アメリカ柵を越えて 神谷英子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#2字下げ] 《》:ルビ (例) ------------------------------------------------------- [#2字下げ]はじめに――ビリーへの手紙[#「はじめに――ビリーへの手紙」は小見出し] [#ここから地付き] オハイオ州ジーニアにて [#ここで地付き終わり] ディア・ビリー  ものごころがついたというのは一体いつごろのことを指すのでしょうか。生まれて間もないころのことで、自分の記憶に残っている最初の体験ってどんなことでしょうか。  私はね、次から次へと押し寄せてくる人の足が、容赦なく迫り、無表情に通り過ぎていくまっただ中で、押しつぶされそうで怖くて怖くて誰かの手にしっかりつかまっていたことをよく覚えています。後日、あなたのお祖母ちゃんに尋ねたら、 「それはきっと四国の坂出から北陸の小さな町へ引っ越していく途中の大阪駅の雑踏じゃないかしらね。」と、いうことでした。  ところであなたにとってはどんなことが初めての想い出としてあるのでしょうか。 「たくさんの子どもたちと橇にのってヒューッと滑りおりたこと。おもしろかったよっ。」  と、あなたは答えましたね。  それはきっとスティーヴィーたちと一緒にライト兄弟ヶ丘で雪遊びに夢中になっていたときのことでしょう。ライト兄弟ヶ丘って? そうです。あなたは二歳二か月のとき、あのライト兄弟の出生地、オハイオ州デイトンに丸一年、住んでいたのです。五冊のアルバムがあなたのアメリカ体験の証拠みたいに残っているけれど、あなたは何ひとつ覚えていないといってはよく嘆きました。  その後もオハイオから懐かしい人びとが訪ねて来てくれましたが、あなたは初対面の人に対するようによそよそしくしていましたね。お相手はあなたの成長ぶりに感激して、ハグするやらキスするやらそれは大騒ぎだというのに。それにあなたは自分がその人たちとコミュニケイトできないという危機に直面して、少しばかり驚いているようですね。 「どうして僕だけ英語話せないの? アメリカではどうしてたの?」  と、心配がっているけれど、本当にどうしていたのでしょうね。じらすのはこの辺でお仕舞いにして、私たちがオハイオで、その後、ニューヨークでどんな風に暮らしていたかを話してあげましょう。あなたなら、今や珍しくも、めくるめくような冒険も期待できない、みんなが知っているアメリカという国のことを、目を輝かせて聞いてくれそうな気がします。  私の帰国を待ってくれていた人々は、会うと、 「お帰りなさい。ああ、良かった。ちっともお変わりでなくって(渡米する前と全く同様の様子でということ)。」  と、言って下さいました。  キンキラキンの外国カブレにならず、昔と変わらないということはほめ言葉なのでしょうが、私は思わずムッとし、ガッカリしてしまいましたっけ。私は変わった、変身した、大変わり。様子は違わなくても中味はもう、元の私じゃないんだと、やっと一人前になり、社会に飛び立つ青年のように、口笛でも吹いて歩きまわりたい歓喜にみちていたのですから。でも、かと言って私ときたら、政治家でも、芸術家でも、はたまた探検家でもないのですから、“アメリカでこんな成果を上げたのですよっ”と、説明することも何らなく、 「ええ、まあ、楽しかったわよ。良かったわよ。」  と、儀礼的に返答し、私を大変身させたアメリカというものには、口をつぐんでいました。  でも、今、あなたがアメリカに、幼少期の匂いを求め、とても関心をもっていることを知り、私たちの[#「私たちの」に丸傍点]アメリカンメモリーを、色あせ、風化してしまう前に、残しておこうと思います。  一九八七年 夏 [#ここから地付き] あなたのミセス・エイコ・カマイヤ [#ここで地付き終わり] [#改ページ] [#2字下げ]アボカドの木[#「アボカドの木」は小見出し]  アボカドという果実を初めて食べたのは一九八一年の初夏のこと。二軒おいた向こう隣に住むボニーパパのランチでです。  ボニーパパは、エアフォース(空軍)の少尉で、奥さんはメキシコ系の人でした。だからでしょうか、その日のランチはタコスでした。トウモロコシの粉でできた馬の鞍のようなシェルの底に行儀よく采の目に切られたレタスやトマト、それにチリソースで煮込んだひき肉などをのっけて、パラパラ落ちるのを、初めてのお宅でのお招ばれ[#「お招ばれ」に丸傍点]ということで、少し気取っていた私は内心、キャーッと焦りながら、それでもすまして食べました。  その色とりどりのフィリングの中に、やさし気な緑色をしたクリームチーズがありました。チーズに目のない私は、さっそく試みました。チーズではない青々とした生っぽさが口の中に広がりました。それがアボカドペーストだったのです。以来アボカドはいつもグローサリーに並んではいるものの、さして買おうという気にもならないまま、日本へ帰ってきてしまいました。  ある頃から、岡山の小さなスーパーにもアボカドが出回るようになりました。懐かしさから一つ買ってみました。やはり適度に柔らかそうなのがいいのでしょうが、鰐梨という和名のとおり、外見では判りません。スライスして生姜醤油をつけて食べてしまいました。まん中に一つ、心臓のような種があります。その種に三方から爪楊枝をさしてコーヒーの空き瓶にのせておきました。  間もなく根が生え、茎が伸びて、子どものくせにやけに大きい、南国らしい濃緑の二葉が開きました。その後、するすると伸びて次々に二葉、また四葉と天を仰ぐように開き、下葉は自然に萎縮して消え、育ちに育ちました。その葉姿には、まさにジャングル生まれを彷彿とさせられます。でも、葉の盛大さのわりに茎がヒョロヒョロで、よくもまあ立っていられるものだと不思議に思います。それにくわえ、近ごろでは、この木はこれでいいのだろうかと少し心配になってきました。でもアボカドは何も語らず、幹というにはあまりに華奢な茎の回りに、明快なばかりの大きな葉をスカートのように付け、ときどき静かにスカートを広げたりすぼめたりしながら、私たちを見ています。    *   *   *   *   * 「私たちは友人を選ぶのです。ですからあなたがたを招待しました。どうか、私たちの生涯の友になってくださいっ。」  ボニーパパはプロポーズでもするように言いました。同じ年齢の男児の一人っ子をもつ親として、教育や躾のこと、太平洋戦争を知らない若い軍人と新婚時代をその地に暮らした日本人として、ヒロシマのことも話し合いました。やがて彼らは将校用宿舎に移り、その広大な新居にも度々招いてくれました。本当に節度をわきまえた気もちの穏やかな人でした。  そうして次の年が明けると早々、私たちは零下十八度の、こおりついたデイトンを去り、ニューヨークへ発ったのです。  でも、なぜか、帰国後あのボニーから一度たりとも音信がないのです。 [#改ページ] [#2字下げ]目的の国[#「目的の国」は小見出し] [#ここから地付き] “これもアメリカ”芽生きのシェラバーグ公園 [#ここで地付き終わり]  なんて長く苦しい旅だったことでしょう。行き届きすぎた暖房で、私たちは汗さえかいていました。サトシはずっとむずかって、スチュワーデス嬢も入れ替わり立ち替わり、 「何か手助けをすることはありませんかっ。」  と、駆けつけてきました。何しろサトシが声をあげるたびに機内中、皆うち揃って、 「見てますよっ。」とばかりジローリと、まるでお芝居のようにオーバーな無言の抗議をするのですから。汽車のように立っているデッキもなく、窓を開けて飛び降りるわけにもいかず、ひたすら耐え続けました。十時間を経て、とにかく解放されました。シカゴです。オヘアシカゴ国際空港っていうけれど、剥き出しのコンクリート壁、すさんだ倉庫のような階段横での長蛇の列。旅らしい華やぎなんて、どこにもありません。皆、無表情で因襲でぬり固められた古い社会に息づまり、新天地を求めて祖国を去ってきた疲れきった移民そのものといった風情です。 「ネクスト! 入国の目的は?」 「?」そう、目的です。私は何のためにこの国へ入るのでしょうか。観光やビジネスでないことはヴィザ(査証)が物語っていますから、英会話教材のお定まりの文句では嘘になってしまいます。 「テイキング・ケア・オブ・マイハズバンド!」  と、苦しまぎれに答えました。入国審査官はキッと私を見、それから傍らの五体満足な夫を見て、ニターリとしたのです。このニターリの意味が分かりかけるのにずいぶん時間が要りました。    *   *   *   *   *  オハイオ州フェアボーンという町の一夜が明けました。ホリデイインの窓から、うっすらと朝日に照らし出された町が見えます。お宮の森のご神木のような大落葉樹が、裸の枝々をレースのように空に伸ばし、村や林の黒い塊が雪原のあちらこちらに点在しています。小径が家々を結び、教会の尖塔が真珠色の空を突き刺しています。これが物質文明の権化のあのアメリカ?    *   *   *   *   *  ここはいつか来たことがある町です。あの雪の小径を、馬車がのんびり走って来ます。何だか夢をみているよう。きょうが一九八一年の一月七日だなんて、とても信じられません。 (やあ、アン。さあ、乗りな、マリラおばさんのホットチョコレートが待ってるぞ。) (ありがとう、マシュウおじさん!)  そう、グリーンゲイブルズ。ここはグリーンゲイブルズだったのだわ、と私はすっかり嬉しくなって来ました。    *   *   *   *   * 「コーヒーですか、ティーですか。」 「カフェインレスですか、それともレギュラーですか。」 「卵はどう料理しますか。ベーコンですか、ソーセージですか。」 「ドレッシングはブルーチーズ、サウザンアイランド、それともフレンチ、イタリアン………。どれですか。」  ウエートレスは、機関銃のようなイングリッシュで、容赦なくたたみかけてきます。“天プラ定食””モーニングセット”と一言、発しさえすれば、後はもう、どんな魚がいいか、卵は目玉焼きか、目玉焼きなら裏返したのがいいのかどうかなんて、執ように訊かれることもなく、整然とコトがはこばれることに馴れきっていたので、いささか、たじろいでしまいました。 「さあ、どうしようかしら。どうしたらいいのかしら。ねえ、あなたどうする? どうしたらいいと思う?」 「そんなこと、あなたご自身で決めることですよ。」 「そうさ、あんたのプロブラムさ。」  アンもセーラもハイジもジョーも私の大好きな女の子でした。ウェットな日本の名作的読み物には登場しない勇敢さと、可愛らしさが共存した少女として、愚図《ぐず》な私にその昔、新鮮な衝撃を与えました。そして秘かに憧れ、彼女たちに会いたくてページを次々に繰っていたものでした。でも幾冊彼女らの物語を読破しても、私はアンにはなれなかったのです。 [#改ページ] [#2字下げ]ジャパンってどこにあるの?[#「ジャパンってどこにあるの?」は小見出し] [#ここから地付き] アメリカ合衆国、国会議事堂(ワシントンD.C.) [#ここで地付き終わり]  「ヘーイ! チンク、ヘーイ!」  パティオで遊んでいるサトシに、隣家のバルコニーから声がかかります。神経をとがらせる必要はありません。その声には、ただただ同じ年頃の子どもと近づきたいだけという無邪気さがあふれているからです。  五歳のマイクはときどきウィークエンドダディのハーバード大佐のところへ、はるばるコロラドスプリングズからやって来ました。 「私たちはチンク[#「チンク」に丸傍点]じゃないわ。ジャップ[#「ジャップ」に丸傍点]よ。ジャパニーズ。わかった? リトルニガー[#「ニガー」に丸傍点]ボーイ!」  近所の子どもたちは私を囲んで、 「ジャパンってどこにあるの? チャイナの一つの州なの?」  と、尋ねます。地図を広げて教えてやると、いじらしいほど真剣に耳を傾けています。彼らにとっては、中国も韓国も日本も区別することができず、ひとまとまりで認識しているようです。アメリカで描れている東洋人の絵を観ると、見事にこの三つの国の風俗をミックスしていることが分かります。  日本はG・N・Pがもう二十年も前から世界二位で、もうすぐ一位のアメリカをも追い越そうという勢いの日出《ひい》ずる国。今や知らぬ人があろうか、私たちはどこへ行っても日本の経済発展の秘訣を、また文化の深遠さを、うるさいほど訊かれるに違いないと、準備までしていたのです。でも日常では ただの一度として、日本人代表としての、私の意見を求められることなんてありませんでした。私が何人《なにじん》であるかということより、私という一人の人間が、どう考えているかの方が、はるかに大切だったのです。    *   *   *   *   * 「参ったなあ。ナルダがね、キャノンは絶対アメリカ製カメラだって主張しおってね。メイドインジャパンだって言うのに、頑として譲らないんだ。僕だってキャノンに縁も故もないからさ、だんだん自信がなくなっちゃった。日本の会社だよね?」  と、ある日、夫がトンチンカンなことを帰宅そうそう申します。ナルダのように主張する立派な[#「立派な」に丸傍点]大人にかなり出会いました。ホンダやトヨタは近くに工場があるせいか、日本の車だと知れわたっているようですが、ソニーやパナソニックが日本の会社だとは、問われるまで考えてみたこともない様子です。 「名前が英語みたいだから、アメリカの会社かと思ったわ。」と、キャシー。 「日本人って商売上手だね、実に。名前もそうだけど、ソニーやセイコーも東京で買うより、ここで買った方が随分安いよ。そうさ、ダンピングってやつ。」 「アメリカ人は日本人みたいに舶来《ハクライ》、舶来って騒ぎ立てませんから、知らず知らずのうちに外国製品が普及してしまうのです。バイアメリカンなんて今ごろ煽りたてたって、それが国産(アメリカ製)か、知らないんですよ。」 「エイコ。私たち、世界中いろんな所へ旅をしたり、住んだりしたけれど、アメリカより住みやすい国はないと分かりました。オハイオは気候が厳しいですから、リタイアしたらカリフォルニアかフロリダに住むつもりです。ところで、日本って政治体制は、全体主義なんですか? それとも民主主義なんですか?」 「! ?……」  ひとりよがりにも、頭上に日の丸をはためかせて意気込んでいた私も、日本って何なんだろう、アメリカって、どこにあるのかしらと、すっかりしぼんでしまいました。 [#改ページ] [#2字下げ]歌を忘れたカナリア[#「歌を忘れたカナリア」は小見出し]  東洋美術館さながらのリンクス家のホールを抜けると、明るいファミリールームで、ヨーコさんとミツエさんがテレビを見ています。