照葉狂言
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》：ルビ
（例）鞠唄《まりうた》

｜：ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
（例）一｜里《り》

［＃］：入力者注　主に外字の説明や、傍点の位置の指定
　　　（数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数）
（例）［＃ページの左右中央］
（例）［＃ここから２字下げ］
（例）※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］］
（例）せツ［＃「せツ」に傍点］
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［＃ページの左右中央］


［＃ここから２字下げ］
鞠唄　　仙冠※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］　　野衾　　狂言　　夜の辻　　假小屋
井筒　　重井筒　　峰の堂
［＃ここで字下げ終わり］


［＃改ページ］

［＃５字下げ］鞠唄《まりうた》［＃「鞠唄」は大見出し］

［＃７字下げ］一［＃「一」は中見出し］

　二坪《ふたつぼ》［＃底本では「坪」は「土へん＋怦のつくり」］に足《た》らぬ市中《まちなか》の日蔭《ひかげ》の庭《には》に、よくも恁《か》う生《お》ひ立《た》ちしな、一本《ひともと》の｜青［＃底本では「青」は「睛のつくり」］楓《あをかへで》、※［＃「塀」の「并」に代えて「餠のつくり」、第3水準1-15-58］《へい》の内《うち》に年《とし》經《へ》たり。然《さ》るも老木《おいき》の春《はる》寒《さむ》［＃底本では「寒」の「冬－夂」に代えて「冫」］しとや、枝《えだ》も幹《みき》も唯《たゞ》日南《ひなた》に向《むか》ひて、戸《と》［＃底本では「戸」は「戸の旧字」］の外《そと》にばかり茂《しげ》りたれば、廣《ひろ》からざる小路《こうぢ》の中《なか》を橫《よこ》ぎりて、枝《えだ》さきは伸《の》びて、やがて對向《むかひ》なる、二階家《にかいや》の窓《まど》に達《とゞ》かんとす。其窓《そのまど》に時々《とき／″＼》姿《すがた》を見《み》せて、われに笑顏《ゑがほ》向《む》け給《たま》ふは、うつくしき※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、533-6］上《あねうへ》なり。
　朝《あさ》［＃底本では「朝」は「朝の旧字（月の横線が右下がりの点）」］な夕《ゆふ》な、琴《こと》彈《ひ》き給《たま》ふが、われ物心《ものごころ》覺《おぼ》えてより一日《ひとひ》も斷《た》ゆることなかりしに、わが母《はゝ》みまかり給《たま》ひし日《ひ》より弗《ふ》と止《や》みぬ。遊《あそ》びに行《ゆ》きし時《とき》、其《その》理由《わけ》問《と》ひたるに、何故《なにゆゑ》と云《い》ふにはあらず、飽《あ》［＃底本では「飽」は「飮のへん＋鉋のつくり」］きたればなりとのたまふ。然《さ》れど彼家《かしこ》なる下婢《かひ》の、密《ひそか》に其實《そのまこと》を語《かた》りし時《とき》は、稚心《をさなごころ》にもわれ嬉《うれ》しく思《おも》ひ染《そ》みぬ。
「其《それ》はね、坊《ぼつ》ちやん、あの何《なん》ですツて。あなたのね、母樣《おつかさん》がおなくなり遊《あそ》ばしたのを、御近所《ごきんじよ》［＃底本では「所」の「戸」に代えて「戸の旧字」］に居《ゐ》ながら鳴物《なりもの》も如何《いかゞ》な譯《わけ》だつて、お孃樣《ぢやうさま》が御遠慮《ごゑんりよ》を遊《あそ》ばすんでございますよ。」
　其隣家《そのとなり》に三十ばかりの女房《にようばう》一人《ひとり》住《す》みたり。兩隣《りやうどなり》は皆《みな》二階家《にかいや》なるに、其家《そこ》ばかり｜平［＃底本では「平」は「怦のつくり」］家《ひらや》にて、屋根《やね》低《ひく》く、軒《のき》もまた小《さゝや》かなりければ、大《おほい》なる凹《あふ》の字《じ》ぞ中空《なかぞら》に描《ゑが》かれたる。此《こ》の住居《すまひ》は狹《せま》かりけれど、奧《おく》と店《みせ》との間《あひだ》に一《ひとつ》の池《いけ》ありて、金魚《きんぎよ》、緋鯉《ひごひ》など夥多《あまた》養《やしな》ひぬ。誰《た》が飼《か》［＃底本では「飼」は「飮のへん＋司」］ひはじめしともなく古《ふる》くより持《も》ち傳《つた》へたるなり。近隣《きんりん》の人《ひと》は皆《みな》年《とし》久《ひさ》しく住《す》みたれど、其處《そこ》のみは※［＃「尸＋婁」、第3水準1-47-64］々《しば／＼》家主《やぬし》かはりぬ。さればわれ其《その》女房《にようばう》とは未《ま》だ新《あた》らしき馴染《なじみ》なれど、池《いけ》なる小魚《こうを》とは久《ひさ》しき交情《なか》［＃底本では「情」は「情」の「つくり」にかえて「睛のつくり」］なりき。
「小母《をば》さん／＼。」
　此時《このとき》髪《かみ》や洗《あら》ひけん。障子《しやうじ》の透間《すきま》より差覗《さしのぞ》けば、膚《はだ》白《しろ》く肩《かた》［＃底本では「肩」は「戸」に代えて「戸の旧字」］に手拭《てぬぐひ》を懸《か》けたるが、奧《おく》の柱《はしら》に凭《よ》り掛《かゝ》れり。
「金魚《きんぎよ》は、あの内《うち》に居《ゐ》るかい。」
「居《ゐ》ますとも、何故《なぜ》今朝《けさ》ツから被入《いらつ》しやらないツて、待《ま》つてるわ、貢《みつぎ》さん。」
「然《さ》う。」
「あら、然《さ》う、ぢやアありません、お入《はひ》りなさいよ、一寸《ちよいと》。」
「だつて開《あ》かないもの、此戸《このと》は重《おも》いねえ。」
　手《て》を空《そら》ざまに、我《わ》が丈《たけ》より高《たか》き戸《と》の引手《ひきて》を押《お》せば、がた／＼と音《おと》したるが、急《きふ》［＃底本では「急」は「（危－厄）／（帚－冖－巾）／心」］にずらりと開《あぬ》く。｜婦［＃底本では「婦」は「女＋帚」］人《をんな》は上框《あがりがまち》に立《た》ちたるまゝ、腕《かひな》を延《の》べたる｜半［＃底本では「半」は「絆のつくり」］身《はんしん》、斜《なゝめ》に狹《せま》き沓脱《くつぬぎ》［＃底本では「脱」は「月＋兌」］の上《うへ》に蔽《おほ》はれかゝれる。其袖《そのそで》の下《した》を※［＃「てへん＋蚤」、第3水準1-84-86］潛《かいくゞ》［＃底本では「潛」の「つくり」のいちばん上の２本の横棒から突き出ていない］りて、衝《つ》と摺拔《すりぬ》けつゝ、池《いけ》ある方《かた》に走《はし》り行《ゆ》くをはた／＼と追《お》ひかけて、後《うしろ》より抱《いだ》［＃底本では「抱」は「てへん＋鉋のつくり」］き留《とゞ》め、
「何故《なぜ》さうですよ。金魚《きんぎよ》ばかりせツ［＃「せツ」に傍点］ついて、此《こ》の兒《こ》は。私《わたし》ともお遊《あそ》びツてば、厭《いや》かい。」
　と微笑《ほゝゑ》みたり。
「うむ。」
「うむ、ぢやアありません。那樣《そんな》ことをお言《い》ひだと私《わたし》や金魚《きんぎよ》を怨《うら》みますよ。そして貢《みつぎ》さんのお見《み》えなさらない時《とき》に、燒火箸《やけひばし》を押着《おツつ》けて、ひどい目《め》に逢《あ》はせて遣《や》るよ。」
「厭《いや》だ。」
「それぢや、まあお坐《すわ》んなさい。そしてまた手鞠歌《てまりうた》を唄《うた》つてお聞《き》かせな。あの後《あと》が覺《おぼ》えたいからさ。何《なん》といふんだつけね。……二兩《にりやう》で帶《おび》を買《か》うて、三兩《さんりやう》で絎《く》けて、二兩《にりやう》で帶《おび》を買《か》うて、それから、三兩《さんりやう》で絎《く》けて、然《さ》うして何《ど》うするの、三兩《さんりやう》で絎《く》けて……」
「今年《ことし》はじめて花見《はなみ》に出《で》たら、寺《てら》の和尚《をしやう》［＃底本では「尚」は「淌のつくり」］に抱《だ》き留《と》められて。」
　とわれは節《ふし》［＃底本では「節」は「竹かんむり／（皀＋卩）」］つけて唄《うた》ひ出《いだ》しぬ。
　婦人《をんな》は耳《みゝ》を澄《すま》して聞《き》く。
「寺《てら》の和尚《をしやう》に抱《だ》き留《と》められて、止《よ》しやれ、放《はな》しやれ、帶《おび》切《き》らしやるな。」
「おや、お上手《じやうず》だ。」と障子《しやうじ》の外《そと》より誰《たれ》やらむ呼《よ》ぶ※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《もの》ありけり。

［＃７字下げ］二［＃「二」は中見出し］

「誰《だれ》？」と言《い》ひかけて走《はし》り出《い》で、障子《しやうじ》の隙間《すきま》より戸外《おもて》を見《み》しが、彼《かれ》は早《は》や町《まち》の彼方《かなた》に行《ゆ》く、其後姿《そのうしろすがた》は、隣《となり》なる廣岡《ひろをか》の家《いへ》の下婢《かひ》なりき。
「貢《みつぎ》さんが、お上手《じやうず》だもんだから。立《た》つて聞《き》いてたの。其《それ》はね、唄《うた》も節《ふし》も全《まる》で私《わたし》たちの知《し》ツてるのと違《ちが》ふんだもの。もつと聞《き》かして下《くだ》さい、後《あと》でまた昨日《きのふ》の續《つゞ》きのお話《はなし》をして上《あ》げますから。」
　此婦人《このをんな》、昔話《むかしばなし》の上手《じやうず》にて、稚《をさな》きものにも能《よ》く分《わか》るやう、可哀《あはれ》なる、をかしき物語《ものがたり》して聞《き》かす。何時《いつ》もおもしろき節《ふし》にて止《や》めては、明《あ》くる日《ひ》其續《そのつゞ》きをと思《おも》ふに、先《ま》づわれに鞠歌《まりうた》を唄《うた》はしむるなり。
「高《たか》い※［＃「糸＋彖」、第3水準1-90-13］《えん》から※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］《つ》き落《おと》されて、笄《かうがい》落《おと》し、小枕《こまくら》落《おと》し……」
　と唄《うた》ひ續《つゞ》けつ。頭《かしら》を垂《た》れて聞《き》き果《は》てたり。
「何《なん》だか可哀《あはれ》つぽいのね。鬱《ふさ》いで來《く》るやうだけれど、飛《と》んだおもしろいよ。私《わたし》たちの覺《おぼ》えたのは、内方《うちかた》袖方《そでかた》、御手《おんて》に蝶《てふ》や花《はな》、どうやどうんど、／＼、一丁《いつちやう》、二丁《にちやう》、三丁《さんちやう》、四丁《しちやう》ツて最《も》う陽氣《やうき》なことばかりで、譯《わけ》が解《わか》らないけれど、貢《みつぎ》さんのは又《また》格別《かくべつ》だねえ。難有《ありがた》うござんした。それでは丁《ちやう》ど隙《ひま》だし、昨日《きのふ》のあの、阿銀《おぎん》小銀《こぎん》のあとを話《はな》してあげませう。」
　とて語《かた》り出《い》づる、大方《おほかた》の筋《すぢ》は繼母《まゝはゝ》の其《そ》の繼《まゝ》しき兒《こ》に酷《むご》［＃底本では「酷」は「酉＋晧のつくり」］きなりけり。
「昨日《きのふ》は何處《どこ》まで話《はな》しましたツけね、然《さ》う／＼、然《さ》うするとね、貢《みつぎ》さん、妹《いもうと》の小銀《こぎん》と云《い》ふ子《こ》が感心《かんしん》ぢやありませんか。今《いま》の母樣《おつかさん》の子《こ》で、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、537-4］樣《ねえさん》の阿銀《おぎん》とはお肚《なか》が違《ちが》つて居《ゐ》るのだけれど、それはそれは※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、537-5］《あね》おもひの優《やさ》しい子《こ》で、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、537-5］樣《ねえさん》が繼母《まゝはゝ》の惡《わる》だくみで山《やま》へ棄《す》てられると云《い》ふのを聞《き》いて、どんなにか泣《な》いたらう。何《なん》てツて賴《たの》んでも、母樣《おつかさん》は肯入《きゝい》れないし、父樣《おとつさん》は旅《たび》の空《そら》。家來《けらい》や小※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《こもの》は最《も》う悉皆《みんな》が母樣《おつかさん》におべつかツてるんだから、誰一人《だれひとり》執成《とりな》してくれようと云《い》ふものはなし、爲方《しかた》がないので、そつとね、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、537-8］樣《ねえさん》が寃《むじつ》の罪《つみ》を被《き》せられて――昨夕《ゆうべ》話《はな》したツけ――寃《むじつ》といふのは何《なん》にも知《し》らない罪《つみ》を塗《ぬ》りつけられたの。納屋《なや》の中《なか》に縛《しば》［＃底本では「縛」は「縛のつくり」に代えて「溥のつくり」］られて居《ゐ》る處《ところ》へ忍《しの》［＃底本では「忍」は「仞のつくり／心」］んで逢《あ》ひに行《い》つてね、言《い》ふやうには、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、537-9］《ねえ》さん、私《わたし》がどんなにか母樣《おつかさん》に賴《たの》んだけれど、何《ど》うしても堪忍《かんにん》しませんから、一旦《いつたん》連《つ》れられておいでなさいまし。後《あと》でまた何《ど》うにでもしてお助《たす》け申《まを》しませう。而《さう》して、被在《いら》ツしやる處《ところ》が解《わか》らないでは、お迎《むか》ひに行《ゆ》くことが出來《でき》ませんから、是《これ》を……ツて、然《さ》う云《い》つて、胡麻《ごま》［＃底本では「麻」は「嘛のつくり」］を一※［＃「てへん＋國」、第3水準1-84-89］《ひとつかみ》、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、537-12］樣《ねえさん》の袂《たもと》に入《い》れてあげたの。行《ゆ》く道々《みち／＼》、中《なか》の絶《た》［＃底本では「絶」の「危－厄」に代えて「刀」］えないやうに、そこいらに撒《ま》いておいでなさい。其《それ》をたよりにして逢《あ》ひに行《ゆ》くツて、まあ、賢《かし》こいぢやアありませんか、小銀《こぎん》はやう／＼九《こゝの》つ。
　其晩《そのばん》は手《て》を取《と》りあツて、二人《ふたり》が泣《な》いて別《わか》れて、明日《あくるひ》になると、母樣《おつかさん》の眼《め》を忍《しの》んで小銀《こぎん》が裏庭《うらには》へ出《で》て見《み》ると、枝折戸《しをりど》の處《ところ》から、點々《ぽつちり》づゝ、あの昨夜《ゆうべ》の胡麻《ごま》が溢《こぼ》れ出《だ》して、細《ほそ》い、暗《くら》い、背戸山《せどやま》の坂道《さかみち》へかゝつて居《ゐ》るのを、拾《ひろ》ひ／＼、ずツと／＼、遠《とほ》い／＼、路《みち》を※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］《ある》いて、淋《さび》しい山《やま》ン中《なか》へ入《はひ》ツて行《い》ツたの。然《さ》うするとね、新《あた》らしく土《つち》を堀《ほ》りかへした處《ところ》があツて、※［＃「てへん＋蚤」、第3水準1-84-86］寄《かきよ》せたあとが小高《こだか》くなツてて、其上《そのうへ》へ大《おほ》きな石《いし》が乘《の》ツけてあつて、其處《そこ》まで小銀《こぎん》が辿《たど》つて行《ゆ》くと、一條《ひとすぢ》細《ほそ》うく絶々《たえ／″＼》に續《つゞ》いて居《ゐ》た胡麻《ごま》のあとが無《な》くなつて居《ゐ》たでせう。
　もう疑《うたが》ふことはない。※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、538-6］樣《ねえさん》は此《こ》の中《なか》に埋《い》れられたな、と思《おも》ひながら、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、538-6］《ねえ》さん、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、538-6］《ねえ》さん、と地《つち》に口《くち》をつけて呼《よ》んで見《み》ても返事《へんじ》がないから、はツと思《おも》つて、泣伏《なきふ》して、耳《みゝ》を恁《か》う。」
　言《い》ひかけて婦人《をんな》は頭《かうべ》を傾《かたむ》け、顏《かほ》を斜《なゝめ》に眼《め》を瞑《ねむ》りて手《て》を其《そ》の耳《みゝ》にあてたるが、「ね。」とばかり笑顏《ゑがほ》寂《さび》しく、うつとりと眼《め》を開《ひら》きてわが顏《かほ》をば見《み》し。戸外《おもて》には風《かぜ》の音《おと》、さら／＼と、我家《わがいへ》なる彼《か》の楓《かへで》の葉《は》を鳴《なら》して、町《まち》のはづれに吹《ふ》き通《とほ》る、四角《よつかど》あたり夕戸出《ゆふとで》の油《あぶら》賣《う》る聲《こゑ》遙《はるか》なり。

［＃７字下げ］三［＃「三」は中見出し］

　一《ひと》しきり窓《まど》あかるく、白《しろ》き埃《ほこり》見《み》えたるが、早《はや》ものに紛《まぎ》れてくらくなりぬ。寂《さび》しくなりたれば、近寄《ちかよ》りて婦人《をんな》の膝《ひざ》に片手《かたて》※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］《つ》きぬ。彼方《かなた》も寒《さむ》くなりけむ、肌《はだ》を入《い》れつ。片袖《かたそで》を掛《か》けてわが背《せな》を抱《いだ》きて蔽《おほ》ひながら、顏《かほ》さし覗《のぞ》く※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》して、尚《な》ほ肅《しめや》かにぞ語《かた》れる。
「然《さ》うすると、深《ふか》い／＼、下《した》の方《はう》で、幽《かすか》に、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、539-1］《あね》の阿銀《おぎん》がね、貢《みつぎ》さん、（あゝい。）てツて返事《へんじ》をしましたとさ。
　それからまた｜精［＃底本では「精」は「米＋睛のつくり」］一杯《せいいつぱい》な聲《こゑ》で、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、539-3］《ねえ》さん／＼ツて呼《よ》んだの。然《さ》うすると、あゝ、もう水《みづ》が出《で》て、足《あし》の裏《うら》が冷《つめ》たくツて／＼、と※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、539-4］《ねえ》さんがお言《い》ひだとね。土《つち》を掘《ほ》つたのだもの、水《みづ》が出《で》ますわ。
　何《ど》うぞして、上《うへ》の石《いし》を退《の》けて出《だ》して進《あ》げようとお爲《し》だけれど、大《おほ》きな男《をとこ》が幾人《いくにん》もかゝつて据《す》ゑたものを、何《ど》うして小銀《こぎん》の手《て》に合《あ》ふものかね。そちこちするうち日《ひ》が暮《く》れさうだから、泣《な》き／＼其日《そのひ》は歸《かへ》つてしまつて、翌日《あくるひ》また尋《たづ》ねて行《い》つて、小銀《こぎん》が（小銀《こぎん》が來《き》ましたよ、小銀《こぎん》が來《き》ましたよ。※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、539-8］《ねえ》さん、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、539-8］《ねえ》さん、何處《どこ》まで水《みづ》がつきました。）ツて、問《と》うたればね、膝《ひざ》まで水《みづ》がつきましたツて、さうお言《い》ひだとさ。其《その》あくる日《ひ》は、もう股《もゝ》の處《ところ》へついたツて。また其《その》翌日《あくるひ》行《い》つた時《とき》は、お腹《なか》の上《うへ》まで來《き》たんですとね。而《さう》してもう然《さ》うなると、水足《みづあし》が早《はや》くなつて、小銀《こぎん》が、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、539-10］《ねえ》さん、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、539-10］《ねえ》さんツて聞《き》く内《うち》に、乳《ちゝ》の下《した》まで着《つ》いたんだよ。山《やま》の中《なか》は寂《ひつそ》りして、鳥《とり》の聲《こゑ》も聞《きこ》えない。人《ひと》ツ子《こ》一人《ひとり》通《とほ》らうではなし、助《たす》けて貰《もら》ふわけにはゆかず、といつて石《いし》は退《の》けられないし、唯《たゞ》もう切《せ》めてのことに、お見舞《みまひ》をいふばかり、小銀《こぎん》が悲《かな》しい聲《こゑ》を絞《しぼ》つて。」
　此時《このとき》婦人《をんな》は一息《ひといき》つきたり。可哀《あはれ》なる此《この》物語《ものがたり》は、土地《とち》の人《ひと》口碑《こうひ》に傳《つた》へて、孫子《まごこ》に語《かた》り聞《き》かす、一種《いつしゆ》のお伽譚《とぎばなし》なりけるが、此處《こゝ》をば語《かた》るには、誰《たれ》もかく爲《す》なりとぞ。婦人《をんな》もいま悲《かな》しげなる小銀《こぎん》の聲《こゑ》を眞似《まね》むとて、聲繕《こわづくろ》ひをしたりしなり。
「（※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、540-2］《ねえ》さんや、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、540-2］《ねえ》さんや、何處《どこ》まで水《みづ》がつきました。何處《どこ》まで水《みづ》がつきました。もう一度《いちど》顏《かほ》が見《み》たいねえ！小銀《こぎん》が來《き》ましたよう。）ツて、呼《よ》んでも呼《よ》んでも返事《へんじ》がないの。もう下《した》で口《くち》が利《き》けなくなつたんでせう。小銀《こぎん》の悲《かな》しさは、まあどんなだつたらうねえ。叶《かな》はないとは思《おも》つても、ひよツと聞《きこ》えようかと、（※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、540-5］《ねえ》さんや、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、540-5］《ねえ》さんや、何處《どこ》まで水《みづ》がつきました。）阿銀《おぎん》さん、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、540-5］《ねえ》さんツて、はツと泣《な》き倒《たふ》れて、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、540-6］《ねえ》さん、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、540-6］《ねえ》さん。」
　と悲《かな》しき聲《こゑ》す。先刻《さき》より我《われ》知《し》らず悲《かな》しくなりしを押耐《おしこら》へて居《ゐ》たりしが、もはや忍《しの》ばずなりて、わツと泣《な》きぬ。驚《おどろ》きて口《くち》をつぐみし婦人《をんな》は、ひたと呆《あき》れし※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》にて、手《て》も着《つ》けでぞ瞻《みまも》りける。
　門《かど》の戸《と》引開《ひきあ》けて、衝《つ》と入《はひ》りざま、沓脱《くつぬぎ》に立《た》ちて我《わ》が名《な》を慌《あわたゞ》しく呼《よ》びたるは、隣家《となり》なる廣岡《ひろをか》の琴《こと》彈《ひ》く彼《か》の美《うつく》しき君《きみ》なり。
「あれ。」とばかりに後《あと》にすさりて、後《うしろ》ざまにまた其手《そのて》を格子戸《かうしど》の引手《ひきて》にかけし、遁《にげ》も出《い》ださむ身《み》のふりして、面《おもて》をば赧《あか》らめたまへる、可懷《なつか》しと思《おも》ふ人《ひと》なれば、※［＃「さんずい＋（戸の旧字＋犬）」、第3水準1-86-83］《なみだ》ながら見《み》て、われは莞爾《につこ》と笑《わら》ひぬ。
「まあ私《わたし》は何《ど》うしたといふのでせう。」
　かく言《い》ひかけて俯向《うつむ》きたまへり。
「何《ど》うぞ、さあ何《ど》うぞお入《はひ》りなさいまし。お孃樣《ぢやうさま》まことに散《ち》らかして居《を》りますが。」
　此方《こなた》も｜周［＃底本では「周」は「蜩のつくり」］章《あわ》てていふ。
「はい、まだ染《し》み／″＼御挨拶《ごあいさつ》にも上《あが》りませぬのに、失禮《しつれい》な、つい、あの、まあ、何《ど》うしたら可《よ》うございませう。」
　詮方《せんかた》なげに微笑《ほゝゑ》みたまひつ。果《はて》は笑《わら》ひとこそなりたれ、わが其時《そのとき》の泣聲《なきごゑ》の殺《ころ》されやすると思《おも》ふまで烈《はげ》しき悲鳴《ひめい》なりしかば、折《をり》しも戸《と》に倚《よ》りて夕暮《ゆふぐれ》の空《そら》を見《み》たまひしが、われにもあらで走入《はしりい》り給《たま》ひしなりとぞ。されば、わが泣《な》きたるも、一《ひと》つはこの※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、541-7］上《あねうへ》の母《はゝ》の、繼母《まゝはゝ》ぞといふことをば、豫《かね》て人《ひと》に聞《き》きて知《し》れればなりき。

［＃７字下げ］四［＃「四」は中見出し］

　うつくしき君《きみ》の住《すま》ひたるは、わが町家《まちや》の軒《のき》ならびに、比《なら》びなき建物《たてもの》にて、白壁《しらかべ》いかめしき土藏《どざう》も有《あ》りたり。内證《ないしよう》は太《いた》く富《と》めりしなりとぞ。人數《ひとかず》は少《すく》なくて、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、541-11］上《あねうへ》と、其父《そのちゝ》と、母《はゝ》と、下婢《かひ》とのみ、もの靜《しづか》なる仕舞家《しもたや》なりき。
　財産《ざいさん》［＃底本では「産」は「顏のへん」の「彡」に代えて「生」］持《も》てりといふには似《に》で、繼母《まゝはゝ》なる人《ひと》の扮裝《みなり》の粗末《そまつ》さよ。｜前［＃底本では「前」は「剪－刀」］垂《まへだれ》も下婢《かひ》と同《おな》じくしたり。髪《かみ》は鵲《かさゝぎ》の尾《を》の如《ごと》きものの刎《は》ね出《い》でたる※［＃「睹のつくり＋おおざと」、第3水準1-92-74］髷《みやこまげ》といふに結《むす》びて、齒《は》を染《そ》めしが、ものいふ時《とき》、上下《うへした》の齒《は》ぐき白《しろ》く見《み》ゆる。
　年紀《とし》は四十に餘《あま》れり。われをば睨《にら》みしことあらざれど、遊《あそ》びに行《ゆ》けば餘《あま》り嬉《うれ》しき顏《かほ》せず。嘗《かつ》て夜《よ》に入《い》りて、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、542-3］上《あねうへ》と部屋《へや》にて人形《にんぎやう》並《なら》べて遊《あそ》びしに、油《あぶら》こそ惜《を》しけれ、然《しか》ることは日中《ひなか》に爲《す》るものぞと叫《さけ》びぬ。
　われを※［＃「りっしんべん＋曾」、第3水準1-84-62］《にく》むとは覺《おぼ》えず、内《うち》に行《ゆ》くことをこそ好《この》まざれ、外《おもて》にて遊《あそ》ぶ時《とき》は、折々《をり／＼》ものくれたり。されど彼《か》の繼母《まゝはゝ》の與《あた》へしものに、わが好《この》ましきはあらざりき。
　節句《せつく》の粽《ちまき》貰《もら》ひしが、五把《ごは》の中《うち》に篠《さゝ》ばかりなるが二《ふた》ツありき。杏《あんず》、青※［＃「木＋誨のつくり」、第3水準1-85-69］《あをうめ》、李《すもゝ》など、幼《をさな》き時《とき》は欲《ほ》しきものよ。廣岡《ひろをか》の庭《には》には實《み》のなる樹《き》ども夥多《あまた》ありし、中《なか》にも何《なん》とかいふ一種《いつしゆ》李《すもゝ》の實《み》の、またなく甘《うま》かりしを今《いま》も忘《わす》れず。繼母《まゝはゝ》の目《め》のなきひまに、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、542-9］上《あねうへ》の潛《ひそか》に取《と》りて、兩手《りやうて》に堆《うづたか》く盛《も》りてわが袂《たもと》に入《い》れたまひしが、袖《そで》の振《ふり》あきたれば、喜《よろこ》び勇《いさ》みて走《はし》り歸《かへ》る道《みち》すがら大方《おほかた》は振《ふ》り落《おと》して、食《た》べむと思《おも》ふに二《ふた》ツ三《み》ツよりぞ多《おほ》からざりける。
　繼母《まゝはゝ》はわづかに柿《かき》の實《み》二《ふた》ツくれたり。其《そ》の一顆《ひとつ》は澁《しぶ》かりき。他《た》の一顆《ひとつ》を味《あぢは》はむとせしに、眞紅《しんく》の色《いろ》の黑《くろ》ずみたる、臺《うてな》なきは、蟲《むし》のつけるなり。熟《じゆく》せしものにはあらず、毒《どく》［＃底本では「毒」は「毋」にかえて「母」］なればとて、亡《な》き母《はゝ》棄《す》てさせたまひぬ。
　何時《いつ》なりけむ、母上《はゝうへ》の給《たま》ひたる梨《なし》の、核《しん》ばかりになりしを地《ち》に棄《す》てしを見《み》て、彼處《かしこ》の繼母《まゝはゝ》眉《まゆ》を顰《ひそ》め、其重寶《そのちょうはう》なるもの投《な》ぐることかは、磨《す》［＃底本では「磨」は「麾」の「毛」に代えて「石」］りおろして汁《しる》をこそ飮《の》むべけれと、老實《まめ》だちてわれに言《い》へりしことあり。
　さる繼母《まゝはゝ》に養《やしな》はるゝ※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、543-3］上《あねうへ》の身《み》の思《おも》はるゝに、いひ知《し》らず悲《かな》しくなりて、かくはわれ小銀《こぎん》の譚《ものがたり》に泣《な》きしなる。其理由《そのいはれ》を語《かた》るべき我《わ》が舌《した》は餘《あま》り稚《をさな》かりき。
「まあ、恁《か》うなんですよ。お孃樣《ぢやうさま》、ちよいと御覽《ごらん》なさいまし、子供《こども》ですねえ。」
　女房《にようばう》は笑《ゑ》みつゝ言《い》ふ。其《その》まゝにも出《い》でかねてや、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、543-6］上《あねうへ》は内《うち》に入《い》りたまひ、
「まことに失禮《しつれい》いたしました。私《わたし》もそゝつかしい、考《かんが》へたつて解《わか》りますのにねえ。小母《をば》さん、惡《わる》く思召《おぼしめ》さないで下《くだ》さいまし、ほんとに何《ど》うしよう私《わたし》は。」とひたすらに詫《わ》びたまひぬ。
　此方《こなた》は只《ただ》可笑《をか》しがりて、
「いゝえ、しかし何《なん》ですわ。うつかりした話《はなし》はいたされませんね。私《わたし》も吃驚《びつくり》しました、だつて泣《な》きやうが太《ひど》いのですもの。厭《いや》な人《ひと》ねえ。貢《みつぎ》さん、私《わたし》や懲々《こり／＼》したよ。もう／＼恁※［＃「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57］《こんな》ことは聞《き》かせません。」と半《なか》ばは怨顏《うらみがほ》なるぞ詮方《せんかた》なき。
「でも賢《かしこ》いのね。貢《みつぎ》さん、よくお解《わか》りだつた。」
　と優《やさ》しく頭《かしら》撫《な》でつゝ、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、543-14］上《あねうへ》の愛《め》でたまふに、やゝ面《おもて》を起《おこ》せり。
「お孃樣《ぢやうさま》。」とものありげに戸外《おもて》より下婢《かひ》の聲《こゑ》懸《か》けたれば、彼《か》の君《きみ》はいそがはしく辭《じ》し去《さ》りたまひぬ。あと追《お》うて出《い》でむとせしを、女房《にようばう》の遮《さへぎ》りて、笑《わら》ひながら、
「あら其《その》まんまで遁《に》げちやずるいよ。もうひとつ手鞠唄《てまりうた》をお聞《き》かせでなくツちやあ……」
　再《ふたゝ》び唄《うた》ひたり。辭《いな》みて唄《うた》はざらむには、うつくしき金魚《きんぎよ》もあはれまた繼母《まゝはゝ》の手《て》に掛《かゝ》りやせむ。

［＃５字下げ］仙《せん》冠《くわん》※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《じや》［＃「仙冠※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］」は大見出し］

