昔話(緑魔子と田口いくこ)

まだ若かった頃の話を書いてみます。 記憶違いによる間違いがあることと思います。 ご指摘いただければ幸いです。

初めて芝居を観たのは1973年、ぼくが大学2年のとき。 新宿アートシアターで観た「盲導犬」(櫻社)です。 当時大学の寮に住んでいましたが、 部屋の先輩(そのときはもう出ておられたはず)のN川氏が声をかけてくれたのです。 それまで芝居には全然関心がなかったのですが、話を聞くと緑魔子が出るとのこと。 緑魔子は高校の時NHKで放送した単発ドラマを見て非常に心惹かれるモノがあったので、 すぐさまその話に乗りました。

そしてぼくは「盲導犬」の舞台に完全に魅せられてしまいました。 魔子さんのあのかわいらしさ!  舞台にはあらわれないけれど強烈なイメージを残すファキイル!  なんだかボロっちかったコインロッカーの扉が開いて犬の毛 (発泡スチロールだったけど)が吐き出されたときの驚き!  ロッカー全体がまっぷたつにわかれる切ないラストの陶酔感!  完全にはまってしまったぼくは、翌週、翌々週と、新宿へ足を向けたのでした。 ともかく魔子さんを近くで見たかったので、早くから列に並び、 最前列中央の席で観ました。あの芝居での魔子さんを思い出すだけで、 胸が締め付けられるような気持ちになります。

ともかく「盲導犬」に関連するものはできるだけ集めました。 戯曲の載った雑誌、芝居のポスター(近所の書店に貼ってあったのかなあ?)、 劇評などののった「新劇」、……。

3回目に観たときに列に並んでいて貰ったチラシの中に、 劇団状況劇場の「ベンガルの虎」がありました。 櫻社の芝居以上のものがあるとは想像できませんでしたが、ともかく 「盲導犬」の戯曲を書いた人がやっているので、これは観てみなければと思い、 楽日を選んで上野不忍池の水上音楽堂に行ってみました。 当日券です。 状況劇場は前売り券の客を先に入れると言うのを知らなかったのです。 なので、入場するのはずいぶん後になってしまいました。 かなり端っこのほうの席になってしまいました。

そして芝居が始まり……度肝を抜かれてしまいました! なんと日本兵たちが池の中から水を散らしながら出てくるではありませんか! そして声をそろえて叫んだ言葉が「水島! 一緒に、日本に帰ろう!」。 ひぇ〜っ、これは「ビルマの竪琴」?! と思ったのもつかの間、 わけのわからない話がどんどん進行していき、 あの水島が今は商社員としてビルマに駐在していて、 日本にハンコ用の人骨を送ってきているなどというとんでもないことになっていて、 櫻社とは対照的な無茶苦茶な芝居にすっかり引き込まれてしまいました (ストーリー自体は「盲導犬」とすごくかぶっているんですけどね!)。

だけど、一番ぼうぜんとなったのは登場人物が水洗便所のひもをひっぱると、 突然、行李が池からあがってきたところ! そして後で同じことが2度目に起きたときに その中から出てきた(という設定の)女優さんが 無茶苦茶綺麗な人だったということ!!! それが田口いくこさんでした。 ぼくはすっかり田口さんのとりこになってしまったのでした。 だいたい状況の芝居の登場人物は下品なんですが(失礼! 猥雑とでも書くべき?)、 田口さんだけは掃きだめの鶴! 凛としていて、美しくて、優しくて (本人自身と混同してるかな?)、別格だったんです。

見終わったとき、ぼくはすっかり疲れ果てていました。呆然としていました。 なんてすごいんだ!