一九七九年、十一月以来占拠されていたテヘランのアメリカ大使館員たちが、この一月、解放協定が成立して、無事帰国してきたのです。どのチャンネルもこのニュースを報じ、国じゅうが沸きかえっていました。  私が入って行くと、待ってましたとばかりに、小柄な二人は、 「ねえ、ホステイジって、日本語で何と言うんだったっけ? ホリョじゃないでしょ。ヨクリュウじゃないし……」 「人質でしょう?」 「そう、そう! ヒトジチ、ヒトジチ。」  何と、二人は人質になっていたアメリカ人たちにイェールをおくるのではなく、人質という日本語を思い出した喜びに、手を取り合っているのです。 「私ね、もう日本語も忘れちゃったわ。もう何年も日本に行ってない。だって兄一人しかいないし、親もとうの昔に死んじゃったしね。ううん、帰りたいなんて思わないわ。でもね、博多のひよこ饅頭。あれだけもう一度、もう一ぺんでいいから食べてみたいわ。」 「いやだあ、だからって英語だってまともじゃないよお。今じゃ娘たちも全然相手にしてくれないわよ。マムに話しても分かんないよってね。馬鹿にしてるよねえ。大事なことはみなダディに相談してるわ。だってほら、難しい話、英語じゃできないでしょ。私のことワッシングミシーン(洗濯機)かなんかと間違えてるよ。」  ヨーコさんが古いオルゴールのネジを巻き、ダニーボーイがメランコリックに流れます。 「この歌はね、カーサンがいつも歌っていましたね。カーサンは日系の一世です。ええ、あんなに働いて尽くしたのに、戦争中は収容所の中ね。日本のガバメントなんて、日系人は日本人じゃないと思ってんでしょうよ。いつだって外に居る人のことなんか考えないのよ。  ええ、アメリカンシティズンといったって、カーサンたちは立派な日本人でしたよね。子どもたち三世なんてね、完全にアメリカ人よ。どこを割ったってね。アメリカン。日本のものなんてヤッキ(気もちワルイ! キタナイ!)だって食べないし、日本語も馬鹿にしちゃって覚えようともしないわよ。私たちが集まって喋ってるの嫌がってね。日本語で喋ってるからよ。“白い眼で視る”だったよね、アレね。全く、母親だっていうのに。日本人じゃないわよ、親に向かってあんな態度をとるのはね。」 「アッみて、みてっ! バニー!」と、サトシが沢庵をかじりながら、バックヤードに出てきた野ウサギを、小さな指でさしました。 [#改ページ] [#2字下げ]私の名はアリス[#「私の名はアリス」は小見出し] [#ここから地付き] “お祭りは馬車に乗って” [#ここで地付き終わり] 「私の名はアリス。レッキとしたアメリカ人よ、フフフ。でも友だちは、やっぱり日本のおばさんたちが多いわね。でも私はあの人たちとは違うのよ。ちょっとエイコさん! あんた、私たちみたいにG・Iと結婚した女のこと、パンパンガールか何かかと思ってんでしょう? いいのよ、隠さなくたって。だけどお生憎さま。私、ミッションスクール出身。大学まで出てるのよ、これでも。  三沢のベースでタイピストしていてスティーヴと知り合ったのよ。皆がみな得体の知れない女だと思わない方がいいわよ。でもあのおばさんたちとはあまり付き合いたくないわね。根性悪いしね、日本人って。あんたも気をつけた方がいいわよ。  三十年前アメリカに来たときだって、私はね、言葉にゼーンゼン困らなかったわ。トキさんみたいにドルもセントも分かんなくて、カミソリ(COMMISARY)で財布引っくり返しちゃってさ、肩すくめてるなんてこともなかったわ。でもバカな男と結婚したと思ってるわ。そりゃあ、スティーヴは家族思いよね。よくやってくれるでしょ? でも今のままじゃオフィサー(士官)になれずにリタイアよ。つまんないよねえ。学歴がないからなの。あーあ損しちゃった。  それに、私、このごろ誰かに狙われているのよ。ちょっとここへ来て。ほら向かいのあのオッさん。いつもこの時間になると必ずあそこに座ってこっちを見てるのよ。必ずよ。それにあんたさっきから何も感じない? 隣よ。隣は黒人の夫婦なんだけど、子なしのね。変なのよ。もう半年も住んでるのに誰も来たことないわ。パーティーだって何だって一回もしないわよ。怪しいでしょ? トウちゃんの方はジェネラル付の運転手よ。あの人たち皆して私を見張ってるのよ。そしてときどきマイクロウェーブかなんかで発信しちゃって。ほら来た、来たっ。感じるでしょ? この振動。……あんたニブイのよ。  でも私、あんたが羨ましいわ。だってやっぱり日本人と結婚して日本に帰れるんだものね。第一、インテリだしね。でも私には無理ね。もうあんたのトウちゃんみたいな日本の男とは一日だってやってきゃしないわ。それに私はレッキとしたアメリカ人ですからね。」  アリスさんとの少しばかりミステリアスな会話はこれっきりでした。私たちは、アリス一家の典型的にエンジョイアブルなアメリカンライフに心広く受けとめられ、いつもその恩恵に浴して、アリスさんのレッキとした日本人部分[#「レッキとした日本人部分」に丸傍点]が、孤独な彼女の意志の力で絶たれようと血を流していたことを忘れていました。    *   *   *   *   * 「エイコさん、お元気ですか。アリスはとうとうノイローゼがひどく、今、スティーヴと共にドクターのところへ通っています。」  と、四年もたってから、トキさんによって知らされたのです。 [#改ページ] [#2字下げ]子どもチョロチョロさせないで![#「子どもチョロチョロさせないで!」は小見出し] [#ここから地付き] “パーティーはお子様抜きで” [#ここで地付き終わり]  また夢をみました。わさびがピリッと利いた中トロのお寿司に、醤油をつけてパクリッとした途端、目が覚めました。ああ夢だったのかと、がっくりしてしまいます。夢の中に出てくる人たちが皆、英語でまくし立てているようになっても、お寿司やら、お浸しに削り鰹をかけて食べている夢にたびたび悩まされました。  わが家から西へ行くと、アイコさんが退役軍人のご主人と日本食料品店を開いています。 「胃袋が、アメリカ生活をヘイトすることがあるんですよ。」と、到着したその翌日に、もうドクター・オーシロは私たちを案内してくださいました。 「日本のものは何でも手に入ります。アメリカ人もダイエットのために、日本食に注目してきていますから。」  私はその後もアイコさんのお店に足繁く通いました。まさに西方の極楽とはこのことです。アイコさんのお店はもともと豆腐屋さんなので、冷奴をするにはここが一番です。クローガーのトーフは豆腐にあらず。粘土色の凍豆腐を戻したような代物で、奴《やっこ》で食べるには少しばかり勇気が要ります。  月に三百ドルまでを上限の食費に当てて暮らしていましたが、どうしてもここに来ると、ついこのタラコも、このオモチもと、手が伸びてたちまち予算オーバーしてしまいます。  その日もわが家一同は少々はしゃぎながら棚を見て回り、アイデンティティが確かになってくる快感に浸っていました。 「ちょっと、あんた! 子どもチョロチョロさせないでよっ!」アイコさんの鋭い声が背中に突き刺さりました。 「まったくねえ、困るんだよ。子どもに品物ダメにされたらあんただって困るんだよ。それにさ、なんで買い物に来るのに子ども連れてくるのよっ。まったくねえ。日本人たら、どっこへでも子ども連れて行くんだからねえ。どうかしてるよ。だからアメリカ人が嫌うよねえ。ガメツイんだよ。ベビーシッター雇うカネ、セイヴしてんのかねえ。」  私は耳を疑いました。サトシを出産してからずっと有頂天だったのです。どこへ出かけても私の[#「私の」に丸傍点]輝くばかりのエンジェル、サトシは注目の的。いつもチヤホヤされ誰もが私たち母子を大切に気遣ってくださり、それが当たり前のことのように思い込んで幸福に酔いしれていたのです。  それにくわえ、私はアイコさんのお店ではかなりの上客だと自負していましたから、馴染みになれば、この位のことは大目に見てもらえるだろうという、甘ったれた根性でいたに違いありません。それにしても何というオコトバ。いやしくも私は顧客ではないか、しかも高価な日本食品をかなり頻繁に買ってやっている[#「やっている」に丸傍点]んじゃないか、と、早くもショックから立ち直ると性懲りもなく腹立たしくなってくるのです。 「あら、エイコさん。それ、ちょっとおかしいんじゃなあい? 子どもチョロチョロさせたのは、あんたのギルティーよ。買い物をしてくれてサンキュウと言うのとは別のことでしょ?」  と、誰も私を弁護してはくれません。  全くそのとおりなのです。それとこれとは別問題という状況に立たされることもなく、“まあいいじゃないの。カタイこと抜きで”という馴れ合いの環境で、ただ何となく母親というものをこなして来た私は、ここでやっと目が覚めたというわけです。 [#改ページ] [#2字下げ]セントビンゴ教会[#「セントビンゴ教会」は小見出し] [#ここから地付き] “どこの町にも、教会はある” (ペンシルバニア州ピッツバーグ) [#ここで地付き終わり]  私たちは“四頭立ての馬車”という名のテラスハウス式のアパートに住んでいました。わが家のコートだけでも三十世帯は入居していたでしょう。でもここの隣人たちが、誰一人として日曜日になっても教会へ出かけないのに気づいたのは、落ち着いて三週間たった頃のことです。  どんなコーンフィールドの続く中を走っていても、町が近づいたことは遠景に角が生えているような教会の塔で分かりますし、一つの集落に必ず教会があるので、その昔、開拓の民たちは荒野を切り拓いて町を作っていくたびに、ミーティングハウスとしての教会を建てていったのだということが偲ばれます。  にもかかわらず、私の知るかぎりでは誰も教会へ行こうとしないばかりか、私たち異教徒と同様、朝からランドリーマットへ洗濯に行ったり、買い出しに出かけたりという始末です。  さて、では教会の方は一体どうなっているのでしょう。それでも日曜日の教会は色とりどりの車で、パーキングが埋めつくされています。そしてどこも道路沿いに“BINGO”の看板をガソリンスタンドのように出しているのです。    *   *   *   *   * 「ミツエさん、ビンゴって何?」 「ビンゴってね、トバク? バクチかな。でもそんな悪いものじゃないの。まあ、ゲームの一種よ。やったことなあい?」 「ポーカーみたいなもの?」 「カードとは違うけど、ああいったものよ。」 「あのう、教会でバクチするの?」 「ミサが済んだ後、バザーしたり、ビンゴしたりして、賭場代や収益なんかを教会に寄付してるんでしょう。」 「変なの! お祈りした後でバクチして。いくら資金集めだっていったって……。」 「でもねえ、エイコさん、ヨシエさんて知ってるでしょう? 彼女ね、子どももいないし、トウちゃんも死んじゃって、ファイブエーカー(約六千坪)の家に一人ぽっち。淋しいよねえ。かと言って、そうしょっ中、友だちの家ばっかり行くわけにはいかないよ。特にホリデイはね。それに齢とってきちゃあ、誰も相手にしてくれないものよ。他人《ひと》に迷惑にならずにエンジョイできるものっていったら、ビンゴぐらいしかないよお。そいでね、あの人ったらおかしいけどねえ、毎週教会へ行ってんだよ。雪が降ろうがヤリが降ろうが、絶対! 欠かさずにね、毎週、毎週……。」  道ばたの蛍光塗料で色どられたビンゴの看板が、いつまでもいつまでも空しく寒風にあおられ、くるくる回っていました。 [#改ページ] [#2字下げ]スポイルされているのねえ[#「スポイルされているのねえ」は小見出し] [#ここから地付き] “ぼくらが育てた山羊だよ。買っておくれよ。” (オハイオ州トロイにて) [#ここで地付き終わり]  喫茶店がないから家によぶのか、家によぶのが普通だから喫茶店がないのか分かりませんが、知り合うとすぐに皆、自宅によんでくださいました。六畳二間と台所というアパートが岡山の留守宅であった私にとって、どの人の家も訪問するたびに衝撃的なものでした。人を外見で値ぶみしているつもりは全くないのですが、外で知り合ったときにはどの人もどうということはなく、むしろ日本の同年輩の婦人一般からすると、質素も過ぎるような様子をしています。  でも彼女たちの家といったら、広いとか家具の質が良い悪いということはもとより、片付きの美しいことと、住人の個性を住まいにはっきり主張していて、それがクローゼットや戸棚の中まで公開できるのですから、衣→食→住の順位の国から来た私は、ただただ舌を巻くばかりでした。  なかでも私は初めてペイン家を訪れた日を忘れることができません。そこはまさにゴージャスな映画の世界。各部屋がそれぞれ別個のスタイルをもった秘密の花園[#「秘密の花園」に丸傍点]でした。呆然と立ちつくした私には、ここが質実剛健の居ずまいでいらっしゃるペイン夫妻のプライバシーとは、少々信じ難い所があったのですが。この国でもリッチマンはメディカルドクター、ロイアーと相場が決まっているようで、歯科医のペイン氏とデイトン大学で秘書をしている奥さんのキミエさんは、デイトンでも指折りの高級住宅地に二人で住んでいました。 「ええ、日本人会の紹介で男の子を二人引き受けましたよ。カールと空港まで迎えに行ったわ。みんな可愛いいのよね、とっても大学生には見えなかった。もっと若くって、ちょっとオドオドしてたみたいでね。ああ、そうそう、修学旅行っていうのだったわね。あんな感じ。みんなで、可愛いいわねえなんて言って……。でも驚いちゃったわ。みんなとてもドレスアップしてたのよ。革のカバンなんか持ってるのねえ。スゴイわねえ。サムソナイトのスーツケースがズラーッと並んでいるんだから。……ええ、それは大人しい子たちでしたよ。  でも困ったことがありました。ほら、うちは共稼ぎでしょう。だから特にそうなんだけど、あのね……でもまあ、日本人だから遠慮してるんでしょうけど……。毎朝、毎晩、シャワーをどうぞ、お食事をどうぞって言ってあげなくっちゃならないでしょう? テーブルにチョコンと付いたままジッと動かずにお皿が並ぶのを待ってるのよ。お食事が済むとお皿もさげずにサァーッとお部屋へ行っちゃって……寂しかったわ。  そう、そう、カールとね、ディスコへも連れて行ったのよ。でもあんまり……真面目なのね、……楽しんでないみたいだったの……どんなことしたいのって訊いても、はっきりしなくってね。私たちも若い人がどんなことをしたら喜ぶのか分かんないから困っちゃったわ。ええ、分かってますよ、私だって日本人でしたからね。シャイなのよね。でもね、シャイにしちゃあお可笑しいのよ。夕方ね、たびたび外から電話してきて『ご飯できていますか?』