［＃７字下げ］一［＃「一」は中見出し］

　我《わ》が居《ゐ》たる町《まち》は、一筋《ひとすぢ》細長《ほそなが》く東《ひがし》より西《にし》に爪先上《つまさきあが》りの小路《こうぢ》なり。
　兩側《りやうがは》に見好《みよ》げなる仕舞家《しもたや》のみぞ並《なら》びける。市中《いちなか》の中央《ちうあう》の極《きは》めて好《よ》き土地《とち》なりしかど、此町《このまち》は一端《いつたん》のみ大通《おほどほ》りに連《つらな》りて、一方《いつぱう》の口《くち》は行留《ゆきどま》りとなりたれば、往來《わうらい》少《すく》なかりき。
　朝《あした》より夕《ゆふべ》に至《いた》るまで、腕車《くるま》、地車《ぢぐるま》など一輛《いちりやう》も過《よ》ぎるはあらず。美《うつく》しき妾《おもひもの》、富《と》みたる寡婦《やもめ》、おとなしき女《め》の童《わらは》など、夢《ゆめ》おだやかに日《ひ》を送《おく》［＃底本では「送」は「鎹のつくり」］りぬ。
　日《ひ》は春日山《かすがやま》の巓《いたゞき》よりのぼりて粟《あは》ケ崎《さき》の沖《おき》に入《い》る。※［＃「さんずい＋誨のつくり」、第3水準1-86-73］《うみ》は西《にし》の方《かた》に路程《みちのり》一｜里《り》半《はん》隔《へだた》［＃底本では「隔」は「儿」に代えて「希－布」］りたり。山《やま》は近《ちか》く、二階《にかい》なる東《ひがし》の窓《まど》に、彼《か》の木戸《きど》の際《きは》なる青楓《あをかへで》の繁《しげ》りたるに蔽《おほ》はれて、峰《みね》の松《まつ》のみ見《み》えたり。※［＃「木＋闌」、第3水準1-86-27］《らん》に倚《よ》りて伸上《のびあが》れば半腹《はんぷく》なる尼《あま》の庵《いほり》も見《み》ゆ。卯辰山《うたつやま》、霞《かすみ》が峰《みね》、日暮《ひぐらし》の丘《をか》、一帶《いつたい》波《なみ》の如《ごと》く連《つらな》りたり。空《そら》蒼《あを》く晴《は》［＃底本では「晴」は「晴のつくり」にかえて「睛のつくり」］れて地《ち》の上《うへ》に雨《あめ》の餘波《なごり》ある時《とき》は、路《みち》なる砂利《しやり》うつくしく、いろ／＼の礫《こいし》あまた洗《あら》ひ出《いだ》さるゝが中《なか》に、金色《こんじき》なる、又《また》銀色《ぎんしよく》なる、※［＃「糸＋碌のつくり」、第3水準1-90-8］《みどり》なる、樺色《かばいろ》なる、鳶色《とびいろ》なる、細螺《きしやご》おびたゞし。轍《わだち》の跡《あと》といふもの無《な》ければ、馬《うま》も通《とほ》らず、をさなきものは懸念《けねん》なく踞居《ついゐ》てこれを拾《ひろ》ひたり。
　あそびなかまの暮《くれ》ごとに集《つど》ひしは、筋《すぢ》むかひなる縣※［＃「示＋土」、第3水準1-89-19］《けんしや》乙劍《おとつるぎ》の宮《みや》の境内《けいだい》なる御影石《みかげいし》の鳥居《とりゐ》のなかなり。いと廣《ひろ》くて地《つち》をば綺麗《きれい》に掃《は》［＃底本では「掃」は「てへん＋帚」］いたり。榊《さかき》五六｜本《ぽん》、秋《あき》は木犀《もくせい》の薰《かをり》みてり。百日紅《さるすべり》あり、花桐《はなぎり》あり、また常磐木《ときはぎ》あり。※［＃「木＋誨のつくり」、第3水準1-85-69］《うめ》、櫻《さくら》、花《はな》咲《さ》［＃底本では「咲」は「つくり」の上半分が「八」］くは此處《こゝ》ならで、御手洗《みたらし》と後合《うしろあは》せなる彼《か》の君《きみ》の庭《には》なりき。
　この境内《けいだい》と其庭《そのには》とを、廣岡《ひろをか》の繼母《まゝはゝ》は一重《ひとへ》の木槿垣《むくげがき》を以《も》て隔《へだ》てたり。朝霧《あさぎり》淡《あは》くひとつ／＼に露《つゆ》もちて、薄紫《うすむらさき》に蘂《しべ》青《あを》く、純白《まつしろ》の、蘂《しべ》赤《あか》く、あはれに咲重《さきかさ》なる木槿《むくげ》の花《はな》をば、繼母《まゝはゝ》は粥《かゆ》に交《ま》ぜて食《しよく》するなり。こは長壽《ながいき》する藥《くすり》ぞとよ。
　梨《なし》の核《しん》を絞《しぼ》りし汁《つゆ》も、木槿《むくげ》の花《はな》を※［＃「睹のつくり／火」、第3水準1-87-52］《に》こみし粥《かゆ》も、汝《な》が口《くち》ならば旨《うま》かるべし。※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、545-10］上《あねうへ》にはいかならむ。其《その》※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、545-11］上《あねうへ》と、大方《おほかた》はわれ此處《こゝ》に來《き》て、この垣《かき》をへだてて見《まみ》えぬ。表《おもて》より行《ゆ》かむは、繼母《まゝはゝ》のよき顏《かほ》せざればなり。
　時《とき》は日※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］《ひごと》に定《さだ》まらねど、垣根《かきね》に彳《たゝず》めば※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、545-13］上《あねうへ》の直《たゞ》ちに見《み》え給《たま》ふ。垂籠《たれこ》めて居給《ゐたま》ふ其居間《そのゐま》とは、樹々《きゞ》の梢《こずゑ》［＃底本では「梢」は「木＋悄のつくり」］ありて遮《さへぎ》れど、それと心着《こゝろづ》きてや必《かなら》ず庭《には》に來給《きたま》ふは、蟲《むし》の知《し》らするなるべし。一時《あるとき》は先立《さきだ》ちて園生《そのふ》をそゞろあるきし給《たま》ふことあり。然《さ》る折《をり》には、われ家《いへ》を出《い》づる時《とき》、心《こゝろ》の急《いそ》がざることあらざりき。
　行《ゆ》きて差覗《さしのぞ》けば、悄《しを》れて樹《こ》の間《ま》に立《た》ちて、首《かうべ》をさげ、肩《かた》を垂《た》れ、襟《えり》深《ふか》く頤《おとがひ》を埋《うづ》めて力《ちから》なげに彳《たゝず》みたまふ。病氣《びやうき》にやと胸《むね》先《ま》づ轟《とゞろ》くに、やがて目《め》をあげて此方《こなた》を見給《みたま》ふ時《とき》、莞爾《につこ》として微笑《ほゝゑ》み給《たま》へば、病《やまひ》にはあらじと見《み》ゆ。かゝること※［＃「尸＋婁」、第3水準1-47-64］々《しば／＼》あり。
　獨《ひとり》居給《ゐたま》ふ時《とき》はいつも然《しか》なりけむ。われには笑顔《ゑがほ》見《み》せ給《たま》はざること絶《た》えてなかりしが、わがために慰《なぐさ》めらるゝや、さらば勉《つとめ》て慰《なぐさ》めむとて行《ゆ》く。もどかしき垣《かき》を中《なか》なる逢瀬《あふせ》のそれさへも隨意《まゝ》ならで、ともすれば意地《いぢ》惡《わる》き人《ひと》の妨《さまた》ぐる。
　國麿《くにまろ》［＃底本では「麿」は「麾」の「毛」に代えて「呂」］といふ、舊《もと》の我《わ》が藩《はん》の有司《いうし》の兒《こ》の、われより三《み》ツばかり年紀《とし》たけたるが、鳥居《とりゐ》の※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］《つき》あたりなる黑《くろ》の冠木門《かぶきもん》のいと嚴《いかめ》しきなかにぞ住《すま》ひける。

［＃７字下げ］二［＃「二」は中見出し］

　肩幅《かたはゞ》廣《ひろ》く、胸《むね》張《は》りて、※［＃「夾＋頁」、第3水準1-93-90］《ほゝ》に肥肉《しし》つき、顏《かほ》丸《まろ》く、色《いろ》の黑《くろ》き少年《せうねん》なりき。腕力《ちから》もあり、年紀《とし》も長《た》けたり、門閥《もんばつ》も貴《たつと》ければ、近隣《きんりん》の少年等《せうねんら》みな國麿《くにまろ》に從《したが》ひぬ。
　厚紙《あつがみ》もて｜烏帽［＃底本では「帽」の「冒」に代えて「瑁のつくり」］子《ゑぼし》を作《つく》りて被《かうむ》り、拂《はたき》を腰《こし》に插《さ》したるもの、顱卷《はちまき》をしたるもの、十手《じつて》を携《たづさ》へたるもの、物干棹《ものほしざを》を荷《にな》へるものなど、五三｜人《にん》左右《さいう》に引着《ひきつ》けて、渠《かれ》は常《つね》に宮《みや》の階《きざはし》の正面《しやうめん》に身構《みがま》へつ、稻葉太※［＃「螂－虫」、第3水準1-92-71］《いなばたらう》荒象園《くわうざうゑん》の鬼門《おにかど》なりと名告《なの》［＃底本では「告」は「晧のつくり」］りたり。さて常《つね》にわが廣岡《ひろをか》の※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、547-1］上《あねうへ》に逢《あ》はむとて行《ゆ》くを、など然《さ》は女々《めゝ》しき振舞《ふるまひ》する。ともに遊《あそ》べ、なかまにならば、仙冠※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《せんくわんじや》牛若三※［＃「螂－虫」、第3水準1-92-71］《うしわかさぶらう》といふ美少年《びせうねん》の豪傑《がうけつ》になさむと言《い》ひき。仙冠※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《せんくわんじや》は稻葉《いなば》なにがしの弟《おとうと》にて、｜魔［＃底本では「魔」は「麾」の「毛」に代えて「鬼」］術《まじゆつ》［＃底本では「術」は「衙」の「吾」に代えて「朮」］をよくし、空中《くうちう》を飛行《ひぎやう》せしとや。仙冠※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《せんくわんじや》をわれ嫌《きら》［＃底本では「嫌」は「女＋賺のつくり」］ふにあらねど、誰《たれ》か甘《あま》んじて國麿《くにまろ》の弟《おとうと》たらむ。
　言《い》ふこと肯《き》かざるを太《いた》く※［＃「りっしんべん＋曾」、第3水準1-84-62］《にく》み、きびしく其手下《そのてした》に命《めい》じて、われと遊《あそ》ぶことなからしめたり。さらぬも近隣《きんりん》の少年《せうねん》は、わが袖《そで》長《なが》き衣《きぬ》を着《き》て、好《よ》き帶《おび》したるを疎《うとん》じて、｜宵［＃底本では「宵」は「宀／悄のつくり」］々《よひ／＼》には組《くみ》を造《つく》［＃底本では「造」は「二点しんにょう＋晧のつくり」］りて町中《まちなか》を橫行《わうかう》しつゝ、我《わ》が門《かど》に集《つど》ひては、軒《のき》に懸《か》けたる提灯《ちやうちん》に礫《つぶて》を投《とう》じて口々《くち／″＼》に罵《のゝし》りぬ。母上《はゝうへ》の名《な》、假名《かな》もて其※［＃「示＋申」、第3水準1-89-28］燈《そのしんとう》に記《しる》されたり。亡《な》き人《ひと》に礫《つぶて》打《う》たしては、佛《ほとけ》を辱《はづ》かしめむとて、當時《たうじ》わが家《いへ》をば預《あづか》りたまへる、伯母《をば》の君《きみ》他《ほか》のに取《と》りかへたまひぬ。
　かゝりし少年《せうねん》の腕力《わんりよく》あり門閥《もんばつ》ある頭領《とうりやう》を得《え》たるなれば、何《なに》とて我威《がゐ》を振《ふる》はざるべき。※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、547-10］上《あねうへ》に逢《あ》はむとて木槿垣《むくげがき》に行《ゆ》く途《みち》、まづ一人《ひとり》物干棹《ものほしざを》をもて一文字《いちもんじ》に遮《さへぎ》り留《とゞ》む。十手《じつて》持《も》ちたるが引添《ひきそ》ひて眼《まなこ》を配《くば》り、顱卷《はちまき》したるが肩《かた》をあげて睨《ね》め着《つ》くる。其中《そのなか》にやさしき顏《かほ》の彼《か》の烏帽子《ゑぼし》被《かぶ》れる兒《こ》の拂《はたき》をば、國麿《くにまろ》の引取《ひきと》りて、背後《うしろ》の方《かた》に居《ゐ》て、片手《かたて》を尻下《しりさが》りに結《むす》びたる帶《おび》にはさみて、鷹揚《おうやう》に指揮《さしづ》するなり。
　わびたりとて肯《き》くべきにあらず、しを／＼と引返《ひきかへ》す本意《ほい》なき日數《ひかず》こそ積《つも》りたれ。忘《わす》れぬは我《わが》ために、此時《このとき》嬉《うれ》しかりし楓《かへで》にこそ。
　其枝《そのえだ》のさき近々《ちか／″＼》と窓《まど》の前《まへ》にさしいでたれば、廣岡《ひろをか》の彼《か》の君《きみ》は二階《にかい》にのぼりて、此方《こなた》の※［＃「木＋闌」、第3水準1-86-27］《てすり》に※［＃「てへん＋國」、第3水準1-84-89］《つか》まりたるわが顏《かほ》を見《み》て微笑《ほゝゑ》みたまひつゝ、腕《かひな》さしのべて、葉《は》さきをつまみ、撓《しな》ひたる枝《えだ》を引寄《ひきよ》せて、折鶴《をりづる》、木菟《みゝづく》［＃底本では「菟」は「くさかんむり／兎」］、雛《ひいな》の形《かたち》に切《き》りたるなど、色《いろ》ある紙《かみ》あまた引結《ひきゆ》ひてはソト放《はな》したまふ。小枝《こえだ》は葉摺《はず》れしてさら／＼と此方《こなた》に撓《しな》ひて來《き》つ。風《かぜ》少《すこ》しある時《とき》殊《こと》に美《うつく》しきは、金紙《きんし》、銀紙《ぎんし》を細《こまか》く刻《きざ》みて、蝶《てふ》の形《かたち》にしたるなりき。
　雨《あめ》の日《ひ》はいかにしけむ、今《いま》われ覺《おぼ》えて居《を》らず。麗《うらゝ》かなる空《そら》をば一群《ひとむれ》の鳩《はと》輪《わ》をつくりて舞《ま》ふが、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、548-7］上《あねうへ》とわれと對《むか》ひあへるに馴《な》れて、恐氣《おそれげ》なく、此方《こなた》の軒《のき》、彼方《かなた》の屋根《やね》に颯《さつ》と下《おろ》しては翼《つばさ》［＃底本では「翼」は「栩のつくり／異」］を休《やす》めて、廂《ひさし》にも居《ゐ》たり。物干場《ものほしば》の棹《さを》にも居《ゐ》たり。棟《むね》にも居《ゐ》たり。みな表町《おもてまち》なる大通《おほどほり》の富有《ふいう》の家《いへ》に飼《か》はれしなりき。夕越《ゆふごえ》くれば一齊《いつせい》に塒《ねぐら》に歸《かへ》る。やゝ人足《ひとあし》繁《しげ》く、戸外《おもて》を往來《ゆきか》ふが皆《みな》あふぎて見《み》つ。楓《かへで》にはいろいろのもの結《むす》ばれたり。
　其《その》まゝ置《お》きて一夜《ひとよ》を過《すご》すに、あくる日《ひ》はまた※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、548-11］上《あねうへ》の新《あら》たに結《むす》び給《たま》はでは、昨日《きのふ》なるは大方《おほかた》失《う》せて見《み》えずなりぬ。
　手《て》屆《とゞ》きて人《ひと》の奪《うば》ふべくもあらねば、町《まち》の外《はづ》れなる酒屋《さかや》の庫《くら》と觀世物小屋《みせものごや》の間《あひだ》に住《す》めりと人々《ひと／″＼》の言《い》ひあえる、恐《おそろ》しき野衾《のぶすま》の來《き》て攫《さら》へて行《ゆ》くと、われはをさなき心《こゝろ》に思《おも》ひき。

［＃５字下げ］野《の》衾《ぶすま》［＃「野衾」は大見出し］

［＃７字下げ］一［＃「一」は中見出し］

　其《その》翼《つばさ》廣《ひろ》げたる大《おほ》きさは鳶《とび》に較《たぐ》ふべし。野衾《のぶすま》と云《い》ふは蝙蝠《かうもり》の百歳《もゝとせ》を經《へ》たるなり。年紀《とし》六十に餘《あま》れる隣《となり》の｜扇［＃底本では「扇」は「戸の旧字＋栩のつくり」］折《あふぎをり》の翁《をぢ》［＃底本では「翁」は「鶲のつくり」］が少《わか》き時《とき》は、夜※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］《よごと》に其《そ》の姿《すがた》見《み》たりし由《よし》、近《ちか》き年《とし》は一年《ひととせ》に三《み》たび、三月《みつき》に一度《ひとたび》など、たま／＼ならでは人《ひと》の眼《め》に觸《ふ》れずといふ。一尾《いちび》ならず、二《ふた》ツ三《み》ツばかりあり。普通《なみ》の小《ちひ》さきものとは違《ちが》ひて、夏《なつ》の宵《よひ》、夕月夜《ゆふづきよ》、灯《ひとも》す時《とき》、※［＃「廣－广」、第3水準1-94-81］昏《たそがれ》には出來《いできた》らず。初夜《しよや》すぎてのちともすれば其翼《そのつばさ》もて人《ひと》の面《おもて》を蔽《おほ》ふことあり。柔《やはら》かに冷《つめた》き風呂敷《ふろしき》の如《ごと》きもの口《くち》に蓋《ふた》するよと見《み》れば、胸《むね》の血《ち》を吸《す》はるゝとか。幻《まぼろし》の如《ごと》く軒《のき》に閃《ひらめ》きて、宮《みや》なる鳥居《とりゐ》を掠《かす》め、其《その》まゝ隱《かく》れ去《さ》る。彼《か》の酒屋《さかや》の庫《くら》と、觀世物小屋《みせものごや》の間《あひだ》まで、わが家《いへ》より半町《はんちやう》ばかり隔《へだた》りし。眞中《まんなか》に古井戸《ふるゐど》一《ひと》ツありて、雜草《ざつさう》の生《お》ひ茂《しげ》りたる舊《もと》空地《あきち》なりしに、其《そ》の小屋《こや》出來《でき》たるは、もの心《ごころ》覺《おぼ》えし後《のち》なり。
　興行《こうぎやう》ある※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］《ごと》に打囃《うちはや》す鳴物《なりもの》の音《おと》賴母《たのも》しく、野衾《のぶすま》の恐《おそ》れも薄《うす》らぐに、行《ゆ》きて見《み》れば、木戸《きど》の賑《にぎは》ひさへあるを、内《うち》は如何《いか》におもしろからむ。母上《ははうへ》いませし折《をり》は、わが見《み》たしと云《い》ふを許《ゆる》したまはず、野衾《のぶすま》の居《ゐ》て恐《おそろ》しき處《ところ》なるに、いかで斯《こ》の可愛《かはゆ》きもの近寄《ちかよ》らしむべきとて留《とゞ》め給《たま》ひぬ。
　亡《な》き人《ひと》となりたまひて後《のち》は、わが寂《さび》しがるを慰《なぐさ》めむとや、伯母上《をばうへ》は快《こゝろ》よく日※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］《ひごと》に出《い》だし給《たま》ふ。場内《ぢやうない》の光景《くわうけい》は見馴《みな》れて明《あきらか》に覺《おぼ》えたり。
　土間《どま》、引船《ひきふね》、棧敷《さじき》などいふべきを、鶉《うづら》、出鶉《でうづら》、坪《つぼ》、追込《おひこみ》など稱《とな》へたり。舞臺《ぶたい》も、花道《はなみち》も芝居《しばゐ》の如《ごと》くに出來《でき》たり。人數《にんず》一千《いつせん》は入《い》るゝを得《え》たらむ。
　木戸《きど》には櫻《さくら》の造花《つくりばな》を廂《ひさし》にさして、枝々《えだ／＼》に、赤《あか》きと、白《しろ》きと、數《かず》あまた小提灯《こぢやうちん》に、「て。」「り。」「は。」と一《ひと》つひとつ染《そ》め拔《ぬ》きたるを、夥《おびたゞ》しく釣《つる》して懸《か》け、夕暮《ゆふぐれ》には皆《みな》灯《ひとも》すなりけり。其下《そのした》あたり、札《ふだ》をかゝげて、一人々々《ひとり／＼》役※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《やくしや》の名《な》を筆太《ふでぶと》にこそ記《しる》したれ。小親《こちか》といふあり、重子《しげこ》といふあり、小松《こまつ》といふあり、秋子《あきこ》といふあり、細字《さいじ》もてしのぶ［＃「しのぶ」に傍点］といふあり。小光《こみつ》、小稻《こいな》と書《か》きつらねて、別《べつ》に傍《かたはら》に小六《ころく》と書《か》いたり。

［＃７字下げ］二［＃「二」は中見出し］

　印半纒《しるしばんてん》［＃底本では「纒」の「厂」に代えて「广」、「黒」に代えて「黑」、550-11］被《き》たる壯佼《わかもの》の、軒《のき》に梯子《はしご》さして昇《のぼ》りながら、一《ひと》つ宛《づゝ》提灯《ちやうちん》に灯《ひ》ともすが、右《みぎ》の方《かた》より始《はじ》めたれば、小親《こちか》といふ名《な》、ぱつと※［＃「壥－土へん－厂」、第3水準1-15-62］色《すみいろ》濃《こ》く、鮮《あざや》かに最初《さいしよ》の火《ひ》に照《てら》されつ。※［＃「虫＋鑞のつくり」、第3水準1-91-71］燭《らふそく》の※［＃「睹のつくり／火」、第3水準1-87-52］《に》え込《こ》まざれば、其他《そのた》はみな朧氣《おぼろげ》なりき。
　ありたけの提灯《ちやうちん》あかくなりたる後《のち》に、一昨日《をとゝひ》も、其前《そのさき》の日《ひ》も、昨日《きのふ》も來《き》つ。この夕《ゆふべ》は時《とき》やゝ早《はや》かりければ、少時《しばし》われ木戸《きど》の前《まへ》に※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］行《ある》くともなく彳《たゝず》みつゝ、幾度《いくたび》か小親《こちか》の名《な》を仰《あふ》ぎ見《み》たり。名《な》を見《み》るさへ他《た》のものとは違《ちが》ひて、そゞろに興《きよう》ある感《かん》起《おこ》りぬ。かねて其《その》牛若《うしわか》に扮《ふん》せし姿《すがた》、太《いた》くわが心《こゝろ》にかなひたるなり。
　見物《けんぶつ》は未《いま》だ來《きた》り集《つど》はず。木戸番《きどばん》の燈《ともしび》大通《おほどほり》より吹《ふ》きつくる風《かぜ》に搖《ゆ》れて、肌寒《はださむ》う覺《おぼ》ゆる折《をり》しも、三｜臺《だい》ばかり俥《くるま》をならべて、東《ひがし》より颯《さつ》と乘着《のりつ》けしが、一齊《いつせい》に轅《ながえ》をおろしつ、と見《み》る時《とき》、女《をんな》一人《ひとり》おり立《た》ちたり。續《つゞ》いて一人《いちにん》片足《かたあし》を下《おろ》せるを、後《あと》なる俥《くるま》より出《い》でたる女《をんな》、つと來《き》て肩《かた》を貸《か》すに手《て》を掛《か》けてひらりと下《お》りたり。先《さき》なるは紫《むらさき》の包《つゝみ》［＃底本では「包」は「鉋のつくり」］を持《も》ちて手《て》に捧《さゝ》げつ。左右《さいう》に二人《ににん》引添《ひきそ》ひたる、眞中《まんなか》に丈《たけ》たかきは、あれ誰《たれ》やらむ、と見遣《みや》りしわれを、左《ひだり》なる女《をんな》木戸《きど》を入《い》りざま、偶《ふ》と目《め》を注《そゝ》ぎて、
「おや、お師匠樣《ししやうさま》。」
　また一人《いちにん》、
「あの、此《こ》のお子《こ》ですよ。」と低聲《こごゑ》に言《い》ひたり。聞棄《きゝす》てながら一※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］《いつぽ》を移《うつ》せし舞《まひ》の師匠《ししやう》は振返《ふりかへ》りつ。冴《さや》かなる眼《め》にキトわれを見《み》しが、互《たがひ》に肩《かた》を擦合《すりあは》せて小走《こばし》りに入《い》るよとせしに、つか／＼と引返《ひきかへ》して、冷《つめ》たき衣《きぬ》の袖《そで》もてわが頸《うなじ》を抱《だ》くや否《いな》や、アと叫《さけ》ぶ※［＃「夾＋頁」、第3水準1-93-90］《ほゝ》をしたゝかに吸《す》ひぬ。
　良《やゝ》ありてわれ眼《め》を※［＃「目＋爭」、第3水準1-88-85］《みは》りたり。三人《さんにん》は早《は》や木戸《きど》を入《い》りて見《み》えざりき。あまり不意《ふい》なれば、茫然《ばうぜん》として立《た》つたるに、ふと思《おも》ひ出《い》でしは野衾《のぶすま》の事《こと》なりき。俄《にはか》に恐《おそろ》しくなりて踵《くびす》を返《かへ》す。通《とほり》の角《かど》に、われを見《み》て笑《わら》ひながら彳《たゝず》みたるは、其頃《そのころ》わが家《いへ》に抱《かゝ》へられたる染《そめ》といふ女《をんな》なり。
　走《はし》り行《ゆ》きて胸《むね》に縋《すが》りぬ。
「恐《こは》かつたよ、染《そめ》ちやん恐《こは》かつたよ。」
「さう、恐《こは》かつたの、貢《みつぎ》さんは彼《あれ》が恐《こは》いのかい。」
「見《み》て居《ゐ》たの。」
「あゝ見《み》て居《ゐ》たとも、私《わたし》が禁厭《おまじなひ》をしてあげたから何《なん》とも無《な》かつたんですわ。危《あぶ》ないことね。」
「恐《こは》かつたよ。染《そめ》ちやん、顔《かほ》をね、包《つゝ》んで了《しま》つたから呼吸《いき》が出《で》なかつたの。さうして酷《ひど》いの、彼《あ》の※［＃「夾＋頁」、第3水準1-93-90］《ほつ》ぺたを吸《す》つたんだ。チユツて然《さ》う云《い》つたよ、痛《いた》いよ、染《そめ》ちやん。」
　染《そめ》は眉《まゆ》を顰《ひそ》めて仔細《しさい》らしく、
「どれ、一寸《ちよいと》お見《み》せ。」
　と言《い》ひつゝ、「て」「り」「は」の提灯《ちやうちん》のあかりに向《む》けて透《すか》し見《み》るより、
「おや、おや、おや、大變《たいへん》。まあ。」とけたゝましく言《い》ふに、わが胸《むね》轟《とゞろ》きたり。おど／＼すれば眞顏《まがほ》になりて、
「亂暴《らんばう》だ、酷《ひど》いことをするわ、野衾《のぶすま》が吸《す》つたんだね、貢《みつぎ》さん、血《ち》が出《で》てるわ。……おや。」
　驚《おどろ》きて、
「あら、泣《な》くんぢやアありません。何《なん》ともないよ、直《す》ぐ治《なほ》るから往來《わうらい》で何《なん》のこツたね、あら、泣《な》かないでさ。」
　と小腰《こごし》を屈《かゞ》めて、湯《ゆ》に行《ゆ》きし歸途《かへり》なれば、手拭《てぬぐひ》の濡《ぬ》れたるにて、其《そ》の血《ち》の痕《あと》と云《い》ふもの拭《ぬぐ》ひたり。
「さあ、治《なほ》りました。もう何《なん》ともないよ。」
　と賺《すか》す、血《ち》の出《で》たるが、斯《か》う早《はや》く癒《い》ゆべしとは、われ信《しん》ぜず。
「嫌《いや》だ、嫌《いや》だ、痛《いた》いや、治《なほ》りやしないや。」
「困《こま》るね。」
　いふ折《をり》しもまた此處《こゝ》に來懸《きかゝ》りしは、むかひなる彼《か》の女房《にようばう》なりき。われは又《また》彼方《かなた》に縋《すが》りぬ。
「小母《をば》さん、恐《こは》かつたよ。あのね、野衾《のぶすま》が血《ち》を吸《す》つたの。恐《こは》かつたよ。」
「え、何《ど》うしたつて云《い》ふの、大變《たいへん》だ、あの野衾《のぶすま》がね。」
　傍《かたはら》より、
「※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、553-13］《ねえ》さん眞個《ほんとう》ですよ、あのね。」
　と言《い》ひつゝ、ひたと身《み》を寄《よ》せ、染《そめ》は耳朶《みゝたぶ》に囁《さゝや》きて、
「ね、眞個《ほんとう》でせう……ですからさ。」と再《また》笑《わら》へり。
　女房《にようばう》は微笑《ほゝゑ》みながら、
「不可《いけな》いよ。貢《みつぎ》さんは何《なん》でも眞個《ほんと》にするから欺《だま》されるんだよ。此《この》賑《にぎや》かなのに、何《なん》だつて又《また》野衾《のぶすま》なんかが出《で》るものかね。※［＃「口＋墟のつくり」、第3水準1-84-7］《うそ》だよ、綺麗《きれい》な野衾《のぶすま》だから結構《けつこう》さ。」
「あら※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、554-4］《ねえ》さん。」
「お止《よ》しよ。そんなこと謂《い》つて威《おど》すのは蟲《むし》の毒《どく》さ、私《わたし》も懲《こ》りたことが有《あ》るんだからね、欺《だま》しツこなし。貢《みつぎ》さん、何《なに》血《ち》なもんかね、御覽《ごらん》よ。」
　中指《なかゆび》のさきを口《くち》に含《ふく》みて、やがて見《み》せたる、血《ち》の色《いろ》つきたり。
「紅《べに》さ。野衾《のぶすま》でも何《なん》でも可《い》いやね。貢《みつぎ》さんを可愛《かはい》がるんだもの、恐《こは》くはないから行《い》つて御覽《ごらん》、折角《せつかく》、氣晴《きばらし》に行《ゆ》くものを、ねえ。此奴《こいつ》が、」
「あれ。」
「あばよ。」とばかり別《わか》れたる、囃子《はやし》の音《おと》おもしろきに、恐《おそろ》しき念《ねん》も失《う》せて、忙《せは》しく又《また》木戸《きど》に行《ゆ》きぬ。
　能《のう》は始《はじ》まりたり。早《はや》くと思《おも》ふに、木戸番《きどばん》の男《をとこ》、鼻《はな》低《ひく》う唇《くちびる》厚《あつ》きが、わが顏《かほ》を見《み》てニタ／＼と笑《わら》ひ居《ゐ》たれば、何《なに》をか思《おも》ふと、其心《そのこゝろ》はかり兼《か》［＃底本では「兼」の「税のつくり－兄」に代えて「八がしら」］ねて猶豫《ためら》ひぬ。

［＃７字下げ］三［＃「三」は中見出し］

「坊《ぼつ》ちやん、お入《はひ》んなさい、始《はじま》りましたよ。」
　わが猶豫《ためら》ひたるを見《み》て、木戸番《きどばん》は聲《こゑ》を懸《か》けぬ。日※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］《ひごと》に行《ゆ》きたれば顏《かほ》を見識《みし》れるなりき。
「何《ど》うなすつたんだ。さあ、お入《はひ》んなさい、え、何《ど》うしたんだね。もう始《はじま》りましたぜ。何《なん》でさ、木戸錢《きどせん》なんか要《い》［＃底本では「要」は「襾／女」］りやしません。お入《はひ》んなさい、無錢《ただ》で可《よ》うごす。木戸錢《きどせん》は要《い》りませんから、菓子《くわし》でも買《か》つておあがんなさい。」
　大胡坐《おほあぐら》※［＃「てへん＋蚤」、第3水準1-84-86］《か》きたるが笑《わら》ひながら言示《いひしめ》せり。然《さ》らぬだに、われを流眄《しりめ》にかけたるが氣《き》に懸《かゝ》りて、其《その》まゝ歸《かへ》らむかと思《おも》へるなれば、堪《こら》へず腹立《はらだ》たしきに、伯母上《をばうへ》がたまひし銀貨《ぎんくわ》入《い》りたる※［＃「糸＋碌のつくり」、第3水準1-90-8］色《みどりいろ》の巾着《きんちやく》、手《て》に持《も》ちたるまゝハタと擲《なげう》ちたり。銀貨入《ぎんくわいれ》を誰《た》が惜《をし》む。投《な》ぐると齊《ひと》しく駈《か》け出《いだ》しぬ。疾《と》く歸《かへ》りて胸《むね》なる不平《ふへい》を伯母上《をばうへ》に語《かた》らばやと、見《み》も返《かへ》らざりし背後《うしろ》より、跫音《あしおと》忙《せは》しく追迫《おひせま》りて、手《て》を捉《とら》へて引留《ひきと》めしは年《とし》若《わか》き先《さき》の女《むすめ》なり。
「坊《ぼつ》ちやん、まあ、あなた、まあ何《ど》う遊《あそ》ばしたんですよ。何處《どこ》へ入《い》らつしやるのさ。え、何《なに》かお氣《き》に入《い》らない事《こと》があつたんですか。お怒《おこ》りなすつて、まあ、飛《と》んだ御機嫌《ごきげん》が惡《わる》いのねえ。堪忍《かんにん》して頂戴《ちやうだい》な。よう、入《い》らつしやいよ。さあ、私《わたし》と一所《いつしよ》においでなさいましなね。何《なん》です、そんな顏《かほ》をなさるもんぢやありません。」
「嫌《いや》だ。」
「あれ、そんなこと有仰《おつしや》らないでさ。あのね、あのね、小親《こちか》さんがお獅子《しし》を舞《ま》ひますツて、ね、可《い》いでせう、さあ、入《い》らつしやい。」
　と手《て》を取《と》るに、さりとも拒《こば》み得《え》で伴《ともな》［＃底本では「伴」は「にんべん＋絆のつくり」］はれし。木戸《きど》に懸《かゝ》る時《とき》、木戸番《きどばん》の爺《をぢ》われを見《み》つゝ、北叟笑《ほくそゑ》むやうなれば、面《おもて》を背《そむ》けて走《はし》り入《い》りぬ。
　人《ひと》大方《おほかた》は來揃《きそろ》ひたり。棧敷《さじき》の二《ふた》ツ三《み》ツ、土間《どま》少《すこ》し空《あ》きたる、舞臺《ぶたい》に近《ちか》き棧敷《さじき》の一間《ひとま》に、女《むすめ》はわれを導《みちび》きぬ。
「坊《ぼつ》ちやん、ぢやあね、此處《こゝ》で御覽《ごらん》なさいまし。」
　意外《いぐわい》なる待遇《もてなし》かな、恁《かゝ》りし事《こと》われは有《あ》らず。平時《いつも》はたゞ人《ひと》の前《まへ》、背後《うしろ》、傍《わき》などにて、妨《さまたげ》とならざる限《かぎ》り、處《ところ》定《さだ》めず觀《み》たりしなるを。大《おほい》なる棧敷《さじき》の眞中《まんなか》に四邊《あたり》を※［＃「目＋句」、第4水準2-81-91］《みまは》して、小《ちひさ》き體《からだ》一個《ひとつ》先《ま》づ※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］立《つゝた》てり。
　只《と》ばかりありて、假花道《かりはなみち》に亂《みだ》れ敷《し》き、支《さゝ》へ懸《か》けたる、見物《けんぶつ》の男女《なんによ》が袖《そで》肱《ひぢ》の込合《こみあ》うたる中《なか》をば、飛《と》び、飛《と》び、小走《こばしり》に女《め》の童《わらは》一人《ひとり》、しのぶと言《い》ふなり。緋鹿子《ひがのこ》を合《あは》せて兩面《りやうめん》着《つ》けて、黑《くろ》き天鵞絨《びろうど》の※［＃「糸＋彖」、第3水準1-90-13］《へり》取《と》りたる綿《わた》厚《あつ》き座蒲團《ざぶとん》の、胸《むね》に當《あ》てて膝《ひざ》を蔽《おほ》ふまでなるを、兩袖《りやうそで》に抱《かゝ》へて來《き》つ。
　見返《みかへ》る女《むすめ》に顏《かほ》を見合《みあは》せて、
「あのね、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、557-2］《ねえ》さんが。」と小聲《こごゑ》に含《ふく》めて渡《わた》す。
　受取《うけと》りて女《むすめ》は棧敷《さじき》に直《なほ》しぬ。
「さあ、お敷《し》き遊《あそ》ばせよ。」
　われは又《また》蒲團《ふとん》に乘《の》りて、坐《すわ》りもやらで立《た》つたりき。女《むすめ》は手《て》もて足《あし》を押《おさ》へて顏《かほ》を見《み》て打笑《うちゑ》みたり。
「さあ、おゆつくり。」
　われは据《す》ゑられぬ。
「しのぶさん、お火鉢《ひばち》。」
「あい。」と云《い》ひしが※［＃「目＋句」、第4水準2-81-91］《みまは》して、土間《どま》より立《た》つたる半纒着《はんてんぎ》の壯佼《わかもの》を麾《さしまね》き、
「ちよいと、火鉢《ひばち》をね。」
「おい。」と此方《こちら》向《む》く。其土間《そのどま》なる客《きやく》の中《なか》に、國麿《くにまろ》の交《まじ》りしをわれ見《み》たり。顏《かほ》を見合《みあは》せ、そ知《し》らぬ顏《かほ》して、仙冠※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《せんくわんじや》は舞臺《ぶたい》の方《かた》に眼《まなこ》を轉《てん》じぬ。牛若《うしわか》に扮《ふん》したるは小親《こちか》にこそ。

