのかい? とそばへ來ながらいつた。  ――いいえ。でも無くつてもいいのです。  ――どうして?  ――私は英語の意味のためよりもフランス語の綴りのために必要なのでございます、フランス語の字引で結構間に合ふのです。  少女はテオドールを背後に感じた、さうして振り向く勇氣はなかつたので男の眼を見ることはできなかつたが、自分の肩越しに手紙を讀むんだなと感じた。  ――ダッカの手紙を譯してゐるんだね?  嚴祕に附しておくべき手紙が知られたので彼女は驚いた、しかしすぐに考へ直して、これはたぶんこの手紙を知りたいので問ひかけたのだと思つた。辭典は口實だつたらしいところから見ると、いよいよさう思はれる。英語の單語を一つも知らない男に、何で英佛辭典が要らう?  ――えゝ、と少女は答へた。  ――飜譯はうまくゆくかい?  少女は彼が自分の上に身をかがめるのを感じた、彼は近眼だつたのだ。そこで少女はすばやく紙をまはして端のはうしか見えないやうにした。  ――おゝ! お願ひですから讀まないで。だめなんです、色々やつてみてゐるんです・・・、下書なんです。  ――いいぢやあないか。  ――いいえ、いけません、恥かしいんですもの。  彼は紙を取らうとした。彼女は紙の上に手を置いた。始めのうちは遠慮がちに防いでゐたが、今はもう、それが工場の一主任に對してであらうと、思ひ切つて腹を立てた。  テオドールはそれまで冗談みたやうな調子で物を言つてゐたが、更につづけて、  ――さ、その下書きをよこしたまへ、君のやうな可愛い娘を咎め立てするやうな人間だと僕を思つてゐるのかい?  ――いいえ、だめです。  ――何をいふんだ、さあさ。  笑ひながら取らうとした、しかし少女は逆らつた。  ――いいえ、渡されません。  ――冗談だらう。  ――本氣なのです。これほど大切なことはありません。ヴュルフラン樣がこの手紙は誰にも見られないやうにと仰しやいました。私はヴュルフラン樣に從ひます。  ――その封を切つたのは僕なんだぜ。  ――英語の手紙と飜譯したものとは別です。  ――その上手な飜譯を、どうせ今に叔父は僕に見せてくれるんだ。  ――それは叔父樣は見せて下さるかも知れませんが、私は叔父樣ではありません。私はあのお方から言ひつけられました。私はそれに從ふのです。どうぞ御勘辯下さい。  口調にも態度にも決然としたものが※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]かつたので、その用紙を取らうとするなら、どうしても腕づくでやるよりほかないことは確かであつた。でもさうしたら少女は聲を立てはしないだらうか?  テオドールは、さうまではやれなかつた。  ――僕はお前が、取るに足らぬ事柄についてさへも、叔父の言ひつけに忠實であるのを見て嬉しい。  彼が扉を締めて出てゆくと少女は再び仕事にとりかからうとした、が氣も※[#「眞+頁」、U+985A、2128-6]倒してしまつてゐて、それができなかつた。嬉しいとあの人はいつたけれど、それどころかひどく怒つてゐるのだ、拒※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]したためにどんな事になるだらう? もしあの人が仕返しをしようとしたら、どんな事でもできる敵に向つて、守る力もない哀れな少女はどうたたかふだらう? 少女は一遍でやつつけられてしまふだらう。さうすれば、はひつたばかりのこの工場をもう出なければならない。  その時また扉がそうつとあいてタルエルが忍びこんで來た。その眼は、手紙とやりかけた飜譯との廣げられてゐる卓上につけられてゐた。  ――どうだい、ダッカの手紙の飜譯は捗《はかど》るかい?  ――始めたばかりなのです。  ――テオドール君が邪魔をしたやうだな。何の用で來たんだ?  ――英佛辭典を。  ――どうする氣だらう? 英語を知りもせんのに。  ――何も仰しやいませんでした。  ――その手紙に何が書いてあるか、聞かなかつたかね?  ――私未だほんの始めの文句のところなのです。  ――手紙を讀んではゐないやうにこのわしに思はせようとしても、だめだぞ。  ――未だ飜譯してはをりませんの。  ――お前はフランス語では書いてをらぬ、がもう讀んでしまつてはをる。  少女は答へなかつた。  ――讀んでしまつてをるかどうか、わしはお前に聞かう。返事をしてくれるだらうな。  ――御返事はできません。  ――なぜ?  ――ヴュルフラン樣がこの手紙については話をするなと仰しやつたので。  ――ヴュルフラン樣とわしとは一つの事をしてをるに過ぎん。ここではヴュルフラン樣の出す命令はみなわしの手を通るし、あの人の與へる世話もみなわしの手を通る、だからわしは、あの人に關した事を知る必要がある。  ――あのお方の私事でもですか。  ――さうするとその手紙は私事に關するものだな?  少女は不意を打たれたと思つた。  ――さういふ譯ではございません。私事の場合でも手紙の内容をお知らせしなければならないのでせうかとお尋ねしたのです。  ――私事に關するものならとりわけ、わしは知らなければならぬ、ヴュルフラン樣の爲になるんだから。お前も知つてゐるだらう、あの人は、すんでのところで亡くなられるほどの苦痛のために病氣になられた。もし※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]然或る消息が來てあの人に新しい苦痛を與へるか、大きな喜びを惹き起すかしてみよ、何の用意もなく、餘りだしぬけに知らされる消息は、あの人の生命にかかはるかも知れぬのだ。だからわしはその用心をするために、あの人に關した事は前以つて知る必要があるのだ。もしお前がごく氣輕にその飜譯を讀んでくれさへすれば、さやうな事にはならん。  この男は、いつもの頑固で意地惡な言ひ方に似ず、やさしい、へつらふやうな口調で、このちよつとした※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]ヘをした。  少女が、心を激動させ眞※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]になつて見つめながら默つてゐるので、續けて、  ――お前は利口だからわしの今言つて聞かした事は分つてくれると思ふ、またあの人の健康はひどい衝動をうけると保つまいからそんなものを受けないやうにするのは、わしらにとり、ヴュルフラン樣のお蔭で暮してゐる村全體にとり、また、とんとん拍子で上つてゆくばかりの良い地位をあの人のそばに見つけたお前自身にとつて、つまり皆にとつてどんなに大切なことかも分ると思ふ。あの人は、丈夫さうだが見かけ程はない。悲しみのため次第に弱つてゆかれるし、目が見えないので※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望してをられる。だからこそわしらは皆ここであの人の生活を慰めるやうに努めなけりやならぬ、さうしてわしは誰よりも先きにさうしなければならん、わしはあの人に信ョされてゐる人間なのだから。  ペリーヌは、もしタルエルといふものを識らなかつたとしたら、きつと、この言葉の巧妙に仕組まれて彼女を惑はし感動させるのに乘つてしまつたに違ひない。しかし彼女は、哀れな女工たちに過ぎないのは事實だがあの共同部屋の娘たちから話を聞いてゐたし、また物事を知り人間を判斷することのできる人たちであるあのファブリとモンブルーからも話を聞いてゐたから、このお※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]ヘの誠意を眞《ま》に受けることも、この監督の熱意を信用することもできなかつた。少女を喋らせようとしてゐる、結局さうなのだ、さうしてそのためには、※[#「口+墟のつくり」、第3水準1-84-7]、誤魔化し、僞善、どんな手段でも良かつたのだ。たとひ少女がさういふことを疑はうとしたとしても、あのテオドールのやりかけた企《たくら》みのことがそれを許さなかつたに違ひない。甥も監督も眞面目ではないのだ、どちらもダッカからの手紙の内容を知りたいとただそれだけを望んでゐるのだ。だからこそヴュルフラン氏は、この連中に用心して、「もし誰か尋ねる※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]があつても、何もいつてはならぬのみならず、見すかされるやうなことがあつてさへもいけない」と言つたのである。彼女は、人の怒りや怨みを買はうとしてゐるといふことなどは別に心配せず、きつとかうした試煉を前から知つてをられたに違ひないヴュルフラン氏、このお方にだけ、從ふべきであつた。  タルエルは、前に立つて、事務机に倚りかかり、少女の方に身をかがめてゐた。その眼は、彼女を見守り、彼女を包み、見下ろしてゐた。彼女は全身の勇氣をふるひ起した、さうして、胸中の動きのそれと察せられる少しかすれた、しかしふるへない聲で、  ――ヴュルフラン樣がこの手紙のことは誰にもいはないやうにと仰しやいました。  彼はこの拒※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]にひどく怒つて起き直つた、が、すぐにまた、態度も口調も、愛想よく、  ――わしは丁度よい人物なんだぜ、なぜかといふにわしはあの人の次にをる、いはばもう一人のあの人ともいふべき人間だからな。  少女は返事をしなかつた。  ――お前は馬鹿なんだな、と聲をひそめて叫んだ。  ――さうなのでせう、きつと。  ――そんなら、得心のゆくやうに努めて考へてみい、お前がヴュルフラン樣のそばにつけて貰つたその地位にいつまでもゐたいなら利口でなければならん、ところでこの利口さがお前にはないならお前はその地位にゐることはできぬ、わしは、いやだけれどお前を助けるのを止して、お前に暇の出るやうにしなければならぬことになる。分るかな。  ――はい。  ――なら、この事を熟慮せい、けふの身の上がどんなものかを考へ、明日は往來にあるかも知れぬと想像してみるのだ、肚《はら》を決めて、今夕わしに知らせて來い。  そこで彼は、ちよつと待つたが少女が折れて出ないので、はひつた時のやうに忍び足で出て行つた。 [#2字下げ]三十一[#「三十一」は小見出し]  ――熟慮せい。  少女は熟慮しようにもしやうがなかつた、ヴュルフラン氏が待つてゐる。  そこで再び飜譯に取りかかつた。仕事をしてゐる中にはたぶん興奮も鎭まるだらう、さうすればきつと一そうよく自分の立場を吟味し、なすべき事を決めることができるだらうと思ひながら。 [#ここから1字下げ] 「右に申しのべましたとほり、搜査中に出會ひました大きな障碍は、あなた樣の御愛息エドモン・パンダヴォアヌ樣の御結婚以來流れました※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]月といふ障碍でございます。先づ告白致しますが、私は、この婚儀を※[#「示+兄」、第3水準1-89-27]bケられましたルクレルク~父樣による光明を失ひ、まつたく途方に暮れてしまひました、そこで方々を尋ねてみなければなりませんでしたがその揚句、あなた樣の御滿足なさるやうな御返事の材料を蒐めることができました。  この材料によりますと、エドモン・パンダヴォアヌ樣の妻となられたお方は、聰明、深切、柔和、優しい氣性《きだて》、正直な性格、あらゆる天性に惠まれておいででした、むろんあの、果敢《はか》ないものではありませうがやはりこの世の空しいものに心を引かれる人々には往々決定的な力を持つてをります個人的魅力の程は、申すに及びません」。 [#ここで字下げ終わり]  少女は、手紙の中でも確かに一番込み入つてゐるこの文句を四度ほど譯し直した、が、できる限りの正確さをこの仕事に打ちこんで文句の飜譯に熱中したので、自分でも滿足するといふ程には到らなかつたとしても、少くとも全力を盡したといふ氣持ちは持つた。 [#ここから1字下げ] 「印度の女性の學識と申せばすべてが禮儀の知識や起居の作法において成り立つてをり、この眼目を外れた訓育のすべては不名譽のやうに考へられてゐたさういふ時代ではもうございません。今日では、高い族籍の女性の間でさへ多くの※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]はヘ養深い※[#「米+睛のつくり」、U+FA1D、4-14]~を持つてをりまして、勉學といふものが古代印度では女~サラスヴァチへの※[#「示+斤」、第3水準1-89-23]願よりも下位に見られてゐたことを、想ひ出と致してをります。私のお話し申し上げてゐるお方は、さういふ部類の女性に屬してをられ、そのお方の父も母も、――婆羅門ヘの家庭すなはち印度ふうの表現を致しますならば再び生を享けた家庭の人でありましたが、――ルクレルク~父樣布ヘの初期この~父樣によりまして、幸bノも、我々の聖なる、使徒たちの旨に適へるローマ・カトリックヘに改宗なされました。印度における我々の宗旨の布ヘにとりまして不幸なことには、族籍の勢力が全能でありますため、信仰を失ふ※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は、その族籍をつまり階級を、それからまた交誼や、※[#「示+土」、第3水準1-89-19]會生活をも失ふのでございます。この一家の場合もさうでして、ただもうキリストヘになられたばかりに、いはば一番卑しい階級に落ちてしまはれました。  ですからこの一家が、ヒンヅーの世界を逐はれて、歐洲人に交際を求めていつたことを、あなた樣は當然とお考へになりませう、かうしてこの一家は、仕事と友情との交はりからして或るフランス人の一家と結び、ドルサニ(印度人)ベルシェ(佛蘭西人)といふ※[#「示+土」、第3水準1-89-19]名の下に、大きなムスリン工場を創設し經營致しました。  このベルシェ夫人の邸で、エドモン・パンダヴォアヌ樣は、マリ・ドルサニ孃を識られ、このお方を愛せられたのでございます。この事は、このお方が實際に先程私の申し上げましたやうな若いお孃樣であつたといふ主要な理由から致しまして納得のゆく事でございまして、私の蒐めました證據はいづれも皆符合してその事を肯定致してをります、尤も私自身にはその事を語る資格がございません、なぜなら、私はそのお孃樣を存じあげませんし、私のダッカに※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]きましたのは御出發の後でしたから。  何故この方々の結ばうとしてをられた婚姻に邪魔がはひりましたか? これは私の扱ふべき問題ではございません。  ともかくも結婚式は擧げられ、ルクレルク~父樣に依り、我々の禮拜堂において、エドモン・パンダヴォアヌ樣とマリ・ドルサニ孃との結婚※[#「示+兄」、第3水準1-89-27]聖式は取り行はれました。結婚證明はその日我々の書類に記入せられました。もしお望みならばそれの寫しをお送り申し上げませう。  四年間エドモン・パンダヴォアヌ樣は奧樣の御兩親の邸で過ごされ、そこで大能の主に依り一人の女兒が與へられました。當時ダッカにゐてこの方々を識つてゐた人々はこの方々に關して良い想ひ出を抱いてをり、この方々を夫婦の手本と致してをります。この世の喜びに浸られたことではありませう、がそれはこの方々のやうな年頃にはあり勝ちのことでございます。若い人々のことは大目に見なければなりますまい。  ドルサニ・ベルシェ工場は長らく榮えてをりましたが引續き容易ならぬ損害を受けて全く破産し、ドルサニ夫妻は數箇月の間を置いて共にこの世を去り、ベルシェ家はフランスに歸りエドモン・パンダヴォアヌ樣は、英國人の家庭のためにあらゆる種類の植物や珍奇なものを尋ねてダルジーへ採集旅行に出かけられ、若い奧樣と當時三※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]位になられるお孃樣とをこれに伴はれました。  爾來ダッカには※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]られませんでした。しかしエドモン樣の度々便りをなすつた友達の一人から、及びエドモン・パンダヴォアヌ夫人とずつと文通してをられたルクレルク~父樣に消息を聞いてゐた~父の一人から、私は、エドモン樣がヒマラヤ山中、チベットの國境ひで、デラの町を踏査の中心として選ばれ、ここで幾年月を過ごされたといふことを知りました、この年月はその友人によりますと、なかなか收穫が多かつたさうにございます。  私はデラを存じません、が我々はこの町に布ヘ師を派遣してをりますゆゑ、もしあなた樣の搜査に役立つやうでございましたら、私は我々の~父の一人に手紙を送りませう、この※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の協力はたぶん搜査を容易ならしめることと存じます」。 [#ここで字下げ終わり]  つひに胸苦しい手紙はすんだ。最後の語を書きをはると直ぐ、末尾の[#「末尾の」は底本では「未尾の」]儀禮の極り文句は譯しもしないで、用紙をまとめ、急いでヴュルフラン氏のところへ行つた。氏は、壁に衝き當らないやうに、また憔《あせ》る心を紛らすために、※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]數を數へながら、部屋を端から端へ往き來してゐた。  ――遲かつたな。  ――手紙が長くて難しかつたものですから。  ――おまけに邪魔されたのではないか? わしはあの部屋の扉があいて締つた音を二度聞いた。  尋ねられてゐるのだから本當に答へなければならないと考へた。たぶんさうするのが、滿足な答も見つからずに考へ惱んでゐる樣々の問題に對する、すなほで正しい解決だ。  ――テオドール樣とタルエル樣とが部屋へおいでになりました。  ――ほう!  氏はこの點に立ち入りたさうな樣子だつた、が思ひとどまつて、  ――先づ手紙ぢや、その事はあとで聞かう、わしのそばに坐つて、聲を立てずに、ゆつくりと、はつきり讀んでくれい。  少女は言はれた通りに、どちらかといへば弱い聲で讀んだ。  時々氏は口を插んだ、しかしそれは自分の頭の働きに從つてであつて、彼女に言ひかけるのではなかつた、 ・・・夫婦の手本、 ・・・この世の喜び、 ・・・英國人の家庭? 誰の? ・・・友達の一人? 誰だらう? ・・・消息といふのはいつ頃からのことかな?  彼女が手紙のしまひまで來ると、氏は自分の印象をまとめてかういつた、  ――文章だけぢや。名前もない、日附もない、何とまあ、あの人たちのぼうつとした頭!  この苦情は自分に直接にいはれたのではなかつたのでペリーヌは答へずにゐた、そこで沈默が起り、これを、かなり長く考へこんだ後にはじめてヴュルフラン氏が破つた。  ――お前は、今英語をフランス語に直したやうにして、フランス語を英語に直すことができるか?  ――えゝ、餘り難しい文句ではないのでしたら。  ――電報は?  ――できると思ひます。  ――それでは、その小さな卓について、書いてくれ。  彼は書き取らせた。   「ダッカ、傳道ヘ會、  フィルデス~父殿  手紙有難う。返信料二十語分※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]納。消息を受けたる友達の名前、それの最近の日時電報にて返事乞ふ。デラの~父の名前も乞ふ。當方より直接問ひ合はす旨その~父に豫め傳へられたし。 [#地から2字上げ]パンダヴォアヌ」  ――これを英語に直すんぢや、なるべく短くするやうにせい、一語が一フラン六十サンチームだからむやみに使つてはならぬ、讀み易いやうに書いてくれ。  彼女は、かなり早く飜譯を仕上げてそれを大きな聲で讀んだ。  ――語數は?  ――英語で四十五ございます。  氏は聲高く計算して、  ――すると電報料が七十二フラン、返信料三十二フラン。合計百四フラン、今それをお前に渡すから、自分で電信局へ持つていつて取扱※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]に讀んでやれ、間違ひをされるといけないから。  ヴェランダを切らうとすると、タルエルが、事務室と庭で起る一切のことを見張るやうにして兩手をかくし[#「かくし」に傍点]に入れて、そこを※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゐた。  ――どこへ行く?  ――電信局へ電報を打ちに參ります。  少女は片手に電報を、もう一つの手にお金を持つてゐたが、電報をひどく※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]く引つたくられたので、もし放さなかつたら破れてしまつたであらう。彼はすぐそれを開いてみたが英語だつたので、むつとした。  ――後程お前に聞くことがある。  ――はい。  彼女は三時になつてやつと出發のためにベルで呼ばれてヴュルフラン氏に會つた。誰がギヨームの代りをするのかしらと一度ならず考へたが、ココを曳いて來た馭※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を返した後、自分のに坐るやうにとヴュルフラン氏がいつたので、大へんびつくりした。  ――お前は昨日上手に驅つてくれたのだから、今日だとて上手にやれないことはない。話したい事もあるし、それには二人だけのはうがよい。  彼らの通るのを見て村人は昨日と同じ好奇心を見せた。村を出はづれて、草刈りの最中であつた野原を切つて靜かに走つてゆくと、それまで默つてゐたヴュルフラン氏は始めて、口を開いた。ペリーヌは大そう困つた、できることなら、自分にとつて危險のたくさんあるやうに思はれるあの※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明をする時機を、もつと延ばしたかつたのである。  ――テオドールとタルエルが部屋へ來たさうぢやな?  ――はい。  ――何をしに來たのぢや?  少女はぐつと胸が塞がつて躊躇してゐた。  ――なぜに、躊躇する? お前はわしに何でもいふはずではないか?  ――はい、何でも申し上げなければなりません、でもやつぱり躊躇いたします。  ――しなければならない事をする時には決して躊躇してはならぬ。もし默つてゐなければならない事なら、默つてゐよ、もしわしの質問に、――わしは質問してをるのぢやから、――答へなければならないと思ふなら、答へよ。  ――御返事しなければならないと思ひます。  ――聞かう。  彼女はテオドールと自分との間に起つたことを、一言も言ひ加へず、また言ひ落としもせず正確に語つた。  ――それだけか? とヴュルフラン氏は話がすむと尋ねた。  ――はい、それだけです。  ――ではタルエルは?  彼女は、甥について述べたことを、監督についてもありのままにのべ始めた、ただし、あの「不用意に餘り出しぬけに惡い消息を知らせると、あの人の生命にかかはる」といふ文句はいはないでおくため、ヴュルフラン氏の病氣に關した點は少々取り繕つた。次にタルエルの最初の試みを語つた後、電報について起つた事をのべ、今夕といふことになつてゐる面談のことをも匿さなかつた。  話しながら少女はココを勝手に※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]かせておいた、そこでこの年寄りの馬は、なまぬるい微風に吹かれて鼻先きへやつて來る乾いた秣のよい香をかぎながら、靜かに體を動かしてゐた。この微風は同時に鎌をふるふ音をも運んで來たので、馬は、自分の若い頃、やがては埃だらけの道を車を曳き、苦勞し、鞭やひどい仕打ちを忍ばなければならなくなるだらうなどとは思ひもせずに未だ仕事もないので野原をあちらこちら、牝馬や仲間の幼い馬たちと一獅ノ驅け※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたことを、想ひ出してゐた。  少女が默ると、ヴュルフラン氏は長いこと何もいはずにゐた。少女はじつと眼をそそいでゐることをさとられずに彼を熟※[#「示+見」、第3水準1-91-89]することができたから、彼の顏に、おそらくは不滿と悲哀とから成つてゐるらしい苦しさうな不安が浮ぶのを見た。つひに口を開いて、  ――何よりも先づ、わしはお前を安心させなければならぬ。お前の言つたことは誰にもいはぬ、お前が喋つたためにお前に災ひが起るやうなことはないし、さやうな誘惑を正直に拒んだお前に向つてもし誰か復讐しようとする※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]があつても、わしはお前をかばつてやるから心配は要らぬ。しかしわしは起つた事には責任がある。一たい人の好奇心を呼ぶに決まつてゐたあの手紙に關しては何もいふなとお前にいひつけた時、わしはさやうな誘惑を豫感してゐたのぢや、だからわしはお前をさういふ目に逢はさぬやうにしなければならぬ所だつた。今後はもうこんなことはさせぬ。明日からはお前は、人の尋ねて來るおそれのあるベンディットの事務室をよして、わしの部屋へ來て、今朝お前が電報を書いたあの小さな机につくがよい。わしの前ならまさかお前に問ひかけもすまい。しかし事務所以外の所、フランソアズの宿で誘惑されるかも知れぬから、今夜からわしの邸の部屋をやらう、わしと一獅ノ食事をせよ。わしはこれから印度と手紙や電報のやり取りをすることになると思ふが、それはお前にだけ見せるつもりぢや。内證にしておかなければならぬ消息を、人がお前から、無理やりに奪はうとしたり、巧みに聞き出さうとしたりしないやうに、用心しなければならぬ。わしの傍にをればお前は安全といふものぢや。なほまたこれは、お前を喋らさうとした連中に對するわしの返答にもなり、今後も誘惑しようとする※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]には警告にもなる。結局これがお前に對する褒美ぢや。  ペリーヌは、始めふるへてゐたが、すぐに落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた。今はもう激しく喜びにゆすぶられてゐたので、返事の言葉が一つも見つからなかつた。  ――わしはお前が貧乏との戰ひに示した勇氣を見てお前を信用した。お前のやうに勇敢な※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は正直な※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]ぢや。お前は、わしの眼に狂ひのなかつたこと、わしがお前を十年の知己のやうに信ョできるといふことを證據立てた。お前はここに來てから、わしを羨む皆の聲を聞いたに違ひない、ヴュルフラン氏の地位についたら、ヴュルフラン氏になれたら、どんなに仕合せだらう! と。ところが實をいふとわしの生活は辛い、とても辛い。職工どもの一番貧乏な※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]よりもなほ難儀でなほ苦しい。財産なんぞ、それを樂しむ健康がなかつたら、何だらう? 何よりも重い荷物に過ぎぬ。わしは兩肩に負うてをる荷物で潰されさうぢや。※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]朝わしは思ふ、七千人の職工がわしにョつてわしのお蔭で生きてをる、わしは職工のために考へ、働かなければならぬ、わしがゐなくなつたら災難ぢや、皆貧乏になつてしまひ、大抵の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は飢ゑ、おそらく死ぬだらう、と。わしはあの連中のために、またわしの喜びであり光榮であるわしの立てた工場の名譽のために進まなければならぬ――ところでわしは盲目ぢや!  しばらく途切れた。この激しい悲嘆を聞いて、ペリーヌの眼には一ぱい※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]が溜つた。しかし間もなく氏は續けて、  ――お前は、わしに一人の息子があることを、村人の交はす話で知つてゐるに違ひない、またお前が譯したあの手紙でもそのことを知つたらう、がこの息子とわしとの間には、わしの話したくないあらゆる種類の理由から大きな爭ひ事があつて別れ、あれがわしの反對にも構はず結婚を取り決めた後は、すつかり仲違ひをしてしまうた、しかしわしの愛情は消えはしなかつた、なぜといふにわしは、こんなにも久しい年月を經たが、今だにあれをわしの育ててゐた時分の子供みたやうに思つてあれを愛してをるからぢや、あの子のことをつまりわしにとつてはあんなに長かつた晝と夜とのことを思ふと、一人の幼い子供がわしの見えぬ眼に浮ぶ。あの子は、自分の父親よりもあの女子《をなご》を愛して、たわいもない結婚をして妻にしてしまひをつた。わしはその女子を迎へ入れることはできなかつたし、さうしなければならぬ譯もなかつたから、あれはわしの所へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]らずに女のそばで暮すことに應じた。わしはあれが折れて出るだらうと思つてゐた、あれのはうでもわしが折れて出るだらうと考へてゐたに違ひない。がわしらは同じ氣質の人間で、どちらも折れはしなかつた。もう消息も※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えてしまうた。健康をそこねてからは、あれが※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてくるだらうと思つてゐた。あれはわしの病氣のことをきつと知つてゐたに違ひない、なぜといふに此處で起る出來事をあれが知らされてゐたと考へる理由は十分わしにあるからな。あれは※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて來なかつた、確かにあの女が、あれをわしに取られたくない、自分のそばに置いておきたいといふので、引き留めたのぢや、淺ましい女めが!・・・  ペリーヌはもう息も吐かず、ヴュルフラン氏の言葉に遮られて聞き入つてゐたが、この言葉に口を插んで、  ――でもフィルデス~父樣の手紙には「聰明、深切、柔和、優しい氣性《きだて》、正直な性格、實にいい性質に惠まれた若いお方」とありました。淺ましい女をそんなふうにはいへませんわ。  ――手紙の文句が事實に對抗できるかな? 大たいあの女は、ああいふ手合ひの女らしく身を引いて、わしの息子が當然あれのものである生活を此處で再び見つけて送るやうにしむけなければならぬところを、そばに息子を引き留めてをる。わしがあの女に腹を立てあの女を※[#「りっしんべん+曾」、第3水準1-84-62]んだ大きな事實といふのは、その事ぢや。結局あの女のお蔭でわしらは離れてしまひ、お前も知つてのとほり、幾ら搜索させても居處さへ知れぬ。  この搜索に色んな邪魔のはひる事はお前もまた知つてをる。