でしょう? もう呆れちゃって……あらっ、そうなの? そんなものなの? へえーっ、日本の子ってスポイルされてるのねえ。」  暖炉にまきがパチパチはぜる音だけがしています。やわらかな赤い光が石の壁に掛かったあでやかな京舞扇の一群を照らし、音のない光の舞を見せてくれます。あくまでも静かに、それでいて素早く立って行ってペイン氏がホットアップルサイダーのお替わりを作ってきてくれました。 「来年はホームステイをお引き受けしないでおこうかと思ってるの。」  と、キミエさんはゆっくりアップルサイダーをすすりました。 [#改ページ] [#2字下げ]税金ドロボウ[#「税金ドロボウ」は小見出し] [#ここから地付き] “あやしげな目的を掲げて全出席” (オハイオ州フェアボーン、パークヒルハイスクールにて) [#ここで地付き終わり] 「あんたのハズバンドもG・Iなの? あら、そう。いいわねえ。たった一年しかいないの? いいわねえ。私、二年前に離婚したの、彼に恋人ができて捨てられたわ。もう大変よ。それからというもの……フェイマスレサピーで働いてお金貯めてるんだけど……バンコクにはお父さんもお母さんもいるの。ああ、帰りたい! いつになったらお金、貯まると思う? ああ、お父さんお母さんに会いたいよう……」  そう言うとグレースはカフェテリアのあまり清潔とはいえないテーブルに突っ伏し、女学生のような肩を震わせています。  ここはパークヒルハイスクール。週に二日、夜七時半からアダルトスクールとしてタイプライティングや経理、それに母国語が英語でない人々のための英語のクラスが、無料で開かれていました。 「エイコさん! 早く来てえ! この答教えて! 今日当てられそうなの。できなかったらハジ[#「ハジ」に丸傍点]だわよ。」 「へえっ、アポ(Apple)にアン(an)を付けるなんて、この二十年間知らなかったよう。」  と、日本の小母さんたち。 「エイコ、このバンクチェックに thousand って書いてくれない? サインはできるから。」  と、コロンビアの将校の奥さんマリーア。オバサンたちに混じっていつも照れ臭そうな、ベネズエラから来たハイスクールボーイ。皆が私を待っていてくれました。こんなことを言うと、さも私の英語力が大したもののように聞こえるでしょうが、現実は? 何と、電話口では、 「ママに、かわってちょうだい。お嬢ちゃん。」  などと、しょっちゅう幼児に間違えられる程度の片言だったのです。でもこのクラスに来ている人たちは、ほとんどが日本の中学生程度の基本的な読み書きの力もなかったということなのです。  にもかかわらず、各氏、実に雄弁でヒンドゥー訛り、チャイニーズ訛り、スパニッシュ訛りなど何のそので、先生ともクラスメイトとも実に流麗に(?)喋りまくるのです。その不思議な響きをもった喋くり英語の渦の中で、私一人“パードゥン? エクスキューズミー”なのですから、皆、シラけてしまいます。それでもペーパーテストになれば、私はいつも満点という具合のアドバンストクラス一の問題児[#「問題児」に丸傍点]で、誇り高きバングラデシュ女史などは、私の耳が完全な不具であると真剣に思っているようでした。何しろ言語の発達というのは、“聴く”“話す”が最初で、学齢期に達して初めて“読む”“書く”となるのですから、読み書きが出来るのに、聴いたり、話したりするのは幼児級なのですから不気味だったのでしょう。  グレースはやっと元気になりました。 「ねえ、あのベトナム人のティエンには気をつけなさいよ。あの人、ベトナム人。ベトナム人はみな人殺しよ。」  泥沼のように長びいたベトナム戦争は一九七五年、サイゴンの陥落によりアメリカの敗北に終わり、南ベトナムという国は世界地図から消滅しました。翌年には南北が統一され、ベトナム社会主義共和国が成立したわけです。しかしこの社会主義国は一九七八年には中国と国境で衝突し、その後もカンボジア、タイなどに侵攻を繰り返していたのです。グレースの言葉の背景にはこのような新しいベトナムの行状への素朴な非難があったと思われます。  ある夜、私はミセスシングルトンに喚ばれました。 「あなたはここで英語を習っても仕方ありませんよ。ここであなたに教えることは何もありません。いいですか? ここはアメリカ人になるために英語を必要としている人々のクラスなのです。あなたのように帰る人が何のために英語を習わねばならないのですか。暇つぶしや教養主義ならば有料の所を紹介します。私たちはアメリカ社会を創る人々を助け、手を貸すのです!」  国籍の選択を迫られるとか、国の体制と自己存在の対峙などとは無縁のお目出たい程、厚顔無恥な私はアメリカに尽くさず利だけ盗ろうとしていたのです。“知らなかった”は、免罪符になりません。ここに集まっていた人たちは否応なく市民権《シティズンシップ》をとる必要があり、ここで何が何でも生きていける力をつけようと懸命だったのです。  ティエンは旧サイゴン政権の関係者らしく、一九八〇年には、ピークに達した十万人以上に及ぶ難民の一人だったようです。州立ライト大学の特別奨学金を享けてコンピューターサイエンスを学んでおり、将来はその技術を生かして職を得るという目標のある控え目な優等生でした。 「夫は軍人でした。でも行方不明です。私は二人の子どもと逃げて逃げて……。私たちにはもう故郷がありません。両親はサイゴンに居るはずですがよく分かりません。」  彼女はいつも最前列に座り、皆はバーバラと呼んでいたミセスシングルトンに“ティーチャー”と挙手して呼びかけ、よく質問をしていました。“センセイ!”と呼びかけるのはアジア人に共通するものなのかと、私は彼女に妙な親しみを感じていました。  私の方は、苦しまぎれに、アメリカ社会の成り立ちと、移民の歴史及び現状を勉強するというあやし気な目的を提示して、とうとうこのクラスに全部出席し、ミセスシングルトンから修了証をいただきました。 [#改ページ] [#2字下げ]未完成人[#「未完成人」は小見出し] [#ここから地付き] “お菓子くれなきゃ イタズラするゾ” (ハロウィーンの日に) [#ここで地付き終わり]  アリスとスティーヴが子供たちを連れてやって来ました。 「子供たちにはオモチャや宿題をもたせてあるから適当に。眠いといったらスリーピングバッグで休ませてやって。それからこれ渡しとくわ。」 「ああそれ? ムチよ。手古摺ったらそれでスパンクしてやってね。構わないから。」  目をむく私たち夫婦にニコヤカに微笑み、二人は映画の主人公のように出かけていきます。子供たちもすっかり上機嫌な調子で、 「ハヴァナイスタイム!」と手を振っています。車が角を曲がってしまうと、サミーは明らかにつくり笑いをスッと消して黙ってしまいました。 「サミー、あなたが来てくれて嬉しいわ。さあ、私たちも楽しく過ごしましょう。」 「サーミー!」  とお兄ちゃんであるスティーヴィーがふて腐れているサミーをたしなめます。  サミーは幼稚園の年長組。きちんとしたアメリカ家庭の子供としてはまだまだ“成っていない”ということです。エピスコパル教会のミサの間じゅう、足をブラブラ、欠伸をホーホー。隣のスティーヴやアリスに時折りこづかれてはべそをかいているのです。いつまでもサミーがぐずついていると、サッとスティーヴがサミーを抱いてトイレへ連れ去ってしまいます。サミーは叱られ、真っ赤に泣きむくれて戻ってきます。ワスプ(W[#「W」に丸傍点]hite A[#「A」に丸傍点]nglo S[#「S」に丸傍点]axon P[#「P」に丸傍点]rotestant)のスティーヴは何事もなかった様に、実に穏やかな平静状態でいられるから驚きです。私たちが“可哀想に”という顔をする前に、「スマイル!」と、命令する口調には凄みさえあります。サミーの方は哀れにも“何でもないのよ”と言って、ニーッと苦しげに笑って見せるのです。まさにあのつくり笑いです。  スティーヴィーは五年生。五歳にもなれば一人前のジェントルマンとして振るまうことを叩きこまれて育ってきた子供らしく、しっかり、出来上がっています。 「とてもおいしい食事を心から感謝いたします。」  と、実に堂に入った紳士振りで、このような態度の男性に接したことのない私は、相手が子供であるのを忘れてドギマギしてしまいました。私たちの手を煩わせないように妹の面倒を細かく見てやり、ワケのわからない年齢のサトシとも一緒に遊べるようにと苦心惨憺している姿には、何か痛々しいものを感じました。 「スティーヴィー、いいのよ。私の家ではね、子供が王様なのよ。子供が大声を出して駆け回り、はしゃぐのはちっとも構わないの、それが自然よ。リラックスしてちょうだいね。大きくなれば皆、きちんとなるから大丈夫!」  それでも小さな紳士は決して姿勢を崩しませんでした。  私は多くの人に、子供にアマイ、イージーな母親で、結局は子供をスポイルしてしまうだろうという警告を何度も受けました。 「なかなか寝ようとしないから、サトシに毎晩添い寝して本を読んでやってるの。そしたらこちらの方が先に眠っちゃってね……。」  と、話したときのキャシーの顔といったら傑作でした。変質者でもみるように実に気味悪そうに、「レディキュラス!」と一言。  泣こうが喚こうが生後四か月から自室で一人就寝することを習慣とされ、自助自立の精神を早くから叩き込まれた人間と、“川の字”になって寝るということが幸せのシンボルとして育ってきた人間との間には理解し難いミゾ[#「ミゾ」に丸傍点]があるのかも知れません。一歳のサトシを保育所に預け、働きに出ていた私でさえ、家庭生活に戻ってからまで、二歳の子供を突き離すのは可哀想でとても出来ませんでした。それに国運を左右する使命を負わされ、外交を成功させねばならぬ重要人物でも何でもない、名もない夫婦がなぜわが子を泣かせてまで、連れ立って外出せねばならない必要性が今、今、あるのでしょうか。  夜半過ぎて、アリス夫婦はにこやかに帰って来ました。子供たちはスリーピングバッグの中で、可愛いい寝息をたてています。 「もうこのまま休ませてやって! お願い! 明日の朝迎えに来て。どうせ明日は休日よ!」  懇願する私を尻目に、 「それじゃ、ケジメがつかない。」と、二人の頬をさかんにつついて起こしています。そしてどうしてもベビーシッター代を支払うと主張するケジメに対し、私も頑なに断わり続けました。 「私は保母でも看護婦でもないわ。ただの母親、あなた方の友人よ。プロでもないのに友だちからお金を貰うわけにはいかないのよ。」  これが私のプリンスプルと呼ぶならそうだったかも知れません。 「あなたも相当な石頭ね。」「あら、そっちこそ。」  と、言いながら二組の夫婦は互いに違ったものを持ちながらも、何かしら通じ合った暖かさで手を握りしめたのです。 [#改ページ] [#2字下げ]古き良き伝統[#「古き良き伝統」は小見出し] [#ここから地付き] ビリーとデイヴィド [#ここで地付き終わり]  私は代々下戸のうえに、洋酒といえば一億総ジョニ黒というキライのある国から来たので、サザンコンフォートというお酒の名は聞いたことがありませんでした。 「私たち、カティサークなんて飲まないわ。これよ、南の風。」  と言って、キャシーは初めから水割りにしてしまってあるようなうすいウィスキーをすすめてくれました。 「私は、自分のことトラディショナルなアメリカ婦人だと思ってるわ。だって、小学校でクラスの半分は離婚家庭の子よ。デイヴィドたちが学校へ上がるころはもっと増えてるでしょう。それにここの国じゃほとんどの女が結婚後も外で働くわ。私のように家事に専念してる女がほとんどだったのは一九六〇年までのことよ。…さあ? どうして外で働くかって……一つにはインフレで生活が苦しいから。もう一つには、妻たちも自分の自由になるお金が欲しいからじゃない?」  と言いつつ、マイクロウェイブオーブン(電子レンジ)でカップごと水を湯に変え、インスタントコーヒーを粉薬のようにふり入れています。  私とキャシーは裏庭をはさんで毎日のように往き来する隣人でした。朝、目覚めると、向かい合ったそれぞれの寝室の窓から、パジャマ姿のサトシとデイヴィドが、「カム! オーヴァヒア!」と呼び合っています。家事も片づく十時過ぎともなれば、あるときはパティオで、また他の日にはアパートのプールサイドで裸の井戸端会議です。キャシーのアップルダンプリングと、私の春巻きを持ち寄って、ランチテーブルを共に囲むこともありました。 「私は南部の女よ。南部の女ってね、家庭的でエレガントなの。ヤンキー(北部人)とは全然違うのよ。テクサス? あそこは田舎よ。オイルが出たからこそリッチになったけど、以前は牛のクソ[#「クソ」に丸傍点]だらけ。そこへ行くと何てったって、ミシシッピ! ルイズィアナ、それにジョージア。ニューオウリンズなんて! ああ、夢みたい! サイコウ!」  ちなみにミシシッピは、南部各州の中でもディープサウスと言われる最も鄙びたところなのです。でもキャシーにとってはミシシッピは、“峠のわが家[#「峠のわが家」に丸傍点]”。ミシシッピ州マッコームという町こそ、彼女のホームタウンだったのです。洋の東西を問わず、誰しも自分の故郷には特別なアツイ思い[#「アツイ思い」に丸傍点]があるようで微笑ましいかぎりです。 「エイコ、あなたファンシーな人ね。だってハンカチを持ってるでしょ。でもどうしてマニキュアもペディキュアもしないの? ワイルドよ。」  そう言って、その日もキャシーはダイエットのために絶食です。私のドリアとキャシーがフードプロセッサーで細かく刻んだ(?)野菜サラダは結局、子どもたちと私の口に入ることになります。意志強固なことといったら“まあいいじゃあないの”の私にはとても真似ることのできないものでした。 「キャッシー! どうしてダイエットなんかするのっ? あなた綺麗よ、必要ないわ。トラディショナルなマァムっていうのは、白いエプロンをつけて、手づくりのジャムを煮てる甘酸っぱい湯気のたつキッチンから、大きなお尻をゆすりながら抱きついてくる人よ。ファッションモデルのようなイメージじゃないわ。」 「エイコ、私たちは決めたことは途中で投げ出したりしないわ。決して! それにデブは自己をコントロールできない怠け者の証明よ。私はブッチのためにいつも努力しなければならないのよ。努力しなければ彼の妻なんかじゃないわ。」  と、静かに、不敵な笑みさえ浮かべて言い放つのでした。  ブッチ。長身で、あくまでも物静かで、かつ、しなやかに機敏な行動をとる人。こういう人を日本流に言うなら、ハンサムな人というのかも知れません。