［＃７字下げ］四［＃「四」は中見出し］

　髪《かみ》のいと黑《くろ》くて艷《つやゝ》かなるを、元結《もツとひ》かけて背《せ》に長《なが》く結《むす》びて懸《か》けつ。大口《おほぐち》の腰《こし》に垂《た》れて、舞《ま》ふ時《とき》靡《なび》いて見《み》ゆる、また無《な》き風情《ふぜい》なり。狩衣《かりぎぬ》の袖《そで》もゆらめいたり。長範《ちやうはん》をば討《う》つて棄《す》て、血刀《ちがたな》提《さ》げて吻《ほ》と呼吸《いき》つく※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》する、額《ひたひ》には振分《ふりわけ》たる後毛《おくれげ》の先端《さき》少《すこ》し懸《かゝ》れり。眉《まゆ》凜々《りゝ》しく眼《め》の鮮《あざやか》なる、水《みづ》の流《なが》るゝ如《ごと》きを、まじろぎもせで、正面《しやうめん》に向《むか》ひたる、天晴《あつぱれ》快《こゝろよ》き見得《みえ》なるかな。
　囃子《はやし》の音《おと》止《や》み寂然《ひつそ》となりぬ。肅然《しゆくぜん》として身《み》を返《かへ》して、三《さん》の松《まつ》を過《す》ぎると見《み》えし、くるりと捲《ま》いたる揚幕《あげまく》に吸《す》はるゝ如《ごと》く舞込《まひこ》みたり。
「お茶《ちや》はよろし、お菓子《くわし》はよしかな、お茶《ちや》はよろし。」
　と幕間《まくあひ》を賣《うり》※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］行《ある》く、賣子《うりこ》の數《かず》の多《おほ》き中《なか》に、物語《ものがたり》の銀六《ぎんろく》とて癡《たは》けたる親仁《おやぢ》交《まじ》りたり。茶《ちや》の運《はこ》びもし、火鉢《ひばち》も持《も》て來《き》、下足《げそく》の手傳《てつだひ》もする事《こと》あり。をり／＼、小幾《こいく》、しのぶ、小稻《こいな》が演《えん》ずる、狂言《きやうげん》の中《なか》に立交《たちまじ》りて、ともすれば屹《きつ》となりて居直《ゐなほ》りて足《あし》を構《かま》へ、手拍子《てびやうし》打《う》ち、扇《あふぎ》を揚《あ》げて、演劇《しばゐ》の物語《ものがたり》の眞似《まね》するが最《い》と巧《たくみ》なれば、皆《みな》をかしがりて、然《さ》は渾名《あだな》して囃《はや》せるなり。
　眞似《まね》の上手《じやうず》なるも道理《ことわり》よ、銀六《ぎんろく》は舊《もと》俳優《やくしや》なりき。
　曾《かつ》て大槻《おほつき》内藏之助《くらのすけ》の演劇《しばゐ》ありし時《とき》、渠《かれ》淺尾《あさを》を勤《つと》めつ。三年《みとせ》あまり前《さき》なりけむ、其頃《そのころ》母上《はゝうへ》居《ゐ》たまひたれば、われ伴《ともな》はれて見《み》に行《ゆ》きぬ。
　蛇責《へびぜめ》こそ恐《おそろ》しかりけれ。大釜《おほがま》一個《ひとつ》先《ま》づ舞臺《ぶたい》に据《す》ゑたり。背後《うしろ》に六角《ろくかく》の太《ふと》き柱《はしら》立《た》てて、釜《かま》に入《い》れたる淺尾《あさを》の咽喉《のんど》を鎖《くさり》［＃底本では「鎖」は「金＋瑣のつくり」］もて縛《いまし》めて、眞白《ましろ》なる衣《きぬ》着《き》せたり。顏《かほ》の色《いろ》は蒼《あを》ざめて、亂髪《みだれがみ》振《ふ》りかゝれるなかに輝《かゞや》きたる眼《まなこ》の光《ひかり》の凄《すさ》まじさ、瞻《みまも》り得《う》べきにあらず。夥兵《くみこ》立懸《たちかゝ》り、押取卷《おつとりま》く、上手《かみて》に床几《しやうぎ》を据《す》ゑて侍《さむらひ》控《ひか》へ居《ゐ》て、何《なに》やらむいひ罵《のゝし》りしが、薪《たきゞ》をば投入《なげい》れぬ。
　どろ／＼と鳴物《なりもの》聞《きこ》えて、四邊《あたり》暗《くら》くなりし、青白《あをじろ》きものあり、一條《ひとすぢ》左《ひだり》の方《かた》より閃《ひらめ》きのぼりて、淺尾《あさを》の※［＃「夾＋頁」、第3水準1-93-90］《ほゝ》を掠《かす》めて頭上《づじやう》に｜鎌［＃底本では「鎌」は「金＋賺のつくり」］首《かまくび》を擡《もた》げたるは蛇《くちなは》なり。※［＃「口＋阿」、第4水準2-4-5］呀《あなや》と見《み》る時《とき》、別《べつ》なるがまた頸《うなじ》を絡《まと》ひて左《ひだり》なるとからみ合《あ》ひぬ。恐《おそろ》しき聲《こゑ》をあげて淺尾《あさを》の呻《うめ》きしが、輪《わ》になり、棹《さを》になりて、同《おな》じほどの蛇《くちなは》幾條《いくすぢ》ともなく釜《かま》の中《なか》より蜿《うね》り出《い》でつ。細《ほそ》く白《しろ》き手《て》を※［＃「てへん＋爭」、第4水準2-13-24］《もが》きて、其《そ》の一條《ひとすぢ》を※［＃「てへん＋蚤」、第3水準1-84-86］※［＃「てへん＋國」、第3水準1-84-89］《かいつか》み、アと云《い》ひさま投《な》げ棄《す》てつ。交《かは》る／″＼取《と》つて投《な》げしが、はずみて、矢《や》の如《ごと》くそれたる一條《ひとすぢ》、土間《どま》に居給《ゐたま》ひたる母上《はゝうへ》の、袖《そで》もてわれを抱《いだ》きてうつ向《む》き給《たま》ひし目《め》の前《さき》にハタと落《お》ちたるに、フト立《た》ちて歸《かへ》りたまひき。
　此時《このとき》其役《そのやく》勤《つとめ》し後《のち》、渠《かれ》はまた再《ふたゝ》び場《ぢやう》に上《のぼ》らざるよし。蛇責《へびぜめ》の釜《かま》に入《い》りしより心地《こゝち》惡《あし》くなりて、はじめは唯《たゞ》引籠《ひきこも》りしが、俳優《やくしや》厭《いや》になりぬとて罷《や》めたるなり。やゝ物狂《ものぐる》はしくなりしよしなど、伯母上《をばうへ》のうはさしたまふ。
　何地《いづち》行《ゆ》きけむ。久《ひさ》しく其名《そのな》聞《きこ》えざりしが、此一座《このいちざ》に交《まじ》りて、再《ふたゝ》び市人《いちびと》の眼《め》に留《とま》りつ。彼《か》の時《とき》の俤《おもかげ》は、露《つゆ》ばかりも殘《のこ》り居《を》らで、色《いろ》も蒼《あを》からず、天窓《あたま》兀《は》げたり。大聲《おほごゑ》に笑《わら》ひ調子高《てうしだか》にものいひ、身輕《みがる》く小屋《こや》の中《なか》を馳《は》せ※［＃「廴＋囘」、第4水準2-12-11］《まは》りて獨《ひとり》快《こゝろよ》げなる、わが眼《め》にも此《この》をぢが、彼《か》の恐《おそろ》しき事《こと》したりとは見《み》えず。赤《あか》き顱卷《はちまき》向《むか》うざまにしめて、裾《すそ》を括《から》げ、片肌《かたはだ》脱《ぬ》ぎて、手《て》にせる菓子《くわし》の箱《はこ》高《たか》く捧《さゝ》げたるが其《そ》の銀六《ぎんろく》よ。

［＃７字下げ］五［＃「五」は中見出し］

「人氣《にんき》だい、人氣《にんき》だい。や、すてきな人氣《にんき》ぢや。お菓子《くわし》、おこし、小六《ころく》さん、小親《こちか》さん、小六《ころく》さんの人氣《にんき》おこし、おこしはよしか。お菓子《くわし》はよしか。」
　いまの能《のう》の品評《しなさだめ》［＃底本では「評」は「言＋怦のつくり」］やする、がう／＼と鳴《な》る客《きやく》の中《なか》を、勢《いきほ》ひよく賣《うり》ありきて、やがてわが居《ゐ》たる棧敷《さじき》に來《きた》りて、
「はい、これを。」
　と大《おほ》きく言《い》ひて、紙包《かみづつみ》にしたる菓子《くわし》をわが手《て》に渡《わた》しつ。
「樂屋《がくや》から差上《さしあ》げます。や、も、皆《みな》大喜《おほよろこ》び、數《かず》ならぬ私《わたくし》まで、はゝゝゝ。何《なん》てツてこれ坊《ぼつ》ちやんのやうなお小《ちひさ》いのが※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］晩《まいばん》見《み》て下《くだ》さる。當《とう》興行《こうぎやう》大當《おほあたり》、滅茶々々《めちや／＼》に面白《おもしろ》い。すてきに面白《おもしろ》い。おもしろ狸《たぬき》のきぬた卷《まき》でも、あんころ餅《もち》でも、鹿子餅《かのこもち》でも、何《なん》でもございぢや、はい、何《なん》でもござい、人氣《にんき》おこし、お菓子《くわし》はよしか。小六《ころく》さん、小親《こちか》さん、小六《ころく》さんの人氣《にんき》おこし、おこしはよしか。」と呼《よ》びかけて前《まへ》の棧敷《さじき》を跨《また》ぎ越《こ》ゆる。
　こゝに居《ゐ》て見物《けんぶつ》したるは、西洋手品《せいやうてじな》の一群《ひとむれ》なりし。顏《かほ》あかく、眼《まなこ》つぶらにて、頤《おとがひ》を髯《ひげ》に埋《うづ》めたる男《をとこ》、銀六《ぎんろく》の衣《きもの》の裾《すそ》むずと取《と》りて、
「何《なに》を！」と言《い》ひさま、三《み》ツ紋《もん》つきたる｜羽［＃底本では「羽」は「栩のつくり」］織《はおり》の片袖《かたそで》まくし揚《あ》げつゝ、
「何《なん》だ、小六《ころく》さん、小六《ころく》さんの人氣《にんき》おこしたあ何《なん》だ。」
「へい。」
「へいぢやあ無《な》い、小六《ころく》さんたあ何《なん》だ。客《きやく》の前《まへ》を何《なん》と心得《こゝろえ》てるんだ。獸《けだもの》め、乞食藝人《こじきげいにん》の癖《くせ》に樣《さま》づけに呼《よ》ぶ奴《やつ》があるもんか。汝《きさま》あ何《なん》だい、馬鹿《ばか》め！」
　と言《い》ふより早《はや》く拳《こぶし》をあげて、其胸《そのむね》のあたりをハタと撲《う》ちぬ。背後《うしろ》に蹌踉《よろ》けて澁面《じふめん》せしが、忽《たちま》ち笑顏《ゑがほ》になりて、
「許《ゆる》させられい、許《ゆる》させられい。」
　と身《み》を返《かへ》して遁《に》げ行《ゆ》きぬ。
　此時《このとき》、人聲《ひとごゑ》靜《しづ》まりて、橋《はし》がかりを摺足《すりあし》して、膏藥※［＃「糸＋柬」、第3水準1-90-14］《かうやくねり》ぞ出《い》で來《きた》れる。其《そ》の顏《かほ》は前《さき》にわれを引留《ひきと》めて、此處《こゝ》に伴《ともな》ひたる彼《か》の女《むすめ》に肖《に》［＃底本では「肖」は「悄のつくり」］たるに、弗《ふ》と背後《うしろ》を見《み》れば、別《べつ》なるうつくしき女《をんな》、何時《いつ》か來《き》て坐《すわ》りたり。黑髪《くろかみ》を束《つか》ねて肩《かた》に懸《か》けたるのみ、それかと見《み》れば、俤《おもかげ》は舞臺《ぶたい》なりし牛若《うしわか》の凜々《りゝ》しげなるには肖《に》で、いと優《やさ》しきが、涼《すゞ》しき目《め》もて、振向《ふりむ》きたるわが顏《かほ》をば見《み》し。打微笑《うちほゝゑ》みしまゝ未《いま》だものいはざるにソト頬摺《ほゝずり》す。われは舞臺《ぶたい》に見向《みむ》きぬ。
　背後《うしろ》見《み》らるゝ心地《こゝち》もしつ。
　やゝありて吸競《すひくら》べたる膏藥※［＃「糸＋柬」、第3水準1-90-14］《かうやくねり》の、西《にし》なる方《かた》吸寄《すひよ》せられて、不※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《ぶざま》に轉《こ》けかゝりたる※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》いと可笑《をかし》きに、われ思《おも》はず笑《わら》ひぬ。
「おもしろうござんすか。」
　と肩《かた》に手《て》をかけて潛《ひそ》めき問《と》ひぬ。
「よく來《き》て下《くだ》さいますね。一寸《ちよいと》、あの、これを。」
　渠《かれ》は先《さき》にわが投《な》げ棄《す》てし銀貨入《ぎんくわいれ》を手《て》にしつゝ、
「私《わたし》これ頂《いたゞ》いときますよ。ね、頂戴《ちやうだい》。可《よ》うござんすか。」
「あゝ。」
　また頷《うなづ》けば輕《かる》く頂《いたゞ》き、帶《おび》の間《あひだ》に挾《はさ》みしが、
「木戸《きど》のがね、お氣《き》に入《い》りませんだつたら叱《しか》ツて貰《もら》つてあげますから、腹《はら》を立《た》てないで※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］晩《まいばん》、※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］晩《まいばん》、入《い》らつしやいましな、ね。ちやんと此處《こゝ》を取《と》つて、私《わたし》の此《こ》のお蒲團《ふとん》敷《し》いてあげますわ。而《さう》してお前《まへ》さんの好《す》きなことをして見《み》せませう。何《なに》が可《い》いの、狂言《きやうげん》がおもしろいの。」
「いゝえ。」
「ぢやあ、お能《のう》の方《はう》なの。」
「牛若《うしわか》が可《い》いんだ、刀《かたな》持《も》つて立派《りつぱ》で可《い》いんだ。」
「さう。」と言《い》ひかけて莞爾《にこり》とせしが、見物《けんぶつ》は皆《みな》舞臺《ぶたい》を向《む》いたり。人《ひと》知《し》れずこそ、また一《ひと》ツ、爰《こゝ》にも野衾《のぶすま》居《ゐ》たりしよ。

［＃５字下げ］狂《きやう》言《げん》［＃「狂言」は大見出し］

［＃７字下げ］一［＃「一」は中見出し］

　見物《けんぶつ》みな立《た》ちたればわれも立《た》ちぬ。小親《こちか》が與《あた》へし緋鹿子《ひがのこ》の蒲團《ふとん》の上《うへ》に、廣《ひろ》き棧敷《さじき》の中《なか》に、小《ちひ》さき體《からだ》一《ひと》ツ再《また》こそ此時《このとき》※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］立《つゝた》ちたれ。扨《さて》いかにせむ。前《まへ》なるも、後《うしろ》なるも、左《ひだり》も右《みぎ》も、人波《ひとなみ》打《う》ちつゝどや／＼と動搖《どよ》み出《い》づる、土間《どま》棧敷《さじき》に五三｜人《にん》、此處《こゝ》彼處《かしこ》に出後《でおく》れしが、頭巾《づきん》被《かぶ》るあり、毛布《けつと》纒《まと》ふあり、下駄《げた》の包《つゝみ》提《さ》げたるあり、仕切《しきり》の板《いた》飛《と》び飛《と》びに越《こ》えて行《ゆ》く。木戸《きど》の方《かた》は一團《ひとかたまり》になりて、數百《すひやく》の人聲《ひとごゑ》推合《おしあ》へり。われは唯《たゞ》茫然《ばうぜん》として爲《せ》む術《すべ》を知《し》らざりき。
「おい、歸《かへ》らないか。」
　と聲《こゑ》を掛《か》け、仕切《しきり》の板《いた》に手《て》を支《つ》きて、われを呼《よ》びたるは國麿《くにまろ》なり。釦《ぼたん》三《み》ツばかり見《み》ゆるまで、胸《むね》を廣《ひろ》く※［＃「てへん＋蚤」、第3水準1-84-86］廣《かきひろ》げて、袖《そで》をも肱《ひぢ》まで捲《まく》し上《あ》げたる、燃立《もえた》つ如《ごと》き紅《くれないゐ》の襯衣《しやつ》着《き》たり。尻《しり》さがりに結《むす》べる帶《おび》、其色《そのいろ》此時《このとき》は紫《むらさき》にて、
「何《ど》うした、一所《いつしよ》に歸《かへ》らうな。」
「後《あと》から。」と低《ひく》く答《こた》へぬ。
　國麿《くにまろ》は不滿《ふまん》の色《いろ》して、
「だつて皆《みんな》歸《かへ》るぢやあないか。一人《ひとり》ぼツちで何《なに》しに殘《のこ》るんだ。」
「だつて、まだ、何《なん》だもの。」
　と尚《な》ほ猶豫《ためら》ひぬ。女《むすめ》來《き》て歸《かへ》れと言《い》はず、座蒲團《ざぶとん》このまゝにして、いかで、われ行《ゆ》かるべき。
　國麿《くにまろ》はものあり顏《がほ》に、
「可《い》いぢやあないか、一所《いつしよ》に歸《かへ》つたつて可《い》いぢやあないか。」
「だつて何《なん》だから……何《ど》うしたんだなあ。」
　只管《ひたすら》樂屋《がくや》の方《かた》打《うち》見遣《みや》る。國麿《くにまろ》は冷《ひやゝ》かなる笑《ゑみ》を含《ふく》み、
「用《よう》があるんか。誰《だれ》を待《ま》つてるか、おい。」
「誰《だれ》も待《ま》つてやしないんだ。」
「※［＃「口＋墟のつくり」、第3水準1-84-7］《うそ》を吐《つ》け。いまに誰《だれ》か來《く》るんだらう。云《い》つたつて可《い》いぢやないか。」
「誰《だれ》も來《く》るんぢやあないや。然《さ》うだけれど……困《こま》るなあ。」
「何《なに》を困《こま》るんだ。え、何《ど》うしたんだ。」
「何《ど》うもしないさ。」
「ぢやあ困《こま》る事《こと》はないぢやあないか。な、一所《いつしよ》に歸《かへ》らうと云《い》ふに。」
　顏《かほ》の色《いろ》變《かは》りたれば恐《おそろ》しくなりぬ。兎《と》も角《かく》も成《な》らば成《な》れ、ともに歸《かへ》らむか。鳥居前《とりひまへ》のあたりにて、如何《いか》なる事《こと》せむも計《はか》られずと思《おも》ひて逡巡《しゆんじゆん》するに、國麿《くにまろ》は早《は》や肩《かた》を揚《あ》げぬ。
「疾《はや》くしないかい、おい。」
「だつて何《なん》だから。」
「何《なに》が何《なん》だ、をかしいぢやあないか。」
「この座蒲團《ざぶとん》が……」
　國麿《くにまろ》はいま見着《みつ》けし顏《かほ》にて、
「や、すばらしい蒲團《ふとん》だなあ。すばらしいものだな、何《ど》うしたんだ。此蒲團《このふとん》は何《ど》うしたんだ。」
「敷《し》いてくれたの。」
「誰《だれ》が、と聞《き》くんだ、敷《し》いてくれたのは分《わか》つてらい。」
「お能《のう》のね、お能《のう》の女《をんな》。」
「ふむ、あんな奴《やつ》の敷《し》いたものに乘《の》つかる奴《やつ》が有《あ》るもんか。彼奴等《あいつら》、おい、皆《みんな》乞食《こじき》だぜ。踊《をど》つてな、謠《うた》唄《うた》つてな、人《ひと》に錢《ぜに》よウ貰《もら》つてる乞食《こじき》なんだ。内《うち》の父樣《おとつさん》なんかな、能《のう》も演《や》るぜ。む、謠《うたひ》も唄《うた》はあ。而《さう》して上手《じやうず》なんだ。而《さう》して然《さ》ういつてるんだ。眞個《ほんと》のな、お能《のう》といふのは男《をとこ》がするもんだ。男《をとこ》の能《のう》は眞個《ほんとう》の能《のう》だけれど、女《をんな》のは乞食《こじき》だ。そんなものが敷《し》いて寄越《よこ》した蒲團《ふとん》に乘《の》るとな、汚《けが》れるぜ。身《からだ》が汚《けが》れらあ。しちりけつぱいだ、退《ど》け！」
　踏《ふ》みこたへて、
「何《なに》をする。」
「何《なん》でえ、おりや士族《しぞく》だぜ。退《ど》け！」

［＃７字下げ］二［＃「二」は中見出し］

　國麿《くにまろ》は擬勢《ぎせい》を示《しめ》して、
「汝《きさま》平民《へいみん》ぢやあないか、平民《へいみん》の癖《くせ》に、何《なん》だ。」
「平民《へいみん》だつて可《い》いや。」
「ふむ、豪勢《がうせい》なことを言《い》はあ。平民《へいみん》も平民《へいみん》、汝《きさま》の内《うち》や藝妓屋《げいしやや》ぢやあないか。藝妓《げいしや》も乞食《こじき》も同一《おんなじ》だい。だから乞食《こじき》の蒲團《ふとん》になんか坐《すわ》るんだ。」
　われは恥《はづ》かしからざりき。娼家《しやうか》の兒《こ》と言《い》はるゝ※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］《ごと》に、不斷《ふだん》は面《おもて》を背《そむ》けたれど、恁《か》ういはれし此時《このとき》のみ、われは恥《はづか》しと思《おも》はざりき。見《み》よ、見《み》よ、一《ひと》たび舞臺《ぶたい》に立《た》たむか。小親《こちか》が輕《かろ》き身《み》の働《はたらき》、躍《をど》［＃底本では「躍」は「足へん＋櫂のつくり」］れば地《つち》に褄《つま》を着《つ》けず、舞《まひ》の袖《そで》の飜《ひるがへ》るは、宙《そら》に羽衣《はごろも》懸《かゝ》ると見《み》ゆ。長刀《なぎなた》かつぎてゆらりと出《い》づれば、手《て》に抗《た》つ敵《てき》の有《あ》りとも見《み》えず。足拍子《あしびやうし》踏《ふ》んで大手《おほで》を擴《ひろ》げ、颯《さつ》と退《ひ》いて、衝《つ》と進《すゝ》む、疾《と》きこと電《いなづま》の如《ごと》き時《とき》あり、見物《けんぶつ》は喝采《かつさい》［＃底本では「采」は「綵のつくり」］しき。輕《かろ》きこと鵞毛《がまう》の如《ごと》き時《とき》あり、見物《けんぶつ》は喝采《かつさい》しき。重《おも》きこと山《やま》の如《ごと》き時《とき》あり、見物《けんぶつ》は襟《えり》を正《たゞ》しき。うつくしきこと※［＃「示＋申」、第3水準1-89-28］《かみ》の如《ごと》き時《とき》あり、見物《けんぶつ》は恍惚《くわうこつ》たりき。かくても見《み》てなほ乞食《こじき》と罵《のゝし》る、然《さ》は乞食《こじき》の蒲團《ふとん》に坐《ざ》して、何等《なんら》疚《やま》しきことあらむ。われは傲然《がうぜん》として答《こた》へたり。
「可《い》いよ乞食《こじき》、乞食《こじき》だから乞食《こじき》の蒲團《ふとん》に坐《すわ》るんだ。」
「何《なん》でえ。」
　國麿《くにまろ》は眼《め》を圓《つぶら》にしつ。
「何《なん》でえ、乞食《こじき》だな、汝《きさま》乞食《こじき》だな、む、乞食《こじき》がそんな、そんな縮緬《ちりめん》の蒲團《ふとん》に坐《すわ》るもんか。」
「可《い》いよ、可《い》いよ、私《あたい》、私《あたい》はね、こんなうつくしい蒲團《ふとん》に坐《すわ》る乞食《こじき》なの。國《くに》ちやん、お菰《こも》敷《し》いてるんぢやないや。うつくしい蒲團《ふとん》に坐《すわ》る乞食《こじき》だからね。」
　國麿《くにまろ》は赤《あか》くなりて、
「何《なに》よウ言《い》つてんだい。おい貢《みつぎ》、汝《きさま》そんなこと言《い》つて可《い》いのかな、歸途《かへり》があるぜ。」
　威《おど》されてわれは其顏《そのかほ》を見《み》たり。舞臺《ぶたい》は暗《くら》くなりぬ。人《ひと》大方《おほかた》は立出《たちいで》ぬ。寒《さむ》き風《かぜ》場《ぢやう》に滿《み》ちて、釣《つり》洋燈《ランプ》三《み》ツ四《よ》ツ薄暗《うすぐら》き明《あかり》映《さ》すに心細《こゝろぼそ》くこそなりけれ。
「歸途《かへり》があるつて。歸途《かへり》が何《ど》うしたの、國《くに》ちやん。」
　國麿《くにまろ》は嘲笑《あざわら》へり。
「知《し》つてるだらう。鳥居前《とりゐまへ》の俺《おれ》が關《せき》を知《し》つてるだらう。」
　手下《てした》四五｜人《にん》、稻葉太※［＃「螂－虫」、第3水準1-92-71］《いなばたらう》荒象園《くわうざうゑん》の鬼門《おにかど》彼處《かしこ》に有《あ》りて威《ゐ》を恣《ほしいまゝ》にす。われは默《もく》して俯向《うつむ》きぬ。國麿《くにまろ》はじりゝと寄《よ》りて、
「皆《みんな》知《し》つてるぜ、おい、皆《みんな》見《み》て居《ゐ》たぜ。汝《きさま》婦人《をんな》とばかり仲好《なかよ》くして、先刻《さつき》もおれを見《み》て知《し》らない顏《かほ》して談話《はなし》してたぢやあないか。然《さ》うするが可《い》いや、うむ、たんと然《さ》うするさ。」
「國《くに》ちやん、堪忍《かんにん》おし。」
「へ、あやまるかい。うむ、あやまるなら可《い》いや。ぢやあ可《い》いから、な、其《その》座蒲團《ざぶとん》に一寸《ちよつと》己《おれ》をのツけてくれないか、其處《そこ》を退《ど》いて。さあ、」
　國麿《くにまろ》はヌト立《た》ちつゝ、褄《つま》取《と》りからげて、足《あし》を、小親《こちか》がわれに座《ざ》を設《まう》けし緋鹿子《ひがのこ》に乘《の》せんとす。止《や》むなく、少《すこ》しく身《み》を退《ひ》きしが、唯《と》見《み》れば足袋《たび》を穿《は》きもせで、そこら跣足《はだし》にてあるく男《をとこ》の、足《あし》の裏《うら》太《いた》く汚《よご》れて見《み》ゆ。こゝに乘《の》せなばあとつけなむ、土足《どそく》に此《こ》の優《やさ》しきもの踏《ふ》ますべきや。
「いけないよ。」
「何《なん》だ……」
　覺悟《かくご》したれば身《み》を交《かは》して、案《あん》の如《ごと》く踵《かゝと》をあげたる、彼《かれ》が足蹴《あしげ》をば外《そら》してやりたり。蒲團《ふとん》持《も》ちながら座《ざ》を立《た》ちたれば、拳《こぶし》の楯《たて》に差翳《さしかざ》して。

［＃７字下げ］三［＃「三」は中見出し］

「あら。」
　國麿《くにまろ》の手《て》は弛《ゆる》みぬ。われは摺拔《すりぬ》けて傍《かたへ》に寄《よ》りぬ。
「否《いや》です、否《いや》です、あなたは否《いや》です。」
　緋鹿子《ひがのこ》の片隅《かたすみ》に手《て》を添《そ》へて、小親《こちか》われを庇《かば》うて立《た》ちぬ。國麿《くにまろ》は目《め》を怒《いか》らしたり。其帶《そのおび》は紫《むらさき》なり、其襯衣《そのしやつ》は紅《くれなゐ》なり。緋鹿子《ひがのこ》の座蒲團《ざぶとん》は、われと小親《こちか》片手《かたて》づゝ掛《か》けて、右左《みぎひだり》に立護《たちまも》りぬ。小親《こちか》此時《このとき》は樂屋着《がくやぎ》の裾《すそ》長《なが》く緋縮緬《ひぢりめん》の下着《したぎ》踏《ふ》みしだきて、胸高《むなだか》に水色《みづいろ》の扱帶《しごき》まとひたり。髪《かみ》をばいま引束《ひきたば》ねつ。優《やさ》しき目《め》の裡《うち》凛《りん》として、
「もし、旦那樣《だんなさま》、あの、乞食《こじき》の蒲團《ふとん》は、否《いや》です、私《わたし》が貴方《あなた》にや敷《し》かせないの。私《わたし》の蒲團《ふとん》です。渡《わた》すことはなりません。」
　と聲《こゑ》最《い》とすゞしくいひ放《はな》てり。
「よく敷《し》かせないで下《くだ》さいました。お前《まへ》さん、何處《どこ》も何《なん》ともないかい。酷《ひど》いよ、亂暴《らんばう》ツちやあない。よくねえ、よく庇《かば》つて下《くだ》すツたのね。樂屋《がくや》で皆《みんな》がせりあつて、やう／＼私《わたし》が、あの私《わたし》のを上《あ》げたんですもの。他人《ひと》に敷《し》かれて堪《たま》るものかね、お歸《かへ》りよ、お歸《かへ》り遊《あそ》ばせよ。あなた！」
「何《なん》でえ、乞食《こじき》の癖《くせ》に、失敬《しつけい》な、失敬《しつけい》ぢやあないか。お客《きやく》に向《むか》ツて歸《かへ》れたあ何《なん》だい。」
「おからだの汚《けがれ》になります。ねえ。」
　とわが顏《かほ》に※［＃「夾＋頁」、第3水準1-93-90］《ほゝ》をあてて、瞳《ひとみ》は流《なが》るゝ如《ごと》く國麿《くにまろ》を流眄《しりめ》に掛《か》く。國麿《くにまろ》は眉《まゆ》を動《うご》かし、
「馬鹿《ばか》、年增《としま》の癖《くせ》に、ふむ、赤《あか》ン坊《ばう》に惚《ほ》れやがつたい。」
「え、」
　と顏《かほ》を赧《あか》らめしが、
「何《なん》ですねえ、存《ぞん》じません。何《なん》の、贔屓《ひいき》になすつて下《くだ》さるお客樣《きやくさま》を大事《だいじ》に爲《し》たつて、何《なに》が、何《なに》が、をかしうござんすえ。」
「をかしいや、そんな小《ち》ツぽけなお客樣《きやくさま》があるもんか。」
「あら、私《わたし》ばツかりぢやありません。※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、570-14］《ねえ》さんだツて、然《さ》ういひました。そりや御贔屓《ごひいき》になすツて下《くだ》さるお客《きやく》も多《おほ》いけれど、何《なん》の氣《き》なしに唯《たゞ》おもしろがつて見《み》て下《くだ》さるのは此《こ》のお兒《こ》ばかり。あなた御存《ごぞん》じないんでせう。當座《こちら》ではじめてから※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］晩《まいばん》、※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］晩《まいばん》來《き》て下《くだ》すつて、あの可愛《かはい》らしい顏《かほ》をして傍見《わきみ》もしないで見《み》て居《ゐ》て下《くだ》さるぢやありませんか。此《この》お年紀《とし》で、お一人《ひとり》で、行儀《ぎやうぎ》よく｜終［＃底本では「終」は「糸＋冬」の「冬－夂」に代えて「冫」］番《しまひ》まで御覽《ごらん》なすつて、欠伸《あくび》一《ひと》ツ遊《あそ》ばさない。
　手品《てじな》ぢやアありません、獨樂《こま》※［＃「廴＋囘」、第4水準2-12-11］《まは》しぢや有《あ》りません。玉乘《たまのり》でも、猿芝居《さるしばゐ》でも、山雀《やまがら》の藝《げい》でもないの。狂言《きやうげん》なの、お能《のう》なの、謠《うたひ》をうたふの、母樣《おつかさん》に連《つ》れられて、お乳《ちゝ》をあがつて在《い》らつしやる方《かた》よりほか、こんな罪《つみ》のない小兒衆《こどもしう》のお客樣《きやくさま》がもウ一人《ひとり》ござんすか。
　目《め》につきました、目立《めだ》ちました。他《ほか》のお客樣《きやくさま》には何《ど》うであらうと、此《こ》の坊《ぼつ》ちやんだけにや飽《あ》かしたくない。退屈《たいくつ》をさしたくない、三十｜日《にち》なり、四十｜日《にち》なり、打《う》ち通《とほ》すあひだ來《き》ていたゞきたい、おもしろう見《み》せてあげたいと、然《さ》う思《おも》つたが何《ど》うしました。……
　眞個《ほんとう》に藝人冥利《げいにんみやうり》、恁《か》ういふ御贔屓《ごひいき》を大事《だいじ》にするは當前《あたりまへ》でござんせんか。しのぶも、小稻《こいな》も、小幾《こいく》も、重子《しげこ》も、みんな弟子分《でしぶん》だから控《ひか》へさして、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、571-11］《ねえ》さんのをと思《おも》つたけれど、私《わたし》の方《はう》が少《わか》いからお對手《あひて》に似合《にあ》ふといふので、私《わたし》の座蒲團《ざぶとん》をあげたんですわ。何《なに》も年增《としま》だの、何《なん》のつて、貴方《あなた》に、そ、そんなことを言《い》はれる覺《おぼ》えはない！」
　と太《いた》く氣色《けしき》ばみ言《い》ひ開《ひら》きし。聲高《こわだか》なりしを怪《あやし》みけむ。小稻《こいな》、小幾《こいく》、重子《しげこ》など、狂言囃子《きやうげんばやし》の女《をんな》ども、樂屋口《がくやぐち》より出《い》で來《きた》りて、はらりと舞臺《ぶたい》に立《た》ちならべる、大方《おほかた》あかり消《け》したれば、手《て》に手《て》に白《しろ》と赤《あか》との小提灯《こぢやうちん》、「て」「り」「は」と書《か》けるを提《ひつさ》げたり。