ところで或る特殊の事情があつてこの面倒がこみ入つたものになつてをり、わしはその事情をお前に※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明する必要があるのぢや、恐らくお前ぐらゐの年頃の子供には分り兼ねるかも知れぬが、しかしお前は、わしの信ョを受けて仕事を助けてくれるのだから、大體は分つて貰はなければならぬ。わしの息子の長い間の不在、行方不明、わしらの仲違ひ、息子についての最後の消息を受取つてから流れた長い年月、かういふものが、どう避けやうもなく、或る種の希望を人々に起させたのぢや。つまり、もしわしが荷物を全く背負ひ切れなくなつた時わしの地位につき、わしが死んだ時わしの遺産を繼ぐのに、息子といふものがゐなかつたら、誰がその地位に就く? 誰に財産は※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]る? かういふ問題の蔭で待ち伏せしてゐる希望といふものは、お前に分るかな。  ――どうにか分ります。  ――結構ぢや、いつそこれは少しも分らなくとも構はぬ。さういふわけでわしの身邊には、わしを援助してくれるはずの連中の中には、息子が※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて來なければよいがと思ひ、その事を思ふと心が落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]かず、ただもうそれだけの理由で、息子を死んだと考へてゐるらしい連中がゐる。死んだなぞと、わしの息子が! とんでもない! そんな恐ろしい不仕合せを~樣がわしに下さるものか! あの連中はさう考へるかも知れぬ。わしには考へられぬ。エドモンが死んだらわしはこの世で何をしよう? 自然の法則は、子が親を失ふといふことであつて、親が子を失ふといふことではない。とにかくさやうな希望は狂氣の沙汰ぢや、わしはそれを證據立てるいづれ劣らぬ立派な理由を、いやといふほど持つてをる。エドモンがもし事故で死んだのならわしはそれを知るはずぢや、あれの嫁が一番先きに通知してもくれたらう、エドモンは、だから死んではをらぬ、死んだはずはない。わしは反對を信ぜぬ父親ぢや。  ペリーヌは、もう眼をそそがず、まるで見られでもしてゐるかのやうに眼をそらせて顏を匿した。  ――それを信ずる連中は死んだと思つてをる、そこでそれ、あの連中は知りたがるし、同時にわしはわしで用心して、搜索に關する事柄は一切祕密にしようとするのぢや。わしはお前に匿さずにいふ。先づ、わしと一獅ノやる仕事、つまり息子をその父親へ返すといふ仕事を知つて貰ひたいからぢや。お前は十分眞心を持つて忠實に努力してくれることを確信してをる。わしは重ねてさういひたい、なぜといふにわしの生き方はいつも、自分のすることを包まずに述べて、目的へ眞つしぐらに進むといふ事だつた。をりをり惡賢い奴らはわしを信じようとせず、わしをまやかし※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]と考へをつた、が、こ奴らはいつも罰を受けた。※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]にお前を係蹄《わな》にかけようとした※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]がある。これからも未だするだらう、あり得ることぢや、手をかへ品をかへて。お前に豫め知らしておく、わしのしなければならぬ事はそれだけぢや。  二人は、マロクールから一番遠いエルシュの工場の煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]の見えるところに來てゐた。更に少し走つて、村へはひつた。  ペリーヌは氣も※[#「眞+頁」、U+985A、2128-6]倒し、ふるへながら返事の言葉を見つけたが見つからなかつた、感動に心は自由を失ひ、咽喉は塞がり、脣は干からびてゐた。つひに聲をあげて、  ――私は、心からあなたの爲に盡しますと申し上げなければなりません。 [#2字下げ]三十二[#「三十二」は小見出し]  夕方、工場巡囘がすむと、いつもとちがひ事務室に引返すのを止したヴュルフラン氏は、ペリーヌにいひつけて眞直ぐに邸に向はせた。彼女は始めて、金屬工藝の傑作である堂々たる金色の柵門を越えた、この柵門は人の語るところによると、最近の博覽會において王樣も手に入れることができなかつたが、この富豪の實業家は、その別莊用としてもそんなに高價だとは思はなかつたといふ。  ――ぐるつと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐる大きな道を行つてくれ!  少女はまた始めて、目近に、それまでは遠くからしか眺めたことのない花の茂みが、短く刈込んだ芝生の濃いビロードの上に點々と赤色や薔薇色をしてゐるのを見た。ココはこの道になれてゐるので靜かな足取りでのぼつてゆく、そこで彼女は驅る必要もなく、眼を左右の、※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]景として孤立させるに値ひするほど美しい花壇や、植物や、灌木に向けることができた。思ふに、主人はこれらのものを昔のやうに眺めることはできなくなつたが、庭の整頓は少しも變らず、朝な夕な、主人が鼻高々と見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた時分と同じやうに丁寧に手入れされ、金をかけて飾られてゐたのである。  ココはひとりでに大きな踏段の前でとまつた。そこには、門番に鐘で通知されてゐた一人の老僕が待つてゐた。  ――バスチアン、ゐるかい? ヴュルフラン氏は降りないできいた。  ――はい、御主人樣。  ――お前、この娘をな、蝶の間《ま》へ案内しておくれ、そこをこの娘の部屋に當てよう。お前はこの娘が身じまひするのに必要な物を何でも與へてやるやうに、氣をつけておくれ。それから食器はこの娘のと向ひ合せに置くやうに。ついでにフェリックスをよこしてくれ、わしは事務所へ行くから。  ペリーヌは夢ではないかと思つた。  ――晩餐は八時にする、それまでお前はひまぢや。  少女は馬車を降り、魔法の宮殿にでもつれ込まれたやうに、うつとりして老僕についていつた。  實際、赤い絨氈の敷いてある白い大理石の堂々たる階段、この階段に通ずる宏壯なる大廣間には、どこかに宮殿らしいものがないだらうか? 階段の休み場※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]に、きれいな花が※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]葉の植物と一獅ノ大きな盆栽棚に集められてゐて、その香りが閉ぢこめられた空氣中に漂うてゐた。  バスチアンは彼女を三階に案内し、自分でははひらずに一つの扉を開いて、  ――只今小間使をよこしますから、といひながら引き下つた。  暗い小さな入口を通ると、大へん明るい大きな部屋に出た。敷きつめられた象牙色の織物には、そこここに鮮かな色の蝶々がひらひら飛んでゐる。家具は斑點のある楓材で作られてをり、灰色の敷物の上には、雛菊、美人草、矢車菊、きんぽうげなど、野の花の束がいきほひよく浮き出てゐた。  何と新鮮で美しいこと!  少女は驚歎から醒めやらず、彈力のあるやはらかい敷物を足で蹈むのになほも興じてゐた、すると小間使がはひつてきて、  ――バスチアンからお孃樣の御用を伺ふやうにとのことでございましたので。  幾日か前には、鼠や蛙と一獅ノ、沼の中で、小屋の葦の寢床に寢た娘の御用をききに、明るい身なりをしてツル織の被り物をつけた小間使が! 少女は我に返るのにちよつとひまどつた。たうとう言つた。  ――どうも有難う、別に何もございません・・・と思ひます。  ――でももしお孃樣がおよろしうございましたら、お部屋を御覽にいれませう。  「部屋を見せる」といふのは鏡附きの衣裳※[#「竹かんむり/單」、第3水準 1-89-73]笥や、※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]棚や、それからブラシ、鋏、石※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]、壜の一ぱいはひつた化粧机の抽斗《ひきだし》、さういふものを開けることだつた。それがすむと小間使は、壁紙の中に取付けたボタンに手をかけて、  ――これが呼び鈴でございます、これが電燈でございます。  忽ち部屋も入口も化粧室も、まばゆいばかりの光で輝いた、がまた忽ち消えた。ペリーヌは、自分が未だ巴里の近くの野原にゐて、夕立に襲はれ、空が裂けて閃光が道を照らしたり、闇でそれを消したりしたやうに思つた。  ――お孃樣、御用でしたら呼び鈴でお呼び下さいまし、バスチアンならば一度、私ならば二度お押しになつて下さいまし。  しかし「お孃樣の御用」といふのは、自分の部屋にゐたいし心を落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]かせもしたいから、自分を孤《ひと》りにしておいてほしいといふ事だつた。けさからの出來事で我に返るひまがなかつたのである。  何時間かのあひだに何といふ出來事! 何といふ思ひがけない事柄! 今朝、テオドールとタルエルの脅迫をうけて身に大きな危險を感じてゐた時、風の向きは反對に、大へん良くなつてゐたのだといふことを、誰が知つてゐたらうか? この連中の敵意が反つて彼女を仕合せにしたのだ、さう思ふと笑へてくるのは、ふしぎなことであらうか。  しかしヴュルフラン氏を事務所の階段の下で迎へる監督の顏を見ることができたら、彼女はどんなに一そうひどく笑つたことであらう。  ――察しますにあの娘が何かへまなことでもいたしましたので?  ――いやいや。  ――でもあなたはフェリックスに連れ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]られておいでで。  ――それは、わしがあの娘を通りがけに邸に置いてきたからぢや、晩餐に身仕度するひまがあるやうにな。  ――晩餐! あの、察しますに・・・  彼はひどくたまげてしまつたので、どう察していいか直ぐには分らなかつた。  ――察するに、とヴュルフラン氏は言つた、君はどう察してよいか分らぬやうぢやな。  ――・・・察しますに、あなたがあの娘と御一獅ノ晩餐をなさいますので。  ――如何にもさうぢや。わしは以前から、賢くて、愼み深い、誠實な、信ョできる※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]をそばに置きたいと思うてをつた。ちやうどあの娘が、さやうな性質を全部備へてゐるやうに見える。あの娘は確かに賢い、それからまた愼み深くて誠實ぢや、これには證據がある。  これは力を込めてはいはれなかつたけれど、タルエルがその言葉の意味を取り違へるわけにはゆかないやうな言ひ方であつた。  ――ですから私もあの娘を採りましたので。ところで私は、あの娘を或る危險にさらして置きたうございません、――いえ、危險と申しましてもあの娘の受ける危險ではございません、あの娘の受ける危險ならあの娘がそれに參つてしまふやうなことはあるまいと確信してをりますから、それではございませんでつまり他人を襲ふ危險、――これにさらして置きたうございません、さう致しますと私は他の連中から離れなければならなくなるのでございまして・・・  ヴュルフラン氏は語勢を※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]めて、  ――それがどんな危險であるにせよ、あの娘はもうわしのそばを離れさせぬ、ここではわしの部屋で働かせる。晝の間はわしのお伴をさせる、食事はわしの食卓でさせる、あれのお喋りでわしの食事も賑かになり、氣もめいらなくなるだらう。わしはあれを邸に住まはせる。  タルエルは冷靜に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]ることができた、さうして、主人の考へに對しては明白にはどんな僅かの異議をも唱へないといふのが、この男の性格でもあり行爲の方針でもあつたので、  ――察しますにあの娘はあなたにあらゆる滿足を與へることでございませう、御期待は甚だ御尤ものことと存じます。  ――わしもさう思ふ。  この間ペリーヌは、窓の露臺に肱をついて、眼前にひろがる景色を眺めながら夢みてゐた。  花の咲いた庭の芝生、工場や村、その村の人家やヘ會堂や、野原や、夕日の斜の光の下で銀色に光つてゐる池、それと相對して向ふ側に木立ち、あそこで自分は、ここへ※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた日、腰を降ろして夕暮の微風の中で、「お前は仕合せになる」とお母さんのささやく優しい聲をきいたのである。  戀しい母は未來を豫見してゐたのだつた、またあの大きな雛菊も、母のいはせた御告げを傳へて本當のことを知らせてくれた、仕合せになる、と。少女は仕合せになり始めてゐる。たとひ完全に成功したとは未だいへなくとも、大分成功したとさへいへなくとも、少くとも、僅かばかり以上には成功する※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]態にゐることを、少女は認めてよかつた。辛抱※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]くしてゐるなら、さうして待つことを知るならば、殘りのものは來る時に來る。今は何が彼女を惱ませてゐたらう? こんなにも早くお邸にはひつた彼女は、貧困にも缺乏にも惱まされてはゐなかつた。  工場の汽笛がひける時刻を告げたとき、少女は未だ露臺に倚つて、夢の中を飛んでゐた、そこで汽笛の鋭い音は少女を未來から現在の世界へ引き※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]した。すると※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]の野原、※[#「廣−广」、第3水準1-94-81]色の畠を貫いて走る白い街道や村の往來を見降ろす展望臺の高みから、職工たちのKい蟻の群がひろがるのが見えた。それは始めぎつしり詰まつた大勢の人込みであつたが、間もなく幾つもの流れとなり、限りなくこまかに分れていつて、やがてもう僅かな人影に過ぎないものとなり、それも忽ち消えてしまつた。門番の鐘が鳴つた、さうしてヴュルフラン氏の馬車が、年寄りのココの靜かな足竝みで※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた路を登つてきた。  しかし少女は未だ部屋を出なかつた、さうして言ひ付けどほり、身じまひをした。少女は餘念もなく、オー・ドゥ・コローニュや石※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]を――本當にいい香ひのする、よく泡立つ、油けの多い上等の石※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]を、實に惜しげなく使ふのであつた、さうして煖爐の上の時計が八時を報じたとき始めて階下へ降りた。  食堂はどこにあるのかしらと思つてゐたが搜すまでもなかつた。廣間にゐたKい洋服の召使が案内をしてくれた。程なくヴュルフラン氏がはひつて來た。誰にも手を曳かれてはゐなかつた。彼女は氏が、敷物の上に置いた雲齋布《うんさいぬの》の道を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてきたのに氣づいた、その道が足を案内してくれ、眼の代りになつたのだ。心よく香ふ蘭の花籠が食卓の中央を占め、金彫のどつしりした銀器や切り子の硝子器が列んでをり、その面は、釣り燭臺から落ちてくる電氣の光をきらきら反射してゐた。  彼女は、どうしたらよいのかよく分らないで、ちよつと自分の椅子のうしろに立つてゐた。幸ひヴュルフラン氏が助けに來てくれた。  ――掛けるがよい。  すぐにお給仕は始まつた。案内した召使が前にスープを置くと、バスチアンは、なみなみと注いだもう一つを主人のところへ運んできた。  ヴュルフラン氏と二人きりで食べるのであつたら氣が樂だつたらう。が二人の給仕人が、上品だがしかし物珍しさうな眼を集めて、一たいああいふ小娘といふものはどんな食べ方をするのだらうと思つて見てゐるに違ひないと思ふと怯氣づいてしまひ、少し動作が堅くならずにはゐなかつた。  けれども幸ひへま[#「へま」に傍点]なことはしでかさなかつた。ヴュルフラン氏は言つた、  ――わしは工合が惡くなつて以來、スープを二はい飮むのが習慣での、そのはうがわしには便利なのぢや、しかしお前は、よく見えるのだから、わしと同じやうにしなければならぬことはない。  ――私も、長いことスープ無しでゐましたから、二はい頂きますわ。  しかし出されたのは同じスープではなく新しいもので、百姓の飮むのと同じやうに質素な、人參と馬鈴薯のはひつたキャベツのスープであつた。  のみならず御馳走が大たいにおいてこの質素を守つてゐたのであつて、それは豌豆をそへた羊の股の肉と、サラダとから成り立つてゐたのだが、しかし晩餐後の食べ物は例外で、これは脚附きの四つの皿に盛つたお菓子と、砂糖煮の四つの容器に入れたすばらしい果物とであつた、この果物は、大きさや立派さからいつて、銀の大鉢の花によく釣合ふものであつた。  ――お前は明日、なんだつたら、この果物の出來た※[#「さんずい+慍のつくり」、第3水準1-86-92]室を見にゆくがよい。  少女は控へ目に櫻ン坊を幾つか取りはじめた、しかしヴュルフラン氏は、杏子《あんず》や、桃や、ぶだうをも取るやうにすすめた。  ――わしがお前の年頃だつたら、食卓の上の果物は皆平らげてくれるのぢやが・・・もし自分に出されたとしたら。  するとこの言葉に促がされたバスチアンは、ヴュルフラン氏の椅子のうしろに立つてゐたがそこを離れて、果物にくはしい目で杏子と桃とを選び、それらを、まるで學※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]猿にでも向つてしてやるやうに、「この小娘」の皿の上に置いてくれた。  果物は未だあつたけれど食事はすんだのだと思ふとペリーヌは嬉しかつた。品定めされるのは短いほどいい。明日は召使の好奇心も滿足して、たぶん自分をそつとしておいてくれるだらう。  ――お前はもう明日の朝までひまだから、と氏は食卓を立ちながらいつた、月夜の庭を散※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]するなり、書齋で讀むなり、お前の部屋へ本を持ち出すなりするがよい。  少女は、ヴュルフラン氏に何か御用をしてあげてゐたいと申し出てはいけないだらうかと思つて、當惑してゐた。もぢもぢしてゐるとバスチアンが自分に向つて無言の身振りをするのである、始めの中は分らなかつたが、どうやら左手に本を持つて右手でそれをめくる樣子らしい、次にそれをやめて生きいきした顏で脣を動かすヴュルフラン氏を眞似た。ヴュルフラン氏に本を讀んであげませうかと尋ねるがいいといつてゐるのだな、と少女はとつさ[#「とつさ」に傍点]にさう思つた。しかし少女は※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]にさういふ意向を持つてゐたので、バスチアンの考へといふよりは自分の考へであるものを口に出すのが怖かつた、がやつてみた。  ――でも私に御用はございませんか? 本でも讀んで差上げませうか?  彼女は嬉しかつた、バスチアンが大げさに頭を動かして自分をほめてくれるのである。よく見拔いてくれた、まさしくさう言つて貰ひたかつたのだ、と。  ――働くときには、自由な時間といふものを持つものぢや、とヴュルフラン氏は答へた。  ――本當に私はちつとも疲れてはをりませんの。  ――それならわしの部屋へついて來い。  そこは廣い暗い部屋で、食堂からは廊下で距てられてをり、布の道がそこへ通じてゐるので、ヴュルフラン氏は自由に※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゆくことができた、なぜなら氏は迷ひ兒になるはずはなかつたし、頭の中でも、兩脚でも、距離を正しく心得てゐたから。  ペリーヌは一度ならず考へたものだつた、ヴュルフラン氏は讀むことができないのだが、してみると一人の時は一たい何をして過ごしてゐるのだらうと。しかしこの部屋は、氏が照明のスヰッチを押しても一向この疑問に答へてはくれなかつた。家具としては、書類や厚紙挾みを載せてある大きな机と腰掛、それだけだ。窓の前に大きな安樂椅子がある、しかし周圍には何もない。けれどもその安樂椅子に張つてある綴織のいたんでゐるところから察するに、ヴュルフラン氏は、雲さへ見ることのできない空に向つて、この椅子に長い間坐つてゐるものに違ひなかつた。  ――何を讀んでくれようといふのぢや?  新聞がさまざまの色の帶で包んで卓上に置いてあつた。  ――もし何でしたら新聞を。  ――新聞にかける時間は短いほどよい。  少女は、ただ何かしら言ひたくてさういつたのだから、別に返事もしなかつた。  ――お前は旅行の本なぞは好きかな?  ――はい。  ――わしも好きぢや。旅行の本は面白い、頭が働いて。  それから少女がそこで聞いてゐず、まるで獨りごとをいふやうにしながら、  ――それに我を忘れるし、自分の暮しとは違つた暮しを送ることができるし。  しかし一瞬の沈默後、少女のはうへ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて、  ――書庫へ行かう、といつた。  書庫はこの部屋に通じてゐて一つの扉をあけさへすればよく、電燈もボタンを押しさへすればよかつた。しかし唯一つの電燈がついただけだつたので、Kい木の書架のある大きな室は、暗いままであつた。  ――『世界巡り』といふのを識つてをるか?  ――いいえ。  ――それならアイウエオの表を見て引いたら分る。  彼女は、その表の置いてある書架へ連れてゆかれ、表を搜すやうにといはれた、少し手間取つたが、たうとうその表に手をかけて、  ――何を引きませうか?  ――イのところで、印度といふ語ぢや。  かういふ工合にヴュルフラン氏はいつも自分の意向を追ひつづけるのであつて、さつき他人の生活を送りたいやうなことをいつたやうに見えたが、さうした考へは全然持つてゐなかつたのである、なぜなら彼の疑ひもなく望んでゐたことは、自分が息子を搜させてゐるあの地方の記事を讀んで、息子と同じ生活をするといふ事にあつたからである。  ――何がある、言つてみい。  ――『※[#「言+睹のつくり」、第3水準1-92-14]王の印度』、中央印度の※[#「言+睹のつくり」、第3水準1-92-14]王國竝びにベンガル管區における旅行。一八七一ノ二、二〇九−二八八。  ――つまりそれは、一八七一の第二卷を見れば、二〇九頁から旅行記が始まつてゐるといふことぢや。その第二卷を取つて、わしの部屋へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]らうかの。  ところが、低い棚の上のこの本に手をかけた時、うす暗がりに次第に慣れていつた眼は、煖爐の上に置いてあつた一つの寫眞を見とめ、そのまま身を起さずにじつとしてゐた。  ――どうした?  少女はすなほにしかし感動した聲で答へた。  ――煖爐の上の寫眞を見てをります。  ――それはわしの息子の二十※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]の時のものぢや、が見えにくからう、今電燈をつけよう。  氏は板壁のところへ行つてボタンを押した、すると額《がく》の上と寫眞の前とに取り付けた小さなランプの灯が寫眞に一ぱい光をあびせた。  ペリーヌは身を起して數※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]近づいたが、聲をあげて、持つてゐた『世界巡り』を落してしまつた。  ――どうしたのぢや?  しかし彼女は返事をしようと思はず、じつとその若※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]に眼をそそいでゐた。その若※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は、金髪で、※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]のビロードの狩衣を※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]、ひさしの廣い、深い鳥打帽をかぶり、片方の手は銃にそへ、もう一方の手は、生きた幽靈のやうに※[#「塀」の「并」に代えて「餠のつくり」、第3水準1-15-58]から飛び出して來たKいスパニエル犬の頭をなでてゐた。少女は頭の先きから爪先きまでふるへた、さうして※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]は瀧のやうに顏を流れたが、じつと見つめることに我を忘れ、引きこまれて、それを止《と》めようとは思はなかつた。  彼女は沈默を守つてゐたのに、この※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]がつい感動を外に洩らした。  ――なぜ泣く?  答へなければならない。一所懸命に努力して、自分の言葉を思ふやうに操らうとした、しかし聞いてみると、それが全く成つてゐないものであるのを感じた。  ――この御寫眞が・・・お子樣は・・・あなた樣はこのお方のお父樣で・・・  氏はちよつと、わけが分らずに差しひかへてゐた、それから同情して感動した口調で、  ――お前も身寄りの※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]のことを考へたのか?  ――えゝ、さうなのです・・・さうなのです。  ――可哀さうにのう! [#2字下げ]三十三[#「三十三」は小見出し]  翌朝、相變らず遲刻した二人の甥は、叔父さんの部屋へ手紙開きをしにはひつて來た時、ペリーヌがまるでそこから動いてはならないもののやうにして机についてゐるのを見て、どんなに驚いたことだらう!  タルエルはこの二人よりも先きに來るやうなことは差控へてゐた、が二人の來た時分には自分もそこにゐて「奴さんたちを愚弄してやらう」といふ手筈をしてゐた。  その驚きはタルエルにとつて全く滑稽な從つてまた樂しみなものであつた。なぜならタルエルは、保護もなく味方もないのに一夜にして老人の老いの弱みにつけ込んだこの乞食娘の闖入に憤※[#「漑」の「さんずい」に代えて「りっしんべん」、第3水準1-84-60][#底本では「りっしんべん+皀+旡」]してはゐたが、しかし甥たちが自分と同じやうに憤※[#「漑」の「さんずい」に代えて「りっしんべん」、第3水準1-84-60]するさまを見るのは少くとも一つの埋合せであつたのである。だから二人が、怒りと驚きとをこめた焦《じ》れつたそうな眼差しをペリーヌにそそぐのは、何たる面白いことだつたらう! 明らかに二人は、この~聖な部屋に娘のゐるわけを少しも知らなかつた、この部屋には自分たちでさへ、叔父の與へる※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明をきくためとか自分たちの引受けてゐる仕事の報告をするためとかに必要なだけの時間しかゐないのだ。二人は、思ひきつて肚を決めるわけでもなく、苦情なり質問なりを口に出してみようとさへもせずに、相談し合ひながら眼を交はすので、タルエルは、別に自分の滿足と嘲笑とを匿さうともしないで笑ひ出してしまふのであつた、なぜならこの男たちの間で公然の戰ひは宣言されてゐなかつたとしても、彼らがめいめいの側で、すなはちタルエルは甥たちに對し、甥たちはタルエルに對し、また甥たちはお互ひに抱いてゐたあのひそやかな希望から生れる相互の感情がどんなふうなものになつてゐるかを知り合つた日はあつたのである。  平常タルエルは、物腰だけはつつましやかに禮儀を守りながら皮肉の微笑、輕蔑の沈默をもつて敵意を示して滿足してゐた、がその日タルエルは、しばらくのお慰みとなるであらう自分流の芝居をこの男共に向つて演じてやりたいといふ慾望を抑へることができなかつた。ヘッ! 奴さんたちは、家柄を笠に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]て何でもできると思つておれに向つては柄だ――一人は工場主の兄の息子、もう一人は姉の息子、つまり甥なんだから監督よりはずつと上だと、ところでおれは、職工の倅に過ぎんが、この華やかな工場の成功のために働いた。工場の一部はいや大部分はおれのものなんだ、なあに! 奴さんたちは今に思ひ知る。ヘッヘッヘ!  タルエルは二人と一獅ノ外へ出た。二人は急いで自分たちの事務室へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて自分たちの印象を語り合ひ、はひりこんで來た娘に對して施すべき策を考へてみたさうな樣子であつたにも關らず、タルエルの手招きに應じた、――これは※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]にタルエルの勝利であつた、――さうしてヴェランダの下につれて行かれた。そこからは、ひそひそ話はヴュルフラン氏の部屋までは屆かなかつた。  ――あなた方は、あの・・・娘が、御主人の部屋にゐるのを御覽になつて、びつくりなすつたでせうな。  彼らは、彼らの驚きを認めることもできず、さりとて否定することもできないので、返事しないでゐるはうがいいと思つた。  ――私は知つてをりました、と彼は力を入れていつた、もしあなた方が今朝遲れていらつしやらなかつたら、私はあなた方がもつと落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いてゐられるやうに、豫め申しあげておくことができたのですがなあ。  かうしてタルエルは、彼らに向つて二重のお※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]ヘをしたのであつた、――すなはち第一のお※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]ヘで二人の遲刻したことをきめつけ、第二では理工科學校も專門學校も出てゐない彼が、二人の態度を正しくないと申渡したのである。この訓戒は少々|不手際《ふてぎは》なものであつたかも知れない、が彼のヘ育からいへばそれでよかつたのであつて、もつと氣の利いたものを搜さうなどとは思はなかつたのである。その上、事情が二人に對して遠慮しないでもよかつた。どんな事をいつたにしても、彼らは聽いたであらう。彼はこの情勢につけ入つたのである。  