ハンサムなブッチの海色をした目が優しく私に向けられているときは、いつも中学生のように心ときめかせていたものです。 「ディッシュワッシャー(電気皿洗い機)はアメリカの男の[#「男の」に丸傍点]発明のうち、いちばん優れたものだね。だってトラディショナルなアメリカの夫たちは、ずっと、食後の皿洗いを義務づけられてきたんだからね。」  と、おどけては一日置きに夕食後の皿洗いをこなしていました。  その日の午後も早ばやと帰宅したブッチと連れ立って、空腹な[#「空腹な」に丸傍点]キャシーは買い物です。手袋一つ買うにもいちいち財布を握っている夫と交渉しなくてはならないのです。新婚さんなら“夫にオネダリする”が可愛いらしい光景となるのでしょうが、高砂のジジババのようになっても、 「ねえ、これ買ってもいいかしら?」なのですから、典型的日本の主婦、別称“オオクラ大臣”の私はうんざりさせられます。でも週末の午後、ショッピングモールに出かけると、こんなカップルにわんさか出会いますよ。 [#改ページ] [#2字下げ]されど英語[#「されど英語」は小見出し] [#ここから地付き] “わたしたちみなガイジン” (デイトンの国際まつりにて) [#ここで地付き終わり] 「エイコ! 今度はジョンポールが襲われたわ。」  キャシーが少々深刻げに台所から入ってきました。  その年の三月三十日、レーガン大統領がワシントンD・Cで暗殺の危機にさらされました。大統領は無事でしたが、側近の一人と警備にあたっていた警官が凶弾に倒れたのです。 「えっ? 誰? ジョンポールって誰? ビートルズのメンバーかしら?」  ジョン・レノンなら前年ニューヨークで撃たれたばかりでした。ちょうど八〇年代の初まりという時期だったので“|愛と平和《ラヴアンドピース》”を歌い続けた彼のあっけない死は、七〇年代の社会が理想としたものの挫折を象徴していると考えられていたのです。 「冗談よしてよ。ジョンポールを知らない筈ないでしょう? あなた社会科の教師だったんでしょう? ポープのジョンポールよ、ポーリッシュの。」  説明を聞くうちに、ジョンポールなる人物がローマ法皇ヨハネパウロ二世だということが判明しました。 「ねえ、日本人っていった何ヵ国語学ぶの?」 「普通は日本語と英語、大学に入ると、もう一つ別の外国語を択るわね。」 「ふうん、じゃ、あなたは物識りなのね?」 「違うのよ! 日本の学校では人名や地名はそこの国の人のように発音しようとしているの。フランスの人ならフランス語で発音したように呼ぶのよ、フェアでしょ?」  ここに来て会話がたびたび立ち往生してしまうのは、有名人が話の中に登場するときです。サルトルがサーター、バッハはバック、ヴァンゴッホはヴァンガオというような調子です。 「あなた方が、いつでもどこでも誰に対しても、英語風に呼ぼうとしているのは、他の文化への侵略よ。大英帝国流植民地主義の名残りだと思うわ。」  と、私はこのような考えから、機をつかまえては議論をふっかけたものです。 「あのね、アメリカ人ってたいてい勉強好きじゃないでしょ? イギリス人ってヤツは、自分たちの文化が唯一絶対だと思い込んでいるでしょ? だから他の言語は覚えられないし、野蛮人の言語なんか覚えようなんて気もないのよ。」  という返答を頂だいしたりしました。 「名前というのは、その人の存在証明よ。それを尊重しないなんて、それこそ野蛮だわ。だいたいキリスト教のミッションだって、一面的にしかものを把えられない、浅はかな思い込みだと思うわ。」  ある日、私たちはコンベンションセンターの国際フェスティバルに行きました。アメリカンという共通性の下に生きながら、芯の部分には異なる様々な文化の根をもっている人たちが、公然と出身を打ち明けることのできる、年に一度の祭典でした。そこで思いがけなく、私たちはコリアンアメリカン(韓国系アメリカ人)の人々に歓迎されたのです。 「日本人は実に残酷な民族だと教えられ、私の祖父も日本人を憎んでいます。だから自分も日本人は嫌いだと思っていました。でも、あなた方と知り合って意見が変わりました。あなた方は別です。」  とアメリカ生まれの彼は言いました。狂った歴史、狂った政治が私たち名もない人びとの心を、誤解と偏見で凍りつかせた悲しみを噛みしめ合ったものです。    *   *   *   *   * 「私は昔、ミツイモトトシという名前でした。どうしてミツイにしたかというと、日本の大財閥の“三井”にあやかろうとでも思ったのでしょうね。妻はヨシコという名で、小学校へ通っていたのですよ。」と、彼は淡々と語ってくれました。  彼というのは、日本の植民地時代はミツイモトトシさんで、本名はパクさん(朴さん)。今はアメリカ人だからミスターパーク。そう、私たちの友人パーク先生です。ちなみに電話帳を開いてごらんなさい。夥しいパークさんが連らなっていますよ。 [#改ページ] [#2字下げ]アンクル トムズ ジェネロシティ[#「アンクル トムズ ジェネロシティ」は小見出し] [#ここから地付き] “オマエさんたちは新人類、 ワシラの知ってるオールドトウキョウはね……” [#ここで地付き終わり]  ぼくはサトシ。アメリカに来てからは誰も“サトシ”って言えないみたいだから、自分でビリーって名前を変えたよ。ビリー・ビクシビーはぼくのお気に入りの絵本の主人公なんだ。その子はぼくにそっくり。ぼくの家と同じ三人家族で、絵を見ていると何だかその子はぼくじゃないかなあと思えてくるんだよ。ぼくんちにはお庭があるんだよ。みんなパティオと言うんだけど。  ぼくは歩けるようになって、お庭のある家に住むことになったから大満足だよ。お隣とはしっかり板塀で仕切られているから、みんなパティオもお部屋みたいに好きに使っていたよ。ぼくのお母さんはキッチンから見えるこのパティオに、雨さえ降らなきゃ一日中だってぼくを出してくれたし、スノーマンも初めてこしらえてくれたんだよ。  突然、春がやって来て、雪はあっという間に消え、青い青い空の晴れた日ばかり。お母さんは洗濯物を、運動会の万国旗みたいに何列も何列もヒラヒラ干したよ。もちろん、こんなことしてるのはぼくの家だけだけどね。 「こんなにいいお天気で、勿体ないわ。」  と、お母さんは言うんだ。  玄関を出た所に、天まで届くおジイさんの木があって、タンポポの綿毛のお化けみたいな花をいっぱいつけたよ。パーキングはまた雪でも降ったみたいにまっ白になってしまったよ。やがて小さな芽がびっしり吹き出して、カーディナルが上手に歌を歌っているところはホールマークのカードの絵にそっくり。ちょうどその頃、パティオの垣根につる草が這い出して、素敵な葉っぱ模様のタペストリーができたんだ。  ジャニターのおじさんたちは、毎日ペンキ塗りの仕事に忙しそう。さっき「ハーイ、ビリー」って、向こうへ行ったと思ったら、またこっちから「ハーイ!」って、何度も何度も通るんだ。そんなある日、隣のトウモロコシ色の長い髪をしたおねえさんが、超ビキニで日光浴をはじめたんだ。ぼくは垣根をよじ登ってちょっと挨拶。おねえさんはサングラスを上げて手を振ってくれたよ。こんな風にハンプティダンプティになって遊んでいたらお昼になっちゃった。 「まあ、まっ黒によごしちゃったわ。顔も洗おうね。」  と、お母さんに顔もしっかり洗ってもらったんだけど、右目の下についた焦げ茶色はとれなかったの。お父さんが帰ってきて、今度はお湯でゴシゴシしてくれたんだけど駄目なんだ。お母さんは垣根のコールタールが、日本のとは成分が違うからとれないんだよって言ってたけれど……。  次の日、ぼくのコールタールは赤く膨れ上がって、顔は目の沈没したハンプティダンプティ。お母さんは慌ててぼくを抱くと、ミツエさんのところへ跳んで行ったよ。ミツエさんとトムがぼくを見て、 「タールじゃない。ポイズンアイビー(毒蔦)だっ。」と、呟いたんだ。  日曜日だったんだけれど、トムがすぐに車で来てくれて、ぼくはデイトン子供病院の休日診療科へ連れていかれたんだ。車の中でお父さんったら、ずっと、 「ポイズンアイビーって何ですかっ。」と訊いていたよ。  ぼくは裸にされ、病院のマンガ模様の割烹着みたいなのを着せられ、体重、身長から測ってもらったよ。手首足首に名前のビニルテープを巻きつけられちゃって、ぼくだけどこか遠くへ運ばれて行ってしまうのかなあって心配になっちゃった。でも何だかそのままで、気が遠くなるほど待たされたんだ。お父さんは少し落ち着いて、トムにね、 「あとはもう診てもらうだけですから、済んだらタクシーを呼んで帰ります。本当に有難う。お陰様で助かりました。」と言ったよ。  するとトムは片眼をつぶって、 「待ってるよ。」と言ったんだ。後はもうお父さんとお母さんがどんなに頼んでも、 「ノープロブラム」の、一点ばり。それじゃあんまり気の毒だとか何とか、オロオロしているお父さんとお母さんを無視して、自分一人ベンディングマシーンでコーヒー買ってきてね、持って来てた本を読みだしちゃったんだ。途方にくれてつっ立っている二人に、 「明日までにここまで読んどかなくっちゃいけなかったんだ。読む時間が思いがけなくできてよかったよ。あんた方のおかげだよ。こちらこそサンキュウ!」  と、紙コップ掲げてにっこりしたんだよ。  こうしてお父さんたちはぼくのポイズンアイビーの心配と、トムおじさんへの申し訳なさで心をチリチリさせながら、ずっとかしこまっていたよ。忘れられてるのかなあって思い始めた頃、優しいドクが丁寧に診てくれたんだ。ホッとしたけどまだまだ。今度はお薬をもらうために灰色の廊下をぐるぐる歩き回り、又、気が変になるほど待ってたんだ。ずっとトムおじさんがついていて、ぼくをティーズするんだよ。だから結構、楽しんでたけどね。  皆して、やっとパーキングに戻って来たときには、もう真っ暗。トムおじさん一人、上気嫌でね。ジョークばかりとばすんだよ。クーラーなんてないから窓をみんな開けちゃって、スカンクの風にビュービュー吹かれたよ。お父さん、お母さんたら、泣き出しそうな顔して、何回、サンキュウを繰り返したかなあ。 [#改ページ] [#2字下げ]そう、ぼくらは幸運だった[#「そう、ぼくらは幸運だった」は小見出し] [#ここから地付き] “フェンスの向こうがプール” (マギー家の裏庭にて) [#ここで地付き終わり]  マギー家のプール開きです。気のいいトキさんとジョーは毎年|夏時間《サマータイム》に切り換わる季節になると、自宅のプールに毎週末、毎週末、親しい人びとを招いてピクニックをしています。 「いいのよ、遠慮しないで。みんなのとこプールないしね。うちへ来てエンジョイしたらいいよ。これが楽しみでウィークデイは働いているんだからね。ウィークエンドにエンジョイするために働いてんのよ。そうでしょ?」  お言葉に甘え、私たち家族も他に計画がない週末はいつもトキさんのところの裏庭で過ごしていました。日がな一日、飲んだり、ホットドグを焼いたりしては又ひと泳ぎ。お腹が空いたら又、煙の立っているグリルに近寄っていって食べては泳ぎと、実に悠々たる休日を過ごすのです。時には四家族も五家族も押しかけているというのに、誰も彼もまるで自宅にいるような顔をして、キッチンへ入りこんでは冷蔵庫を物色し、小川まで流れている広い広い裏庭の各所に置かれたアイスボックスから、好みのものを抜き出してラッパ飲みです。  ホストのジョーもトキさんも、こんな大勢の客人を迎えて、忙しさの余りカッカする様子も全く見せず、お客などおかまいなしの“わが家ペース”で寛ぎ、夫婦で水をひっかけ合ったり、レース編みをしたりと、すっかりリラックスしています。にもかかわらず、いつの間にかアイスボックスの中は補充されているし、グリルの上のスペアリブは、黒焦げにならず裏返しになっているのですから、“お客だ”というと、一人ヒステリックになってアタフタしている私には驚きです。  又、ホストだからといって何の気遣いも恩着せがましいわざとらしい親切さも示しません。客人たちも、自分が気がついたときに気がついたことを即、実行するというだけのシンプルさで、誰の自己犠牲も一方的サービスを期待しも、されもしないというやり方に“オトナ”を感じてしまうのでした。  マギー家のプールは小さくてもダイビング用なので、すり鉢のように底が深くなっています。“チキン! チキン!(憶病モノ!)”とからかわれながら、私はもっぱら喰っちゃゴロゴロをきめこんで、光る水面にひるがえっていくアメリカのティーンエイジャーたちを見ていました。なぜあんなにも立派な体格なのでしょう。堂々と胸を張り、大胆に伸びやかな溌剌さは、コンプレックスや不安を表層的なマヤカシの知識で武装し、自分をごまかしてばかりいた貧弱な高校時代を送った私には、胸のすくような天晴れさに思われるのでした。  ジェニイ。金髪のジェニイという唄があるけれど、ジェニイは黒髪の十五歳でした。 「ジェニイはトキと僕の子じゃないんだ。養女だよ。勿論ジェニイにも話してある。おや知ってたのかい? 僕らは子供に恵まれなかった。ヨコタのベースに居た頃、G・Iの子で孤児になっている子供がたくさんいるからっていうんで、トキとソウルへ子供を貰いに行ったんだ。トキは看護婦だったからね。一目みて、この子はいい子だと言ってね……。ひどいオムツかぶれで可哀想だったよ。トキはコークも飲まずにすぐ連れ帰ってきた。いい子になったよ。よく勉強してね、学校じゃいつも一番さ。賞も貰ったし、新聞にだって何度も載った。将来はジャーナリストになりたいって言ってるよ。大学へやる[#「やる」に丸傍点]のは大変だけど、本人のやりたいこと、やらせてやろうと思うよ。」 「あなたとトキさんがとても上手に教育なさったのね。その秘訣を教わりたいわ。サトシの教育の参考にしたいから。」 「いや、それは違うよ。子供は皆、初めっから持って生まれて来てるんだ。ギフトされてるんだよ。ぼくらは何も出来ゃしないよ。ジェニイがもともといい子だったんだ。ぼくらはいい子に巡り合って運がよかったよ。巡り合わせがよかったんだ。自分の子供にだって手を焼いているやつはゴマンといるのに……。」  子供は神さまから賦えられたもの。一人一人に神さまのギフトがあるという美しくも当たり前のことに気づかず、親という大義をふりかざして、サトシをいじくりまわし、自分の思うがままに向かせようと企らんでいた愚かな傲慢さに、私ははずかしくなりました。 [#改ページ] [#2字下げ]お菓子が欲しいんだけど[#「お菓子が欲しいんだけど」は小見出し] [#ここから地付き] みんな“よい子”かナ [#ここで地付き終わり]  一月、二月とすっかり雪と氷に閉ざされていたためでしょうか、パーキングや路上に人影を見ることはありませんでした。