玉を懷いて罪あり ERNST THEODOR AMADEUS [WILHELM] HOFFMANN 森鴎外訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ページの左右中央] (例)[#「メントノン」に傍線] (例)マドレエヌ、ド、スキユデリイ[#「マドレエヌ、ド、スキユデリイ」に傍線] 《》:ルビ、括弧で囲んだルビは底本にないもの。 (例)萃《(あつ)》まつて ------------------------------------------------------- [#ページの左右中央] [#3字下げ]玉を懷いて罪あり[#「玉を懷いて罪あり」は中見出し] [#改ページ]  路易第十四世の寵愛が、メントノン[#「メントノン」に傍線]公爵[#底本では「爵」は「嚼のつくり」]夫人の一身に萃《(あつ)》まつて世人の目を驚かした頃、宮中に出入をする年寄つた女學生にマドレエヌ、ド、スキユデリイ[#「マドレエヌ、ド、スキユデリイ」に傍線]と云ふ人があつた。丁度千六百八十年の秋の事で、或る夜の十二時過ぎに、其女學士が住つて居るセントノレイ[#「セントノレイ」に二重傍線]町の家の戸を劇しく敲くものがあつた。其夜下男のバプチスト[#「バプチスト」に傍線]は妹の婚禮に招ばれて行つてまだ歸らず、家の内で目を醒まして編物をして居たは仲働きマルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]といふものであつたが、今此響[#「響」の「即のへん」に代えて「皀」]を聞くと、何となく怖氣立ち、急[#底本では「急」は「(危−厄)/(帚−冖−巾)/心」]に自分と主人と女二人で家に居ることに氣が付き、昔から巴里であつた人殺しや、押込の怖い話が皆一時に胸に浮[#底本では「浮」は「さんずい+孚」]んで、只慄々と震ひ乍ら室の片隅に蹲んで居た。戸を敲く音は段々劇しく成つて、それに時々男の聲で、早く此處を開けて下さい、後生だからと云ふを聞付けて、仲働きは少し考へたが、それでは主人が不斷から親切なのを聞いて居て、難義を助けて貰ひに、態々來た人かも知れぬ、然し物は用心が第一だからと、立上がつて徐々と行き、※[#「窓の旧字」、第3水準1-89-54]の戸を半分開けて成丈《(なるたけ)》男らしい聲をして、何故夜中になつて人の家の戸を敲いて、高聲をするのだ、と問ひながら、今雲の間から少し顏を出した月影に透かして見ると、灰[#底本では「灰」は「恢−りっしんべん」]色の長外套を着て、※[#「糸+彖」、第 3水準 1-90-13]の廣い帽子を目深に被つた男が戸の前[#底本では「前」は「剪−刀」]に立つて居た。仲働きは一※[#「尸+曾」、第 3水準 1-47-65]聲を張上げて、居もせぬ下男の名を呼び立てゝ、バプチスト[#「バプチスト」に傍線]や、クロオド[#「クロオド」に傍線]や、ピエエル[#「ピエエル」に傍線]や、誰か早く起[#底本では「起」は「己」に代えて「巳」]きて出て、戸を打ち毀されない中に亂暴人を逐ひ歸してしまへ、と云ふと、外に立て居る男は、下から優しい、哀れな聲をして。その聲はマルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]さんの聲ぢやないか。私は貴君が御主人と唯二人で御出のことは、よく知つて居ます。何も怖いものではありません。唯御主人に御目に掛つてお話をせねばならぬ事があるのです。と云ふを聞いて、マルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]は少し心が落付いたから、※[#「窓の旧字」、第3水準1-89-54]から顏を出して、お前さん、何の御用だか知りませんが、御主人は先刻お休みなさつたから、明日出直してお出なさい、と云ふと下から。そんな※[#「口+墟のつくり」、第 3水準 1-84-7]をお吐きなさるな。御主人樣の漸つとお作り掛けの小説[#底本では「説」は「言+兌」]を下に釋いて明日メントノン[#「メントノン」に傍線]公爵夫人に讀んでお聞かせなさる歌の草稿に、お手をお入なさる處なのを熟く知つて居り升。私の用は人の名譽、どうかすると人一人の命に掛る事で。後生ですから戸を開けて下さい。若し後で御主人が私の一件を聞いて、貴君が戸を開けない計に、不幸に陷つたと御思召すと、却て貴君をお※[#「りっしんべん+曾」、第3水準1-84-62]みでせう。と云言葉の中に、※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]に咽んで居る樣子。マルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]も何となく此若い男の聲が胸に響く樣に覺えたから、急いで鍵を持出して入口の戸を推開けた。開けるが早いか、外套を着た男は家の内に飛び込んで、遽たゞしい聲で、早く奧へ案内しないか、と云ひながら、仲働きを撞き倒しさうな勢で、奧へ行かうとするから、マルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]は驚きながら手燭を差出して顏を見て、あつと云つて震ひ出した。震ひ出した筈だ、此の男の顏は色蒼ざめて、何となく物凄く、その上外套の前の少し開いた處から、ちらりと見えたのは衣の胸に插してある匕首の柄であつたから、此時男はきら/\と光る眼を見張つて、早く/\と催促した。マルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]は年頃マドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]に仕へて、眞實の母の樣に思つて居る程[#底本では「程」の「王」に代えて「壬」]だから、今は主人の一大事だと、屹度思案を定めて、部屋の方へ行く戸を後手で確り押さへ、男の前に立ち塞がつた。まあ、お前は何物だ。外ではあんな哀れな聲を仕て、這入てから無理に奧へ行かうとは、大方グレエウ[#「グレエウ」に二重傍線]巷で死耻を曝す人だらう。どうでも行く氣なら、私を殺してお仕舞ひ。中々動く氣色が無いので、男は尚[#底本では「尚」は「淌のつくり」]々急き込んで。あゝ、焦燥つたい。然し私がこんな形をして居るから、成程推込み、強[#底本では「強」は「繦−糸」]盜と。かういふ内も時が立つ。一寸奧へ。と云ひながら、胸に插して居た匕首を抽き出して手に持つた。マルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]は早命はないものと覺悟をした時、表の方に其頃「マレシヨツセエ」と云ふ邏卒が此街を通ると見え、馬の足音と器械の響とが聞えた。これを聞くとマルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]は生返つた心地で、「マレシヨツセエ」さん/\、人殺し/\と大聲で※[#「口+斗」、U+544C、105-5]んだ。男は左も口惜しさうに、えゝ、所詮望は叶はぬか、あゝ、是迄だ、と云ひながら隙を見てマルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]の持つて居た手燭を取つて振り消[#底本では「消」は「さんずい+悄のつくり」]し、小い筐の樣な物をマルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]の手に推付けて、そんならこれを今夜の内に、せめて奧へ、所詮あきらめたから、明日でも、といふ言葉も終[#底本では「終」は「糸+冬」の「冬−夂」に代えて「冫」]らぬ中に、表へ驅出して迯げて仕舞つた。  マルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]は先からの心配と骨折とで、體が非常に勞れて、足腰[#底本では「腰」は「月+(襾/女)」]も立ぬ位だから、戸の鍵を錠の孔にさした儘で、それを拔く力もなく、這ふ樣にして自分の部屋に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて仆れて居ると、卒に門の戸の開く音がして、箝《(はさ)》めて置いた鍵を拔き取ると見え、戞然《(かつぜん?)》と鳴るかと思ふと、程なく錠をかける音がして、拔足に近寄る※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]があるが、マルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]は早腰は立たず、唯慄つて居ると、這入て來たのはバプチスト[#「バプチスト」に傍線]であつた。甚く驚いたものと見えて、顏の色が變り、息を切らして居つた。あゝ、お前に變はなかつたか。家の前で「マレシヨツセエ」の一組に逢つたが、何時もと違つて嚴重に物の具を付けて居つて、おれを取り卷いた。仕合せと警部のデグレエ[#「デグレエ」に傍線]さんが居たので、釋して貰つて家へ這入らうとする機會に、匕首を持つた男が飛び出して、おれを※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]き仆して迯げた。鍵は指してあり、戸は開けてある。それにお前は何うしたのだ。ご主人樣に變はないか。と問ふ内マルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]は漸う人心地が附いて、前の次第を話した。二人連立つて室の外まで出て見るに落ちて居る手燭の外には何んにもなかった。  マドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]の家の奴婢が心配したのも無理ではない。其頃巴里に怪しい死樣をするものがあるので、府中の人心が恟々として居た。何※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の仕業か知れぬが、金銀や、珠玉の飾を持つたものは、何時となく盜み取られ、又飾を持つて日暮から後に※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]行ものは、多く殺された。此難に逢うて飾は取られたが、不思議と命を拾つた人の話に、何心なく道を行くと、※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]然頭を強く打たれ、其儘仆れて氣を失ひ、暫くして心付いて見れば、遙か離れた町に居て飾はなかつたといふ。家の中で殺されたものも、途で殺されたものも、※[#「てへん+僉」、第 3水準 1-84-94]屍の時に見ると、皆んな唯つた一つの※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]創が胸に在るばかり。解剖して見れば、心の臟が差し貫ぬかれてある。何にせよ畏ろしい手※[#「糸+柬」、第3水準1-90-14]と見えた。當時法蘭西上流の紳士は、路易第十四世を手本にして、惡い風儀になつて居つた。密夫のない婦[#底本では「婦」は「女+帚」]人と情[#底本では「情」の「つくり」にかえて「睛のつくり」]婦のない男子とは人に※[#「にんべん+誨のつくり」、第3水準 1-14-24]られる程であつた。男が飾を持つて女の許へ忍[#底本では「忍」は「仞のつくり/心」]ばうと思つて、途で殺され、又は女の家へ首尾好く忍び込み、廊下で殺されたのを、知らずに女が部屋から出たとき、情人の死骸に跌いたことが數々あつた。  當時の警※[#「示+見」、第3水準1-91-89]總監のアルジヤンソン[#「アルジヤンソン」に傍線]も、其の前流行した毒殺事件の裁判[#底本では「判」の「半」に代えて「絆のつくりの縦棒を左にはらったもの」]をする爲めに立てられた「シヤンブル、アルダント」の頭レニイ[#「レニイ」に傍線]も犯罪※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の踪跡がとんと知れぬには困り果てゝ居て、盜まれた飾は巴里中の飾屋を穿鑿しても見付からなかつた。  デグレエ[#「デグレエ」に傍線]と云ふ探偵自慢の警部も、今度こそ彼の男も手を引いたと云はれまいと、有丈の知惠を絞り出して、血眼に成つて探したが、自分の見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る町には、何時も何事もなく、遙か隔つた巷で相變らず不思議な横死があつた。又た工夫して僞デグレエ[#「デグレエ」に傍線]を澤山製へて、方々の町に配つて、自分は常の服で飾を持つて※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]く人の跡に付いて※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]行いて見たが、自分の付いて行く人丈、何時も無難で、人殺しは外にあるから、此策略も賊が知つて居るやうだ。  或る朝[#底本では「朝」は「朝の旧字(月の横線が右下がりの点)」]レニイ[#「レニイ」に傍線]は漸く床から起きたとき、警部デグレエ[#「デグレエ」に傍線]が色青[#底本では「青」は「睛のつくり」]ざめて驅け込んで來た。ゆうべ例の曲※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]につひつひ出つくはしました。レニイ[#「レニイ」に傍線]は手を拍つて喜んだ。それは善い事をした。最う曲※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は此方の物だらう。デグレエ[#「デグレエ」に傍線]は口惜しさうな顏をして。所が何うも、實に殘念です。昨夕夜中過に、ルウブル[#「ルウブル」に二重傍線]の近處に立つて居るところへ、臆病らしい男が、跡を見反へり/\行過ぎるのを、朧な月明りに透かして見れば、待つて居たド、ラ、フアゝル[#「ド、ラ、フアゝル」に傍線]公で。公が飾を持つて昨夕忍んで行くことは、疾つくに嗅ぎ出して置きました。公はまだ一町も行き過ぎぬとき、片影から稻妻の樣に飛び出した奴があつて、見る間に公を撞き倒して、隱しに入れてあった飾を取るや否や、颱風の樣に逃出す。私は直に飛び出さうとする機會に、何時にない泡[#底本では「泡」は「さんずい+鉋のつくり」]を食つて、石に跌いて※[#「眞+頁」、U+985A、2123-6]びました。起き上がつて追つ掛け乍ら、※[#「口+斗」、U+544C、107-13]子を吹くと、彼處是處から笛で答へ。馬の足音、器械の響がする。驅乍らデグレエ[#「デグレエ」に傍線]だ。此處だ此處だ。迯がすな。と町々へ鳴り渡る樣に呼びました。曲※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が半町許り先きに行くのは、月明りがあるから始終見えて居て。ニセエズ[#「ニセエズ」に二重傍線]町まで來たとき、曲※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]も少し疲れた事か、足を緩めたから、距離が十※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]程に成りました。レニイ[#「レニイ」に傍線]は目を段々見張つて聞いて居たが、覺えずデグレエ[#「デグレエ」に傍線]の肩を押へた。其曲※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]をお前の手際で。私も最う緊めたと思ひましたが、御存の通り、あの町には大職人や、店を張らない小商人の家があつて、石垣があります。曲※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]が石垣に身を寄せたと思ふと、つひ消えて仕舞ひました。なに消えて仕舞つたとは。お前は氣でも違ひはしないか。私も自分で氣が違ひはせぬかと思った位で御座りました。其内に仲間の邏卒は※[#「言+睹のつくり」、第3水準1-92-14]方から集つて來、ド、ラ、フアゝル[#「ド、ラ、フアゝル」に傍線]公も拔刀で追つ驅けて來られ、松火で石垣を彼處此處と改めても、戸も窓も孔もありませなんだ。此話は巴里中に廣がつた。繪草紙屋の店には、呆れて手を張つて居るデグレエ[#「デグレエ」に傍線]の目の前で地中に半分埋まり掛つた畏ろしい顏の鬼の畫を掛けて賣り出した。夜途を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くものは、邏卒計で、それさへ「アミユレツト」(お守り)を胸に懸け※[#「示+斤」、第3水準1-89-23]※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]の水を浴びて、怖々に※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くのだから、職分を盡す所ではない。  總監アルジヤンソン[#「アルジヤンソン」に傍線]は氣を揉んで、「シヤンブル、アルダント」を最う少し嚴重にした樣な役所を立てやうと國王に願つたが、國王は「シヤンブル、アルダント」にすら權限を許し過ぎたと思つて居ることだから、聞屆けなかつた。  世の人は王の心を動かす道を餘所に求めた。王は午後になれば愛妃メントノン[#「メントノン」に傍線]の宮居の一間で、大臣|抔《(など)》をも是所に呼び集へ、夜深くるまでも、政事を談じて居つたが、或る日是處へ長篇の詩を上つたものがあつた。詩の作※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は不幸なる戀人としてあつて。己れの愛する美人に※[#「貝+曾」、第3水準1-92-29]ものをしたくても、怪しき賊の爲めに心に任せぬ。美人の爲めには矢石劍鋩をも犯かすは男の務だが、暗打ちに逢ふは本意でない。愛情の泰斗と仰がるる國王が、何時も外寇を破ぶる武勇の手で、ヘルクレエス[#「ヘルクレエス」に傍線]が多首の大蛇、テゼウス[#「テゼウス」に傍線]が半人半牛の妖怪を滅ぼしたやうに、怪しい曲※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を退治して、情世界の中興の※[#「示+且」、第 3水準 1-89-25]とは何故仰がれないか。  國王は讀み畢つて、メントノン[#「メントノン」に傍線]の意見を問うた。メントノン[#「メントノン」に傍線]は詩の心は兎も角も、曲※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の探索を充分にしたら善からうと生返事をした。王は少し不滿足らしく顏を蹙めて、隣の間に居る内閣書記官に詩の卷を交付さうと思つて行き掛るとき、メントノン[#「メントノン」に傍線]の側の小い椅子に坐つて居る女學士のスキユデリイ[#「スキユデリイ」に傍線]に目を注いだ。  王は口の周[#底本では「周」は「蜩のつくり」]と※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]の邊とに笑を見せて、女學士の側につか/\と※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]み寄り、詩の卷を開いて。メントノン[#「メントノン」に傍線]は途ならぬ戀は助けずともと思ふと見えるが、學士は何う思はれるか。マドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]は椅子を立ち上つて頭を少し下げたときに、夕日の光の樣に顏を少し赤くして、笑を含んで。 [#2字下げ]人目を忍ぶ通ひ路に、寄る白波|避《(よ)》くといへば、思の※[#「さんずい+誨のつくり」、第3水準1-86-73]に浮き沈み、慕ふ甲斐こそなかりけれ。  文飾を費やした長篇の光は、此簡勁なる女學士の歌に消されて仕舞つた。  筐に入れた秘密を持つて、翌朝主人の室に這入つた仲働きマルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]は、まだ惴々と震ひ乍ら、心配しつゝ踵て來た下男のバプチスト[#「バプチスト」に傍線]は手に持つて居る帽子を揉みながら、※[#「陟のつくり+頁」、第3水準1-93-91]りに主人に用心を勸めた。  疑心暗鬼とはお前達の事。此年になる迄、自分で造[#底本では「造」は「二点しんにょう+晧のつくり」]つた小説の中の人の外をば、困めた事もない私の處へ、殺しに來る人があるものかね。又た盜みには、少し計りの金字を入れた書物計の私の室へ、誰れが這入るものかね。どれ、筐を。と開け掛けた女學士の平[#底本では「平」は「怦のつくり」]氣な樣子に引き代へて、下女、下男は覺えず三足程後へ下つた。  筐から出たのは金銀珠玉で惜氣もなく飾った首飾と腕環とで手に持つたとき、窓から指しこんだ旭の光で、燦爛と光を發つた。仲働きは覺えず進み出て。まあ、綺麗な飾では御座りませんか。あの持物自慢のモンテスパン[#「モンテスパン」に傍線]さんでも此樣な飾はお持ちなさりますまい。マドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]は筐の底に疊んだ紙のあるに氣が付いた。これを見たら樣子が知れよう、と讀むや否や、あつと云つたきり、椅子に仆れ掛つて暫く氣が遠くなつて居たが、少し氣が付いて、口の内で。心ともなく詠んだ歌を、世間で彼此云つたならどう言譯が。  マドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]の樣子に驚いた仲働きは落ちた紙を取上げて見ると、その文言は。 [#ここから2字下げ] 人目を忍ぶ通ひ路に、寄る白波よくといへば、思の※[#「さんずい+誨のつくり」、第3水準1-86-73]に浮き沈み、慕ふ甲斐こそなかりけれ。慕ふ甲斐なしと御仰有之※[#そうろう、110-7]、弱[#底本では「弱」は「嫋のつくり」]く卑怯なる人々の手に置きても無益[#底本では「益」は「縊のつくり」]なる飾を奪取※[#そうろう、110-7]は私共に御座※[#そうろう、110-7]。御歌の御蔭にて嚴重なる上の探偵を※[#「俛のつくり」の「危−厄」に代えて「刀」、第3水準1-14-48]かれ※[#そうろう、110-8]段、難有奉存※[#そうろう、110-8]。御禮の印迄に此飾御受納被下度、尚後々迄も私共の事御忘れなく、御眷顧の程奉願※[#そうろう、110-9]。 [#ここで字下げ終わり]  マドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]は漸く心を落ち付けて、仲働きに云ひ付けて、衣を出させ直に被替へて車に乘つて、メントノン[#「メントノン」に傍線]夫人の所へ行つた。夫人は何時になく女學士の氣色が好くないから怪んで仔細を尋[#底本では「尋」は「潯のつくり」]ねた。女學士は一部始終を話して、首飾と腕環とを出して見せた。飾を手に受取つた公爵夫人は、持つて窓の下に行つて、日に照して鎖[#底本では「鎖」は「金+(巛/貝)」]に※[#「(車/凵+殳)/糸」、第 3水準 1-94-94]いである鈎を一々改めて驚いた。此程の價値のある仕事は、流石奢に耽つて居る巴里の貴夫人でも見たことがなかつた。  夫人は熟々見て居たが、急[#「(危−厄)/(帚−冖−巾)/心」]に振り向いて。此程の仕事をするものは、今の世にルネエ、カルヂリヤツク[#「ルネエ、カルヂリヤツク」に傍線]の外にはありますまい。  カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]はその頃巴里の飾職の中で、第一等の地位を占めて居つた。高妙な技藝を有する人物には善くある事で、カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]が畸人だと云ふ噂は、其妙藝の名と共に高かつた。通常と云ふよりは寧ろ大きい方の男で、肩[#「肩」の「戸」に代えて「戸の旧字」]が廣く、筋肉が逞[#底本では「逞」は「二点しんにょう+酲のつくり」]しく、五十を踰えた年で居ながら、輕捷なことは少年にも劣らなかつた。唯頭髮が赤く、目が※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]色に光つて居るので、何んとなく怖い樣だけれど、貧民を憐れむこと抔《(など)》は人より深いから評[#底本では「言+怦のつくり」]判が好かつた。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の技藝は寶石の天性を識破することに基くと、具眼の人は云うた。晝夜を判たず勉強[#底本では「強」は「繦−糸」]してカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の仕事場には槌の音が斷えない。一番感心なのは數日間骨折つた仕事でも、氣に入らぬ所があると、直に鎔鑪に打込んで仕舞ふのであつた。  カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]に仕事を※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]むのは易いが、カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]から出來上つた品物を受取るはむづかしい。金錢を貪ぼる性質でないから、貴人の※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]でも、貧乏人の※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]でも、快く受け合ふが、出來上つて渡す日になると、彼處を直す、此處を直すと猶[#底本では「猶」は「けものへん+鰌のつくり」]豫を求め、果は顏色を變へて受取人を罵り、漸々の事で渡して返すことであつた。王侯貴人の※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]は時としては強ひて謝絶[#底本では「絶」の「危−厄」に代えて「刀」]した。近頃メントノン[#「メントノン」に傍線]夫人も文人ラシイヌ[#「ラシイヌ」に傍線]に※[#「貝+曾」、第3水準1-92-29]らうと思つて指環を※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]んだがたつて辭退した。  マドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]は夫人の言葉を聞いて喜んだ。飾の製造人が知れれば、それに問うたら持主が知れようと思ふから、今から徃つてカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]に遭はうと云ふと、夫人は止めた。なに、私も樣子が知りたいから、飾職を此處へ呼びませう。又た指環のことだと思ふと來ませんから、誂へ物ではない、鑒定を※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]むのだと、使に善く云つて遣りませう。と腰元を呼んで、使の事を言付けた。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は程なく此間に這入つて來た。女學士を見ると逢ふ積でない人に逢つた故か、少し遽てた樣に、先へ女學士の前で丁寧に拜禮をして、公爵夫人の處に進んだ。夫人は深※[#「糸+碌のつくり」、第3水準1-90-8]色の机掛けの上で光つて居る飾に指をさして、此の飾は其方の作ではないかと問うた。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は一目見ると駭然した樣子で、飾を筐へ手早く仕舞つて。此飾が私の作だと云ふことは、御妃の御目では、私に御問なさる迄もなく知れさうなもので御座ります。夫人は親父の顏をきつと見て。それでは誰に※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]まれて、此程な仕事をお仕のだえ。と問はれたときに、些しも猶豫せずに。誰にも※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]まれは致しません。私が自分の爲めに製へました。兩婦人は齊く飾職の顏を見詰めた。公爵夫人は僞ではないかと云ふ樣な顏をすると、女學士は何んで自分の爲めに製へたかと、説明を待つ樣な顏をした。  御不審は尤ですが、私は飾職には好んでなつた位故、善い寶石をより集めて、時間を惜まず此飾を拵らへたは、一つは自分の樂で御座ります。それにつひ此間何う云ふ譯か、私の仕事場に置いたのが見えなくなりましたから、切角尋ねて居ました所で。此言葉を聞いた女學士は。あゝ、それを聞いて安心しました。と喜びの色を顯はし、身輕に椅子より起ち、飾の這入た筐を、カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の前へ寄せて、飾を獲た※[#「櫪のつくり」、第3水準1-86-37]史を話した。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は下を※[#「示+見」、第3水準1-91-89]ながら聞いて居て、時々聞えぬ位な聲で。ふん。はあ。などの間投詞を插んで聞いて仕舞ふと、何か急に思ひ付く事が有つて決斷が出來ぬと云ふ樣な風で、額を摩[#「麾」の「毛」に代えて「手」]り、大息を吐きなどしたが、漸く思ひ定めたか、前に在つた筐を把つて、女學士の前で膝を地に搶いた。此飾があなたのお手に入つたのは、何うも不思議で。何う云ふものか、此の飾を製らへる時に、あなたの事が折々心に浮びました。どうか此れは天道さまが彼方へ授けたものだと思つて、取つて置いて下さい。これを聞いたマドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]は持前の愛敬を見せて。此の萎びた手首に其腕環を。此の何時も包んで居る頸へ其飾を。どうしてまあ。飾職は此裡立上つて筐を猶も女學士にさし付け目の色をかへて。さう言はずにどうぞお受なさつて。メントノン[#「メントノン」に傍線]夫人は見て居たが、筐を間で受取つて。あなたも年を取つた事計り言ひ乍ら、あれ程カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]が勸めるに、小娘の様にはにかんで居ずと、人の志だからお受なさつたらよからう。と無理に手に握らせた。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]はさも嬉し氣に又た膝を搶いて、女學士の手を吸ひ、※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]を流したが、急に立ち上つて、其儘驅け出して歸つた。其劇しい運動の爲に、机の上に列べて有つた杯が相觸れて響を發した。  此れから二三箇月後の事で、女學士はモンタンシエゝ[#「モンタンシエゝ」に傍線]公爵夫人の硝子馬車に乘つて、ポン、ニヨツフ[#「ポン、ニヨツフ」に二重傍線]という橋を渡りかゝつた。珍しい馬車を見やうと、橋の上に一つぱい人立がして、暫く馬の足の足※[#「てへん+蚤」、第3水準1-84-86]を停めた。此時遽に橋の向ひが騷々しく成つたから、驚いて見ると、一人の男が群集の人を撞き仆す樣に押し分けて、車に近づいて來た。側で見れば色の蒼ざめた若※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]で、遽たゞしく車の戸に手を掛けて、推し開けるや否や、手紙を一本女學士の膝の上に抛げ上げて置いて、直ぐに群集に混ぎれて迯げてしまった。此男が車の戸を開けると、女學士の側に居た仲働きマルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]はあつと云つたきり、氣絶した。これに驚いて、女學士は連りに鈴索を引いたが、御※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は何と思つたか、無暗に鞭を馬に加へたから、馬は口の圍りの白泡を振り拂つて、暫く體の前半を持上げるかと見えたが、足を速めて驅け出した。  女學士は懷から嗅ぎ藥の這入つた瓶を出して、氣絶した仲働きに嗅がせた。仲働きは暫くして漸う目を開き、慄ひ乍ら主人に向ひ。まあ、何といふ怖い人で御坐いませう。あの人で御坐います。先頃の夜筐を持て參りましたのは。女學士はマルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]を樣々賺しなだめ、受け取つた紙を披いて見れば、其文に。 [#ここから2字下げ] 私儀冥々の裡に御恩を蒙り、御身の上を案じ候事、子の母を思ふよりも切に御坐※[#そうろう、114-2]。扨先夜御宅迄持參仕※[#そうろう、114-3]腕環首飾の儀、尚御所持有之※[#そうろう、114-3]ては、御命にも懸り※[#そうろう、114-3]※[#「示+咼」、第 3水準 1-89-31]出來可申※[#そうろう、114-3]に付、何とか名義を御考被遊至急飾職ルネエ、カルヂリヤツク[#「ルネエ、カルヂリヤツク」に傍線]方迄御遣し可有之候。若御遲滯被遊候はば、御恩を蒙りし此身、貴君樣の御危難を見るに忍びず※[#そうろう、114-5]故、明後日の夜半御宅へ參上、御面前にて自殺し相果可申※[#そうろう、114-5]。 [#ここで字下げ終わり]  スキユデリイ[#「スキユデリイ」に傍線]學士は※[#「皀+旡」、U+65E3、4-15]に其翌朝飾を持つて、カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の宅まで徃かうと思つたが、生※[#「りっしんべん+曾」、第3水準1-84-62]と詩歌を求めるものが多く、彼此とする内に、眞晝近くなり、早やモンタンシエゝ[#「モンタンシエゝ」に傍線]公爵夫人を訪はねばならぬ時刻になり、兎角して其日も暮れた。  女學士の目の前には、何時も色の蒼ざめた、目の血走つた彼の若※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の顏が見えて居る。此顏は何となく昔から見覺えがあれど、何と思つても思ひ出されぬ。夜になつても穩に眠られず、彼の若※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は夢にまで來て救を求めた。何か心の中に人に竭さねばならぬ事を打ち棄てゝ居る樣な。  次の朝女學士は衣服を改め、飾の箱を持つて、飾職の家へ行かうと思ひつゝ、ニセエズ[#「ニセエズ」に二重傍線]町迄來て見ると、町中何となく騷がしく、飾職の家の前には大勢の人が聚つて、がや/\と云つてゐるを、邏卒が制して居た。中には其人殺しを引出して仕舞へ等と※[#「口+斗」、U+544C、105-5]ぶものが有つた。此時俄かに家の戸が明き、警部のデグレエ[#「デグレエ」に傍線]が多人數の邏卒を從へ、一人の男を鎖で縛[#底本では「縛」は「糸+溥のつくり」]つて引いて出るを見て、聚つて居る人は皆人殺し/\と罵つた。此男が引かれて出るとき、家の内で一聲高く※[#「口+斗」、U+544C、105-5]ぶ聲がした。女學士はこの躰を見て、若しやと思ひ當る事があるから、頻に御※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を促がして、漸々群集の間を通り拔けて、車をカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の家の前に駐めた。見れば今若い男を引て徃かうとするデグレエ[#「デグレエ」に傍線]の膝に縋つて留めやうとして居る一人の娘があつて、髮は解けて亂れ、衣は綻びて雪の膚を露はし、蒼ざめた面に天然の人をうごかす美を備へて居た。無殘な、情ない、罪のないオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を。と※[#「口+斗」、U+544C、105-5]ぶ聲が顫うて言葉が好くは分からぬ。デグレエ[#「デグレエ」に傍線]は振り離さうとしても、仲々離れないから、傍の邏卒が荒くれた手で、娘の躰を抱[#底本では「抱」は「てへん+鉋のつくり」]いて引き離した。此機會に力が餘つて、娘は家の入口の石段を輾轉と轉がり落ちて、街の敷石の上に俯伏になり、其儘氣を失つて仕舞つた。スキユデリイ[#「スキユデリイ」に傍線]は見るに忍びないから、手づから車の戸を推し開いて下り立つと、世に知れた女學士の事だから、群集も自然に分かれて、一條の路が開いた。此内物の哀を知つた近所の女が二三人、僵れた娘を抱き起して、石段に腰を掛けさせ、額を藥水で摩[#「麾」の「毛」に代えて「手」]つたから、娘は漸う我に歸つた。女學士は警部に向つて。何事があつて、此騷ぎは。と慌忙しく問ふと、デグレエ[#「デグレエ」に傍線]は落ち付いた顏附き。何事所ぢや御坐りません。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は今朝刺し殺されて居りました。其人殺しは弟子のオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]といふもので、今引かせて遣つた處で。そして此の娘は。えゝ、これで御坐りまするか。此れはマデロン[#「マデロン」に傍線]と云つて殺された飾職の娘で、人殺しのオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の情婦で御座ります。やれ罪のないものを引いて行くの、代りに自分を縛れのと、先刻から私共に無益な骨を折らせました。なあに、娘も矢つ張り同※[#「類」の「大」に代えて「犬」、第 3水準 1-94-4]かも知れません。孰れ出る所へ出た上でなけりやあ、眞實の事は分かりません。警部デグレエ[#「デグレエ」に傍線]は斯う答へ乍ら、娘を尻目で見たが、此眼は何うも一通りでなかつた。何うも人の憂を自分の幸に思う樣な處があつた。此時娘は漸う息を吹き返したが、まだ手足を動かす事も出來ず、物も言へぬ。唯だ眼を閉ぢた儘で、石段に倚り掛つて居た。スキユデリイ[#「スキユデリイ」に傍線]は目に憐の※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]を含んで、此少女を見て居るとき、又た家の内からがや/\と言ひ乍ら、多人数の邏卒がカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の屍骸を舁《(か)》いて出た。