彼は續けて、  ――昨日ヴュルフラン樣から私に知らせがありまして、あの娘はわしの邸に住まはせる、今後はわしの部屋で働かせる、とのことでございました。  ――しかしあの娘は何※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]なんだい?  ――それは私のはうからお尋ねいたしますことで。私は存じません。ヴュルフラン樣だとて御存じはないと思ひます。  ――それで?  ――それで私に譯を仰しやいますには、わしは以前から誰か賢い、愼み深い、忠實な、十分信ョできるやうな※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]をそばに置きたいと思つてゐた、と。  ――我々がゐるではないか? とカジミールが口をはさんだ。  ――私もちやうどそのことを申しあげたのでございます、あなた樣はカジミール樣にテオドール樣をばお持ちではございませんか? カジミール樣は理工科學校に籍を置かれ、理論はもちろん、あらゆる事柄を勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]なさり、數學にかけては怖いものなしでございます。要するにあなた樣に大へんなついてをられます。またテオドール樣は幼い時分を御兩親の膝下で過ごされて、世間の事や商賣の事に詳しく、色々な骨折りをなすつて修養を積まれ、これまたあなた樣に深い愛情を持つてをられます。お二人とも賢い、愼み深い、忠實なお方ではございませんか、あなた樣は十分に信ョなされるのではございませんか? あの方々は、立派な甥御としてあなた樣を慰め、あなた樣を助け、あなた樣のお仕事のお骨折りをなくすやうにと、ただもうそればかりを考へてをられます。大へん情け深い、恩を忘れぬ方々で、また、同じただ一つの目的を持つてをられるものですから一つ心の兄弟のやうに結び合つてをられるのです。  タルエルは、特徴のある言葉をのべる※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]に力をこめてやりたかつたがそれを差控へた、しかし少くとも皮肉な言葉には嘲るやうな微笑をもつて力をこめた、さうしてこの微笑を、カジミールが數學に優れてゐることを話す時にはテオドールに向けたし、テオドール家の商業上の骨折りをいふ時にはカジミールに向けた、また同じただ一つの目的を持つた心からの兄弟といふことを※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]める時には二人に向けた。  ――どういふ御返事だつたかお分りですかな? と彼は續けた。  彼は一と息入れたかつた、が全部いひをはらぬ中に背中を向けられるといけないと思つて、急いで續けた。  ――かういふ御返事なんです、「あゝ! わしの甥共か!」。これは一たいどういふ意味ですかな? 私なぞはさやうな事を考へる柄ではございません、私はただお傳へいたしますだけでございます。で、あの娘を引き取つて自分の事務室に置かうとさう決心なすつた理由を申しあげるために、なほ仰しやつたことを急いで附け加へますと、あの娘をある危險に、――いえ、危險と申しましてもあの娘の受ける危險ではございません、あの娘の受ける危險ならあの娘はそれに參りはしまいと確信してをられますので、それではなくてつまり他の連中を襲ふ危險、これにさらして置きたくないのださうでして、さう致しますとヴュルフラン樣は、その他の連中といふのがどんな※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]であるにせよさういふ※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]からは離れなければならなくならうとのことでした。私は誓つて申しますが、仰しやつた言葉をそのままあなた方に繰返してゐるのでございますよ。さて、この他の連中とは一たいどの連中のことでせうな? お尋ねいたしますが?  彼らが返事をしないので疊みかけて、  ――誰のことを仰しやるのでせうな? あの娘を危險な目に逢はすかも知れぬといふその連中が何處にゐると仰しやるのでせうな? どんな危險でせうな? これはいづれも合點のゆかぬ問題ですが、しかしほかでもないそのゆゑに私はあなた方の御判斷にこれをお任せしなければならぬと思ひましてな、エドモン樣不在のため生れからいつてこの工場の上に立つてをられるあなた樣方の御判斷に。  彼はもう十分二人に對して猫の鼠に對する役割を演じた、がもう一遍うんと※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]くひッぱたいて彼らを刎ね上げることができると思ひ、  ――エドモン樣が今にも、おそらくは明日にも歸つて來られるらしいといふことは事實ですぜ、少くとも、ヴュルフラン樣がまるで火の出るやうに熱心に行方を搜索させてをられるあの搜索が當てになるといたしますと。  ――君はすると何か知つてゐるのかい? と好奇心を抑へるだけの自尊心のないテオドールがきいた。  ――いえ別にただ私が考へるだけでございますが。つまりヴュルフラン樣があの娘をお引取りになつたのは、印度から來る手紙や電報を譯させたいといふただそのためなんですな。  それから大げさに深切氣を見せて、  ――あなたが、カジミール樣が、あらゆる事を學ばれたといふのに、英語を御存じないとは、ともかくも殘念なことでございますな。事の次第がよくお分りになれるところですがなあ。その權利もないのにお邸にはひり込まうとしてゐるあの娘を追ツ拂ふことになるのは申すまでもございません。たぶんあなた方は、もつとよいほかの手段を見つけてこれに成功なさるに違ひありません。もしお役に立つやうでしたら私を當てにして頂きたいもので・・・むろん大した物にも見えますまいが。  と話しながら、當面の必要からといふよりはむしろ習慣の力で、時々相手に氣づかれぬやう、す早く庭のはうへ※[#「示+見」、第3水準1-91-89]線を投げてゐた。その時彼は、電報配達人が急ぎもせず、右へ左へ道草を食ひながらやつてくるのを見た。  ――ちやうど電報が來ました、ダッカ宛てに打つたやつの返事かも知れません。ともかくあなた方が、あの電報の内容を知つて令息のお歸りを一番先きに御主人にお知らせになるといふ工合にまゐらぬのは面白くありませんな。さぞお喜びでせうがな、えゝ? 私のはうはもういつでもいいやうにお喜びの用意が出來てをりますぜ。ところで、あなた方は英語を御存じないときてゐる、あの娘は英語を知つてゐる、あの娘は。  電報配達人は、どんなに足を前へ運ぶのを惜しがつても、たうとう階段の下まで來てしまつた。急いでタルエルはこれを迎へに出て、  ――おい、餘り早くないな、お前。  ――そんなに御心配なんですかい?  タルエルは答へず電報を取つて、やかましく音を立てながら、大急ぎで、ヴュルフラン氏のところへ持つて行つて、  ――私が開きませうか?  ――よろしい。  しかし點線のところを破るや否や叫んだ、  ――英語でございますな。  ――それならオーレリーの仕事ぢや、とヴュルフラン氏は、監督の服從せずにはをられない身振りでいつた。  扉が締まるとすぐ彼女は電報を譯した。  ――「友人ルセール、フランス人の商人、最近の消息五年前、デラ、マケルネス~父、よろしくば便りせられたし」。  ――五年前か、とヴュルフラン氏は先づこの知らせだけが身にこたへて聲をあげた。それ以來どんな事が起つたらうか? 五年も經つた後、どうして行方を尋ねたものか。  しかし無※[#「縊のつくり」、U+FA17、106-5]な嘆きに暮れるやうな人間ではなかつた。彼は自分から言つて聞かせるのであつた。  ――※[#「りっしんべん+誨のつくり」、第3水準1-84-48]《く》いたところで出來てしまつたことは仕方がない。それよりもわしらの知つてゐることを利用しよう。お前はすぐにそのルセール氏に、フランス人だからフランス語で、電報を打ちなさい、それからマケルネス~父にも英語で。  少女は、英語に直すはずの電文をすらすらと書いた、がフランス語で電信局に差出すはうのものは、始めの一行からペンが動かなかつた、そこでベンディットの部屋へ字引を取りに行つてもいいかどうかと尋ねた。  ――お前は綴り字に自信がないのか?  ――えゝ! 少しもございません。それであなたのお打ちになる電報を局で笑はれたくないのです。  ――するとお前は間違はずには手紙が書けぬのぢやな?  ――手紙を書きますと決まつてたくさんの間違ひをいたします。文句も始めのうちはどうやらゆきますけれど、しまひがけになつて一致の規則に從はなければならなくなりますと、もういけません、同じ字を二つ重ねて綴る處のある單語もだめですし、そのほかたくさんの事がだめなのでございます。綴りはフランス語より英語のはうがずつとらくでございますわ! かう直ぐにありのままを白※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]いたしておいたはうがいいと存じます。  ――學校へは行かなかつたのか?  ――參りませんでした。ただお父さんとお母さんとが、旅の都合次第で、腰をおろす時間が出來ましたり休んで土地に滞在したりいたしました折、ヘへて下すつた事しか存じません。そんな折、兩親は私を勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]させたものでした、でも本當は、私そんなに勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]はいたしませんでした。  ――ありのままを言つて感心ぢや。いづれそれは直すやうに考へる。差當りわしらの仕事をやらう。  午後工場巡囘の時、馬車の中で始めてヴュルフラン氏はこの綴り字の問題に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて、  ――お前は親戚の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]に手紙をかいたかな?  ――いいえ。  ――なぜぢや?  ――私は、いつまでもここにゐてあなた樣のおそばで深切なおもてなしを受け、こんなに仕合せな暮しをさせて頂ける限り、何もほしいと思ひませんので。  ――ではわしを離れたくないと思つてゐるのか?  ――私は※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]日何事につきましても、心の中の感謝の念を・・・そのほかまた現はす勇氣が出ませんが色々な尊敬の氣持ちを、示したいものと思つてゐるのでございます。  ――さういふことなら手紙を書かぬのが一番よからう、少くとも今の處では。まあおひおひ考へるとしよう。がわしの役に立たうといふのならお前もきばつて、多くの仕事に祕書役をつとめるやうになつてくれなければならぬ、わしの名前で書くのぢやから相應に書いてくれなければのう。それにまた稽古するといふのもお前に適當な、ためになることぢや、お前やるか?  ――何事も思召しどほりに致します、きつと勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]はいとひません。  ――さうだとすると仕事は、お前の助けを斷るといふやうなことなしにきまりがつく。大變立派な小學校の女の先生がここにゐるのぢや、※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つたらその人に、放課後、わしの仕事がすんでから、六時から八時まで、お前をヘへてくれるかどうか、きいてみよう。大へんいい人でな、まづい點は二つしかない、つまり背がわしよりもずつと高くて、肩幅もわしより廣いのぢや、まだ四十※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]にもならないといふのに、ずつとどつしりしてゐて、――それから名前はベローム孃([#割り注]ベロームとは美しい男といふ意―譯※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]註[#割り注終わり])といひ、この名前は遺憾ながらよくこの人をいひ現はしてをる、實際、ひげのない美しい男ぢや。よくみればそんなふうな點はない、といふ人があるならそれはあやしい。この人は高いヘ養を受けてから、個人ヘ育を始めたが、幼い女の子らはその鬼のやうな威容を怖はがるし、お母さん連や大きな姉妹どもはその名前を笑ふので、町の人々を見すてて、勇敢に初等ヘ育に就いた、これが大へん成功して、受持のクラスはこの縣で首位を占めてをり、校長連はこれを模範ヘ師と見てをる。アミアンから呼ぶとしてもこんなよい先生はあるまい!  工場巡囘が終ると馬車は女生徒たちの小學校の前に止まり、ベローム孃はヴュルフラン氏のそばへかけて來た、が氏はお願ひをしたいのだからどうしても馬車を降りてうちへはひるといふのだつた。そこでペリーヌは二人の後から※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて行きながらベローム孃を觀察することができた、なるほどヴュルフラン氏のいふ堂々たる大女だ、しかし品位と優しさとがまじつてゐるので、もしその威容にそぐはないおづおづした態度がなかつたら、誰も彼女を笑はうといふやうな氣は起さなかつたに違ひない。  むろん先生は、マロクールの全權を握つてゐる人の願ひを拒むわけはなかつた。尤も先生は、ヘ育といふことが好きで實際これがこの人の生活の唯一つの樂しみだつたのだから、かうむりたくない差支へも或る場合には起りえたわけである。それに先生はこの深い眼をした娘が氣に入つた。  ――ヘ養のある娘に仕上げます、と彼女はいつた、間違ひはございません。あなたはこの娘が羚羊《かもしか》の眼をしてゐることを御存じでいらつしやいますか? それは私は未だ羚羊《かもしか》といふものを見たことはございませんけれど、でも確かに羚羊《かもしか》はあんな眼をしてゐると思ひますわ。  しかしこの先生が、二日の稽古の後に、羚羊《かもしか》といふものがどんなものかを知り、晩餐の時刻に歸宅したヴュルフラン氏から娘の感想を問はれた翌々日は、これと大ぶん違つてゐて、  ――何といふ災難だつたのでせう、――とベローム孃は自分みたやうに大げさな※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]い言葉を好んで使ふのであつた、――何といふ災難だつたのでせう、この娘がヘ育されないでゐましたとは!  ――賢いでせう?  ――賢いどころではございません! もしかういふことがいへますなら、賢いことこの上なしとでも仰しやつて下さいまし。  ――書くはうはどうでせうな? とヴュルフラン氏は、ペリーヌをそのはうに使ふ必要上、質問をそちらへ向けた。  ――芳しくはございません、が上手になりませう。  ――綴り字のはうは?  ――おぼつかなうございます。  ――さうすると?  ――あの娘を見ますのに、書取りをやつてみてその書き振りなり綴り字なりを正確に知ることもできましたが、しかしさうすればそれだけのことでございます。私はあの娘のもつとよい意見を叩きたいと思ひましてマロクールについて短文を綴らせました、二十行でも百行でもいいからこの地方がどんな處か、ここをどんなふうに見るか、のべてごらんなさい、と。一時間足らず、すらすらと考へこみもしないでペンを走らせてゐましたが、本當に珍しい四枚の大文章を書いてくれました。村そのもの、工場、一帶の景色、細部、全體、すべてがそこに纒められてをります。一枚は池と池の植物や鳥や魚のこと、朝靄の中や夕暮のきれいな空氣の中の池のすがたのことで、もし私があの娘の書いてゐるのを見てゐませんでしたら、誰か立派な作家のものを寫したなと思つたかも知れません。殘念ながら書體と綴り字とは、申しあげた通りでございます、でもそれは取るに足らないことでございますわ! 二三箇月も稽古すればいいんですから。しかしもしあの娘が、見たり感じたりする天性を、また見たり感じたりしたことを言ひ表はす天性を享けてゐませんなら、どんなお稽古をしてもあの娘に書くことをヘへることはできません。おひまでしたらこの池のことを書いたのをお讀ませになつてごらんなさいませ、私が大げさに申しあげてゐるのではない證據を、あの子が見せてくれませう。  ヴュルフラン氏は、娘に對し急速に激しい愛情を抱くやうになつてゐたがその愛情の上に浮んでゐた抗議の心が、さう批評されると消えてしまつたので、上機嫌になつてベローム孃に向ひ、ペリーヌがさうした池の中で隱れ小屋に住んだ次第を、また身近で見つけた物以外には何物をも用ひないでスペイン鞋《ぐつ》を造ることができ、また一切のお勝手道具をも作り、これで、その池から取つた鳥や魚や花や草や果物で、申し分のない晩餐をととのへた次第を語つて聞かせるのであつた。  この話の間ベローム孃の大きな顏はかがやいてゐた、きつと話が面白かつたのだ。氏が語りやめると、彼女自身も考へこんで沈默を守つた。遂に口を開いて、  ――自分に必要な品物を造り出すことができるといふのは何よりも好ましい第一の性質ではございませんか?  ――確かにさうですな、あの娘が最初にわしを驚かせたのはほかでもないその點なのです、その點とそれからその意志ですな。あれに話を聞いてごらんなされ、そこまでやりとげるのにどんなに氣力が要つたかお分りになりますぢやらう。  ――あの娘はその甲斐があつたわけでございますね、あなた樣が心を惹かれていらつしやるのですから。  ――心を惹かれてもをり、愛※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]を持つてさへもをりますのぢや、わしは、わしを今日のやうにしてくれた意志といふもの、これほど人生で大切なものはないと思つてをりますからな。だからわしはお願ひしますのぢやが、あの娘の意志が※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]くなるやう仕込んで下されい。望みさへすれば何でもできるといふのは尤もな言葉ぢやが、少くともそれは意欲の持ち方をちやんと心得てからの話ですからな、こいつは誰でも心得てゐるといふわけにはゆかぬものでして先づヘへてかからなければならぬ、尤もそこに然るべき方法がありとすればですがな。ところがヘへるとなると、ただもう才智ばかりを氣にかけ、まるで人格なぞといふものは後※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しにするもののやうですわい。ともかくあなたは、さういふ方面に惠まれた生徒をお持ちなのだから、どうぞそれを伸ばしてやるやう※[#「米+睛のつくり」、U+FA1D、4-14]出して下され。  ベローム孃は、お世辭をいふことのできない人だつたがまた、羞《はに》かんだり困つたりして默つてゐることもできない人だつた。  ――仕込むことよりもお手本のはうがずつと効めのあるものでございますから、あの娘は私に學ぶよりもずつとよくあなたに學ぶことでございませう。さうしてあなたが、幾年月の御病氣をもおいとひなく、また財産がおありになるにも關らず、義務の遂行とお考へになつていらつしやる事柄に一と時もたゆまずに勵んでをられるのを見ましては、あの娘の人格は、あなたのお望みどほりの方向へ伸びてゆくことでございませう。いづれに致しましても、あの娘が萬一、自分の感動しなければならぬ事柄を身近にしながら、ぼんやりしてゐたりよそ事のやうにしてゐたりしましたら――まさかそんなこともあるまいと思つてをりますけれど、――さうしましたら、私は必ず御盡力申しあげるつもりでございます。  この人は誓ひを守る人だつたから實際、機會を見てはヴュルフラン氏のことを口にした。さうして往々ついペリーヌの巧みな質問に乘つてしまひ、嚴密にいへば勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]にとつて必ずしも必要でないやうなヴュルフラン氏に關した事柄を語らせられるのであつた。  少女は、むろん一心にベローム孃のいふことを聽いた、たとひ「名詞に掛かる形容詞の一致」の規則とか、「他動詞、受身の動詞、自動詞、本來的及び轉化的代名動詞における、また非人稱動詞における過去分詞」の規則とかの※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明を聞かなければならない時でも一心に聞いた。しかしヴュルフラン氏の事に話を持つてゆくことができたとき、どんなに少女の羚羊《かもしか》の眼は一そうの興味を示したことであらう、殊にそれが自分の知らない事柄であつたり、ロザリーの物語やファブリとモンブルーの談話などではよく分らなかつた事柄であつたりした時は。だつてロザリーの物語はどうも不正確だつたし、ファブリとモンブルーの談話にしても、わざと謎めいたものにされてをり、自分たちの間で話すのであつて他人に聞かさうといふのではなく進んでは他人に分らないやうにとさへ氣を配つてゐるのだから、そこに言ひ|※[#「月+兌」、U+812B、34-9]《ぬ》かしがあり省略もあつた。  ペリーヌは何度かロザリーに向つて、ヴュルフラン樣の病氣はどんな工合なのか、どうして盲目になられたのかと尋ねたものだつた、が漠然とした返事しか受け取らなかつた、ところがベローム孃ときたら、病氣そのものに關しても、失明の事に關してもどんな詳しい事でも知つてゐた、さうしてこの失明は直せないことはない、が、なほせるとしても、手術を確實に成功させる或る特別の條件が備はらなければむづかしいとのことであつた。  マロクール村では皆さうだが、ベローム孃もヴュルフラン氏の健康を案じた、さうしてリュション先生とたびたび話し合つてゐたから、ロザリーとは違つて適當な仕方でペリーヌの好奇心を滿足させてやることができた。  ヴュルフラン氏は二重の白内障《そこひ》にかかつてゐたのである。しかしこれは不治のもののやうではなく、手術をすれは※[#「示+見」、第3水準1-91-89]力は囘復するらしかつた。その手術が未だ行はれないのは氏の大體の健康がそれを許さないからである。事實氏は慢性の氣管支炎に惱んでゐた、さうしてこれと併發して肺がたびたび充血し、またこれに呼吸困難、心悸亢進、消化不良、睡眠不足が伴つた。手術が可能になるためには、先づ氣管支炎が直り、またほかの事故が皆無くならなければならない。ところでヴュルフラン氏はいとふべき病人で、次々と不用意なことをしでかし、正しく醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の指圖に從ふことを拒んだ。じつをいふと、指圖に從ふことは必ずしも容易なことではなかつた。息子の行方不明やその搜索の仕事のために※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず不安や怒りに襲はれ、これが、働かないでは鎭まらない不斷の熱を生ぜしめるといふのに、どうしてリュション先生の命令どほり安靜にしてをられようか? 息子の身の上がはつきりしない限り、手術の機會はなく、手術は延期される。後になつてもできるだらうか? それは分らない。いい手當によつて氏の※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]態が眼科醫を決心させる程に保證されない限り、かうしていつまでもぐづぐづしてゐるのだ。  ベローム孃をヴュルフラン氏の事に引きこんで話をさせるといふことは、結局はペリーヌにとつてかなり容易なことであつた、しかしベローム孃に、あのファブリとモンブルーとが甥やタルエルの抱く祕密の希望についてヘへてくれた會話の補ひをさせようとすると、さうはゆかなかつた。先生は決して馬鹿ではなかつた、中々それどころではなかつた、そんな話題に關しては直接にも間接にも質問をさせはしなかつた。  ヴュルフラン氏の病氣はどうなのだらう、どういふ譯で病氣に罹つたのだらう、※[#「示+見」、第3水準1-91-89]力がいつか囘復し或は囘復しないといふためにはどんな機※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]が在るといふのだらう、かうしたことをペリーヌが知りたがるのは、これはもうごく自然なことであり、自分の恩人の健康を氣遣ふといふ點からいへば正當なことでさへあつた。  が村で噂してゐる甥やタルエルらの陰謀に對しても同じ好奇心を示すといふことは、これは確かに許すべきことではない。そんなことが娘共の知つた事だらうか? そんなことが師弟間の會話の種であらうか? こんなふうな話やおしやべりで子供の人格を作るものだらうか?  だから少女は、この點についてはこの女ヘ師から、何事かを、――それがどんな事であるにせよ――聞き出すといふことは斷念しなければならなかつたかも知れない、しかしカジミールの母親ブルトヌー夫人のマロクール訪問があつてこれがため、きつといつまでも閉ぢられたままでゐたであらうベローム孃の脣は開かれたのである。  この訪問のことをヴュルフラン氏に聞いてペリーヌはそれをベローム孃に知らせ、明日の勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]はさまたげられるかも知れないといつた、するとこの知らせを受けた時から先生は全く珍しい熱心を示すのであつた、なぜなら何事にも氣を散らさないといふこと、ちやうど危險に滿ちた通路を馬に乘り越えさせなければならぬ騎手のやうに※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず生徒を引きしめてゐるといふこと、これが先生の性質であつたからである。  先生は一たいどうしたのだらう? 幾度もペリーヌが怪しんだこの疑問に、先生は歸る少し前になつてやつと返答をしてくれた。ベローム孃は聲を落して、  ――私はあなたに勸《すす》めておかなければならないが、明日、訪問なさる御婦人に向つてあなたは控へ目にして、遠慮してゐなければなりませんよ。  ――どういふ事を控へ目にするのですか? 何を、どんなふうにして遠慮するのですか?  ――私はあなたの勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]のことばかりでなく、あなたのヘ育のことをもヴュルフラン樣からョまれてゐます、ですから私はさうあなたに勸めるのです、あなたの爲にもなり皆の爲にもなるやうにと思つて。  ――どうぞ先生、私がどうしたらいいのか言つて聞かして下さい、先生のお勸めがどういふ事なのか、私には本當にちつとも分らないのですもの、それで私怖はいのです。  ――あなたはマロクールに來て未だ幾らも經たないけれど、ヴュルフラン樣の御病氣とエドモン樣の行方不明とが村中の心配の種だといふことを知つてゐるはずです。  ――えゝ、さういふ話は伺つてをります。  ――もしヴュルフラン樣が亡くなられエドモン樣がお歸りにならなかつたとしたら、職工たちの御蔭で暮してゐる人々を勘定に入れないでも七千人といふ職工の生活を支へてゐるあの工場は、どうなるでせうか? そんな疑問を抱けば物ほしい氣持ちが動かずにはゐないといふことは、あなたにも分るはずです。ヴュルフラン樣から工場の管理を讓り受けるのは、あの二人の甥御かしら? それとも、ヴュルフラン樣のョもしく感じられたはうのどちらかの甥御だらうか? それともまた二十年來氏の右腕となり、氏と共に巨大な機械を動かしてきて、おそらくは誰よりもこの機械を※[#「「褒の保に代えて丑」、U+2E569、10-4]へさせない能力を持つた男だらうか? ヴュルフラン樣が甥御のテオドール樣を招かれたときは皆、このお方を後繼ぎになさるのだと思ひました。しかし去年カジミール樣が土木の學校をお出になるとこのお方を呼び寄せられたので、皆は思ひ違ひだつた事を知り、またヴュルフラン樣が、自分の息子をしか後繼ぎにしたくないと思つてをられるといふ決定的な理由からして、誰を選ぶとも決めていらつしやらない事をも覺りました、ヴュルフラン樣は、仲違ひなすつて十二年以上も別れていらつしやるけれど自分の息子だけを、父としての愛情と自尊心とをもつて愛してをられ待つてをられるのです。エドモン樣は歸つて來られるかしら? これは分りません。だつて生死の程も知れないのですから。たつた一人、ほかでもない私達の前の牧師樣ポアレ師が、エドモン樣とお互ひに消息をやりとりしていらしつたらしいのですが、このポアレ師も二年前に亡くなられ、今日ではどういふ事情になつてゐるのか知ることはできないといふことが、先づ動かぬところのやうです。ヴュルフラン樣としては、いつかその中に息子は歸つて來ると思ひ、またさう確信してをられますし、エドモン樣の死亡を望んでゐる人達のはうも、エドモン樣は實際亡くなられたのだとやつぱり固くさう思ひ、さう確信してゐて、この死亡の知らせがヴュルフラン樣にまで屆きその上ヴュルフラン樣の生命を奪ふといふやうになつた時には、自分こそ境遇の支配※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]にならうと畫策してゐるのです。ヴュルフラン樣と親しく暮してゐるあなたが、自分の息子を危い目に遭はそうとする連中を向ふに※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し自分の息子のためにあらゆる手段を講じて[#「講じて」は底本では「構じて」]立ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてをられるカジミール樣のお母樣の前で控へ目に遠慮深くしてゐることはなるほど大切だと、今はあなたは納得するでせうね? あなたがもしカジミール樣のお母樣とあまり親しくするとテオドール樣のお母樣とは工合が惡くなりますし、同じやうにもし、遠からずお見えになるにきまつてゐるテオドール樣のお母樣とあまり親しくするとブルトヌー夫人を敵に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すことになります。もしこのお二人から寵愛をうけると、このお二人の事は何でも警戒してゐる或る男の敵意をおそらくは招く、これはいふまでもありません。かういふ譯で私はあなたに十分用心なさいと勸めるのです。できるだけ口を利かないやうになさい。どうしても返事しなければいけないやうな問ひをかけられてもいつも、何でもないやうな事柄かぼんやりした事柄のほか答へてはいけません。自分をひらめかすよりも自分を消し、餘り賢過ぎる娘に見せるより少々のろまな娘と思はせるはうが得《とく》をすることは、人生にはたびたびあります、あなたの場合がそれです、あなたは賢く見えなければそれだけいよいよ賢いのです。 [#2字下げ]三十四[#「三十四」は小見出し]  深切な好意をもつて與へられたこの忠告は、ブルトヌー夫人の來訪を※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]に心配してゐたペリーヌを安堵《あんど》させはしなかつた。  