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斎藤偕子さん

演劇評論家・斎藤偕子さんが2021年12月23日に亡くなられたのを今月(2022年8月)知りました。 たった一度お目にかかっただけでお顔もあまり憶えていないのですが、ともかく可愛い方だったのだけはよく憶えています。1973年の春、桜社の『盲導犬』を観たあと、雑誌『新劇』に書かれた文章を読んでひそかにファンになりましたので、『海の牙』の初日の公演のあとに少しですがお話を伺えてとても嬉しかったです。(>> 昔話(緑魔子と田口いくこ))。

1973年の3月、状況劇場はバングラデシュ公演を行いましたが、このときのせりふは、斎藤偕子さんが元の戯曲を英語に翻訳したものをNHKで海外放送を担当しておられたバングラデシュ人の方がベンガル語に翻訳されたものを使われたそうです。

あまりにショックだったので、ネットで色々情報を探したり、また『新劇』に書かれた記事を「写経」のつもりでパソコンに入力しました。自分用のメモとしてここにリンク等をまとめておきます。




「演出家と舞台2―蜷川幸雄の『盲導犬』」の最後の部分で、「暗い海」に搦んで、斎藤さんは蜷川幸雄にとっての暗い現実について語っておられます。翌年(1874年)、蜷川幸夫が商業演劇に進出したことから櫻社の他のメンバーから孤立し、櫻社は解散します。この孤立した蜷川に手をさしのべたのが『盲導犬』の唐十郎。『唐版 滝の白糸』を蜷川のために書いてくれたのです。この芝居が蜷川演出で大映東京撮影所で上演されたとき、すでに状況劇場を離れておられた田口いく子さんが観に来られたのを目撃したのが田口さんを生で見た最後です(訂正:これは間違い。同じ年[1975年]の秋『糸姫』の東京公演前半ではまだ田口さんは在籍しておられました、京都公演の途中で退団されたので、再び紅テントが東京に戻って来た時には、田口さんのしておられた役「かつこ」を本間光琳さんが演じておられて驚いたのでした)。その後出版社に勤務され定年後は故郷に戻られお母様の介護されたと耳にしました。

蜷川幸雄の私の履歴書からこの頃のものを少し抜き出して書いておきます。

(23)「子育て―『主夫』、仕事も抱えダウン―商業演劇巡り孤立」より
 さて、商業演劇の仕事をしたぼくは仲間から孤立する。櫻社に帰って新しい舞台をつくろうと思っていたのだが、ある日参宮橋のスナックに呼び出された。何十人もの俳優やスタッフに「なぜ商業演劇をやるのか」と批判された。
 その場で解散が決まった。74年夏のことだ。帰り道、蟹江敬三さんが「キンちゃん、どうするの」と聞いた。「しょうがないから商業演劇やるよ」。蟹江は「ぼくもひとりでやる」と言った。
 汝の道を歩め。そして、人々をしてその語るに任せよ。ひとりぼっちになったぼくは「資本論」の序に引かれたダンテの「新曲」の一節を心の支えとした。
(24)「西洋演劇―日本らしさ 舞台で形に―仏壇に手合わせひらめく」より
 商業演劇の演出がきっかけで孤立したぼくに、ある日電話がかかってきた。「蜷川君、元気?」。唐十郎だった。
 家に行くと、唐はちゃぶ台の前にすわっていた。「滝の白糸を書いたんだけど、演出してくれないかな」。「いま評判悪いんだよ、オレ」と言葉を濁すと「関係ないよ。才能と仕事をするんだから」。

また斎藤さんは同じ記事の中で蜷川幸雄が「作家との出逢いは、少なくとも生きた作家からはこれまでの二人以上にもう増えないだろうと考えているのだ」と書いておられます。寺山修司の作品も演出されたと思いますが、もう寺山修司が亡くなってからだったでしょうか。秋元松代さんの作品もいくつか演出されています。『近松心中物語』のときのことを書かれた文章を「私の履歴書」から引用してきます。

(27) 「50代の苦悩―吐血、気ふさぎ創作不振―喜劇を自費上演、暗闇抜ける」より
 秋元松代さんほど胃の痛む劇作家はいなかった。近松門左衛門の心中場面を集めた芝居をお願いし、上方言葉にこだわり抜いた傑作「近松心中物語」が生まれたが、舌鋒の鋭さといったらない。あとでかわいがってくれたものの太地喜和子さんを最初の稽古で見て言った。「なんです、あの山猿は」
 禿(かむろ)が部屋の掃除をする場面を本番で見て「あの雑巾がけはなんですか」と怒って明け方電話してきた。気性の激しい秋元さんの機嫌を損ねると上演中止になりかねないが「書いてある通りの演出です。いい加減にしてください」と切った。なんとか信頼は保たれ、森進一の演歌を浄瑠璃に見立てた舞台は評判もお客の入りも上々だった。

ぼくも最初は蜷川幸雄が商業演劇に移ったことにがっかりしていましたが、『ハムレット』やこの『近松心中物語』から(アメリカ在住の4年半を挟んで)5作品ぐらい見ましたが、『近松心中物語』はとてもよかったです。観た後で、作家・秋元松代が『七人みさき』の作者であることに気付いたのだったかもしれません。
ブログ記事「劇作家・秋元松代」 http://flim-flam.sblo.jp/article/182961375.html

しかし、商業演劇の役者の演技が見ているに耐えられなくて、結局、観に行かなくなってしまいました。時がたって1991年にエジンバラで見た "Tango at the end of Winter" (これは素晴らしかった〜しかしイギリス人には不評でした)と、1997年に埼玉芸術劇場で見た『草迷宮』だけ観ました。

群衆を描く芝居をしたいということに関しては商業演劇に移られて叶えられたのではないかと思います。



「演劇を問う、批評を問う――ある演劇研究集団の試み」(平井正子編、論創社)という本が斎藤偕子さんの傘寿記念として出ていることを知ったので、一冊入手し、斎藤偕子さんの参加されている座談会記事を読みました。外国の演劇や日本の新劇に関する話題が多かったですが、ぼくの好きなタイプの演劇についてもかなり語っておられました。特に第七病棟に関する章や善人会議=扉座の章があったのが嬉しいです。そしてなにより、編集後記の一番最後に平井正子さんが「こう申し上げるのも失礼ながら、永遠の乙女のような可愛さでますますお元気な斎藤先生は……」と書いておられるのを見て、にっこりしてしまいました。

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