女學士は警部に向つて。成程此娘は嫌[#底本では「嫌」は「女+賺のつくり」]疑のあるものでもありませうが、私しは少し見る所があるから、何うか暫しの間貸して置いて貰ひませう、と請求した。當時スキユデリイ[#「スキユデリイ」に傍線]學士といつては、日※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]に王宮に出入して、所謂影響の多い人だから、デグレエ[#「デグレエ」に傍線]は澁々承諾した。聚まつて見て居たものは皆んな女學士の計ひに感服して居たから、寄り集つてマデロン[#「マデロン」に傍線]を抱き起して、女學士の車の中に擔ぎ込んだ。嗚呼、公衆と云ふものは果敢ないものだ。デグレエ[#「デグレエ」に傍線]が來て人殺しだと云へば、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]に石を投げ掛け兼[#底本では「兼」の「税のつくり−兄」に代えて「八がしら」]ねぬ樣な勢であつたが、今又た女學士が娘を不便《(ふびん)》だと云ふと、今まで面白がつて見て居つた殘酷[#底本では「酷」は「酉+晧のつくり」]な所作を何となく惡む心が生じ、※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]をも溢ぼすものだ。此性質は何處の國でも、今も昔もかはらぬ。  當時巴里第一の醫師セロン[#「セロン」に傍線]が盡力で、我に還つた娘マデロン[#「マデロン」に傍線]は、マドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]女學士に慰め賺《(すか)》されて、やうやう※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]を斂《(おさ)》め、斷々の聲で前夜の樣子を話した。  眞夜中頃に部屋の戸を靜に敲く人が有るゆゑ、誰かと問へば、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の聲で、お父さんが死に掛つて居るから早く起きて、といふ。驚いて戸を開て見れば、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]が色蒼ざめ、額からは汗を流し、片手に手燭を持つて居た。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は自分の顏を見ると、手眞似で物を言ふなと知らせ、直に踵を旋らして、廊下傳ひに仕事塲の方へ行つたが、其足元は蹣跚《(まんさん)》[#底本では「跚」は「足+册」]として居る樣であつた。自分は心も朧氣に、跡に附いて仕事塲に這入つて見ると、父は目を恐ろしく※[#「目+爭」、第 3水準 1-88-85]り、喉の奧で息をして居た。覺えず聲を立てゝ泣き乍ら、父の體に縋つた。この時始めて血塗れな襦袢に氣が附いた。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は靜に自分を引き退けて、父の左の胸になる創を藥で洗つて繃帶した。此内父は正氣になり、息遣ひも直つて、先づ自分の顏を見詰め、又たオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の顏を見て居たが、自分の手を取つて、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の手に渡し、二人の手を一にして力一つぱいに押した。自分は悲いと嬉いとで、胸が一つぱいになつて、物が言はれぬから、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]と一所に父の寢臺の前に膝を搶いた。父は感動した樣子で、聲を立てゝ起き直らうとしたが、其儘息は絶えて仕舞つた。此樣子に二人共聲を揚げて泣いた。須臾《(しばらく)》してオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は主人の吩咐で、夜一所に出て行くと、或る町で主人は曲※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]に出遭つて手創を負つたから、漸くの思で重い體の主人を肩に掛けて家へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つたと話した。夜が明けて泣き聲を聞いて居た隣住居の人が來た時には、二人共まだ恍惚として尸骸の側に居た。  始終を話した娘マデロン[#「マデロン」に傍線]はオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]が平生の誠實な事を繰り返して、又た若し目の前であの人が刄を父の體へ刺したのを見たならば、あの人が此程な惡事をする譯はないから、惡魔[#底本では「魔」は「麾」の「毛」に代えて「鬼」]の所業で人の目を昏ましたのだと思ふより外はないと、何處までもオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を保護した。  女學士はカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の家の近所を聞き合はせて見ても、親子師弟が和睦の生活は知れ渡つて居り、又た法廷でオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の言うた事を聞いても、娘の話と總て符合して居た。此符合の外、娘が平生の言語擧動に注意するに、罪のない、從容な處が何しても詐をいふものとは見えないから、意を決してかの「シヤンブル、アルダント」と云ふ役所の頭レニイ[#「レニイ」に傍線]の所へ徃つて自分の考えを陳べた。役頭の前で眼に※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]を浮かべて言つた女學士の詞が、丸で聾な耳の前を通り過ぎなかつたといふ徴は、唯だレニイ[#「レニイ」に傍線]の顏に顯はれた極精[#底本では「精」は「米+睛のつくり」]微な、殆嘲弄を帶びた笑のみであつた。成程犯罪の事などに立入つて見た事のない貴君の目には、戀人の爲めに訴へる少女の※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]が哀れに見えませう。又たオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を罪人だといふ私もさぞ殘酷に思はれませう。然し裁判官の目を持つて居まする私の言葉を聞いてから、篤と考へて御覧なさい。先づカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]創を負うて死んで居たを見出したのは夜明です。其側に居たは娘とオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]と二人切りです。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の部屋を搜すと丁度創口に嵌まる血の附いた劍が出ました。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は主人が目の前で殺されたといひます。主人に創を負はせたは盜人か。それは存じません。縱令其曲※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を遮ぎり得ない迄も、何故人の助を呼ばなかつた。私は二十※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]計り遲れて主人の跡について行きました。何故そんなに遲れて行つた。主人がさうしろと云ひましたから。主人はまた夜更に何の用があつて街を※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いた。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は平生九時過ぎに戸をしめて寢る人ではないか。それは申されません。何うです、此あやしい言分は。其上カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の住つて居る家の大戸口の側に、クロオド、パトリユウ[#「クロオド、パトリユウ」に傍線]といふ老人が夫婦暮しで居ますが、呼び出して聞いて見るに、何うも飾職のカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]があの晩に外へは出ませなんだ。此家の入口の大戸は、跡で檢査もして見ましたが、錠前の鹽※[#「木+誨のつくり」、第3水準1-85-69]と蝶番の工合とで、開閉をする度に一番高い樓上まで鳴り響[#底本では「響」の「即のへん」に代えて「皀」]きます。丁度あの晩九時の頃でしたが、下で聞いて居ると、飾職は何時もの通り梯子を下り、戸を閉めて錠を掛け、又登って行き經を誦み、それから寢間へ這入りました。パトリユウ[#「パトリユウ」に傍線]は最う八十に成つて居て、眠られぬ癖があるから、女房[#底本では「房」の「戸」に代えて「戸の旧字」]に燈火を附けさせ、女房は古い年代記を讀み、自分は椅子に倚り掛つて見たり、又た部屋の内を彼此と※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いたりして居たが、夜中までは樓上が靜でした。すると遽に頭の上で劇しい足音がして、重荷を舖板の上に卸した樣な音が聞えた。二人は驚き乍ら息を殺して聞けば、人の呻吟る聲がした。此時二人の※[#「示+申」、第3水準1-89-28]經をば今行つた惡事の感動が一陣の雨の様に通り過ぎたのです。此暗い處で仕たことが、翌朝の旭の光と倶に世間に知れたは貴君も御存じでせう。  これを聞いたマドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]女學士はまだ半信半疑であつた。成程お話を聞いて見れば、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]に疑の掛つたも尤ですが、あの男がまあ何うしてさういふ怖い心を起したでせう。御存の通りカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は貧乏ではありません。それに大分好い寶石を持つて居ました。それにしても娘の婿になれば我物だに、何も舅になる人を殺さずともの事ではありませんか。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]はその寶石を一人で取る事は出來ず、人と配分する義務を持つて居たかも知れません。また人に※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]まれて殺したかも知れません。まあ、その配分するの、※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]まれるのといふは、それは誰れとの事です。私はまた久しく巴里の人に苦勞させた秘密な犯罪の露顯する絲口は此處かと思ひます。殺されたカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の創口を善く調べて見ますと、丁度今迄巴里の町々で殺された人の衝傷と同じ事でそれにオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]が捕縛せられた日から、何處にも人殺しがありません。どうも彼此を考合せて見れば、あの男が例の人殺仲間の首領で。それでもあのマデロン[#「マデロン」に傍線]は。娘も同※[#「類」の「大」に代えて「犬」、第 3水準 1-94-4]かも知れません。お内へは御氣の毒ですが、其内迎ひに行つた時はお渡しを願ひます。  此言葉を聞いた女學士の心はひやりとした。役頭レニイ[#「レニイ」に傍線]の樣な人の心には、誠だの義理だのといふものは、※[#「墟のつくり」、第3水準1-91-46]空な意味のない文字で、此人の目は人の心の尤も深い、尤も秘密な襞の底を探つて、殺人犯や奸淫罪を見出しさうだ。女學士は立上つて、促《(せま)》つた胸から苦しい息を衝き乍ら。それでも少しは物の哀れといふことも考へて、と漸う/\の思で云つた。役頭は導いて梯まで徃つた。女學士は既[#底本では「既」は「皀+旡」]に梯を降りやうとしたとき、我乍ら不思議な想が浮んだ。その不幸なオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]といふ人に一寸逢ふことは出來ますまいかと振り向いて役頭に言つた。役頭は訝かし氣に暫く女學士の顏を見詰めて居たが、固有な※[#「りっしんべん+曾」、第3水準1-84-62]らしい笑を見せ。成程貴君は目前の出來事よりは、感じを恃んで、心の聲に耳を傾けて、オリヰエゝ、ブルツソン[#「オリヰエゝ、ブルツソン」に傍線]の罪を自分で試さうとの思召でせう。若し犯罪の暗い隱家を見たり、世に棄てられた惡事の梯を段々に降りて見るのが五月蠅くなくば、二時間が程には牢屋の戸を貴君の爲めに開けさせます。  女學士の胸中では二種の感觸が鬪つて居ます。事實に就いて見れば、天下の裁判官誰れでもレニイ[#「レニイ」に傍線]の決斷より外の決斷を下さうとは思はれず。然し飾職の娘マデロン[#「マデロン」に傍線]が活※[#「さんずい+發」、第3水準1-87-9]な色で畫いて見せた、一家幸※[#「示+福のつくり」、第3水準1-89-33]の圖は、光輝燦爛として、此嫌疑を打消し、此暗處を照徹した。何うも女學士の心の尤も深い處には信仰が居つて、嫌疑の這入るのを防いで居た。  オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の口から最う一遍始終の話を聞いて見たら、餘り證據が充分に出た爲めに、裁判官が打棄てゝ置いた瑣末な事の中に、何か秘密を訐《(あば)》く手續が出はすまいか、と女學士は考へた。  女學士は牢屋に伴[#底本では「伴」は「にんべん+絆のつくり」]はれて徃つて大きな明い部屋に這入つて、暫く待つと、鎖の響がした。獄丁はオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を引いて來た。女學士は戸の所まで來たオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を一目見るや否や悶絶して、覺めて見た時は最うオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の姿は見えなかつた。女學士は覺めるや否や、自分の車まで連れて徃つてと、案内※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]を無暗に催促した。早く、一刻も早く出て行きたい、此の惡事の※[#「巛/果」、第 3水準 1-84-8]窟を。  嗚呼、女學士の驚いたも尤だ、飾職の娘マデロン[#「マデロン」に傍線]の結髮《(けつぱつ)》の夫だといふオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は、彼の橋の上で怪しい手紙を車の中に投げ込んだ、彼の眞夜中に人の家に這入つて怪しい筐を中働きの手に渡した癖※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]であつた。さては役頭レニイ[#「レニイ」に傍線]が畏ろしい嫌疑も仔細があらう。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は定めてあの怖ろしい人殺しの仲間であらう。若しさうなら師匠のカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]を殺したのも無理ではない。然し娘マデロン[#「マデロン」に傍線]は。今迄に一度もない程、心中に信じた事の爲めに欺かれ、今迄此世にありとも思はなかつた魔※[#「示+申」、第3水準1-89-28]の爲めに不意に攫《(つか)》まれ、最早此世には眞といふものは決してないかと迄、一時は思つた。その位だからマデロン[#「マデロン」に傍線]は若しや惡事の仲間ではないか、親殺しではないかといふ事が段々心中に浮んで來た。總て人の心は一畫圖を得る※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]に、我知らず五色を求めて彩[#底本では「彩」は「綵のつくり+彡」]り、その想像圖が人の目を射る樣になる迄は滿足しないものだ。女學士はマデロン[#「マデロン」に傍線]の言語擧動を一々思ひ出して、怪しいと思はれる節[#底本では「節」は「竹かんむり/(皀+卩)」]々に心を留めた。扨斯うなつて見ると初めに罪のない娘心だと思つた事も、故《(ことさ)》らに巧んだ仕打と思はれる。あの胸を裂く樣な泣聲、血の※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]も、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]のゆくすゑを怖れてゞはなくつて、自分の罪の發覺するを怖れてかも知れぬ。  女學士は車に上るときには、娘マデロン[#「マデロン」に傍線]を、あの我胸の血で飼[#底本では「飼」は「飮のへん+司」]つて置くやうなマデロン[#「マデロン」に傍線]を、早速逐ひ拂つて仕舞ふことに思ひ定めた。家に歸つて來ると、その足元に※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]つ伏したマデロン[#「マデロン」に傍線]の姿、波の打つ胸の前で組んだ兩手の優しさ、泣き乍ら救を求める聲の哀れさ、また※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]を帶びて見上げた目は雨後の青空の樣で、※[#「示+申」、第3水準1-89-28]の使いの童にも斯んな目はない。女學士は弱る心を推し鎭めて、成る丈剛い聲をした。彼處へ徃つてお出で。縦令お前の結髮でも人を殺したからには仕方がない。それ/\のお仕置に逢はねばならぬ。私しは聖[#底本では「聖」の「王」に代えて「壬」]母がお前を守つて同じ罪に落さなかつたことを※[#「示+斤」、第3水準1-89-23]る計り。そんなら、貴君まで。マデロン[#「マデロン」に傍線]は目を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してその儘仆れたから、仲働きに任せて、女學士は部屋に這入つた。氣の毒なは此人の心だ。年寄つた今まで人の善惡は大抵看破せられるものだと思つたに、此奇怪な運命が自分の身の邊に迫つて來たとは。  聞けばマルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]に引れて次へ下る娘の聲。あのお情深いお方までが。あゝ、何處までも不仕合せな私。不便なオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]。此聲は胸の奧に通つて、心の臓を截る樣だ。