しかしその忠告は、大へん眞面目なものではあつたが、どちらかといへば事の眞相を大げさにのべるよりは緩和してのべてゐたのである、なぜならべローム孃といふひとは、體格からいへば遺憾ながら大そうな人であつたがまさにそのために、心についていへば極度に愼みぶかく決して差し出るやうなことはせず、ただ事柄を示すだけで※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]調はせず、半分だけしかいはず、萬事につけて、今自分がペリーヌに與へたやうなさうしてまた自分自身のものでもあつたところの訓戒を實行する人であつた。  實際、事情はベローム孃の語つたよりも更にずつと面倒だつた。それはヴュルフラン氏の周圍で動搖してゐる物ほしい連中の慾のゆゑでもあり、また自分の息子だけにマロクールの工場及び一億に上るといふ財産を繼がせようとして戰つてゐる二人の母の性格のゆゑでもあつた。  一方の母すなはちヴュルフラン氏の兄の妻スタニスラス・パンダヴォアヌ夫人は、その卑俗な趣味からして當然自分のものだと信じてゐた華々しい生活をサンチエ街の大きな織物商人である夫が自分にさせてくれるのを待ちつつ渇望に身をこがしながら暮してきた。ところが夫も幸運もこの野心を實現させてくれなかつたので、今はテオドールがその叔父のお蔭で彼女の持ちえなかつた物を手に入れ、彼女の得そこなつた地位を巴里※[#「示+土」、第3水準1-89-19]交界において得るのを待ちながら、相變らずやきもきしてゐるのである。  もう一方、ヴュルフラン氏の姉ブルトヌー夫人は、税關の代理事務、※[#「さんずい+誨のつくり」、第3水準1-86-73]上保險事務、セメント炭商人、船舶の艤裝※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]、運送取扱人、運搬屋、※[#「さんずい+誨のつくり」、第3水準1-86-73]上運送、あらゆる種類の職業を重ねても一向お金の出來ないブーローニュの一貿易商人に嫁いでゐたひとだが、――これも自分の弟の財産をほしがつてゐた。資産に對する愛※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]そのもののためでもあつたし、自分の嫌ひな義姉からそれを取りしてやらうといふためでもあつた。  ヴュルフラン氏とその息子とが仲良く暮してゐるうちは、この女達は弟のヴュルフラン氏から、返しもしない借金だの、商業上の擔保だの、權利みたやうなものだの、あらゆることをだしに、この富裕な親戚をむりやりに承認させて、そこから得られる利※[#「縊のつくり」、U+FA17、106-5]を吸ふことで滿足してゐなければならなかつた。  しかしエドモン氏が、ひどい贅澤と甚しい散財をしたため、うはべは父の工場の苧《を》を買ひにしかし實際は懲らしめとして、印度へやられると、この姉と義姉とはこの事情につけこまうと考へた。さうしてこの楯づいた息子が父の反對を押して結婚すると、二人の女性らは、めいめいが、やがては自分の伜をあの追ひやられた人の位置につけようと手※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しをはじめた。  その頃テオドールは二十※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]になつてゐなかつた、さうしてそれまでの彼のやうすから勤めや商賣上の取引には向きさうになかつた。好みも考へも母に仕込まれ、大事にされ甘やかされて、ぢきに膨れるかと思ふとまたぢき空《から》になる財布を持つた良家の子弟共に向つて巴里の提供する芝居や、競馬や、色んな遊びのためにだけ生きてゐたのである。それが、働くといふことをしか理解せず、甥に對しても最下級の雇員に對してに劣らず嚴しい工場主の鞭の下で村に閉ぢこもらなければならなかつたとは、何といふ※[#「眞+頁」、U+985A、2128-6]落であつたらう! テオドールはこの腹立たしい生活を、ただもうその生活の與へる倦怠、疲勞、厭氣に對して輕蔑を抱いてのみ、辛抱した。こんな生活は棄てようと一日に十遍も決心した、さうして一向それを棄てなかつたのは、今に自分がこの大事業の唯一人の主人になり、そのあかつきには、高い處から、さうして遠くから、殊に遠くから、といふのはつまりこの慘めな生活から厄《やく》のがれできるであらうあの巴里から管理できるやうな工合に、事業を經營してやらうといふ希望があつたからである。  テオドールがその叔父と一獅ノ働き始めた頃、カジミールは十一※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]か十二※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]にしかならず、ために從兄のそばで地位につくには餘りに若かつた。しかしさうだからといつてカジミールの母は息子がむだにすごした時間を取※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]してさういふ地位につくといふ望みをすてなかつた。カジミールは技師となつて、數學に秀いでた頭でヴュルフラン氏を見下すだらうし、同時にまたその正式の優秀さをもつて、何の學※[#「櫪のつくり」、第3水準1-86-37]もない從兄を壓倒するだらう。と、そこでカジミールは理工科學校にはひるやう焚きつけられ、この學校の試驗に必要な科目しか勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]しなかつた、それも、數學の得點は五十八倍、物理の得點は十倍、化學のは五倍、フランス語のは六倍される規定なので、これらの數字に比例してしか勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]しなかつた。そこで、彼にとつては遺憾な結果が生じた、つまりマロクールでは日常の通俗な知識がX《エクス》をひねくるよりも役に立つたからこの技師は、叔父を見下しもしなければ從兄を壓倒しもしなかつたのである。それどころか、この從兄の方が十年間の商業生活に得《とく》をしてゐた、といふのは、この從兄は、學※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]ではなかつた、これは彼自身さう認めてゐた、が少くとも實際家であつた、これこそ自分の叔父のためには第一の長所だと心得て、テオドールはよくそれを主張したものだつた。  ――一たいあの連中に實利といふことをヘへこめるもんだらうか? とテオドールはいふ、だつてあの連中ときたら、きちんとした綴りで、はつきり事務の手紙一つ書けないんだから。  ――僕の從兄ときたら巴里しか暮すところはないやうに思つてゐる、困つたことだ! とカジミールは※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明する。これ以外にどんな力添へを叔父さんにしようといふのだらう! だつて木曜日になると土曜の晩巴里へ向けてずらかることしか考へず、萬事をこの目的のためにのみ整へたり亂したりし、月曜の朝から木曜日までは巴里で過ごした日曜日の一日の想ひ出にぼんやりしてゐるといふ偏執狂が、何の役に立つ?  母親共はこの二つの話を飾り立ててもつぱら語りひろげるばかりであつた。しかしヴュルフラン氏は別段母親共から、テオドールこそ自分のあとつぎにできるとか、カジミールこそ自分の本當の息子であるとか※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]きふせられはしなかつた、それどころかむしろヴュルフラン氏は、テオドールに關してはカジミールの母のいふことを信じ、カジミールに關してはテオドールの母のいふことを信ずるやうになつてゐた、つまり氏は實際のところ、現在も將來も、どちらの人間をも信用することはできずにゐたのである。  甥たちに對する氏の心構へといふものはここから來てゐたわけで、その心構へは、ただもう自分の息子だけをあとつぎにと喧しく主張する母親たちめいめいの氣構へとは、まさしく別のものであつた。とても、どう考へても、あの息子共はどうも、と氏は思ふのだ。  その上、この連中に對するヴュルフラン氏の遣り方には、氏がこの隔てを萬人の目に明らかにすることを重んじてゐるやうすが容易に見て取られた、なぜなら氏は、八方から直接間接にあらゆる種類の懇願をされたにもかかはらず、別段部屋のないわけでもない自分の邸宅に甥共を泊めることを決して承諾しなかつたし、またどんなに自分の内的生活が悲しい寂しいものであらうとこれに甥共の割込んでくることを許さなかつたのである。  ――わしはわしの周圍に爭ひとか嫉妬とかを好まぬ、と氏はいつも答へた。  さういふ譯からして、氏はその自邸を立てる前に自分の住んでゐた邸をテオドールに與へ、モンブルーの先任※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]、元の會計係長の邸をカジミールに與へたのである。  だから甥たちは、自分らさへお客樣のやうにしてしかはひらないお邸に、見も知らぬ女が、一人の娘が、乞食娘が住み込んだのを見たとき、その驚きは※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]かつたし、その憤慨は激しかつた。  これはどうしたといふのだらう?  あの娘は何※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]だらう?  どういふ事を氣遣へばいいのだらう?  これらはブルトヌー夫人が息子に質問した事柄なのであつたが、息子の返答に滿足がゆかないので、夫人は自分自身で糺してはつきりさせようと思つた。  ※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いた時はかなり不安だつた夫人も、いくらも經たないうちに安心した、それほどペリーヌは、ベローム孃のヘへこんだ役割を上手に演じた。  ヴュルフラン氏は、なにも甥たちを自邸に住まはせようとはしなかつたけれど、決して人を款待しないといふのではなかつた、むしろ自分の姉や義姉や兄や義兄などがマロクールへ逢ひに來ると、これらの家族を十分に贅を盡して款待した。そんなときお邸はいつもにない祭のやうなやうすになり、爐は盛んに火をあげ、召使らはその仕※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]せを※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]、馬車や馬は盛裝して車房から出、馬舍《うまや》から出た。さうして日が暮れると、村人たちは闇の中に、お邸が一階から頂きの窓々に到るまで燃え上るやうにかがやくのを見た。料理人やホテルの主人らは食料品をかかへてピキニからアミアンへ、アミアンからピキニへと駈け※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るのであつた。  そこでブルトヌー夫人を迎へるのにも、これまでの習慣に從つた、さうして夫人がピキニ驛に降りると、四輪の幌馬車と馭※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]とそのお供とが迎へに出てゐて夫人をマロクールへ運んだし、馬車を降りると、バスチアンがゐて、二階に取つてあるいつもの部屋へ夫人を案内した。  しかしさうだからといつて執務の生活は、それがヴュルフラン氏の生活でも甥たちの生活でもカジミールの生活でさへも、何の變更もなかつた。氏は食事時間に姉に[#「姉に」は底本では「妹に」]逢ふ、また宵を姉と一獅ノ過ごす、がそれ以上に出ることは決してない、仕事が何より大切なのだ。息子や甥たちとしてもやはり同じことで、息子や甥たちはお邸で午餐をし晩餐をする、また夜は好きなだけ遲くまでそこにゐる、がただそれだけのことだ。執務時間は~聖であつた。  執務時間が甥たちにとつて~聖ならそれはまたヴュルフラン氏にとつても、從つてペリーヌにとつてもまた~聖なわけで、そのためにブルトヌー夫人は、思ふやうに「乞食娘」を詮議立てし、その詮議を貫徹するといふことができなかつた。  バスチアンや小間使たちに尋ねたり、フランソアズのうちへ行つてフランソアズお婆さんや、ゼノビやロザリーに上手に質問するといふことは造作なかつた、そこでこの方面から夫人は、人々の與へることのできるあらゆる情報を、――少くとも「乞食娘」がこの村へやつて來た事、その後の娘の暮しの仕方、最後にこの娘が、ただもう英語を知つてゐたためであつたらしいが、ヴュルフラン氏のそばに住みこんだ事、さういふことの情報を手に入れることができた。しかし氏のそばを離れないペリーヌ自身を吟味すること、ペリーヌに口を利かせて、一たいどんな娘か、どんな考へを持つてゐるかを見る事、さやうにしてペリーヌの俄かの出世の原因を探る事、これらは容易に都合がつかなかつた。  食卓ではペリーヌはとんと口を利かない。朝はヴュルフラン氏と一獅ノ出る。晝食後はすぐ自分の部屋へ上る。工場巡囘から歸るとベローム孃と一獅ノ勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]する。夜、食卓を離れるとまた自分の部屋へ上つてしまふ。さうしてみると、いつ何處でどんなふうにして、彼女の一人でゐるところをつかまへ、差障りなくこれを※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]すことができるのか?  ブルトヌー夫人は仕方なく、出發の前日決心してペリーヌの部屋へ逢ひに行つた。ペリーヌは夫人から厄のがれできたと思つて靜かに眠つてゐた。  扉をこつこつと叩く音に、彼女は目がさめて、耳をすますと、また音がした。  少女は起きて手探りで扉のところへ行つた。  ――どなたですか?  ――あけて下さい、私です。  ――ブルトヌーの奧樣?  ――さうです。  ペリーヌは閂を引いた、するとブルトヌー夫人はすばやく部屋の中へしのびこんだ、一方ペリーヌは電燈のスヰッチを押した。  ――やすんでいらつしやい、とブルトヌー夫人はいつた、そのはうが話しよいから。  さうして椅子を寄せて、ペリーヌを前に置くやうな工合にして、寢臺のすそのはうに坐つた。それから話し始めた、  ――弟の[#「弟の」は底本では「兄の」]ことでお話したいのです、少々あなたに注意をしておきたいことがありますので。あなたはギヨームに代つて弟の[#「弟の」は底本では「兄の」]そばについてゐるのだから、あのギヨームがあれにも短所はありましたけれど弟を[#「弟を」は底本では「兄を」]色々氣遣つてかしづいてくれたやうに、あなたも弟の[#「弟の」は底本では「兄の」]健康に大切な色んな用心をして下さるでせうね。あなたは利發で氣質のいい娘のやうだ、だからあなたも定めしギヨームと同じやうに私たちのために盡力して下さるでせうね。きつと御禮は致しますよ。  ペリーヌは最初の言葉に安心してゐた、だつてヴュルフラン樣のことを話したいといふのだからには何も心配することはない。が利發なやうだとブルトヌー夫人のいふのを聞いて少女に疑ひが起つた、だつて本當に賢くて狡いブルトヌー夫人が、眞面目でそんなことをいふ筈はなかつたからである、さて夫人が眞面目でないとすれば用心が大切だ。  ――有難うございます、奧樣、と少女はその間《ま》の拔けたやうな微笑を誇張していつた、もちろん私もギヨームさんと同じやうにお力添へをしたいと望むばかりでございます。  少女は、何でも私におョみになればいいのですといふことを相手にさとらせるやうに、この終りのはうの言葉に力を入れた。  ――あなたは利發だと私はいひました、とブルトヌー夫人は續けた、私たちはあなたを當てにすることができると思ひます。  ――お言ひつけになりさへすればよろしいのでございますわ、奧樣。  ――先づ最初に必要なことは、弟の[#「弟の」は底本では「兄の」]健康につとめて注意し、風邪をひかないやうにできるだけ用心して貰ひたいのです。風邪は、あの人の癖ですぐに肺の充血を起して生命にかかはるやうなことになるか、氣管支炎を惡化させるかしますから。氣管支炎が直つたら、手術をしてまた眼が見えるやうになるのですものね? 考へてごらんなさい、さうなつたらどんなに私たち皆が喜ぶことか。  今度はペリーヌは答へた。  ――私だつて本當に嬉しうございます。  ――あなたの優しい心持はそれでよく分ります、でもあなたは、そりやあどんなに世話をうけて感謝してゐなすつても、身内の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]ではないのだから。  少女はまた間《ま》の拔けた樣子をした。  ――もちろんさうでございます、がさうだからといつて私がヴュルフラン樣をお慕ひ申し上げていけないことはございません、奧樣もさうお考へになると存じます。  ――それはさうです。私の申したやうな心遣ひを常にやつてゐて下されば、それがあなたの愛慕のしるしになります、でももつといいしるしがありますよ。一たい私の弟は[#「弟は」は底本では「兄は」]寒さだけが禁物なのでなくて、不意に感動するやうな事もまた禁物なのです、だしぬけにやつて來られると生命が危いのです。それで、男の方達の私に仰しやるには、今弟は[#「弟は」は底本では「兄は」]、息子のつまり私たちの愛するエドモンの消息を知らうとして印度で盛んに搜索をさせてゐますさうで。  夫人はちよつと間を置いた、がそれはむだだつた、なぜならペリーヌは、「男の方達」つまり二人の從兄弟らがあの搜索のことをブルトヌー夫人に話したはずはないと十分確信してゐたため、この誘ひに乘らなかつたからである。カジミールは話したかも知れぬ、それは少しも怪しむべきことでない、カジミールは自分を助けて貰ふために母を呼んだのだから。しかしテオドールも話したらうか、これはあり得べきことでない。  ――その方々の仰しやるところによると、手紙や電報はあなたの手をとほり、あなたがそれを弟に[#「弟に」は底本では「兄に」]飜譯なさる。それが何ですよ! 惡い消息になるやうだと大變なことになりますからねえ、さうなる見込みはもうただ在り過ぎるばかりなので、ほんとにまあ厭な話ですこと! どうかうちの息子に一番先きに知らしてやりたいものです。息子は私に電報をよこすでせうし、ここからブーローニュへは大した距離ではないから、私が駈けつけて氣の毒な弟を[#「弟を」は底本では「兄を」]力づけることができます。姉妹、殊に姉といふものは、義姉とはまた違つた慰めの言葉を心の中に見つけるものですからね。分りますかえ?  ――えゝ、ほんとによく分ります、少くとも、分るやうな氣が致します。  ――では當てにしてゐてようございますね?  ペリーヌは一瞬躊躇した、が答へないわけにはゆかなかつた。  ――私にできますことなら何でも致します、ヴュルフラン樣のために。  ――あの人のためにすることは私達のためになり、私達のためにすることはあの人のためになるのです。私達が恩知らずでないといふしるしを今直ぐあなたに見ていただきませう。あなたはもし貰ふとしたらどんな衣裳がお好きですか?  ペリーヌは何も答へたくなかつたが、この申し出には返事をしなければならなかつたので微笑で答へた。ブルトヌー夫人は續けた。  ――きれいな衣裝で引裾《ひきすそ》のついたのは?  ――私は喪中ですから。  ――喪中だつて引裾《ひきすそ》の衣裳を※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]るのは構ひませんよ。あなたは弟の[#「弟の」は底本では「兄の」]食卓に出るのにしては身なりが適當でありません、むしろ大へんまづいくらゐです、下手な※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]こなしで、まるで學※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]犬みたやうに。  ペリーヌは自分の身なりのよくないことは心得てゐた、しかし學※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]犬と比べられたので、殊にこの比較が明らかに自分を貶《おと》しめようとしてなされたので、少女は侮辱を感じた。  ――私はラシェーズ夫人の店で見立てて買つたのです。  ――ラシェーズ夫人も、あなたが宿無しだつた時ならそんな身なりをさせてもよかつたでせう、が今は弟が[#「弟が」は底本では「兄が」]自分の食卓につくことを快く許してくれてゐるのだから、私達に恥かしい思ひをさせるやうではねえ、内輪の話だけれど私達は此の頃恥かしく思つてゐるんですよ。  さう決めつけられて、ペリーヌは自分の演じてゐる役割を忘れてしまひ、  ――まあ! といつてしほれた。  ――あなたのあのブルーズのをかしいこと、あなたは氣がつかないでせうけれど。  ブルトヌー夫人は、思ひ浮べて、まるで少女が自分の眼の前でそのすてきなブルーズを※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]てゐるかのやうにして笑つた。  ――しかしそれはすぐに更へられることです。さうしてあなたが私達の望むとほりに、食堂用に仕立てた衣裳をつけたり乘車用の可愛い※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物をきたりして立派になりなすつたらその時は、それを拵へてくれた人のことを思ひ出して下さるでせうね。下※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]類だつてさうですわ。衣裳と釣合ひが取れてゐるかしら。ちよつと見てみませう。  と言ひながら夫人は權威ありげに※[#「竹かんむり/單」、第3水準 1-89-73]笥の抽斗《ひきだし》を次々にあけた、さうして馬鹿にしたやうな樣子で、あはれんで兩肩をすぼめては、すぐにそれを締めるのであつた。  ――こんなことだらうと思つてゐました、と夫人は續けた、なさけないこと。あなたには似つかはしくない。  ペリーヌは胸が一ぱいで何も答へなかつた。ブルトヌー夫人は續けて、  ――また都合よくマロクールへまゐれて、お世話することができませう。  ペリーヌの脣から出ようとしたのは拒※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]の言葉であつた。少女は、殊にそんな仕方なぞで世話を受ける必要はなかつたのである。しかしぐツとその言葉を※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]み殺した。自分には果たさなければならない役割がある。どんな事があつてもこれを怠つてはならない。つまるところブルトヌー夫人の言葉は無遠慮で荒いが、その意向は、しかし、深切で寛大だ。  ――私は、弟に[#「弟に」は底本では「兄に」]アミアンの仕立て屋の處をヘへてそこへあなたにどうしても必要な衣裳を註文するやうにいひませう、それからまたいい下※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]屋へも調度一揃ひを註文させませう、私を信用していらつしやい、すてきなものが貰へますよ、しよつちゆう私のことが想ひ出されるやうなものが。少くとも私はさうあつてほしいと思ひます。さあもうお寢みなさい、私のいつた事を忘れないやうにね。 [#2字下げ]三十五[#「三十五」は小見出し] 「できる事なら何でもヴュルフラン樣のためにする」といふことは、ペリーヌの眼には決して、ブルトヌー夫人が了解したと思つてゐるやうな意味を含んではゐない、だから少女は、印度や英國で續行されてゐる搜索のことは一言もカジミールにいはないやう用心した。  しかしカジミールは、少女が一人でゐるのに逢ふと、打明け話を催促するやうなふうに少女を見た。  でも、たとひヴュルフラン氏の命じた沈默を破らうと決心したにせよ、何を打明けることがあつたらう?  ダッカやデラやロンドンからの報告は、漠然としてゐたし矛盾してもゐたし、何よりも不完全であつて、とりわけこの三年間の事柄には、埋めることの難しさうな幾つかの穴があつた。しかしこれはヴュルフラン氏を※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望させなかつたし、氏の信念をゆるがさなかつた。「わしらは一番古い時分の事をはつきりさせたのだから、一番面倒な事をやつたわけぢや」、と氏は度々いつたものだ。「どうしてわしらが近い頃の事を明るみに出せぬわけがあらう? いつかその中にまた絲口がつながる、さうすればもうそれを手繰りさへすればよい」。  ブルトヌー夫人は、例の事ではどうやら失敗したけれど、少くとも、ヴュルフラン氏を氣遣つてくれるやうにとペリーヌに勸めた事では失敗しなかつた。これまでペリーヌは自分では、雨の日に馬車の幌を掛けたり、寒い日や霧の日に氏に外套をかけたり絹の頸卷を卷いて大事を取らせたりすることを敢へてしなかつたし、また冷たい夕方に部屋の窓を締めたりすることも敢へてしなかつた、がブルトヌー夫人から、寒さや濕氣や、霧や雨などはヴュルフラン氏の病氣をつのらせると注意された時から、少女はもう懸念や内氣のゆゑにためらふやうなことを、やめた。  もう少女はどんな天候の時でも、必ずポケットに頸卷を入れ、注意していつもの場所に外套を置かないでは、馬車に乘らなかつた、さうして少しでも冷たい風があると、それを自分で氏の兩肩にかけ、またはかけて貰つた。一滴の雨でも落ちはじめるとすぐ、少女は停まつて幌を掛けた。晩餐後の宵が暖くないと、少女は外出をとめた。始めの中彼女は二人で※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くとき、自分の普段の速さで※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いた、さうして氏は苦情をいはないで彼女についていつた、苦情といふものは、氏にとつてもまたほかの人々にとつても、まさに一番厭なことだつたからである。が少し早く※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]かれるのは氏にとつて辛いことで咳や息苦しさがこれに伴ふし動悸もうつといふことを知つた今は、彼女は實際の比率で※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くことをやめ、※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず色んな割合を取るやうにした、それは氏を疲れさせないで、これに適度の運動を、――ちやうど氏に有用で害のないやうな運動だけをさせようといふためであつた。  或る日の午後二人がさうやつて※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて村を通つてゐると、ベローム孃に出會つた。ベローム孃はヴュルフラン氏に挨拶しないで行き過ぎてしまはうとはせず、幾つかの丁寧な言葉の後、かういつて別れた。  ――あなたを、あなたのアンチゴーネの世話におまかせしますわ。  どういふ意味だらう? ペリーヌはさつぱり分らなかつたし、ヴュルフラン氏にきいても更に知らなかつた。そこでその晩少女は先生に尋ねた。すると先生は、古代の事を知らぬ少女の若い知識にふさはしい注釋つきで、ソフォクレスの作品『コロノスのオイディプス王』を讀ませながら、アンチゴーネとはどんなひとかを※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明した。次の日から幾日間かペリーヌはヴュルフラン氏のために、『世界巡り』をよしてこの作品を讀んだ。氏は、とりわけ自分自身の境遇に當てはまるやうなところが身にこたへ、感動した樣子を見せた。  ――なるほどお前はわしにとつてアンチゴーネぢや、むしろそれ以上ぢや、なぜなら不幸なオイディプス王の娘アンチゴーネが父を愛しいたはるのは、義務なのぢやから。  これでペリーヌは、自分が氏の愛情の中にどんな道をつけたかを知つた。氏が胸中をさらけ出すといふことは例にないことだつたのである。このため少女は氣も※[#「眞+頁」、U+985A、2123-6]倒して、氏の手を取つてこれに口づけた。  ――うむ、お前は氣質のよい娘ぢや。  少女の頭に手をおいていひ足した、  ――息子が※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてきてもお前はわしらと離れて貰ひたくない、息子はお前がわしにしてくれたことを恩に感ずるぢやらう。  ――願ひばかり大きくて一向お役に立ちませんわ!  ――わしはお前のしてくれたままを息子にいふつもりぢや、もとよりあれはそれがよく分るぢやらう、情に厚い人間ぢやから、わしの息子は。  たびたび氏は、こんなふうな乃至はこれと同じ種類の別の文句で息子に關する自分の考へをのべた、そこでいつも少女は、どうしてそんな感情を持ちながらあんなに嚴しいのかその譯を尋ねようと思ふのだつた、がそのつど、感情のために咽喉がふさがり言葉はそこへ閊へてしまつた。さやうな問題に立ち入るのは彼女にとつて大變重大なことであつた。  しかしその晩少女は、今し方の出來事に勇氣づけられ、ずつと元氣づいたやうな氣がしてゐた。こんな好機會はまたとない。自分はヴュルフラン樣と二人きりで、ランプの光の下で、そのそばに坐つてゐる。この部屋へは誰も呼ばない限りはひつて來ない。もうこれ以上ためらふべきだらうか?  少女はためらふべきでないと思つた。  ――あのお許し下さいませんでせうか、と、心配しながら聲をふるはせていつた、私の分らない事を、いつも氣にかかりながら言ひ出さずにゐます事をお尋ね致したいのでございますけれど。  ――言うてみよ。  ――そんなに御子樣を愛していらつしやるのに別れておしまひになつたといふことが、私には分りません。  ――それはお前くらゐの年輩では、義務といふものを識らず、ただ愛情といふものだけしか分らずそれだけしか認めないからぢや。さてわしは父の義務として、深みへはまつてゆくかも知れぬ過ちを犯した息子に見せしめの罰を與へようと心に決めた。わしの意志は息子の意志より上だといふことをあれにはつきり見せる必要があつたのぢや。それゆゑ印度へ追ひやつた、があれはわしの家の後繼ぎぢやから、印度にはちよつとしか置かぬつもりでゐたし、またあれの品位の保てるやうな地位は與へておいた。あれが例の情けない代物《しろもの》に懸想《けさう》して、馬鹿げた全く馬鹿げた※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]組に引きずりこまれるなぞとは思ひも寄らなんだわい。  ――しかしフィルデス~父樣のお言葉によりますと、そのお嫁になすつたお方といふのは決して情けない代物とは申し上げられませんわ。  ――さうした手合ひの一人さ、フランスでは通らぬ結婚を受諾したのぢやもの。