かすかにエンジンの音がするので窓から外を見やると、隣家のパーキングから、車がのっそりと巨大なゴキブリのように音もなくバックし、道路へ吸い込まれていくのが見えました。降りしきる雪つぶての中を動く車は無人車のよう。アパートだというのに隣室からは人の声はおろか、カタリとも音がしない静かな静かな“里の冬”でした。だから、このアパートには、子供がほとんどいないのだろうと思い続けていました。  四月もイースターが近づいてくる頃には、下書きのスケッチに、水彩絵の具で毎日少しずつ色が付けられていくように、辺りのモノトーンの景色が目を覚まし、芽生き、生命を取り戻していくのがはっきり感じられます。あざやかな赤や青の小鳥たちが数限りなく大樹の梢に群れ、ハイイロリスは忙しく木から木へと駆けまわります。そして、出て来た出て来た子供たち。一体どこにこんなに隠れていたのというぐらい。白いの、黒いの、黄色いの。春の光のように眩しくやわらかな生命が外へはじけ出て来たのです。  サトシを連れて毎朝散歩をしていた私に初めに声を掛けてきたのは、アポロンの娘かと見まちがうばかりの見事なブロンドの少女、ケリーでした。彼女は“NO ! PEDDLERS !(訪問販売お断り)”というステッカーをドアノブの上に貼り付けた一軒向こうに、魔女のごとき母親と二人、まるでルームメイトか何かのように住んでいたのです。例によって私はイージーなので、どの子ともすぐに言葉を交わすようになり、わが家に入れて遊ばせ、おやつの時間になれば、わが子と同量のオヒネリを与えたりしました。  皆と一緒にしたいくせに、マァムとの約束で、ヨソの家へ入っちゃいけないことになっていると言って、玄関につい入り込んでしまう自分の足を、必死で押さえつけていたルーイ。  白人の女を路上でチラリと見ただけでリンチにされ、死んだ黒人も一人や二人ではないという長い差別の歴史の中で、黒人の母親たちが我が子を守るために言い渡した命令なのかと、そんなルーイの姿を見るたびに胸が痛みました。でも序々に、どの子もすっかり慣れて、サトシの真似をしては、私を“エイコ”から、“オカーサン”と呼ぶようになりました。サトシがお八つのときに、「もっと、もっと。」と催促するのを聴きとって、 「“もっと”って、モアという意味でしょ? よく似てるね、音が。そう思わない? 僕たちニホンゴ、だんだん覚えてるね。スゴイや!」と喜んでいるのでした。  このような子供たちとの交わりが、秋になる頃から少しずつ変わってきました。私は相変わらず散歩がてら、近くのグローサリーや、日用品店へ足を伸ばしては、試しに色々な雑貨を買いました。カートを引っ張って戻って来ると、子供たちが待っていたように大勢集まって来ます。 「ショッピングに行ってきたの? あのね、何か、お菓子が欲しいんだけど…」  と、言い始めるようになったのです。  やがてメイプルの葉がすっかり赤くなる頃には、 「キャナイハヴ、ワンピースオブガム?」  と、私と顔を合わせるたびに言うようになりました。彼らのほとんどは時間を決めたお八つを与えられる風もなく、昼食さえもきちんと準備されている様子はありませんでした。 「ミッチェル! うちはランチだから、あなたも家に帰って済んだらまた遊びにおいで。」  と帰して、さあ昼ごはんにしようとテーブルにつくと、もうミッチェルはパティオに入ってきています。 「どうしたの? ランチ済んだの?」 「これが僕のランチなんだ。」  と、言って彼は一人パティオでポケットからバナナを一本取り出して元気よく食べ始める、そんなこともありました。  勿論、私も知らない遠い昔、太平洋戦争に敗北した日本は連合国側の占領下に置かれました。進駐してきたのはアメリカ軍だったので、私も夫も幼い頃“シンチューグン”とか“マッカーサー”などという言葉が子供の遊びの世界にもあったことを思い出します。その頃の食糧難で腹を空かせていた日本の子供たちは、進駐軍のジープを見ると米兵に群れたかり、ガムやチョコレートをねだったといいます。その子供たちの同胞が、四十年近く経った今、アメリカの淋しき子供たちに、 「お菓子が欲しいんだけど。」を、日常の挨拶にされていたのです。 [#改ページ] [#2字下げ]壮大なる実験[#「壮大なる実験」は小見出し]  ロシアという国が、今世紀に入って史上初の社会主義社会の建設のために、ソ連としてスタートしたというのなら、アメリカも二百年前に古い社会の因襲にとらわれない、自由で平等な社会の建設を目指して登場した、壮大な実験場といえるのではないでしょうか。  緑のストーンリック州立公園を、私たちはアリス一家と歩きます。アリスとスティーヴは西ドイツに居たとき、“森を歩く”ことを覚え、以来I・V・V(インターナショナルフォルクスマーチ)の会員となり、あちらこちらで会があるたびに教会を休み、家族総出で参加していました。十キロをマイペースで歩くのです。決して速さを競うのでも、隊列をなして歩くのでもありません。その日に、そのコースを好きな時間に、好きなペースで勝手に歩くのです。“開会の辞”も、アナウンスもなく、出発地で登録しコース図を手に、めいめいに出発というわけです。その会で私たちは交際の広いアリス一家に、実にいろいろな人を紹介されました。  フィルとドリーは何と五人の子持ちでした。アメリカも夫婦に子供が一人か二人という家族構成のように見うけられたのですが、時折り、彼らのように今どき珍しい“子だくさん”の家族に出会うこともありました。 「いちばん上のジョアンと、三番目のクリスが私たちの生んだ子でね。この子はコリアから、この子はフィリピンから、この子はアメリカから貰って、私たちの子どもにしたのよ。」  と、親のニコヤカな説明に、一人一人の子供が色とりどりの顔で明るく挨拶をしてくれました。フィルとドリーは名誉あるフォスターペアレント。この子たちはフォスターチャイルドです。  一般に日本人はあまり“貰い子”をしたがらないと思うのです。不幸にして両親と別れたときも祖父母や伯父・伯母など、親戚で面倒を見るというのがよくあるケースだと聞いています。ところが、ここには、財産家でも、暇人でも、妊娠不能でもないカップルが、このような制度を利用し、自ら選んで自らの家族を文字通り形づくっているのです。 「私たちは、与えられるべき糧以上に与えられています。蓄えはヘヴンにするべきもので、私たちの余剰のものは、本当にまだ必要なのだという人たちに分け与えられるべきなんです。今、地球上、いたる所に親の愛を必要としている子供たちがたくさん泣いています。私たちはそのために、フォスターペアレントに応募したのです。」  と、一人児を抱いた私をじっと見つめるフィルの視線を、私は何だかとっさにそらしてしまったのですが。 「応募して私たちは、選ばれたのですよ。三度もね、すごく名誉に思っています。だって事務局は“親”として私たちが適しているかどうか、しっかり調査しつくすんだから。」  と、彼は胸をそらせました。    *   *   *   *   *  裏のキャシーとブッチが、とうとう皿洗い機のついたアパートへ引っ越して行きました。“引っ越す”ということの意味がのみこめず、サトシは毎日、パティオのハメ板の隙間から「デイヴィド、デイヴィド!」と、呼んでいました。  ある日、すらりとした少女がサトシを連れてわが家に入って来ました。 「私、裏に越して来たエンジェルよ。この子が、私のうちにデイヴィドって呼びながら入って来たの。デイヴィドって誰?」  エンジェルの家もたいへんな“子だくさん”のようで、挨拶に行ってみるとごった返していました。 「エンジェル、あなたのマムってとてもイカしたヒトね。」 「有難う。みんなそう言うわ。だから私、鼻タカダカよ。私の素敵なマム、先月ボーイフレンドの一人と結婚したの。だから彼のところの子供も一緒になったから、急に四人兄弟になっちゃったわ。」  と、エメラルド色の目をクルリと回して、実にあっさり言ってのけました。  この子の家庭が、噂に聞いていたジョイントファミリーというものだったのでしょう。離婚率が高いということで、私はただ単に一面的に、アメリカは病んでいると思っていましたから、フィル夫妻やエンジェルの新しい両親、そして子供たちそれぞれが、その時、その時、自分の頭で考えて、自分のファミリーを作ったり、壊したり、又、手直ししたりしている勇ましい姿に真正直な“人間らしさ”みたいなものを見つけたように思いました。  “自分の人生を歩いていくんだ。失敗を恐れていたら何も出来ないわ。失敗したら何度でもやり直すだけじゃない!”  という力が、こみ上げてくるのを感じました。 [#改ページ] [#2字下げ]イージーライダー[#「イージーライダー」は小見出し] [#ここから地付き] “鹿、とび出し注意の標識” [#ここで地付き終わり]  アメリカは、とてつもなく広大な国なのだと思います。車で九時間も走ったというのに、地図でみるとほんの数センチぐらいしかかすめていないのですから。にもかかわらず、オハイオにはシステマティックな公共交通機関はありませんでした。グレイハウンドに乗ろうと思っても、バス乗り場までどうやって行ったらいいのでしょう。空港はあっても、そこまでとても歩いてなど行けません。 「なん年か前、フェアボーン、イエロースプリングズとジーニアを結ぶバス循環路が計画されたことがあるの。でも住民反対運動が起こって、通らなかったのよ。だってバス走らせたら誰だって来れるようになるでしょ。便利かもしれないけれど、お招きしたくないヤツらだってやって来て、ピースがなくなるからね。」  ついにアーミッシュ(電気、車などの文明を一切拒否し、フロンティア時代のままで暮らしている人々)のような夫も、ドライバーズライセンスをあっけないほど短時日に取って、私たちも週末には黄色のシヴェトを借りてドライブに出かけるようになりました。  まだ町じゅうが眠りこけているような早朝に家を出発し、見知らぬ町の見知らぬグローサリーで氷や飲み物を買い足しては、後部席でサンドイッチを作りながら、“もっと遠くへ”と走り続けました。私はこのドライブで何だか初めて見たいものをゆっくり見たという感を深めていました。いかに気のおけない好意の人びとといっても、私にはやはり“乗せていただいている[#「いただいている」に丸傍点]”“連れて来ていただいている[#「いただいている」に丸傍点]”という気持ちから、自分を真に解き放つことができなかったのです。  運転免許所持歴は私の方がはるかに長いのに、小さな事故を起こしたことからすっかりおじけづき、ハンドルは免許取り立てのアナタマカセ[#「アナタマカセ」に丸傍点]で、地図を眺めるのが大好きな私はナビゲイター役にまわりました。 「次の標識で右よ! そう、その調子、あとはこのまままっ直ぐ、二十分位走るのよっ!」  夫はなにしろカマロというスポーツカーで練習した人だけに、フリーウェイもレーサーさながらです。初めのうちは“婦[#「婦」に丸傍点]唱夫[#「夫」に丸傍点]随”だと得々としていた私も、スピードメーターをみては、明日の日の出が拝めるかしらと内心びくびくしていたものです。    *   *   *   *   * 「西はインディアナ、南へ行けば川(オハイオ川)をはさんでケンタッキー。朝日に向かって行けばウェストバージニア……。どこも何もない。退屈そのものだろう?」 「オハイオやインディアナに見物するようなところがあるの?」  と、皆、呆れたように言いました。何もない退屈なところということ自体が、私たちには魅力なのだということが、なかなか解ってもらえないようでした。  見わたす限りのトウモロコシ畑。一時間走っても対向車に出会わない田舎道。どう見たって出来たてホヤホヤの高速道路だっていうのに、一台も走っていないから降りて写真撮影。そうした事がみな私には感激でした。それに何もないどころか、カントリーロードをゆっくり行くときには、夥しい野生動物が交通事故死して横たわっていますし、色鮮やかなキツネ、キジなどが行く手を走り去ったりします。  ある場所では農家の子供が養七面鳥の群れを追いたててのんびり前方を横切り、くっきりとした白黒縞の七面鳥の足元から、まっ赤なサトウカエデの落ち葉が舞い上がっていく光景には、夫婦で同時に歓声をあげてしまいました。はるか丘の上に農家がポツンと立っており、緑の丘には牛や羊が点々と白や黒の水玉模様になって散らばり、道傍に立てかけられた“ホームメイドのアップルサイダー売ります”“インディアンコーン売ります”などの粗末な手書きの看板も、絵本の世界のように楽しく感じたものです。  大きな自然と人間の営みが決して映像でも何でもなく、現実の、ナマ[#「ナマ」に丸傍点]のものとしてあり、その中に今まさに佇んで、むき出しの肌がそれを吸っているのだ ということは、震えがとまらぬほどの喜びだったのです。  こんな町育ちの私たちを憐れんで音楽教室の秘書をしている、その名もミセスシューマンが、トロイで開催されていた農業祭に連れていってくれました。ミスターシューマンはもう退職をしており、何だか呂律もまわらないようなおジイさんでした。 「わあっ、こんな近くで牛や馬、羊なんかこんなにたくさん勢揃いしてるの見たの初めて!」 「わあっ、何て大きなカボチャ。一体何インチのパンプキンパイができるのかしら!」  と、驚嘆の声をあげる私に、 「お前さんときちゃあ、本当にニューヨーカーみたいなもんだ。日本じゃ、ほとんどの者が百姓してるんじゃないのかね?」  と、不思議そうです。  帰途、ミスターシューマンに運転を替わろうと提案しましたが、死ぬまで弱音など吐くことができないアメリカの老人の一人らしく、キッパリと断られました。それにしても何十歳も若い私たちでさえ足は棒になって疲れていたのですから、まんざらこの提案も失礼ではなかったと思うのですが。  私は座るとついうとうと眠り込んでしまいそうだというのに、シューマン氏は往きと同様、疲労などミジンも見せず、スピード狂の夫でさえ出したことのないスピードで元気ぶりを発揮しました。おかげで、あまり上等とは言い難い彼の車のバンパーは悲鳴をあげ、今にもふっ飛ぶのではないかと私は一人、ハラハラしていました。    *   *   *   *   *  数日後、ジムとリチャードがオクスフォードのマイアミ大学へ行く途中、追突事故に遭い、リチャードはムチウチ症になってしまいました。でも彼らの賠償交渉はうまくすすまず、治療費さえもまだ貰っていないということでした。 「全く、とんだ災難にあったもんだ。追突してきたヤツがよりにもよってシニアシティズン(高齢者)さ。いつオムカエが来るかもしれないからって、例によって保険なんかビタ一文掛けてないんだ。