すると又心の極の奧に隱れて居た信仰が、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の爲めに寃《(むじつ)》を鳴らした。何か別に譯がありさうなと思ふ疑が起つて來た。まあ、何の悪魔が私を此不思議の中に引き入れたか。私の命を取るまでこの半信半疑の苦をさせるのか知らん。此處に色蒼ざめて下男のバプチスト[#「バプチスト」に傍線]が這入つて來た。その筈だ、彼の巴里の山中で疫鬼の樣に忌《(いみ)》嫌はれて居る探偵のデグレエ[#「デグレエ」に傍線]が主人のマドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]女學士に面會を求めたから。部屋に通してデグレエ[#「デグレエ」に傍線]の口※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]を聞けば。今日役頭レニイ[#「レニイ」に傍線]の使に參つたは別の事では御座りません。實は役頭も若し貴君の※[#「徳」の「心」に代えて「一/心」、第 3水準 1-84-37]義と擔力の世間の御婦人方と違ふことを知らずば、又た貴君の方から此度の怪しい人殺しの事に關係をお求めなさらずば、又たこの怪しい犯罪の露顯する手掛りが貴君の手の内になかつたならば、このお願を致しますまい。罪人のオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は貴君のお顏を見た日から半狂亂です。理を推して責めて見ると、言譯が出來なくなります。然し|彌/\《(いよいよ)》主人カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]を殺したかといふ一段になると、、急に面色を變へて基督を始め、夥多《(かた)》の※[#「示+申」、第3水準1-89-28]使に誓を立てゝ、成程自分に死んでも好い科はあるが、主人計りは殺さないと云ひます。御覽なさい、此死んでも好い科とは何でせう。その科はと問へば、縦令拷問に逢つても云はぬと、仲々聞きません。それに先刻貴君を見てからは、貴君お一人に向つてなら、始終の樣子を白※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]せうと云ひます。お氣の毒ではありますが、何うかして白※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]を聞て遣つて下さる樣にと、役頭の※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]です。女學士はこの口※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]を聞いて怒の色を顯した。それは切角のお※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]ですが、何うして私が人の隠慝を訐《(あば)》く責道具になられませう。何うして人の秘密を聞いてそれを裁判官に告[#底本では「告」は「晧のつくり」]發しませう。縦令オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は罪人でも、私を信じて私に打明けて話すといふ事を聞いて置いて、それを外の人に言はれませうか。若又私が奮發して、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の秘密を聞いても、それは宗門の師父の聞いた懺※[#「りっしんべん+誨のつくり」、第3水準1-84-48]と同じことで、この胸に疊んで人には話しませんから無益かと思はれます。デグレエ[#「デグレエ」に傍線]は尊[#底本では「尊」は「墫のつくり」]敬の蔭に何處か役頭のレニイ[#「レニイ」に傍線]に似た冷笑を帶びて。成程一圖にさうお思召すも尤もですが、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の白※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]をお聞きなさつた上で、また御思案も出ませう。貴君は役頭に物の哀れを知れと仰有つたといふ事ですが、役頭が物の哀れを思へばこそ拷問に掛けるを見合せて、態々貴君の處までお※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]み申すのです。女學士の吃驚したのをデグレエ[#「デグレエ」に傍線]は見て取つた。なに、拷問する運《(はこび)》には最う疾つくになつて居るのですが、貴君の御返詞を伺つた上と扣《(ひか)》へて居ます。然し御承諾なら、またあの牢屋まで御運を願ふも恐れ入りますから、世間に目立たぬ樣に、夜更けてオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]をお宅へ連れて參ります。當人の白※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]は偸聽は致しません。私共は唯だ堅固に守つて居て、若又た當人が貴君に無禮でも致す樣なら、私が扣《(ひか)》へて居まするから、命懸で貴君のお體を守護します。その上お聞きになつた事も殘らず伺はうとは云ひません。唯だ貴君のお心でこれ程は言つても好いとお思召す丈お話になれば、それで宜しいのです。女學士は天賦の慈悲心に任せて答へた。それでは今夜オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を連れて來るのを待つて居ります。※[#「示+申」、第3水準1-89-28]を※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]に應接をして見ませう。  丁度あの怪しい箱を持つて來た時の樣に、眞夜中に女學士の家の戸を敲いた。この夜の客のことを兼て聞いて居た下男のバプチスト[#「バプチスト」に傍線]は下りて戸を開けた。靜な足音と幽な話聲で、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を連れて來た番人が家の廊下々々へ分れて張番をする樣子が知れた時には、女學士は氷の樣に冷たい風が膚を襲ふ樣な心持で、覺えずぶる/\と慄うた。  暫くして部屋の戸が靜に開いた。縲絏《(るいせつ)》は解けて人柄な衣を着せられたオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を連れて警部デグレエ[#「デグレエ」に傍線]は這入つて來た。丁寧に禮をし乍ら。これがオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]で御座ります。と言ひ畢るや否や警部は部屋を出て徃つた。  オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は床に膝を搶いて、兩手を擧げて目から※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]をはら/\と流した。  女學士は面に血の色を失つて、同く無言でこの男を見卸した。この窶れ果てた、否、憤恚《(ふんけい)》と酸痛とでめちや/\になつた顏容から、依然として射出するは、この少年の心の誠だ。それにこの男の顏は、何時か自分の可愛いと思つた人の顏に似て居る事が、見れば見る程分明だ。然し其人は誰だか思ひ出されぬ。斯う思つて見て居る中に、初め氣味の惡いと思つた念は遂[#底本では「遂」は「燧−火」]に跡をも留めず、女學士はカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]を殺したといふ嫌疑のある男が、自分の前に膝を搶いて居るこの若い男だといふ事を、段々に忘れて仕舞つて、持前の優い聲で云つた。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]、お前の私に言ふ事があるとお云ひのは、まあ何の事だえ。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は膝を搶いた儘、さも哀しげに太い息を吐いて。貴君はそれ程に、痕も殘らない程に私を忘れてお仕舞なさりましたか。女學士は答へた。成程顏に何處やら覺えがあるが、何うも思ひ出されない。然し人殺しだと人の云ふお前を、斯うして側近く呼んで譯を聞かうと思ふも、畢竟このぼんやりした記憶の痕の爲だ。この言葉にオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は少し無念らしい樣子で立ち上つて、一※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]後へ下り、※[#「示+見」、第3水準1-91-89]線を鋪版《(しきいた)》に着けて、かすめた聲で。貴君はアンヌ、ギオゝ[#「アンヌ、ギオゝ」に傍線]をお忘なさりは仕ますまい。彼《あれ》が子のオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]、貴君の熟くお膝の上にお擁なされたオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は私で御坐ります。おやまあ、お前が。女學士は兩手を顏に當てゝ長椅子の上にどうと坐つた。この驚は無理ではない、アンヌ、ギオゝ[#「アンヌ、ギオゝ」に傍線]と云|婢《(ひ)》は、小い時からスキユデリイ[#「スキユデリイ」に傍線]家に仕へた女で、マドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]女學士を吾子の樣に膝の上に載せて育て上げたは渠だ。[#入力者註:ここは誤訳。原作では、女學士が幼かったアンヌを育てたとなっている。次の文にも影響を与えている。]女學士が大きく成つた時に、誠實な美少年のクロオド、ブルツソン[#「クロオド、ブルツソン」に傍線]といふものが、この婢を貰ひ受けて女房にした。クロオド[#「クロオド」に傍線]は上手な時計屋で、巴里の町で評判も善く、收入もあることだから、スキユデリイ[#「スキユデリイ」に傍線]家でも喜んで結婚を贊成した。この新夫婦は當時靜な一家の幸※[#「示+福のつくり」、第3水準1-89-33]の基礎を築いて、その※[#「糸+彖」、第3水準1-90-13]の絲が猶ほ密になつたは、二人の間に生れた、母の美しい姿に生寫しな男子であつた。  この子を女學士の可愛がつたは非常で何時間も何日間も、母の膝から離して連れて歸つて、撫でつ摩りつした。子も主家の令孃のこれ程の愛に應へることを知つて居た。渠がマドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]孃を愛することは、母を愛すると同じであつた。その内クロオド[#「クロオド」に傍線]の時計が段々に巴里中の評判に成つたので時計屋仲間が妬く思つて、樣々の奸計を逞うして、つひ/\クロオド[#「クロオド」に傍線]の時計の賣れない樣にして仕舞つた。實に當時クロオド[#「クロオド」に傍線]が家の竈の烟は絶え/\に成つたから、繁華の巴里に長く居るは不得策だと、クロオド[#「クロオド」に傍線]が決心した。この男は、故郷[#底本では「郷」の「即のへん」に代えて「皀」]のジユネウ[#「ジユネウ」に二重傍線]で、山水の景色の善い、閑靜なジユネウ[#「ジユネウ」に二重傍線]で今の困窮と倶に、懷郷の病をも治さうと思ひ立つて、スキユデリイ[#「スキユデリイ」に傍線]家の扶を餘所に、一家揃[#底本では「揃」は「てへん+(剪−刀)」]つて故郷に歸つた。ジユネウ[#「ジユネウ」に二重傍線]へ徃つてからもアンヌ、ギオゝ[#「アンヌ、ギオゝ」に傍線]は一二度手紙を主家へ寄せて安否を問うたが、その後に少しも消息がなく、スキユデリイ[#「スキユデリイ」に傍線]の家では故郷で暮しが樂に成つて、巴里の記念は段々に薄[#底本では「薄」は「縛のつくり」に代えて「溥のつくり」]らいで來たことゝ思つた。  憶へばクロオド[#「クロオド」に傍線]が妻子を連れて、巴里からジユネウ[#「ジユネウ」に二重傍線]へ歸つてから、今までは丁度二十三年になる。まあ、敢ない。あのお前がオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]、あのアンヌ[#「アンヌ」に傍線]が子のオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]。この驚いた女學士の聲を聞いて、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は色の蒼ざめた儘で中々に氣を落ち付けて答へた。御尤で御座ります。貴君のお内で品の善い風を見習[#底本では「習」は「褶のつくり」]つた、殊に貴君のお膝の上で優しいお氣質を受けた私、それが今この汚名を被つて、「シヤンブル、アルダント」のお役所で、私しをお召上げに成つたは、實は無理ではなく、私しは罪を犯したに相違御座りません。然し縦令首斷り役の手に掛つて死にましても、天帝の御前に出ては、怖い事は少しもありません、人を殺した覺えもなく、また主人の殺されたも、全く私しのせいでは御座りませんから。と云つて居る内に張詰めた氣が段々弛んで、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]はぶる/\慄うて來た。女學士はものを言はずに傍にある椅子に指をさして腰をかけさせた。  オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は坐つて語を繼いで。斯う貴君のお目に掛つて私の一生の事を申上げるのが唯だ一つの私しの願で御坐りましたから。あゝ、これを協へて下さつた天帝は有がたい。成丈心を落ち付けて順序を立てゝ申上げうと、久しい間掛つて心搆を致して居ります。何うぞお慈悲に、まあ、どんなにか恐ろしく、氣味惡くもお思召しませうが、私の申上げる機密をお聞なさつて下さりませ。私の親父は、何故まあ、この巴里を立ち退きましたらう。それがなかつたら。思ひ出しまする二親のジユネウ[#「ジユネウ」に二重傍線]の生活。私の物覺の附いた初から、唯の一日も父母が※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]を流さなかつた事は御坐りません。子供心に何事とも辨へませなんだが、何時も私は貰ひ泣きばつかり致して居りました。私が段々生長して浮世の事が解つて來た、その事は唯だ兩親が貧苦に迫つたといふこと、その日の喰べ物にも困るといふことで御坐りました。人の命は末の望で※[#「(車/凵+殳)/糸」、第 3水準 1-94-94]いで居るもの、その望をなくした父は、身をも人をも怨んで、つひ/\亡くなり、私しめの爲めに致して置いた事と云つては、ある飾職の内に私を托けて置いて呉[#底本では「呉」は「蜈のつくり」]れたと云ふのみで、實に敢ない記念、母は貴君のお家へお願申さうと云たことも御座りましたが、それ丈けの膽が御座りません。凡そ世の中に貧苦程人の膽を破るものが御座りませうか。その上母の重傷を負つた樣な精※[#「示+申」、第3水準1-89-28]を、羞といふものが鋭[#底本では「鋭」は「金+兌」]い齒で斷えず※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]んで、度々思ひ立つてお願に出うとする決心を、その度※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]に推し※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]して仕舞ひました。それで母は願をば遂げず、父が亡くなつてから、僅か三月立つた時に、跡を逐て冢穴へ這入つて仕舞ひました。あの、それではアンヌ[#「アンヌ」に傍線]が最う死んだとお言ひか。と堪へ兼ねて女學士は、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]が話の絲を截つた。いゝえ、母は結句亡くなつたが仕合せといふもので御座ります。何うしてまあ、あの私をまたとなく可愛がつた母が、私の首斷りの手に掛つて死ぬるを見て、生きて居りませう。と云ひ乍ら空を見たオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]が目は哀れな、然し運命の繩で縛られた心の俘が、天に訴ふる怖ろしい目だ。  此時廊下が騒がしく、人の彼方此方へ行く足音がした。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は苦笑をして。はあ、デグレエ[#「デグレエ」に傍線]が私が逃げでもするかと、氣を配る樣子で御座ります。それは兎も角も、私は飾職の家へ參りましてから、職業に勉強しましたので、師匠にも劣らない位だと、人も讚めて呉れる樣になりましたが、師匠は何うも私に虐[#底本では「虐」は「謔のつくり」]く當りました。その頃店に參つたお客が、私の細工を彼此と出させて見たすゑに、私の※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]を叩いて。これが全く貴樣の仕事か。いや中々若いにしては感心だ。手前はこの片田舎に燻ぶつて果てる職人ではない。今巴里に居る世界一のカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]といふ飾職があるから、そこへ徃つて一番腕を揮つて勉強しろ。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の跡續ぎに屹度なられう。この言葉は私の心に深い痕を印しました。此日からといふものは、ジユネウ[#「ジユネウ」に二重傍線]に居ても、何時も心は名計り聞いたカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の所に飛んで居ります。やつとの思で師匠を離れ、遙々とこの巴里に參りました。あゝ、想へば一昔し、私が始めて、起て思ひ、寐て夢に見たカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の家の閾を跨いだ時、胸を躍[#底本では「躍」は「足へん+櫂のつくり」]らし乍ら逢つたカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は、冷淡な、意地の惡るさうな、目付の怖ろしい人、先づ試にと云て私に指環を一つ製へさせました。一所懸命に力を入れて細工した指環を持つて前に出ますと、カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]はちよつと見た計りで御座りました。此希代な人は寶石や飾細工を見る一種の眼力を備へた人で、大抵何の飾でも二目と見ずに善惡を決めました。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は細工は其儘にして置いて、私の顏を穴の明く程見詰めました、私の心の奧まで見られることかと思つた程。そして簡短にこれなら善い、家へ越して、おれの手傳をしろ、給金も善く拂つて遣らうと云ひました。