そこでわしはもうあの女をわしの娘と認めることもできぬし、あの女と別れぬ限り倅を呼び寄せることもできなんだ。これは父としてのわしの義務を怠ることにもなり、同時にまたわしの意志をすてることにもなつたらう。わしのやうな人間はさういふことはできぬ。わしはしなければならぬ事をしたい、意志についても義務についても讓るまい。  さう彼はペリーヌを慄然とさせた雄々しい口調でいつた、それからすぐに續いて、  ――さてお前は不思議に思ふかも知れぬ、なんでわしが、結婚した息子を赦したうないといひながら今はそれを自分のそばへ呼び※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]したいといふのか。それは、もう現在ではその頃と情況が同じでないからぢや。そのいはゆる結婚からは十三年も經つてをるから定めし倅はその女に倦《あ》き、その女のそばで送らされた慘めな暮しにも倦いてをるぢやらう。一方ではわしの境遇も變つた。體の工合もとても昔のやうにはゆかぬ。わしは病氣で盲目ぢや、眼を元どほりにするには手術をして貰ふほかはない、がそれも成功する見込みの十分にあるやうな安靜な容態にならなければ、して貰へぬ。息子がこれを聞いたらあの女と別れることを躊躇するとお前思ふかな? あの女とその娘とには十分らくな生活を保證してもやるつもりぢやが。わしがあれを愛してをればあれもわしを愛してをる。何度あれはマロクール村を振返つたことぢやらう! 何と後※[#「りっしんべん+誨のつくり」、第3水準1-84-48]したことぢやらう! 事實を知つたら、あれは駈けつけて來るぞ。  ――それでは奧樣もお孃樣もおすてにならなければなりませんのね?  ――あれには妻も娘もない。  ――フィルデス~父樣は、ルクレルク~父樣によつて布ヘ團のヘ會堂で結婚なすつたと仰しやつてゐますわ。  ――その※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]組みは法律に違反して取り結ばれてをるから、フランスでは無効ぢや。  ――では印度でも無効なのですか?  ――わしはそれをローマで破毀させる。  ――でもそのお孃樣は?  ――法律はその娘を認めぬ。  ――法律が全部でせうか?  ――それはどういふことぢや?  ――つまり人は法律で自分の子供や親を愛したり愛しなかつたりするのではございません。私が私の氣の毒なお父樣を慕つたのは法律に從つたからではありません、お父樣が私に深切で、優しくて、愛情深く、私をよく氣にかけて下すつたからです。抱かれると樂しかつたし、優しい言葉をかけて下すつたり※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]笑んで見て下すつたりすると嬉しかつたからです。また、お仕事に急がしくて私に話しかけて下さらない時でも、お父樣と一獅ノゐることほどいいことはないと思ふからです。お父樣だつて私を可愛がつて下すつたのは私をお育てになつたからですし、私に色んな苦勞や情けをおかけになつたからです、そんなことよりも私はかう信じてをりますが、つまり私に心から慕はれてゐると感じていらしつたからです。法律なぞは何の用もありません。私は法律がお父樣をさういふふうにさせたのかしらとは思つてもみませんでした、だつてさういふふうにさせたのは私達のお互ひに持つてゐた愛情だといふことを、十分確信してゐましたから。  ――それで結局どうなのぢや?  ――道理に合はないやうな事を申し上げましたのなら御※[#「俛のつくり」の「危−厄」に代えて「刀」、第3水準1-14-48]下さい、でも私は自分の考へたとほりを、感じたとほりを、遠慮なく申し上げてゐるのでございます。  ――それだからわしも聽いてをるのぢや、お前の言葉は餘り經驗を積んではをらぬが、少くとも善良な娘の言葉ぢやからの。  ――それで結局私はかういふ事を申し上げたいのでございます、あなたが息子樣を愛され御自分のそばに置きたいと思はれるなら、息子樣だとて娘を愛され御自分のそばに置きたいと思はれるに違ひありません。  ――父と娘の間なら躊躇することもなからう。それに結婚が取消されたらもう娘はあれにとつて大したものでもなくならう。印度の娘は早熟ぢや、そのうちに※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]づけられる。持參金を保證してやれば易いことぢや。してみれば倅も物分りよく娘と別れぬこともあるまい、今に娘だとてぐづぐづ言はずに父親と別れて夫に連れそふやうになる。その上わしらの生活といふものはただ感情だけで出來てをるのではない、ほかの色んな事でも出來てをる、物事を決めるとなると、これが重苦しく關係してくるのでな。エドモンが印度へ出かけた時分はわしの財産も今日のやうではなかつた。いづれ倅は、この財産が富と名譽とのあらゆる滿足を以つて保證してくれてゐるこの地方の工業界の王座を見、また自分に約束してくれてゐる將來を見ることぢやらうし、わしもそれを見せるつもりぢやが、さうすれば肌のKい小娘なぞが倅を邪魔立てすることはあるまい。  ――でもその肌のKい小娘は、お考へになつていらつしやるほどにいやな※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]ではなささうですわ。  ――印度人だぜ。  ――私の讀んで差上げた書物には、一般に印度人は歐洲人より美しいと書いてありましたわ。  ――旅行※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の誇張ぢや。  ――手足はしなやかで全くの瓜實《うりざね》顏をしてゐて、眼は奧深く眼差しは氣高く、口は愼み深く、容貌はやさしい。動作は巧みで雅やかであり、仕事にはまじめで、辛抱※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]く、勇敢であり、勉學には熱心で・・・  ――記憶がよいのう。  ――讀んだことは覺えておくものではございません? 結局あの書物によりますと、どうしても、印度の女はあなたのお考へになり勝ちなやうないやな女ではないことになります。  ――どうでもよい事ぢや。わしは印度人なんぞ識らぬのぢやから。  ――でも御存じだつたら、興味をお持ちになり、心をお惹かれになるかも知れませんわ・・  ――とんでもない。わしはあの娘と母親のことを考へただけで、腹が立つ。  ――もしその娘をお識りになつたら、・・・あなたのお腹立ちはたぶん鎭まりますわ。  彼は憤然として兩手を握りしめた、ペリーヌは心配したが言葉を切らずに、  ――その娘は決して想像していらつしやるやうな※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]ではないと思ひます。だつて、あなたが怒つて考へていらつしやるのとは反對の娘かも知れません。母親は、フィルデス~父樣のお言葉のやうに、あらゆる美しい天性をそなへていらしつて、賢く、善良で、優しくて・・・  ――フィルデス~父は深切な牧師ぢやが生活や人物を餘り大目に見過ぎる。おまけに問題のその女を識つてはをらぬ。  ――その女のひとを識つてゐるすべての人々の證言に基いて申しあげると仰しやつてゐましたわ、すべての人々の證言のはうがたつた一人の意見よりも大切ではございませんか? 最後にもし、そのお方をお邸へお引取りになつたら、そのお方――孫娘樣は、私なぞよりはずつと行屆いた世話をなさりはしないでせうか?  ――心にもない事をいふものではない。  ――私は決して好きな事を申しあげるのでもなければ心にもない事を申しあげるのでもなく、道理を申しあげるのでございます。  ――道理を!  ――私が道理だと心得てゐるとほりを。何でしたらかう申しても構ひません、――なぜなら私は無智ですから――つまり私が道理だと信じてゐることを。お孃樣は、御自分の出生のことに心配が起り、そのことに異議を立てられていらつしやるのですから、ほかでもないそのために、もしも引取られなすつたら、深い感謝の心で胸を一ぱいになさるでせう。お孃樣を勵ますほかの色んな理由はともかく、ただこれだけでもお孃樣はあなた樣を心からお慕ひになるでせう。  彼女は、彼が見てでもゐるかのやうに、彼を見ながら手を合はせた。さうして一つの衝動に聲をふるはせて、  ――あゝ! ヴュルフラン樣、あなたはあなたのお孃樣から慕はれたくありませんか?  我慢がならぬといふふうに身を起し、  ――あれは斷じてわしの娘ではないといつたに。あれもあれの母親もわしは嫌ひなのぢや。ひとの倅を取つてよこしをらぬ。あれ共が倅を籠絡せなんだら、倅はとうの昔わしのところにゐるのぢや。倅にとつては一から十まであれ共だつたではないか、父親たるこのわしはといへば物の數にも入らぬに。  ペリーヌの未だ見たこともなかつた激怒に驅られ、とりのぼせ、部屋の中をいらいらした足取りで※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きながら激しい言ひ方でさういつた。  ※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]然少女の前で立ち止まつて、  ――お前は自分の部屋へ行け。今後は決して、よいか、今後は決してあの情けない奴らのことをわしにいひ出してはならぬぞ。結局お前は何の世話を燒かうといふのぢや? 誰ぞお前にいひつけてそんな言葉をいはせたのか?  彼女はちよつと狼狽したが、我に返つて、  ――おゝ! いいえ誰もそんなことをさせたのではありません、誓つて申しあげます。兩親のない私が、孫娘樣の身になつて胸に思ひましたことを口に出しましたのでございます。  氏は穩かになつた、が未だおどすやうな口調でいひ足した、  ――お互ひに氣まづい思ひをしたくなかつたら今後は決してこの事にふれてはならぬ、この事はお前も知つてのとほり、わしには辛いのぢや。わしを怒らしてはならぬ。  ――御※[#「俛のつくり」の「危−厄」に代えて「刀」、第3水準1-14-48]なさい、と彼女は胸一ぱいになつた※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]のために聲がかすれていつた、ほんとに默つてゐなければならないのでしたのに。  ――お前のいつたことは何にもならぬことだつたのだから、なほさらのことぢや。 [#2字下げ]三十六[#「三十六」は小見出し]  ヴュルフラン氏は自分の問合はした人たちが息子の生活について一向傳へてくれない消息に補ひをつけるために、カルカッタや[#「カルカッタや」は底本では「この三年間カルカッタや」]ダッカや、デラやボンベイや、ロンドンの主要新聞紙上に、エドモン・パンダヴォアヌのこの三年間に關する[#「エドモン・パンダヴォアヌのこの三年間に關する」は底本では「エドモン・パンダヴォアヌに關する」]どんな僅かでもよいがしかし確實なる情報を與へてくれる※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]に四十リーヴルの報酬を約束するむねの廣告を※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]週繰返し出させてゐた、するとロンドンから來た手紙の中の一通がエドモン氏のエヂプト及びおそらくはトルコへ行く計畫のことを傳へてゐたので、廣告の※[#「てへん+曷」、第3水準1-84-83]載をカイロ、アレクサンドリア、コンスタンチノープルにまで擴めた。どんな事でも粗略にしてはならなかつた、たとひ不可能な事でも、たとひ在りさうにない事でも。しかも在りさうにないやうな事がこの定めない人生においては本當らしい事になつて來るのではないか?  ヴュルフラン氏は、こちらの名宛を知らせると多かれ少かれ不誠實な色んな種類の※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]請《ゆすり》に身をさらすことになりさうなのが厭さに、アミアンの銀行家の名宛を指定した、そこでこの銀行家が、何千フランといふ提供金に煽られて來る手紙を受取つて、マロクールへそれらを運ぶのであつた。  しかしかなり多くのこれらの手紙の中一つとして眞面目なものはなかつた。大部分は周旋人から出たもので、當座の活動に必要な手數料を送つていただけば搜索を始める、成功は請け合ふといふのだつた。中にはたわいもない作り話で、あらゆる事を約束しながら何も知らしてくれてゐない漠然とした空想に耽つてゐるのもあつたし、また五年、十年、十二年といふ昔の事を語るのもあり、何れとして、廣告の決めてゐる最近三年間のといふ制限を越えないものはなく、また求めてゐる正確な指圖をしてくれるものもなかつた。  これらの書面を讀んだり譯したりするのはペリーヌであつたが、どんなにそれらが一般に役立たぬものであつても、氏は落膽せず、信念は動じなかつた。  ――廣告を繰返してをりさへすればきつと効めはある、といつも言つた。  さうして倦きずその廣告をつづけた。  つひに或る日、ボスニアのサライェヴォ[#「サライェヴォ」は底本では「サラジェヴォ」。以下も同様。]から日附のある手紙が、どうやら考慮に値ひする申し出をしてきた、それはまづい英語で、タイムス紙上※[#「てへん+曷」、第3水準1-84-83]載の四十リーヴルをサライェヴォの銀行家に寄託して下されば昨年十一月に遡るエドモン・パンダヴォアヌ氏の正しい消息を提供するといふのだつた。もしこの申し出を受諾される場合にはサライェヴォへ九一七號として局留郵便で返事して頂きたいとのことだつた。  ――ほうれどうぢや、わしのいふことに間違ひないわ、と彼は聲をあげた、近いぞ、十一月ぢや。  さうして彼は喜びを見せた、それは心配してゐたことを自白したものだつた。今や彼はエドモンの存在を、ただ父親としての信念によつてばかりでなく、確かな證據によつて肯定することができた。  搜索が續けられ出して以來初めて彼は、自分の息子のことを甥たちやタルエルに話した。  ――わしはエドモンの消息の知れたことをお前たちにいふのが大へん嬉しい、エドモンは十一月にボスニアにゐた。  この噂が土地に廣がると人々の驚きは大きかつた。かういふ事情においてはいつもさうだが人々は噂を大げさにいひ、  ――エドモン樣がおつつけお歸りになる!  ――本當かい!  ――それを確かめたけりやあ甥御やタルエルの顏を見るがいい。  なるほどその顏は見ものだつた。テオドールもカジミールも思ひ込んでゐて何處かしら浮かぬところがある。反對にタルエルは※[#「晴のつくりに代えて睛のつくり」、U+FA12、78-11]れやかだ、この男はもう久しい以前から、表情にもまた言葉にも、自分の考へとは正反對のことを現はす癖がついてゐた。  しかしエドモンの歸りを信じようとしない連中もゐた。  ――老人はあんまり嚴し過ぎた。息子樣は、何程かの借金を拵へなすつたからといつて印度までやられなさることあなかつた。家庭から追ひ出されなすつたのであちらで別の家庭を持つてゐなさるんだ。  ――それに、やれボスニア[#「ボスニア」は底本では「ボスニヤ」]にをられる、トルコにをられる、そこを通つて何處にをられると、こりやあマロクールへ向つてをられる事にはならぬ。印度からフランスへ來る街道はボスニアを通つてゐますかな?  といふのはベンディットの意見だつた。この人は英國人流に落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いて、何の感情的考察もそこにまぜず、ただ實際上の見地からばかり事を判斷した。  ――私だつてあなたのやうに御子息のお歸りを望んでをります、とこの男はいつたものだ、お歸りになればお家もしつかりして今のやうなことは無くなるでせう、しかし私は或る事を望んでさうしてその事の存在を信じてゐるといふのでは物足りないのです。それはフランス人ですな、英國人はそんなことは致しません、さうして私は御承知のやうに英國人ですからな。  さういふ意見が一英國人のものであるといふまさにそのために、人々はその意見を輕んじた。工場主が息子の歸國のことをいふのなら、これは信ョしてゐてよからう。冷靜な人なんだから、工場主は。  ――業務上の事ではなるほどさうでせうが、感情といふ事になると、語るのは實業家ではなくつて、父親ですからな。  ※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えずヴュルフラン氏はその希望についてペリーヌと語りあふのだつた。  ――もう時間の問題ぢや、ボスニア[#「ボスニア」は底本では「ボスニヤ」]はこれは印度ではない、はひりこんだが最後分らなくなる※[#「さんずい+誨のつくり」、第3水準1-86-73]ではない。十一月時分の確かな消息が來たら、もうらくに辿れる足跡が分ることぢやらう。  氏はペリーヌにョんでボスニアのことをかいた書物を書齋から取らせて、一たい息子が何をしに、商業も工業もない氣候のきびしいこの未開の地へ行つたのかと考へた、が、合點のゆく※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明はそこに見つからなかつた。  ――ただ通りがけにそこへいらしつたのでせう、とペリーヌはいつた。  ――相違ない。なほこれは、間もなく歸るしるしぢや、それに、もしそこを通つたとするとどうも嫁や娘は連れてをらぬらしい、ボスニアといふところは遊覽※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の訪ふ國ではないからな。すると別れたのかのう。  彼女は返事をしたかつたが何も答へずにゐたので、氏は機嫌を惡くして、  ――お前は何もいはぬ。  ――お考へに逆らふ勇氣がございませんから。  ――お前よく知つてゐるではないか、わしは何でも思ふことをいつてほしいのぢや。  ――或る事についてはさうですけれど、ほかの事についてはさうではないんですから。決してあの・・・お孃樣のことに觸れてはならぬと仰しやつたではありませんか? お氣を惡くするやうな危いことは致したうございませんわ。  ――いや、女共もボスニアへ行つたらうといふ理由をのべるのなら、何もわしは怒りはせぬ。  ――第一ボスニアは女の近づかれない地方ではございません、殊にその女の人達が、バルカンとは比べものにならないほど難儀で危險な印度の山々を旅行なすつたのなら。それに、エドモン樣がただボスニアを通過なさるだけなのなら、奧樣もお孃樣もご一獅ナいらしつていいではございませんか、印度の色んな土地からお受取りになる手紙は到る處でご一獅セといつてゐるのですから。最後にもう一つ理由がございますが申しあげる勇氣がございません、ちやうどそれがあなたの御希望にそひませんので。  ――構はぬ、言うてみい。  ――では申しませう、が前以つてお願ひ致しておきます、どうか私の言葉の中に唯々あなた樣の御健康に對する氣遣ひだけをごらんなすつて下さい、御期待が裏切られる場合には御健康がそこなはれるやうなことになるかも知れませんから。さういふこともないとは限りませんわね?  ――はつきり話せ。  ――エドモン樣は十一月にサライェヴォにいらしつたから、するとここへ・・・間もなくお歸りになると結論なさいます。  ――如何にもさうぢや。  ――しかしもうお目にかかれないかも知れません。  ――そんなことは考へられぬ。  ――何かしらの理由でお歸りになれないかも知れません。・・・ゐなくなられるといふことはないでせうか?  ――ゐなくなる?  ――もし印度か・・・どこかへ引返されたら? もしアメリカへでも立たれたら?  ――もしを積み重ねてゆけば馬鹿々々しいことになつてしまふ。  ――それはさうでございます、しかし自分の好きな事を考へて、ほかの事を考へないやうにしてをりますと、いづれいやな目に・・・  ――どんな目に?  ――たとひそれが、待ちきれずに苛々《いらいら》させられるといふやうな目に逢ふだけですむかも知れないに致しましても。サライェヴォからあの消息をお受取りになつて以來どんなに落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]かずにいらつしやるか、お考へになつて下さいまし。さうしていらつしやる間にも日限は經ちましたが返事は參りません。これまで殆んど咳をなさらなかつたのに只今は日に幾度もおせきになり、また動悸もうち息切れもなさいます。お顏もいつも赤らみ、額の靜脈もふくらんでをります。萬一あの返事がまだ遲れるやうでしたら、殊にもし・・・それが御希望のものと別のものでしたら、どうなることでせう? 口癖のやうに「さうなのぢや、それ以外にはなりはせぬ」と仰しやるけれど、私はそれを心配せずにはゐられないのです。最良の事を考へてゐるときに最惡の事に襲はれるのは恐ろしいことでございます。自分がさういふ目にあひましたので申しあげるのでございます。私たちは、父の事をずゐぶん心配しました揚句、なあにすぐ囘復するに違ひないと確信致しましたがほかでもないその日、父を喪つたのでございます、私も母も愚かでした、さうして氣の毒な母の亡くなりましたのも確かにこの不意の激しい衝動を受けたためでした、母はもう立つことができず、半年後に父のあとを追つたのでございます。そのことを思ひますと私は・・・  しかし彼女は言葉をいひ終らなかつた。泣きじやくつて言葉が咽喉につかへた、さうして、泣いても通じないことを承知してゐたから怺《こら》へようとしたので、息が詰まつたのである。  ――そんな事を想ひ出すものではない。お前は、ひどい苦しみに逢つたからといつて、この世には不幸しかないなぞと思つてはならぬ。それはお前にとつてよくない事ぢや、また正しくない事ぢや。  ただもう自分の希望に添ふことだけを可能だと思ふこの信念は、少女がどんな事をいつてもどんな事をしても明らかに動かないのである。だから少女は、サライェヴォの返事を傳へるアミアンの銀行家の手紙が屆いたらどうなることかと、ひどく心配しながらただ待つよりほかなかつた。  しかしやつてきたのは手紙でなく、銀行家自身だつた。  或る朝、例のやうにタルエルが兩手をかくしに入れて、何物も見逃さぬといふ眼差しで見張りながらヴェランダの上を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゐると、自分のよく識つてゐるこの銀行家が工場の柵門で馬車をおり、几帳面な態度で、重々しい足取りで事務所のはうへやつて來るのを見た。  あわててタルエルは、ヴェランダの階段をころげ降りて迎へに駈け出した。近寄りながらタルエルは、銀行家の顏附がその※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きぶりや態度と一致してゐるのを見た。  たまらずに聲をあげて、  ――察しますに惡い知らせで?  ――惡うございます。  返事はただ一言これだけだつた。  ――でもあの・・・  ――惡うございますな。  次にすぐ話をかへて、  ――ヴュルフラン樣は事務室にをられますか?  ――確かにをられますが。  ――先づヴュルフラン樣にお話をしなくちやあなりませんので。  ――しかし・・・  ――お分りでせうな。  銀行家は困つた樣子で眼を伏せてゐたが、これがもしも相手を見上げたとしたら、こりやあこんなに愼重にやつてゐると、タルエルがやがてマロクールの工場の支配※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]となつた曉にはひどい仕返しをするかも知れぬぞ、と感じたことであらう。  タルエルは自分の知りたい事を知らうとする時は御機嫌を取るが、それだけにまた自分の申し出を刎ねつけられると粗暴なものを見せつける。  ――ヴュルフラン樣は御自分の部屋にをられませう、といつて兩手をかくしに入れてその場を離れた。  始めてマロクールへ來たのではないから銀行家はヴュルフラン氏の部屋を苦もなく見つけ、※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口のところへ行くと、ちよつと立ち止まつて氣をととのへた。  未だ一度しか叩いてゐないのにヴュルフラン氏は叫んで、  ――はひり給へ!  もうぐづつくことはない、  ――今日は、ヴュルフラン樣、といひながら中へはひつた。  ――何だ、あなたか? マロクールなんぞへ!  ――えゝ、今朝ほどピキニに用事がございましたので、ここまで足をのばしましてサライェヴォからの知らせを持つてまゐりました。  机についてゐたペリーヌは、別段この地名が口に出されなくても誰がはひつてきたかは分つてゐた。彼女はかたづをのんだ。  ――それで? とヴュルフラン氏の待ち切れない聲。  ――それがどうもあなたのお待ちになつてをられるに違ひないやうなものでは、私共皆の希望してをりましたやうなものではございませんので。  ――例の男が四十リーヴルを騙《かた》りをつたかな?  ――この男は正直※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]らしうございます。  ――何も知らないのですかな?  ――いえ、その情報があんまり本當過ぎますので・・・殘念なことに。  ――殘念なことに!  これがヴュルフラン氏の始めて口に出した動搖の言葉だつた。  しんとなつた、さうして曇つていつたヴュルフラン氏の顏で、氏がどんな氣持になつてゐるか容易に知れた。驚き、心配。  ――するともう十一月以後はエドモンの消息ははひりませぬかな?  ――もうはひりません。  ――ぢやがその時期のどんな消息がはひつたのです? どんなふうな正確さ、本當さなのですかな?  ――公文書が參つてをります、サライェヴォのフランス領事の署名がしてございます。  ――言うて下され、消息そのものを傳へて下され。  ――十一月エドモン殿には・・・寫眞師としてサライェヴォに到※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]なされ候。  ――どんどん續けて下さい! つまり寫眞機を持つてといふのですな?  ――行商の寫眞馬車にて一家、妻と娘一人を同伴、旅行致しをられしものに候。數日間、町の廣場にて寫眞を撮られをり候。・・・  銀行家は讀みにくさうにして、文書の皺をヴュルフラン氏の机のふちで伸ばした。  ――書類をお持ちなのだからそれを讀んで下され、とヴュルフラン氏はいつた、もつと早くやつて頂きたい。  ――只今讀みます、廣場で寫眞屋をなすつてをられたと申しあげました、フィリッポヴィッチ廣場でして。十一月の初めサライェヴォを立たれてトラヴニックへ向はれ・・・  銀行家はまた文書を色々とすかしてみて、  ――この二つの町のあひだの或る村にて、・・・あるひはその村に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]かれる前に、病氣に罹られ候。  ――あゝ! これはいかん! これはいかん! ヴュルフラン氏は叫んだ。  さうして兩手を組み、顏をゆがめ、まるで息子の幻が自分の前に立ちはだかつてでもゐるやうに頭から爪先きまでふるへた。  ――あなたは※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]い力がおありです・・・  ――死に向つては力はない。さうするとわしの息子は・・・  ――さやうでございます、恐ろしい事實を御承知にならぬといけません。十一月七日・・・エドモン殿には・・・肺の充血のためブソヴァチァにて亡くなられ候。  ――そんなはずはない!  ――おゝ! ヴュルフラン樣、私もこの文書を受取りました際にはそんなはずはないと申しました、飜譯文にフランス領事の署名はしてございましたけれど。しかしこのマロクール村(ソム縣)出生、三十四※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]、エドモン・ヴュルフラン・パンダヴォアヌの死亡證書、これに間違ひがないといふのは、實に正確なこの情報そのものに基いてゐるのではございますまいか? しかし何はともあれ私はこれを信じたくなく、昨日この文書を受取りますとサライェヴォのフランス領事へ電報を打ちましたところ、かういふ返事でございました、「文書眞正、死亡確實なり」。  しかしヴュルフラン氏は聞いてゐないやうだつた。肱掛椅子に沈みこんでぐつたりと、頭を胸の上に垂れて、少しの生氣も見せなかつた、ペリーヌは氣も狂ふばかり、胸を一ぱいにして、もしや死なれたのではないかと思つてゐた。  ※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]然氏は、見えない眼から瀧のやうに※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]を流しながら顏をあげた、さうして手をのばして、タルエル、テオドール、カジミールの室に通ずる電鈴のボタンを押した。  激しい呼び方だつたのでたちまち三人共かけつけて來た。  ――來たか? タルエルに、テオドール、カジミール。  三人共同時に返事をした。  ――わしは息子の死亡を知つた。これに間違ひはない。タルエル、すぐに、どこの作業も皆やめさせよ。電話で、作業は明後日から開始、明日はマロクール、サン‐ピポア、エルシュ、バクール、フレクセール各地のヘ會堂で悼儀を行ふ旨の※[#「てへん+曷」、第3水準1-84-83]示を出させよ。  ――叔父さん! 二人の甥は同音に叫んだ。  しかし氏はそれをとめて、  ――わしは一人でゐたい、かまはずにおいてくれ。  皆出ていつた、ペリーヌだけ殘つた。  ――オーレリー、ゐるか?  彼女は泣きじやくつて答へた。  ――邸へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]らう。  例のとほり氏はペリーヌの肩に手をおいた、さうして二人は、作業場を離れる最初の職工たちの人波の中を出て行つた。二人は村を通つて行つた。そこでは早くも噂が※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口から※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口へ走つてゐた。二人の通るのを見て、果して氏はこの苦惱に堪へて生きぬいてゆかれるかしらとてんでに考へた。いつもは大へんしつかりと※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてゆかれる氏は、もう體を曲げてをられる、嵐のため幹のまん中から折れた木のやうに前のめりになつてをられる。  しかし右の疑問をペリーヌは更に深い苦しみをもつて考へた、なぜなら自分の肩にかけられた手の搖れから、氏が、たとひ一言も口には出さなくとも、どんなにひどく打※[#「(車/凵+殳)/手」、第3水準1-85-2]をうけてゐるかを感じたからである。  自分の部屋へみちびかれると、少女を返して、  ――わしが一人でゐたいわけを言つてきかしてやれ、誰にもはひつて來て貰ひたうない、誰にも話しかけて貰ひたうないからな。  出てゆかうとすると、  ――わしはお前のいふことを信じようとしなかつた!  ――何でしたら私・・・  ――かまはずにおいてくれ。