［＃７字下げ］四［＃「四」は中見出し］

　舞臺《ぶたい》なりし裝束《しやうぞく》を脱替《ぬぎか》へたるあり、未《ま》だなるあり、烏帽子《ゑぼし》直垂《ひたたれ》着《つ》けたるもの、太※［＃「螂－虫」、第3水準1-92-71］冠※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《たらうくわじや》あり、大名《だいみやう》あり、長上下《なががみしも》を着《き》たるもの、髪《かみ》結《ゆ》ひたるあり、垂《た》れたるあり。十八九を頭《かしら》にて七歳《なゝつ》ばかりのしのぶ［＃「しのぶ」に傍点］まで、七八｜人《にん》ぞ立《たち》ならべる。
「何《ど》うしたの、何《ど》うしたの。」
　と赤《あか》き小提灯《こぢやうちん》さしかざし、浮足《うきあし》してソト近寄《ちかよ》りたる。國麿《くにまろ》の傍《わき》に、しのぶの何心《なにごころ》なく來懸《きかゝ》りしが、
「あれ。」
　恐《おそろ》しき顏《かほ》して睨《ね》めつけながら、鼻《はな》の前《さき》にフゝと笑《わら》ひて、
「何《なに》か言《い》つてらい、おたふくめ。」
　と言棄《いひす》てに身《み》を返《かへ》すとて、國麿《くにまろ》は太《ふと》き聲《こゑ》して、
「貢《みつぎ》！」
「牛若《うしわか》だねえ。」
　とて小親《こちか》、兩袖《りやうそで》を以《も》てわが背《せな》蔽《おほ》ひぬ。
「覺《おぼ》えて居《を》れ、鳥居前《とりゐまへ》は安宅《あたか》の關《せき》だ。」
　と肩《かた》を搖《ゆす》りて嘲笑《せゝらわら》へる、渠《かれ》は少《すこ》しく背《せ》屈《かゞ》みながら、紅《くれなゐ》の襯衣《しやつ》の袖《そで》二《ふた》ツ、むらさきの帶《おび》に※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］插《つきさ》しつゝ、腰《こし》を振《ふ》りてのさりと去《さ》りぬ。
「濟《す》まなかつたね、みつぎさん、お前《まへ》さん、貢《みつぎ》さんて言《い》ふの？」
「あゝ。」
「樂屋《がくや》に少《すこ》し取込《とりこ》みが有《あ》つたものだから、一人《ひとり》にして置《お》いて飛《と》んだめに逢《あ》はせたこと。氣《き》が着《つ》いて、惡《わる》いことをしたと思《おも》つて、急《いそ》いで來《き》て見《み》ると如彼《あゝ》だもの。よくねえ、そして、あの方《かた》はお友達《ともだち》？」
「友達《ともだち》になれツていふのよ。」
「おや、さう。しない方《はう》が可《い》いよ。可厭《いや》な人《ひと》つちやあ無《な》い。それでもよく蒲團《ふとん》を敷《し》かせないで下《くだ》すツた。それは私《わたし》や嬉《うれ》しいけれど、もしお前《まへ》さん疵《きず》でも着《つ》けられちや大變《たいへん》だのに、何《ど》うして、何故《なぜ》敷《し》かせて遣《や》らなかつたの。」
「だツて、あんな汚《きたな》い足《あし》をつけられると、この蒲團《ふとん》が可哀《かはい》さうだもの。きれいだね、きれいな座蒲團《ざぶとん》、可愛《かはい》んだねえ。」
　眞中《まんなか》を絞《しぼ》りて、胸《むね》に抱《いだ》き、斜《なゝめ》に※［＃「夾＋頁」、第3水準1-93-90］《ほゝ》を押當《おしあ》つるを、小親《こちか》見《み》て、慌《あわたゞ》しく、
「あら、そんな事《こと》をなすツちや、お前《まへ》さんの顏《かほ》に。まあ、勿體《もつたい》ない。」
　とて白《しろ》き掌《たなそこ》もて拭《ぬぐ》ふ眞似《まね》せり。
「あの眞個《ほんと》に、※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］晩《まいばん》入《い》らつしやいよ。私《わたし》もついあんな事《こと》を云《い》つたんだから、彼《あ》の人《ひと》につけても、お前《まへ》さんが※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］晩《まいばん》來《き》てくれなくツちや極《きまり》が惡《わる》いわ。後生《ごしやう》ですよ。其《そ》の代《かは》り、この蒲團《ふとん》は、誰《だれ》の手《て》も觸《さは》らせないで恁《か》うやつて、」
　二隅《ふたすみ》を折《を》りて襟《えり》をば※［＃「てへん＋蚤」、第3水準1-84-86］《かい》あけ、胸《むね》のあたりいと白《しろ》きに其紅《そのくれなゐ》を推入《おしい》れながら、
「かうやつて、お守《まもり》にしておくの。さうしちや暖《あつた》めて置《お》いて、入《い》らつしやる時《とき》敷《し》かせますからね、屹度《きつと》よ。」
「あゝ。」
「眞個《ほんとう》かい。」
「きつと！」
「嬉《うれ》しいねえ。」と莞爾《にこり》として、
「ぢやあね、晩《おそ》くなりましたから今夜《こんや》はお歸《かへ》んなさいな。母樣《おつかさん》がお案《あん》じだらうから。」
　母《はゝ》はあらず。
「母樣《おつかさん》ぢやあないの。伯母《をば》さんなの。」
「おや、母樣《おつかさん》ないの。」
「亡《な》くなつたの、また入《い》らつしやるんだツて、皆《みんな》さう云《い》ふけれど、※［＃「口＋墟のつくり」、第3水準1-84-7］《うそ》なの。もうお歸《かへ》りぢやない、亡《な》くなつてしまつたんだ。」
「まあ。」と言《い》ひかけて再《また》瞻《みまも》りしが、頷《うなづ》く※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》にて、
「ぢやあ其《その》伯母《をば》さんがお案《あん》じだらうから、私《わたし》が送《おく》つて行《い》つてあげませう、ね。鳥居前《とりゐまへ》ツて言《い》ふのは何處《どこ》？待伏《まちぶせ》をしてると不可《いけな》いから。」
「直《ぢき》、其處《そこ》だよ。」

［＃７字下げ］五［＃「五」は中見出し］

「わけ無《な》しだね。ちよいと衣物《きもの》を着替《きか》へて來《く》るから待《ま》つて入《い》らつしやいよ。小稻《こいな》さん、遊《あそ》ばしてあげておくれ。」
「はい。」
　ばら／＼と女《をんな》ども五六｜人《にん》、二人《ふたり》を中《なか》に取卷《とりま》きたり。小稻《こいな》と云《い》ふが先《ま》づ笑《わら》ひて、
「若《わか》お師匠樣《ししやうさま》、おめでたう存《ぞん》じます、おほゝゝゝゝ。」
　小親《こちか》は素知《そし》らぬ顏《かほ》したり。重子《しげこ》といふが寄添《よりそ》ひつゝ、
「ちよいと、何《なに》がおめでたいのさ。」
「おや、迂濶《うつかり》だねえ。知《し》らないのかい。」
「はあ、何《なん》ですか。」
「何《なん》ですか存《ぞん》じませんが、小稻《こいな》さんのいひますとほり、若《わか》お師匠樣《ししやうさま》、おめでたうございます。」
　傍《かたはら》より小幾《こいく》がいふ。小松《こまつ》がまた引取《ひきと》りて、
「私《わたし》もお※［＃「示＋兄」、第3水準1-89-27］《いは》ひ申《まを》しますわ。」
「それでは私《わたし》も。あの、若《わか》お師匠樣《ししやうさま》おめでたう存《ぞん》じます。」
　小親《こちか》は取卷《とりまか》れてうろ／＼しながら、
「お前達《まへたち》は何《なに》をいふのだ。」
「何《なん》でも、おめでたいに違《ちが》ひませんもの。」
「※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、576-12］《ねえ》さん、何《なん》なの、何《ど》うしたの。」
　と差出《さしい》でて、しのぶの問《と》ひければ、小稻《こいな》は靜《しづか》に頷《うなづ》きて、
「お前《まへ》は嬰兒《ねんねえ》だから解《わか》るまいね、知《し》らない道理《わけ》だから言《い》つて聞《き》かせよう、あのね、若《わか》お師匠樣《ししやうさま》にね、御亭主《だんなさま》が出來《でき》たの。」
　大勢《おほぜい》、
「おや／＼／＼／＼。」
　小親《こちか》は顏《かほ》を赧《あか》らめたり。
「知《し》らないよ！」
　小稻《こいな》また立懸《たちかゝ》り、
「お祕《かく》し遊《あそ》ばしても不可《いけ》ません。而《さう》して若《わか》お師匠樣《ししやうさま》、あなた最《も》うお兒樣《こさま》が出來《でき》ましたではございませんか。」
「へい。」
「何《なに》を言《い》ふのだね。」
「爭《あらそ》はれませんものね。最《も》うおなかが大《おほ》きくおなり遊《あそ》ばしたよ。」
「む、此《これ》かえ。」と俯向《うつむ》きて、胸《むね》を見《み》て、小親《こちか》は艷麗《あでやか》に微笑《ゑみ》を含《ふく》みぬ。
　一同《いちどう》目《め》を着《つ》け、
「ほんにね。おや／＼！」
「だから、こ芽出《めで》たからうではないの。」
「そして旦那樣《だんなさま》は何方《どなた》でございます。」
「馬鹿《ばか》だねえ、※［＃「口＋墟のつくり」、第3水準1-84-7］《うそ》だよ。」
「それでは何《なん》でございます、何《ど》うしてそんなにお成《な》り遊《あそ》ばしたの。」
「何《なん》でもないのさ、知《し》らないツて言《い》ふのに。」
「いえ、御存《ごぞん》じないでは濟《す》みません。あなた私《わたし》たちにお隱《かく》し遊《あそ》ばしては水※［＃「嗅のつくり」、第3水準1-90-56］《みづくさ》いぢやアありませんか。是非《ぜひ》何卒《どうぞ》、何誰《どなた》でございますか聞《き》かして下《くだ》さいましな。」
「若《わか》お師匠樣《ししやうさま》、何卒《どうぞ》私《わたくし》にも。」
「私《わたくし》にも。」
「うるさいね、いま一寸《ちよいと》出懸《でか》けるんだから。」
「いえ、お身持《みもち》で夜《よ》あるきを遊《あそ》ばすのはお毒《どく》でございます。それはお出《だ》し申《まを》されません。ねえ？」
「お身體《からだ》に障《さは》りましては大變《たいへん》ですとも。何《ど》うして、何《ど》うして、お出《だ》し申《まを》すことではございませんよ。」
「うるさいよ、詰《つま》らない。」
「ぢやあお見《み》せ遊《あそ》ばせ、一寸《ちよいと》其《その》お腹《なか》ン處《とこ》を、お見《み》せ遊《あそ》ばせ。」
「然《さ》うはゆかない、ほゝゝゝゝ。」
「擽《くすぐ》りますよ！」
「然《さ》うはゆかない、あれ！」
　と言《い》ふより身震《みぶるひ》せしが、俯伏《うつむけ》にゆらめく插頭《かんざし》、眞白《ましろ》き頸《うなじ》、手《て》と手《て》の間《あひだ》を拔《ぬ》けつ、潛《くゞ》りつ、前髪《まへがみ》ばらりとこぼれたるが仰《の》けざまに倒《たふ》れかゝれる、裳《もすそ》蹴返《けかへ》し踵《かゝと》を空《そら》に、下着《したぎ》の紅《くれなひ》宙《ちう》を飛《と》びて、技利《わざきゝ》のことなれば、二｜間《けん》ばかり隔《へだた》りたる舞臺《ぶたい》にひらりと飛《と》び上《あが》りつ。すらりと立《た》つて向直《むきなほ》り、胸《むね》少《すこ》し※［＃「てへん＋蚤」、第3水準1-84-86］《かい》あけて、緋鹿子《ひがのこ》の座蒲團《ざぶとん》の片端《かたはし》見《み》せて指《ゆび》さしたり。
「稻《いな》ちやん、此《こ》のことかい。」
「は。」と小稻《こいな》は前《まへ》に出《い》でて、
「もうお幾月《いくつき》ぐらゐ？」
「さやうさ、九《こゝの》ツ十《とを》……」とばかり、小親《こちか》われを見《み》てまた微笑《ほゝゑ》みぬ。

［＃７字下げ］六［＃「六」は中見出し］

「さあ、こん度《ど》は坊《ぼつ》ちやんの番《ばん》だよ。」
　とて、小稻《こいな》つツと差寄《さしよ》りつゝ、
「坊《ぼつ》ちやん、お相手《あひて》をいたしませうね。何《なに》をして遊《あそ》びませう。」
　われは默《もく》して言《い》はざりき。
「おや、私《わたし》ではお氣《き》に入《い》らないさうだよ。重子《しげこ》さん、一寸《ちよいと》お前《まへ》伺《うかゞ》つて御覽《ごらん》。」
「はい。」と進《すゝ》み、「さあお相手《あひて》。」と言《い》ふ。
「そんな藪《やぶ》から棒《ぼう》な挨拶《あいさつ》がありますか！」
「おや！おや！」と退《の》いたるあと、小松《こまつ》なるべし立替《たちかは》れり。
「私《わたし》では不可《いけ》ませんか。」
「遊《あそ》ばなくツてもいゝ。」
「まあ、素氣《そつけ》なくツていらつしやる。」
　小稻《こいな》は笑《わら》ひぬ。
「坊《ぼつ》ちやん、私《わたし》にね、そつと内證《ないしよう》でおつしやいな、小親《こちか》さんが、あの、坊《ぼつ》ちやんに何《なに》かいつたでせう。」
「言《い》はない。」
「うまくおつしやるのよ、可愛《かはい》い坊《ぼつ》ちやんだツて、然《さ》ういつたでせう。」
「あゝ、言《い》つた。」
　皆《みな》どつと笑《わら》ひたり。
「驚《おどろ》きましたね、そして何《なん》でせう。あの、外《ほか》の女《をんな》と遊《あそ》ぶ事《こと》はなりませんて、然《さ》う言《い》やあしませんか。」
　然《さ》ることは聞《き》かざりき。
「そんなこと、言《い》やあしないや。」
「あら、お隱《かく》し遊《あそ》ばすと擽《くすぐ》りますよ。」
「眞個《ほんとう》、そんなこと聞《き》きやしない。」
「それぢや堪忍《かんにん》してあげますから、今度《こんど》は祕《かく》さないで有仰《おつしや》いよ。あのね、坊《ぼつ》ちやんは※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］晩《まいばん》入《い》らつしやいますが、何《なに》が第一《いつち》お氣《き》に入《い》つたの。」
「牛若《うしわか》が可《い》いんだ。そしてお獅子《しし》も可《い》いんだ。」
「ぢやあ小親《こちか》さんが可《い》いんですね。うつくしいからお氣《き》に入《い》つたんでせう。え、坊《ぼつ》ちやん。」
「立派《りつぱ》で可《い》いんだ。刀《かたな》さげて、立派《りつぱ》で可《い》いんだ。」
「うそをおつしやい。綺麗《きれい》だから可《い》いんですわ。」
「いゝえ。」
「だつて、それではお能《のう》の裝束《しやうぞく》しないで居《ゐ》る時《とき》はお氣《き》にや入《い》りませんか。今《いま》なんざ、あんな、しだらない裝《なり》をして居《ゐ》たぢやありませんか。」
　われは考《かんが》へぬ。いかに答《こた》へて可《よ》からむ。言《い》ひ損《そこな》はば笑《わら》はるべし。
「やつぱり可《い》いんでせう。ね、それ御覽《ごらん》なさい。美女《きれい》だからだよ。坊《ぼつ》ちやんは小親《こちか》さんに惚《ほ》れたのね。」
　皆《みな》哄《どつ》と笑《わら》ふ。
「惚《ほ》れやしない、惚《ほ》れるもんか。」
「だつてお氣《き》に入《い》つたんでせう。佳《い》い人《ひと》だと思《おも》ふんでせう。」
「あゝ。」
　また聲《こゑ》をあげて笑《わら》ひしが、
「ぢやあ惚《ほ》れたもおんなじだわ。」
「あら／＼、惚《ほ》れたの、をかしいなあ。」
　しのぶ手《て》を拍《たゝ》きて遁《に》げながら言《い》ふ。
　哄《どつ》と笑《わら》ひて、左右《さいう》より立懸《たちかゝ》り、小稻《こいな》と重子《しげこ》と手《て》と手《て》を組《く》みつゝ、下《した》より掬《すく》ひて、足《あし》をからみて、われをば宙《ちう》に舁《か》いて乘《の》せつ。手《て》の空《あ》いたるが後前《あとさき》に、「て」「り」「は」の提灯《ちやうちん》ふりかざし、假花道《かりはなみち》より※［＃「糸＋柬」、第3水準1-90-14］出《ねりいだ》して、
［＃ここから４字下げ］
（お手々《てゝ》の手車《てぐるま》に誰樣《だれさん》乘《の》せた。）
（若《わか》いお師匠樣《ししやうさん》の婿樣《むこさん》乘《の》せた。）
（二階《にかい》棧敷《さじき》の坊《ぼつ》ちやん乘《の》せた。）
［＃ここで字下げ終わり］
　と口々《くち／″＼》に唄《うた》ひつれて舞臺《ぶたい》を橫《よこ》ぎり、花道《はなみち》にさしかゝる。ものうければ下《おろ》せとて、上《うへ》にてあせるを許《ゆる》さばこそ。小稻《こいな》はわが顏《かほ》を仰向《あをむ》き見《み》て、
「坊《ぼつ》ちやんも何《なん》ぞお唄《うた》ひなさい。然《さ》うすると下《おろ》してあげます。」
　止《や》むなく聲《こゑ》あげてうたひたり。
［＃ここから４字下げ］
（一夜《いちや》源《げん》の助《すけ》がまけたに借《か》りた、）
（負《ま》けたかりたはいくらほど借《か》りた。）
（金子《かね》が三兩《さんりやう》に小袖《こそで》が七《なゝ》ツ、）
（七《なゝ》ツ七《なゝ》ツは十四《じふし》ぢやあないか。……）
［＃ここで字下げ終わり］
　しのぶは聲《こゑ》を合《あは》せてうたひぬ。
［＃ここから４字下げ］
（下谷《したや》一番《いちばん》伊達※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《だてしや》でござる。）
（五兩《ごりやう》で帶《おび》を買《か》うて三兩《さんりやう》で絎《く》けて、）
（絎目々々《くけめ／＼》に七房《なゝふさ》さげて。）
［＃ここで字下げ終わり］
　木戸《きど》の外《そと》には小親《こちか》ハヤわれを待《ま》ちて、月《つき》を仰《あふ》ぎて彳《たゝず》みたり。

［＃５字下げ］夜《よる》の辻《つじ》［＃「夜の辻」は大見出し］

［＃７字下げ］一［＃「一」は中見出し］

　頭巾《づきん》着《き》て肩掛《シヨオル》引絡《ひきまと》へる小親《こちか》が立姿《たちすがた》、月下《げつか》に斜《なゝめ》なり。橫《よこ》向《む》きて目《め》迎《むか》へたれば衝《つ》と寄《よ》りぬ。立並《たちなら》べば手《て》を取《と》りて、
「寒《さむ》いこと、此處《こゝ》へ。」
　とて、左《ひだり》の袖下《そでした》※［＃「てへん＋蚤」、第3水準1-84-86］開《かいひら》きて、右手《めて》を添《そ》へて引入《ひきい》れし、肩掛《シヨオル》のひだしと／＼と重《おも》たくわが肩《かた》に懸《かゝ》りたり。冷《つめ》たき帶《おび》よ。其肩《そのかた》のあたりに熱《ねつ》したる※［＃「夾＋頁」、第3水準1-93-90］《ほゝ》を撫《な》でて、時計《とけい》の鎖《くさり》輝《かゞや》きぬ。
「向《むか》うなの、貢《みつぎ》さんの家《うち》は。」
　衣《きぬ》ずれの音《おと》立《た》てて、手《て》をあげてぞ指《ゆび》さし問《と》ひたる。霞《かすみ》ケ峰《みね》の半腹《はんぷく》に薄《うす》き煙《けむり》［＃底本では「煙」は「ひへん＋（西／土）」］めぐりたり。頂《いたゞき》の松《まつ》一本《ひともと》、濃《こ》く黑《くろ》き影《かげ》あざやかに、左《ひだり》に傾《かたむ》きて枝《えだ》垂《た》れたり。頂《いたゞき》の兀《は》げたるあたり、土《つち》の色《いろ》も白《しろ》く見《み》ゆ。雜木《ざふき》ある處《ところ》だんだらに隈《くま》をなして、山《やま》の腰《こし》遠《とほ》く瓦屋根《かはらやね》の上《うへ》にて隱《かく》れ、二町《ふたまち》越《こ》えて、流《ながれ》の音《おと》もす。
　東《ひがし》より西《にし》の此方《こなた》に、二《ふた》ならび兩側《りやうがは》の家軒《いへのき》暗《くら》く、小《ちひ》さき月《つき》に霜《しも》凍《い》てて、冷《つめ》たき銀《しろがね》敷《し》き詰《つ》めたらむ、踏心地《ふみごこち》堅《かた》く、細《ほそ》く長《なが》き此《こ》の小路《こうぢ》の中《なか》を橫截《よこぎ》りて、廂《ひさし》より軒《のき》にわたりたる、わが青楓《あをかへで》眼前《めさき》にあり。
「彼處《あそこ》、あの樹《き》のある内《うち》。」
「近《ちか》いのね。」
　と※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］《ほ》を移《うつ》す、駒下駄《こまげた》の音《おと》先《ま》づ高《たか》く堅《かた》き音《おと》して、石《いし》に※［＃「響」の「即のへん」に代えて「喞－口－卩」、第3水準1-93-86］《ひゞ》きて辻《つじ》に鳴《な》りぬ。
「大分《だいぶ》晩《おそ》くなつたね、伯母《をば》さんが嘸《さぞ》お案《あん》じだらうに、惡《わる》いことをしたよ。貢《みつぎ》さん、直《ぢき》送《おく》つてあげれば可《よ》かつたのに、早《はや》いと人《ひと》だかりがして煩《うるさ》いので、つい。」
「否《いゝえ》、案《あん》じてやしないよ。遊《あそ》びに出《で》て居《ゐ》ると伯母《をば》さんは喜《よろこ》ぶよ。」
「何《ど》うして？まあ。」
　小親《こちか》は身《み》を屈《かゞ》めてわが耳《みゝ》を覗《のぞ》いて聞《き》く。
「皆《みんな》で、餘所《よそ》の叔父《をぢ》さんと、兄《にい》さんと、染《そめ》ちやんと、皆《みんな》でね、お酒《さけ》を飮《の》んで而《さう》して遊《あそ》んで居《ゐ》るの、賑《にぎや》かだよ。私《あたい》ばかり寂《さび》しいの、一所《いつしよ》に遊《あそ》びたいんだけれど、お寢《ね》、お寢《ね》つて言《い》ふもの。」
　小親《こちか》はまた※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］行《ある》きかけつゝ、
「それはね、貢《みつぎ》さんが睡《ねむ》がる故《せゐ》でせう。」
「然《さ》うぢやあなくツて、私《あたい》床《とこ》ン中《なか》に入《はひ》つてからね、母樣《おつかさん》が居《ゐ》なくツて寂《さび》しくツて寢《ね》られないんだ。伯母《をば》さんも、染《そめ》ちやんも、餘所《よそ》の人《ひと》も皆《みんな》おもしろさうだよ。賑《にぎや》かなの。私《あたい》一人《ひとり》寂《さび》しいんだ。」
「さうかい。」
「鼠《ねずみ》が出《で》て騷《さわ》ぐよ。ぐわた／＼ツて、……恐《こは》いよ。」
「まあ。」
「恐《こは》かつたよ、それでね、私《あたい》、貰《もら》つといたお菓子《くわし》だの、お煎餅《せん》だの、ソツと袂《たもと》ン中《なか》へしまツとくの、そしてね、紙《かみ》の上《うへ》へ乘《の》せて枕頭《まくらもと》へ置《お》いとくの。そして鼠《ねずみ》にね、お前《まへ》、私《あたい》を苛《いぢ》めるんぢやアありません。お菓子《くわし》を遣《や》るからね、おとなしくして食《た》べるんだツて、然《さ》う云《い》つたよ。」
「利口《りこう》だねえ。」
「然《さ》うするとね、床《とこ》ン中《なか》で聞《き》いて、ソツと考《かんが》へて居《ゐ》るとね、コトコトツてつちや喰《た》べるよ。而《さう》して些《ちつ》とも恐《こは》くなくなつたの。※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］晩《まいばん》やるんだ。いつでも來《き》ちやあ食《た》べて行《ゆ》くよ。もう恐《こは》くはなくツて、可愛《かはい》らしいよ。寝《ね》るとね、鼠《ねずみ》が來《こ》ないか來《こ》ないかと思《おも》つて目《め》を塞《ふさ》いぢやあ待《ま》つてるの。然《さ》うすると寢《ね》てしまふの。目《め》を覺《さま》すとねえ、皆《みんな》食《た》べて行《い》つてあつたよ。」
　われは小親《こちか》の名《な》呼《よ》ばむとせしが猶豫《ためら》ひぬ。何《なん》とか言《い》ふべき。
「ねえ。」
「あいよ。」
「ねえ、鼠《ねずみ》は可愛《かはい》いんだねえ。」
「ぢやあ貢《みつぎ》さん家《とこ》に猫《ねこ》は居《ゐ》ないのかい。」
「居《ゐ》るよ、三毛猫《みけねこ》なの。此間《このあひだ》ね、四《よ》ツ兒《こ》を産《う》んだよ、伯母《をば》さんが可愛《かはい》がるよ。」
「貢《みつぎ》さんも可愛《かはい》がつておくれかい。」
　われは肩掛《シヨオル》の中《なか》に口籠《くちごも》りぬ。袖《そで》面《おもて》を蔽《おほ》ひたれば、※［＃「てへん＋蚤」、第3水準1-84-86］分《かきわ》けて顏《かほ》をば出《いだ》しつ。冷《つめ》たき夜《よる》なりき。

［＃７字下げ］二［＃「二」は中見出し］

　小親《こちか》の下駄《げた》の音《おと》不圖《ふと》止《や》みて、取《と》り合《あ》ひたる掌《て》に力《ちから》籠《こも》りしが、後《うしろ》ざまに退《すさ》りたり。鳥居《とりゐ》の影《かげ》の橫《よこた》ふあたり、人《ひと》一人《ひとり》立《た》つたるが、動《うご》き出《い》づるを、それ、と胸《むね》轟《とゞろ》く。果《はた》せるかな。螽《いなご》の飛《と》ぶよ、と光《ひかり》を放《はな》ちて、小路《こうぢ》の月《つき》に閃《ひら》めきたる槍《やり》の穗先《ほさき》霜《しも》を浴《あ》びて、柄《え》長《なが》く一文字《いちもんじ》に橫《よこた》へつゝ、
「來《こ》い！」とばかりに呼《よば》はりたる、國麿《くにまろ》は、危《あやふ》きもの手《て》にしたり。
「何《なん》だ、其《それ》は何《なん》だい。」
　われは此方《こなた》に居《ゐ》て聲《こゑ》かけぬ。國麿《くにまろ》は路《みち》の中央《まんなか》に※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］立《つゝた》ちながら、
「寶藏院《はうざうゐん》の管槍《くだやり》よ！」
　小親《こちか》は前《まへ》に出《い》でむとせず、固《かた》く立《た》ちて瞻《みまも》りぬ。
「出《で》て來《こ》い、出《で》て來《こ》い！出《で》て來《こ》い！」
　と最《い》と誇顏《ほこりがほ》にほざいたり。小親《こちか》わが手《て》を放《はな》たむとせず。
「出《で》て來《こ》い。男《をとこ》なら出《で》て來《こ》い。意氣地《いくぢ》なし、女※［＃「螂－虫」、第3水準1-92-71］《めらう》の懷《ふところ》に挾《はさま》つてら。」
　われは振放《ふりはな》たんとす。小親《こちか》は聲《こゑ》低《ひく》く力《ちから》を籠《こ》めて、
「いけない、危《あぶな》いから。」
「可《い》いんだ。」
「可《い》いぢやアありません。お止《よ》し、危《あぶ》ないわね。如彼《あんな》がむしやらの向《むか》うさき見《み》ずは、何《ど》んな事《こと》を爲《し》ようも知《し》れない。怪我《けが》をさしちやあ、大變《たいへん》だから……あれさ！」
「構《かま》ふもんか、厭《いや》だ！厭《いや》だ。」
「厭《いや》だつて、危《あぶな》いもの。返《かへ》りませう。あとへ返《かへ》りませう。大人《おとな》でないから恐《こは》いよ。」
　國麿《くにまろ》は快《こゝろよ》げに、
「樣《ざま》あ見《み》ろ、女《をんな》の懷《ふところ》を出《で》られやしまい、牛若《うしわか》も何《なに》もあるもんか。」
「厭《いや》だ、厭《いや》だ、女《をんな》と一所《いつしよ》にや厭《いや》だ。放《はな》して、放《はな》してい。」
「堪忍《かんにん》おし、堪忍《かんにん》おし、堪忍《かんにん》して頂戴《ちやうだい》、私《わたし》が惡《わる》いんだから堪忍《かんにん》おしよ。」
　犇《ひし》と抱《いだ》きて引留《ひきと》むる。國麿《くにまろ》は背《せ》ゆるぎさして、
「勝《か》つたぞ、ふむ、己《おれ》が勝《か》つた。貢《みつぎ》、汝《きさま》が負《ま》けた。可《い》いか、能《のう》のな、能《のう》の女《をんな》は己《おれ》がのだぜ。」
　言棄《いひす》てて槍《やり》を繰《く》り込《こ》み、流眄《しりめ》に掛《か》けながら行《ゆ》かむとす。
「負《ま》けない、負《ま》けやしないや。」
　國麿《くにまろ》は振返《ふりかへ》り、
「それぢやあ來《く》るか。」
「恐《こは》かあ無《な》いや。」
「む、來《く》るなら來《こ》い！女※［＃「螂－虫」、第3水準1-92-71］《めらう》の懷《ふところ》から出《で》て來《き》て見《み》ろ。」
　小親《こちか》※［＃「口＋阿」、第4水準2-4-5］呀《あなや》と叫《さけ》びしを聞《き》き棄《ず》てに、振放《ふりはな》ちて、つか／＼とぞ立出《たちい》でたる。背後《うしろ》の女《ひと》は如何《いか》にすらむ、前《まへ》には槍《やり》を扱《しご》いたり。
「さあ、來《こ》い。」
　と目《め》の前《さき》に穗尖《ほさき》危《あぶ》なし。顏《かほ》を背《そむ》け、身《み》を反《そら》し、袖《そで》を翳《かざ》して、
「牛若《うしわか》だ、牛若《うしわか》だ、牛若《うしわか》だ。」
「安宅《あたか》の關《せき》だい。」
「何《なに》するもんか、※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］《つ》かれるもんか。」
「※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］《つ》くよ、※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］《つ》くよ。藝妓屋《げいしやや》の乞食《こじき》なんか※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］《つツ》ついて刎《は》ね飛《と》ばさあ。」
　爲兼《しか》ねまじき氣勢《けはひ》なれば、氣《き》はあせれども逡巡《ためら》ひぬ。小親《こちか》背後《うしろ》に見《み》てあらむと、われは心《こゝろ》に恥《は》ぢたりき。
「樣《ざま》あ見《み》ろ、汝《きさま》先刻《さつき》は威張《ゐば》つたけれど、ふ、大《おほ》きな口《くち》よウたゝくなあ、蒲團《ふとん》に坐《すわ》つてる時《とき》ばかりだ。うつくしい蒲團《ふとん》に坐《すわ》つてる乞食《こじき》やそんなものか。詰《まら》らないもんだなあ。乞食《こじき》、｜弱［＃底本では「弱」は「嫋のつくり」］蟲《よわむし》、背後《うしろ》に立《た》つてるなあ何奴《どいつ》だ。矢張《やつぱり》乞食《こじき》か、えゝ、意氣地《いくぢ》が無《な》いな。」
　するりと槍《やり》を取直《とりなほ》し、肩《かた》に立懸《たてか》け杖《つゑ》つきつゝ、前《まへ》に屈《かゞ》みて、※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］出《つきいだ》せる胸《むね》の紅《くれなゐ》の襯衣《しやつ》花《はな》やかに、右手《めて》に押廣《おしひろ》げて拍《たゝ》いたり。
「口惜《くやし》くばドンと來《こ》い！」

［＃７字下げ］三［＃「三」は中見出し］

　驚破《すは》、此時《このとき》、われは目《め》を瞑《ねむ》りて、まつしぐらに其手元《そのてもと》に衝入《つきい》りしが、膝《ひざ》を敷《し》いて茫然《ばうぜん》たりき。
「あれ！」
「危《あぶな》い。」
　と國麿《くにまろ》の叫《さけ》びつゝ、しばし呆《あき》れたる※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》して彳《たゝず》みしが、見上《みあ》ぐるわれと面《おもて》を合《あは》し、ぢつと互《たがひ》に打《うち》まもりぬ。
「恐《おそろ》しい奴《やつ》だなあ。」
　國麿《くにまろ》は太《ふと》い呼吸《いき》を吻《ほ》とつきて、
「汝《きさま》の方《はう》が亂暴《らんばう》だい。餘程《よつぽど》亂暴《らんばう》だ、無鐵砲《むてつぱう》［＃底本では「砲」は「石＋鉋のつくり」］極《きは》まらあ、あゝ。」
　とまた息《いき》吐《つ》きつゝ、落膽《がつかり》したる顏色《かほつき》して、ゆるやかに踞《つくば》ひたり。
「え、おい、胸《むね》でも※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］《つ》かれたら、おい貢《みつぎ》、何《ど》うするつもりだ。氣《き》が短《みじか》いや、うつたぜ。亂暴《らんばう》な。何處《どこ》だ、何處《どこ》だ、むゝ。」
「痛《いた》かあない、痛《いた》かあない。」
「む、泣《な》くな、泣《な》いちやあ不可《いか》んぜ。あゝ、何《なに》、袂《たもと》ツ草《くさ》［＃入力者註　たもとの底にたまるごみ、俗に、血止めに用いた］を着《つ》けときやあわけなしだ。」
　と槍《やり》を落《おと》して、八口《やつくち》より袂《たもと》の底《そこ》を探《さぐ》らむとす。暖《あたゝ》かき袖口《そでぐち》もて※［＃「夾＋頁」、第3水準1-93-90］《ほゝ》の掠疵《かすりきず》押《おさ》へたりし小親《こちか》聲《こゑ》を掛《か》けて、
「厭《いや》ですよ、そんな袂《たもと》ツ草《くさ》なんて汚《きたな》いもの、不可《いけ》ません。酷《ひど》いことね。もう、灸《きう》のあとさへない兒《こ》に、酷《ひど》いつちやあ無《な》い。御覽《ごらん》なさい、こんなに成《な》つたぢやありませんか。あら、あら、血《ち》が出《で》て、何《ど》うしよう。」
　國麿《くにまろ》は仰《あふ》ぎ見《み》て、
「疵《きず》は深《ふか》いかな、酷《ひど》いかな。」
　其《その》太《ふと》き眉《まゆ》を顰《しか》めたり。小親《こちか》は月《つき》の影《かげ》に透《すか》しながら、
「そんなぢやあ無《な》いんだけれど、掠《かす》つたんでせうけれど。」
「ぢやあ、何《なに》、袂《たもと》ツ草《くさ》で治《なほ》ツちまあ。」
　再《ふたゝ》び其袂《そのたもと》の中《なか》探《さぐ》らむとす。
「厭《いや》、そんな、そんなものを、此顏《このかほ》に附着《くツつ》けて可《い》いもんですか。」
　國麿《くにまろ》は苦笑《くせう》して、
「それぢやあ其方《そちら》で可《い》いやうにするさ。あゝ、驚《おどろ》いた。」
　力《ちから》なげに槍《やり》を拾《ひろ》うて立《た》ちしが、
「貢《みつぎ》、もう己《おら》あ邪魔《じやま》あしない。堪忍《かんにん》してやらあ、案《あん》じるな。」
　と、くるりと此方《こなた》に背《せな》向《む》けつゝ、行懸《ゆきか》けしが立《た》ち返《かへ》りて、圓《つぶら》なる目《め》に懸念《けねん》の色《いろ》あり。又《また》むかう向《むき》に身《み》を返《かへ》して、
「袂《たもと》ツ草《くさ》が血留《ちどめ》に成《な》るんだ。袂《たもと》ツ草《くさ》が血留《ちどめ》に成《な》らあ。」
　聞《き》かすともなく呟《つぶや》きつゝ、鳥居《とりゐ》の傍《わき》なる人《ひと》の家《いへ》の、｜雪［＃底本では「雪」は「膤のつくり」］垣《ゆきがき》に隱《かく》れしが、二《に》の鳥居《とりゐ》の有《あ》るあたり、廣《ひろ》き境内《けいだい》の月《つき》の中《なか》に、其《そ》の姿《すがた》露《あらは》れて、長《なが》く、長《なが》く影《かげ》を引《ひ》き、槍《やり》重《おも》たげに荷《にな》ひたる、平《ひら》たき肩《かた》を窄《すぼ》めながら向《むか》う屈《かゞ》みに背《せ》を圓《まる》くし、最《いと》寒《さむ》げなる※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》見《み》えつゝ、黑《くろ》き影法師《かげぼふし》小《ちひ》さくなりて、※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］《つき》あたり遙《はるか》なる、門《もん》高《たか》き構《かまへ》の内《うち》に薄霧《うすぎり》籠《こ》めて見《み》えずなりぬ。われはうか／＼と見送《みおく》りしが、此時《このとき》其人《そのひと》※［＃「りっしんべん＋曾」、第3水準1-84-62］《にく》からざりき。
「一寸《ちよいと》、痛《いた》むかい。痛《いた》むだらうね、可哀相《かはいさう》に。」
「何《なん》ともない。痛《いた》かあない。」
「大《たい》した事《こと》もないけれど、私《わたし》やもうハツと思《おも》つた。彼《あ》の兒《こ》をつかまへて喧嘩《けんくわ》もならず、お前《まへ》さんが又《また》肯《き》かないんだもの、はら／＼と思《おも》つてる内《うち》、もう、何《ど》うしたら可《い》いだらう。折角《せつかく》送《おく》つて來《き》ながら申譯《まをしわけ》がないね。」
「可《い》いよ、痛《いた》かあ無《な》いもの。」
「だつて疵《きず》がつきました。かすり疵《きず》でも、あら、こんなに血《ち》が出《で》るもの。」
　と押拭《おしぬぐ》ひ、又《また》おしぬぐふ。
「もう可《い》い。」
「可《よ》かアありませんよ、このまんまにして、歸《かへ》しちやあ、私《わたし》が貢《みつぎ》さんのお内《うち》へ濟《す》まないもの。」
　伯母上《をばうへ》何《なに》をか曰《のたま》はむ。