此時から私は内に這入つて弟子になり、幾週[#底本では「週」は「二点しんにょう+蜩のつくり」]か立つ内に、ある日の事で御座りました。田舎の親※[#「類」の「大」に代えて「犬」、第 3水準 1-94-4]に托けてあつた師匠の娘のマデロン[#「マデロン」に傍線]といふものが、郷へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]て參りました。あゝ、これも思へば一昔、この天の使いの兒童の樣なマデロン[#「マデロン」に傍線]の姿を始て見た時。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は兩手を顏に當てゝ、暫らく物を言はなかつたが、漸々言葉を繼いで。マデロン[#「マデロン」に傍線]の私を見た時の顏つきは、親切に見えました。氣のせいか別に用もないに度々仕事塲に來て見るかと思ふ樣で。その内段々に愛情が現はれ、親の目を忍んで交はす握手。その嬉しさ。その頃から私の一心は唯だマデロン[#「マデロン」に傍線]が妻に欲しいといふ一點に注いで居りました。と云つて何も職業を惰けは致しませんが、職業をするに付けても、早く一人前の職人に成つて、思ふ人を妻に持たれる樣にしたいと思ひました。兎角する内、ある日主人のカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]が暗い目元に怒と蔑とを見せて、仕事塲に這入つて來て、例の手短な言ひ樣。最う手前の仕事は入らぬ。唯つた今出て失せう。二度と閾を跨ぐな。譯は言はなくても、手前の胸に覺えがあらう。と私には言譯も何んにもさせず、私しの領髮を引きずつて、戸の外へ出しました。私は頭と腕とに創を受けて、※[#「りっしんべん+誨のつくり」、第3水準1-84-48]やしくつて堪りませんが、別に仕方もないこと故、町盡處のサン、マルテン[#「サン、マルテン」に二重傍線]といふ處迄往つて、心易い人の家を※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]み、二階の明き部屋へ入れて貰ひました。然し片時も安い心はなく、夜になればカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の家の匝りを彷徨ひあるき、若し私しの歎息の聲を聞いて、マデロン[#「マデロン」に傍線]が窓から顏を出すこともあらうかと、空※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]めに時の遷[#底本では「遷」は「二点しんにょう+僊のつくり」の「価のつくり」に代えて「襾」]るをも知りませなんだ。この時私の腦の中を行き違ふ考は、實に樣々で、中にはマデロン[#「マデロン」に傍線]に逢つたときに話して實行せうなどゝ思ふこともありました。御存じの通り、ニセエズ[#「ニセエズ」に二重傍線]街のカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の家の處には石垣があつて、その處々に窪んだ中へは石の像が刻み込んであります。ある夜私がそんな石像の傍に立つて居ますと、石垣の方へ向いて居る主人の仕事塲の窓に、不意にぱつと明りがさしました。時は眞夜中、カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は此時分に起きて居る人ではありません。何時も九時を打てば燈火を消して床に這入ります。私は急に胸騷がして來ました。何か内に變事がありはせぬか。然し電《(いなづま)》の樣に私の腦に起つた考は、何うかして事があつたら、それを便《(たより)》に門を這入られようかといふ事で御座りました。その内※[#「窓の旧字」、第3水準1-89-54]の燈火は又たふつと消えて仕舞ひました。私は身を石垣の像に寄せると、愕然致しました、この石像が生きたか、動きます。私の躰を推※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]します。愕いて傍へ飛退いて見て居ると、月の微光で石像が段々に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]はるのが知れます。※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて仕舞ふと像の背中に貼いて出て來た眞※[#「黨−尚」、第 3水準 1-94-82]な人の姿、この人は音のしない早足で町を下つて行きます。私は石像に近寄つて熟く見るに、元の樣に正面に向いて立つて居ました。深く思案する隙もなく、私はかの怪しい人の跡に附いて行きました。御存じの通り、あの街の曲がり角には聖母の祠があつて、常夜燈が點いて居ます。癖※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]がこの前まで來て、心ともなく跡を振向くと、常夜燈の明りが丁度顏にさしました。思ひも掛けぬ、この癖※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]はカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]で御座りました。この時私は覺えず身の毛が彌立つ樣な心持ちをしました。さては主人は夢中夜行とか云ふものか。是れが急に心に浮んだ考で、まだ深く考へて見る隙もなく、私はかの怪しい人の跡に附いて行きました。後に思へば夢中夜行の人は、滿月の時に出て※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]くものだに、あの夜は月の缺けた、微暗い夜で御座りました。行く中にカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は横へ曲つて、陰の處へ這入りました。然し聞きなれた輕い謦咳で主人の居る所は知れます。ある家の戸口の處に身を寄せて、何か待つて居る樣子に見えます。待つものは何んで御坐りませう。私は樣子が見屆けたいから、家の陰に身を寄せて、同じく覗つて居りますと、程なく小歌を謠ひ乍ら來たは、一人の士官と見えて、※[#「鶩」の「鳥」に代えて「金」、第3水準1-93-30]の尖から下げた鳥の羽[#底本では「羽」は「栩のつくり」]は薄明で善く見え、靴に附いて居る拍車の音は、澄み渡つて聞えました。この士官が主人の隱れて居る所まで通り掛かるや否や、跳り出したカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の勢、獲ものを見て飛び付く虎の樣で、やれと思ふ間に士官は聲も立てずに倒れ、引く息計り僅かにする樣子。私は覺えず聲を立てゝ驅寄つて見れば、主人は死に掛つた士官の上に俯伏して、何かして居る樣で御坐りました。親方まあ、何うした事ですと言ひ乍ら走寄ると、振向いて、運に盡きた奴めと一言云つたその聲、何時も大抵荒々しいカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の聲が、別に又た氣味惡く、凄く聞えました。言ひ畢ると電の樣に早く私の前を走り拔けて、その儘見えなくなりました。私は餘りの驚に足の慄ふを踏みしめて、倒れた士官に近寄て膝を搶き、若し息があるかと思つて見まするに、全く死にきつて居ります。兎角する内に、私を取卷いた邏卒の一群、又た一人遣つて退けられた、附て居る若い男、手前はまた何※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]だ、癖※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]の仲間か、抔《(など)》と言ひ合つて、私しの肩を押へて、屍骸の傍から引退けました。私は先刻からの驚で言譯をする氣力もなく、おどおどして居ますると、邏卒の一人が燈火を私の顏に差付けて。何んだ、カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]さんの處の職人ぢやないか、それもさうか、人を殺す奴が何んでまた死骸の處に接付いて居て人に捕まるものか、まあ手前は何うして此處へ來たのだ。と問ひますから、私は此人の殺される時圖らず通り掛つて見たが、癖※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]は電の樣に早く影を隱して仕舞つた故、倒れたこの人がまだ助けられはせぬかと、來て見る内に、貴君方がお出でになりました、といふと一人が死骸を抱き起し乍ら創を見て、何うしてこれが助かるものか、何時もの通り心の臟の※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]創だと、仲間と一所に死骸を擔いで往つて私には別に不審も置きませなんだ。  獨り寂寞しい夜の街に殘された私は、眞から夢ではないかと思つて、體を※[#「てへん+陷のつくり」、U+6390、131-13]つて見た位で御座りました。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]が、私の可哀いマデロン[#「マデロン」に傍線]の父が、あの人殺し。體に力が拔けて仕舞つて、傍の家の石段に倒れる樣に腰を掛けて居る内に、東は段々に白んで來ます。目の前の敷石の上に落ちて居るは鳥の羽で飾つた士官の※[#「鶩」の「鳥」に代えて「金」、第3水準1-93-30]。あゝ、夢でも何でもない、主人の人殺しは私の目の前であつたに違ありません。私は急にその塲所に坐つて居るも嫌に成つて迯げる樣に、サン、マルテン[#「サン、マルテン」に二重傍線]の宿へ歸りました。  部屋に歸つて打倒れた儘、まだ兎角の考も出ない内に、戸を明けて這入つて來たは舊の主人カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]で御座りました。私はあつと云つた計りで撞臥すと、靜に※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]み寄つて、何時にない優しい聲をして、私の名を呼びました。私の居る藁蒲團の側まで、壞れ掛つた椅子を寄せて、それに腰を掛けて云ふには。手前は善く達※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]で居て呉れた。一寸腹を立つて出て徃けと云つたは、何處までもおれが善くない。さあ手前が居なくなつて見ると、何處の隅にも手前が足らない。それに二三日前に※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]まれた仕事なんぞは、手前が助けて呉れなくては、兎ても思ふ樣に出來はしない。何うだ、手前は腹も立つたらうが、そこは師匠と弟子との間柄を思つて勘辨して、最う一度歸つておれの家で仕事をして呉れまいか。手前は默つて居るが。成る程おれは手前に濟まない事も仕た。何も娘と手前との間の事は、手前一人が惡いといふ譯でもない。それもおれは飮込んで居るから、手前が今迄の樣に勉強することなら、心立から腕前まで、マデロン[#「マデロン」に傍線]の婿にして不足はない。何うぞ思ひ返して※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて呉れ。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の言葉はまあこんなもので御坐りました。  さもしら/″\しいカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の言葉、私は腹が立つて一言も口に出ません。するとかれは氣色を更へて。それぢやあ分つた。手前は外に用事があつて、おれと一所にこられないな。デグレエ[#「デグレエ」に傍線]の所へ行くか。それとも鞠問所の役頭の所へでも行くか。だが手前まあよく考へて見ろ、おれの名前は巴里で知れ渡つた飾職の親方で、然も慈善家といふに、夢にも想像の出來ない人殺しの罪科を着せやうなどゝすると、誰れでも手前を氣違ひと思ふ計りの事だ。それだから何もおれが手を下げて手前に※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]んで、またおれの家へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて呉れと云ふにやあ當らないが、可愛さうなのはおれの娘だ。手前が家を出たあとで、おれの前に撞伏して、おれの膝に抱付き、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]と始終離れて居る程なら、生甲斐はないといつたが、おれも最初は一時の出來心と思つて打遣つて置く内段々に病氣附き、痩せ衰へて來たので、捨てゝも置かれず、昨夕彌々腹を決めて行末手前を婿に取ると云つた時の娘の喜、一夜の内に打つて變り、今朝は新らしく咲いた薔薇の花の樣な顏の色。手前のおれを嫌ふは熟く知つて居るけれど、迎ひに來たのはこの譯だ。あゝ、天道さま、許して下され。私は何うして歸つたか知りませんが、つひまた師匠の家の座敷に這入る。すると、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]さん、内の人の、と聲を立てゝ私に縋り附いたマデロン[#「マデロン」に傍線]の可哀さ、この時に聖母に誓を立てゝ、死んでもこの子には離れまいと思定めました。  女學士は不斷正直ものゝ手本の樣に思つて居たカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の恐ろしい罪惡を聞いて。まあ、思ひも掛けない、カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]が、あの人が、あれ程世間を騷がした人殺しの仲間とお言ひか。貴君は矢張仲間があつたと覺召しませう。それも御尤で御座ります。あの久しい間、今日も明日もと噂に立つた人殺し。然しあれは皆んなカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]一人の仕事で御座ります。固より仲間はありもせず、又たあつた事も御座りません。一人ゆゑ秘密が破れず、探偵の目が屆かなかつたので御座ります。まあ、跡を聞いて下さりませ、この罪惡の極度に達した、また不幸の極度に達した人の話を。師匠の家へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つてからの私の心の苦しさ。折々は人殺しの手助をする樣な心持がして、胸が痛みまするが、マデロン[#「マデロン」に傍線]の顏を見ては、つひ忘れて仕舞ひます。然し仕事塲で前の様にカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]と向ひ合つて仕事をする時は、何うも頭を擧げて師匠の顏を見ることが出來ません。思へば氣味の惡いこの人の行、晝は職業に勉強して、家の暮しも裕かで、※[#「睹のつくり+おおざと」、第3水準1-92-74]府で評判せられる程の慈善をするかと思へば、夜は人を殺して物を取る怖ろしい業をする、何うも譯が分かりません。それに日頃から孝行なマデロン[#「マデロン」に傍線]は※[#「示+申」、第3水準1-89-28]の使の樣な清い心で父に仕へて居ます。若しあの子が親の惡事を聞いたなら、まあ、何んなに驚きもし、歎きもせう。これ一つでも私しは此事を口外することは出來ません。斯うとつおいつ考へて居ます内に、ある日のこと。何時も造り聲をして面白さうに戲※[#「言+墟のつくり」、第 4水準 2-88-74]《(ふざ)》けたり、笑つたりするカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]が眞面目な顏をして仕事をして居ましたが、俄に起つて細工を仕掛けた飾を荒らかに床の上に抛り出しました。師匠はばら/\と板の間に散る寶石と珠玉とには目も掛けず、私しの仕事机の眞ん前に立つて。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]、何時まで手前と睨めつくらをして居よう。おれは最う辛抱が出來なくなつた。あの狡猾なデグレエ[#「デグレエ」に傍線]と彼奴の仲間の狐共とが手を盡した探偵も水泡に成つて居たに、不思議に手前に知られたおれの惡事。まあ、何んな惡い星の所作で、おれの跡を跟て來ようと思ふ心が手前の胸に浮んだ事か、また手前の足音がおれの耳に聞えなかつたか。おれは久しい熟※[#「糸+柬」、第3水準1-90-14]で、何んな暗の夜にでも、虎より鋭く物が見え、また幾町も隔てゝ蚊の鳴く聲まで聞えるに、不思議にもあの※[#「日+俛のつくり」、第 3水準 1-85-28][#底本では「晩」は「日+俛のつくり」の「危−厄」に代えて「刀」]には少しも心が付かなんだ。手前も今斯うしておれの家へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つたからには、兎ても訴へる譯には行かないから、おれも隱すにも及[#底本では「及」は「岌−山」]ばぬ譯、兎てもの事に洗ひ浚ひ、言つて聞かするから、聞いて呉れ。斯うカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の云つた時に、私しはその話は聞きたくない、縦令何んな家に居つても、心は潔白なオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]だと申し度はありましたが、餘りの氣味の惡るさに、咽がつまつた樣で、一言も口に出ません。私しの言ひ掛つた言葉は、言葉と云ふよりは、寧ろ一種の節のない響で御座りました。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は机の傍の椅子を引き寄せて、腰を掛け、額から出る汗を拭ひました。渠も昔の事を思ひ出してか、頻りに迫つて來る胸を推鎭めるかと思ふ樣に見えましたが、漸くまた語を繼いで物語を始めました。好く世間で聞く事だが、姙婦が物に感じて、その感じが胎内の子に響くといふのは、何うも本たうかも知れない。おれの母がおれを舍して一箇月に成るとき、トリヤノン[#「トリヤノン」に二重傍線]に御幸があつて、母は友達を誘ひ合はせて見に行つたさうだ。その時母の目に付いたは、西班牙仕立の服を着て、寶石の飾を首に掛けた一人の貴族で、その掛けて居る飾が欲しいといふ念が起り、何んと思つても我慢が出來なくなつた。この貴族は母がまだ娘の折に、一度不義を言掛けた事があつたを、母の方で強顏く斷つて仕舞つたが、今この飾を掛けた處を見れば、飾の寶石の光で照されて、世にまたと無い美しい姿で、その人が何となく慕はしく成つた。貴族も母の顏付を見て取つたが、これはまた寶石には心付かず、この女が思返へして自分を愛する念を起した樣に思つたので、便りを求めて言寄つて、とう/\ある日、人通りのない所で逢ふことに約[#底本では「約」は「糸+灼のつくり」、135-10]定した。扨出逢つて男はさも嬉し氣に母の躰を抱くと、母は男の頸に掛けてある飾を確り持つ。この時何うした因果か、男は其儘地に倒れたから、母も一所に引き倒されて仕舞つた。