だから金が払えないんだとさ。全く、シニアたちときたら“俺たちに明日はない”って具合にとばしてるんだから……。」  私は名古屋に住んでいる義父をふと思い出しました。若い頃はなかなかのツワモノだったということですが、今は典型的な好々爺です。市バスの高齢者用無料パスを携えて、皆さんにいたわられニコニコとシルバーシートに座って美術館通いをしている姿と、シューマン氏の勇姿を思わずしらず対比させてしまうのでした。 [#改ページ] [#2字下げ]ぼくら ヒッピー だったんだ[#「ぼくら ヒッピー だったんだ」は小見出し] [#ここから地付き] “たった一つの古いソファに座る同時代人” [#ここで地付き終わり] 「そのコートがバーバリーってヤツかい?」  数学者のジムは、夫があるメーカー倒産の換金セールの際、七千円で購入したレインコートを指して尋ねました。  私は、パリにもロンドンにもミラノにも行ったことがないので、かの有名な日本人観光客が、ブランド商品を買うために殺到しているサマを目撃したことはありません。でもいかに野暮で貧乏な私でも、丸善や、たいていのデパートに、きらびやかに居並ぶブランド商品を眺めることには慣れていたのですが。  ジムは決して冗談を言っているのではないのです。われら同時代人[#「同時代人」に丸傍点]の彼は本当に、カルダンもグッチもバーバリーも知らないのです。年がら年中ヘックシャーツとブルージーンズにスニーカー。 「私ね、数年に一度ずつKマートのバーゲンを狙って、ノーブランドのジーンズ十本くらい買うわ。」  と、奥さんのブローナは誇らしくもなく、かといって恥じ入るふうもなく、ごく自然に言ってのけます。  ジムとブローナは“子供お断り”のツーベッドルームのアパートに住んでいました。日本で新婚さんの住まいに招待されると、私は何だか気恥ずかしいほどのピッカピカの家具調度に囲まれて、若い二人の愛の出発にそぐわない不自然さをいつも感じていたものですから、空家のような彼らの巣に大いに好感をもちました。一年間の仮住まいといっても、私たちの方が何でも持ちこんでいるようで、自分が卑しい欲張り婆さんに思えました。  それでも、ブローナは徐々にモノ[#「モノ」に丸傍点]を欲しがるようになってきていたのかも知れません。 「エイコ、あなたいつもファンシーね。そのジャケット素敵よ。どこで買ったの? へえっ、日本のスカートってちゃんと裏が付いているの? そんなの着てみたいわ。」  と、女、二人っきりのキッチンでしきりに私の身に付けているノーブランドの、どこにでもころがっている平凡な洋服を、珍しげに見物するのです。 「今度のクリスマスにはウィスコンシンに帰るわ。でも車がボロだからレンタカーしようと思うの。途中で動けなくなっちゃったら凍死してしまうから。ところであなたたち、いつもどこでレンタカーしてるの? 安いところ教えて?」  若い[#「若い」に丸傍点]ということは貧しいこと。若いから貧しいのに決まっている。若くして金持ちであるのはごく特殊な、ごく少数の人たちだけである。多くの人々は若い時分は蓄えもないのが普通であるという、当たり前すぎるほど当たり前のことを、この二人が教えてくれたのです。家庭とは、精神的にも物質面でも二人が努力し、葛藤し、作り上げていくものであるということが、大義としては理解できていても、現実はやはり親がかり[#「親がかり」に丸傍点]で新世帯をスタートさせた、自分のムシのよさを大いに反省させられたものです。  ブローナが、お祖母さんから結婚の贈り物として譲り受けたという、たった一つの古いソファに、私たち二組の夫婦はギューギューと沈みこみ、ブローナのお手製のピーカンパイをほおばりながら、私たちの学生時代、七〇年代の思い出話にふけりました。  ジムがふっと呟きました。 「ああ、ぼくらヒッピーだったんだ。」  口髭の横顔が、なぜか悲しそうに私にはうつりました。やはり過ぎ去った時代のはらんでいた理想を、今も懐かしく思っていたからでしょうか。 [#改ページ] [#2字下げ]エイコよ、銃をとれ[#「エイコよ、銃をとれ」は小見出し] [#ここから地付き] “銃はとらず楽器をとった” (オハイオ州 フェアボーン プレズビティリアン教会にて) [#ここで地付き終わり]  ジーンのダットサンが家の前に止まりました。私たちはバイオリンケースをトランクにねかせて、フェアボーンのプレズビティリアン教会を目指しました。  激しい夏が終わり、秋が唐突に町をおおう頃、私は言葉の問題からくるストレスからも、友もなく知人もいないという孤立感からも解放されて、単調な子守り、オサンドン専門の主婦ぐらしとはいえ、日本にいた頃よりもむしろ賑々しく、過ごしていました。しかし、多くの人と様々のかかわりをもち、接触するために、約束を手帳の計画表を繰って調整しなければならないという、実のない上っすべりをしたような表面的な社交生活に、何かしら充たされない虚しさを感じ始めていたのです。  そんな空虚さの中で、ふと手にしたバイオリン。誰に聴かせるのでもありません。何のコンサートが待っているのでもありません。それでも秋色の深まる窓辺で自分のために鳴らしました。毎日、毎日、時間をみつけ出しては。このとき初めて私は楽器が弾けるということで、孤独からも空虚からも解かれる幸せを、身をもって知ったのです。  アリスの子どもたちも、パーク先生の長男も、マンリーの子どもたちも、みなスズキバイオリンメソッドの先生について、レッスンを受けていました。そのようなつながりから、私もフェアボーンのジュニアオーケストラの、クリスマスコンサートに賛助出演することになりました。ジーンもそうした助っ人のママの一人なのです。 「この前友だちがね、ダウンタウンのアーケードに行ったのよ。そしたらね、男が一人、銃をむき出しにして歩いていたんですって。怖いわ。信じられない。」  と、心底、恐ろしそうに言います。  アメリカにやってくる前、多くの人が、 「アメリカはとても犯罪の多い国だということですから、くれぐれも気をつけて下さい!」 「現金をたくさん持たないようにね。でも脅されたときすぐ出せるように、二、三十ドルは持っていた方がいいんだそうですよ。」 「スカートをはかないで、ズボンの方がいいですよ。すぐ逃げたり、伏せたりできますからね。」  と、いろいろ心配し、出征兵士でも見送るように励ましてくださいました。  帰国してからは、 「アメリカ人ってみんなピストルを持ち歩いているんですか。」  と、ずいぶん尋ねられました。  アメリカはギャングとガンマンの国というイメージを、やはり心の片隅に抱いていた私は、ジーンの今にも泣き出さんばかりの怯え方に興味をそそられました。犯罪のない国はどこにもないでしょうが、その犯罪に遭遇する確率は、アメリカは日本とは比べようがないほど高いので、それなりの覚悟ができているのだろうと思っていたのです。しかしアブナイ社会で生きているジーンも、アブナクナイ社会で育ってきた私と同じように“コワイ”と思っているから意外でした。 「ジーン、ここではみんながたいていガンを持っているんじゃないの?」 「あら、それはそうよ。私たちだって。今? 今はもっていないわ。安心してよ。でも家にね。あなたたち持ってないの?」 「もちろんそんなもの持ってないわ。私は非暴力、非服従主義を崇拝しているの…。」 「それは大した勇気ね、でもここじゃ危ないわ。昨日だってヒューバーハイツで強盗よ。知ってるでしょ?」 「ジーン、みんなが素手《すで》で暮らしていたらどう? そんなに非道《ひど》いことにならないんじゃないの? ガンコントロールを法制化した方がいいと思うのよ。」 「冗談言わないで。力で襲われたら、身を護れるのはそれ以上の力よ。私も暴力反対だけれど、不正に対してはそれ以上の力を行使するのが正当よ。正当な力なら誰にも責められないわ。」 「あら、本質的に、力(暴力)ってものに、だいたい正当、不正当があるって言うの? 疑問だわ。」  私たちは気まずい雰囲気で黙りこみました。赤や黄の落ち葉がカラカラと行く手に舞っていました。 「とにかく、明日スポーツ用品店へ行って一つ買うことをお奨めするわっ。」  後日、Kマートでも、釣り具の隣にいとも簡単に並べられた銃の数々を見ました。もちろん、買おうなどという気は初めからさらさらありませんでしたが。“気違いに刃物”ではありませんが、何が恐いと判断するかは、すごく個人的なレヴェルのことだと思うのです。  ネズミの出没で引っ越しを決行したことのある私には、部屋の中を小動物がチョロチョロすることだって、まさに怖い状況なのです。このとき、怖いために目茶苦茶に撃ちまくらないという保証はありません。ネズミを訪問セールスマンに、また、夜、道を訊こうと近づいてきたティーンエイジャーに置き換えたらどうでしょう。ギョッとしたとたん、個人的な恐怖感のために握っていた銃を使わないほど理性的だろうか、と考えてしまうのです。  もし武器を所持していれば、憶病なるがゆえに安易に使ってしまうと思うのです。そして相手も武装していればなおさらでしょう。つねに仮想の敵のために、より強力な武器を追い求め、終わりのない力の競争に狂ってしまうのは、人と人の間でも同様に起こりうることだと思うのです。  それでも多くの家庭、特に老人世帯では寝室の枕の下に、ナイトテーブルの引出しにガンは大切に眠っているということです。また守衛室の、銀行の、ガソリンスタンドのカウンターの下に、銃は置かれているということです。そういえばレーガン大統領が撃たれたときも、周りにいた背広の紳士たちは、どこに隠し持っていたのか、ビデオの次の瞬間には凄みのある武器を握っているのが映し出されていました。  オフィス街を行くスーツのきまった長身の男たちはみな、一様に素敵です。サトシを抱いてダウンタウンでまごついている私に、彼らはいつも、 「キャナイヘルプユー?」  と、親切に方角を教えてくれました。夫なしで町に出ても必ず彼らが、一歩すすみ出てドアを開けてくれます。あの男たちのスーツの内ポケットにも、やはりガンがお守護札のように納まっているのでしょうか。 [#改ページ] [#2字下げ]ホンネとタテマエ[#「ホンネとタテマエ」は小見出し] [#ここから地付き] ワシントンD.C.のリンカーンメモリアルにて [#ここで地付き終わり] 「セーラとトムがまた大喧嘩したわ。全く、トムにも困ったもんだわ。どうしてあんなに黒人を嫌うんだろうねえ。セーラがおこるのも無理ないよ。だって友だちなのよ。それにとてもいい子なのよ。」  高校生のセーラに関して、何の干渉も一切しない寛大なパパトムも、ただ一つ心の奥底に淀んでいるブラックアメリカンに対する偏見を、娘の交友に関しては、しばしば丸出しにしていたようです。  リンカーンによって奴隷から解放されたものの、アメリカの黒人に市民権が与えられたのは六十年代以後のことであり、マルチン・ルーサー・キング師の命と引き換えに得られたものでした。表向きの差別はなくなり、制度的にも人種ばかりでなく、性別、年齢などによる枠もとり除かれました。年齢差と、男女の別が横丁の奧にまでしみついている社会から来た私は、「生意気を言うな!」「女のクセに!」と、言われない社会がすっかり気に入ってしまいました。身分や信教などによって差別されることのない自由な新世界をつくるという建国の精神が受け継がれ、それを法という社会契約の形できっちり定めるという姿勢に歯切れのよさを感じたものです。  しかし、多くの人たちとの行き来が、日常のものになってくるにつれて、法や制度や、理性でわり切ろうとしてもわり切れない“好き嫌い”の感情がアラワになる場にたびたび居合わせました。  もちろん、ジューイッシュ(ユダヤ系アメリカ人)をはじめとして、シロ[#「シロ」に丸傍点]い人々の間にも複雑怪奇な差別のグラデーションはあるのでしょうが、黒人に対する偏見は根深く、表も裏もない全き平等へは“道なお険し”の感を強くもちました。 「ビーバークリークは地価がちょっと高いのよ。不動産業者が、絶対黒人なんかじゃ買えないような高値をつけて守ってるのよ。だってね、一人にでもあの人たちに売ってごらんなさい。あれよ、あれよという間に、やれイトコだ、ハトコだって一族郎党を呼び寄せて暮らし始めるわよ。あの人たち、どういうわけか親族同志がすぐ頼り合ってね、全くダラシナイんだからっ。たちまち黒人街になっちゃうのよ。」  セルフヘルプの文化をもつ白人優位の社会にあっては、少数派《マイノリティー》や弱者が肩を寄せ合い助け合うことも、“ダラシナイ”の一語のもとに片付けられているようでした。 「えっ? 日本人も元々、大家族だったって? 今も? へえ、やむをえず核家族なのかい? ああ、いやだ、いやだ、どいつもこいつも依頼心の強いヤツに限って…。ああ、いやだ……」  この種の話が始まると、私はチャンスとばかり正面切って、私たちもカラードであるけれど、不快ではないかと尋ねるのを、秘かな愉しみにしていました。どの人も、はっとした面持ちで、私の手を取り、真顔でノウと強調するのでした。そして有色人《カラード》がドアベルを鳴らすと、“ウェルカム”と、大げさに抱き合うのです。  後日、ウッディーズにアラスカ産のサーモンが入荷されたというので、三十分あまり車を走らせ買いに行きました。久々の魚ですから満足し、ドカンとばかりカウンターに巨大な鮭を載せました。途端に鋭い悲鳴を店中にとどろかせ、キャッシャー嬢はとびのいたのです。気の毒に、丸ごとの魚を見る機会の少ないこの地方の人は、鱗ギラギラに爬虫類でも連想したのかも知れません。 「フィッシュが嫌いなのね?」と、私は彼女を慰さめるつもりで話しかけました。すると、 「いいえ、奥さん。決してそのようなことはありません。決して!」と、たいそううろたえ、いつも横柄な印象を与える店員にしては珍しく、ただただ平身低頭の態です。何だか私はキョトンとしたまま支払いを済ませました。  「フィッシュが嫌いなの?」というイエローの客は、即ち、彼女の魚を食する習慣を持つ人々への偏見を明るみに出し、抗議しようとしていると判断したのでしょう。出る所に出て、法律的にシロクロつければ明らかに彼女は不利だったのです。  このような個人の心の中の偏見は、私たち東洋人《オリエンタル》に対しても黒人同様“さげすまれている”という感が、ふとした日常の中で、パニックに陥った人の口からチラリと見えかくれしていたと思います。しかし人種的にはマイノリティーの一群でしかない日本人ときたら、自らの群れをカラードというよりシロい人々と同一視し、「日本人だけは特別です。」などと言っているのですから、何だか私には片想いなのに相思相愛と勘違いしている人の哀れを感じました。 