［＃７字下げ］四［＃「四」は中見出し］

「ぢやあ恁《か》うしようね、一所《いつしよ》に私《わたし》の家《うち》へ來《き》て今夜《こんや》お泊《とま》りでないか。さうして、翌日《あす》になつたら一所《いつしよ》に行《い》つて言譯《いひわけ》をしませうよ。私《わたし》でも、其《それ》でなきや誰《だれ》か若《わか》い衆《しゆ》でも着《つ》けてあげてね、そして伯母《をば》さんにお詫《わび》をしたら可《い》いでせう。」
「可《か》いよ。そんなにしなくツても、一人《ひとり》で歸《かへ》るよ。」
「だつて……困《こま》ること。」
「何《なん》とも無《な》いぢやあないか。」
　前《さき》になりて駈出《かけいだ》せば、後《あと》より忙《せは》しく追縋《おひすが》りて、
「そんなら、まあ可《い》いとして門《かど》まで送《おく》りませう。だがねえ、可《よ》かつたら然《さ》うおしな。お嫌《いや》！」
「嫌《いや》ぢやあないけれど、だつて、あの、待《ま》つてるから。」
「さう、伯母《をば》さんが嘸《さ》ぞ、何《ど》んなにかね。」
「いゝえ、伯母《をば》さんぢやあない、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、594-9］《ねえ》さんなの。」
「おや、貢《みつぎ》さん、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、594-10］《ねえ》さんがいらつしやるのかい。」
「宅《うち》にぢやあ無《な》いの。むかひのね、廣岡《ひろをか》の※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、594-11］《ねえ》さんなの。」
「廣岡《ひろをか》ツて？」
「繼母《まゝはゝ》の内《うち》なの。繼母《まゝはゝ》が居《ゐ》てね、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、594-13］《ねえ》さんが可哀相《かはいさう》だよ、」
　恁《か》う言《い》ひたる時《とき》、われは思《おも》はず小親《こちか》の顏《かほ》見《み》られにき。
「あのウ。」
「何。」
「何《なん》て然《さ》ういはうなあ、何《なん》て言《い》ふの。あの、お能《のう》の※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、595-2］《ねえ》さん？」
「嫌《いや》ですね、お能《のう》の※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、595-2］《ねえ》さんツて、をかしいね、嫌《いや》だよ。」
「ぢやあ何《なん》ていふの。え。何《ど》ういふの。」
　頭巾《づきん》の裡《うち》に笑《ゑみ》を籠《こ》めて、
「私《わたし》はね、……親《ちか》。」
「親《ちか》ちやん！」
「あい、おほゝ。」
「親《ちか》ちやん、繼母《まゝはゝ》ぢやあないの。え、繼母《まゝはゝ》は居《ゐ》ないのかい。」
　憂慮《きづかは》しければぞ問《と》ひたる。小親《こちか》は事《こと》も無《な》げに、
「私《わたし》には何《なん》にもないよ。唯《たゞ》ね、親方《おやかた》が有《あ》るの。」
「さう、ぢやあ可《い》いや、繼母《まゝはゝ》だと不可《いけな》いよ。酷《ひど》いよ。廣岡《ひろをか》の※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、595-12］《ねえ》さんは泣《な》いて居《ゐ》る……」
　先《さき》より然《さ》まで心《こゝろ》にも止《と》めざるやうなりし小親《こちか》は、此時《このとき》身《み》に沁《し》みて聞《き》きたる※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》なり。
「それは氣《き》の毒《どく》だね。皆《みんな》さうだよ、繼母《まゝはゝ》は情《なさけ》ないもんだとね。貢《みつぎ》さんなんざ、まだまあ、伯母《をば》さんだから結構《けつこう》だよ。何《なん》でも言《い》ふことを肯《き》いて可愛《かはい》がられるやうになさいよ。おゝ、然《さ》ういやあ眞個《ほんとう》に晩《おそ》くなつて叱《しか》られやしないかね。」
「もう來《き》［＃底本では「來」にルビがない。596-2］たんだ。ちよいと。」
　手《て》を放《はな》すより、二三｜間《げん》駈出《かけだ》して、われはまづ青楓《あをかへで》の扇《あふぎ》の地紙《ぢがみ》開《ひら》きたるやう、月《つき》を蔽《おほ》ひて廣《ひろ》がりたる枝《えだ》の下《した》に彳《たゝず》みつ。仰《あふ》げば白《しろ》きもの仄《ほの》見《み》ゆる、前《さき》の日《ひ》雨《あめ》ふりし前《まへ》なりけむ、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、596-4］上《あねうへ》の結《むす》びたまひし折鶴《をりづる》のなごりなり。
　打《うち》見《み》るさへ最《い》と懷《なつか》しく、退《すさ》りて二階《にかい》なる窓《まど》の戸《と》に向《むか》ひて、
「※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、596-7］《ねえ》さん、唯今《たゞいま》歸《かへ》りました。」
　と高《たか》く呼《よ》びぬ。※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］夜《まいよ》狂言《きやうげん》見《み》に行《ゆ》きたる歸《かへり》には、こゝに來《き》て恁《か》くは云《い》ふなりけり。案《あん》じてそれまでは寢《い》ね給《たま》はず。
　少時《しばし》音《おと》なければ、彼方《かなた》に立《た》てる小親《こちか》の方《かた》を※［＃「示＋見」、第3水準1-91-89］返《みかへ》りたり。
　頭巾《づきん》深々《ふか／″＼》と被《かぶ》れるが、駒下駄《こまげた》のさきもて、地《つち》の上《うへ》叩《たゝ》いて、せはしく低《ひく》き音《おと》刻《きざ》みながら、手《て》をあげて打《う》ち招《まね》く。來《こ》よ、もの言《い》はむとする※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》なり。心《こゝろ》に懸《かゝ》りて行《ゆ》かむとする時《とき》、靜《しづか》に雨戸《あまど》の戸《と》一枚《いちまい》ソト其半《そのなか》ばを引《ひ》き給《たま》ひつ。
　楓《かへで》の上《うへ》に明《あかり》さして、小灯《こともし》の影《かげ》こゝまでは屆《とゞ》かず月《つき》の光《ひかり》に消《き》えたり。と見《み》る時《とき》、立姿《たちすがた》あらはしたまひしが、寢《ね》みだれて居《ゐ》たまひき。
　横顏《よこがほ》のいと白《しろ》きに、髪《かみ》のかゝりたるが、冷《つめた》き風《かぜ》に搖《ゆら》ぐ、※［＃「木＋闌」、第3水準1-86-27］干《らんかん》に胸《むね》少《すこ》しのりかけたまひぬ。
「お歸《かへり》ですか。」
「唯今《たゞいま》。」
「遅《おそ》かつたから※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、597-4］《ねえ》さんは先《さき》へ寢《ね》て居《ゐ》たがね。」
　言《い》ひかけて四邊《あたり》を見《み》まはし給《たま》ひし。小親《こちか》の姿《すがた》ちらりと動《うご》きて、ものの蔭《かげ》にぞなりたる。ふツと灯《あか》りを吹消《ふきけ》したまひ、
「お待《ま》ちなさいよ。」

［＃７字下げ］五［＃「五」は中見出し］

　小親《こちか》わが方《かた》に※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］《あゆ》み寄《よ》りしが、また※［＃「戸の旧字＋犬」、第3水準1-84-67］《もど》りぬ。内《うち》より樞《くるゝ》外《はづ》す音《おと》して、門《かど》の戸《と》の開《あ》いたるは、跫音《あしおと》もせざりしが、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、597-10］上《あねうへ》の早《は》や二階《にかい》を下《お》りて來給《きたま》ひたるなり。
「……寒《さむ》いこと。」
　羽織《はおり》の兩袖《りやうそで》打合《うちあは》せて、靜《しづか》に敷居《しきひ》を越《こ》え給《たま》ひぬ。
「晩《おそ》かつたのね。」
「あのね、面白《おもしろ》かつたんだよ。」と言《い》ひたるが、小《ちひ》さき胸《むね》のうち安《やす》からず。目《め》には小親《こちか》の姿《すがた》見《み》ゆ。
「それは、好《よ》うございましたけれど、風邪《かぜ》をひくと不可《いけ》ません。餘《あんま》り晩《おそ》くならないうちに、今度《こんど》からお歸《かへ》りなさいよ。」
「はい。」
　※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、598-4］上《あねうへ》はなほ氣遣《きづか》はしげに、
「そして、まだ内《うち》へはお入《はひ》りでないのでせうね。」
「まだ。」
　しばらく考《かんが》へ給《たま》ひしが、
「それではね、私《わたし》が此處《こゝ》に見《み》て居《ゐ》ますからね、貢《みつぎ》さん、潛《そつ》と行《い》つて、あの、格子《かうし》まで行《い》つて、見《み》て來《き》て御覽《ごらん》。」
　深《ふか》き思《おも》ひに沈《しづ》みつゝのたまふやう見《み》えたれば、いぶかしさに堪《た》へざりし。
「何《ど》うしたの、私《あたい》の内《うち》は何《ど》うしたの。」
「いえ何《ど》うもしませんけれど、少《すこ》し何《な》んですから、まあ、潛《そつ》と行《い》つて見《み》て入《い》らつしやい。」
　果《はて》は怖氣立《こはげだ》ちて、
「嫌《いや》だ、恐《こは》いもの。」
「ちつとも恐《こは》いことはない。私《わたし》がこゝに見《み》て居《ゐ》ますよ。」
　われは立放《たちはな》れて拔足《ぬきあし》しつゝ、小路《こうじ》の中《なか》を橫《よこ》ぎりたり。見返《みかへ》れば※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、599-1］上《あねうへ》の立《た》ち給《たま》ふ。また見《み》れば、小親《こちか》居所《ゐどころ》を替《か》へしが尚《なほ》立《た》てり。
　密《ひそか》にわが家《いへ》の門《かど》の戸《と》に立寄《たちよ》りぬ。何事《なにごと》もあらず、内《うち》はいと靜《しづか》なり。かゝる時《とき》ぞ。いつもわが獨寢《ひとりね》の臥床《ふしど》寂《さび》しく、愛《あい》らしき、小《ちひ》さき獸《けもの》に甘《うま》きもの與《あた》へて、寢《ね》ながら其《その》食《くら》ふを待《ま》つに、一室《ひとま》の内《うち》より、「丹《あを》よ、」「すがはらよ。」など伯母上《をばうへ》、餘所《よそ》の客《きやく》など聲々《こゑ／″＼》に云《い》ふが襖《ふすま》漏《も》れて聞《きこ》ゆる時《とき》なり。今宵《こよひ》もまた然《しか》ならむ、と戸《と》に耳《みゝ》を附《つ》けて聞《き》くに、たゞ寂然《ひつそ》としたれば、可《よ》し、又《また》拔足《ぬきあし》して二足《ふたあし》三足《みあし》ぞ退《の》きたる。
　ど、ど、どツといふ※［＃「響」の「即のへん」に代えて「喞－口－卩」、第3水準1-93-86］《ひゞき》、奧《おく》の方《かた》騷《さわ》がしく、あれと言《い》ふ聲《こゑ》、叫《さけ》ぶ聲《こゑ》、魂消《たまぎ》る聲《こゑ》の忽《たちま》ち起《おこ》りて、俄《にはか》にフツと止《や》みたるが、一文字《いちもんじ》に門口《かどぐち》より鞠《まり》の如《ごと》く躍《をど》り出《い》で、白《しろ》きもの空《くう》を駈《か》けて、むかひなる屋根《やね》に上《のぼ》るとて、凄《すさま》じき音《おと》させしは、家《いへ》に飼《か》ひたる猫《ねこ》なりき。
　只《と》ばかりありて、身《み》を橫《よこ》さまに、格子戸《かうしど》にハタとあたりて、呻《うめ》きつゝ、片足《かたあし》踏出《ふみい》でて※［＃「てへん＋爭」、第4水準2-13-24］《あせ》れる染《そめ》をば、追《お》ひ來《き》し※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《もの》ありて引捉《ひつとら》へ、恐《おそろ》しき聲《こゑ》にて叱《しか》りたるが、引摺《ひきず》りて内《うち》に入《い》りぬ。咄嗟《とつさ》の間《かん》に、われ警官《けいくわん》の姿《すがた》を見《み》たり。慌《あわ》てて引返《ひつかへ》す。小路《こうじ》のなかばに、小親《こちか》走《はし》り來《き》て手《て》を取《と》りつ。手《て》を取《と》られしまゝに、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、599-14］上《あねうへ》の立《た》ち給《たま》へる廣岡《ひろをか》の戸口《とぐち》に行《ゆ》きぬ。
　三人《さんにん》かくは立《た》ちならびしが、未《いま》だものいはむとする心《こゝろ》も出《い》でず。呆《あき》れて茫然《ばうぜん》と其方《そなた》を見《み》たる、楓《かへで》の枝《えだ》ゆら／＼と動《うご》きて、大男《おほをとこ》の姿《すがた》あり。やがて礑《はた》と地《ち》に落《お》ちて、土蜘蛛《つちぐも》の縮《すく》む如《ごと》く、圓《まる》くなりて踞《うづくま》りしが、またゝく間《ひま》に立《た》つよとせし、矢《や》の如《ごと》く駈《か》け出《いだ》して、曲《まが》り角《かど》にて見《み》えずなりぬ。
　頭巾《づきん》をば※［＃「てへん＋蚤」、第3水準1-84-86］取《かいと》りたる、小親《こちか》の目《め》のふち紅《あか》かりき。
「貴女《あなた》。」
　聲《こゑ》かくるに、心着《こゝろづ》き給《たま》ひけむ。はじめて顏《かほ》を見合《みあは》せ給《たま》ひしが、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、600-5］上《あねうへ》は、いともの靜《しづか》に、
「はい。」
　とばかり答《こた》へたまふ、此時《このとき》格子《かうし》の戸《と》颯《さ》と開《あ》きぬ。すかし見《み》る框《かまち》の上《うへ》に、片肌《かたはだ》脱《ぬ》ぎて立《た》ちたるは、より／＼今《いま》はわが伯母上《をばうへ》とも行交《ゆきか》ひたる、金魚《きんぎよ》養《やしな》ふ女房《にようばう》なり。渠《かれ》は片肌《かたはだ》脱《ぬ》ぎたるまゝ、繩《なは》もて後手《うしろで》に縛《いまし》められつ。門《かど》に出《い》でし時《とき》、いま一人《いちにん》の警官《けいくわん》後《うしろ》より出《い》でて、毛布《けつと》もて其肌《そのはだ》蔽《おほ》ひたり。續《つゞ》きて染《そめ》の顏《かほ》見《み》ゆ。あとなるは伯母上《をばうへ》なりき。

［＃５字下げ］假小屋《かりごや》［＃「假小屋」は大見出し］

［＃７字下げ］一［＃「一」は中見出し］

　樂屋《がくや》なる居室《ゐま》の小窓《こまど》と、垣《かき》一重《ひとへ》隔《へだ》てたる、廣岡《ひろをか》の庭《には》の隅《すみ》、塵塚《ちりづか》の傍《かたはら》に橫《よこた》はりて、丈《たけ》三｜尺《じやく》餘《あまり》、周圍《まはり》凡《およそ》二尺《にしやく》は有《あ》らむ、朽目《くちめ》赤《あか》く缺《か》け／＼て、黑《くろ》ずめる材木《ざいもく》の、其《その》本末《もとすゑ》には、小《ちひ》さき白《しろ》き苔《こけ》、幾百《いくひやく》ともなく群《むらが》り生《お》ひたり。
　指《ゆびさ》して、其《それ》を、舊《もと》のわが家《いへ》なる木戸《きど》の際《きは》に、路《みち》を蔽《おほ》ひて繁《しげ》りたりし彼《か》の青楓《あをかへで》の果《はて》なりと、繼母《まゝはゝ》の語《かた》りし時《とき》、われは思《おも》はず※［＃「さんずい＋（戸の旧字＋犬）」、第3水準1-86-83］《なみだ》ぐみぬ。
「この變《かは》りました事《こと》と云《い》つたら、まるで夢《ゆめ》のやうで、私《わし》でさへ門《かど》へ出《で》ては、時々《とき／″＼》茫乎《ぼんやり》して見《み》る事《こと》がございますよ。眞《ほん》に貢《みつぎ》さんなんぞ、久《ひさ》しぶりでお歸《かへ》んなすつたが、些《ちつ》とも故郷《こきやう》［＃底本では「郷」の「即のへん」に代えて「皀」］らしい處《ところ》はありますまい。」と繼母《まゝはゝ》は庭《には》に立《た》ちてぞ語《かた》れる。
　然矣《しかり》、町《まち》の中《なか》にても、隣《となり》より高《たか》かりし、わが二階家《にかいや》の、今《いま》は平家《ひらや》に建直《たてなほ》りて、煙草屋《たばこや》の店《みせ》開《ひら》かれたり。扇折《あふぎをり》の住《す》みし家《いへ》は空《むな》しくなり、角《かど》より押※［＃「廴＋囘」、第4水準2-12-11］《おしまは》せる富家《ふか》の持地《もちぢ》となりて、黑《くろ》き板※［＃「塀」の「并」に代えて「餠のつくり」、第3水準1-15-58］《いたべい》建《た》て※［＃「廴＋囘」、第4水準2-12-11］《まは》されぬ。
　其《その》あたりの家《いへ》はみな新木造《あらきづくり》と成《な》りたり。小路《こうじ》は家《いへ》を切開《きりひら》きて、山《やま》の手《て》の通《とほ》りに通《つう》ずるやうなしたれば、人通《ひとどほり》いと繁《しげ》く、車馬《しやば》の往來《わうらい》頻《しきり》なり。
　こゝに居《ゐ》て遊《あそ》ぶ小兒等《こどもら》、わが知《し》りたるは絶《た》えてあらず。風俗《ふうぞく》もまた異《かは》りて見《み》ゆ。わが遊《あそ》びし頃《ころ》は、うつくしく天窓《あたま》そりたるか、然《さ》らぬは切禿《きりかむろ》にして皆《みな》梳《す》いたるに、今《いま》は盡《こと／″＼》く皆《みな》毬栗《いがぐり》に短《みじか》く剪《はさ》みたり。しらくも頭《あたま》の兒《こ》一人《ひとり》目《め》に着《つ》きぬ。
　總《すべ》てうつくしき女《をんな》あらずなりて、むくつけなる男《をとこ》ぞ多《おほ》き。三尺帶《さんじやくおび》前《まへ》に〆《し》めて、印半纒《しるしばんてん》着《き》たるものなんど、をさなき時《とき》には見《み》もせざりし。
　町《まち》も恁《か》うは狹《せま》からざりしが、今《いま》はたゞ一跨《ひとまた》ぎ二足《ふたあし》三足《みあし》ばかりにて、向《むかひ》の雨落《あまおち》より、此方《こなた》の溝《みぞ》まで亙《わた》るを得《う》るなり。
　筋向《すぢむか》ひなりとわれは覺《おぼ》ゆ。かの石《いし》の鳥居《とりゐ》まで、わが家《いへ》より赴《おもむ》くには、路《みち》のほど最《い》と遙《はるか》なりと思《おも》ひしに、何事《なにごと》ぞ、たゞ鼻《はな》の先《さき》なる。宮《みや》の境内《けいだい》も實《まこと》に廣《ひろ》からず、引抱《ひつかゝ》へて押動《おしうご》かせし百日紅《ひやくじつこう》も、肩《かた》より少《すこ》し上《うへ》ぞ梢《こずゑ》なる。仰《あふ》いで高《たか》し嚴《いかめ》しと見《み》し國麿《くにまろ》が門《かど》の冠木門《かぶきもん》も、足《あし》爪立《つまだ》つれば脊《せ》屆《とゞ》くなり。
　さて其《その》國麿《くにまろ》はと想《おも》ふ、渠《かれ》はいま東京《とうきやう》に軍人《ぐんじん》にならむとて學問《がくもん》するとか。烏帽子《ゑぼし》被《かぶ》りて、拂《はたき》掉《ふ》りし彼《か》の愛《あい》らしき兒《こ》は、煎餅《せんべい》をば燒《や》きつゝありとぞ。物干棹《ものほしざを》持《も》てりしは、縣廳《けんちやう》に給仕《きふじ》勤《つと》むるよし。いま一人《いちにん》、また一人《いちにん》、他《た》の一人《いちにん》にはわれ偶《ふ》と通《とほり》にて出合《であ》ひたり。其時《そのとき》渠《かれ》は道具屋《だうぐや》の店《みせ》に立《た》ちて、皿《さら》茶碗《ちやわん》など買《か》うたりき。
　皆《みな》幸《さいはひ》なるべし。
　伯母上《をばうへ》は如何《いか》にしたまひけむ、もの賭《か》けて花《はな》がるたし給《たま》ひたりとて、警察《けいさつ》に捕《とら》へられたまひし後《のち》、一年《ひととせ》わが縣《けん》に洪水《こうずゐ》ありて、此町《このまち》流《なが》れ、家《いへ》の失《う》せし時《とき》にも何《なん》の音信《おとづれ》も無《な》かりしとか。惟《おも》ふに、身《み》を恥《は》ぢて何處《いづく》にか立去《たちさ》りたまひしならむ。彼時《かのとき》の、其夜《そのよ》より、直《たゞち》に小親《こちか》に養《やしな》はれて、斯《か》く健《すこやか》に丈《たけ》のびたる、われは、狂言《きやうげん》、舞《まひ》、謠《うたひ》など敎《をし》へられつ。然《さ》れば此《この》一座《いちざ》の爲《ため》には益《やく》［＃底本では「縊のつくり」］なきにもあらぬ身《み》なり。こゝに洪水《こうずゐ》のありし事《こと》は、一昨年《をとゝし》なりけむ、はた其前《そのさき》の尚《な》ほ前《まへ》の年《とし》なりけむ、われ小親《こちか》とともに、伊豫《いよ》の國《くに》なる松山《まつやま》にて興行《こうぎやう》せし時《とき》聞及《きゝおよ》びつ。恁《かゝ》るべしとは思《おも》はでありし、今年《ことし》また此地《このち》にて興行《こうぎやう》せむとて、一座《いちざ》とともに來《きた》りたる八年前《はちねんぜん》のふるさとの目《め》に見《み》ゆるもの皆《みな》かはりぬ。

［＃７字下げ］二［＃「二」は中見出し］

　たそがれに戸《と》に出《い》づる二代目《にだいめ》のをさなき兒等《こら》、最早《もはや》野衾《のぶすま》の恐《おそれ》なかるべし。舊《もと》の彼《か》の酒屋《さかや》の土藏《くら》の隣《となり》なりし觀世物小屋《みせものごや》は、あとも留《とゞ》めずなりて、東警察《ひがしけいさつ》とか云《い》ふもの出來《でき》たり。
　一座《いちざ》が掛《かゝ》りたる假小屋《かりごや》は、前《さき》に金魚《きんぎよ》養《やしな》ひし女房《にようばう》の住《す》みたる家《いへ》のあとを、其隣《そのとなり》、西《にし》の方《かた》、二｜軒《けん》ばかり空地《あきち》となりしに建《た》てられつ。小《ちひ》さき池《いけ》は、舞臺《ぶたい》の眞下《ました》になりたれば、恰《あたか》も可《よ》しとて、興行《こうぎやう》はじむる時《とき》、大瓶《おほがめ》一個《ひとつ》、俯向《うつむ》けて埋《うづ》めたり。こは鼓《つゞみ》の音《ね》冴《さ》えさせむとて爲《し》たるなりき。
　揚幕《あげまく》より推出《おしいだ》されて、多勢《たぜい》の見物《けんぶつ》の見《み》る目《め》恥《はづ》かしく、しのぶ、小稻《こいな》とともに狂言《きやうげん》のなかに立交《たちまじ》りて、舞臺《ぶたい》に鞠唄《まりうた》うたひし聲《こゑ》の、あやしく震《ふる》ひたるも多日《しばし》がほどぞ。
　振《ふり》のむづかしき、舞《まひ》の難《かた》き、祭禮《まつり》に異樣《いやう》なる扮裝《いでたち》して大路《おほぢ》を※［＃「糸＋柬」、第3水準1-90-14］《ね》りありく其《それ》とは同《おな》じからず。藝《げい》に忠《ちう》にして、技《ぎ》に實《じつ》なる、小親《こちか》が世《よ》に於《お》ける實《まこと》の品位《ひんゐ》は※［＃「示＋申」、第3水準1-89-28］《かみ》ありて知《し》り給《たま》はむ、うつくしき蒲團《ふとん》に坐《すわ》る乞食《こじき》よと、人《ひと》の口《くち》さがなく謂《い》はば言《い》へ。
　何《なに》か苦《くる》しかるべき。この姿《すがた》して、この舞臺《ぶたい》に立《た》ちて、われは故郷《ふるさと》の知人《ちじん》に對《たい》して聊《いさゝか》も恥《は》づる心《こゝろ》なかりしなり。
　されども知《し》りたるは多《おほ》からず。小路《こうじ》を行交《ゆきか》ふ市人《いちびと》も凡《すべ》てわが知《し》れりしよりは著《いちじる》しく足早《あしばや》になりぬ。活計《たつき》にせはしきにや、夜※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］《よごと》に集《つど》ふ客《きやく》の數《かず》も思《おも》ひ較《くら》ぶればいと少《すくな》し。
　物語《ものがたり》の銀六《ぎんろく》は、大和《やまと》巡《めぐり》する頃《ころ》病《や》みてまかりぬ。小六《ころく》はおいたり。しのぶも髪《かみ》結《ゆ》ひたり。小稻《こいな》はよきほどの女房《にようばう》とはなりぬ。
　其間《そのあひだ》、年《とし》に風雨《ふうう》あり。朝《あした》に霜《しも》あり。夕《ゆふべ》に雪《ゆき》あり。世《よ》の中《なか》とかく騷《さわ》がしかりければ、興行《こうぎやう》の收入《みいり》思《おも》ふまゝならで、今年《ことし》此地《このち》に來《きた》りしにも、小親《こちか》は大方《おほかた》ならず人《ひと》に金《かね》借《か》りたるなり。
　樂《たの》しき境過《きやうぐう》にはあらざれど、小親《こちか》はいつも樂《たの》しげなりき。こなたも※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、604-10］《あね》と思《おも》ふ女《ひと》なり、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、604-10］《あね》とも思《おも》ふ女《ひと》なり。
　然《さ》りながら、こゝにまた※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、604-12］上《あねうへ》と思《おも》ひまゐらせし女《ひと》こそあれ。
　ふる里《さと》の空《そら》のなつかしきは、峰《みね》の松《まつ》の左《ひだり》に傾《かたむ》きて枝《えだ》を垂《た》れたる姿《すがた》なり。石《いし》の鳥居《とりゐ》なり。百日紅《ひやくじつこう》なり。砂《いさご》のなかなる金色《こんじき》の細※［＃「羸」の「羊」に代えて「虫」、第4水準2-87-91］《きしやご》なり。軒《のき》に見馴《みな》れしと思《おも》ふ蜘蛛《くも》の※［＃「巛／果」、第3水準1-84-8］《す》のをかしかりし※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》さへ懷《なつか》しけれど、最《もつと》も慕《した》はしく、懷《なつか》しき心《こゝろ》に堪《た》へざりしは、雪《ゆき》とて繼母《まゝはゝ》の女《むすめ》なる、彼《か》の廣岡《ひろをか》の※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、604-15］上《あねうへ》なりき。
　伯母上《をばうへ》に其《その》あしきことありし時《とき》、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、605-1］上《あねうへ》は廣岡《ひろをか》の家《いへ》に來《こ》よとのたまひぬ。小親《こちか》は狂言《きやうげん》の樂屋《がくや》に來《きた》れと言《い》ひぬ。二人《ふたり》の顏《かほ》を見《み》かはして、わが心《こゝろ》動《うご》きしはいづれなりけむ。繼母《まゝはゝ》の聲《こゑ》したれば、ふと小親《こちか》のあたゝかき肩掛《シヨオル》の下《した》に、小《ちひ》さきわが身體《からだ》ひそみにき。
　寂《さび》しかりしよ、わかれの時《とき》、凍《い》てたる月《つき》に橫顏《よこがほ》白《しろ》く、もの憂《う》きことに窶《やつ》れ給《たま》ひし、日頃《ひごろ》さへ、弱々《よわ／＼》しく、風《かぜ》にも堪《た》へじと見《み》え給《たま》ふが、寢着《ねまき》姿《すがた》の肌《はだ》薄《うす》きに、折《をり》から身《み》を刺《さ》す凩《こがらし》なりし。悵然《ちやうぜん》として戸《と》に倚《よ》りて遙《はるか》に此方《こなた》を見送《みおく》りたまひし。あはれの俤《おもかげ》眼前《めさき》を去《さ》らず、八年《やとせ》永《なが》き月日《つきひ》の間《あひだ》、誰《た》が此思《このおもひ》はさせたるぞ。
　廣岡《ひろをか》の繼母《まゝはゝ》に、恁《か》くて垣越《かきごし》に出會《であ》ひしは、ふるさとに歸《かへ》りし日《ひ》の、二十日《はつか》過《す》ぎたる夕暮《ゆふぐれ》なりけむ。

［＃７字下げ］三［＃「三」は中見出し］

　舞臺《ぶたい》には隣《となり》間近《まぢか》なり。こゝに居《ゐ》ても、其聲《そのこゑ》の聞《きこ》えやせむかと、夜《よ》ごとに枕《まくら》を欹《そばだ》てなどしつ。おもて立《だ》ちて訪《おと》づれむは、さすがに憚《はゞか》りありたれば、強《し》［＃底本では「強」は「繦－糸」］ひて控《ひか》へたり。餘所《よそ》ながら※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、605-12］上《あねうへ》の姿《すがた》見《み》ばやと思《おも》ひて、木槿《むくげ》垣《がき》の有《あ》りしあとと思《おも》ふあたりを、そゞろ※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］行《あるき》して、立《た》ちて、伺《うかゞ》ひし其《そ》の暮方《くれがた》なりき。
　ふと這《こ》の繼母《まゝはゝ》とわれは出逢《いであ》ひつ。
　幼顔《をさながほ》は覺《おぼ》え染《そ》みて忘《わす》れざりけむ、一目《ひとめ》見《み》るよりわれをば認《みと》めつ。呼懸《よびか》けられたれば隱《かく》れも得《え》せで、進寄《すゝみよ》りて、二《ふた》ツ三《み》ツものいふうち、青楓《あをかへで》の枯《か》れたるをはじめとして、繼母《まゝはゝ》はいたづらに數々《かず／＼》の其《そ》の昔《むかし》をぞ數《かぞ》へたる。
「あんたに面《めん》と向《むか》うては言惡《いひにく》い事《こと》ぢやがの。此《こ》の楓《かへで》の樹《き》な、はや見《み》るたびに腹《はら》が立《た》つ。※［＃「りっしんべん＋曾」、第3水準1-84-62］《にく》い奴《やつ》で、水《みづ》の出《で》た時《とき》にの、聞《き》いてくんなされ。
　あんたの家《うち》も、私家《わしとこ》も、同一《ひとつ》に水《みづ》びたり。根太《ねだ》の弛《ゆる》んだはお互樣《たがひさま》ぢやが、私《わし》が家《とこ》など、隨分《ずゐぶん》と基礎《どだい》も固《かた》し、屋根《やね》もどつしりなり、ちよいとや、そつとぢや、流《なが》れるのぢや無《な》かつたに、其時《そのとき》さの、もう洪水《みづ》が引《ひ》き際《ぎは》と云《い》ふに、洪《どつ》とそれ一瀬《ひとせ》に成《な》つて打着《ぶツつか》ると、あんたの内《うち》の此楓《このかへで》の樹《き》が根《ね》こぎに成《な》つて、どんぶりこと浮《う》き出《だ》いてからに、宅《うち》の、大黑柱《だいこくばしら》に※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］《つ》き當《あた》つたので、其《それ》が爲《ため》に動《うご》き出《だ》いて、とう／＼流《なが》れたと云《い》ふもんぢや。ハヤ實《じつ》に……誠《まこと》に、何《なに》も何《なに》も、それを怨《うら》むのぢやありやせぬけれど、何時《いつ》まで經《た》つても此奴《こいつ》の※［＃「りっしんべん＋曾」、第3水準1-84-62］《にく》いは忘《わす》れられませぬ。因《よ》つて、お宮樣《みやさま》の段《だん》にしがらんで、流《なが》れずに殘《のこ》つて居《ゐ》たのを、細《ほそ》い處《ところ》は燒《や》いて了《しま》うたが、これだけは殘《のこ》して置《お》いて、腹《はら》の立《た》つ時《とき》は見《み》て居《ゐ》ます。」
　其《それ》を楓《かへで》の知《し》ることか。われは聞《き》くに堪《た》へざれば、冷《ひやゝ》かに去《さ》らむとせしが、この繼母《まゝはゝ》に、其女《そのひと》のこと、なつかしきわが※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、607-1］上《あねうへ》のこと問《と》はむと思《おも》ひたれば堪《こら》へて彳《たゝず》む。
「そして何《なに》か、今《いま》あんたは隣《となり》に勤《つと》めて居《ゐ》なさるのかな。」
　輕《かろ》んじ賤《いやし》むる色《いろ》は其面《そのおもて》に出《い》でたれど、われは逆《さか》らはで頷《うなづ》きぬ。彼《か》の人《ひと》の繼母《まゝはゝ》なれば、心《こゝろ》からわれも渠《かれ》に對《たい》しては威《ゐ》なきものと成《な》れるなるべし。
「うゝ、何《なに》、それでも結構《けつこう》ぢや。口《くち》すぎさへ出來《でき》れば、なあ、あんた。」
　たゞ微笑《ほゝゑ》みて見《み》せぬ。※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、607-6］上《あねうへ》のこと疾《と》く語《かた》らずや、と思《おも》ふのみ。
「えゝ、處《ところ》で、おゝそれさ、あんたの一座《いちざ》の中《なか》ぢやさうなの。えゝ、何《なん》とかいふ、別嬪《べつぴん》が一人《ひとり》居《ゐ》なさるさうぢやな。何《なん》とか言《い》うたよ。あんた、知《し》つてぢやらう。」
　と言《い》ひかけて少《すこ》し※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］《あゆ》み寄《よ》りたり。其《その》不快《ふくわい》なる顏《かほ》、垣《かき》の上《うへ》にヌト出《い》でて、恰《あたか》も梟首《けうしゆ》せられたるものの如《ごと》くに見《み》ゆ。
「小稻《こいな》ですか。」
「小《こ》……稻《いな》、いや、違《ちが》うた。稻《いな》ぢやない、稻《いな》ぢやない、はて、何《なん》とか言《い》ふ。」
　眉《まゆ》を顰《しか》めながら顏《かほ》を斜《なゝめ》にす。太《いた》く考《かんが》ふる※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》なれば、敢《あへ》て其意《そのい》を迎《むか》へむとにはあらねど、かりにも彼《か》の女《ひと》の母《はゝ》なれば、われは遂《つひ》にわが惜《を》しき小親《こちか》の名《な》語《かた》りたり。
「違《ちが》ひますか、小親《こちか》。」
「うむ、それ／＼、それ／＼其《そ》の小親《こちか》と言《い》ふのぢや。小親《こちか》ぢや。はゝゝゝゝ。」
　蓮葉《はすは》なる笑聲《わらひごゑ》、小親《こちか》にや聞《きこ》えむかと、思《おも》はず樂屋《がくや》なる居室《ゐま》の方《かた》見《み》られたり。
　繼母《まゝはゝ》は憚《はゞか》る※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》なく、
「其《その》小親《こちか》、と言《い》ふのは、あんた、中《なか》が好《い》いのかな。」
「何《なん》ですね、小母《をば》さん。」