ぼくは楽日に観たことを後悔していました。なんでもっと早く観ておかなかったんだろう! もうこれでお終いなのです。仕方なく、次の公演までじっと待ちました。

秋の公演は月島の運河に浮かぶ石炭船で演じられた「海の牙」でした。 今度はしっかり前売券を買って、しかもすごく早く整理券の列にならんで…… というかまだだれも並んでいないときから現地に行ったのです。 準備をしている劇団員の中にあこがれの田口さんもおられました。 舞台でのメイクのない田口さんは、とてもやさしそうな方でした。

受付あたりで待っているとき、すごい状況ファンと知り合いになりました。 お名前を覚えていないのですが、西武新宿線沿線に住んでおられた方なので西武さんと 書くことにします。 西武さんに、高校生の時みた緑魔子のドラマの話をしたら、たちどころに 「それは『七人みさき』ですよ」と、忘れていた題を教えてくださいました。

「海の牙」はどちらかというと「盲導犬」タイプのこじんまりとした作品でした。 小林薫が非常に印象に残りました。

初日の舞台を観た後、西武さんがぼくを喫茶店に誘ってくれました。 何人かで一緒に行ったんですが、その中に東洋英和の斎藤偕子さんがおられました (「新劇」に「盲導犬」関連の記事を書いておられ方です!)。 おいくつだったのかわかりませんが、とても可愛い方でした。 すっかりファンになってしまいました。 「魔子さんは可愛い人だ」 とおっしゃってくださったのがすごく嬉しかったのを覚えています。 芝居のことをよく知っている人たちと一緒にいることができて、 とてもどきどきしてしまいました。 ぼくは、喫茶店というのは不良の行くところだと思っていたので、 そもそも喫茶店にはいるだけでどきどきしたんですけどね。

何度も観に行ったので、電気新聞社にお勤めのO智さんという方とも後日親しくなりました。 O智さんは劇団員ともかなり親しくしておられて、 水上音楽堂で公演があったときは、近所の喫茶店に小林薫と一緒に行くのに、ぼくを 誘ってくれたりしました。ミーハーなので、すごく嬉しかったです。

田口さんとはそういう風に午後の休憩時間に喫茶店に行ったりしたことは なかったのですが、あまり何度も芝居を見に行くものだから、 とても親切にしていただきました。 田口さんの写真が欲しいと言うと、けっこう大判の写真を何枚も譲ってくださいました (「田口いくこさん」参照)。 また、一度だけ芝居のない時、新宿駅東口みどりの窓口の前で待ち合わせをして、 紀伊國屋書店の西の道にあった名曲喫茶につきあっていただいたことがあります (おお、ぼくもずいぶん不良になってますね)。好きな映画の話なんかとか、 弟さんがぼくと同じ学校にいるっていう話とかききました。 当時、田口さんは鈴木清順の奥さんがやっている新宿の「かくれんぼ」というお店で アルバイトをしておられて、そこにいく前の時間を割いてくださったのです。 本当に幸せな気持ちでした。そのお店に行ってもいいか伺ったのですが、 ぼくがくるような所ではないと言われてしまいました。 まあ、貧乏暮らしでしたから、来いと言われても行けなかったでしょう。

[ブログ stagecoach のアーカイブ (JINさん)に「かくれんぼ」に関連して、 田口いくこさんの思い出が書かれています。]

話が突然変わるのですが、ぼくは泉鏡花が大好きなのです。 特に好きなのが「照葉狂言」なのです。 この小説の主人公の幼い少年は、母を失い、伯母夫婦に育てられています。 隣家には年上の少女がおり、主人公をまるで弟のようにかわいがってくれています。
ある時、町に旅芝居の一座がやってきて、それを観に行った主人公は 牛若丸を演じた年上の娘を好きになります。 何度も何度も芝居を見に行く主人公を、一座の役者たちはとてもかわいがってくれます (「野衾(のぶすま:100歳を超えた吸血蝙蝠)」のエピソードは 明治時代の小説とは思えないほど印象的!!!)。
ある夜、伯母が開いていた賭け花札が警察の手入れに会い、 保護者を失った主人公は一座とともに旅をすることになります。 そして何年かがたち一座がまたその町に戻ってくるのですが……、 後はぜひ小説をお読みください。 信じられない展開で、読み終わって呆然としてしまいました (というか文語調で書かれていて一体なにが起こったのかわからず、 えっ、ほんとにそういう終わり方なの?と何度も何度も 読み直してしまったんですけどね!)。 結末はまあ置いておくとして、ともかく男の(ありえない)妄想満開の浸れる作品って、 本当に好きです。最近では映画「アンジェラ」「弓」なんかがそうでした。