この貴族の不思議な死にざま、卒中でもあつたのか、又たは別に仔細のある事か、今に成つても知れないが、この男の母を抱いた手は、何う※[#「足へん+宛」、第 3水準 1-92-36]いても離れず、空洞になつた樣で、母を見詰めた目の恐ろしさ。母は堪らず聲を立て助を呼んだので、近い町を通り掛つた人が來て、母の躰を死人の腕から離したが、家へ歸つてからその儘、病氣になつて床に就いた。親※[#「類」の「大」に代えて「犬」、第 3水準 1-94-4]中がこの樣子では胎内の兒は助かるまいと言つて居たが、思ひの外に産[#底本では「産」は「顏のへん」の「彡」に代えて「生」]が輕く、生れたは己れだつた。然し彼の不吉な遭遇ひは何處までもおれに跟いて※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るものと見えて、一度顯れた惡い星の射卸した光は、不思議な欲念の焔をおれの胸の中に焚き付けた。  最う子供の時からおれの目に何より有難く見えたは金銀珠玉であつたが、人は矢張り子供の癖と許り思つて居た。然し此癖はなか/\直らず、年を取るに連れて、飾※[#「類」の「大」に代えて「犬」、第 3水準 1-94-4]を盜み匿すことが始まつた。それに不思議な事には金銀や寶石抔の眞僞が獨りでに分かつて來て、僞のものは少しも欲しくなく、眞のものは死ぬる程欲しかつた。父の隨分殘酷な打擲で、一先づ盜む癖丈は直つたが、兎に角に飾※[#「類」の「大」に代えて「犬」、第 3水準 1-94-4]が持扱[#底本では「扱」は「てへん+(岌−山)」]ひたいので、飾職になり、骨を吝まずに働いた程あつて、僅かの内に此上もない飾職だと人に云はれる樣になつた。その内に無理遣りに押へて置いた生れ付きの欲が堪らない樣に熾になつた。飾が一つ出來上つて人に渡して仕舞ふや否や、落膽して、胸騷がして物も食へず、夜も寐られず、殆ど生甲斐もない樣な心持がした。おれの目の前には何時も飾の持主が飾を持つて立つて居て、その間始終誰の聲となくおれにさゝやぐには、まああの飾はお前のではないか、取り返せば善い、あの尸骸にまあ、何で寶石がいるものかといふ。これがおれの盜賊人殺しになつた始だ。何處の内でもおれに出入を許さないものはないから、樣子は知れて居り、自分の職で扱ひ付けた錠前は、仕舞ひには少しも障りにならず、飾は直に取返した。所が飾を取返して見ると、また一つの欲が起つた。かの怪しい聲はまだ、はあ、手前の飾を幽靈が掛けて居るとおれを囃して、つひ/\その男を殺さねばならぬ樣にした。然し初めには殺したい/\と思ふ心の間から、まだ不斷の魂が慄ひながらそれを遮つて居た。おれの今住つて居る此家は、丁度その頃に買つたのだが、家の引渡しが濟んで、この部屋で賣人と一所に酒を飮んだ。扨て日が暮れて賣人は歸りかゝつたが、また一寸立※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]つて、カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]さん、まだお前に知らせて置きたい事があります、何んだといふとこの家にある一つの秘密な仕掛です、といひ乍ら、其處の戸棚[#底本では「棚」は「木+(萠−くさかんむり)」]の戸を明けて後ろの壁を脇へ寄せると、これが小部家の入口になつた。中に這入つて蝶番になつて居る戸を、ちよいと跳ね上げると、そこに狹い險しい梯が見えた。それを降るとおり口に人の目に掛らない小さい戸があつた。それを明けて庭に出て、石垣の傍の鐵の棒を横へ引くと、石が勝[#底本では「勝」は「縢」の「糸」に代えて「力」]手に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。これが丁度外の石の像に當る處だから、石に附いて※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて外へ出ることが出來るが、常は石像の爲めに圍りの界が知れない。孰れ手前にも一度見せうが、原とこの仕掛をしたは、此家が寺であつた頃に、戒の守られない坊主が、夜々拔け出す爲めであつたさうだ。おれはこの仕掛を見ると妙な感じを起した。それはおれがこの家を知らずに買つて遷つたは、矢張約束ごとであらうといふ樣な感じであつた。今まで手段に窮して居て行はなかつた人殺しの秘密は、この仕掛で思ひ掛けない便利を得た。その頃ある客が舞妓に遣る飾を誂へたを仕上げて渡したが、さあ居ても立つても居られない。耳の傍には耳語《(じご)》ぐ惡魔。踵の後には附き纏ふ幽靈。おれはこの家へ越して來て、床の中へは這入つたが、身を責める怪しい聲が斷えない、血の汗を流して蒲團の中を轉げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ると、目の前には飾を受取つた男が手に飾を持つて居ると見えた。仕舞には床から飛起きて外套を引つ掛け、秘密の梯を下り、石垣を拔けて街に出た。來かゝる飾を持つた男。おれは飛び掛かる。渠奴は※[#「口+斗」、U+544C、105-5]ぶ。おれは後から抱き付いて、左りの胸に刺通す劍。これで飾は吾物になる。あゝ不思議、この人殺しを仕遂げた時のおれの心の安堵、滿足。實に久しくこんな好い心持に成つたことはなかつた。惡魔の聲はふつつり聞えなくなつた。幽靈の影はばつたり見えなくなつた。此時善く解つたはおれの運命であつた。おれはこの惡い星の指圖に隨へば好し、逆へば躰も心も弱り果てゝ死ぬより外はない。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]、これがおれの洗ひ浚ひの話だ。手前も善くこの哀れな身の上を呑込んで呉れゝば、おれを不便とは思つても、※[#「りっしんべん+曾」、第3水準1-84-62]いとは思ふまい。おれもまた決して丸で人らしい心を失つて仕舞つたといふ譯ではない。おれは飾を拵へ上げて人に渡すとき、何時も二の足を踏むのは、誰でも知つて居り、またおれが人の誂物を強て辭退することがあるのは、あれは其人が氣の毒で殺したくないからだ。此事を話して仕舞つて、カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は私を連れて丸天井なりに造つた寶の間に這入りました。王樣でもこの樣な寶の數々を持ては居るまいと思ひました。一つ/\の飾に札が附けて何年何月何日造る、何年何月何日|竊《せつ》盜(又は暗殺)にて取還すと書いてあります。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は沈んだ聲で。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]、手前はマデロン[#「マデロン」に傍線]と※[#「示+兄」、第3水準1-89-27]言をした晩に、おれに誓言を立てゝ、おれの死んだ跡でこの寶を微塵に毀して棄てゝ呉れ。手前夫婦はいふまでもなく、この祟りの附いて居る寶を人が身に附けてはならぬからと申しました。嗚呼、思ひ出しても恐ろしい、その折の私の位置、犯罪の迷路に引入れられて、愛慕と厭惡、歡樂と恐懼で心を※[#「てへん+蚤」、第3水準1-84-86]きむしられ、譬へて申せば、半空からは優しい顏をして※[#「示+申」、第3水準1-89-28]の使が笑を含んで招くに、脊中からは惡魔が燃ゆる樣な爪で握んで離さず、それで彼の天の平和を持つて來た※[#「示+申」、第3水準1-89-28]の使の笑が却つて尤殘酷な責苦の樣に思はれました。私しは逃げようかとも思ひ、また自殺せうかとも思ひましたが、それもならぬは、マデロン[#「マデロン」に傍線]の愛情の爲で御座りました。いえ、私しの決斷のなかつた事は何の樣にも惡く思召しませうが、今のこの冤罪を思へば、報いは充分に受けて居ります。ある日カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は何時になく好い機嫌で内へ※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]り、優しい目で私を見、またマデロン[#「マデロン」に傍線]と戲※[#「言+墟のつくり」、第 4水準 2-88-74]《(ふざ)》けて、食事の時に祭日でゝもあるやうに上等の酒を呑み、歌を歌つたり何かしました。食事も濟んで、マデロン[#「マデロン」に傍線]は立つて徃き、私も仕事塲へ行かうと思ひますと、師匠が引留めて。手前まあ坐つて、おれの云ふことを聞け。それに今日は何うせ仕事は休む積だから。おれと一所に當時巴里で第一等の貴婦人の健康を※[#「示+兄」、第3水準1-89-27]つてこの酒を飮んで呉れと云つて、杯を擧げて私の杯と※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]合せ、快げに飮み乾して。 [#2字下げ]人目を忍ぶ通路《(かよひじ)》に、寄する白波よくといへば、思の※[#「さんずい+誨のつくり」、第3水準1-86-73]に浮き沈み、慕ふ甲斐こそなかりけれ  何うだ、手前はこの歌を何と聞くかと、顏に喜の波を寄せて私しに云つて、それから國王樣の御殿で、貴君のお歌を遊ばした事、自分が昔から何となく貴君を信仰して居た事抔を話し。まあ手前善く聞て呉れ。それでおれが思ひ付いたはあの有難い、※[#「示+申」、第3水準1-89-28]さまの樣なスキユデリイ[#「スキユデリイ」に傍線]女學士なら、何んな立派な飾を造へて上げても、取り※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]さうの、殺さうのと思ふ恐ろしい心は、おれの頭の内に起るまい。幸ひおれが英吉利のヘンリエツト[#「ヘンリエツト」に傍線]さまのお誂で極上の寶石を撰り集めて造へた首飾があるが、あれは前後に比※[#「類」の「大」に代えて「犬」、第 3水準 1-94-4]のない程に旨く出來たで、何んと思つても手を離すことが出來なかつた。ヘンリエツト[#「ヘンリエツト」に傍線]樣の無慘な暗殺に逢はつしやつた事は、手前も知つて居るだらうが、飾はまだおれの手元にあつた。あれを探偵せられて居る人殺し仲間の名で女學士に差上げて、おれの胸一杯になつて居る信仰を後盾にしたら、恐しい惡魔の聲も打消されて仕舞ふかと思はれる。其上に意地惡のデグレエ[#「デグレエ」に傍線]等には丁度好い面當《(つらあて)》といふものだ。手前は何うか手段をしてあの飾を女學士のお手許まで屆けて呉れと、折入つて※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]みました。不思議で御座ります、師匠が貴君のお名前をいふと、譬へば私の心に被さつて居る※[#「黨−尚」、第 3水準 1-94-82]い紗が引除けられて、私の子供の時の仕合せな生活の畫が光り輝きながら五色に美しく見える樣な心持がしました。私の苦しめられた心が一つの把《(とら)》へ處を探し出しました。この望の日の光に逢うて怪しい惡玉等が散々に逃げて仕舞ひました。この私の感じを見て取つたカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は又た莞爾と笑ひ乍ら、おれの發心が大分、手前に氣に入る樣だが、おれだつて心の極の奧の處には善い心が住まつて居て、あの惡魔の、意地の穢い猛獸の樣な吩咐《(いひつけ)》を抑へやうとして居る。それに折々はおれも妙な心持になつて、不思議な心細い樣な風が極の遠方から吹いて來て、此時にはおれは、おれの極奧の心は善人で、それが惡魔に欺されて罪人にせられて居る内に、段々|原《(もとも)》との善い心が惡魔に引入れられるかと思つた。それでふつと思ひ付て「サン、テウスタツシユ」のお寺にある聖母樣に金剛石の冠を造へて上げて、惡念の止む樣に※[#「示+斤」、第3水準1-89-23]らうかと、その冠の細工に手を出し掛つたが、矢張惡魔に妨げられて仕舞つた。今度は腹を据ゑて何處までも惡魔に抗抵つて善人になりたいと申しました。  カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は兼て貴君のお身の上は熟《(よ)》く知つて居ますから、何時頃に何うして筐に入れて飾を持つて徃けば、お手元へ屆けられうと、丁寧に教へて呉れました。原と師匠の心では、飾がお手元へ屆きだにすれば善いと云ふのですが、私は天の惡人の口を籍[#底本では「竹かんむり/(耒+昔)」]つて言はせた、この嬉しい言葉を種に、この機會に、貴君にお目に掛かり、御奉公をしたアンヌ[#「アンヌ」に傍線]が一人子と名乘つて、私しの果ない身の上を打明けて、何も彼も皆打明けてお※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]み申さうと思ひました。あの清潔な、罪のないマデロン[#「マデロン」に傍線]の事を申し上げたなら、定めてこの秘密を御他言は成さるまいし、又た貴君の賢いお心で、何うかカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の罪も訐《(あば)》かず、私しの身拔もなるやうに出來ようかと、それを※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]に思ひました。斯う申上げたら、そして何ういふ方便で、そんなむつかしい事が出來ようと思つたかとお尋も御座りませうが、私もそれは知りませなんだ。然し私の心の中で、確かに定つて居たは、貴君がお助けなさつて下さるといふ事です、丁度世間の人が聖母樣を※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]に思ふやうに。扨御存じの通り、私の此望は協ひませなんだが、又た折もあらうと控へて居ました。するとカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]が急に妙な素振を見せ始めました。苦い顏をして家の中を彷徨き、遠方を見詰める樣な目をして、解らない事を口走り、何か目前に見えるものを追拂ふやうな手附抔を致して、兎角心に萌す惡念を抑へようとするかと思はれました。こんな鹽※[#「木+誨のつくり」、第3水準1-85-69]で或る朝は丸で何にもせず、漸く晝前になつてから何時もの仕事机に向ひましたが、又た立ち上つて、道具を抛出し、窓の方を見詰めて、あゝあの飾を矢張ヘンリエツト[#「ヘンリエツト」に傍線]の身に付けさせておきたかつた。この言語に私は慄然と致しました。師匠の身を責めて居るは、例の惡魔の聲に相違御座りません。危いは貴君のお身の上。それを救つてお上申すには飾をカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の手に※[#「戸の旧字+犬」、第3水準1-84-67]すが捷徑。斯う思つて貴君にお近づき申したはポン、ニヨツフ[#「ポン、ニヨツフ」に二重傍線]の邊で御座りました。貴君のお車の中へ、首尾能く文は投込みましたが、お待申しても師匠の宅へお出はない、師匠は連りに飾々と獨言を云つて、彌々思ひ惱む樣子、私はこの時に覺悟を極めて縦令師匠の命を取つてゞも、貴君をお助申さうと存じました。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]が何時もの臥房へ閉籠つて仕舞ふと、私は直ぐに庭へ忍び出て、石垣の外に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、小影に隱れて樣子を覗つて居ました。程なく例の通り石像の脊に付いて出て來たカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は、立留つて考へる樣な振もせず、其儘街を下つて行きます。私は跡から跟いて行きます。師匠の曲つたはセン、トノレエ[#「セン、トノレエ」に二重傍線]町。無暗に跳る私の胸。そつと通り拔けて、貴君のお宅の入口の蔭に成つて居る所に身を寄せて見て居ますと、又た先度の樣に小歌を歌ひ乍ら來る一人の士官。飛掛かるカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]。引留めうと驅寄る私。倒れた一人は士官でなくつて師匠で御座りました。士官は飛掛つたカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]と引組んで、持つて居た短劍で、渠を刺し殺した上、今私の奔り寄るを見て、賊の同類とでも思つたか、短劍を抛棄てゝ自分の劍を拔いて身構を致しましたが、私が倒れた師匠の體を引起さうと計りするを見ると、早足に行て仕舞ひました。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]はまだ息があります。私は落ちた短劍を拾ひ上げて、師匠を肩に掛け、漸々の思で家の仕事塲まで擔ぎ込みました。それから跡の事は貴君も御存じの通りで御座ります。唯私の罪といふは、師匠の大罪を知つて居乍ら、訴へなかつたと云ふ計りで御座ります。この秘密は又た何んな責苦に逢つても白※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]しない積で御座ります。若し私が白※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]すれば、カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の一旦埋められた屍骸を掘出され、掟の通りにせられませう。その時のマデロン[#「マデロン」に傍線]が心中。あゝ、それを思へば此秘密を持つた儘で死んだ方が遙に※[#「土へん+曾」、第3水準1-15-61]で御坐ります。言ひ畢つてオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は暫く默つて居たが卒に※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]をはら/\と流して女學士の前に膝を搶いた。貴君は私に罪のない事を御信用下さりませう。それに違ひ御坐りません。若しマデロン[#「マデロン」に傍線]の身の上をお聞き傳へは御坐りませんか。女學士は仲働きを呼んで何か吩咐けると、程なく飛んで出てオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の首に兩手を掛けて抱付いたマデロン[#「マデロン」に傍線]。最う何んにも言ふことはない。お前が此處へ來てお呉なら。これも皆んな御主人樣の御恩。二人は夢中に成つて時も所も打ち忘れて仕舞つた。  若しマドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]女學士が二人に嫌疑を置いて居たなら、此時始めて渠等の冤を悟つた事だらう。何故と云ふに、愛慕の幸※[#「示+福のつくり」、第3水準1-89-33]で浮世の苦を忘れるのは汚のない心でなくては出來ない事だ。  疑心互に釋《(と)》けて和氣氤※[#「气<慍のつくり」、第 3水準 1-86-48]たる三人の群。この群を※[#「窓の旧字」、第3水準1-89-54]から斜に照らす朝日の影。輕く戸を敲いて這入つて來た警吏デグレエ[#「デグレエ」に傍線]はオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を連れて歸つた。不便なは飾職の娘マデロン[#「マデロン」に傍線]。  