「ダウンタウンからこの辺り、U・Dアリーナの裏手へは行かない方がいいですよ。黒人が多いですから危ないんですよ。」 「特に日本人は危ないです。金持ちだって知られていますからね。」 「どうして、普通に歩いていて日本人だって分かるのですか。」 「さあ? どことなく日本人ってわかるんでしょ。顔形じゃ見分けられないけど、他のオリエンタルより、何といっても服装や持ち物が高級ですからね。」  多くのテンポラリーレジデンスの同胞の先輩諸氏が忠告してくれました。しかしいろいろな所へ行ってみたいという好奇心には、なかなか勝てないものです。  あるクリスマスも間近な午後、私たち親子三人はアーケードでショッピングを楽しんでいました。向かい側から着飾った老婦人が三人、こちらへ歩いて来るところでした。彼女らは、私たち横に並んだ三人と対面しているのに気付くやいなや、慌てて傍らのウインドウに寄りかたまり、わざとらしく品定めをする振りをして、私たちをやり過ごしたのです。なぜか、この善良なる日本人のほほえましいニューファミリーに怯え、息を殺して、何事もなく通過していくのを待ちわびていたのですよ。    *   *   *   *   * 「ちょっとう、あの人たち日本人よう。だってあの子、“オカーサン”って呼んでたものう。」  ワシントンD・Cの観光名所では、アメリカに来て初めて、日本からの団体観光客に出くわしました。日本からの団体さんは、団体でない私たち親子を、ジロジロヒソヒソ見ては、行列をなして名所入場の順番待ちです。私たちもわざと英語で話したりして、ツアーの皆さんをじらせて、待ち時間をエンジョイしました。そこへサトシが“オカーサン”とやり出しますから、おサトが知れてしまいました。  このように同邦の人にさえ、日本人か何人か、人種のルツボにあっては判らないものなのですね。  そして、何はともあれ、自己の文化にプライドをもつということは、異文化を踏みつけにしたり、あるいは逆に卑屈に追従することで上下するものではないはずです。異なったものを、自分と同じレヴェルで認め、尊重することは、未熟で愚かしい私たち一人一人の永遠の共通課題なのでしょう。 [#改ページ] [#2字下げ]赤樫通り百十五番地[#「赤樫通り百十五番地」は小見出し] [#ここから地付き] ニューヨーク州 ポートジェファソンの図書館 [#ここで地付き終わり]  落葉松林をぬけた丘の上にその町がありました。ロングアイランド湾から吹く潮風をうけて、木造りの家がこんもりと雪をかぶり、クリスマスカードのようでした。  窓辺のカーテンや草花、オーナメントを見て進むと、この家々の住人たちは、あの四人姉妹のような人々なのではないかと思えてくるのです。白樺の向こうの窓辺でピアノを弾いている子は、内気なベスに違いないと一人嬉しくなるのでした。赤樫通り百十五番地。ここです。オムニを停めると、銀髪のジェームズ・スチュアート風の紳士がにこやかに出て来ました。ミスターヴァンドーンです。三つのスーツケースと、溜まった洗濯物を入れた二つの袋という、私たちの全家財道具を運び込んでくれます。草色の戸口ではミセスヴァンドーンが豆鉄砲を喰らった鳩のような目で、私たちをみつめていました。 「あなたたち、チャイニーズ?」これが、挨拶でした。  私たちはヴァンドーン家のベイスメント(地下室)を借りることになっていました。地下室といっても、シャワー、トイレ、フル装備のキッチン。それにプールボール(ビリアード)の台まで、なにもかも付いています。家主婦人は一通り説明をします。私たちの言葉が不自由とみてとり、ニコリともせずゆっくり繰り返し繰り返し、のたまうのです。 「エアコンディショナーは温度を固定してあるから、ゼッタイ触らないように。キッチンとバスルームは自分で清掃をすること。ペーパータオル、トイレットペーパーはこちらが支給する以外のものは使用しないように。シャワーは夜だけ使うこと。パーティーはお断りよ。不許可で区外電話をかけないで。玄関からの出入りは禁止。地下室の一部になっているガレージから出入りして頂戴。それと、忘れずエブリフライデイに百十五ドル支払うこと。」  私はヴァンドーン夫人の勿体振った態度と、生きもののように動く口を一種の感動に似た気持ちで見つめていました。言い放つとエアコンのスイッチカバーに錠ををかけ、最後に階上に通じる階段上のドアに鍵を掛け去りました。我に返り第一の仕事、たまった洗濯物の処理を思いたちました。バスルームに通じる小部屋には、洗濯機と乾燥機がデンと備えつけてあります。許可をえるため私はステップを上がり、ロックされたドアをノックしました。私としては丁重にお願いしたつもりですが、答えは予想どおりノウ。  仕方なく私たちは紙袋を携えて、ダウンタウンまでランドリーマットを探しに出ました。リゾート風のハーバーモールには生活の臭いあふれるコインランドリーなど見つけられません。仕方なく壁紙屋に入り尋ねてみました。幸いにも店員は親切でイエローページをチェックしてくれました。やっとの思いでポートジェファソン駅横の悪臭たちこめるランドリーを探しあて、仕事をセットした時は、日が暮れて雨までふり出してきました。  雨が雪を溶かして道路は不快なシャーベット。やっと夜九時すぎ大量の洗濯済衣類と、眠ってしまったサトシを抱いて赤樫通りに辿りつきました。窓々が淡い明かりに照らし出され、屋内のいかにも平和で心地よいメルヘンの世界がうつし出されていました。でも私ときたら、まるでマッチ売りの少女そのものです。みじめな裸足でこごえながら、決して招じ入れられることのない暖かい室内を、羨まし気に覗いているだけだったのです。 [#改ページ] [#2字下げ]完璧なベビーシッター[#「完璧なベビーシッター」は小見出し] [#ここから地付き] 雪どけ時代[#「雪どけ時代」に丸傍点]の家主夫妻と私 [#ここで地付き終わり]  州立大学の紹介で得た下宿人が、東洋人《オリエンタル》の家族だとは思いもよらず、凍りついてしまったミセスヴァンドーンも、私たちの摩訶不思議でも、奇想天外でもない一応アメリカナイズされた暮らしぶりに徐々に心を開いてくれました。特に約束どおりの家賃の支払いとバンクチェック(銀行小切手)が不渡りでなかったことが彼女の信頼をかちえたようで、私たちを残して外出するときも、階上と地下室を結ぶドアは開放されたままになっていました。  その頃、ほとんどの日を育児と読書に費やしていた私に、よく階上から声をかけてくれて、彼女のキャデラックでテニスや教会に出かけるようになりました。  その日も私たちはジョークを飛ばしながら、パスアンドマークスで大量の食料品を買って、パーキングに戻ってきました。後ろから、片手で杖をつき、片手で買い物袋の載ったカートを押しながら、足の不自由な老婦人がヨタヨタとやって来ました。ミセスヴァンドーンはその老婦人に歩み寄って抱き合い、私たちをひき会わせ紹介してくれました。萎びたリンゴの顔にまっ白な毛糸の髪を載せた人形のような彼女は、 「ハウ、スウィート!」  と、孫のような私の頬を、頼りなげに抓りました。そして見送る私たちに手を振りながら、バンパーのひしゃげたオンボロワゴンを運転して去りました。 「彼女はね、タバサのベビーシッターだったのよ。素晴らしいシッター。よくやってくれるの。だから皆の引っ張りだこよ。ハイスクールキッズは一時間一ドル位だから安いんだけど、あんまり面倒みてくれないのよ。友だちと電話ばかりしてたりしてね。そこへいくと彼女は実に手が行き届いて、タバサもよくなついてね。いつも彼女に頼んだわ。今はもう齢とってやってないかも知れないけど……。そうよっ、あなたも彼女にビリーを頼むといいわ。私が電話してあげるから。とにかくパーフェクトな人よ。」 「……彼女、一人暮らしなんですか?……」 「そうよ。息子が一人いたんだけど……。出て行ったわ。……ここだけの話だけど……。彼、息子ね、今、どうも刑務所に居るらしいわ。麻薬でね。」  と、ミセスヴァンドーンは口元に手を当て、声を落として言いました。  その後、私はミセスヴァンドーンの好意に応えることなく、あのお婆ちゃん人形のような足の悪い老婦人にサトシを預けることはありませんでした。彼女がいかに行き届いたベビーシッターであったとしても、ベビーシッターである前に、一人の母親である彼女を考えると、私の中に「子は親の鏡」式の不可解なわだかまりがどうしても残っていたのです。そんな私の気持ちは、いかに保守的で用心深いミセスヴァンドーンにもさっぱり解せぬものだったようです。母親と子供は別人格をもつ別々の人間として把えているのでした。  “個”の国の婦人なのです。ミセスヴァンドーンといえども。 [#改ページ] [#2字下げ]ガレージセールしませんか[#「ガレージセールしませんか」は小見出し] [#ここから地付き] “アソビじゃないわ、ビジネスよ” [#ここで地付き終わり]  私は四季折り折りの暮らし方を美しく具現しているのは、日本人だけに違いないと何の根拠もなく思い上がっていたのですが、アメリカの人々も、季節ごとの暮らしの伝統をたくさんもっていることを知りました。春から夏の風物に、有名なガレージセールがあります。大規模なものはフリーマーケット(このフリーは無料ではなく、蚤の意)と呼ばれ、天幕下でちょっとしたお祭りの観さえ呈しています。近所を散歩していると、芝生の上に、自宅用みたいな顔をして置かれているガーデンベンチや芝刈り機、SALEの四文字をはりつけられたモーターボートなどをよく目にします。これも広義のガレージセールでしょう。  ジミー・カーターが大統領だった頃、ホワイトハウスに会見に来た記者やカメラマンをあてこんで、大統領令嬢がインスタントレモネードを売って歩いたというエピソードがありました。  イースターが過ぎて陽射しが鋭くなってくると、週末はガレージのあるなしにかかわらず、アパートの住人もヤードセールや引っ越しのためのムービングセールのチラシを配ります。四年生のケリーも、レイチェルとブルックハート通りに面した芝生に箱を置いて、壊れかけた玩具や、色のすっかりはげ落ちた洋服、古絵本などを並べました。エライところでママゴトを始めたものだと、呆れて見ていますと、通り過ぎる車に手を振り商売に精を出し始めました。子供の遊びなどではなく、歴とした彼女らのビジネスだったのです。  立木ヶ丘に住んでいるミセスヴァンドーンの友だちナリーは、毎週土曜日にご主人とヤードセールをしていました。よくあんなに片付けものがあるものだと感心していますと、 「あら、ナリーはね、ビジネスをエンジョイしてるのよ。売れても売れなくてもどっちでもいいのよ。本当は日光浴が目的なのよ。もし売れれば一石二鳥ってわけね。ハッハッハ。」  イースター用に毎年、洋服を新調するという伝統が、新しい衣服購入のため、古着は売るという考え方に結びついているようです。    *   *   *   *   * 「そうなんです。ここの人たちったら、何でもガレージセールするのよ。捨ててしまえばいいのにね。本当にジャンクなのに堂々と25セント、50セントって値札つけて売ってるんですから。呆れてしまうわ。あげちゃえばいいのにね。そこへいくと、日本人は絶対そんなことをしませんよねえ。日本人ならそんな使い古したものでお金をとったりしませんよねえ。」  そういうわけで、私たちもデイトンを引き揚げるとき、一年間使用のテレビや掃除機から金魚鉢に至るまでアリスと子どもたちに、サトシの三輪車や大型のオモチャはデイヴィドに、毛布、シーツ、食器の類は、 「また日本からでも誰かがテンポラリーに住むときに使って貰って下さい。」  と、口惜しながらトキさんのところに置いてきました。  ブローチは、さかんに「ムービングセールはいつ?」と、訊いてきましたが。 「エイコさん、あなたたちが帰っていって春になると、アリスったらね、きれいにガレージセールしちゃったわよ。さあ? あんたたちのものもそりゃあ、あったでしょうよ。でもまあ、あの人たちもソウルへ転勤になったんだから、仕方ないわ。悪く思っちゃいけないわよ。それにもう、あの人のものなんだから。」  アメリカの賢いミセスの、断固とした生活管理の合理性にはいつも感心させられましたが、同時に辟易させられることもたびたびでしたよ。 [#改ページ] [#2字下げ]そんなに英語、必要ですか?[#「そんなに英語、必要ですか?」は小見出し] 「タバサがね、よくベビーシッターに行ってるバイト先ね、この下のローレル通りでフジタという名のオリエンタルなんだけど、チャイニーズ? それともジャパニーズ?」  こうして知り合ったのがフジタさん一家でした。ミドリの黒髪を長くなびかせ、日本人特有のつつましやかさ(これは日本人の間でのみ通用するものですが)を漂わせたエツコさんが、私たちを招待してくれました。エツコさんもご主人のイチロウさんも共に、ロングアイランドの中ほどにあるブルックヘヴン国立研究所の科学者でした。ミセスヴァンドーンの言う二人の子ども“ケニー”と“タマッコ”は、四歳のケンタロウ君と二歳のトモコちゃんでした。 「うちはね、赤樫通り辺りよりせまい分譲地なんですよ。四分の一エーカーぐらいかなあ。買って二年になります。ああ、この地下室? ぼくらで改造しましたよ。だってここで大工や左官頼んだら大変なんですよ。だからぼくがもっぱら大工仕事で、エツコがペンキ塗り専門でね。この家買ったときには何しろ壁が紫とピンクだったんですよ。…いやあ、ぼくらだって同じですよ、日本に帰ったら二DKの団地暮らしで上等といったとこですよ。」  イチロウさんは私たちをフジタ家の目を見張るばかりの部屋から部屋へとツアーして下さいました。広々としたファミリールームで、エツコさんお手製の大福餅をいただきながら、日本語放送でアニメの一休さんと、滑稽なほどにそらぞらしいホームドラマを、何だか懐かしい思いで見ていました。 「いや、笑わないで下さい。ぼくらだって日本のドラマを見てるとカルチャーショックをおぼえるんですよ。でも勉強だから。極力日本語を使って暮らしてるんだけど……ケンもトモコも全然ダメなんです。初めはいいんです。でもナーサリーに通い出した途端、英語一本。バイリンガルですか。どうかなあ、何とか少しでも日本語の響きを忘れないようにテレビ見せてるんだけど……。ダメだなあ、全く分かってないですよ。ほら、だから見てないでしょう? 退屈してるよ。」  サトシとケンタロウ君は同じ年格好で、同じようなモンゴロイドの丸顔をしながら、ほとんど日本語ではコミュニケイトできていないようでした。 「ええ、ぼくは日本で職がなかったからここへ流れてきたけれど……。