［＃７字下げ］四［＃「四」は中見出し］

「はツ／＼／＼、可愛《かはい》がられておいでぢやろ。私《わし》は早《はや》あんたが掌《てのひら》へ乘《の》つかるやうな時《とき》の事《こと》から知《し》つとるで、そこは豪《えら》いもの。顏《かほ》を見《み》ると丁《ちやん》と分《わか》ります。可愛《かはい》がられると書《か》いてある。」
　快《こゝろ》よからずニタ／＼笑《わら》ひて、
「そして其《そ》の小親《こちか》と云《い》ふのは幾歳《いくつ》におなりだ。はゝゝゝ、別嬪盛《べつぴんざかり》ぢやと言《い》へば、十七かな、八ぐらゐ？」
「いゝえ、二十二。」
「む、二十二は丁度《ちやうど》いゝ。二十二は好《い》い年《とし》ぢや。丁度《ちやうど》其位《そのくらゐ》な時《とき》が好《い》いものぢや。何《なん》でも其《そ》の時分《じぶん》が盛《さかり》ぢや。あんたも佳《い》い別嬪《べつぴん》に可愛《かはい》がられて羨《うらや》ましいの。いんえ、隱《かく》しなさるな、書《か》いてある、書《か》いてある。」
「小母《をば》さん、何《なん》ですね。」
「何《なん》でも無《な》いが少《すこ》し其談話《そのはなし》があるで、何《なん》ぢやよ。お前《まへ》さんは眞個《ほんと》に小兒《こども》の時《とき》から可愛《かはい》らしかつた。色《いろ》が白《しろ》くての、ぼちや／＼と肥《ふと》つて、※［＃「夾＋頁」、第3水準1-93-90］《ほゝ》ツぺたへ※［＃「口＋齒」、第3水準1-15-26］《かじ》りつきたいやうな、抱《だ》いて見《み》たいやうな、いや最《も》う一寸《ちよつと》見《み》ると目《め》がなくなるくらゐぢやつた。それも然《さ》うかい、あんたの母樣《おつかさん》はな、何《なん》でも此《こ》のあたりに評判《ひやうばん》［＃底本では「判」の「半」に代えて「絆のつくりの縦棒を左にはらったもの」］の美《い》い女《をんな》で、それで優《やさ》しくつて、穩當《をんたう》で、人柄《ひとがら》で、まことに愛《あい》くるしい、人好《ひとずき》のする、私《わし》なんか女《をんな》ぢやが、とろ／＼とするほど惚《ほ》れて居《ゐ》ました。其腹《そのおなか》の貢《みつぎ》さんぢや。これが又《また》女《をんな》の中《なか》で育《そだ》つたと言《い》ふもので申分《まをしぶん》の無《な》いお稚兒樣《ちごさま》に出來《でき》て居《ゐ》るもの。誰《だれ》でも可愛《かはい》がるよ、可愛《かはい》がりますともさ。はゝゝゝ、内《うち》のお雪《ゆき》なんかの、彼《あん》な内氣《うちき》な、引込思案《ひつこみじあん》な女《をんな》ぢやつたけれど、もう、それは、あんたの事《こと》と言《い》うたら、宛然《まるで》狂氣《きちがひ》。起《お》きると貢《みつぎ》さん、寢《ね》ると貢《みつぎ》さん、御飯《ごはん》を頂《いたゞ》く時《とき》も貢《みつぎ》さん、何《なん》でも貢《みつぎ》さんで持切《もちき》つてな、あんたが此地《こつち》に居《ゐ》なくなつても、今頃《いまごろ》はどうしておいでなさるぢやろ。船《ふね》の談《はなし》が出《で》りや、お危《あぶな》い。雨《あめ》が降《ふ》りや、寂《さび》しかろ。人《ひと》なつツこいお兒《こ》ぢやつたから、何《ど》んなに故郷《こきやう》へ歸《かへ》りたかろ。風《かぜ》が吹《ふ》けば、風《かぜ》が吹《ふ》く、お風邪《かぜ》でも召《め》すまいかと、それは／＼言續《いひつゞ》け。※［＃「口＋墟のつくり」、第3水準1-84-7］《うそ》では無《な》い、※［＃「示＋申」、第3水準1-89-28］信心《かみしんじん》もして居《ゐ》たやうぢやが、併《しか》し大《おほ》きくおなりで、お達※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《おたつしや》なやうに見《み》える。まあ、何《なに》より結構《けつこう》。
　今《いま》では能《のう》役※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《やくしや》と言《い》ふものぢやな。はゝゝゝ、役※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］々々《やくしや／＼》。はて、うつくしい、能《のう》役※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《やくしや》は亦《また》上品《じやうひん》で、古風《こふう》で可《い》いもんぢやよ。私《わし》も昔馴染《むかしなじみ》ぢやから、これ深切《しんせつ》で言《い》ひますが、氣《き》を着《つ》けなされ。む、氣《き》を着《つ》けなさい、女《をんな》では失策《しくじ》るよ。若《わか》い時《とき》の大毒《だいどく》は、女《をんな》と酒《さけ》ぢや。お酒《さけ》はあがりさうにも見《み》えぬけれど、女《をんな》には、それ、可愛《かはい》がられさうな顏色《かほつき》ぢや。
　いんえ、串戲《じようだん》ではない、※［＃「口＋墟のつくり」、第3水準1-84-7］《うそ》ではない。餘所《よそ》に面白《おもしろ》いことが十分《じふぶん》あると見《み》えて、それ、たま／＼で、顏《かほ》を見《み》せても、雪《ゆき》の雪《ゆ》の字《じ》も言《い》ひなさらぬ。な、彼《あ》の兒《こ》も、あんたには大《おほ》きに苦勞《くらう》をしたもんぢやが。
　早《は》や懺※［＃「りっしんべん＋誨のつくり」、第3水準1-84-48］《ざんげ》だと思《おも》ひなさい。私《わし》もあの時分《じぶん》は、意地《いぢ》が張《は》つて、根性《こんじやう》が惡《わる》うて、小兒《こども》が、其《その》嫌《きら》ひぢやつたでの、※［＃「りっしんべん＋曾」、第3水準1-84-62］《にく》むまいものを※［＃「りっしんべん＋曾」、第3水準1-84-62］《にく》みました。が、もう年紀《とし》も取《と》る。ふツつりと心《こゝろ》を入《い》れかへました。優《やさ》しい女《こ》での、今《いま》もそれ言《い》ふ通《とほ》り、餘《あんま》りあんたを可愛《かはい》がるもんぢやから、私《わし》は羨《うらやま》しいので、つい、それ嫉妬《やきもち》を燒《や》いて、ほんに、貢《みつぎ》さんの半分《はんぶん》だけなと、私《わし》を可愛《かはい》がツてくれたらなと、の、嫉妬《やきもち》の故《ゆゑ》に、はゝゝゝ、あんたにも可《い》い顏《かほ》見《み》せず、あの女《こ》にも辛《つら》かつたが、みんな貢《みつぎ》さん、あんたの故《せゐ》ぢや。
　ほんに、其位《そのくらゐ》までに、あんたを思《おも》うて居《ゐ》るものを、何《なん》と、貢《みつぎ》さん、私《わし》の顏《かほ》を見《み》ながら、お雪《ゆき》は何《ど》うした、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、610-15］《ねえ》さんは達※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《たつしや》かと、一言《ひとこと》ぐらゐは、何《なに》より先《さき》に云《い》つてくんなされても可《よ》ささうなものを、小親《こちか》に可愛《かはい》がられるので、まるで忘《わす》れるとは、餘《あんま》りな、薄情《はくじやう》だ。藝人《げいにん》に成《な》れば其樣《そんな》ものか、怨《うらみ》ぢやよ。」
　俄《にはか》に肅《しめ》やかなる言語《ものいひ》ぶりなり。

［＃７字下げ］五［＃「五」は中見出し］

　其時《そのとき》の我顏《わがかほ》を、繼母《まゝはゝ》はぢつと見《み》しが、俄《にはか》に笑《わら》ひ出《だ》しぬ。
「あの眞面目《まじめ》な顏《かほ》が、はゝゝ、串戲《じようだん》ぢや、串戲《じようだん》ぢや。
　何《なん》の、そんな水※［＃「嗅のつくり」、第3水準1-90-56］《みづくさ》い人《ひと》でない事《こと》は、私《わし》が丁《ちやん》と知《し》つて居《ゐ》る。むゝ、知《し》つとるとも。
　杏《あんず》や、桃《もゝ》を欲《ほ》しがつた時分《じぶん》とは違《ちが》うて、あんたに色氣《いろけ》が着《つ》いた。それでな、舊《もと》のやうに、小母《をば》さん、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、611-9］《ねえ》さんは、と言惡《いひにく》い。處《ところ》で、つい、言《い》ひそゝくれてお了《しま》ひのであろ。何《なに》、むかし馴染《なじみ》ぢやあるけれど、今《いま》では女《をんな》と稱《い》ふものが分《わか》つたで、女《をんな》と男《をとこ》、男《をとこ》と女《をんな》、女《をんな》と男《をとこ》と云《い》ふことが胸《むね》にあるに因《よ》つて、私《わし》に遠慮《ゑんりよ》をして、雪《ゆき》のことを一寸《ちよつと》口《くち》へ出《だ》し惡《にく》い、とまあ言《い》うたわけぢやの、違《ちが》ふまい。むゝ。」
　面《おもて》を背《そむ》けてわれは笑《わら》ひぬ。繼母《まゝはゝ》は打頷《うちうなづ》き、
「それ見《み》なされ。そこは何《なん》と言《い》うても小母《をば》さんぢや。胸《むね》の中《なか》は、ちやんと見通《みとほし》の法印樣《ほふいんさま》。
　それで私《わし》も落着《おちつ》いた。いや、然《さ》ういふ心《こゝろ》なら。モ些《ちつ》とも怨《うら》みには思《おも》ひませぬ。何《ど》うして、あんたのやうな優《やさ》しい兒《こ》が、如何《いか》に餘所《よそ》に良《い》いことが出來《でき》たとて、さつぱりふいと、此方《こつち》を忘《わす》れなさるとは思《おも》やせなんだが、其處《そこ》は人情《にんじやう》。また何《ど》うであろと思《おも》うたで、一寸《ちよいと》氣《き》を引《ひ》いて見《み》たばかり。
　惡《わる》く取《と》られては困《こま》ります。こんな婆々《ばゞあ》が、こんな顏《かほ》で、こんな怨《うら》みつぽい事《こと》を言《い》うたとて、何《な》んとも思《おも》ひはしなさるまいが、何《なん》ぢやよ、雪《ゆき》が逢《あ》うても斯《か》う言《い》ひます。いま私《わし》の言《い》うたやうな事《こと》を言《い》ひますわいの。それはの、言《い》ふわけがあるからで。
　けれども、彼《あ》の女《こ》は、じたい、無口《むくち》で、しんみりで、控目《ひかへめ》で、内氣《うちき》で、何《ど》うして思《おも》ふ事《こと》を、さらけ出《だ》いて口《くち》で云《い》へるやうな性《たち》ではない。因《よ》つて、それ、私《わし》がの、其心《そのこゝろ》を察《さつ》して、彼《あ》の女《こ》の代《かは》りに言《い》ひました。
　雪《ゆき》ぢやと思《おも》うて聞《き》きなさい。そこは、私《わし》が丁《ちやん》とあんたの胸《むね》の裡《うち》を見透《みすか》したやうに、あの女《こ》のお腹《なか》んなかも破《わ》つたやうに知《し》つとるで、つい、嫌味《いやみ》なことを言《い》うたもの。
　あんたが然《さ》うした心《こゝろ》なら、彼《あ》の女《こ》が何《なに》、何《ど》うして居《ゐ》ようと、風《かぜ》が吹《ふ》くとも思《おも》やせぬ。……泣《な》いて居《ゐ》ようと、煩《わづら》つて居《ゐ》ようと、物《もの》も食《た》べられないで、骨《ほね》と皮《かは》ばかりに成《な》つて居《ゐ》ようと、髪《かみ》の毛《け》を※［＃「てへん＋毟」、第4水準2-78-12］《むし》られて居《ゐ》ようが、生爪《なまづめ》をはがれて燒火箸《やけひばし》で※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］《つ》かれて居《ゐ》ようが、乳《ちゝ》の下《した》を蹴《け》つけられて、呼吸《いき》の絶《た》えるやうな事《こと》が一日《いちにち》に二度《にど》ぐらゐづゝは屹《きつ》と有《あ》らうと、暗《くら》い處《ところ》に日《ひ》の目《め》も見《み》ないで、色《いろ》が眞蒼《まつさを》になつて居《ゐ》ようと、踏《ふみ》にじられてひい／＼呻《うめ》いて居《ゐ》ようと……其方《そつち》の事《こと》ぢや、私《わし》は構《かま》はぬ。ふむ、世《よ》の中《なか》にはそんな事《こと》もあるものですか、妙《めう》だね、ふゝゝで聞《き》き流《なが》いて、お能《のう》の※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、613-2］《ねえ》さんと面白《おもしろ》さうに、お取膳《とりぜん》で何《なに》か召《めし》あがつておいで遊《あそ》ばすやうな事《こと》もあるまいと思《おも》はれる。な、あんた。」
　顔《かほ》の色《いろ》も變《かは》りたるべし。冷《つめ》たき汗《あせ》にわが背《せ》のうるほひしぞ。默《もく》して聞《き》かるゝことかは。堪《た》へかねたれば遮《さへぎ》りたり。
「※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、613-6］《ねえ》さんは御機嫌《ごきげん》ですか。」
　繼母《まゝはゝ》は太《ふと》き聲《こゑ》にて。
「はい、生《い》きては居《ゐ》ます。死《し》にはせいで、あゝ、息《いき》のある内《うち》に、も一度《いちど》貢《みつぎ》さんの顏《かほ》が見《み》たいと云《い》うての。」
「え！」
「それが、然《さ》ういふ事《こと》口《くち》へ出《だ》しては謂《い》はれぬ女《こ》ぢやで、言《い》ひはせぬ。けれど、そこは小母《をば》さんちやんと見通《みとほ》し。ま、この大《おほ》きくおなりの處《ところ》を見《み》たら、何《ど》んなにか喜《よろこ》ぶであろ。それこそ死《し》なずに居《ゐ》た効《かひ》があると、喜《よろこ》びますぢやろ。あゝ、ほんとうに。」
「小母《をば》さん、逢《あ》ひたい。」
「む、逢《あ》ひたい、いや、それは小母《をば》さん丁《ちやん》と見通《みとほ》し。」
「お目《め》にかゝりたい、小母《をば》さん。」
「道理《もつとも》ぢや。」
「逢《あ》はして下《くだ》さいな。」
　と垣《かき》に伸上《のびあが》りぬ。繼母《まゝはゝ》は少《すこ》し退《すさ》りて、四邊《あたり》を見《み》まはし、聲《こゑ》を潛《ひそ》め、
「養子《やうし》がの、婿《むこ》がの、其《そ》の大變《たいへん》な男《をとこ》で、あんたを逢《あ》はしたりなんかしようもんなら……其《そ》れこそ。」

［＃５字下げ］井筒《ゐづつ》［＃「井筒」は大見出し］

［＃７字下げ］一［＃「一」は中見出し］

「貢《みつぎ》さん、何《なに》を其樣《そんな》にお鬱《ふさ》ぎだ。此間《このあひだ》から始終《しじう》くよ／＼しておいでぢやないか。言《い》つてお聞《き》かせ、何《ど》うしたの。何《なに》も私《わたし》に祕《かく》す事《こと》は無《な》いわ。」
　二三日來《にさんにちらい》、小親《こちか》われを見《み》ては憂慮《きづか》ひて、恁《かく》は問《と》うたりき。心《こゝろ》なく言《い》ふべきことにあらねば語《かた》らでありしが、此夜《このよ》は渠《かれ》とわれとのみ、傍《かたはら》に人《ひと》なき機《をり》なり。
「私《わたし》の事《こと》ぢやないよ。」
「おや他人《ひと》のことで苦勞《くらう》してるの、お前《まへ》さんは生意氣《なまいき》だね。」
　と打微笑《うちほゝゑ》む。浮《う》きたる事《こと》にはあらじ、われは眞顏《まがほ》になりぬ。
「だつて何《なに》も心配《しんぱい》をするのは、我身《わがみ》の事《こと》ばかりなものではない。他人《ひと》のだツて、爲《し》なきやならない心配《しんぱい》なら爲《し》ようぢやないか。お前《まへ》さんだつて、私《わたし》のことを心配《しんぱい》おしだから、それで聞《き》くんぢやないか、何《ど》うしたツて？」
「はい、はい。澤山《たんと》心配《しんぱい》をしておあげなさいまし。御道理《ごもつとも》なことだねえ、ほゝゝ。」
「また、そんな、最《も》う言《い》ふまいよ、詰《つま》らない。」
「ま、承《うけたまは》りませう。可《い》いからお話《はな》しなさい。大方《おほかた》、また廣岡《ひろをか》のお雪《ゆき》さんのこツたらう。」
「え、知《し》つてるの。」
「紅花染《べにはなぞめ》だね。お前《まへ》さんの心配《しんぱい》はと言《い》ふと、何時《いつ》でもお極《きま》りだよ。また何《ど》うかしたのかい。」
「あゝ、養子《やうし》が大變《たいへん》だと、酷《ひど》いんだとさ。あの、恐《おそろ》しい繼母《まゝはゝ》が、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、615-11］《ねえ》さん、※［＃「さんずい＋（戸の旧字＋犬）」、第3水準1-86-83］《なみだ》を流《なが》して、密《そつ》と話《はな》した位《くらゐ》だもの。大抵《たいてい》ではないと、然《さ》うお思《おも》ひ。お雪《ゆき》さんが可哀相《かはいさう》つちやない。やう／＼命《いのち》が有《あ》るばかりだと言《い》ふんだもの。※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、615-13］《ねえ》さん、眞面目《まじめ》になつて聞《き》いておくれ。いやに笑《わら》ふねえ。」
「ちつと妬《や》けますもの。」
「詰《つま》らない、ぢやあ言《い》ふまい。」
「いゝえ承《うけたまは》りませう。酷《ひど》いかね、養子《やうし》にや可《い》いのはないものだと云《い》ふけれど、其方《そつち》が酷《ひど》くツて、此方《こつち》が苛《いぢ》められるのは珍《めづら》しいね。そして、あの繼母《まゝはゝ》が着《つ》いてるぢやあないか。貢《みつぎ》さんに聞《き》いたやうでは。養子《やうし》に我儘《わがまゝ》なんかさせさうにも思《おも》はれないがね。」
　われも初《はじ》めは現在《いま》小親《こちか》の疑《うたが》ふ如《ごと》く疑《うたが》ひたるなり。
「其《それ》がね、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、616-5］《ねえ》さん、皆《みんな》金子《かね》のせゐですとさ。洪水《みづ》が出《で》て、家《うち》が流《なが》れた時《とき》、舊《もと》あつた財産《ざいさん》も家《いへ》も皆《みんな》なくなつて了《しま》つてね、仕方《しかた》が無《な》い時《とき》に其《その》養子《やうし》を貰《もら》つたんだツて。」
「持參金《もちこみ》かね。」
「えゝ、大分《だいぶん》の高《たか》だといふよ。初《はじめ》ツからお雪《ゆき》さんは嫌《きら》つて居《ゐ》た男《をとこ》だつてね。私《わたし》も知《し》つてる奴《やつ》だよ。萬吉《まんきち》てツて、通《とほり》の金持《かねもち》の息子《むすこ》なの。ねえ、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、616-9］《ねえ》さん、何《ど》う言《い》ふものか萬《まん》の字《じ》の着《つ》いたのに利口《りこう》なものは居《ゐ》ないよ。馬鹿萬《ばかまん》と云《い》ふのがあるしね、刎萬《はねまん》だの、それから鼻萬《はなまん》だのツて、皆《みんな》嫌《いや》な奴《やつ》さ。ありや名《な》でもつて同《おんな》じやうな申分《まをしぶん》のあるのが出來《でき》るのは、土地《とち》に因《よ》るんだとね。却《かへ》つて利口《りこう》なのも有《あ》るんだつて。」
「また、詰《つま》らないことを言出《いひだ》したよ。幾歳《いくつ》だねえ、お前《まへ》さんは。そんなこと云《い》つて居《ゐ》て、人《ひと》の心配《しんぱい》も何《なに》も出來《でき》るものぢやない。」
「だつて、其《それ》に違《ちが》ひないのだ。あのお雪《ゆき》さんの養子《やうし》に成《な》つてるのは、矢張《やつぱ》り萬《まん》といふ名《な》だからさ。私《わたし》がね、小《ちひ》さい時《とき》、萬《まん》はもう大《おほ》きな身《からだ》をして、良《い》い處《ところ》の息子《むすこ》の癖《くせ》に、萬金丹賣《まんきんたんうり》のね、能書《のうがき》を繪《ゑ》びらに刷《す》つたのが貰《もら》ひたいつて、革鞄《かばん》を持《も》つて、お供《とも》をして、嬉《うれ》しがつて、威張《ゐば》つて※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］行《ある》いた兒《こ》だものを。誰《だれ》が、そんな。
　だからお雪《ゆき》さんも嫌《きら》つて居《ゐ》たんださうだけれど、どつさりお金子《かね》を持《も》つて來《く》ると言《い》ふので、あの繼母《まゝはゝ》がね、是非《ぜひ》婿《むこ》にしよう、爲《し》なけりやあなりませんと、然《さ》う云《い》つたんだ、と。お雪《ゆき》さんが嫌《いや》だと云《い》つたけれど……あの、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、617-6］《ねえ》さんも知《し》つてるはずだよ。……私《わたし》の内《うち》に楓《かへで》の樹《き》があつて、往來《わうらい》へ枝《えだ》がさして茂《しげ》つてたのが、彼處《あすこ》の窓《まど》へ屆《とゞ》いたので、内《うち》が暗《くら》くつて、仕樣《しやう》がない。貢《みつぎ》の内《うち》へ掛合《かけあ》つて、伐《き》らして了《しま》ふと言《い》つた時分《じぶん》に、私《わたし》は何《なに》も知《し》らないけれど、お雪《ゆき》さんが、あれだけは、そんなかはいさうな事《こと》をしないで下《くだ》さい。後生《ごしやう》ですつて、止《と》めたんだ。……それがあの洪水《みづ》の時《とき》に流《なが》れ出《だ》して、大丈夫《だいぢやうぶ》だつた廣岡《ひろをか》の家《うち》へ衝※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］《ぶつか》つたので流《なが》れただらう、誰《だれ》のおかげだ……」

［＃７字下げ］二［＃「二」は中見出し］

「……皆《みんな》お前《まへ》の所爲《せゐ》ぢやないか。あの時《とき》伐《き》らしてさへ置《お》けば、こんなに路頭《ろとう》に立《た》つやうになるまで、家《うち》を流《なが》されるんぢやなかつたツて、難題《なんだい》を言《い》つて、それで、お雪《ゆき》さんも仕方《しかた》なしに、其養子《そのやうし》をしたんだつて。……其《それ》が酷《ひど》いんだ。
　小兒《こども》の内《うち》は間拔《まぬ》けのやうだつたけれど、すつかり人《ひと》が異《かは》つて、｜癇［＃底本では「癇」は「やまいだれ＋間」］癪持《かんしやくもち》の亂暴《らんばう》な奴《やつ》になつたと見《み》えるんだよ。……※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、618-2］《ねえ》さん、年紀《とし》がゆくと變《かは》るものか知《し》ら。」
　小親《こちか》は火箸《ひばし》もて炭《すみ》［＃底本では「炭」は「山／（恢－りっしんべん）」］を挾《はさ》みたる手《て》を留《と》めて、
「そりや、變《かは》るね。貢《みつぎ》さんだつて考《かんが》へて御覽《ごらん》なさい、大《たい》そう異《かは》つたぢやあないか。」
「私《わたし》は何《なに》、大《おほ》きくなつたばかりだね。」
「いゝえ、些《ちつ》と※［＃「りっしんべん＋曾」、第3水準1-84-62］《にく》らしくもおなりだよ。」
「然《さ》うかね。」
「其《そ》の口《くち》だよ、※［＃「りっしんべん＋曾」、第3水準1-84-62］《にく》らしい。」
「ぢや澤山《たくさん》※［＃「りっしんべん＋曾」、第3水準1-84-62］《にく》んでおくれ。可《い》いよ、何《ど》うせ※［＃「りっしんべん＋曾」、第3水準1-84-62］《にく》まれツ兒《こ》だ、構《かま》やあしない。」
　小親《こちか》は淸《すゞ》しき目《め》を※［＃「目＋爭」、第3水準1-88-85］《みは》りぬ。
「いゝえ、可愛《かはい》がるよ。」
「そんな事《こと》いふからだ。今《いま》でも皆《みんな》でなぶつて不可《いけな》い。いろんな事《こと》をいふもんだから、人《ひと》の前《まへ》でうつかりした口《くち》も利《き》けまいぢやないか。一所《いつしよ》に居《ゐ》て、さうして、何《なに》も私《わたし》は※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、618-13］《ねえ》さんにものを云《い》ふのに、遠慮《ゑんりよ》をすることは要《い》らないわけだと思《おも》ふけれど、皆《みんな》がなぶるから、つい、何《なん》でも考《かんが》へて爲《し》たり、考《かんが》へてものを云《い》つたりしなけりやならないよ。窮屈《きうくつ》で弱《よわ》つてしまふ。皆《みんな》が何《ど》うして如彼《あゝ》だらう。」
　莞爾《につこり》して、
「然《さ》やうでございますね。」
「眞個《ほんとう》にお聞《き》き、眞面目《まじめ》でさ。」
「畏《かしこ》まりました。」
「そら、然《さ》うだから不可《いけな》いよ。※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、619-5］《ねえ》さん、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、619-5］《ねえ》さんと云《い》ふものはね、年《とし》のいかない弟《おとうと》に、そんなことを爲《す》るもんぢやあないよ。ちやんと※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、619-6］顏《あねがほ》をして澄《す》まして居《ゐ》なくつちやあ。妙《めう》にお客《きやく》あしらひで、私《わたし》をばお大事《だいじ》のもののやうにして、其《そ》の癖《くせ》ふざけるから、皆《みんな》が種々《いろん》なこと云《い》ふんぢやアあるまいかね。立派《りつぱ》に※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、619-8］《ねえ》さんの顏《かほ》をして、貢《みつぎ》、はい、といふやうにして御覽《ごらん》。をかしなことは無《な》くなるに違《ちが》ひないから。さうしてなかよくして、ね、可愛《かはい》がつておくれ。私《わたし》も心細《こゝろぼそ》いんだもの。」
　いひかけて顏《かほ》を見合《みあは》せぬ。小親《こちか》は炭《すみ》を繼《つ》ぎて火箸《ひばし》もて、火《ひ》をならしながら、良《やゝ》ありて後《のち》しめやかに頷《うなづ》きたり。秋《あき》の末《すゑ》なれば月《つき》の影《かげ》冷《ひやゝ》かなりし。小親《こちか》は後《うしろ》むきて其方《そなた》を見《み》たる、窓《まど》少《すこ》し開《あ》きたりしが、見《み》たるまゝ閉《し》めむともせで、また此方《こなた》に向《む》きぬ。
「そして、お雪《ゆき》さんは何《ど》うしたの。」
「それがね、酷《ひど》いんだ。他人《ひと》の口《くち》から言《い》つたのなら何《なん》だけれど、あの繼母《まゝはゝ》が我身《わがみ》で我身《わがみ》の邪慳《じやけん》だつたことを私《わたし》に話《はな》したんだよ。
　そんな風《ふう》にして、無理《むり》に推着《おツつ》けて婿《むこ》を取《と》らしたが、實《じつ》は何《なに》、路頭《ろとう》に立《た》つなんて、それほど窮《こま》りもしなんだのを、慾張《よくば》りで、お金子《かね》が欲《ほ》しさに無理《むり》に貰《もら》つたが惡《わる》いことを爲《し》たツて、言《い》ふんだ。
　其《それ》がと云《い》ふと、養子《やうし》の奴《やつ》が、飛《と》んだ癇癪持《かんしやくもち》で、別《べつ》に、他《ほか》に浮氣《うはき》なんぞするでもなしに、朝《あさ》から晩《ばん》まで、お雪《ゆき》さんを苛《いぢ》めるんだつてね。今《いま》まで苛《いぢ》めて居《ゐ》た繼母《まゝはゝ》さへ見《み》るに見兼《みか》ねると云《い》ふんだから酷《ひど》いではないか。ねえ、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、620-5］《ねえ》さん。
　其上《それに》、はじめお雪《ゆき》さんを無理強《むりじ》ひにした言草《いひぐさ》が、私《わたし》の内《うち》の楓《かへで》の樹《き》で、それをお雪《ゆき》さんが太《ひど》く庇《かば》つて伐《き》らさなかつたから此樣《こんな》ことが起《おこ》つたんだつてね、……そして何故《なぜ》楓《かへで》の樹《き》を伐《き》らさなかつたらう。それは一《ひと》ツ貢《みつぎ》さん、あなたが考《かんが》へて見《み》ておくれツて繼母《まゝはゝ》が言《い》ひましたさ。」
　煙管《きせる》をば取《と》りあげつ。小親《こちか》は煙草《たばこ》の箱《はこ》彈《はじ》きながら、
「そして。」
「私《わたし》、考《かんが》へた。」

［＃７字下げ］三［＃「三」は中見出し］

「何《なん》だか分《わか》りませんツて、繼母《まゝはゝ》には言《い》つたけれど、考《かんが》へて見《み》ると、何《なん》だかねえ、遠《とほ》い處《ところ》に、幽《かすか》に小《ちひ》さい、楓《かへで》の樹《き》のこんもり［＃「こんもり」に傍点］葉《は》の繁《しげ》つたのが見《み》えて、其《その》※［＃「糸＋碌のつくり」、第3水準1-90-8］色《みどりいろ》が濡《ぬ》れて居《ゐ》るのに、太陽《ひ》がさして、空《そら》が蒼《あを》く晴《は》れた處《ところ》に、キラ／＼とうつくしいものが振下《ぶらさが》つて……其《それ》にね、白《しろ》い手《て》で、高《たか》い處《ところ》の枝《えだ》に結《ゆは》ひつけておいでのお雪《ゆき》さんが、夢《ゆめ》のやうに思《おも》ひ出《だ》されるんだよ。だもんだから、何《なん》だか私《わたし》のために、お雪《ゆき》さんが、そんな養子《やうし》を推着《おツつ》けられて、酷《ひど》いめにあはされて居《ゐ》るやうにね、何《なん》といふことなしに、我身《わがみ》で極《き》めてしまつたんだもの。可哀相《かはいさう》で堪《たま》らないんでね、つい、鬱《ふさ》ぐの。」
　言《い》ふほどにまた幻《まぼろし》見《み》ゆ。空《そら》蒼《あを》く日《ひ》の影《かげ》花《はな》やかに、※［＃「糸＋碌のつくり」、第3水準1-90-8］《みどり》の色《いろ》濃《こ》き楓《かへで》の葉《は》に、金紙《きんし》、銀紙《ぎんし》の蝶《てふ》の形《かたち》ひらひらと風《かぜ》にゆれて、差《さし》のばしたまふ白《しろ》く細《ほそ》き手《て》の、其《その》※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、621-6］上《あねうへ》の姿《すがた》ながら、室《へや》の片隅《かたすみ》の暗《くら》きあたり鮮麗《あざやか》にフト在《あ》るを、見返《みかへ》せば、月《つき》の影《かげ》窓《まど》より漏《も》れて、青《あを》き一條《いちでう》の光《ひかり》、疊《たゝみ》の上《うへ》に映《さ》したるなり。うつとりせしが心着《こゝろづ》きぬ。此方《こなた》には灯影《ほかげ》あかく、うつくしき小親《こちか》の顏《かほ》むかひあひて、額《ひたひ》近《ちか》きわが目《め》の前《さき》に、太《いた》く物《もの》おもふ色《いろ》なりき。
　われは堪《こら》へず俯向《うつむ》きぬ。
「そしてまあ、其《その》繼母《まゝはゝ》はまた何《なん》だつて遠《とほ》まはしに、貢《みつぎ》さんの故《せゐ》のやうに推《おし》つけて聞《き》かしたんだらうね。お前《まへ》さんに何《ど》うか爲《し》てくれろといふのかね。貢《みつぎ》さん、お前《まへ》さんが心配《しんぱい》をすれば何《ど》うにか成《な》るとでも云《い》ふやうな事《こと》を、繼母《まゝはゝ》が知《し》つてて言《い》ふやうにも承《と》れるがねえ。一體《いつたい》何《ど》うしたといふんだらうね。」
　小親《こちか》は身《み》に沁《し》みて聞《き》きたりけむ、言《い》ふ聲《こゑ》も落着《おちつ》きたり。
「でね、繼母《まゝはゝ》が然《さ》ういつたよ。貢《みつぎ》さん、あんたは小親《こちか》といふ人《ひと》に可愛《かはい》がられて居《ゐ》るんだらうツて。」
「お前《まへ》さんは、何《なん》と言《い》つたの。」
「默《だま》つて居《ゐ》ました。」
「さうかい。」
　とばかり寂《さび》しく笑《わら》ひぬ。煙管《きせる》は火鉢《ひばち》に橫《よこた》うたり。
「何《ど》うしたの、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、622-6］《ねえ》さん。」
「何《なに》、可《い》いよ。」
「だつてをかしいもの、ね、そりや私《わたし》を可愛《かはい》がつておくれだけれど……何《なん》だか、をかしいなあ。」
「何《なに》が、え？何《なに》がをかしいの。」と口早《くちばや》にいふ、血《ち》の色《いろ》薄《うす》く瞼《まぶた》を染《そ》めぬ。
「何《なに》も氣《き》をまはすことはないよ、眞面目《まじめ》ぢやあ困《こま》るわね。私《わたし》あ何《なん》とも思《おも》やしない、串戲《じようだん》さ。何故《なぜ》ね、然《さ》う云《い》ふことを聞《き》いたら、そりや可愛《かはい》がつてくれますとも、と恁《か》うお言《い》ひぢやないツて云《い》ふのさ。串戲《じようだん》だよ、串戲《じようだん》だけれどもねえ、其位《そのくらゐ》にさばけておくれだと、それこそお前《まへ》さんの言草《いひぐさ》ぢやあないが、誰《だれ》も冷《ひや》かしたり、なぶつたりなんぞ爲《し》ないやうになつちまふわね。え、貢《みつぎ》さん、さうぢやないか。しかし不可《いけな》いかい。」
「だつて極《きまり》が惡《わる》いもの。」
「何故《なぜ》さ。」
「何故《なぜ》つて、然《さ》う云《い》ふとね、他人《たにん》は何《なん》だもの、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、623-2］弟《きやうだい》だと思《おも》はないで、をかしく聞《き》くんだからね。」
「何《なん》と聞《きこ》えるんだね。」
「何《なん》だか、をかしい。」
「まあさ、何《なん》と聞《きこ》えるんだねえ、貢《みつぎ》さん。」
「それはね、あの……」
「何《なん》だね。」
「お能《のう》の※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、623-8］《ねえ》さん。」
「厭《いや》だよ！」