氏は荒くさういつた。 [#2字下げ]三十七[#「三十七」は小見出し]  一と晩中お邸は動きと物音とで一ぱいだつた、なぜなら次から次へと、巴里からはスタニスラス・パンダヴォアヌ夫妻がテオドールに知らされて來たし、ブーローニュからはブルトヌー夫妻がカジミールに通知されて來たし、最後にダンケルクやルアンからは、ブルトヌー夫人の二人の娘が夫や子供をつれて來たからである。誰も氣の毒なエドモンの葬儀には缺席しようとしなかつた。  その上、葬儀に出かけて行つて陣を敷いて、監※[#「示+見」、第3水準1-91-89]し合ふ必要はなかつたらうか? 今や席が空いた、永久に空いた、それを占領する※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は誰だ? てんでにあらんかぎりの※[#「米+睛のつくり」、U+FA1D、4-14]力を傾け、智慧をしぼり、陰謀をめぐらし、ここを先途と立ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らなければならぬ巧妙な駈引の時であつた。萬一この地方の一勢力であるこの工業がテオドールのごとき能無しの手に渡つたら、それこそ災難だ! 萬一カジミールのごとき淺才の徒が支配權をにぎつたら、それこそ不幸といふものだ! さうして兩家はいづれも、合同の餘地のあること、二人の從兄弟のあひだで分割もできるといふことを、認めようとしなかつた。一切を自分のものにしたかつた。相手には何一つ渡したくない。そもそも相手がどんな權利を振りまはせるといふのだ。  ペリーヌは、ブルトヌー夫人とパンダヴォアヌ夫人が朝自分のところへやつてくるだらうと心待ちしてゐた、がどちらも來なかつたので、少くとも今のところは自分には用がないと思つてゐるのだと覺つた。實際この邸でペリーヌは何程のものであつたらう? 今は、ヴュルフラン氏の兄、氏の姉、氏の甥、姪、つまるところ氏の後繼※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]たち、これらが邸の主人だつたのだ。  ペリーヌはまた、ギヨームに代つてからこちら日曜日※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]にしてきたやうにヘ會堂へ引いてゆくようヴュルフラン氏に呼ばれるのを待つてゐた、が一向その氣配はなかつた。さうして昨日から十五分※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]に弔ひの音をひびかせてゐた鐘が彌撒《ミサ》を報ずると、少女はヴュルフラン氏が、兄の腕に助けられ姉や義姉に伴はれて四輪の幌馬車に乘りこみ、一方、家族の人々が別の幾臺かの馬車に席を占めるのを見た。  そこでお邸からヘ會堂まで※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて行かなければならなかつた彼女は、ぐづついてゐることができず、すぐに出かけた。  死の~に被《おほ》ひ布をかけられた邸を彼女は出た。大急ぎで村の往來を通りながら見て驚いたことには、それが日曜日のやうな樣子をしてゐるのである、つまり居酒屋には一ぱい職工がゐて耳もわれるほどの騷ぎの中で喋りながら飮んでゐたし、家々ではずつと、おかみさん達が、椅子や※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]口の段々に腰をおろして話をしてゐたし、子供らは庭で遊んでゐた。すると誰も式には出ないのだらうか。  はひれないかも知れないと心配してゐた會堂にはひつて見ると、半分はがらあきだつた。家族の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は内陣に列んでゐた。そこここに村の顏役や、御用商人や、工場の主だつた人々が見えた、しかし自分たちに重大な結果を及ぼすかも知れないこの日、自分たちの主人と共に※[#「示+斤」、第3水準1-89-23]らうと考へてやつて來た職工、女達、子供達は少なかつた、實に少なかつた。  日曜日はヴュルフラン氏のに坐るのが習慣だつた、がその資格はなかつたので、第一期の喪服をつけたお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]母さんと一獅ノ來てゐたロザリーの隣の椅子についた。  ――何といふことでございませう! 可哀さうなエドモン樣はまあ、と老乳母は泣いて呟いた、ほんに不仕合せな! ヴュルフラン樣はどう仰しやつてでせうな?  しかし式が始まつたのでペリーヌは返事をせずにすんだ、もうロザリーもフランソアズも、どんなに少女が胸を亂してゐるかを見て、言葉をかけなかつた。  出ると彼女はベローム孃に引きとめられ、フランソアズと同樣ヴュルフラン氏のことを聞かれたので、昨日からお目にかからないと返事しなければならなかつた。  ――※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて歸りますか? と先生は尋ねた。  ――えゝ。  ――それでは學校まで一獅ノまゐりませう。  ペリーヌは一人でゐたかつた、が斷りきれなかつた、さうして先生の話をきかなければならなかつた。  ――あんなに弱り切つて沈んでをられたのでいつももうお立ちになれさうになく思へてゐたヴュルフラン樣が、式の間立つたり腰かけたり跪づいたりしていらつしやるのを見て、私がどんな事を思つたかお分りですか? 今日はじめてあのお方が盲目でいらしつてよかつたと思ひましたの。  ――どうしてですか?  ――どんなに會衆が少なかつたか、ごらんにならなかつたのですもの。それに自分の職工たちが自分の不幸に無關心だといふことは、つらいことですわ。  ――大勢でなかつたことは事實ですわね。  ――少くともそれをごらんにはならなかつたのです。  ――しかし會堂のひつそりしてゐることや同時にまた村の往來を通られるときの居酒屋の騷ぎなどで、それとおさとりになりはしなかつたでせうか? 耳で判斷なすつて當ることはたくさんございますから。  ――さうだとすればそれはなほ、あの氣の毒なお方に必要のない苦痛ですわ、しかし・・・  彼女はいひかけたことをやめるために間を置いた、が決して思つた事を匿さない人だつたので、つづけて、  ――しかしそれはヘ訓になりますわ、大きなヘ訓になりますわ。だつて何ですからね、私達は、自分の苦しみを他人にも苦しんで貰ひたいと思ふなら、自分から他人の受ける苦痛や惱みに加はつてやらなければなりませんからね。さういふことは言へるわけです、嚴粛な眞理を言ひ現はしてゐますから・・・  聲を落して、  ――・・・それを決してヴュルフラン樣はなさいませんでした。職工たちに向つては正しいお方でして、職工として正當だとお考へになるものは與へておやりになる、しかしそれだけなのです。この世の規準として正當さだけ、これでは十分でありません、ただ正しいだけといふことは不正だといふことです。ヴュルフラン樣が、自分は職工の父であるはずだといふことを一向お考へにならず、大きな事業に引き込まれ沒頭なすつて、ただその優れた頭腦を仕事にばかり使はれたといふことは、殘念なことです。お手本をお示しになることによつて、――それは此處だけでも※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]に大したものではありませうが――此處だけでなく到る處で、どんな善い事をなされたことでせう。もしさうだつたのでしたら、・・・今日のやうなことを見ないで濟んだらうに、とあなたもきつと考へるはずです。  成程さうだつたらう、がペリーヌには、この言葉の持つ道理の値打ちがはかれなかつた。この言葉は、それのいふ内容からして又それが自分の忽ち敬愛するやうになつたベローム孃の口から聞かされたといふことからして、不愉快に感じられたのである。ほかの人がそんな意見を吐いたのなら、いい加減に聞き流したらうと思はれた、しかしそれが自分の深く信ョしてゐる女性の言葉だつたので苦しむのであつた。  學校の前まで來たので、ペリーヌは急いで別れようとした。  ――どうしてはひりませんの? 一獅ノご飯を食べませう、とベローム孃は、この生徒が家族の食卓につくはずはないことを見越していつた。  ――有難うございます、ヴュルフラン樣の御用があるかも知れませんから。  ――ではお歸りなさい。  しかしお邸に歸つたが氏の用事はなかつた、どころかてんで忘れられてゐた。バスチアンに階段であふと、氏は馬車から降りると部屋に閉ぢこもり、そこには誰もはひれないのだといつてくれたからである。  ――けふのやうな日にあなた、家の方々と御一獅ノ御食事さへなさらぬのですからなあ。  ――家の人達、うちにずつといらつしやるの?  ――いえ、さやうではござりません、御食事がすむと皆お立ちになります。親戚の方々のさやうならをお受けになるのさへ厭がつてをられるやうに存じます。いやもう! ほんとに沈んでをられます。わし共は一たいどうなることやら、ほんにえらいことですなあ! お互ひに力になり合はぬことには。  ――私なぞに何ができませう?  ――あなたは大したことができますわい、ヴュルフラン樣はあなたをョりにしてをられるし、愛してをられるし。  ――愛して!  ――わしは自分が何をいふか心得てをりますわい。大したことですぞ、それは。  バスチアンのいつたとほり一家の※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は皆晝食後立つてしまつた、がペリーヌは夕方まで自分の部屋にゐた。氏は呼ばなかつた。寢る少し前になつてやつとバスチアンが來て、御主人が明朝いつもの時刻にお伴の用意をしてをれと仰しやつた旨を告げた。  ――仕事を始めようとなさるんで、しかしおやりになれますかなあ? 仕事が何よりなんですからな、仕事があのお方の生命ですからな。  翌日定刻に、※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]朝のとほり廣間でヴュルフラン氏を待つた、すると間もなくバスチアンにひかれて前かがみに※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて來た。バスチアンは默つて悲しげな身振りをして昨夜のよくなかつたことを告げた。  ――オーレリー、ゐるか? と何か病氣の子供のやうな變になつた哀れな弱い聲できいた。  急いで前へ行つて、  ――はい、をります。  ――車に乘らう。  質問をしてみたかつたがその勇氣がなかつた。氏は一たび馬車に腰をおろすや、ぐつたりとして、頭を前へ垂れ、一と言もいはなかつた。  事務所の踏段の下で、タルエルは待ち構へてゐて、氏を迎へ、手をかして降ろした。へつらふやうな物腰であつた。  ――察しますに大丈夫だとお感じになつてお出かけになりましたんで、と憐みぶかい聲でいつた、この聲はその眼光とは正反對のものだつた。  ――わしは少しも大丈夫だとは思はなんだ、が來なければならぬから來たのぢや。  ――私もさやうに存じてをりましたから・・・  この言葉を氏はさへぎつてペリーヌを呼び、自分の部屋へひいてゆかせた。  程なく手紙開きが始まつた、二日分溜つてゐたのでたくさんあつた。氏はそれを人にやらせ、まるでつんぼで眠つてでもゐるやうに、意見も命令もただの一言もいはなかつた。  續いて課長會議があり、その日は、工場の利※[#「縊のつくり」、U+FA17、106-5]に重要な關係のある大問題を決めることになつてゐた。つまり工場の現在の製造力にとつて當分どうしても必要なだけを殘して、印度及び英國に貯藏してある多量の麻を賣り拂つたがよいか? それとも新しく買ひこんだがよいか? 一口でいへば下落に投機《やま》をかけるか、それとも買ひ煽《あふ》るか。  ふつうこの種の事務は、誰にも相談する嚴密なやり方で取扱はれた。年の若い※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]から始まつて順々に自分の意見を立て、理由を述べる。ヴュルフラン氏は聽いてゐて最後に、自分のかうしようと思ふその斷案を傳へる。かうしようといふのはしかしさうするといふことではなかつた、なぜなら半年か一年後になつてみると、氏がその言つた事とは正に反對の事をすることが一度ならずあつたからである、しかしともかくも※[#「示+土」、第3水準1-89-19]員が感歎するほどにはつきりと宣言し、いつも議論はをさまるのであつた。  その朝、討議は平常どほりに運ばれ、めいめいは賣るといふ理由、買ふといふ理由を※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明した、がタルエルの番になるとこの男のいひ出したのは確定ではなくて疑ひであつた。  ――私はこんなに困つたことはございません、賣るのにもいい理由があるが、その反對にもしつかりした理由がありますので。  困つたといふこの告白は本當のものだつた。といふ譯はかうだ、一たいこの男は、話す※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の口からよりもずつと主人の顏色から議論を聞きとり、主人の顏色の工合で自分の意見を決めるといふのが常であつた。この男は長いことそれを實行してゐるので、何を主人が考へてゐるかについては迷ひもせずにその顏色が讀めるやうになつてゐた。しかも、秤にかけてみたとき何で自分の意見のはうを重んずることがあつたらうか、向ふ側の皿に自分の乘せるものは主人へのお世辭になるのであり、また主人の意見の先手を打つことは萬事につけていつも必要なのであるのだからには。ところが今朝主人の顏は、ひどい不決斷以外はてんで何も見せてゐなかつたのである。買ひたいのか? 賣らうといふのか? 實際をいふとどちらも氣にしてゐないらしかつた。放心して、事務とは別の世界に逃げ入り、そこに迷ひこんでゐた。  タルエルがすむとなほ二つの結論が述べられた、次に判決を下すのは主人だ。いつものやうに、いやいつもよりもずつとよく敬意のこもつた沈默が起り、一方眼は主人のはうへそそがれた。  皆待つた、さうして主人が何もいはないので互ひに眼で尋ね合つた。主人は理解力を、それとも現實感を失つてゐるんぢやなからうか?  遂に氏は腕をあげていつた。  ――言うてしまふがわしはどう決めてよいか分らぬ。  どんなに皆びつくりしたことだらう! 驚いた、聞いてをられたのだ!  皆が氏といふものを識つて以來始めて、氏はためらひを見せた。いつもはあんなに果斷であり、あんなに自分の意志を思ふままに支配する氏が。  先程まで互ひに探り合つてゐた皆の眼は今は互ひに出會ふのを避けた。或る人々は同情したからであつたし、また或る人々、殊にタルエルと甥達は、化の皮が※[#「碌のつくり+りっとう」、第3水準1-15-94]がれるといけないからであつた。  氏は重ねて、  ――いづれ後で考へよう。  そこで各人は一と言もいはず、行きながら自分の考へを語り合ひもせずに、引き下つた。  氏は、小さな机から動かずそこについてゐたペリーヌと二人きりになつたが、※[#「示+土」、第3水準1-89-19]員らの退出を注意してゐたふうもなく、ずつとその沈みきつた樣子を續けてゐた。  時は流れた、彼は動かなかつた。これまでに彼女はしばしば、彼が明いた窓の前でじつとしてその思ひに或はその夢にひたつてゐるのを見てきた、さうしてその樣子は、その不活※[#「さんずい+發」、第3水準1-87-9]な無言と同じやうに、うなづき得るものであつた、だつて彼は讀むことも書くこともできなかつたのであるから。しかしその時の樣子は今の樣子と似てもつかないものであつて、もし耳を澄ましてゐる彼をよく見るならば、工場の物音をききながらまるで眼で見張つてでもゐるかのやうに、作業場といふ作業場、庭といふ庭の仕事を監※[#「示+見」、第3水準1-91-89]してゐるやうすが、彼の動く表情の上に讀みとれるのであつた。織機のばたばたいふ音、蒸氣のほとばしり、管捲《くだまき》機のうなり、ヴァルスーズの悲鳴、貨車の掛け外し、トロッコの走る音、機關車の汽笛、操作の命令、さらに砂利をしいた道をぞろぞろ通る職工の木履《きぐつ》の音まで、どんなものも彼は聞き分けた、さうして全體を正しく了解した、そのために、何が行はれてゐるか、どんなに活※[#「さんずい+發」、第3水準1-87-9]にまたはどんなにいい加減に行はれてゐるかを知ることができたのである。  しかしながら今は、耳も、顏も、表情も、動作もみな、像みたやうに石化しミイラ化してゐるやうに見えた。それは胸も凍るばかりだつたので、ペリーヌは沈默の中で身に一種の恐怖の沁みとほつて來るのを感じ、氣もめいつてゐた。  ※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]然氏は兩手を顏にあて、自分一人しかゐないつもりで、といふよりはむしろ自分のゐる場所とか聞いてゐる人とかを忘れて、大聲でいつた。  ――おゝ~樣、~樣、あなたは身をひいてしまはれた。一たい何のとがで私をお見棄てになつたのでございます?  次にまたしいんとなつた。それはペリーヌにとつていよいよ重苦しい、いよいよ陰氣なものだつた。彼女は、氏の示した※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]望の廣さと深さとを餘すところなく測り知ることはできなかつたけれど、この叫びに氣も※[#「眞+頁」、U+985A、2123-6]倒してゐた。  實際、自分の拵へた大きな財産や自分の占めてゐる地位などからしてヴュルフラン氏は自分を一特權※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]、いはば~樣がこの世をみちびくために選んでお用ひになる人間だと信ずるやうになつてゐた。初めはあんなにも低かつたものを、もし自分の智力だけしか使はなかつたのなら、どうしてこんな高いところへやつて來られたらう? してみれば全能の御手が大いなる事柄のために自分を人々の群から選び出してくれたのだ、さうしてその後は確實に導いてくれたから、いつも自分の考へは至高の靈感に從ひ、自分の行ひは無謬の指圖に從つた。自分の願つたことはいつも成功した。戰へば自分はいつも勝ち、相手はいつも負けた。しかしながら、とつぜん、彼の最も熱望したこと、彼のかち得ると確信したことは、始めて實現しなかつたのである。彼は息子を待つた。彼はやつて來る息子にやがて逢はうとしてゐることを知つた。その後彼の全生活はこの會合のために向けられた。さうして息子は死んだのである。  するとどういふことになるのか?  彼は分らなかつた――過去も現在も。  どうだつたのか?  どうなつてゐるのか。  本當に過去は四十年間自分の信じてゐたとほりであつたのに、なんで現在はさうでなくなつてしまつたのだらう? [#2字下げ]三十八[#「三十八」は小見出し]  この落膽は長びいた。これに健康の災厄が加はつた。氣管支炎と心悸昂進とは惡化し、肺の充血さへ起り、ためにヴュルフラン氏は一週間部屋にこもり、工場の全支配を勝ち誇つたタルエルにまかせた。  かうした災厄は遠のいた、が※[#「米+睛のつくり」、U+FA1D、4-14]~の※[#「「褒の保に代えて丑」、U+2E569、10-4]弱は囘復してゆかなかつた。數日後にはもうそれだけが醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の氣懸りであつた。  たびたびペリーヌは醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]にきいてみた、がリュション先生は女の子なぞの好奇心に興味を持つ人でなかつたから、ろくに返事をしなかつた。さいはひ先生はバスチアンやベローム孃とは比較的打ちとけ夕方の往診の時たびたび會ふので、心配な少女はこの老僕とヘ師とから、どうやらかうやら樣子を知らして貰つた。  ――お生命に別條ありません、とバスチアンはいふのだつた、だつてリュション先生は御主人に仕事をなすつたらと仰しやつてるんですからな。  ベローム孃はもう少し詳しかつた、さうしてお邸にヘへに來て醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]と喋つた時は、自分のきいたことを進んで生徒に傳へた、それはしかし一口にいへばいつもかういふ事になつた、  ――ぐんと一つ振動を與へる必要があるのです、※[#「米+睛のつくり」、U+FA1D、4-14]~の機械仕掛は停まつてゐるけれど大きな彈機《ばね》は折れてゐないらしいので、これに活を入れてやるやうなものが。  長いあひだ皆はこの振動を恐れてきた。むしろこの振動が不意に起るのを氣遣つたからこそ、一般の※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]態ならたぶんやれた白内障《そこひ》の手術を幾度ものばしてきたのである。ところが今はその振動が望ましいのだ。それが起れば、これに押されてヴュルフラン氏は再び事業に仕事に、すべて彼の生活であつたところのものに興味を持ち、そのうち、たぶん近いうちには、きつと首尾よく手術がやれるであらう、殊に、手術の專門的立場からみてどちらも恐れなければならない息子の歸國とか死亡とかにともなふ激しい感情はもう心配ないのであるから。  しかしどうしてそれを起すか?  考へたが解決はつかなかつた、それほど彼は萬事と沒交渉のやうに見えた。部屋に閉ぢこもつてゐるあひだはタルエルをも甥達をも引き入れようとせず、また日に二度、朝と夕方、うやうやしく指圖をききに來るタルエルには、いつもバスチアンに返事させるほどだつた。  ――一番よいやうに決めてくれ。  寢床を離れて事務所へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つても氏はろくにタルエルの決めた事を自分に分らさうとはしなかつた、もつともタルエルは十二分に達※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]で、巧妙で、愼重だつたから、工場主自身が採るに違ひないやうな方策をちやんと決めてゐた。  氏はこのやうに熱がなかつたが、相變らず※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]日ペリーヌは、從來どほり氏を工場へつれて※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るのであつた。しかし途中は默りこんだままで、時々彼女の述べる意見に對しても大抵返事をしなかつたし、工場についても監督らの報告に耳を傾けることはほとんどなかつた。  ――一番よいやうに、と氏は、繰返すのだつた。タルエルと相談してくれたまへ。  こんなことがいつまで續くのだらう?  或る日の午後、工場巡囘からの歸途、眠つたやうな老馬の足取りでマロクール近くまで來ると、そよ風がラッパのひびきを傳へた。  ――停めてみよ、火事のラッパを吹いてゐるらしい。  馬車が停まると音ははつきり聞えた。  ――火事ぢや、何か見えるか?  ――もくもくとしたKい煙が。  ――どの方角ぢや?  ――ポプラの竝樹ごしで分りません。  ――右か? 左か?  ――左のはうでせうか?  左手なら工場のはうだ。  ――ココを驅けさせませうか?  ――いや、しかし急いでやつてくれ。  近づくとラッパの音はずつとはつきりしてきた、が道は、ふちにポプラの生えた氣まぐれな池のままに曲るので、ペリーヌは、煙の昇つてゐる正確な場所をきめることができなかつた。どうも村のまん中らしく、工場ではないやうだ。  さう述べたが氏は答へなかつた。  この見方を確かにしてくれたことには、ラッパの音は今や全く左手のはうに、つまり工場の近傍に聞かれた。  ――火事の場所では鳴らしはしませんから。  ――それは尤もな理窟ぢや。  しかし氏はこの返事をほとんど無關心な口調でいつた。火事なぞはどこでもよいといふふうだつた。  村へはひつて始めて確かな事が知れた。  ――ゆつくりおいでなせえ、と一人の百姓が叫んだ、火事はお邸ぢやあございません、ラ・チビュルスのうちが燒けてるんで。  ラ・チビュルスといふのは、託兒所へ入れるのには幼い子供たちを預つてゐる飮んだくれの老婆で、學校の近くの庭の奧にある古ぼけて崩れかけた慘めな藁家に住んでゐた。  ――行つてみよう、と氏がいつた。  駈けてゐる人々のあとをついて行きさへすればよかつた。もう家々の上から煙と火炎が渦を卷いて立ちのぼるのが見えた。焦げくさいにほひがした。彌次馬共を轢きたくなかつたら手前のはうで停まるよりほかはなかつた。彌次馬共はどんなことがあつても動かうとしなかつたのである。そこで氏は馬車をおり、ペリーヌにひかれて人だかりの中を通つた。家の入口に近づくと、消防夫を指揮してゐたので鐵兜をかぶつたファブリが、やつて來た。  ――火災は消しとめました、が家は丸燒けです、なほ惡いことに子供が何人か、五人か六人ほど、だめです。一人は下敷になり、二人は窒息し、あとの三人はどうなつたか分りません。  ――どうして火事になつたのぢや。  ――ラ・チビュルスめが醉つぱらつて寢ちまひまして――未だ眠つてゐるんですが――、年|嵩《かさ》の子供らがマッチを持つて遊んでをりましたんで。そこいら中が燃え出したものですから子供らは逃げ出す、ラ・チビュルスもたまげて逃げ出し、搖り籠の中の幼兒は忘れちまつたんです。  庭手にさわぎが起り、叫び聲がこれにつづいた。氏はそつちのはうへ行かうとした。  ――向ふへは行かないで下さい、窒息した子供の母親が二人、泣いてゐるんです。  ――誰々ぢや?  ――工場の女工です。  ――言葉をかけてやらなくては。  ペリーヌの肩に手をかけた、ひいてゆくやうにといふのだ。  ファブリが先へ立つて道をあけさせ、彼らは庭にはひつた。庭では消防夫らが、立つたままでゐる四つの壁の間に崩れ落ちた家の殘骸の中に沈みこんでゐた。ほとばしり出る水の下では火炎の渦がぱちぱち音を立てて勢ひよくこの爐から上つてゐた。  聞えてゐた叫び聲は、向ふの隅の女たちの一ぱいゐるところから出てゐるのだつた。ファブリは人の群をかき分け、ヴュルフラン氏はペリーヌの後から、兒を膝に抱いてゐる二人の母親のはうへ行つた。~の救ひを信じてゐたらしいはうの母親は、その救ひが現はれたと見た。さうしてそれが工場主に過ぎないのを識つたので、脅すやうに腕をそのはうへのばして、  ――ひとがお前さんのために、くたくたになつて働いてゐりやあそのひまに、うちの子供はこの始末だよ、見ておくれ。お前さん、生き返してくれるとでもいふのかい? おゝ! 可哀さうに、可哀さうに!  さうして兒の上に身をまげて激しく叫び泣きじやくつた。  ちよつと氏はためらつてゐた、それからファブリに向つて、  ――なるほどな。行かう。  彼らは事務所へ歸つた。もう火事の話は出なかつた、しかしつひにタルエルが來て、ヴュルフラン氏にかう知らせた、六人死んだと思はれてゐたがその中三人は氣違ひのやうになりかけた時分につれ出され、近所の家で無事にしてゐることが分つた、從つて實際は三人しか犧牲※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]はなかつたのだ。埋葬式は明日に決まつたと。  タルエルが※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]ると、歸途についてから工場まで深い思ひに耽つてゐたペリーヌは、決心して話しかけた。  ――そのお葬式にはお出かけになりませんか? 彼女は聲をふるはせてさう聞いた。感情を昂ぶらせてゐることがその聲で知れた。  ――なんでわしが出かけるのぢや?  ――それがあの氣の毒な女のひとの非難に對してあなたのなさる、一番ふさはしい答になりませうから。  ――女工共はわしの息子の式に來たか?  ――あの人達はあなたと一獅ノ悲しみませんでした。あなたのはうはあの人達を襲つた悲しみを一獅ノ悲しんでおやりになる、これは一つの答でございます、それは分ることでせう。  ――お前は女工といふものがどんなに恩知らずかといふことを知らぬ。  ――何の恩を知らないと仰しやるのでせう? 貰つたお金の恩をと仰しやるのですか? それならば恩知らずも出ると存じます。その譯はたぶん女工といふものがその貰ふお金を、それの支拂ひ※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]と同じやうな見方では見ないからです。自分の稼いだ金を自分がどうしようと勝手だと女工は考へてゐるのではないでせうか? あなたの仰しやるやうな忘恩はたぶん實際にございませう。しかし利得のしるしに對する忘恩と、愛情の助けに對する忘恩とは、同じものとお考へになりますか? 愛情を起させるものは愛情でございます。人といふものは自分を愛してくれてゐると思ふ※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を愛するものでございます。自分が他人の友達になつてやれば、他人も自分の友達になつてくれるやうに思はれます。不幸な人々の貧乏を救つてやるのは有難いことです、しかしその人々の苦痛を・・・自分も共に分け合つて慰めるのは、どんなに更に有難いことでせう!  この意味のことをもつと澤山いひたいと少女は思つた、が氏は何も答へなかつたし聞いてゐるやうにさへ見えなかつたので、續ける勇氣がなかつた。いづれまたそのうちにこの話題をとらへよう。  邸へ歸りがけタルエルのヴェランダの前を通るとき、氏は足をとめて、  ――牧師樣に豫め云うておいてくれ、子供の埋葬費はわしが引受ける、適當な式をして下さるやう、それからわしはそれに出かけるとな。  タルエルはびつくりして反《そ》りかへつた。  ――明日ヘ會堂へ行きたい※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]には誰にでもその暇をやると※[#「てへん+曷」、第3水準1-84-83]示をさせてくれ。あの火事はひどい不幸ぢや。  ――私共の責任ではございません。  ――それは直接ではないが。  ペリーヌが驚いただけではなかつた。翌朝、手紙開きと課長會議の後、氏はファブリを引きとめて、  ――君は、やりかけの急ぎの用事は何もないと思ふが?  ――はあ、ございません。  ――では、ルアンへ行つてくれ。よそで立派にやつた事を適用してある模範的な託兒所が、そこに建つたといふことをわしは聞いた。いや、市で建てたのではない、もしさうなら競爭があつたらうし從つて型通りのものになつたらう。或る個人がその愛する人々のよい記念となるやうにといふので建てたものぢや。君はこの託兒所を、構造から、煖房から、通風、元價、維持費、あらゆる詳細に亙つて調査するんだ。次にその建造※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]にどこどこの託兒所から感銘をうけたかを尋ねてそれらの託兒所をもしらべに行つて、できるだけ早く歸つてきたまへ。三箇月以内に、わしの全工場の入口に保育所を開かなけりやあならんのでな。おととひ起つたやうな災難はもう起したうない。