怪しい飾の筐を持つてオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]が、音信れた時から、唯だ何となく氣に掛つた事が、今はマドレエヌ[#「マドレエヌ」に傍線]女學士の身の上に怖ろしい影響を及ぼした。兼て愛した召仕の一人息子は、斯く迄込入つた、逃れ方ない秘密を懷いて、死に就かねばならないか。何うかしてかれを救つて遣りたいとは思ふが心に浮ぶ考は、皆な浮ぶや否や、棄てゝ仕舞はねばならない樣な、所詮實地に行はれない事計りだ。  然し手を空くしても居られないから、得意の筆を揮つて長い手紙を書て役頭レニイ[#「レニイ」に傍線]の所へ遣つた。手紙の中にはオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の決して罪のない事、その秘密は決して白※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]せられない事、この二つを反復して述[#底本では「述」は「二点しんにょう+朮」]べて、勉めてレニイ[#「レニイ」に傍線]が鈍い、惰性の強い情感を動かさうとしてあつた。是れは女學士がまだ彼の「シヤンブル、アルダント」の役頭を善く知らなかつたのだ。まだ一二時間も立たない内に、役頭の返事が來た。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の冤罪が果して實ならば、實に結搆だ。然し「シヤンブル、アルダント」は人の秘密を保護する事は知らない、否、人の秘密を訐發《(けつぱつ)》するがその職掌だ。この役所にはオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の秘密を白※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]せしめる方便があるから、三日の内には屹度|訐《(あば)》いてお目に掛けうといふ。これが返事のあらましで。  この役所の方便、問ふまでもない拷問だ。平生落付いて居る女學士も少し慌てゝ、又た思※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らすに最早自分一人の考ではいかぬ。是非法律に明な人の助を求めねばならぬ譯になつた。當時巴里で一番法理に通曉して、※[#「徳」の「心」に代えて「一/心」、第 3水準 1-84-37]義を蔑※[#「示+見」、第3水準1-91-89]しない代言人は、ピエル、アルノオ、ダンヂリイ[#「ピエル、アルノオ、ダンヂリイ」に傍線]だとは、常から聞いて居る事だから、直に車を飛して、その門を叩いた。女學士の問を默して聞いて居た代言人ダンヂリイ[#「ダンヂリイ」に傍線]は、聞き畢つて哲學※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]ボアロオ[#「ボアロオ」に傍線]の言葉を以て、簡警に意見を述べた。 [#2字下げ]凡天下之信 未必似信矣。  猶ほ説明を求めた女學士に對して、代言人の言うたは、先づオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の身上に充分の嫌疑ある事、役頭レニイ[#「レニイ」に傍線]の所置は法律上毫も不※[#「睹のつくり+おおざと」、第3水準1-92-74]合と認むべき廉[#底本では「廉」は「广+賺のつくり」]なき事、自分が假にオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の辨護※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]なりと思うてもオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の遭ふべき拷問を禁めさする手段のない事、これを禁めさするは、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]が全く秘密を滅却するか、さうでなくば、せめてカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]が殺害[#底本では「害」は「瞎のつくり」]に遭つた時の細い事を白※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]して、他の人殺の手掛を求める機會を法吏に與ふることが必要[#底本では「要」は「襾/女」]だと云ふこと抔であつた。女學士は力を落して、目に※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]を浮べ、憐れな聲を出して。それでは最早國王陛下に跪いて救を求める外はありますまい。代言人は答へた。それはまあ見合せた方が善いかと思はれます。何故といふに、それは最後の手段ですから。一度其塲で却《(しりぞ)》けられると、又た取付く譯には徃きません。國王も國民の望に背く事は仕ないものです。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]程の重い嫌疑の掛つたものを、故なく放※[#「俛のつくり」の「危−厄」に代えて「刀」、第3水準1-14-48]させては先づ世間に對して言譯がありますまい。それよりはオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]に秘密の全躰か、又は一部を白※[#「爿+犬」、第3水準1-87-74]せしめて、それから得た事實を基礎にして、充分に王の心を動かした上、哀訴するが善からうと思はれます。賢い女學士だが、こんな事情になつては、迚《(とて)》も經驗に富んだダンヂリイ[#「ダンヂリイ」に傍線]の言ふ所より外に思案は出ないから、心に慊《(あきた)》らない乍らも同意して歸つた。  家へ歸つて思案に暮れて居る女學士の部屋の戸を叩いて、仲働きが通じた名刺には、伯爵ド、ミオツサン[#「ド、ミオツサン」に傍線]近衞大佐と書いてあつて、その客は至急の用事で是非共女學士にお目に掛りたいと云はせた。  私は、ド、ミオツサン[#「ド、ミオツサン」に傍線]といふものです。何うか唐※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]に御面※[#「言+曷」、第 3水準 1-92-15]を願つた處は御容赦下さい。と軍人の禮をして丁寧に客は述べた。女學士の示した椅子に腰を掛けて。兎角軍人の性質で、物を文飾することは出來ませんから、必要な事柄を撮んでお話致しませう。先づ斯く唐※[#「穴かんむり/犬」、第3水準1-89-49]に貴君を犯した申譯は一言で出來ます。私の參つたはオリヰエゝ、ブルツソン[#「オリヰエゝ、ブルツソン」に傍線]の爲めです。此名は女學士の胸の中で一種の谺響を喚起した。あの、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の事で。この名をお聞になれば、自然と耳を傾けて私のいふ事をお聞き下さるだらうとは、兼て思つて參りました。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を人殺しだといふは今世間一般です。それに同意しないは貴君だとの人の噂、然し貴君の御同意なされないは、唯だオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]※[#「皀+卩」、第3水準1-14-81]ち嫌疑を受けて居るものゝ辨解をお聞になつて、それを御信用なさるといふのみですから、外から見れば一寸根據のない話です。私はそれとは少し違つて外に、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の人殺しでない立派な證據を持つて居ります。これを聞いた女學士の目は喜で光つて來た。その證據は外でもありませんが、カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]といふ飾職を殺したは私しです。あの、それでは貴君が人殺し。この驚いて發した言葉に腰を折られずに語を繼いだミオツサン[#「ミオツサン」に傍線]伯は。成程人殺しに違ひはありませんが、この人殺しには充分人に誇つても好い程の價値があります。大膽にも久しい間、巴里の※[#「睹のつくり+おおざと」、第3水準1-92-74]を騷がして跡を※[#「革+稻のつくり」、第 4水準 2-92-8]んで居たカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]に、私も飾を誂へましたが、それを私が受取るとき、厮奴が見せた怪しい樣子、人には今まで知れなかつたでせうが、私は何となく嫌疑の心を起しました。さてさう思つて見ると、猶ほ怪しいは、私の僕の話です。カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は連に私の僕に世辭を云つて、私が平生徃く婦人の所と、そこへ行く時刻とを問ひました。私の思つたには今迄飾を持て殺された人の創は、皆な心の臟に中つて居ます。それは全く賊が一種の手※[#「糸+柬」、第3水準1-90-14]を以て胸を刺すので、その一撞を避けて仕舞へば、跡は敵味方同等の勝負になりませう。私は衣の下に輕い金の兜衣を當て行きました。これ程簡易な方法に誰も氣が附かず、幾人となく果ない死を遂げたは、實に不思議に思はれます。果して私の後から飛付いたカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は、力を極めて私を抱いて、胸を覗つて刺しましたが、金に觸れた短刀は側へ滑つて仕舞ひました。その機會に不意を喫つたカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の胸へ用意の短刀を刺したから、厮奴は聲も立てずに僵れました。それに貴君は屆もなさらず。何故打棄てゝお置きなさりました。いえ、それは一寸さう思召すも尤ですが、若し私が直ぐに屆をしたら、假令私が寃罪を受けて刑には逢はないまでも、面倒な裁判沙汰になつたに違ありません。御存じの通りカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]は世評の高い慈善家です。それを私が殺して置いて訴へたら、まづ疑は私の身の上に掛かりませう。全躰レニイ[#「レニイ」に傍線]といふ男は人の迷惑に逢ふのを身の樂にする性で、殊に貴族や何かを罪に落すことを好くことは、「シヤンブル、アルダント」といふ役所が立つてから以來、誰も知つて居ります。そんならば貴君はオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を不便とは思召しませんか、無罪のオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を。なに、貴君はオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を無罪と、全で無罪と思てお出なさりまするか、人殺しのカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の同類を。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]といふ若い男は、始終師匠の人殺しの手傳をしたことは明白です。私はあれが殺されたと云つて、左迄氣の毒にも思ひませんが、兼て貴君の人柄を信じて居まするから、縱令實事をお話申しても、まさか私の秘密を訐いて、「シヤンブル、アルダント」へ知らせる樣な事はなさらず、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]が身の上に就いての御參考には充分にならうかと思つて斯う申上げるのです。女學士はこの話を聞いて伯の人柄も分かつたから、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の秘密を打ち明けて話して仕舞つた。それから伯と相談して、猶ほ此成績を持つて伯と一所に最う一度代言人ダンヂリイ[#「ダンヂリイ」に傍線]の家へ行く事と定めた。  女學士とミオツサン[#「ミオツサン」に傍線]大佐との話を熟く/″\聞いた代言人は、細い所まで繰り返して問うた。中にも主に氣を付けたは、大佐が飾職のカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]を殺した時その塲に居つたオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を見覺えて居るかといふことであつた。大佐はその夜の月明りは飾職の顏を確かに見定めることが出來る程であつたから、倒れた師匠に飛び付いたオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の、頭から帽の飛んだ儘の顏は、屹度今見ても知れるだらう。又た、飾職を刺した劍も、柄に見覺えの鐫刻《(せんこく)》があつて、既に先日役頭レニイ[#「レニイ」に傍線]の所へ徃つて確かに見て來たと答へた。  代言人は頷いて。承つた所では、矢張法律上からオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を救ふ譯には行きませんが、國王の赦を願ふには、以前よりは善い手段が出來たといふものです。伯には今から「シヤンブル、アルダント」の役頭にお逢なされて、一部始終をお話なさい。さうすればオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]が再審を受けて人殺しの罪丈は※[#「二点しんにょう+官」、第 3水準 1-92-56]《(のが)》れませう。然し隱慝した罪と手助をしたという嫌疑とは仲々※[#「二点しんにょう+官」、第 3水準 1-92-56]れられません。又た伯のお身には別段に危險はあるまいといふ譯は、飾職の家を充分に捜索せしめたら、寶が出ませうから、それが刧盜の第一の證跡になります。さてさうなればオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]が連累の罪に行なはれるまで、多少の時がありますから、女學士はその隙に國王に仔細を打明けて、特赦の御沙汰をお願なさる事が出來ませう。  此代言人の言葉は渾《(すべ)》て數日の中に事實になつたが、偖《(さ)》てむつかしいは國王に、彼の何處までもオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の罪を※[#「りっしんべん+曾」、第3水準1-84-62]んで居る國王に願ふといふ一段で、メントノン[#「メントノン」に傍線]夫人は國王の機嫌に障る事は一切言はぬといふ平生の心意氣で居るから、所詮紹介を受合ふ氣遣はなし、この重荷を負うた女學士は晝夜心を碎いて居た。或日女學士は彌々思ひ定めて、※[#「黨−尚」、第 3水準 1-94-82]の服を着け、※[#「黨−尚」、第 3水準 1-94-82]のかづきをして、何時も國王がメントノン[#「メントノン」に傍線]夫人の部屋へ來る時に出仕した。王は笑を含んで椅子を起つて、女學士を迎へた。女學士は此日殊更にカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の飾を首に掛けて出た。王はこれを見て、夫人の方に振り向いて。女學士は結髮の夫の忌中であらう。と戲に云つた。女學士は矢張笑つて。陛下の仰せでは御座りまするが、結髮の夫に別れた娘なら、かう飾つてはお目通りを致しません。飾職の事は最う思ひ出すも否で御坐ります。あれが死顏はまあ何んなで御坐りましたらう。それでは女學士は哀れなカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の死顏を見たのですか。此問を女學士は工夫を凝して釣出したのだ。これに縋つて、これを※[#「糸+睹のつくり」、第3水準1-90-12]にして、女學士は飾職の死んだ日に、その家の前へ徃つて樣子を見た事を話した。飾職の一人娘マデロン[#「マデロン」に傍線]が無殘の境遇、これを自分が救つたこと、ラ、レニイ[#「ラ、レニイ」に傍線]、デグレエ[#「デグレエ」に傍線]との關係、斯う段々に※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]を進めて王の耳を傾ける樣に説いて、最後に本題のオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の事に遷つた。王は今までオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]と云ふ名は聞くことを嫌つて、誰でも言ふものがあると直ぐに旨に忤《(さか)》らうといふ勢であつたが、事の奇怪と辯の巧妙とで、知らず識らず、この不思議な一世界の中に身を置くやうになつた。それで夢中に成つて聞いて居る隙に、こは奈何に、あし元に伏して救を求める女學士の樣子。王も驚いたが手を取つて引き起して。是は何うした事です。その不思議な、證據もない犯人の言立を。仰せでは御座りまするが、ミオツサン[#「ミオツサン」に傍線]大佐の自首、マデロン[#「マデロン」に傍線]が清白な心、何うか御賢察なされて。この話の最中に心配らしい顏を次の間から差出した書記官。王は起上つて書記官の方へ徃つた。女學士は背中に冷汗を流した。切角の骨折で、王の心を動かした所を、譯もなく妨げられて、若し王がその儘で、また外の話を始めたら、今更に同じ手段も出來ず、奈何にも困難な事にならう。  暫くして王は歸つて來て、物をも言はず部屋の内を彼處此處と※[#「陟のつくり」、第3水準1-86-35]いて居たが、急に女學士の前で、手を後にした儘、立留まつた、別に眼を注ぎもせず。そのマデロン[#「マデロン」に傍線]とやらを見ても善いが。女學士は喜んで。有難いその仰せ、只今お目通へ。といひながら※[#「黨−尚」、第 3水準 1-94-82]い禮服の重みで妨げられる足の運を成丈早めて戸を出て往つたが、程なくマデロン[#「マデロン」に傍線]は王のあし元に伏した。斯んな仕合せもあらうと思つたから、女學士はマデロン[#「マデロン」に傍線]を車の内に隱して來た。羞慚、恐懼、悲痛、情愛、この許多の薪で烹《(に)》られた血が、脉《(みやく)》の枝々を循つて、顏には紅葉の色を現はした。水晶の樣な※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]の球は、濕うて光を放つ目から、絹の樣な睫毛に漉されて百合の花に似た胸の上に落ち掛つた。洵に世に稀な莟の名花。王は覺えずマデロン[#「マデロン」に傍線]が手を取つて唇に當てようとしてふと氣が附いたやうに、又た離した。此時に王の目にも少し※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]が浮んだ。メントノン[#「メントノン」に傍線]夫人は瞬もせずに見て居たが、この時幽な、然し王に聞える樣な聲で。まあ、善くラ、ワリエル[#「ラ、ワリエル」に傍線]に似た子ではありませんか。女學士のお望通り、これでは何事も出來ませう。嗚呼、無情。昔し思をかけたラ、ワリエル[#「ラ、ワリエル」に傍線]の名を、妬を帶びて言はれたから、王の顏にさつと赤みがさした。