［＃７字下げ］四［＃「四」は中見出し］

「しかし御《お》察《さつ》しの可《い》いことね、繼母《まゝはゝ》も何《ど》うして洒落《しやれ》てるよ。然《さ》う云《い》つてくれたのなら、私《わたし》や其人《そのひと》に禮《れい》を言《い》はうや。貢《みつぎ》さん、逢《あ》つたら宜《よろ》しくと申《まを》しておくれ。」
「むかうでも然《さ》う云《い》つたよ。小親《こちか》によろしくツて。」
「何《なん》のこツたね。」
「其《それ》が、何《なん》だつて、其養子《そのやうし》がね、大※［＃「尸＋曾」、第3水準1-47-65］《たいそう》※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、624-1］《ねえ》さんのことを、美《い》い女《をんな》だつてね、云《い》つてるさうだ。」
　煙管《きせる》を落《おと》して、火鉢《ひばち》の※［＃「糸＋彖」、第3水準1-90-13］《ふち》をおさへつゝ、小親《こちか》は新《あたら》しくわが顏《かほ》を瞻《みまも》りぬ。
「何時《いつ》か見物《けんぶつ》をしたんだらうね。」
　小親《こちか》はこれを聞《き》きて笑《ゑ》みを含《ふく》み、
「貢《みつぎ》さん、もう大抵《たいてい》分《わか》つたよ。道理《だうり》でお前《まへ》さんは妙《めう》な顏《かほ》をしちやあ、此間《こなひだ》ツから私《わたし》を見《み》て居《ゐ》たんだわ。あゝ、そしてお前《まへ》さんは何《ど》う思《おも》ひます。」
「何《なに》をさ。」
「何《なに》をつて、繼母《まゝはゝ》はお前《まへ》さんに私《わたし》となか［＃「なか」に傍点］が好《い》いかツて聞《き》いたらう。」
「そりや聞《き》いたよ。今《いま》も話《はな》したやうに。」
「道理《だうり》で。」
　とまた獨《ひと》り頷《うなづ》きつゝ、
「貢《みつぎ》さん、そして何《なん》だらう、お前《まへ》さんの口《くち》から、ものを私《わたし》に賴《たの》んでくれと言《い》やあしないかい。」
「えゝ。」
「云《い》つたらうね、ほゝゝ、解《わか》つてるよ、解《わか》つてるよ。」
　とまた笑《わら》へり。
「獨《ひとり》で承知《しようち》してるのね、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、625-1］《ねえ》さん。」
「うつかりぢやあないわね、可《い》いよ、萬更《まんざら》知《し》らない方《かた》ぢやあなし、私《わたし》も一度《いちど》お目《め》に懸《かゝ》つて、優《やさ》しさうな可《い》い方《かた》だと思《おも》つてるもの。お雪《ゆき》さんが那樣《そんな》酷《ひど》いめに逢《あ》つて居《ゐ》なさるんなら、可《い》いよ、貢《みつぎ》さん、お前《まへ》さんにつけて、其位《そのくらゐ》なことならばしてあげようや。」
　と靜《しづか》にいふ、思《おも》ひの外《ほか》なれば訝《いぶか》りもし、はた危《あやぶ》みもしつ。
「解《わか》つてるの。※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、625-6］《ねえ》さんが何《ど》うにかしておくれなら、其《それ》を言《いひ》ぐさにして、不品行《ふみもち》だからつて、其養子《そのやうし》を出《だ》して遣《や》らう。そんな奴《やつ》だけれど、唯《たゞ》、疎※［＃「勹＜夕」、第3水準1-14-76］《そそう》があるの、不遇《ぶあしらひ》をするのツて、お雪《ゆき》さんを苛《いぢ》めるばかり。何《なに》も良人《をつと》の權《けん》だから、其《それ》をとやかう言《い》ふわけのものではない。他《ほか》に落度《おちど》は無《な》いものを、立派《りつぱ》な親類《しんるゐ》が澤山《たくさん》控《ひか》へて居《ゐ》るにつけて、此方《こつち》から手《て》の出《だ》しやうがない。そんならつて、浮氣《うはき》などするんぢや無《な》し、生眞面目《きまじめ》だから手《て》も着《つ》けられないで居《ゐ》たのに、つひぞ無《な》い、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、625-10］《ねえ》さんを見《み》て、まるで夢中《むちう》だから、屹度《きつと》其《その》何《なん》なんだつて。而《そ》して、何《ど》うかしておくれなら、もう一廉《ひとかど》のものいひがつく。屹度《きつと》叩《たゝ》き出《だ》してお雪《ゆき》さんを助《たす》けると繼母《まゝはゝ》が云《い》ふんだがね。――承知《しようち》だ、宜《よろ》しいツて、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、625-12］《ねえ》さん、何《ど》うして分《わか》つたんだね。何《ど》うして知《し》つておいでなんだい。」
　小親《こちか》は俯向《うつむ》きたる顏《かほ》をあげて、
「貢《みつぎ》さん、お前《まへ》さんは何《なん》とも思《おも》つちやあ居《ゐ》まいけれど、私《わたし》は何《なん》だよ、お前《まへ》さんの事《こと》はと云《い》ふと、みんな夢《ゆめ》に見《み》て知《し》ツてるよ。此間《このあひだ》だつけ、今《いま》だから云《い》ふんだがね、眞闇《まつくら》な處《ところ》でね、あツと云《い》ふ聲《こゑ》が聞《きこ》えるから、吃驚《びつくり》して見《み》ると、何《なん》だつたの。獸《けだもの》のね、恐《おそ》ろしいものに追懸《おつか》けられて、お前《まへ》さんと、お雪《ゆき》さんと抱《だ》き合《あ》つて、お隣《となり》の井戸《ゐど》の中《なか》へ落《おつ》こちたのを見《み》て、はツと思《おも》つて目《め》が覺《さ》めたもんだから。……」
　われは慄然《りつぜん》として四邊《あたり》を見《み》たり。小親《こちか》は急《きふ》に座《ざ》を起《た》ちしが、衣《きぬ》の裳《すそ》踵《かゝと》にからみたるに、よろめきてハタと膝《ひざ》折《を》りたる、其《その》まゝ手《て》を伸《の》べて小窓《こまど》の戸《と》閉《とざ》したり。月《つき》の明《あか》り疊《たゝみ》に失《う》せて、透間洩《すきまも》りし木《こ》の葉《は》の影《かげ》、浮《う》いてあがるやうにフト消《き》えて見《み》えずなりぬ。一室《ひとま》の内《うち》燈《ともしび》の隈《くま》なくはなりたれど、夜《よる》の色《いろ》籠《こも》りたれば暗《くら》かりき。さや／＼と音《おと》さして、小親《こちか》は半纒《はんてん》の襟《えり》引合《ひきあは》せ、胸《むね》少《すこ》し火鉢《ひばち》の上《うへ》に蔽《おほ》ふやう、兩手《りやうて》をば上《あ》げて炭火《すみび》にかざしつ。
「もつとお寄《よ》りでないか。貢《みつぎ》さん、夜《よ》が更《ふ》けたよ。」

［＃７字下げ］五［＃「五」は中見出し］

　袷《あはせ》の上《うへ》より、ソトわが胸《むね》を撫《な》でて見《み》つ。
「薄着《うすぎ》のせゐかね、動悸《どうき》がしてるよ。お前《まへ》さん、そんなに思《おも》ひ詰《つ》めるものではないわ。そりやお雪《ゆき》さんのことを忘《わす》れないで、心配《しんぱい》をしておあげなのは、お前《まへ》さんが薄情《はくじやう》でないからで、私《わたし》だつて嬉《うれ》しいよ。ねえ、貢《みつぎ》さん、實《じつ》のある弟《おとうと》を持《も》つたと思《おも》つて、人《ひと》のことに心配《しんぱい》をおしのでも、私《わたし》は惡《わる》い氣《き》はしませんよ。けれども、そんなに思《おも》ひ詰《つ》めちやあ、眞個《ほんとう》に大事《だいじ》な身體《からだ》を何《ど》うおしだえ。氣味《きみ》の惡《わる》い夢《ゆめ》だつたから、心配《しんぱい》でならないので、稻《いな》ちやんにも然《さ》ういつて、初終《しよつちう》氣《き》を着《つ》けて居《ゐ》たんだもの。人《ひと》にかくれちや、繼母《まゝはゝ》とちよい／＼おはなしのことも知《し》つてるんだよ。此方《こつち》から言《い》ひ出《だ》す分《ぶん》ではなかつたから、知《し》らない顏《かほ》で見《み》て居《ゐ》たけれど［＃「居たけれど」は底本では「居たけれで」］、堪《たま》らないほどお鬱《ふさ》ぎだもの。可《い》いよ、もう何《ど》うにかしてあげようや、貢《みつぎ》さん。」
　吐息《といき》もつかれ、
「ぢやあ、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、627-8］《ねえ》さん、あの養子《やうし》を、だましてくれるの。」
「ま、しやうがないわね。」
「だつて、酷《ひど》い奴《やつ》だといふよ。」
「たかが田舎※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《ゐなかもの》さ。」
「そして、何《ど》うして？※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、627-12］《ねえ》さん。」
「狸《たぬき》を御覽《ごらん》よ、ほゝ、ほゝゝ。」
「あゝ、一人《ひとり》助《たす》かつた。」
　小親《こちか》が顏《かほ》の色《いろ》沈《しづ》みたり。
「しかし、貢《みつぎ》さん善《い》いことだとは思《おも》ふまいね。」
　胸《むね》痛《いた》かりし。われは答《こたへ》にためらひたり。
「善《い》いことだとは思《おも》ふまいね、貢《みつぎ》さん。」
　其心《そのこゝろ》俄《にはか》に料《はか》りかねたる、胸《むね》はまた轟《とゞろ》きぬ。
「私《わたし》や、藝人《げいにん》でありながら、お前《まへ》さんに逢《あ》つてから、隨分《ずゐぶん》大事《だいじ》に身《み》を持《も》つたよ。よ、貢《みつぎ》さん、人《ひと》に後指《うしろゆび》さされちやあ、お前《まへ》さんの肩身《かたみ》が狹《せま》いだらうと思《おも》つたし、其上《そのうへ》また點《てん》を打《う》たれる身《み》になるとね。」
　小親《こちか》引寄《ひきよ》せて、わが手《て》を取《と》りたり。
「お前《まへ》さんは何《なん》にも知《し》るまいけれど、何《ど》うせ、何《ど》うせ、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、628-9］《あね》の役《やく》ツきやあ勤《つと》まらない私《わたし》だけれど、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、628-10］《あね》だツて、よ、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、628-10］《あね》だツて、人《ひと》に後指《うしろゆび》さされたり、些《ちつと》でも、お前《まへ》さんと恁《か》うやつて居《ゐ》ることの、邪魔《じやま》になるやうな人《ひと》が私《わたし》に有《あ》つては厭《いや》だから、そりや隨分《ずゐぶん》出來《でき》にくい苦勞《くらう》もしたもの。何《なん》にも恩《おん》に被《き》せるんぢやあない。怨《うらみ》をいふんぢやあない。不足《ふそく》を云《い》ふんぢや無《な》いけれど……貢《みつぎ》さん、廣岡《ひろをか》のお孃《ぢやう》さんの顏《かほ》が見《み》られるやうになりさへすりや、私《わたし》や、私《わたし》や、何《ど》うなつても可《い》いのかい。よ、よ、私《わたし》や何《ど》うなつても、可《い》いのかよう。」
　烈《はげ》しく手《て》の震《ふる》ひたればか、何《なん》のはずみなりけむ、火箸《ひばし》橫《よこ》に寢《ね》て、其半《そのなか》ば埋《うづも》れしが、見《み》る間《ま》に音《おと》もなく、ものの動《うご》くともなく、灰《はひ》［＃底本では「灰」は「恢－りっしんべん」］の中《なか》にとぼ／＼と深《ふか》く沈《しづ》みたり。
「あら、起《おこ》しますよ。」
「可《い》いよ。」
　わが指《ゆび》のさき少《すこ》しく灰《はひ》にまみれたれば。小親《こちか》手首《てくび》を持《もち》添《そ》へて、掌《たなそこ》をかへしてぢつと見《み》つ。下着《したぎ》の袖口《そでくち》引出《ひきいだ》して拂《はら》ひ去《さ》るとて、はら／＼と※［＃「さんずい＋（戸の旧字＋犬）」、第3水準1-86-83］をぞ落《おと》したる。
　わが身體《からだ》の筋《すぢ》皆《みな》動《うご》きぬ。
「御※［＃「俛のつくり」の「危－厄」に代えて「刀」、第3水準1-14-48］《ごめん》なさい。」
　小親《こちか》は※［＃「さんずい＋（戸の旧字＋犬）」、第3水準1-86-83］《なみだ》ぐみたるまゝ目《め》を※［＃「目＋爭」、第3水準1-88-85］《みは》りぬ。
「御※［＃「俛のつくり」の「危－厄」に代えて「刀」、第3水準1-14-48］《ごめん》なさい。私《わたし》が惡《わる》かつた。」
　さしうつむきて聲《こゑ》を呑《の》みたり。
「惡《わる》かつた、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、-］《ねえ》さん、さげすんでおくれでない。廣岡《ひろをか》の※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、-］《ねえ》さんも私《わたし》にやあ何《ど》んなにか優《やさ》しかつたらう。母《おつか》さんのなくなつた時《とき》から、好《すき》な琴《こと》彈《ひ》かなくなつておしまひだもの。此位《このくらゐ》な思《おもひ》を私《わたし》がするのは、一度《いちど》は當前《あたりまへ》だつたと思《おも》つて、堪忍《かんにん》しておくれ。惡《わる》かつた、眞個《ほんとう》にさもしいことだつた、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、-］《ねえ》さん、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、-］《ねえ》さん。」
　こたへなければ繰返《くりかへ》しぬ。
「※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、-］《ねえ》さん！」
　ひたと寄《よ》り添《そ》ひ、肩《かた》を抱《いだ》きて、屹《きつ》と顏《かほ》を見合《みあは》せぬ。
「あれ！」
　と叫《い》ふ聲《こゑ》、廣岡《ひろをか》の家《いへ》より聞《きこ》えつ。

［＃５字下げ］重《かさね》井《ゐ》筒《づつ》［＃「重井筒」は大見出し］

［＃７字下げ］一［＃「一」は中見出し］

　井戸《ゐど》一《ひと》ツ地境《ぢざかひ》に挾《はさ》まりて、わが假小屋《かりごや》にて其半《そのなかば》を、廣岡《ひろをか》にて其半《そのなかば》を使《つか》ひたりし、蓋《ふた》は二《ふた》ツに折《を》るゝやう、蝶番《てふつがひ》もて拵《こしら》へたり。井戸《ゐど》の蓋《ふた》と隔《へだ》ての戸《と》とを此《これ》にて兼《か》ね、一方《いつぱう》を當《あ》てて夜※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］《よごと》には彼方《かなた》と此方《こなた》を垣《かき》したる、透間《すきま》少《すこ》し有《あ》りたる中《なか》より、奮發《はず》みたる鞠《まり》の如《ごと》く。衝《つ》と潛《くゞ》り出《い》でて、戸《と》障子《しやうじ》に打衝《うちあた》る音《おと》凄《すさま》じく、室《ま》の内《うち》に躍《をど》り込《こ》むよと見《み》えし、くる／＼と舞《ま》ひて四隅《よすみ》の壁《かべ》に※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］當《つきあた》る、出處《でどころ》なければ引返《ひつかへ》さむとする時《とき》、慌《あわたゞ》しく立《た》ちたるわれに、又《また》道《みち》を妨《さまた》げられて、座中《ざなか》に踞《うづくま》りたるは汚《きたな》き猫《ねこ》なりき。
　背《せ》をすくめて四足《しそく》を立《た》て、眼《め》を瞋《いか》らして呻《うな》りたる、口《くち》には哀《あは》れなる鳩《はと》一羽《いちは》くはへたり。餌《ゑ》にとて盗《ぬす》みしな。鳩《はと》はなかば 屠《ほふ》られて、羽《は》の色《いろ》の純白《じゆんぱく》なるが斑《まだら》に血《ち》の痕《あと》をぞ印《いん》したる。二《ふた》ツ三《み》ツ片羽《かたはね》羽《は》たゝきたれど、早《は》や弱《よわ》り果《は》てたる※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》なり。
「畜生《ちくしやう》！」
　と鋭《するど》く叫《さけ》び、小親《こちか》片膝《かたひざ》立《た》てて身構《みがま》へながら、落《お》ちたる煙管《きせる》の羅宇《らお》長《なが》きを、力《ちから》籠《こ》めて掉《ふり》かざせし、吸殘《すひのこ》りけむ煙草《たばこ》の煙《けむり》、小《ちひ》さく渦卷《うづま》きて消《き》え失《う》せたり。
「あ痛《いつ》、あ、あ、痛《いつゝ》。」
　うつくしき眉《まゆ》を顰《ひそ》めつゝ、はたと得物《えもの》を取落《とりおと》しぬ。
　驚《おどろ》きてわが走《はし》り寄《よ》る時《とき》、遁路《にげみち》あきたれば潛《くゞ》り拔《ぬ》けて、猫《ねこ》は飛《と》び出《い》で、遠《とほ》く走《はし》る音《おと》して寂然《ひつそ》となりたり。
「何《ど》うしたんだね、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、631-10］《ねえ》さん、何《ど》うしたんだね。」
　小親《こちか》は玉《たま》の腕《かひな》投《な》げ出《いだ》して、右手《めて》もて擦《さす》りながら肱《ひぢ》を曲《ま》げ、手《て》の甲《かふ》を※［＃「夾＋頁」、第3水準1-93-90］《ほゝ》にあてて、口《くち》もて其脈《そのみやく》の處《ところ》を強《つよ》く吸《す》ひぬ。
「僂麻質《りゆうまち》かい、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、631-13］《ねえ》さん。」
　と危《あや》ぶみ問《と》ひたる、わが聲《こゑ》は思《おも》はず震《ふる》ひぬ。
「あら、顏《かほ》の色《いろ》を變《か》へて、眞蒼《まつさを》だね。そんなに吃驚《びつくり》したのかね、氣《き》の弱《よわ》い。」
　却《かへ》つてわれを激《はげ》ましぬ。
「いゝえ、猫《ねこ》にも驚《おどろ》いたけれど、りゆうまちぢやあ無《な》いかい。え、僂麻質《りゆうまち》ぢやあないかい。」
「ちよいとだよ。何《なん》でも無《な》いんだよ、何《なに》をそんなに。たかがりゆうまちだもの、生命《いのち》を取《と》られるほどのことは無《な》いから。」
「でも、私《わたし》はもう、僂麻質《りゆうまち》と聞《き》いても悚然《ぞつと》するよ。何《なに》より恐《こは》いんだ。何故《なぜ》ツてまた小六《ころく》さんのやうに。」
「磔《はりつけ》！」
　言《い》ひたる小親《こちか》も色《いろ》をかへぬ。太《ひと》き溜息《ためいき》吻《ほ》とつきて、
「鶴龜《つるかめ》、々々《／＼》。あゝ、然《さ》ういつたばかりでも、私《わたし》や胸《むね》が痛《いた》いよ、貢《みつぎ》さん、ほんとに小六《ころく》さんも何《ど》うおしだらうね。」
　物語《ものがたり》の銀六《ぎんろく》は、蛇責《へびぜめ》の釜《かま》に入《い》りたる身《み》の經驗《おぼえ》ありたれば、一《ひと》たび其事《そのこと》を耳《みゝ》にするより、蒼《あを》くなりて、何《なに》とて生命《いのち》の續《つゞ》くべきと、老《おい》の目《め》に※［＃「さんずい＋（戸の旧字＋犬）」、第3水準1-86-83］《なみだ》泛《うか》べしなり。されど氣丈《きぢやう》なる女《ひと》なれば、今《いま》なほ恙《つゝが》なかるべし。
　小親《こちか》いまだ其頃《そのころ》は、牛若《うしわか》の役《やく》勤《つと》めて居《ゐ》つ。銀六《ぎんろく》も健《すこや》かに演劇《しばゐ》の眞似《まね》して、われは哀《あはれ》なる鞠唄《まりうた》うたひつゝ、しのぶと踊《をどり》などしたりし折《をり》なり。
　恰《あたか》もいま小親《こちか》が猫《ねこ》を追《お》はむとて、煙管《きせる》翳《かざ》したる其《そ》の※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《さま》なりしよ。越前《ゑちぜん》府中《ふちう》の舞臺《ぶたい》にて、道成寺《だうじやうじ》の舞《まひ》の半《なか》ばに、小六《ころく》其《その》撞木《しゆもく》を振上《ふりあ》げたるトタンに左手《ゆんで》動《うご》かずなり、右手《めて》も筋《すぢ》つるとて、立《たち》すくみになりて、樂屋《がくや》に舁《か》かれて來《き》ぬ。
　然《しか》らざりし以前《いぜん》より、渠《かれ》はこの僂麻質《りゆうまち》の持病《ぢびやう》に惱《なや》みて、假初《かりそめ》なる俥《くるま》の上下《じやうげ》にも、小幾《こいく》、重子《しげこ》など、肩《かた》貸《か》し、腰《こし》を抱《だ》きなどせしなり。
　月日《つきひ》に痛《いた》み重《おも》るを、苦忍《くにん》して、強《し》ひて裝束《しやうぞく》着《つ》けたりしが、其時《そのとき》より亦《また》起《た》たずなりき。
　樂屋《がくや》にては小親《こちか》の緋鹿子《ひがのこ》のそれとは違《ちが》ひ、黑《くろ》き天鵞絨《びろうど》の座蒲團《ざぶとん》に、蓮葉《はすは》に片膝《かたひざ》立《た》てながら、繻子《しゆす》の襟《えり》着《つ》いたる粗《あら》き竪縞《たてじま》の布子《ぬのこ》羽織《はお》りて被《き》つ。帶《おび》も〆《し》めで、懷中《ふところ》より片手《かたて》出《だ》して火鉢《ひばち》に翳《かざ》し、烈々《れつ／＼》たる炭火《すみび》堆《うづたか》きに酒《さけ》の燗《かん》して、片手《かたて》に鼓《つゞみ》の皮《かは》乾《かわ》かしなどしたる、今《いま》も目《め》に見《み》ゆる。
　手《て》の利《き》かねば、割膝《わりひざ》にわが小《ちひ》さき體《からだ》引挾《ひつぱさ》みて、渋面《じふめん》つくるが可笑《をかし》とて、しば／＼血《ち》を吸《す》ひて、小親《こちか》來《き》て、わびて、引放《ひきはな》つまでは執念《しふね》く放《はな》たざりし寛濶《くわんくわつ》なる笑聲《わらひごゑ》の、はじめは恐《おそろ》しかりしが、果《はて》は懷《なつか》しくなりて、そと後《うしろ》より小《ちひ》さき手《て》に目隱《めかくし》して戲《たはむ》れたりし、日數《ひかず》もなく、小六《ころく》は重《おも》き枕《まくら》に就《つ》きつ。
　湯《ゆ》を呑《の》むにさへ、人《ひと》の手《て》かりたりしを、情《なさけ》なき一座《いちざ》の親方《おやかた》の、身《み》の代《しろ》取《と》りて、其《そ》の半《なかば》不隨《ふずゐ》の身《み》を賣《う》りぬ。
　買《か》ひたるは手品師《てじなし》にて、觀世物《みせもの》の磔《はりつけ》にするなりき。身體《からだ》は利《き》かでも可《よ》し、槍《やり》にて※［＃「穴かんむり／犬」、第3水準1-89-49］《つ》く時《とき》、手《て》と足《あし》※［＃「てへん＋爭」、第4水準2-13-24］《もが》きて、苦《あ》と苦痛《くつう》の聲《こゑ》絞《しぼ》らするまでなれば。これにぞ銀六《ぎんろく》の泣《な》きしなる。
「ほんとにねえ、貢《みつぎ》さん。」

［＃７字下げ］二［＃「二」は中見出し］

　小親《こちか》行《ゆ》きて、泣《な》く泣《な》く小六《ころく》の枕頭《まくらもと》に其恐《そのおそろ》しきこと語《かた》りし時《とき》、渠《かれ》の剛愎《がうふく》なる、たゞ冷《ひやゝ》かに笑《わら》ひしが、われ／＼は如何《いか》に悲《かな》しかりしぞ。
　其時《そのとき》の小親《こちか》、今《いま》の年紀《とし》ならましかば、斷《た》ちても何《なに》とか計《はか》らひたらむ。あどけなき人《ひと》の唯《たゞ》優《やさ》しくて、親方《おやかた》に縋《すが》りたれど、内《うち》に居《ゐ》ては水《みづ》一《ひと》つ汲《く》まぬ※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《もの》なり。手足《てあし》の動《うご》かぬを何《なに》にかせむ、歌妓《うたひめ》にも賣《う》れざるを、塵塚《ちりづか》に棄《す》つべきが、目《め》ざましき大金《おほがね》になるぞとて、北叟笑《ほくそゑみ》したりしのみ。
　そも／＼何《なん》の見處《みどころ》ありて、小六《ころく》に爾《さ》る價《あたひ》擲《なげう》ちけむ、世《よ》には賤《いや》しき業《わざ》も多《おほ》けれど、誰《たれ》か十字架《はりつけ》に懸《かゝ》らむとする。
　向《むか》うづけに屋根裏《やねうら》高《たか》き磔柱《はりつけばしら》に縛《いまし》められて、乳《ち》の下《した》發《ひら》きて衆《ひと》の前《まへ》に、槍《やり》をもて貫《つらぬ》かるゝを。これに甘《あま》んずる※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《もの》ありとせむか、其《その》婦人《をんな》いかなるべき。
　小六《ころく》の膚《はだ》は白《しろ》かりき。色《いろ》の黑《くろ》き婦人《もの》にては、木戸《きど》に入《い》るが稀《まれ》なりとて、然《さ》る價《あたひ》をぞ拂《はら》ひしなる。手品師《てじなし》は詮《せん》ずるに半《なか》ば死《し》したる小六《ころく》の身《み》の其《その》うつくしく艷《つやゝ》かなりし鳩尾《きうび》一斤《いつきん》の肉《にく》を買《か》ひしなり。諸人《もろびと》の、諸人《もろびと》の眼《め》の犧牲《いけにへ》に供《そな》へむとて。
　賣《う》られし小六《ころく》はをさなきより、刻苦《こくく》して舞《まひ》を修《をさ》めし女《ひと》ぞ。恁《かく》て十｜年《ねん》二十｜年《ねん》、一座《いちざ》の座頭《ざがしら》となりて後《のち》も、舞臺《ぶたい》に烈《はげ》しき働《はたらき》しては、樂屋《がくや》に倒《たふ》れて、其《その》弟子《でし》と、其妹《そのいもうと》と、其養《そのやしな》ふ兒《こ》と、取縋《とりすが》り立蔽《たちおほ》ひて囘生劑《きつけ》を呑《の》ませ呼《よ》び活《い》けたる、技藝《ぎげい》の鍛※［＃「糸＋柬」、第3水準1-90-14］《たんれん》積《つも》りたれば、これを彼《か》の江戸《えど》なる家元《いへもと》の達人《たつじん》と較《くら》べて何《なに》か劣《おと》るべき。
　あはれ手品師《てじなし》と約《やく》成《な》りて、一座《いちざ》と別《わか》れんとしたりし時《とき》、扇子《せんす》以《も》て來《こ》よ、小親《こちか》。一《ひと》さし舞《ま》うて見《み》せむとて、留《とゞ》むるを強《し》ひて、立《た》たぬ足《あし》膝行《ゐざ》り出《い》でつ。小稻《こいな》が肩《かた》貸《か》して立《た》たせたれば、手酌《てじやく》して酒《さけ》飮《の》むとは人《ひと》かはりて、おとなしく身繕《みづくろ》ひして、肅然《しゆくぜん》と向直《むきなほ》る。
　小親《こちか》は膝《ひざ》に手《て》を置《お》きぬ。
　揚幕《あげまく》には、しのぶと重子《しげこ》、※［＃「さんずい＋（戸の旧字＋犬）」、第3水準1-86-83］《なみだ》ながら、踞居《ついゐ》て待《ま》ちたり。
　一息《ひといき》つき、きつと見《み》て、凛《りん》として、
（幕《まく》を！）
　と高《たか》く聲《こゑ》かけぬ。開《ひら》けと云《い》ふなり。此《こ》の聲《こゑ》かゝる時《とき》は、弟子《でし》達《たち》みな思《おも》はずひれ伏《ふ》す。威《ゐ》なるべし。
　さて聲《こゑ》に應《おう》じて、「あ」と答《こた》へ、棒《ぼう》を以《も》て緞子《どんす》の揚幕《あげまく》キリゝと捲《ま》いて揚《あ》げたれば、舞臺《ぶたい》見《み》ゆ。廣《ひろ》き土間《どま》棧敷《さじき》風《かぜ》寂《さ》びて人《ひと》の氣勢《けはひ》もなく、橋《はし》がかり艷《つやゝ》かに、板敷《いたじき》白《しろ》き光《ひかり》を帶《お》びて、天井《てんじやう》の煤影《すゝかげ》黑《くろ》く映《うつ》りたるを、小六《ころく》はぢツと見《み》て立《た》つたりしが、はじめてうるめる聲《こゑ》して、
（親《ちか》ちやん、）
　とばかり礑《はた》と扇子《せんす》落《おと》して見返《みかへ》りし、凄艷《せいえん》なる目《め》の中《うち》に、一滴《いつてき》の※［＃「さんずい＋（戸の旧字＋犬）」、第3水準1-86-83］《なみだ》宿《やど》したり。皆《みな》泣伏《なきふ》しぬ。迎《むかひ》の俥《くるま》來《き》たれば乘《の》りて出《い》でき。
　可愛《かはゆ》き兒《こ》の、何《なに》とて小親《こちか》にのみは懷《なつ》き寄《よ》る、はじめて汝《な》が※［＃「夾＋頁」、第3水準1-93-90］《ほゝ》に口《くち》つけしはわれなるを、効《かひ》なく渠《かれ》に奪《と》らるゝものかは。小親《こちか》の牛若《うしわか》さこそとならば、いまに見《み》よ、われ癒《い》えなば、牡丹《ぼたん》の作物《つくりもの》蔽《おほ》ひ圍《かこ》む石橋《しやくけう》の上《うへ》に立《た》ちて、丈《たけ》六尺《ろくしやく》なるぞ、得意《とくい》の赤頭《あかがしら》ふつて見《み》せむ。さらば牛若《うしわか》を思《おも》ひすてて、わが良《よ》き兒《こ》とやならむずらむ。
　と病《やまひ》の床《とこ》に小親《こちか》とわれと引《ひ》きつけては、二人《ふたり》の手《て》を取《と》り戲《たはむ》れて、小親《こちか》に顏《かほ》赤《あか》うさせし愉快《ゆくわい》の女《ひと》は、かくて手品師《てじなし》が人《ひと》の眼《め》を眩惑《げんわく》せしむる、一種《いつしゆ》の魔藥《まやく》となり果《は》てたり。
　過去《すぎさ》りしことありのまゝに繰返《くりかへ》せば、いままのあたり見《み》るに似《に》たり。
　小親《こちか》と顏《かほ》を見合《みあは》せぬ。
「よく覺《おぼ》えておいでだね。」
　如何《いか》でわれ忘《わす》るべき。