[「照葉狂言」の読める場所: 鏡花花鏡鏡の花近代デジタルライブラリー ]

ぼく自身は、「照葉狂言」の主人公のように可愛らしかったわけではないのにもかかわらず、 このような状況はすごく夢見る図々しい人間なんです。 田口さんにお姉さんになって欲しい!と本気で思ってました。 弟さんが羨ましかったです。

亡くなった山口猛さんの「紅テント青春録」(立風書房)の中に、 バングラデシュで「ベンガルの虎」公演を行ったときの話の中に、 日本大使館員や商社員らの歓迎パーティのことが書いてあります。 田口さんの雰囲気をすごくよく表していると思いますので、 ここに紹介してみます:


 唐はカリスマとして人を引きつけるだけでなく、どんな相手でも籠絡する才能があり、 その時も唯一の女優田口いくこが切り札となった。それまでドタバタ劇や悪ふざけで、 本当にこれが日本を代表する劇団かなどとなかば冷たく、鼻白んで見ていた大使館の人々も、 彼女がスックと立って第一声を出した瞬間、ハッとするのである。

 歌うは「島原の子守歌」。彼女の故郷の歌だが、透明感があって伸びのある声。 熱帯の異郷の地で聞く子守歌は効果的で、唐は最初から彼女の歌を強調するために 意図的にバカ騒ぎをさせていたようだった。この歌を聞いたすべての人といっても 誇張でないほど、大使館員、そして一緒に呼ばれた商社員夫妻達がボロボロ 泣いてしまった。

 ……中略……

 田口いくこの人気はなにも大使館ばかりではなかった。 ダッカ駅裏にある仏教寺院での公演には五千人くらい集まったのだが、 終わった後の接待でも抜群であった。仏教徒の接待だから、チャとカレーのみだが、 天城和尚は彼女の「島原の子守唄」を聞くとオイオイと泣き、手を握って放さなかった。


(p.167 より)

その後、田口いくこさんは「糸姫」公演の途中で突然退団されてしまいました。 ショックでした……。それが大学4年の頃かな?  振り返って見ると、田口さんの芝居でぼくが観たのは 「ベンガルの虎」「海の牙」「唐版・風の又三郎」 「夜叉綺想」「腰巻おぼろ・妖鯨篇」「糸姫」だけなんですねぇ。 NHKでカトリーヌ・アルレーの『わらの女』をドラマ化したものに 出ておられたのを見たのが最後です。 今はどうしておられるのでしょう……。

「糸姫」を見た頃は、大体始発の電車で家を出て整理券を貰う列に並ぶのが 普通になっていました。午後1時の発券まで一緒に並んでいると、自然とみな 仲良くなってきます。そのあたりのことは 「眠り草」の感想のページでも書きました。 状況劇場の研究生になった遠藤君に声をかけられて、 「任侠外伝玄界灘」のエキストラをやったりしたこともあります。 この頃はほんとに楽しかったです。懐かしい……。 一体みんなどこへ行っちゃったんでしょうか……。

櫻社の芝居も、解散するまで見続けました。 第七病棟の旗揚げ公演も観に行きました。 そのとき、 「眠り草」の感想のページに出てくる柴田さんたちが、 魔子さんと一緒に喫茶店でお話をしたというのを聞いたときは、 羨ましくて死にそうな思いをしたのを覚えています。

色んな芝居を観てきましたが、やっぱり好きなのは緑魔子さんと田口いくこさん (今は桜春之丞さんもかな)。 ぼくにとって永遠のアイドル(女神様?)です。