ョむぞ。お互ひにあんな責任は負はぬやうにしたい。  ペリーヌはこの大きな知らせを熱心なベローム先生に語つたが、その夜、勉※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]は、書齋へはひつてきたヴュルフラン氏のためにさまたげられた。  ――ベロームさん、わしは、わし及びこの土地の住民に代つて一つお力添へを下さるやうあなたにお願ひに來ましたのぢや、――それの起す結果からいへばこの上もなく重要な、ぢやがわしもその點をよく認めてゐるやうにあなたからも大きな犧牲を要求してゐるさういふ大きなお力添へをばのう。といふのはかうなのですぢや。  自分の設けようとしてゐる五つの保育所の監督に當るために辭表を出してほしいといふのだつた。自分も色々考へてみたけれど、こんな重い業務をうまくやりとげることのできる賢い、※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]い、勇敢な女のひとは彼女をおいて見つからなかつた。保育所が開かれたら、自分は永久の維持費を供給するに十分な資本をつけてこれらをマロクール、サン‐ピポア、エルシュ、バクール、フレクセールの村々に提供するつもりだ、さうしてこれが提供の條件としては、これならば確かに自分の事業を成功させ持續させてくれるに相違ないと十分信ョする人をいつも保育所の所長にしておくといふ義務のほかは要求しない、といふのだつた。  さうョまれてみると承諾しないわけにはゆかなかつた、が胸の張りさけるばかりの苦痛がないのではなかつた。氏のいつたやうに、先生にとつて犧牲は大きかつたからである。  ――おゝ! あなたはヘ育といふものがどんなものか御存じありません、と先生は叫んだ。  ――子供らに智慧を授けること、これは結構なことで、わしもそれは心得てをる、が子供らに生命を與へ健康を與へることも、これまた有難いことで、これはあなたのなさるお仕事ですわい。お斷りになるほど小さなことぢやありませんぞ。  ――それに私も、自分の都合ばかり考へてをりますと、あなたに選んでいただいただけの値打のないものになつてしまひますから・・・では結局私も生徒になりませう、學ぶ事柄はたくさんできませうし、さうすればヘへたいといふ私の要求も、もつと廣い意味で滿たされるといふものです。私は心からあなたを信ョしてをります、さうしてこの心は、外に表はせないほど感動してをります、感謝や驚歎の念で一ぱいで・・・  ――感謝といふことを仰しやるのなら、その言葉は、私にでなくあなたの生徒にかけて下さい。この娘が、その言葉や暗示で、わしのそれまでに知らなかつた考へを呼び起してくれ、これから※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]かにやならぬ道程に比べたら物の數でもないほんの二三※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]しか未だ※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いてをらぬ一つの道へ、わしを引きこんでくれましたのぢやからな。  ――まあ! ヴュルフラン樣、とペリーヌは喜びと誇りに元氣づいて叫んだ、では、さらにもう一※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]お※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きになつたら。  ――どこへ行くのぢや?  ――どこか今晩私の御案内致しますところへ。  ――さてお前といふやつは何も危ぶまぬのぢやな。  ――あゝ! 危ぶまないでゐられましたらどんなにいいでせう。  ――ではわしを疑ふのか?  ――いいえ。自分を疑つてゐるだけでございます。でもそれは、今晩どこかへ御案内いたしたいといふお願ひとは何の關係もございません。  ――しかしどこへ今晩つれてゆかうといふのぢや?  ――ほんの二三分間いらつしやるだけで非常な結果が生れるさういふ場所でございます。  ――その分らぬ場所がどんなところか、もう一ついつて貰へぬかな?  ――それを申しあげますと、お出かけになることから私の當てにしてゐる結果がふい[#「ふい」に傍点]になつてしまひますの。今晩はお天氣であたたかさうですから、風邪をお召しになる心配はございません、決心なさいませ。  ――御信ョなすつてもよさそうですわ、とベローム孃がいつた、どうもこの申し出の形が少しばかり・・・妙で子供らしうございますけれど。  ――ぢやあ、お前のいふやうにしよう、わしは今夜お伴をする。出かけるのは何時にする?  ――遲いほど結構ですわ。  宵のうち氏はたびたびこの外出のことを語つた、がペリーヌを決心させてわけをいはせることはできなかつた。  ――お前はわしの好奇心をそそるやうになつた、お前氣づいてゐるか?  ――たとひそのくらゐの事しかできなかつたに致しましても、それでもう大したことではございますまいか? あなたは昨日願つていらしつた事を悲しんで茫然としていらつしやるよりも、ぢきに明日にも起るかも知れない事を夢みていらつしやるはうがよくはございませんか?  ――明日といふものが今わしに在るなら、そりやあその方がよからう、しかしどんな將來を夢みよといふのぢや? それは空※[#「墟のつくり」、第3水準1-91-46]ぢやから、過去よりもなほ寂しいわ。  ――いいえ、寂しいことなんかございません、もしほかの人々の將來をお考へになるなら。子供の時分・・・不仕合せなときには、よく私達は、何でもできる魔術師に、――どんな願ひでもただ思ひさへすれば實現できる魔法使に出くはしたら、何でもかでもョんでやらうと思ひますわね、しかし自分自身がこの魔法使だつたらその人は、幸bナない人々を――それが子供であらうとなからうと――幸bナない人々を幸bノしてやらうと考へないものでせうか? その力を持つてゐるのですからそれを使ふのは面白いことではございませんか? 私たちは今お伽話の國にゐますから私は面白いことではと申し上げましたが、現實には別の言ひ方がございませう。  こんな話をして宵は過ぎた。氏は何度も出發の時刻ではないかと尋ねた、が彼女はそれをできるだけのばした。  つひに彼女は出かけてよいことを告げた。夜は豫想どほりあたたかく、風もなく靄もなかつた、が遠くにいなびかりが立つて暗い空をしきりに照らした。村につくと、村は眠つてゐた。締まつた窓には一つの燈火もついてゐず、どんな物音もなかつた、ただ川の堰《せき》を落ちる水音だけ。  盲人は皆さうだが、ヴュルフラン氏も夜自分がどこを行くかを知ることができた、お邸を出てからまるで見てゐるやうに道を跡づけてゐた。そのうちに氏はいつた。  ――ここはフランソアズの前ぢやな。  ――じつはそこへ參りますの。さあ、どうぞ、口を利かないやうに致しませう。手をひきますわ。申しあげておきますけれど、階段をのぼらなければなりませんの、らくな眞直ぐな階段ですわ、上つたところで扉をあけて、はひりませう。そこでお好きな間だけじつとしてゐませう、一分でも二分でも。  ――何を見せようといふのぢや、わしが見えもせんのに。  ――ごらんにならなくてもいいのです。  ――では何で來た?  ――ただ參りますために。申し忘れてゐましたが上るときは音を立てても一向構ひませんの。  事は彼女のいつておいたやうに手筈されてゐた。内庭につくと、いなびかりが階段の上り口を見せた。彼らは上つた。ペリーヌは例の扉をあけ、氏をそつと引き入れ、扉をしめた。  すると※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]い、きつい、息づまる空氣につつまれた。  舌のまはらぬ一つの聲がいつた、  ――誰だい?  手をおさへて、返事をしないやうにとヴュルフラン氏に注意した。  同じ聲がつづけて、  ――寢なさいな、ラ・ノアイエル。  今度は氏の手が外へ出ようとペリーヌにいつた。  彼女は扉をあけて降りた。背後から呟き聲がついてきた。  往來へ出て始めてヴュルフラン氏は口をひらき、  ――お前は、お前がここにやつて來て最初に泊つた共同部屋をわしに識つて貰はうとしたのぢやな?  ――私は、マロクールやその他の村に在つてあなたの女工たち男や女や子供たちの泊る共同部屋の一つを識つていただきたかつたのです、たつた一分間でもそこの惡い空氣をお吸ひになつたら、その空氣がどんなにたくさんの氣の毒な人たちを殺してゐるかを調べさせてみようとなさるだらうと思ひまして。 [#2字下げ]三十九[#「三十九」は小見出し]  どんなことが身に起るかしらと考へながら希望をなくした慘めなペリーヌが輝かしい日曜日マロクール村に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いたのは、ちやうど一年一箇月前のけふだつた。  けふも輝かしいお天氣だつたが、ペリーヌも村も昨年とは似てもつかなかつた。  足下の低地にひろがる村や工場がどんなところかを分らせようとしながら、丘の上の小さな森のはづれに寂しく坐つて一日の殘りを過ごしたあの場所に、今は建築中の建物がある。土地の全貌を見※[#「晴のつくりに代えて睛のつくり」、U+FA12、78-11]らし、マロクールに住むもしくはそこに住まなくなるヴュルフラン氏の工場の女工を收容する、空氣もよく景色もよい病院である。  土地の變化はこの病院によつて最もよくうかがふことができる。その變化は、殊に過ぎた時の短かさからいつて、稀有のものである。  工場そのものには※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]しい變りがなかつた。ずつと昔のままだ。完全に發展しきつてゐるから、もうただ嚴密に整へられたすべてのものの規則正しい※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]調をつづけてゆくばかりだといふふうだ。  しかしその正門に近いところ、むかし、二三箇月前燒けたラ・チビュルスのと同種の二軒の託兒所になつてゐた哀れなあばら屋が潰れかけてゐたところに、ヴュルフラン氏がこの崩れかけたあばら屋を買ひ取つて取毀してそこに立てさせた保育所の燃えるやうに眞赤な屋根と、半分は薔薇色で半分は※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]い玄關とが見えた。  あばら屋の持主に對する氏のやり方は、はつきりしてゐて正直なものだつた。氏は持主を呼んで、自分の女工の子供が火事に逢つたり、預けられてゐる家の不行屆から起るあらゆる種類の病氣にたふれたりするのはもう我慢がならぬゆゑ、保育所を立ててそこに子供らを引取り、三※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1]になるまで無料で養育しようとしてゐる旨を※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明したのである。氏の保育所と彼らの託兒所とがもめるはずはなかつた。賣りたいといはれるなら定額と終身年金とで買ひ取らう、賣りたくないならそのまま續けてゐてもらふだけのこと、當方に土地がないわけではないのだから。翌日十一時までに決めていただきたい、正午になつたらもうあとの祭ですぞ、と、かういふのだつた。  村の中央に、ずつと高く、ずつと長く、ずつと堂々たる別の赤屋根がそびえてゐる。それは獨身の男女工のために個々の部屋、食堂、レストラン、酒保、糧食倉庫を設けた落成に近い一むれの建物の屋根である。この建物についても氏は保育所の時と同じ買上げ法を取つた。  以前そこにはたくさんの古い家があつて、職工の泊る共同部屋や私室に、どうやらかうやらの※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]態で、しかし本當からいへばおよそ不完全な※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]態で當てられてゐたのである。氏は家主らを呼んだ、さうして※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]に述べたのと似たりよつたりの言葉を彼らにのべた、  ――あんた方がわしの職工を泊めてゐなさる共同部屋をわしは大分前から甚だ遺憾に思うてをる。大勢のものが胸の病氣や腸チフスで死ぬのは宿の設備の※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]態が惡いからぢや。わしはもう我慢がならぬ。それで獨身の男女工共のため一と月三フランで各人專用の部屋をあてがふやう宿舍を二つ建てることに決めた。同時に階下を食堂とレストランにして、スープと、シチウか燒肉と、パンと、林檎酒《シードル》とから成る夕食を七十サンチームで出す。家を賣りたいといはれるならわしはその家跡にこの宿舍を建てる。賣りたくないならそのまま持つてゐなさるがよい。わしはあんた方の爲になるやうに計畫してをる、なぜといふにわしは遥かに安價で建つ地面をほかに持つてゐるのぢやから。明日十一時までに考慮していただかう、正午だともう遲すぎる。  殆ど到るところに散在してゐるその地面には新しい瓦の別の屋根が見える、これらはごく小さい、さうしてそのC潔さと赤の色彩とが、苔やべんけい草の一ぱい生えた古い屋根と際立つた對照をしてゐる。建ちはじめたばかりの職工の家だ。どの家にもぐるりに小庭が出來てをり、もしくは出來ることになつてをり、家族の食べるに必要な野菜はそこで作られ、年百フランの家賃で、物質上の幸bニ、自分の家にゐるといふ自尊心とを持つことができる。  しかし一年間マロクール村を留守にしてゐたであらう人を何より※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]く驚かせ、茫然とさへさせたに違ひない變化は、ほかでもないヴュルフラン氏の屋敷のうち、芝生となつてこの屋敷をくりひろげながら幾つかの池まで降りていつてこれらと一つになつてしまつてゐる部分、これをくつがへした變化であらう。それまでほとんど自然のままにしてあつたこの低い部分は、溝圍ひで屋敷から仕切られて、今はその中央に、木造の大きな別莊が立ち、まはりに小屋やあづまや[#「あづまや」に傍点]が幾つか並んでゐて、全體として公園のやうな樣子を見せてゐた、さうしていよいよそれに違ひないことには、あらゆる種類の遊び道具がそこにあつた。遊動木馬があり、ブランコがあり、體操用具があり、球あそび、柱たふし、弓、弩《おほゆみ》、騎銃や小銃※[#「(車/凵+殳)/手」、第3水準1-85-2]ち、マスト登り、ローンテニス場、自轉車※[#「糸+柬」、第3水準1-90-14]習場、操り人形の劇場、音樂師の演奏臺があつたのである。  實際そこは公園だつた。各工場全部の職工たちを遊ばせてくれる公園だつたのだ。ヴュルフラン氏は、ほかのエルシュ、サン‐ピポア、バクール、フレクセールの村々に對してもマロクールと同じ※[#「言+睹のつくり」、第3水準1-92-14]設備をすることを決めたけれど、お互ひのつなぎとなるやうな總括的關係を生ずる會合と娯樂の場所だけは全體に對してただ一箇處にしたいと思つたからである。さうして最初のうちは單に圖書でも立てるつもりでゐたのが、どういふことに影響されたのかあまりよく分らないままにこの廣大な遊園地に變つてしまひ、中央の大別莊を占めてゐる讀書室と會議室とのまはりに、かうした色んな遊び場が集つたのである、さうしてその發展は氏の屋敷の一部をさへ要求した、それゆゑ現在では勞働※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]クラブがお邸をかばひ、お邸は嫉まれなくなつてゐる。  かうした變化は大へん急速に取りいれられ實現されたから、この土地に激しい不安を、さては一種の紛擾をひきおこさずにはゐなかつた。  一番敵意を抱いたのは下宿屋、居酒屋、商店の亭主らで、これは壓迫だ、これでは立ちゆかぬと叫んだ、大たい人に競爭をしかけて來て、これまでずつと、自由な人間にふさはしく成るべく儲かるやうにと續けてきたその條件では商業をやらしてくれないといふのは不正ではないか、※[#「示+土」、第3水準1-89-19]會的罪惡ではないか? といふのだつた。工場の創設當時と同樣、百姓らは、工場のお蔭で土地の働き手は不足するし働き手の給料を上げてやらなければならなくなるといつて工場に反對したし、小商人らはこれと一獅ノ口をそろへて不平を鳴らすのだつた。ヴュルフラン氏がペリーヌをつれて村の往來を通るとき、二人が背後から惡人みたやうにして嘲罵をあびせかけられずにはすまないとしたら[#「二人が背後から惡人みたやうにして嘲罵をあびせかけられずにはすまないとしたら」は底本では「ひとが背後から二人に惡人みたやうにして嘲罵をあびせかけないのは」]、これは全く理のあることなんだ、あの盲目の老人は、未だ十分金持になりきれないものだから、慘めな連中を零落させようとしてゐるのさ! 息子が死んだつて、あの人は深切氣も同情心も起しはせぬ! だから、ああした事をやる目的といふのはただもう、職工共をいよいよ固く鎖でつないで右手で渡すやうに見せかけては左手で取つてしまふために過ぎないんだ、これの解らない職工らは馬鹿なやつらだ、と。幾たびか集會は開かれた。どうしたらよいかが論議された。それらの席上一人ならずの職工は、自分がほかの大勢の仲間たちのやうに馬鹿ではないことを證據立てた。  ヴュルフラン氏の親しい人達、といふよりはむしろその一家の間でも、この改革は不安と非難とを招いた。氣でも狂ふのだらうか? 自分自身をつまりは我々を、零落させようといふのか? 止させるのが賢明ではなからうか? あの娘の思ひどほりになつてゐるといふ氏の弱み、これは明らかに、氏が年寄つてもうろくしてゐる證據だ、裁判官たる※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の詮議せずにはすまされぬところだ。と、そこで敵意といふ敵意はこの危險なあばずれ娘の上に集つた、あの娘は自分のすることをわきまへてをらぬ、金なんぞ、自分のものではあるまいし、無茶苦茶に使つたからとて何の事があらうと思つてゐるのだ。  この怒りからしよつちゆう直接間接に少女は攻※[#「(車/凵+殳)/手」、第3水準1-85-2]をうけた、が、幸ひにも少女は愛情にまもられた、さうしてこれが自分を元氣づけ慰めるのを感じた。  例のやうに、成功※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の御機嫌取りタルエルは少女のがはに立つた。少女はその企てに成功した。自分の思ふことを悉くヴュルフラン氏にさせた、さうして甥らの敵意とたたかつてゐる。これはタルエルが公然とペリーヌの味方となるのに十二分であつた。事實上工場の財産を揄チさせるあの莫大な金額をヴュルフラン氏が出すといふことは、タルエルとしては實は一向構はないことだつた。自分がその金を拂はされるわけではない、ところで工場は大ていそのうちに自分のものになつてしまふからである。だからタルエルは、新規の改良が※[#「石+幵」、第3水準1-89-3]究されてゐるなと見拔いたらヴュルフラン氏をつかまえて、「察しますに」今がそれを實現させる好都合の時で、とやる機會を見のがしはしなかつた。  しかしこれよりもずつとペリーヌの嬉しかつた別の友情は、リュション先生やベローム孃やファブリ氏の友情だつた、また※[#「言+睹のつくり」、第3水準1-92-14]施設の監査役を設けるためヴュルフラン氏の選ばせた職工たちの友情だつた。  醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は、どんなにその「あばずれ娘」がヴュルフラン氏に道コ上※[#「米+睛のつくり」、U+FA1D、4-14]~上の力を與へたかを見て態度を改めた、さうして今は父のやうな愛情をもつて、尊敬をもつてさへ、ともかく大切な人物として少女に臨んだ。「あの娘は藥以上のことをした、」と醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]はいつたものだ、「實のところあの娘がゐなかつたらヴュルフラン氏はどうなつたか、わしには分らぬ」。  ベローム孃は別段改める態度とては持つてゐなかつた。孃はペリーヌが御自慢だつた、さうして※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]日稽古中の數分間は、かくさず自分の心からの意見を吐いた、もつとも孃の告白したところによるとそれを表現する言葉は、「先生が生徒に」いふのだからあまり正確なものではなかつたが。  ファブリはといへばすべての仕事に餘りにも近く關係してゐたから、彼女とは調子の合はないわけがなかつた。この男は、始め彼女を注意しなかつた、が彼女はたちまち工場で大きな威力を持つてしまひ、もう彼女の手中の道具でしかなくなつてしまつた。  ――ファブリさん、あなたはノアジエルへ勞働※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の家を調べにいらつしやるんですよ。  ――ファブリさん、あなたは英國へ勞働組合の調査にいらつしやるんですよ。  ――ファブリさん、あなたはベルギーへ勞働※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]クラブを※[#「示+見」、第3水準1-91-89]察にいらつしやるんですよ。  ファブリは出かけた。興味をひいた事柄はどんなこともゆるがせにしないで指示されたことを調査した。歸ると、長いことヴュルフラン氏と議論した後、色んな計畫を立てた。この計画は、つい最近工場で一番重要になつたファブリの事務所に詰めてゐる建築技師や工事監督らによつて、ファブリの指圖の下に實行された。決して彼女はその議論に加はらなかつたし口を插みもしなかつた、しかし彼女はそれに出席した。この議論を準備した※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は彼女であつた。それを力づけた※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は彼女であつた。要するに主人の頭の中にまたは胸の中に彼女の投げこんだ種が、芽を出し、實を結んだのである。ほんたうの馬鹿でないかぎり、そのことはうなづけた。  仲間に選ばれた勞働※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]たちもファブリと同樣、ペリーヌの役割を見とめた。勞働※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]らの會議でペリーヌは一言もいはず身振り一つしなかつたとはいへ、きはめて當然にも彼らは、ペリーヌの及ぼす影響を熟慮することができた。彼女が味方だといふことは、彼らの安心と自尊心とにとつては大きな事柄だつた。  ――あれは管捲《くだまき》機にゐたんだぜ。  ――管捲《くだまき》機から修業してかからなくつて、今みたやうな娘になれるか?  この連中が前にゐるとき、村の往來を通るペリーヌを冷かさうなどといはうものなら、ひどい目に逢つたらう。冷かしかけても急いで無理やりに喉の中で※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]み殺してしまはなければならなかつたらう。  その日曜日は、ちやうど、ヴュルフラン氏がペリーヌに言はなかつたむしろ内證にして置きたそうな素振りさへ見せた或る調査事のため幾日か前に出かけてゐたファブリの歸る日で、皆はこれを待つてゐた。朝ファブリは次のやうな數語しかのべてゐない一通の電報を巴里からうつた。  「情報完全、公文書、正午※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]く」  零時半だつたがファブリは※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]かなかつた。そのためにヴュルフラン氏は苛立《いらだ》つた。例にないことだ、いつもならもつと落※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いてゐるのだが。  氏は晝食をいつもより早くすませてペリーヌと一獅ノ自分の部屋へ行つた、さうして※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず庭に向つて開いた窓へ行つて耳をすました。  ――ファブリの※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]かぬのはをかしい。  ――汽車が遲れたのでせう。  しかし氏はこの理由に屈服しなかつた、さうして窓べにゐた。少女は氏を窓から引き離したかつた。氏に知つてもらひたくない事柄が庭や公園で行はれてゐたからである。植木屋共はいつもより元氣よく花壇に四つ目垣をめぐらしをへてゐた、一方では芝草の上に散在する珍しい植物を運び出してゐる植木屋もゐた。入口の柵門は大きくあいてをり、溝圍ひの向ふでは、職工クラブに旗や小旗が※[#「てへん+曷」、第3水準1-84-83]げられ、※[#「さんずい+誨のつくり」、第3水準1-86-73]の微風にはためいてゐた。  とつぜん氏は給仕を呼ぶベルを押した、さうして給仕が現はれるとかういつた、誰か來てもわしは引き入れぬぞ。  一たい日曜日は、子供でも大人でも話したいといふ人達をみんな引き入れるのが習慣だつたから、いよいよペリーヌはこの命令に驚いた。思ふに氏はふつうの日は、話をひどく節約して金錢で見積ることのできる時間をつぶすまいとした、が反對に、自分の時間も他人の時間もさういふ日と同じ値打でなくなる日曜日には、よろこんで喋つた  つひに池の道、つまりピキニから來る道に馬車の音がきこえた。  ――ファブリが來た、と氏は同時に心配さうで嬉しさうな、調子の變つた聲でいつた。  果してファブリだつた。急いで部屋へ飛びこんできたが、これまた常にない樣子に見えた。さうしてまづ最初ペリーヌの方へ投げた眼差しに、ペリーヌは何かしら胸さわぎがした。  ――機關の故障のために遲れまして。  ――※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]いたらそれが何よりぢや。  ――電報で前以つてお知らせ致しましたが。  ――うむ、君の電報はひどく簡單で、ひどくぼんやりしたものだつたが、わしは希望を得た。確實さといふことがわしには必要なのぢやからの。  ――それはもうあなたのお望みになれるだけ確かなものでございます。  ――では話をしてくれ、早く話をしてくれ。  ――このお方の前でかまはないんですか?  ――かまはん、それがもし君のいふやうなものなら。  ファブリが、任務を報告するときそれをペリーヌの前でしていいかどうか尋ねたのは、これが始めてだつた。彼女は早くも不安な氣持ちになつてゐたからさう用心されて、ヴュルフラン氏とファブリの言葉、二人の興奮、そのふるへを帶びた聲などが惹き起してゐた少女の胸さわぎは、いよいよひどくなるばかりであつた。ファブリはペリーヌのはうを見ないで話した、  ――あなたが搜査を依ョなすつた代理人の豫想どほり、――何度も足跡が分らなくなりましたが、――そのお方は巴里へおいでになりました。そこで死亡證書をしらべてみますと去年の六月にエドモン・ヴュルフラン・パンダヴォアヌ氏未亡人マリ・ドルサニといふ名前の證書を見つけました。これがその證書の正本でございます。  彼はそれを氏のふるへる兩手に渡した。  ――讀みませうか?  ――名前は確かめたか?  ――それはもう。  ――では讀まんでよい、あとで見よう、話をつづけてくれたまへ。  ――私はその證書だけではすまさずに、そのお方の亡くなられた家の持主、鹽爺さんといふのにも問ひましたし、またその氣の毒な若い御婦人の臨終に立會つた侯爵夫人といふ街の唄うたひや、古靴屋の默り屋さんなどといふ連中にも會ひました。疲勞と※[#「「褒の保に代えて丑」、U+2E569、10-4]弱と缺乏とのためにおたふれになつたのでした。私はまたそのお方を看取《みと》つたリブレット町のシァロンヌに住んでゐるサンドリエ先生にも會ひました。病院に入れようと思つたが娘と別れるのを拒まれたのだそうで。最後に、この人々はシァトー・デ・ランチエ町のラ・ルクリといふ屑屋のうちへ私を案内してくれまして、私の調べはつきました。その屑屋には昨日田舍から歸つたのに會つたばかりのところです。  ファブリは一と息ついた、さうして始めてペリーヌのはうに向いて丁寧に挨拶した、  ――お孃樣、パリカールにも會ひましたよ、元氣にしてをりました。  ※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]にこのちよつと前にペリーヌは立ち上つてゐた、さうして茫然として眼をそそぎ耳を傾けてゐた。※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]が瀧のやうに流れた。  ファブリはつづけて、  ――母に相違ないことが決定しますと、あとはその娘御がどうなられたかを知らなければなりませんでした、これはラ・ルクリがヘへてくれました、シァンチイの森で一人の娘が可哀さうに飢ゑて死にかけてゐたところをその娘の驢馬が見つけて、會つたのだといふことで。  ――これお前、とヴュルフラン氏は、頭から爪先きまでふるへてゐるペリーヌのはうに向いて叫んだ、言はぬのか、何でその娘は名乘つて出なかつたのぢや? ※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]明してくれぬのか、若い娘の氣持ちをよう知つてをるお前?  彼女は一二※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]前へ出た。  氏はつづけて、  ――なんでその娘はわしのひろげた腕の中に來ぬのぢや? お※[#「示+且」、第3水準1-89-25]父さんの・・・  ――おゝ!  ――腕の中に。 [#2字下げ]四十[#「四十」は小見出し]  ファブリは、※[#「示+且」、第3水準1-89-25]父と孫娘とを差向ひにしたまま、引き退つた。  しかし二人はひどく感動してゐたから、何もいはず手をとりあひ、ただ愛情の言葉を交はすだけだつた。  ――わしの娘、わしの可愛い孫娘!  ――お※[#「示+且」、第3水準1-89-25]父樣!  つひに、二人が氣も※[#「眞+頁」、U+985A、2123-6]倒した混亂からやや我に返ると、氏は尋ねた、  ――お前はどういふわけで自分を識らさうとしなかつたのぢや?  ――幾度も致しましたわ。いつでしたかついこの前私がお母さんと私とのことをそれとなく申しあげた日に、「今後は決して、よいか、今後は決してあの情けない奴らのことをいふのではないぞ」と仰しやつたことを思ひ出して下さい。  ――まさかお前がわしの娘ぢやと思へたらうか?  ――もしもその娘が正直にあなた樣の前へ名乘つて出たら、耳もかさずに追つ拂つておしまひにはならなかつたでせうか?  ――わしがどうしたかそんなことは分らぬ!  ――それで私はお母さんのすすめに從つて、自分が愛されるやうになる日まで名乘つて出ることは止さうと決めましたの。  ――ずゐぶん待ちかたが長かつたのぢやのう! しよつちゆうわしの愛情のしるしを受けてゐたではないか?  ――父としての愛情だつたでせうか? さう信ずる勇氣はございませんでした。  ――もつと早く言つてくれたらそんな必要はなかつたのにわしはひどく逆らつたり躊躇したり希望を持つたり疑つたりした揚句、わしの推測に間違ひはないことになつたので、ファブリを使ふといふことになつたのぢや、お前をわしの腕へとびこませるためにのう。  ――只今のこの嬉しさから見ますと、そのはうがよかつたのではございますまいか?  ――まあま、よいわ、そのことはおかう、さうしてお前の匿してをつた事を、――わしに搜索をさせながら匿してをつた事を聞かしてくれい、お前が一と言いうてくれたら得心がゆくところぢやつたのに・・・  ――腹藏なくねえ。  ――おまえの父親の話をしてくれ。何でサライェヴォへ行つたのぢや? どうして寫眞屋になつたのぢや?  ――印度での私たちの暮しがどんなだつたか、あなた樣は・・・  氏は口を插んで、  ――あなたといへ、お前はお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]父さんに話してゐるのぢや、ヴュルフラン氏に話してゐるんぢやない。  ――あなたは、あなたのお受取りになつた色んな手紙で、私たちの暮しがどんなだつたかは大體御存じです。そのことは後でお話し申し上げませう、植物採集のことだの狩獵のことだのと一獅ノ。さうしたらお分りになりますわ、お父樣の勇敢だつたこと、それからお母樣の健氣だつたことが、だつて私お父樣のことを申しあげれば必ずお母樣のことも話さずにはゐられませんから・・・  ――今し方ファブリがそのひとのことを知らしてくれて、入院したら助かるかも知れぬのにそれを拒んだ、それはお前を離したくなかつたからだといふのを聞いて、わしが感動せなんだと思つてはならぬ。  ――お母樣を愛してあげてください、愛してあげて。  ――そのひとの話をするがよい。  ――・・・いづれ私はあなたにお母樣を識つていただきますわ、愛させますわ。だからそのことにはふれないでおきませう。フランスへ歸るため印度を立ちましたが、スエズに※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]きましたとき、お父樣の持つてこられたお金はなくなつてしまひました。實業家たちに捲き上げられておしまひになつたのです。どうした譯か私には分りません。  ヴュルフラン氏は、わしには分るといふやうな身振りをした。  ――お金がなくなりましたのでフランスへ行かずに希臘へ向ひました。そのはうが旅費が安かつたのです。寫眞器械を持つてゐたお父樣はアテナの町で人々の寫眞をとり、これで私たちは暮しました。お父樣はそれから家馬車と、私を救つてくれた驢馬のパリカールとを買ひ、道々寫眞をとりながら陸路をフランスへ歸らうとなさいました。ところがまあ、寫眞をとる人の少なうございましたこと! それに山の道のひどうございましたこと、大抵惡い細路しかなくてパリカールは一日に何度も死ぬところでした。お父樣がブソヴァチァで御病氣になられたことは申しあげました。お亡くなりになつた樣子もお許しを得てお話しないでおきます、できますまいから。お父樣がゐなくなられても旅を續けてゆかなければなりませんでした。お父樣がゐて人々に信ョをさせ寫眞をうつす決心をおさせになつていらしつたときでも收入は少なかつたのですから、私たちだけになつたときどんなにそれは減つたことでせう! だんだん貧乏になつて行つてそれが冬の盛り十一月から五月まで、巴里に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]くまで續きましたことも、後でお話しいたします。あなたはお母樣が鹽爺さんの家で亡くなられた次第を今ファブリさんからお聞きになりました。お母樣の亡くなられた事や、ここへ來るやうにといふお母樣の最期のお言ひつけの事も、後でお話し申し上げませう。  ペリーヌの話してゐる間に、漠然とした人聲が庭から起つて傳はつてきた。  ――あれは何ぢや?  ペリーヌは窓へ行つた。芝生や細路は、※[#「晴のつくりに代えて睛のつくり」、U+FA12、78-11]衣を※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]た職工達、男や女や子供達でまつくろで、彼らの上には旗や幟がひるがへつてゐた。六、七千人の人々が詰めかけ、そのむれは公園の外へ、クラブの庭へ、道へ、野原へとつづき亙つてをり、この群衆から人聲は湧き上つてゐた、さうしてこれが、ヴュルフラン氏を驚かせ、ペリーヌの物語にはひどく興じてゐたのにそこから注意をそらせたのである。  ――いつたい何ぢや? と氏は繰返した。  ――けふはあなたの御誕生日です、それで全工場の職工がああしてあなたにしていただいたことを感謝してお※[#「示+兄」、第3水準1-89-27]ひしようと決めたのでございます。  ――あゝ! なるほど、なるほど!  氏は窓邊へ行つた、まるで職工らを見ることができるかのやうだつた、が職工らは氏を見とめた、すると程なく群から群へと歡聲が走つた、さうしてそれは次々に長びいていつて、ものすごいものになつた。  ――これは驚いた! この連中がわしらに楯づくのだつたらどんなに恐ろしいことぢやらう。  氏は始めて自分の命令下にある群衆の威力を知つてつぶやいた。  ――さうですわ、でもあの人達は私たちの味方ですわ、私達があの人達の味方なんですから。  ――それも、孫娘や、お前のおかげぢや。お前の父樣のために空《から》つぽのヘ會堂で式をしたのも、けふからすると大ぶん遠いことになつたのう!  ――會議で決まつた式の順序はかうです。私があなたを正二時に玄關前の石段のところへ御案内いたします。そこであなたは群衆を見わたすことができ皆はあなたを見ることができます。工場の在るそれぞれの村から一人の職工が石段に上り、一同に代つてガトア爺さんがあなたに短い演※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]をいたします。  そのとき時計が二時を打つた。  ――お手をどうぞ。  二人は石段の上に來た、すると大きな喝采の聲がひびきわたつた。それが制せられると代表※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]らが石段に上つた、それから麻の刷手《すきて》であるガトア爺さんが仲間たちから一人三四※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]前へ進み出て、朝から十ぺんも※[#「糸+柬」、第3水準1-90-14]習させられてゐた演※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]をやつた。  ――ヴュルフラン樣、我々は貴下に對し慶賀の意を表するため・・・我々は貴下に對し慶賀の意を表するため・・・  しかしガトア爺さんは、兩腕を大きくひろげたまんま詰まつてしまつた。群衆はこの雄辯な身振りを眺めて、演※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]をやつてゐることと思つてゐた。  爺さんは數秒間努力をしながらそのあひだに、まるで麻を梳《す》くやうな工合に頭を※[#「てへん+蚤」、第3水準1-84-86]いて、白毛を幾|※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]《つか》みか※[#「てへん+劣」、第 3水準 1-84-77]《むし》つたが、それからいつた。  ――實はかうなんで。わしはあなた樣に演※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]をやることになつてをりました、ところが一と言も思ひ出せねえ、いやもう面白くもねえこツて! つまりそのあなた樣にお慶びを申しのべたい、一同を代表しましてあなた樣に心からお禮を申しあげようとかういふんで。  爺さんは重々しく片手をあげて、  ――右|宣誓《せんせい》す、ガトア。  この演※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1]は、筋道の立たぬものだつたが、それでも、文句などに拘泥しない心の※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]態にゐたヴュルフラン氏を感動させた。氏は相變らずペリーヌの肩に手をかけたまま石段のてすりまで進み、群衆の見てゐる演壇に立つやうにしてそこに立ち、  ――※[#「言+睹のつくり」、第3水準1-92-14]君、と※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7]い聲でいつた、※[#「言+睹のつくり」、第3水準1-92-14]君の友情の※[#「示+兄」、第3水準1-89-27]辭をわしは嬉しく思ふ。それを述べてくれた日がわしの生涯中一番幸bネ日、わしがわしの亡くした息子の娘、孫娘を見つけた日であるゆゑにひとしほ嬉しい。※[#「言+睹のつくり」、第3水準1-92-14]君はその娘を識つてをる、※[#「言+睹のつくり」、第3水準1-92-14]君はその娘の働いてをるのを見た。この娘が我々の共同してなした事柄を繼續させ發展させてくれると確信してゐてほしい、さうして※[#「言+睹のつくり」、第3水準1-92-14]君の將來、※[#「言+睹のつくり」、第3水準1-92-14]君の子供の將來は良き手に守られてゐると思つてゐてもらひたい。  さういつて氏はペリーヌのはうへ身をかがめ、うむをいはさず、未だ丈夫なその兩腕に彼女を抱きとつて、持ちあげ、群衆に示して、これに接吻した。  すると喝采が何千といふ男や女や子供たちの口から起り數分の間續いた。次に、※[#「示+兄」、第3水準1-89-27]賀の順序はよくととのつてゐたから、まもなく行列がはじまり、めいめいは老工場主とその孫娘との前へ來ると、挨拶したり、お辭儀したりした。  ――あの愉快さうな顏をごらんになれたら、とペリーヌがいつた。  しかし確かに※[#「晴のつくりに代えて睛のつくり」、U+FA12、78-11]れやかでない顏もあつた。式がすんで自分の「從姪《じゆうてつ》[#「從姪《じゆうてつ》」は底本では「從妹《いとこ》」]」に※[#「示+兄」、第3水準1-89-27]辭を述べる甥たちの顏であつた。  この甥たちと喜んでぐるになりたい一方ではどうしても早目にこの工場の後繼ぎにお上手をいつておきたかつたタルエルはいつた、  ――私はもうずつとかうだらうと察してをりました。  かやうな感動がヴュルフラン氏の健康によいはずはなかつた。誕生日の前日は、それまでの長いあひだと比べて良好で、もう咳も出ず、息苦しくもなく、よく食べ、よく眠つた、ところがその翌日は、咳も息苦しさもひどくぶりかへしたので、せつかく苦心して取※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]してゐたことがみんな、まただめになつたやうに見えた。  程なく醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]のリュション氏が招かれた。  ――私が孫娘を見たがつてをることは御了解のはずぢや。なるべく早う手術に耐へられる容態にしていただききたいものですな。  ――外へ出てはいけません、乳養法を採つて、安靜にして、話をしないやうになさい、さうすれば只今はいい時候ですから、胸苦しいのも、動悸も、咳も鎭まり、しくじる心配は少しもなく手術ができます。請合ひです。  リュション先生の豫想は實現した、さうして誕生日から一箇月經つと、巴里から呼ばれた二人の醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は、大たいの容態が手術をするのに十分よいことを認めた。必ずうまくゆくとはいへなかつたとしても、その率は非常に多かつたし、肝腎の點はこつちのものだつた。暗室でしらべてみると氏は網膜の感覺を失はずにゐることが確認された、これは手術をするのに缺くべからざる條件だつた。醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は虹彩切除術――つまり虹彩の一部を切り取る手術を決心した。  麻醉をかけようとすると、それを拒んで、  ――要りませぬ、ただしわしは孫娘にョんで勇氣を出してわしの手をにぎつてゐてもらひます。そのはうがわしをしつかりさせてくれることがお分りになりませう。ひどく痛みますかな?  ――痛みはコカインで弱まります。  手術は行はれた。患※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]はたちどころに※[#「示+見」、第3水準1-91-89]力を囘復するのではなかつた。壓抵繃帶をした眼の傷が癒合しかけるのに五六日かかつた。  眼科醫は自分で必要な手當をするためにお邸に殘つたのであつたが、この醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が好ましい保證をしてくれたにもかかはらず、希望の日は※[#「示+且」、第3水準1-89-25]父と娘にとつてどんなに待ち遠いことだつたらう。しかし眼科醫のいふことが※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]對ではない。氣管支炎が再發したならばどうなるか? 急に咳が現はれたら、嚔《くさめ》が出たら、全ては危くなりはしまいか?  再びペリーヌは、父や母の病氣中彼女を苦しめたあの不安をおぼえた。死別《しにわか》れてまたしてもこの世で一人ぼつちになるためにのみお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]父樣とめぐり逢つたといふことになるのではなからうか?  心配するやうな併發症もなく時は流れた、さうして氏は、鎧※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16]をおろしカーテンをしめた部屋の中で、手術した眼を使ふことをゆるされた。氏は少女をじつと見つめた後かういつた。  ――あゝ! もし眼があいてゐたら、わしは一ぺんでこれはわしの娘ぢやと覺つたに相違ない。してみると、おまえが父親に似てゐるのに氣づかずにゐたとはあれ共も間の拔けた連中ぢやのう? タルエルが、かうだらうと「察してゐた」と言つたのは、あれは本當のところをいつたのぢやらう。  しかし醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]はさういつまでも胸の思ひの湧くままを語つてゐることを許さなかつた。感動をおぼえてもいけなかつたし、咳をしても心悸亢進を起してもいけなかつたのだ。  ――ではまたあとで。  二週間目に壓抵繃帶はゆるい繃帶と取りかへられた。二十日目に手當はすんだ。しかし醫※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が巴里から※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてきて、讀書もできるし遠方を見ることもできる凸面の眼鏡を選ぶことに決めたのは、やつと三十五日目であつた。普通の患※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]だつたら事の捗り方はもつと遲かつたに違ひない、ヴュルフラン氏ほどの金持ちでゐて、極度に行屆いた手當もせずたびたびの旅行もしなかつたとするなら、それは愚人に違ひない。  孫娘を見た今ヴュルフラン氏の最大の望みは、作業を見に出かけることだつた。しかしそれは新たな用心を必要とし、新たな延期を招いた、なぜなら氏はガラスでかこつた幌馬車の中にとぢこもることをいとひ、氏の古い無蓋馬車を使ひ、ペリーヌに驅らせ、ペリーヌと自分とがみんなに見えるやうにしようとしたからである。そのためには、太陽もなく、また風もなく、寒くもない日を選ぶことが大切であつた。  たうとうその誂へ向きの日がやつて來た。あたたかで薄曇りで空はうすい※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]色をした、この地方でたびたび見られる天氣だ。朝食後ペリーヌはココを無蓋馬車につけるやうバスチアンに命じた。  ――すぐに致します、お孃樣。  バスチアンのこの返事の調子とその微笑とに彼女は驚いた、が、寒い目にも※[#「暑」の「者」に代えて「睹のつくり」、第3水準1-85-35]い目にもあはないやうお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]父樣に※[#「墸のつくり」、第3水準1-91-7]物をきせるのに忙しかつた彼女は、それを別段注意しなかつた。  やがてバスチアンは※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてきて馬車に馬をつけたことを告げた[#「告げた」は底本では「告けた」]。二人は石段の上へ出た。ペリーヌは一人で※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くお※[#「示+且」、第3水準1-89-25]父樣から眼を離さずに一番下の段まで來た、するとびつくりするやうな嘶《いなな》きがしたので彼女は顏を向けた。  こんなはずはないが! 馬車には一匹の驢馬がつけられてゐてその驢馬がパリカールに似てゐる、もつともパリカールといつても、つやつやして、手入れの行屆いた、木靴も立派で、※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]い小|總《ふさ》のついた※[#「廣−广」、第3水準1-94-81]色の美しい馬具をつけてゐる、さうしてそれが、頸をのばして※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4]えず嘶きつづけ、侍童におさへられながらペリーヌのはうへ來ようとしてゐる。  ――パリカール!  頸へとびついて※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]ずりした。  ――あゝ! お※[#「示+且」、第3水準1-89-25]父樣、うれしい不意打ち!  ――それはわしではない、ファブリぢや、ファブリがラ・ルクリから買ひ取つたのぢや。事務員一同がむかしの仲間に※[#「貝+曾」、第3水準1-92-29]物をしたいといふんだよ。  ――ファブリさんは深切なお方ね。  ――さうとも、さうとも、あれはお前の從兄共の氣づかぬことを思ひつきをつた。わしも一つ思ひついたよ。パリカール用のすてきな二輪馬車を巴里に註文したのぢや、二三日中に屆くぢやらう、さうしたらパリカールだけにそれを曳かせよう、この無蓋四輪《ファエトン》馬車ではむりだからな。  彼らは馬車に乘りこんだ。ペリーヌは手綱をとつた。  ――どこからまゐりませう?  ――どこからぢやと? 隱れ小屋からぢやあないか? お前の暮した、お前の※[#「巛/果」、第3水準1-84-8]立つた住居をわしが見たくないとでも思うてをるのか?  小屋は、去年引き拂つたときのままで、誰にも手をつけられず、時の流れにさへ守られて、亂雜に茂り放題の植物と共に、そこに在つた。時の流れはただ小屋の特質を一そう深めてゐただけであつた。  ――お前が、文明のまん中の、勞働の大中心地のすぐ近くにゐて、こんな處で未開の暮しをしたとは珍しいことぢや。  ――印度では全く未開の暮しをしながら何もかも私たちの所有物でしたが、ここの、文明生活では何の權利も私は持ちませんでした、私はよくそのことを考へたものでした。  隱れ小屋の次に氏の先づ訪れようといつたのはマロクールの保育所だつた。  氏は、その設計を長いことファブリと論じあつて決定したのだから、十分保育所を識つてゐるつもりだつた、がその入口に立つて、ほかのすべての部屋を――つまり赤ん坊が男女の性に從つて薔薇色か※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8]色の搖りかごにねかされてゐる寢室や、ひとり※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]きする幼兒の遊んでゐる養育室や、料理場や、洗面場を一瞥したとき氏は、建築家が、保育所といふものは母親たちが玄關の部屋からその立ち入つてならない部屋々々の樣子をすつかり見ることのできるやうに本當のガラスの家でなければならないといふこの課せられた困難な理想を、巧みな間取りとガラスの大扉とで實現したことを見とめて、驚いた、さうしてうつとりした。  二人が寢室から養育室へ來ると、子供らはラッパや、豆太鼓や、木の馬や、牝鳥や、人形などのおもちやを手に持つてこれを差出しながら、急いでペリーヌのはうへ駈けよつた。  ――お前を識つてをるのぢやのう、とヴュルフラン氏がいつた。  ――識つてをりますどころでは! と二人についてきてゐたベローム孃はいつた、慕つてゐる、心からなついてゐると仰しやつて下さいまし、お孃樣はこの兒らの小さなお母樣なのでございます。お孃樣ほど上手に子供たちを遊ばせる方はありません。  ――憶えてをられるかの、とヴュルフラン氏は答へた、自分に必要な物を拵へ出すことができるといふのは何よりの性質だとあなたはいはれた、わしはもう一つのもつと立派な性質が在るやうに思う、それは他人に必要な物を作り出すことができるといふことです。まさしくこのことをわしの孫娘はやりをつた。しかしお孃さん、わしらはまだほんのやりかけですわい、保育所を建てる、職工の住宅やクラブを建てる、これは※[#「示+土」、第3水準1-89-19]會問題のイロハで、そんなこと位でこれの解決がつくものではない。もつと先きへもつと深くやつてゆきたいものですな。わしらは出發點にをるに過ぎんのですからの。やがてお分りになる、やがて。  入口の部屋に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]ると一人のおかみさんが兒に乳をのませ終つてゐたが、急いでその兒を起してヴュルフラン氏に差出し、  ――この兒を見てください、ヴュルフラン樣、立派な兒でせう?  ――うむ・・・立派な兒ぢや。  ――この兒はあなた樣のものです。  ――さうかい?  ――私はもう三人子供がございましたが亡くしてしまひました。この兒の死なずにゐるのは、どなたのお蔭でせうか? この兒があなた樣のものだといふことがお分りでせう。~樣がどうかあなた樣と可愛いお孃樣とにおめぐみをお與へなさいますやうに!  保育所の次に職工たちの住宅、次に宿舍、レストラン、クラブをまはり、マロクール村を出るとサン-ピポア、フレクセール、バクール、エルシュの村々へ行つた。道々パリカールは、馬車に乘るときはきまつて自分を抱いてくれ、ラ・ルクリよりはずつと優しい手を持つた自分の御主人に駈られてゐるのを得意にして、嬉しさうに走つて行つた。――御主人のこの愛撫に驢馬は耳を動かして答へたものだがこれは、それの意味を讀み取ることのできる人にとつては實に巧みな言葉だつた。  これらの村々では建築はマロクール村ほどに捗つてゐなかつた、しかしもう大たいその完成の時期は見當がついてゐた。  一日は良く滿たされた。彼らは日の暮れ前をゆつくりと歸つて行つた。すると丘から次の丘へ移りかけたとき、彼らは、もくもくと煙を吐く高い數々の煙※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]をかこんで到るところに新しい屋根の見えるこの地方を見わたすことができた。ヴュルフラン氏は手をのばして、  ――見よ、お前の仕事を、あの設備を。わしは事業熱に曳きずられてああいふ設備のことは考へるひまもなかつたわい。しかしあれを繼續させてゆかうとするなら、お前は夫を持たなければならぬ。お前にふさはしい、さうして、わしらのためにも皆のためにも働いてくれるといふ夫をな。それ以外に望む條件とてはわしらにはない。ところでわしは、わしらに必要な氣性のよい男が見つかるつもりぢや。さうしたらわしらは幸bノ・・・家庭を作つて暮すことができる。 [#地から1字上げ]――をはり―― 底本:『家《いえ》なき娘《こ》(アン ファミーユ)』上・下(エクトル・マロ、岩波書店、岩波文庫)  上巻 1941年8月15日 第1刷発行     2000年2月21日 第3刷発行  下巻 1941年11月15日 第1刷発行     2000年2月21日 第3刷発行 訳者:津田《つだ》 穣《ゆたか》 ※底本は旧字旧仮名で書かれてゐますが眠夢さんがそれを読みやすい現代表記に書き換えておられます。参考にさせていただきました。 https://www2s.biglobe.ne.jp/~nem/perrine/txit/perrine_ienakimusume_iwanami01.txt ※眠夢さんが指摘しておられる以下の点を修正しています。 ・ブルトヌー夫人が弟であるヴュルフラン氏の「妹」になっているところや、ブルトヌー夫人の弟であるヴュルフラン氏が「兄」となつているところ(岩波文庫下巻p.192以降、第三十四章の終わりまで)は「弟」に変えました。 ・「サラジェヴォ」は「サライェヴォ」に変えました。 ・第三十六章の最初の文における「この三年間」の位置を修正しました。 ※ペリーヌはヴュルフランの二人の甥から見ると「いとこの子」にあたりますが、それが「従妹」となっているところがあります。「いとこの子」は「従姪」というそうなのでそのように書き換えています。 ※作中ヴュルフラン氏がペリーヌのことを「娘」と呼んだり「孫娘」と呼んだりしていますが、英語訳も同様になっているので、フランス語の原作をチェックしたわけではありませんが、そのままにしてあります。 ※カトリックの教会に「牧師」という言葉が使われている個所がいくつかありますが、「神父」「司祭」が適當と思われます。 入力:山崎正之 https://surgery.matrix.jp/indexj.html 2024年8月18日作成 2025年4月17日修正 ※底本では、旧字の漢字が用いられています。表示できない漢字については出来るかぎり註をつけました(初出時のみ)。以下にまとめておきます。 なお、「しんにょう」はすべて「二点しんにょう」ですが、それらについてはいちいち註をつけておりません。 上巻 「前」は「剪−刀」 「情」は「りっしんべん+睛のつくり」 「炭」は「山/(恢−りっしんべん)」 「忍」は「仞のつくり/心」 「飢」は「飮のへん+几」 「勝」は「縢」の「糸」に代えて「力」 「急」は「(危−厄)/(帚−冖−巾)/心」 「所」の「戸」に代えて「戸の旧字」 「終」は「糸+冬」の「冬−夂」に代えて「冫」 「採」は「てへん+綵のつくり」 「麻」は「嘛のつくり」 「曜」は「日+櫂のつくり」 「税」は「禾+兌」 「消」は「さんずい+悄のつくり」 「判」の「半」に代えて「絆のつくりの縦棒を左にはらったもの」 「遂」は「燧−火」 「弱」は「嫋のつくり」 「灰」は「恢−りっしんべん」 「薄」は「縛のつくり」に代えて「溥のつくり」 「送」は「鎹のつくり」 「食」は「餮−殄」 「婦」は「女+帚」 「終」は「糸+冬」の「冬−夂」に代えて「冫」 「要」は「襾/女」 「平」は「怦のつくり」 「査」は「木/旦」 「隊」は「隧−二点しんにょう」 「周」は「蜩のつくり」 「翌」は「栩のつくり/立」 「菜」は「くさかんむり/綵のつくり」 「砲」は「石+鉋のつくり」 「週」は「二点しんにょう+蜩のつくり」 「半」は「絆のつくり」 「尋」は「潯のつくり」 「棚」は「木+(萠−くさかんむり)」 「述」は「二点しんにょう+朮」 「縛」は「糸+溥のつくり」 「術」は「衙」の「吾」に代えて「朮」 「選」は「二点しんにょう+饌のつくり」 「飯」は「飮のへん+反」 「敷」は「(甫/方)+攵」 「尊」は「墫のつくり」 「包」は「鉋のつくり」 「麾」の「毛」に代えて「鬼」 「纒」の「黒」に代えて「K」 「濯」は「さんずい+櫂のつくり」 「乳」は「郛のへん+礼のつくり」 「響」は「即のへん」に代えて「皀」 「暖」は「日+爰」 「癒」の「愉のつくり」に代えて「兪」 「采」は「綵のつくり」 「抱」は「てへん+鉋のつくり」 「浮」は「さんずい+孚」 「造」は「二点しんにょう+晧のつくり」 「割」は「瞎のつくり+りっとう」 「誤」は「言+蜈のつくり」 「伴」は「にんべん+絆のつくり」 「酷」は「酉+晧のつくり」 「愉」は「りっしんべん+兪」 「帽」は「冒」に代えて「瑁のつくり」 「煙」は「ひへん+(西/土)」 「羽」は「栩のつくり」 「告」は「晧のつくり」 「認」の「刃」に代えて「仞のつくり」 「崩」は「山/(萠−くさかんむり)」 「捩」は「てへん+(戸の旧字+犬)」 「寞」は「うかんむり」に代えて「わかんむり」 「磨」は「麾」の「毛」に代えて「石」 「管」は「竹かんむり/孚」 「産」は「顏のへん」の「彡」に代えて「生」 「兼」は「税のつくり−兄」に代えて「八がしら」 「蘭」は「くさかんむり/闌」 「條」の「木」に代えて「ホ」 「覆」は「襾/復」 「節」は「竹かんむり/(皀+卩)」 下巻 「飾」は「飲のへん」に代えて「飮のへん」 「捏」は「てへん+臼/工」 「昂」は「日/(功のへん+卩)」 「請」は「言+睛のつくり」 「慨」は「りっしんべん+皀+旡」 また、「青空文庫・外字注記辞書 改訂第八版訂正版」に掲載されていない以下の外字を用いました。 説 ※[#「言+兌」、U+8AAA、3-1] 強 ※[#「繦−糸」、U+5F3A、3-7] 歳 ※[#「穢のつくり」、U+6B72、4-1] 絶 ※[#「絶」の「危−厄」に代えて「刀」、U+7D55、4-4] 精 ※[#「米+睛のつくり」、U+FA1D、4-14] 既 ※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15] 青 ※[#「睛のつくり」、U+9751、9-8] 衰 ※[#「「褒の保に代えて丑」、U+2E569、10-4] 戸 ※[#「戸の旧字」、U+6236、21-16] 脱 ※[#「月+兌」、U+812B、34-9] 晴 ※[#「晴のつくりに代えて睛のつくり」、U+FA12、78-11] 益 ※[#「縊のつくり」、U+FA17、106-5] 顛 ※[#「眞+頁」、U+985A、2123-6]「2123」は下巻の123頁の意味。 慨 ※[#「漑」の「さんずい」に代えて「りっしんべん」、第3水準1-84-60][#底本では「りっしんべん+皀+旡」]