王は夫人を横目で見て、マデロン[#「マデロン」に傍線]の指出した願書を讀んだ。この願書は兼て女學士が代言ダンヂリイ[#「ダンヂリイ」に傍線]に書かせて置いたのであつた。王は讀み訖つて、頷き乍らマデロン[#「マデロン」に傍線]に向かつて。オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]に罪がないとお前が確かに思つて居ることは、奈何にもさうかと思はれるから、孰れ「シヤンブル、アルダント」へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]はして意見を聞いて見やう。と云つて※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]に咽んで居るマデロン[#「マデロン」に傍線]を手眞似で却けた。想ふにワリエル[#「ワリエル」に傍線]といふ名を聞いた王の心は、夢を見て居る人が急に喚び起されて、はつと思ふ機會に樣々の幻が一度に消えるやうであつたらう。それともワリエル[#「ワリエル」に傍線]はシヨオル、ルイズ、ド、ラ、ミゼリコルド[#「シヨオル、ルイズ、ド、ラ、ミゼリコルド」に傍線]と法名を名乘つて、精進と苦行とで王の心を苦めたことがあるから、王がそれを思ひ出して斯うは素氣なくもてなしたか。  ミオツサン[#「ミオツサン」に傍線]伯の自首は早くも巴里の隅々まで傳播した。南極から北極に飛び渡る樣な擧動を見するは人心の常で、昨日まで極悪人のオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]が冤罪を被た少年になり、「シヤンブル、アルダント」の役所は再び殘忍の名を流した。ニセエズ[#「ニセエズ」に二重傍線]街に近い處でも、目が醒めた樣にオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の篤行を想ひ出した。飾職の偏[#底本では「偏」の「戸」に代えて「戸の旧字」]屈な親父カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]に對しての平生の忠實、その娘マデロン[#「マデロン」に傍線]に對しての更らぬ眞心、是等は人殺しに不釣合だと心付いた。役頭レニイ[#「レニイ」に傍線]の家の前には、日※[#「誨のつくり」、第3水準1-86-42]に幾人となく集つて、大聲を擧げて、無罪のオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を返せ、と※[#「口+斗」、U+544C、105-5]び、果ては窓へ礫を投げ付けるから、レニイ[#「レニイ」に傍線]は邏卒の警衞を※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]むことにして、漸く一時の急を逃れた。  女學士は玉座を犯してオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]の命請をしてから、數日を經ても、何の音沙汰もないから、連りに氣を揉み、メントノン[#「メントノン」に傍線]夫人に問うても、矢張王の機嫌計り覗つて居て、果てしが付かず、お負に御贔負のワリエル[#「ワリエル」に傍線]孃は何う致しました、抔と、マデロン[#「マデロン」に傍線]の容色風姿に就いての譏刺を言ふから、少しも※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]にはならない。  唯だ代言人ダンヂリイ[#「ダンヂリイ」に傍線]の周旋で漸うに聞き出したは、國王がある日大佐ミオツサン[#「ミオツサン」に傍線]伯を召して、久しい間御對談なされたといふ事實と、王の尤も信任して居る内豎《(ないじゆ)》ボンタン[#「ボンタン」に傍線]といふ人が獄に徃つて、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]に逢つた上、ニセエズ[#「ニセエズ」に二重傍線]街の飾職の家に夜中に役人と一所に這入つて久しく居たといふ巷説とであつた。この巷説を確かめうと、飾職の居つた家へ人を遣つて平屋に住んで居るクロオド、パトリユウ[#「クロオド、パトリユウ」に傍線]に聞かせると、成程ある※[#「日+俛のつくり」、第 3水準 1-85-28]に役人らしい人が多人數來て、夜の明けるまで何か劇しい物音がしたが、その中にはオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]が居つたかと思ふと云ふ。何故かと問へば、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]と同じ聲が下へ洩聞えたとの事だ。兎も角も國王が手を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して事の實否を搜させて居るには違ないが、何故又結果が世に表はれないか、それとも一度齒の間に插まつた獲は決して出さぬといふラ、レニイ[#「ラ、レニイ」に傍線]が本願で、何か故障でもある事か。  殆ど一月も立つてからであつたが、國王がメントノン[#「メントノン」に傍線]夫人の室で女學士に面會したいと云ふ案内をした。女學士の胸は騒がしく跳つて、マデロン[#「マデロン」に傍線]の※[#「示+斤」、第3水準1-89-23]※[#「示+壽」、第 3水準 1-89-35]は聖母を始め夥多《(かた)》の聖使の許へ屆いた。  それに王の談話は何時に變つたこともなく、人殺し事件は殆忘れて仕舞つた樣で、女學士は氣計り揉んだが、其甲斐もなかつた。扨最早お暇を賜はるかと思ふ頃に、例の内豎《(ないじゆ)》が這入つて來て、王の側に依り、何か耳語いだ。スキユデリイ[#「スキユデリイ」に傍線]學士は心の内に戰慄した。王はつと立つて、女學士の前に來て笑ひ乍ら。お喜びなさい。御贔屓のオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は赦※[#「俛のつくり」の「危−厄」に代えて「刀」、第3水準1-14-48]になりました。女學士の目からは數行の※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]が落ちて、其身は王の足の下に仆れようとしたのを、王は扶け起して。貴君は私の考を議會に持出して辨護して下されば好い。この辯舌なら世界に誰も心を動かさないものはありますまい。然し。と少し眞面目になつて。いや篤行が辨護人に出れば、「シヤンブル、アルダント」は魯なこと、天下何處の裁判所でも勝利の得られぬ筈はありません。女學士は漸く胸が落付き、辭を極めて謝せようとすると、王は押留めて。「學士は私に禮を言はうより、早く家へ還つて人の禮をお請なさい。ボンタン[#「ボンタン」に傍線]に兼て言付けてありまするから、マデロン[#「マデロン」に傍線]が結婚の料に一千路衣を私の手元から拂ひ出させます。其代りオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]夫婦は巴里の外へ遷るやうにさせます。  家へ還り掛かると、半途まで迎に出たマルチニエヽル[#「マルチニエヽル」に傍線]とバプチスト[#「バプチスト」に傍線]との奴婢。「お喜なさりませ。あれは赦されて參りました。閾を跨ぐと足元へ伏つた二人。可哀いオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]をお扶け下さるは貴君許りとは、兼て存じて居りました。とマデロン[#「マデロン」に傍線]は云つた。貴君に置いた信用は、片時も私の心から離れませなんだ。とオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]は云つた。二人は女學士の手に唇を當てゝ、熱い※[#「さんずい+(戸の旧字+犬)」、第3水準1-86-83]を流した。かれ等がこの時の喜は今までの苦を充分に償うた。  程なくオリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]とマデロン[#「マデロン」に傍線]とは薦卓の前に手を握り、恩賜の金で旅裝を整へ、スキユデリイ[#「スキユデリイ」に傍線]女學士に辭別して、故郷のジユネウ[#「ジユネウ」に二重傍線]へ還つた。かれ等は王の命はなくても、瑞西の※[#「睹のつくり+おおざと」、第3水準1-92-74]へ還る考を懷いて居た。師と父とに當るカルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]が隱慝の跡は何時までも巴里では消えぬから。嗚呼、オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]が父の願は、子の代になつて※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第 3水準 1-84-56]《(かな)》つて、これから暫く後に飾職といへば、人が瑞西首府のオリヰエゝ、ブルツソン[#「オリヰエゝ、ブルツソン」に傍線]を唱へるやうになつた。  この若夫婦が巴里を離れてから、一年程經て左の広告文が世に表れて、大に※[#「示+土」、第 3水準 1-89-19]會の注意を喚起した。 [#2字下げ]近頃過を知り非を悟れる罪人あり。寺に詣りて懺※[#「りっしんべん+誨のつくり」、第3水準1-84-48]し、金銀珠玉の臟品を献ず。是れ盖《(けだし)》聖教[#底本では「教」は「希+攵」の「巾」に代えて「孑」]に重んずる所の懺※[#「りっしんべん+誨のつくり」、第3水準1-84-48]の秘密を※[#「懶−りっしんべん」、第3水準1-92-26]んで、聊か罪障の萬一を滅さんとするなり。千六百八十年の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第 3水準 1-91-26]月※[#より、1-2-25]前に當り、寶を街上に奪はれしものは、ダンヂリイ[#「ダンヂリイ」に傍線]の許に就いて、詳に貨物の形標を述べよ。棄捐の品中、これに吻合するものあるときは精査の上、交付せらるゝことあらん。某年某月、巴里※[#「にんべん+曾」、第3水準1-14-41]官アルロア、ド、シヨオワロン[#「アルロア、ド、シヨオワロン」に傍線]、議院代言士ピエゝル、アルノオ、ダンヂリイ[#「ピエゝル、アルノオ、ダンヂリイ」に傍線]記す。  彼カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]の簿記中に殺害の符標のなかつた寶は、それ/\に受取人が出て來たが、跡に殘つたのは皆「サン、テウスタツシユ」寺の庫中に收まつた。 [#改ページ] [#3字下げ]附「シヤンブル、アルダント」の由來[#「附「シヤンブル、アルダント」の由來」は中見出し]  打金匠カルヂリヤツク[#「カルヂリヤツク」に傍線]が兇刃[#底本では「刃」は「仞のつくり」]、巴里の街を閙《(さわが)》しゝより前にグランゼル[#「グランゼル」に傍線]と呼ばれたる獨※[#「二点しんにょう+兔」、第3水準1-92-57]の化學※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36]ありて、佛※[#「睹のつくり+おおざと」、第3水準1-92-74]に來りて點金の術[#底本では「術」は「衙」の「吾」に代えて「朮」]を唱へ、聖賢石をも煉出さんずる勢なりし、その門下の伊太利人エクシリイ[#「エクシリイ」に傍線]は心術正しからぬものにて、「プウドル、ド、サクセツシヨン」といふ猛烈なる毒藥を調[#底本では「調」は「言+蜩のつくり」]合せり。この名は※[#「皀+卩」、第3水準1-14-81]效散といふ義なれど、所謂效は痾を療し痛を鎭むる※[#「類」の「大」に代えて「犬」、第 3水準 1-94-4]にあらず、一たびこれに近づく時は、幺微の分子、鼻口に入りて、立《(たちどこ)》ろに命を墮さぬものなし。この事遂に發覺して、エクシリイ[#「エクシリイ」に傍線]獄に下りぬ。時に大尉セント、クロア[#「セント、クロア」に傍線]といふもの、公爵夫人ブランヰエゝ[#「ブランヰエゝ」に傍線]と密通せし罪に依りて同じ獄中に※[#「(車/凵+殳)/糸」、第 3水準 1-94-94]がれたりしが、竊《ひそか》にエクシリイ[#「エクシリイ」に傍線]の方を傳へ、赦されて出でし後、公爵夫人と心を合せ、この淫婦の父を始とし、一家の老若を暫時の間に殲し盡しゝ其惡業の報にや、遂に利を求め財を奪ふべき標的なき塲合にても、藥を投じて人を殺し、面白きことに思ひけり。或は毒を※[#「麩」の「夫」に代えて「面」、第 3水準 1-94-80]包の裡に裹《(つつ)》んで「オテル、ヂオウ」といへる巴里貧院の男女に施與し、或はこれを鳩肉の「パテエ」の内に混ぜて、紳士貴婦人に饗[#底本では「饗」は「(「郷」の「即のへん」に代えて「皀」)/(餮−殄)」]し、形迹漸く現るゝものから、威權あるブランヰエゝ[#「ブランヰエゝ」に傍線]家の事なれば、言ふもの絶てなかりしに或日セント、クロア[#「セント、クロア」に傍線]は獨り密室に籠りて、毒粉を壜に盛らんとするに、恒に被りし玻璃の仮面地に堕ちて碎けしかば、毒粉乍ち鼻口に入り、即座に命を隕《(おと)》したりき。夫人は情夫の死を聞きて、身の上危ふしと思ひしかば、リユツチヒ[#「リユツチヒ」に二重傍線]の女※[#「にんべん+曾」、第3水準1-14-41]院に迯《(にげ)》入り、この院の特權を籍りて罪を※[#「俛のつくり」の「危−厄」に代えて「刀」、第3水準1-14-48]れんとせり。この處は縦令政府の命を帶びたる捕手にても、踏込むこと叶はねば、奈何せんと議する程に、邏騎の一人デグレエ[#「デグレエ」に傍線]※[#「にんべん+曾」、第3水準1-14-41]に扮して寺に入り、色を以て夫人を欺き、或る夜街盡處の公苑に誘出し、首尾好く擒へて箱馬車に乘せ、其儘※[#「睹のつくり+おおざと」、第3水準1-92-74]に送りて刑に行ひ、屍首の灰をば空中に散じて、毒惡の痕を世間に留めざらんとせり。然るに誰人かこの怖るべき藥方を傳へけん、彼處此處に奇怪の死多く、親は子を疑ひ、夫は妻に心を置き、中には富豪の烹※[#「飮のへん+壬」、第 4水準 2-92-48]《(ほうじん・にたき)》の事を親《(みずか)》らするもありて、筵を張る時は酒※[#「肴+殳」、第 4水準 2-78-4]を口にせず、互に相疑ふのみなりき。警察※[#「署」の「者」に代えて「睹のつくり」、第 3水準 1-90-26]は打ちも置かれず「バスチユ」の側に「シヤンブル、アルダント」といへる獄庭を設け、ラ、レニイ[#「ラ、レニイ」に傍線]と喚ばるる刻薄の探偵吏をその長とし、手段を盡して罪人を搜索せり。その頃サン、ジエルメン[#「サン、ジエルメン」に二重傍線]の街盡處に、幽に烟を立て、※[#「示+斤」、第3水準1-89-23]※[#「示+壽」、第 3水準 1-89-35]を名として※[#「言+睹のつくり」、第3水準1-92-14]家に徃來する老媼あり。其名をラ、ヲアザン[#「ラ、ヲアザン」に傍線]といひしが、何なる人に介してかエクシリイ[#「エクシリイ」に傍線]の毒方を傳へ、サアジユ[#「サアジユ」に傍線]、ヰグリヨオ[#「ヰグリヨオ」に傍線]といふ二人の破落戸《(ごろつき)》を夥伴とし、親を弑さんとする不孝の子、夫を殺さんとする不貞の妻に、※[#「皀+卩」、第3水準1-14-81]效散を賣て謝金を貪りぬ。デグレエ[#「デグレエ」に傍線]は這囘もこれを訐發《(けつぱつ)》し、三人を擒へて、グレエウ[#「グレエウ」に二重傍線]巷に引出し、遂に火刑に處せしが、ヲアザン[#「ヲアザン」に傍線]の家より出でし帳簿に姓名を記したりしが爲めに、連累せられしものいと多く、中には高官の人もありきとぞ。當時「シヤンブル、アルダント」が慘毒を流しゝは嫌疑を受けし公爵夫人ブリヨン[#「ブリヨン」に傍線]がレニイ[#「レニイ」に傍線]に答へたる言葉にて明かなり。レニイ[#「レニイ」に傍線]は夫人に向ひ君もヲアザン[#「ヲアザン」に傍線]の藥を買はれし一人なれば、彼老媼が役せし鬼の姿を見玉ひしかと問ひしに、夫人はヲアザン[#「ヲアザン」に傍線]が家にて鬼は見ねど、今日は眞の惡鬼に對する心地すと應へき。 [#改丁] [#2字下げ]巻末後記の該当部分より[#「巻末後記の該当部分より」は中見出し]  玉を懷いて罪あり [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 原題 〔Fra:ulein Scudery〕 原作※[#「睹のつくり」、第3水準1-90-36] Ernst Theodor Amadeus [Wilhelm] Hoffmann, 1776-1822. 翻譯原本 E. T. A. Hoffmann: Werke, 〔ausgewa:hlte〕 〔Erza:hlungen〕 (in 2 Bdn.). Bd. I. Leipzig, Verlag des Bibliographischen Instituts. o. J [#ここで字下げ終わり]  明治二十二年(一八八九)三月五日、十四日、三十一日、四月十二日、五月十九日、六月一日、五日、十三日、十八日、二十七日、七月三日、十日、二十一日の十三囘にわたって『讀賣新聞』に「玉《たま》を懷《いだい》て罪《つみ》あり」の題で、「※[#「區+鳥」、第 3水準 1-94-69]外漁史・三木竹二 同譯」として連載され、のち『水沫集』に收められた。本全集は『改訂水沫集』を底本とし、初出と校合した。  『改訂水沫集』序に、「玉を懷いて罪あり。|Edgar《エドガア》 |Poe《ポオ》を讀む人は更に |Hoffmann《ホフマン》に遡らざるべからず。此篇の如き、やや我嗜好に遠きものなるを、當時強ひて日刊新聞に譯載せしは、世の探偵小説を好む人々に、せめては此種の趣味を知らしめんとおもひしなり。」とある。なお、「觀潮樓偶記」中に「鬼才」「璧を懷いて罪あり」の二章がある。  初出から單行本への大きな異同はない。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  ・一〇九頁8行 寄る白波避くといへば、――(初)寄る白波懼るゝは  これと同樣の例一一〇頁6行、一三九頁6行にもあり。  ・一〇九頁9行の本文(文飾を費やした……仕舞つた。)につづけて、初出つぎの文あり。    (※[#「區+鳥」、第 3水準 1-94-69]外云く法蘭西歌の翻譯は漁史が書齋を訪はれた小金井きみ子さんが立ち乍らの仕事だ一寸是處できみ子さんに御禮を……) ・一四三頁3行 オリヰエゝ[#「オリヰエゝ」に傍線]を連れて歸つた。不便なは飾職の娘マデロン[#「マデロン」に傍線]。――(初)オリヴィヱーを連れて歸ツた、暫時手を握て還た手を分つ、不憫なものは飾職の娘マデロン [#ここで字下げ終わり] 底本:「※[#「區+鳥」、第 3水準 1-94-69]外全集」第一卷(岩波書店)  1971年1月22日 発行 入力:山崎正之 校正:山崎正之 2026年3月14日作成 ※手紙文の「候」の一部は、底本では次の略字が使われています。 [#候略字(sourou.png、横44×縦32)入る] ※文中の「しんにょう」は底本ではすべて「二点しんにょう」です。特に注はつけませんでした。 ※底本にないルビを入力者の判断で追加しました。区別できるようにルビを括弧の中に入れて表示しています。