そうだなあ、いいポストがあるなら日本へ帰りたい! でも一方ではアメリカはたまらなくいいなあという気持が強くって。分かんないなあ。でも、日本に帰ったら大変ですよ、子どもがね。こんな顔してて中味はアメリカ人でしょう。中津燎子さんの本なんか読んでるとゾッとしますよ、全く。子どもたちのために帰ることきっぱり断念しようかとも思うんですよ。」  イチロウさんは真剣に考え込んでしまいました。しかしフジタさん夫妻は、子供たちが日本で暮らさねばならなくなるときの準備は決して怠ってはいないようでした。スタディルームの本棚には、ぎっしりと日本の幼児向け教育図書や、玩具が詰まっていて、サトシに何の教育も開始していない私は、少なからず焦ってしまいました。 「サトシ君が、英語で返答するようになってそんなに嬉しいですか? だって普通の学校へ上がらせるんでしょう? バイリンガルっていったって、子どもが知識を受け入れるとき、どうしたって言語で認識するよね、そのときどちらも中途半端だったらどうなるのかな。何語でも一つの言葉でいいから、よりソフィスティケイトされている必要があるんじゃないですか? 人ってお喋りすることより、考えたり、知覚し、自分の考えをつくり上げていくことの方が大切でしょう? 言葉なんてそのときの道具でしかないんだから……。」  イチロウさんの仰言ゃることは本当でした。ハロー、ハウアーユーがネイティヴスピーカーのように美しく発音できることより、ハウアーユーから先の話の内容が重要です。機知に富み、しかも泣いたり喚いたりせずに相手を引きつけ、納得させうるような知的な話題の豊かさと、自分を守る論理的な自己主張は、英会話にしたからといって自動的に湧き上がってくるものではないからです。 「よい、ご旅行を!」と、ご自身もコナレの悪い直訳日本語をお使いになって、私たちに別れの言葉を下さいました。  その後何度か、フジタ夫妻から便りがありました。お二人とも典型的なヤッピー(Young Urban Professionals)として活躍の様子で眩しい思いをしていました。ある日のこと、ミセスヴァンドーンから一通の手紙が舞い込みました。 「エイコ、皆さんどうしていますか? 今日は悲しい報らせがあります。ミスターフジタがハートアタックで急逝しましたよ。」  あんなに子どもたちの文化的アイデンティティの確立と将来を心配していたあのフジタさん。マイホームを奥さんと二人で手作りしていたあのフジタさんが異郷の地で死んでしまったのです。まるで雷に打たれたように一瞬にして。ローレル通りに二度ばかり手紙を出しましたが、筆まめなエツコさんからも、ぷっつり返事はありません。 [#改ページ] [#2字下げ]シンデレラって、どんな娘?[#「シンデレラって、どんな娘?」は小見出し] [#ここから地付き] “アメリカにも、お城あり!” キャッスルピア(オハイオ州) [#ここで地付き終わり] 「ああ、馬鹿だ! マンハッタンに行かないなんてっ! 馬鹿だ! マンハッタンはね、人見[#「人見」に丸傍点]に行くとこなんですよ。特に女性をね。キリリとしたキャリアウーマンが、ブリーフケースを小脇にはさみ、“タァクシー!”と片手を挙げて止め、颯爽と行く。アレを見てこなくっちゃ! お話にならない!」  と、ドクタークガはご自分のことのように残念がりました。  マンハッタンから鉄道で二時間ほどのポートジェファソンに住みながら、とうとうマンハッタンの人見[#「人見」に丸傍点]には出かけることなく、帰国を明日にひかえて、私たちは久賀先生のお宅のリビングルームに座っていました。  それでもダウンタウンの旅行代理店や銀行などに行くと、背筋のシャンと伸びた長身に、スーツをピシッときめた女たちが、テキパキと、しかも優雅に働いている姿に、よく見とれていたものでした。同性として美女に出会うと、ジェラシーから「美人だけど口がちょっと大きいんじゃない?」などと、粗探しを始めてしまう私も、ここで見とれた女たちの造形的な美しさとはまた違った、立ち振るまう姿の晴れ晴れとした“カッコよさ”に、しばしば唸ったものです。デパート、スーパーなどの販売業はもとより、図書館や病院、いつも利用するバス路線の運転手など、働く女性といつの頃からか顔見知りになりました。“制服を着用する”という義務はありませんから、会うごとに、彼女らは自分の収入に見合った、様々な装いで精一杯自己を表現し、私の方もまた自然に、 「きょうは、とても素敵ね。」「きれいだわ。」と、素直に言葉をかけることができるようにまで成長(?)しました。 「ありがとう! あなたもよっ。」「あら、ありがとう。」  と、声かけあって、生き生きと仕事をエンジョイしているように見えました。たとえそれが営業用のものだとしても、無能であることを、意味のないお愛想笑いでごまかしたり、客には無関係の私的な不機嫌さで、いかにも億劫そうに動く女たちとは違って、茶目っ気まで混じえた爽やかさでこちらの要求に応えてくれる姿に、眩しささえおぼえるのでした。    *   *   *   *   *  粉砂糖のような雪が降る日、リチャードとリン夫妻が、“子連れが常”の私たちをランチオンに招いてくれました。子供のいない同世代の彼らは、サトシのために慣れぬ気遣いで精一杯尽くしてくれ、極めつけにはシンデレラを観せに私たちを連れ出してくれたのです。私は底冷えのする小さな映画館で、あのよく知られ尽くされたディズニーのアニメーションをぼんやり眺めていました。そのとき、「これだっ!」私の頭の中にパッと閃光がきらめき、今まで漠然と抱いていた疑問が一気に解けていったのです。  シンデレラ(シンディ)の落としていった例のガラスの靴を携えて、お城から使者が娘を探しにやって来ますね。あのとき、あの不思議な美しい姫はうちのシンディじゃないかと思っていた継母と姉たちは、シンディを屋根裏へ閉じ込め、 「もう、うちには娘はおりませぬ。」  と、白ばっくれるます。そこでシンディはネズミたちに助けられ、屋根裏からの自力脱出を計るのです。その間、継母たちはあの手この手で妨害をし、挙句の果てにはガラスの靴を割ってしまおうとしたり、お定まりのチェイスが繰り広げられます。そして今まさに使者が馬車に乗り込み帰ってしまおうとする瞬間、 「ちょっと待って! 私が居るわ。」  と、ガラスの靴を手にとり、自分の手で履くのです。  これ[#「これ」に丸傍点]です。いつの日か、素敵な王子様が白馬にうちまたがり、私を迎えにきてくれる[#「くれる」に丸傍点]。そして幸せにしてくれる[#「くれる」に丸傍点]、のではないのです。あらゆる障害を乗り越え、自分の手で自分の幸せを把むのです。私にはわかりました。美しい女の美しさの秘密が、アメリカ人の描いたシンデレラというシンボルが。  他日、万延元年(一八六〇年)初渡米を成し遂げた福沢諭吉もアメリカ婦人の美しさを度々讃えているという一節に出会い、なんだか愉しくなりました。    *   *   *   *   * 「あら、そんなことに感心するなんて! 悪いけど、あなたが日本人だからじゃなあい?」 「でもエイコの言うことよく分かるわ。ヨーロッパの女たちも、概してここの女たちのようにビビッドじゃありません。いろんな国へ行ってみたけど、アメリカの女が一番、輝いているようですね。」  と、イングランドから遊びに来ていたジーンの母上は、私に同意してくれました。やはりヨーロッパでもシンデレラって娘は、塔の天辺で“タスケテェー”と叫んで待って[#「待って」に丸傍点]いるのでしょうか。 「姫よ、いざ参らん!」と、救い出され、バラの騎士の腕の中で気絶しているのでしょうか。 [#改ページ] [#2字下げ]おわりに――サトシへの手紙[#「おわりに――サトシへの手紙」は小見出し] [#ここから地付き] 雪の日も散歩 (ロングアイランド、ストーニーブルック) [#ここで地付き終わり] 親愛なるサトシ様  アメリカと言えば、アメリカに行く前から私たちは、アメリカを、よく知られた身近な外国だと思っていました。だいいち、始まったばかりの学校給食だって、政治のかけひき上、アメリカから大量に買う破目になった脱脂粉乳でまかなわれていたのですからね。又、地理の知識も何もない幼い私たちは、当時、ガイジンは疑いなく全て“アメリカ人”と呼んでいましたしね。  何年ごろのことでしょうか。名古屋にアメリカ村という場所がありました。今は白川公園と呼ばれている御園座の東側の緑地帯でした。私は祖父母の家から繁華街へ出るときはいつもそこを、混み合ったバスの中から見ていたものです。アメリカ村は、そのころ私の暮らしていたくすんだ場所とは、遠くかけ離れた世界でした。今ではめずらしくもないでしょうが、緑の芝生に白い家というのは、ショートケーキと同じくらい日常のものではありませんでした。それに私の近所では誰もはかないショートパンツなるものをはいた、ナイロン糸のような髪をした大人の女[#「大人の女」に丸傍点]の白く眩しい太ももも、別世界のものでした。  緑、白、ゴールド、ピンクな肌色という彩やかな光景は、バスの窓というスクリーンを通してアメリカ柵の向こうにありました。アメリカ柵って知っていますか。誰が名付けたのか、花壇のまわりの囲いのように背の低い白ペンキ塗りの木の柵のことを私はそう呼んでいました。私の家の近所では、堅牢な石垣をめぐらしたお屋敷以外はみな板塀。しかもコールタールを塗って、茶黒く、くすんで通りからの目かくしの役を果たしていましたから、 「アメリカ人って変わってるよねえ、あんなのじゃ外から丸見えじゃないか。」  と、大人たちは言いました。  その後、アメリカは普及したテレビから私たちの中へ入ってきました。私たちと同年齢の小学生を中心とする数々のホームドラマの中で、私たちはアメリカ人ってお金持ちだなあという単純な羨望の気持ちをもちましたっけ。だって、小ぎれいなダイニングキッチンには、大きな大きな冷蔵庫というモノがあって、ドアを開けると、名も知らぬ色とりどりの飲み物がぎっしり詰まっていたのですから、大いに唾をのみました。長ずるにつれ、ロカビリー旋風、ケネディ大統領の登場など、あるときはどっと、あるときはひたひたと私たちの周囲にアメリカは押し寄せてきました。  アポロ号のアームストロング船長が、地球人として初めて月に降り立ち、星条旗を月面に突き立てる宇宙中継の映像を見ていたのは、宿題に追われながらの高校生の夏でした。  やがて七十年代、大学生となった私は、当時の世論のまっただ中で、アメリカという国の、アジアでの、いや世界での行状に、強い反発を感じるようになっていました。“ヤンキー、ゴーホーム!”を叫ぶ一人になっていたのです。でも他方では依然として、あの良きアメリカ人のあの明るい家庭へのコンプレックスは抱き続けていたようです。  そのころ、意外に質素なカレンという留学生をつかまえての英会話ごっこは、“英語ペラペラ”が格好よいことだと錯覚していた証拠ではないかと思えるのです。それに、大正生まれの父が表現したことのない優しさで、「ただいま、今帰ったよ。」とキスをするレディーファーストのパパとなり得る男との結婚への漠然とした憧れなど、アメリカのイメージは私の中に複雑怪奇に大きくなっていったのです。  そんなイメージを抱きつつ、アメリカ柵を越えて、ナイロン糸のような髪のアメリカの人々と交わったのは、サトシを連れた二十九歳のハウスワイフの私でした。アメリカ柵は背が低く、誰だってまたぎ越えていけます。色とりどりの太ももも隠されることなく、“ハーイ”と柵をこえて入ってきた者を迎えてくれました。  彼らは何でも、誰でも迎え入れます。でも迎え入れられたからといってメデタシ、メデタシと甘えてはなりません。許容し、同化するということと、存在を認めることは、別問題なのです。理解するということさえ、理性がする技なのです。何でも、どんな風にでも、お気に召すまま。異質なものだからといって拒絶したり、一人、突き出てるからといって、お説教を垂れたりする人はいません。違っていることを当然として受けとめてくれます。その代わり、自分の道は、自分で選択し、自分の主張と生活は自分で守り、誤りは、自分でいつも点検していかねばならないのです。  誰それの娘、誰それの妻、また何がしかの組織の一員という、帰属母体を離れた個そのものの私として生きることは、ごく普通の日本の平凡な女として甘やかされ、保護されて暮らしてきたものだけに、オープンな人々の中でのハードレッスンでした。  人は一生の間に何度でも生まれ直すといいます。おそまきながら、私はアメリカ柵を越えて生まれ直すことができたようです。私にとってのイニシェーションだったのです。ケネディ空港を飛び立ったパンナム機の窓から、ペラペラのマンハッタン島に林立する古き良き時代のアメリカをシンボライズした建物群を眼下に、初めて私は自分の中に力がみなぎってくるのを覚えました。不安のためにキョロキョロと、 “ホワット シァルアイドゥ?” “アイハァヴ ノウアイディア”なんて言わない私であるという自信に満ちて。そして願わくば、夫の随伴、メシタキ員ではなく自身の目的[#「目的」に丸傍点]をはっきりと持って、自分の財布で、再び“自由の女神”の上を旋回したら、どんなに気分がいいだろうと思いました。  さあ、敏詩《サトシ》、どこへでも行っていらっしゃい。インターナショナルな日本人になれと、国をあげて教育されている君。ハーイ・ハウ・アーユーから先が大切です。自分の目で、頭で、足で、ハウアーユーから先のあなたを表現して下さい。地球の上のどこへ放り出されようと、自分の足で歩かなければならないのですから。少しも恐れることはありません。“自分でやっていける”自由というのは、最高のしがいのあることですよ。ああ、それから、もしも私たちの古巣へ寄ることができたら、アメリカ柵の中の人々によろしく伝えて下さい。では、お元気で。  神谷敏詩様 [#ここから地付き] あなたのエイコ カミヤ  [#ここで地付き終わり]  一九八七年、夏の終わり [#改ページ] 〈著者略歴〉  神《かみ》谷《や》英《えい》子《こ》 愛知県名古屋市出身 愛知県立大学文学部卒業 1978年4月より岡山市在住 県立備前東高校、邑久高校、金川高校に非常勤講師として勤務 1981年1月より1982年3月まで、米国オハイオ州デイトン及びニューヨーク市ポートジェファソンに滞在 現在 真備高等学校講師 現住所 岡山市北方2-1-19-710 [#本文終わり] 底本:「アメリカ柵を越えて」日本文教出版株式会社    1987年12月1日 第1刷発行 著作権継承者:神谷茂保 入力:山崎正之 校正:山崎正之 2024年1月2日作成