［＃７字下げ］三［＃「三」は中見出し］

　いかで忘《わす》らるべき。時々《とき／″＼》起《おこ》る小親《こちか》が同一《おなじ》病《やまひ》の※［＃「睹のつくり＋おおざと」、第3水準1-92-74］度《つど》、大方《おほかた》ならずわれは胸《むね》いためぬ。
　殊《こと》に今《いま》は隣家《となり》にて、※［＃「口＋阿」、第4水準2-4-5］呀《あなや》と一聲《ひとこゑ》叫《さけ》びたまひし※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、637-4］上《あねうへ》の聲《こゑ》の、覺《おぼ》えあるのみならず、猫《ねこ》の不意《ふい》にも驚《おどろ》かされし、血《ち》の動《うご》きの尚《な》ほ止《や》まぬに、小親《こちか》また腕《かひな》を痛《いた》めたれば、さこそわが顏《かほ》の色《いろ》も變《かは》りつらむ。
「※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、637-7］《ねえ》さん、ほんとうに氣《き》を付《つ》けておくれ、また此上《このうへ》お前《まへ》が病氣《びやうき》にでもなつたら何《ど》うしよう。」
「案《あん》じずとも可《い》いよ、ちよいとだわ。しかし小六《ねえ》さんも何《ど》うして居《ゐ》るんだらう。始終《しじう》氣《き》に懸《か》けちやあ居《ゐ》るけれど、また何《ど》うにもしやうがないが、もう此節《このせつ》ぢやあ、何處《どこ》に居《ゐ》なさるんだか其《それ》さへ知《し》れない位《くらゐ》だもの、ねえ、貢《みつぎ》さん。」
　いひ掛《か》けつゝ打濕《うちしめ》りて、
「あゝ何故《なぜ》まあ私達《わたしたち》は斯《か》うだらう。かはい相《さう》に、いろんなことに苦勞《くらう》をおしだねえ。」
「仕方《しかた》がないんだ。」とわれは俯向《うつむ》きぬ。
「何《ど》うしてまた、お前《まへ》さんを可愛《かはい》がつてあげたいものは、こんなにふしあはせなんだらうね。小六《ねえ》さんだつて、あんな氣《き》の強《つよ》い人《ひと》だつたけれど、何《ど》んなにかお前《まへ》さんを可愛《かはい》い、可愛《かはい》いツて、何時《いつ》も言《い》つたらう。それが如彼《あゝ》だし。
　いままたお雪《ゆき》さんだつて、然《さ》うぢやあないか。お前《まへ》さんも戀《こひ》しがつてるし、むかうでもそんなに思《おも》つて居《ゐ》るものが、飛《と》んだ、お婿《むこ》さんを娶《と》つて又《また》さうだし……」
　小親《こちか》が口籠《くちごも》りて吐《つ》くいきに、引入《ひきい》れらるゝやう心細《こゝろぼそ》く、
「※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、638-6］《ねえ》さんは何《なん》ともありやあしないだらうね。」
「え。」
「※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、638-8］《ねえ》さんは何《なん》ともなからうね。」
「誰？え、お雪《ゆき》さんかえ。」
「いゝえ。」
「私《わたし》？」
　われ頷《うなづ》きぬ。小親《こちか》は襟《えり》に首垂《うなだ》れつゝ、
「私《わたし》、私《わたし》なんざあ、何《ど》うせ矢張《やつぱり》磔《はりつけ》にでもなるんだらうさ。親方《おやかた》持《も》ちだもの、そりや斯《か》うして動《うご》いてる内《うち》や可《い》いけれど、病氣《びやうき》にでもなつた上《うへ》、永《なが》く煩《わづら》ひでもしようもんなら、大※［＃「漑」の「さんずい」に代えて「木」、第3水準1-86-4］《たいがい》さき［＃「さき」に傍点］が分《わか》つてるわね。」
「詰《つま》らない、そんなことが。」
　と勢《いきおひ》よく言《い》ひたれど、力《ちから》なき聲《こゑ》なりしよ。
「いゝえ、算《つも》つても御覽《ごらん》、小六《ねえ》さんなんざ、いままでのお禮心《れいごころ》で、据《す》ゑて置《お》いたつて可《い》いんぢやあないか。私《わたし》も世話《せわ》になつてるし、内《うち》のは大抵《たいてい》皆《みんな》小六《ねえ》さんに仕込《しこ》まれた女《ひと》だもの、座《ざ》を此《これ》までにしたのは皆《みんな》あの女《ひと》の丹精《たんせい》ぢやあないか。寢《ね》さして置《お》いて、謠《うたひ》を教《をし》へさしたツて一廉《ひとかど》の役《やく》には立《た》つのに、お金子《かね》だといや直《す》ぐあれなんだもの。考《かんが》へて見《み》りや心細《こゝろぼそ》いよ。」
　思《おも》はず※［＃「さんずい＋（戸の旧字＋犬）」、第3水準1-86-83］《なみだ》さしぐみぬ。十年《ととせ》の末《すゑ》はよも待《ま》たじ、いま早《は》や渠《かれ》は病《やまひ》あり。肩《かた》寒《さむ》げに悄《しを》れたる、其※［＃「爿＋犬」、第3水準1-87-74］《そのさま》ぞ瞻《みまも》らるゝ。
「※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、639-9］《ねえ》さん、私《わたし》は、私《わたし》は何《ど》うなるんだらうね。」
　小親《こちか》はハツとせし風情《ふぜい》にて顏《かほ》をあげしが又うつむきぬ。
「堪忍《かんにん》しておくれ、もう私《わたし》や然《さ》ういはれると、申譯《まをしわけ》のしやうがないよ。つい、手前勝手《てまへがつて》で、お前《まへ》さんを私《わたし》が處《ところ》へ引張《ひつぱ》つて置《お》いて、こんなに甲斐性《かひしやう》がないんだものね。あの時《とき》お雪《ゆき》さんの方《はう》へ行《い》つておいでなら、又《また》こんなことにならなかつたかも知《し》れないものを。つい何《なん》だか、お前《まへ》さんをば人《ひと》ン處《ところ》へやりたくなかつたので、……それも分別《ふんべつ》がある人《ひと》なら、そりや、私《わたし》とお前《まへ》さんと兩方《りやうはう》で半分宛《はんぶんづゝ》惡《わる》いんだから可《い》いけれど、東西《とうざい》もお分《わか》りでなかつたものを、こんなにしてしまつてさ。そして心配《しんぱい》をさせるんだから、皆《みんな》私《わたし》が惡《わる》いんだね、本當《ほんたう》に、もう何《ど》うしたら可《よ》からうね。」
　太《いた》く激《げき》したるやうなりき。さりとは思《おも》ひ懸《が》けざりし。心《こゝろ》も急《せ》きて、
「何《なん》だね、何《なに》も、そんな氣《き》で言《い》つたんぢやあ無《な》いんだのに。」

［＃７字下げ］四［＃「四」は中見出し］

「いゝえ、お前《まへ》さんは屹《きつ》と腹《はら》を立《た》つておいでだよ。堪忍《かんにん》して下《くだ》さい、よう後生《ごしやう》だから。※［＃「誨のつくり」、第3水準1-86-42］日々々《まいにち／＼》果敢《はかな》いことが有《あ》るけれど、お前《まへ》さんの顏《かほ》を見《み》たり、ものをいふのさへ聞《き》いてれば、何《なん》にも思《おも》はないで、私《わたし》や氣《き》がはずむんでね、ちつとも苦勞《くらう》はしないけれど、そりや私《わたし》の、身勝手《みがつて》だつた。御※［＃「俛のつくり」の「危－厄」に代えて「刀」、第3水準1-14-48］《ごめん》なさいな。」
　と身《み》を顫《ふる》はして※［＃「さんずい＋（戸の旧字＋犬）」、第3水準1-86-83］《なみだ》を呑《の》む。われは其膝《そのひざ》おさへたり。
「※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、640-10］《ねえ》さん、何《なに》が氣《き》に障《さは》りました。何《なん》だつて、私《わたし》がそんなこと思《おも》ひます。宿《やど》なしの、我《わが》まゝものを、暑《あつ》さ、寒《さむ》さの思《おも》ひもさせないで、風邪《かぜ》ひとつおひかせでない。お母《つか》さんに別《わか》れてから、内《うち》に居《ゐ》ちやあ知《し》らなんだ樂《たの》しいことも覺《おぼ》えさして下《くだ》すつた。伯母《をば》さんと居《ゐ》た時《とき》は、外《そと》へばかり出《で》たかつたに、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、640-13］《ねえ》さんと斯《か》う一所《いつしよ》になつてから、些《ちつ》とも樂屋《がくや》の外《ほか》のことは知《し》らなくつて濟《す》むやうにして、こんなに育《そだ》てておくれだもの、何《なに》が私《わたし》に不足《ふそく》があるえ。そりやお雪《ゆき》さんのことは……何《なん》だつたから、だから、謝罪《あやま》つたぢやあないか。先刻《さつき》云《い》つたのは少《ちつ》ともそんな氣《き》ぢやアありません。何《なん》だか心細《こゝろぼそ》い事《こと》おいひだから、※［＃「口＋墟のつくり」、第3水準1-84-7］《うそ》にもそんなこと云《い》つて私《わたし》を弱《よわ》らして下《くだ》さるなつて、然《さ》ういふつもりだつたのに、惡《わる》く取《と》つたのかね、まだ胸《むね》にやあ濟《す》まないかい。」
　縋《すが》りつきて、
「ひがむんだね、あゝ、つい、あゝもしてあげよう、恁《か》うもしてあげて、お前《まへ》さんの喜《よろこ》ぶ顏《かほ》が見《み》たいと思《おも》ふことが山《やま》ほどにあるけれど、一《ひと》ツも思《おも》ふやうにならないので、それでつい僻《ひが》むのだよ。分《わか》りました。さ、分《わか》つたら、ね、貢《みつぎ》さん、可《い》いかい、可《い》いかい。」
「だつて餘《あんま》りだから。」
「ほんとはお前《まへ》さんが何《なん》てつたつて、朝夕《あさゆふ》顔《かほ》が見《み》て居《ゐ》たいの。然《さ》うすりやもう私《わたし》や死《し》んだつて怨《うらみ》はないよ。」
「まあ！」
「いゝえ、何《なん》の、死《し》んだつて、賣《う》られたつて、觀世物《みせもの》になつたつて、何《ど》うしたつて構《かま》ふものかね。私《わたし》や、一晩《ひとばん》でもお前《まへ》さんと恁《か》うして居《ゐ》られさへすりや。」
「そんなこと云《い》つちやあ厭《いや》だ。」
　分《わか》れて坐《ざ》したり。
「ぢやあ。もう詰《つま》らない事《こと》はいひツこなし、氣《き》を確乎《しつかり》して、私《わたし》が屹度《きつと》お前《まへ》さんに心配《しんぱい》はさせないよ。其《その》かはり私《わたし》が煩《わづら》つて、悲《かな》しいめにあふことが――あつたらばね。」
　また其聲《そのこゑ》を曇《くも》らせしが、
「甘《あま》えさしておくれ。可《い》いかい。一寸《ちよいと》でもお前《まへ》さんに甘《あま》えさして貰《もら》ひさへすりや、あとは何《ど》うなつたつて、構《かま》ふものか。爲《し》たいやうにするが可《い》いや。もう／＼、取越苦勞《とりこしぐらう》なんざしないで置《お》かうね。」
「あゝ。」
「極《き》めた！」
　急《きふ》に坐《すわ》り直《なほ》して、
「あら、もう火《ひ》が消《き》えたよ。」
　小親《こちか》はいそ／＼灰《はひ》のなか※［＃「てへん＋蚤」、第3水準1-84-86］探《かいさが》して、煙管《きせる》取《と》つて上《あ》げたるが、ふと瞳《ひとみ》を定《さだ》めて、室《ま》の隅《すみ》、二處《ふたところ》見※［＃「廴＋囘」、第4水準2-12-11］《みまは》したり。
「おや！鳩《はと》は何《ど》うしたらう。」
　われもまた心着《こゝろづ》きぬ。さきに一《ひと》たび※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、642-14］上《あねうへ》のことを思《おも》ひ斷《た》たむとしたりし折《をり》、廣岡《ひろをか》の家《いへ》に悲《かな》しき叫《さけ》び聞《きこ》えしは、確《たしか》に忘《わす》れず、其人《そのひと》なりし。われ／＼とおなじに彼《か》の猫《ねこ》の鳩《はと》くはへしを見《み》たまひしならむとのみ、假《か》りに思《おも》ひ棄《す》てたれど、或《あるひ》は然《さ》もなくて、何等《なんら》かの憂目《うきめ》に合《あ》はせたまふならずや。酷《むご》き養子《やうし》のありといへば。また更《さら》に胸《むね》の安《やす》からず。

［＃７字下げ］五［＃「五」は中見出し］

　小親《こちか》は尚《な》ほ頻《しき》りにあたりを見※［＃「廴＋囘」、第4水準2-12-11］《みまは》して、
「變《へん》だよ、一寸《ちよいと》お前《まへ》さんも見《み》たらうね、何《なん》だか私《わたし》や茫然《ぼんやり》してたが、たしかあの猫《ねこ》が鳩《はと》をくはへて飛込《とびこ》んだつけね。變《へん》な氣《き》がするよ、つい今《いま》しがたの事《こと》だつた。」
「あゝ、私《わたし》はまた、又《また》いふと何《なん》だらうけれど、お雪《ゆき》さんの（あれツ）てつた聲《こゑ》が聞《きこ》えたやうでね。」
「氣《き》のせゐだよ、そりや氣《き》のせゐだらうけれど、はてな、一體《いつたい》何處《どこ》から飛込《とびこ》んだらうね。」
「井戸《ゐど》の處《ところ》さ。」
「井戸《ゐど》だえ……」
　わが顏《かほ》の色《いろ》見《み》て取《と》りたり。小親《こちか》は寂《さび》しき笑《ゑみ》を含《ふく》みて、
「可《い》いよ、何《ど》うせ心配《しんぱい》をさせないと言《い》つたこツた。貢《みつぎ》さん、ついでに其心配《そのしんぱい》もさせないから、もう案《あん》じないが可《い》いよ。」
「何《なん》の心配《しんぱい》さ。」
「お雪《ゆき》さんのことさ。」
「その事《こと》なら、もう。」
「いゝえ、然《さ》うぢやあ無《な》いよ、一旦《いつたん》は何《なに》、私《わたし》だつて、先刻《さつき》のやうに云《い》つたけれど、お前《まへ》さんの心配《しんぱい》をすることだもの、其上《それに》、何《ど》うせ、こんなからだだから、お前《まへ》さんさへ愛想《あいそ》をお盡《つか》しでないことなら、もう何《ど》んなにでも私《わたし》や成《な》らうわね。構《かま》ふものかね、何《な》に構《かま》やあしない。」
　恁《かゝ》る女《ひと》に何《なに》とて然《さ》ることをさせらるべき。わが心《こゝろ》はほゞ定《さだ》まりたり。
「そんなに云《い》つておくれだと、なほ私《わたし》は立《た》つ瀬《せ》がない。お雪《ゆき》さんも何《なん》だけれど、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、644-7］《ねえ》さんが何《なん》だもの。」
「何《なん》だえ、貢《みつぎ》さん。」
「何《なん》でもいゝよ。」
「可《よ》かアありません。」
「可《よ》かアありませんたつて、何《なに》もわるいこつちやあない。」
「ぢやあまあ然《さ》うさ。しかし何《ど》うにかするよ、私《わたし》や、其《その》まんまにしちやあ置《お》かないから。」
「あすのこと……そして※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、644-14］《ねえ》さん冷《ひ》えちやあ又《また》惡《わる》いだらう。」
　われは獨《ひと》り自由《じいう》にものおもはむと欲《ほつ》せしなり。
　小親《こちか》は輕《かる》く頷《うなづ》きつゝ、
「また心配《しんぱい》をさしちやあ惡《わる》いね。」
「だからさ。」
「あい、ぢやあ、お前《まへ》さんもおやすみだと可《い》い。」
　褄《つま》引合《ひきあは》せて立上《たちあが》れり。
「しのぶや、……む、もう寝《ね》たさうな。」
　戸口《とぐち》にて見返《みかへ》りながら、
「貢《みつぎ》さん、床《とこ》は私《わたし》が取《と》つてあげよう。」
「なに、構《かま》はないよ。あとで敷《し》かせるから。」
　打《うち》うなづきさま微笑《ほゝゑ》みたり。
「邪魔《じやま》だつたら、あつちへおいで、稻《いな》ちやんと一所《いつしよ》に寢《ね》ませう。」
「のちほど。」
「それぢやあ……」
　とて立出《たちい》でたる、後姿《うしろすがた》隣《となり》の室《ま》の暗《くら》きなかに隠《かく》れしが、裾《すそ》花《はな》やかに足《あし》白《しろ》く、する／＼と取《と》つて返《かへ》して、
「貢《みつぎ》さん！」
　顏《かほ》をあげてぞ見《み》たる、何《なに》をか思《おも》へる、小親《こちか》の、憂慮《きづか》はしげなる面色《おもゝち》なりしよ。
「また、鼠《ねずみ》とでも話《はな》すのかね。」
「考《かんが》へてるの。」
「そんなこと云《い》はないで、鼠《ねずみ》とたんとお樂《たの》しみ。ほゝゝ、私《わたし》は夢《ゆめ》でも見《み》ませうや。」
　と橫顏《よこがほ》見《み》せて身《み》をなゝめに、此方《こなた》を見《み》てなほ立《た》ちたりしが、ふと心着《こゝろづ》き耳《みゝ》傾《かたむ》け、
「あら！狐《きつね》が鳴《な》いてるよ。」
　と、あだなる聲《こゑ》にていひすてつゝ、すら／＼と※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］《あゆ》み去《さ》りぬ。

［＃５字下げ］峰《みね》の堂《だう》［＃「峰の堂」は大見出し］

［＃７字下げ］一［＃「一」は中見出し］

　あれといふ聲《こゑ》、※［＃「口＋阿」、第4水準2-4-5］呀《あなや》と※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、646-11］上《あねうへ》の叫《さけ》び給《たま》ひしと、わが覺《おぼ》ゆる聲《こゑ》の、猫《ねこ》をば見《み》たまひて驚《おどろ》きたまひしならば可《よ》し。さなくて殘忍《ざんにん》なる養子《やうし》のために憂目《うきめ》見《み》たまひしならばいかにせむ。それか、あらぬかとのみ思《おも》ひ惱《なや》みつゝ、われは夜半《よは》の道《みち》を行《ゆ》くなりき。
　小親《こちか》と同一《おなじ》樂屋《がくや》に居《ゐ》て、其顏《そのかほ》見《み》つゝありては、われ餘《あま》りに偏《へん》して、單《たゞ》ものに驚《おどろ》かせたまひしよと思《おも》ひ棄《す》つるやうになり勝《がち》なればぞ。
　窓《まど》を透《すか》して、獨居《ひとり》の時《とき》、彼《か》の可哀《あはれ》に苔《こけ》生《お》ひたる青楓《あをかへで》の材《ざい》を見《み》れば、また※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、647-3］上《あねうへ》の憂目《うきめ》を訴《うつた》へたまひしが如《ごと》く思《おも》はれつゝ、心《こゝろ》太《いた》く惑《まど》ひて腦《つむり》の苦《くる》しきが、孰《いづ》れか是《ぜ》なる、孰《いづれ》か非《ひ》なる。わが小親《こちか》を賣《う》りて養子《やうし》の手《て》より※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、647-5］上《あねうへ》を救《すく》ひ參《まゐ》らせむか、はた※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、647-5］上《あねうへ》をさし置《お》きて、小親《こちか》とともに世《よ》を樂《たの》しく送《おく》らむか、いづれか是《ぜ》なる、いづれか非《ひ》なる。あはれわれ此間《このかん》に處《しよ》していかにせむと、手《て》を拱《こまぬ》きて※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］行《あり》くなりき。
　しづかに考《かんが》へ決《さだ》むとて、ふら／＼と假小屋《かりごや》を。小親《こちか》が知《し》らぬ間《ま》に出《い》でて、此處《こゝ》まで來《き》つ。山《やま》の手《て》の大通《おほどお》りは寂《せき》として露《つゆ》冷《ひやゝ》かなり。
　路《みち》すがら如何《いか》なるものにか逢《あ》ひけむ、われは心《こゝろ》着《づ》かざりし。四邊《あたり》には人《ひと》の往來《ゆきき》絶《た》えて、大路《おほじ》の片隅《かたすみ》に果物賣《くだものうり》の媼《おうな》一人《ひとり》露店《ろてん》出《だ》して殘《のこ》りたり。三角形《さんかくなり》の行燈《あんどん》にかんてら［＃「かんてら」に傍点］の煤煙《ばいえん》黑《くろ》く、水菓子《みづぐわし》と朱《しゆ》の筆《ふで》以《も》て買《か》いたる下《した》に、栗《くり》を堆《うづたか》く、蜜柑《みかん》、柿《かき》の實《み》など三《み》ツ五《いつ》ツづゝ並《なら》べたり。空《そら》には月《つき》の影《かげ》いと明《あかる》きに、行燈《あんどん》の燈《ともし》幽《かすか》なれば、其果物《そのくだもの》はみな此方《こなた》より小《ちひさ》く丸《まる》く黑《くろ》きものに見《み》ゆ。電信《でんしん》の柱《はしら》長《なが》く、斜《なゝめ》に太《ふと》き影《かげ》の橫《よこた》うたるに、ふと立停《たちどま》りて、やがて跨《また》ぎ越《こ》えたれば、鳥《とり》の羽音《はおと》して、高《たか》く舞《ま》ひ上《あが》れり。星《ほし》は降《ふ》る如《ごと》し。あなやと見《み》れば、對岸《たいがん》なる山《やま》の腰《こし》に一《ひと》ツ消《き》えて、峰《みね》の松《まつ》の姿《すがた》見《み》えつ。われは流《ながれ》に沿《そ》うたりき。
　岸《きし》には推《お》しならべて柳《やなぎ》の樹《き》植《う》ゑられたり。若樹《わかぎ》の梢《こずゑ》より、老樹《おいき》の樹《こ》の間《ま》に、居所《ゐどころ》かはる／″＼、月《つき》の形《かたち》かゝらむとして、動《うご》くにや、風《かぜ》の凪《な》ぎたる柳《やなぎ》の枝《えだ》、下垂《したた》れて流《なが》れの上《うへ》に搖《ゆら》めきぬ。
　來《き》懸《かゝ》る人《ひと》あり、すれ違《ちが》ひて振向《ふりむ》きたれば、立停《たちどま》りて見送《みおく》るに、われ足疾《あしばや》に通《とほ》り過《す》ぎつ。
　柳《やなぎ》は早《はや》うしろの方《かた》遙《はるか》になりて、うすき霧《きり》のなかに灰色《はひいろ》になりたる、ほのかに見《み》ゆ。松《まつ》の姿《すがた》の丈《たけ》高《たか》きが、一抱《ひとかゝへ》の幹《みき》に月《つき》を隱《かく》して、途上《とじやう》六尺《ろくしやく》、隈《くま》暗《くら》く、枝《えだ》しげき間《あひだ》より、長《なが》き橋《はし》の※［＃「木＋闌」、第3水準1-86-27］干《らんかん》低《ひく》く眺《なが》めらる。板《いた》の色《いろ》白《しろ》く、てら／＼と對《むかひ》なる岸《きし》に懸《かゝ》りたり。
　其橋《そのはし》の上《うへ》に乘《の》りたるやう、上流《じやうりう》の流《なが》れ疾《と》く白銀《しろがね》の光《ひかり》を浴《あ》び、蜿《うね》りに蒼《あを》みを帶《お》びて、兩側《りやうがは》より枝《えだ》蔽《おほ》へる木《こ》の葉《は》の中《なか》より走《はし》り出《い》でて、颯《さ》と橋杭《はしぐひ》を潛《くゞ》り拔《ぬ》け、來《こ》し方《かた》の市《まち》のあたり、がう／＼と夜深《よふか》き瀨《せ》の音《おと》ぞ聞《きこ》えたる。
　わが心《こゝろ》は決《さだま》らで、とかうして其《そ》の橋《はし》の袂《たもと》まで來《きた》りたり。ついでなればと思《おも》ひて渡《わた》りぬ。
　木津《きづ》は柿《かき》の實《み》の名所《めいしよ》とかや。これをひさぐもの、皆《みな》女《むすめ》にて、市《いち》より凡《およ》そ六七｜里《り》隔《へだ》たりたる山中《さんちう》の村《むら》より此橋《このはし》の上《うへ》に出《い》で來《きた》るなり。夜《よ》更《ふ》けては歸《かへ》るに路《みち》のほど覺束《おぼつか》なしとて、商《あきなひ》して露店《ろてん》しまへば、其《その》まゝ寢《ね》て、夜《よ》明《あ》けてのち里《さと》に歸《かへ》るとか。紫《むらさき》の紐《ひも》結《むす》びつゝ、一樣《いちやう》に眞白《ましろ》き脚絆《きやはん》穿《は》きたるが、足《あし》を縮《ちゞ》め、筵《むしろ》以《も》て胸《むね》を蔽《おほ》ひ、※［＃「木＋闌」、第3水準1-86-27］干《らんかん》に枕《まくら》して、縱橫《じうわう》に寢《ね》まりたる乙女等《をとめら》五七｜人《にん》、其《それ》なるべし。盡《こと／″＼》く顏《かほ》に蓋《ふた》して、露《つゆ》を厭《いと》へる笠《かさ》のなかより、紅《くれなゐ》の笠《かさ》の紐《ひも》、二條《ふたすぢ》しなやかに、肩《かた》より橋《はし》の上《うへ》にまがりて垂《た》れたり。
　小親《こちか》も寢《ね》たらむ、と此處《こゝ》にて思《おも》ひき。

［＃７字下げ］二［＃「二」は中見出し］

　われは一足《ひとあし》立※［＃「戸の旧字＋犬」、第3水準1-84-67］《たちもど》りぬ。あれといふ聲《こゑ》、※［＃「口＋阿」、第4水準2-4-5］呀《あなや》と叫《さけ》びたまひし聲《こゑ》、いかで其《その》まゝに差置《さしお》きて、小親《こちか》と樂《たの》しく眠《ねむ》らるべき。
　いま少《すこ》し、いま少《すこ》し、假小屋《かりごや》と廣岡《ひろをか》の家《いへ》と楓《かへで》の樹《き》と、三《み》ツともにある處《ところ》に、いま少《すこ》し、少《すこ》しにても遠《とほ》く隔《へだた》りたらば、心《こゝろ》の惱《なや》ましさ忘《わす》られむ。
　渡《わた》り越《こ》せば、假小屋《かりごや》とハヤ川《かは》一《ひと》ツ隔《へだ》たりたり。麓路《ふもとぢ》は堤防《どて》とならびて、小家《こいへ》四五｜軒《けん》、蒼白《あをじろ》きこの夜《よる》の色《いろ》に、氷《こほり》のなかに凍《い》てたるが、透《すか》せば見《み》ゆるにさも似《に》たり。月《つき》は峰《みね》の松《まつ》の後《うしろ》になりぬ。
　坂道《さかみち》にのぼりかけつ。頂《いたゞき》にいたりて超然《てうぜん》として一眸《いちぼう》のもとに瞰下《みおろ》さば、わが心《こゝろ》高《たか》きに居《ゐ》て、ものよく決《さだ》むるを得《う》べしと思《おも》ひて、峰《みね》にのぼらむとしたるなり。
　※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］《ほ》を攀《よ》づる足《あし》のそれよりも重《おも》かりしよ。※［＃「てへん＋蚤」、第3水準1-84-86］《か》い撫《な》づる掌《たなそこ》を、吸《す》ひ取《と》るばかり、袖《そで》、袂《たもと》、太《いた》く夜露《よつゆ》に濡《ぬ》れたり。
　さて暗《くら》き樹《き》の下《した》を潛《くゞ》り、白《しろ》き草《くさ》の上《うへ》を辿《たど》り行《ゆ》く。峰《みね》は近《ちか》くなりぬ。
　路《みち》の曲《ま》がりたる角《かど》に石碑《せきひ》あり。蓮《はちす》の花片《はなびら》の形《かたち》したる、石《いし》の面《めん》に、艷子《つやこ》之《の》墓《はか》と彫《ほ》［＃「蜩のつくり＋彡」］りたるなり。
　貴《たふと》き家《いへ》に生《うま》れし姫《ひめ》［＃底本では「姫」は「女＋頤のへん」］の、繼母《まゝはゝ》に疎《うと》んじられて、家《いへ》をば追《お》はれつ。このあたりに隱《かく》れすみて里《さと》の子《こ》に手習《てならひ》敎《をし》へて居《ゐ》たまひしが、うらわかくてみまかりたまひしとか、老《お》いたる人《ひと》の常《つね》に語《かた》る。苔《こけ》深《ふか》き墳墓《ふんぼ》の前《まへ》に、桔梗《ききやう》やらむ、萩《はぎ》やらむ、月影《つきかげ》薄《うす》き草《くさ》の花《はな》のむら生《お》ひたるのみ。手向《たむ》けたる人《ひと》のあとも見《み》えざるに、われは思《おも》はず※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］《ほ》を留《とゞ》めぬ。
　あはれ廣岡《ひろをか》の、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、650-7］上《あねうへ》は、われにいかなる女《ひと》ぞ。小親《こちか》をだに棄《す》つれば救《すく》はるべきをと、いと強《つよ》く胸《むね》を拍《う》つて叫《さけ》ぶものあり。
　草《くさ》に坐《ざ》して、耳《みゝ》を傾《かたむ》けぬ。さま／″＼のこと聞《きこ》えて、ものの音《おと》※［＃「響」の「即のへん」に代えて「喞－口－卩」、第3水準1-93-86］《ひゞ》き渡《わた》る。腦《つむり》苦《くる》しければ、目《め》を眠《ねむ》りて靜《しづか》に居《ゐ》つ。
　やゝ落着《おちつ》く時《とき》、耳《みゝ》のなかにものの聞《きこ》ゆるが、しばし止《や》みたるに、頭上《づじやう》なる峰《みね》の方《かた》にて淸《きよ》き謠《うたひ》の聲《こゑ》聞《きこ》えたり。
　松風《まつかぜ》なりき。
　あまり妙《たへ》なるに、いぶかしさは忘《わす》れたるが、また思《おも》ひ惑《まど》ひぬ。ひそかに見《み》ばや、小親《こちか》を置《お》きて世《よ》に誰《たれ》かまたこの音《おん》の調《てう》をなし得《う》るものぞ。
　身《み》を起《おこ》して、坂《さか》また少《すこ》しく攀《よ》ぢ、石段《いしだん》三十五｜階《かい》にして、彼《か》の峰《みね》の松《まつ》のある處《ところ》、日暮《ひぐらし》の丘《をか》の上《うへ》にぞ到《いた》れる。
　松《まつ》には注連《しめ》繩《なは》張《は》りたり。香《かう》を焚《た》く箱《はこ》置《お》きて、地《つち》の上《うへ》に圓《まろ》き筵《むしろ》敷《し》きつ。傍《かたはら》に堂《だう》のふりたるあり。※［＃「廴＋囘」、第4水準2-12-11］※［＃「广＋（螂－虫）」、第3水準1-84-14］《くわいらう》の右左《みぎひだり》稻《いね》かけて低《ひく》く垣《かき》結《ゆ》ひたる、月《つき》は今《いま》其裏《そのうら》になりぬ。
　謠《うたひ》は風《かぜ》そよぐ松《まつ》の梢《こずゑ》に聞《きこ》ゆ、とすれど、人《ひと》の在《あ》るべき處《ところ》にあらず。また谷《たに》一《ひと》ツ彼方《かなた》に謠《うた》ふが、この山《やま》の端《は》に反※［＃「響」の「即のへん」に代えて「喞－口－卩」、第3水準1-93-86］《こだま》する、それかとも思《おも》はれつ。試《こゝろ》みにソト堂《だう》の前《まへ》に行《ゆ》きて――われうかゞひたり。
　伸《の》びあがりて密《ひそか》にすかしたれば、本堂《ほんだう》の傍《かたはら》に疊《たゝみ》少《すこ》し敷《し》いたるあり。おなじ麻《あさ》の上下《かみしも》着《つ》けて、扇子《せんす》控《ひか》へたるが四五｜人《にん》居《ゐ》ならびつ。こゝにて謠《うた》へるなりき。釜《かま》かけたる湯《ゆ》の煙《けむり》むら／＼とたなびく前《まへ》に、尼君《あまぎみ》一人《いちにん》薄茶《うすちや》の手前《てまへ》したまひぬ。謠《うたひ》の道《みち》修《しゆ》するには、かゝることもするものなり。覺《おぼ》えあれば、跫音《あしおと》立《た》てて此《こ》の靜《しづか》さ損《そこ》なはじと、忍《しの》びて退《の》きぬ。
　山《やま》の端《は》に※［＃「陟のつくり」、第3水準1-86-35］《あゆ》み出《い》でつ。
　唯《と》見《み》れば明星《みやうじやう》、松《まつ》の枝《えだ》長《なが》くさす、北《きた》の天《てん》にきらめきて、またゝき、またゝき、またゝきたる後《のち》、拭《ぬぐ》うて取《と》るやう白《しろ》くなりて、しら／＼と立《た》つ霧《きり》のなかより、麓《ふもと》の川《かは》見《み》え、森《もり》の影《かげ》見《み》え、やがてわが小路《こうぢ》ぞ見《み》えたる。襟《えり》を正《たゞ》して曰《いは》く、聞《き》け、彼處《かしこ》にある※［＃「睹のつくり」、第3水準1-90-36］《もの》。わが心《こゝろ》さだまりたり。いでさらば山《やま》を越《こ》えてわれ行《ゆ》かむ。慈《いつくし》み深《ふか》かりし※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、651-15］上《あねうへ》、われはわが小親《こちか》と別《わか》るゝ斯《こ》の悲《かな》しさの其《それ》をもて、救《すく》ふことをなし得《え》ざる※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、652-1］上《あねうへ》、※［＃「女＋（「第－竹」の「コ」に代えて「丿」）、「姉」の正字」、U+59CA、652-1］上《あねうへ》が楓《かへで》のために陥《おちい》りたまひしと聞《き》く、其境遇《そのきやうぐう》に報《むく》い參《まゐ》らす。


底本：「鏡花全集　卷二」岩波書店
　　　1942（昭和17）年9月30日第1刷発行
　　　1973（昭和48）年12月3日第2刷発行
初出：「讀賣新聞」
　　　1896年（明治29年）11月14日～同年12月23日
単行本初出：「照葉狂言」春陽堂
　　　1900年（明治33年）4月27日発行
入力：山崎正之
校正：
2024年10月30日作成

※この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。

※底本では、旧字の漢字が用いられています。表示できない漢字については出来るかぎり註をつけました（初出時のみ）。「しんにょう」はすべて「二点しんにょう」ですが、それらについてはいちいち註をつけておりません。以下にまとめておきます。

「坪」は「土へん＋怦のつくり」
「青」は「睛のつくり」
「寒」の「冬－夂」に代えて「冫」
「戸」は「戸の旧字」
「朝」は「朝の旧字（月の横線が右下がりの点）」
「飽」は「飮のへん＋鉋のつくり」
「所」は「戸」に代えて「戸の旧字」
「平」は「怦のつくり」
「飼」は「飮のへん＋司」
「情」は「情」の「つくり」にかえて「睛のつくり」
「肩」は「戸」に代えて「戸の旧字」
「急」は「（危－厄）／（帚－冖－巾）／心」
「婦」は「女＋帚」
「半」は「絆のつくり」
「脱」は「月＋兌」
「潛」の「つくり」のいちばん上の２本の横棒から突き出ていない
「抱」は「てへん＋鉋のつくり」
「尚」は「淌のつくり」
「節」は「竹かんむり／（皀＋卩）」
「酷」は「酉＋晧のつくり」
「縛」は「縛のつくり」に代えて「溥のつくり」
「忍」は「仞のつくり／心」
「麻」は「嘛のつくり」
「絶」の「危－厄」に代えて「刀」
「精」は「米＋睛のつくり」
「周」は「蜩のつくり」
「産」は「顏のへん」の「彡」に代えて「生」
「前」は「剪－刀」
「毒」は「毋」にかえて「母」
「磨」は「麾」の「毛」に代えて「石」
「送」は「鎹のつくり」
「隔」は「儿」に代えて「希－布」
「晴」は「晴のつくり」にかえて「睛のつくり」
「掃」は「てへん＋帚」
「咲」は「つくり」の上半分が「八」
「梢」は「木＋悄のつくり」
「麿」は「麾」の「毛」に代えて「呂」
「帽」の「冒」に代えて「瑁のつくり」
「告」は「晧のつくり」
「魔」は「麾」の「毛」に代えて「鬼」
「術」は「衙」の「吾」に代えて「朮」
「嫌」は「女＋賺のつくり」
「宵」は「宀／悄のつくり」
「造」は「二点しんにょう＋晧のつくり」
「菟」は「くさかんむり／兎」
「翼」は「栩のつくり／異」
「扇」は「戸の旧字＋栩のつくり」
「翁」は「鶲のつくり」
「纒」の「厂」に代えて「广」、「黒」に代えて「黑」、550-11
「包」は「鉋のつくり」
「兼」の「税のつくり－兄」に代えて「八がしら」
「要」は「襾／女」
「伴」は「にんべん＋絆のつくり」
「鎖」は「金＋瑣のつくり」
「鎌」は「金＋賺のつくり」
「羽」は「栩のつくり」
「評」は「言＋怦のつくり」
「肖」は「悄のつくり」
「躍」は「足へん＋櫂のつくり」
「采」は「綵のつくり」
「終」は「糸＋冬」の「冬－夂」に代えて「冫」
「煙」は「ひへん＋（西／土）」
「弱」は「嫋のつくり」
「砲」は「石＋鉋のつくり」
「雪」は「膤のつくり」
「郷」の「即のへん」に代えて「皀」
「益」は「縊のつくり」
「強」は「繦－糸」
「判」の「半」に代えて「絆のつくりの縦棒を左にはらったもの」
「癇」は「やまいだれ＋間」
「炭」は「山／（恢－りっしんべん）」
「灰」は「恢－りっしんべん」
「彫」は「蜩のつくり＋彡」
「姫」は「女＋頤のへん」

※この作品の著作権は切れております。このファイルの取り扱いについては青空文庫の下記の要領に準拠するものといたします。適宜、読み替えて下さい。

［＃ここから２字下げ］
　あなたは、ファイルをダウンロードし、開いて読むことができます。

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［＃ここで罫囲み終わり］
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